神武天皇の原像            
 
 (神武東征に関連して)                                   

     古代の瀬戸内海航行の可能性

                                       宝賀寿男
 

 本稿は、全国邪馬国連絡協議会の会誌『邪馬台国新聞』第14号(2022.4.25)に掲載されたものを基礎に若干の補訂をしています。当時の字数制限などを含め、見直してみて追補的な記事も必要かと考えたり、その後の感触変化も踏まえたものです。 


 はじめに
 私が十年ほどにわたり手掛けてきた「古代氏族シリーズ」について全十八巻刊行のメドがついた昨年(2021年)秋以降、鋭意取り組んできたテーマが、山陽道・四国に関連して、上古代の瀬戸内海航行が可能だったかどうか(可能な場合は、どのような形か)ということである。
 これは、長野正孝氏が著書『古代史の謎は「海路」で解ける』(2015年刊)で記されるもののなかに、上古代にあっては、基本的に瀬戸内海航行が不可能であって、五世紀後半の雄略天皇が吉備を押さえ同海路の啓開事業を行ったことで、その航行が可能になったという見方が提示され、ネットでもこれに同調する記事も散見する故の問題意識である。
 この見方がもし正しければ、瀬戸内海を通じる神武東征や景行天皇の九州巡狩、神功皇后外征はまず不可能だし、邪馬台国時代の魏朝(帯方郡)から倭地への遣使も、それが大型船によるのなら日本海(出雲辺り)の経由でしかなされず、邪馬台国畿内説は同様にまず成立不可能ということになろう。四世紀後葉から始まる倭の韓地における新羅や高句麗との戦いでも、倭は軍兵等の大量動員が日本列島からはほぼできないし、五世紀前葉からの「倭五王」の中国・南朝への遣使ですら、出発地が九州からしかなされ得ず、倭王讃に比定される仁徳天皇は北九州にでも居て、幻の「九州王朝説」に加担するものにもなる。
 こうした諸事情だから、弥生時代及び古墳時代に使用された海上交通及び陸上交通の祖手段も含めて、海事関係者の動向・分布などを広く総合的多面的に考える必要がある。

 
 古代瀬戸内海の航行

 大化前代の大和王権を構成した主要古代氏族に関して言えば、その殆どが山陰の出雲地方あたりを経由して畿内地域に入ってきたものであろう。その例外的な氏族としては、神武・崇神の皇統、息長氏族や中臣氏族、阿曇・和邇氏族くらいではないかとも思われる。
 その意味で、古代日本の海上交通のメイン通りは日本海だという見方もできよう。三浦佑之氏の著『「海の民」の日本神話』(2021年刊)もほぼ同旨のようで、古代史における出雲地方の重要性を様々な面から説かれ、古代日本の「表通り」は日本海側だったと言う。拙見でも出雲地方の重要性を無視するつもりは毛頭ないが、瀬戸内海航行の重要性や上古からの航行可能性を狭い視野で否定する論調には、結論的にまったく反対である。
 
 弥生・古墳時代に倭地で使用されたのが「準構造船」(刳り抜き丸太を組み合わせて船底にし、その上に舷側板を設けた形の船)であり、それが、列島各地ばかりではなく、韓地南部の慶尚南道の金海市の鳳凰洞遺跡とその西北方、昌寧郡の松?洞七号墳から出土した事情もある(韓地の船いずれも日本製の可能性があるともいう)。この種の船の航行可能性とその航海・輸送の能力を十分考えて、上古代の歴史のなかで考えていかねばならない。陸上の輸送手段たる「馬」も、考古遺物などの諸事情からみると、四世紀後葉に韓地からもたらされるまで、倭地には棲息しなかったことで、それまでの時期の倭地における戦、すなわち遠征・出兵は「徒歩と船」でのみなされたことになる(『魏志倭人伝』には、倭地に馬がいないと記されるから、魏使の倭地における主な移動も、船か徒歩によるものであった)。
 ということで、まず上古代における瀬戸内海の航行の可能性を、この辺の基礎的な検討から始めてみた結果が以下の通りである。とくに瀬戸内海西部海域の芸予海峡・芸予諸島と、その北岸・南岸など近隣地域に住む古代・中世の氏族・諸氏に注目される。
 
 記紀の記事などが、主に崇神朝までの畿内からの「四道将軍」と吉備・出雲への王権軍勢の派遣を伝える。それが四世紀前葉に現実になされたものであるならば、その頃には、大和王権にあっては、西方では少なくとも吉備・出雲までの版図をもち、摂津・近江あたりからそこらまでの陸路・海路が共に確保されていたとみるのが自然である。瀬戸内海の海域地形にある島々・岩礁の複雑さなど、航行が御しにくい諸条件でも、博多平野を主拠地として倭地に長く住んで交易・漁撈など様々な海域活動を行った海人族(海神族)が、九州につながる瀬戸内海において重要な航路を確保できてなかったとは、到底思われない。
 長野氏の上記著作は、地理などの自然条件や航海技術を重視しすぎており、歴史に果たしてきた人間の各種技術・活動や学習能力の可能性を殆ど考慮されていない。弥生期の讃岐サヌカイトの広域分布など、瀬戸内海地域圏の弥生・古墳時代中期末頃迄の遺跡や交流遺物が膨大な数あって、それぞれ孤立したものではない、という人間や部族集団の活動事績・範囲を無視してはならない。弥生時代中・後期(〜三世紀頃)に見られる瀬戸内海沿岸地域における「高地性集落」の多数の分布という具体的な事情もある。当該高地性集落は、瀬戸内海を通路とする軍勢に対応するものとしか考えられない。
 
 このように、瀬戸内海でも地理的に芸予海峡とその周辺あたりの地域(これが、日本最大の中世海賊の本拠地域という)の軍事重要性に着目して、上古から戦国末期頃までの瀬戸内海航行問題及びその関連氏族の動向を見てみた。そのなかで、北岸部の安芸の阿岐国造を出した玉作部一族について、中田憲信が『神別系譜』に貴重な系譜を書き残してくれたこともあり(現在、同書が上野の東京国立博物館〔東博〕に所蔵され、ネット上で閲覧可能)、ここでの歴史探索の大きな手掛かりになりそうでもある(最初にお断りするように、この検討対象の関係では総じて史資料に乏しく、ここでの拙見も一つの試論だが)。

 
 北側の安芸・周防、南側の伊予の高縄半島の古族

 瀬戸内海の西部海域を北・南から挟む地域の古族を、『旧事本紀』「国造本紀」から考える。同書の記事の解釈・把握については、従来の研究者の見方は疑問が大きく、全国で百三十ほど記載される国造がすべて同時に存在していたわけではないし、記事には国造の重複・欠落もある。これが同書の記事を考える第一のポイントであり、次ぎに、諸国造の系譜記事が全て正しいわけでもなかった(系譜の仮冒や訛伝もあるということ)。その辺を何により判断するかの問題だが、適確な国造領域の比定が地理的にできるのか、後裔の存在とその姓氏が何であったのか、国造初祖とされる者が当該地に来た事由が合理的かなどの諸点がある。
 「国造本紀」の記事に拠ると、北側地域には安芸・周防の阿岐・周防・大嶋・波久岐の四国造(設置時期の遅い「都怒国造」を除く場合)が、南側地域では伊予の怒麻・小市・風速の三国造が存在したとされるが、これを同時期に存在した国造だと鵜呑みしてはいけない。また、これら七国造の系譜記事のうち、周防・大嶋及び小市・風速の合計四国造については、疑問が大きい。問題は、領域が不確定か不自然なものである波久岐国造及び怒麻国造は、ごく初期段階にのみ存在したにすぎず、各々国造の姓氏も後裔も知られない(「国造本紀」以外の史料類からも、周防・大嶋・波久岐及び怒麻は、国造初代以外は全く系譜不明)。この辺は、別の拙考(下記)をご覧いただきたい。
 ここでは、結論のみを記しておくと、瀬戸内海西部海域を、北側からは安芸・周防の阿岐・周防・大嶋の三国造が押さえ、南側からは伊予の高輪半島に拠点を置いた小市・風速の二国造が四世紀中・後葉頃迄に押さえた。これら五国造の系譜原態が、みな天孫族系(天津彦根命系)の玉作部の同族に出て、少彦名神の後裔であった。
 これら諸国造の起源が崇神朝〜応神朝に遡り、海神の宗像女神や渡しの神たる「三嶋神」を奉じ、それらの後裔諸氏が中世の戦国末期の河野水軍・村上水軍(河野氏一族も村上氏も末流)などに至るまで長く続いた。「三嶋神」とは、小市国造後裔の越智氏一族が大三島を中心に奉斎した「大山積神」こと少彦名神(大山咋神)が実体であって、山祇族が祭祀する大山祇神でもないし、この神は物部氏祖神でもなかった。

 
 波久岐国造の重要性

 吉備への大和王権伸張は、四道将軍による崇神朝とされており(『書紀』など)、ほぼ同時期(吉備にすこし遅れる程度の時期か)に置かれた波久岐国造が、吉備につながる西隣の安芸・周防あたりを領域にして存在した。史料に見えないが、同国造の果たした重要性が考えられ、これが後に領域が上記三国造に分かれたものとみられる。
 問題の崇神朝の実年代は四世紀前葉頃とみられるから、その頃から瀬戸内海は大和王権により航路が管理されていたとみるのが自然であり、それを通じることにより景行天皇の九州巡狩も実行された。この海域の大型船の海難事故は、江戸時代でも多かったというが、上古の「準構造船」が潮待ちなどの海神族の航海技術・知識とともに運航されれば、海の流れが早く、干満の差が大きく、瀬戸・岩礁などの難関が多いという問題があっても、上古でも瀬戸内を航海できないわけではなかった。同航路の要地には、玉作部の同族が配置され、各々が地元海域を知悉していた。大嶋国造の領域も、周防大島(屋代島)という狭い島だけではなく、少なくも西側対岸の室津半島も、往時は陸続きではなく、島であって、同国造の勢力圏とみるのが自然である。
 六世紀後葉頃には、瀬戸内海沿岸地域の大国造に「凡直」の姓氏が大和王権から与えられた。それが西側から言うと、穴門・周防・阿岐、四国側の伊余・讃岐・粟・淡道の七国造とされるが、大嶋国造の姓氏が「凡海直」であったことで、当該国造の意味を適確に評価すべきである。同国造が、瀬戸内海航路の西側を扼する周防大島におり、大畠瀬戸に臨む地にある大多満根神社(玉作部祖神・大多麻流別を主祭神)を祭祀したことが重視される。
 
 そもそも、雄略天皇の時代に大和王権が瀬戸内海全体を啓開できたとは到底思えない。いったい誰が、何時、どのような者・部族を使役して、その事業を行ったのかという問題についても、その裏付けとなる具体的な記事・史料がまったくない。雄略朝に吉備討伐はあっても、海路啓開の記事は記紀等に見えない。吉備氏は崇神朝〜応神朝では、大和王権と協調して活動していた事情もある。
 それより前の時期、五世紀前葉・仁徳朝頃から始まる倭王讃などの中国南朝への遣使は、瀬戸内海を通らなかったとでも言うのだろうか。当時の航路や航海技術の点から神武東征がありえないと説いても、海神族の関係者(神武の母系は海神族の本宗で、東征には神武の母方従兄弟も参加したと伝えるし、兵庫からの倭国造祖・珍彦の海導も記紀等に見える)の協力・後援などを無視できない。大陸・朝鮮半島から渡来してきて、三世紀の邪馬台国時代に大陸と通交・通商をしていた倭地の人々の航海技術を過小評価しては、当時の実態を見誤る可能性があろう。
 そもそも神武東征は、「邪馬台国東遷」という一国遷住の大規模なものでは決してなく、小人数・小部隊による畿内への移動・侵攻だから、準構造船で瀬戸内海を少しずつ東方へ進んだものと思われる。瀬戸内海沿岸部には、神功皇后の韓地遠征関係の伝承も『風土記』や神社伝承などで多く伝わる。これらが、みな後世に造作された記事だとするのは極めて無理である。

 
 一応の総括

 瀬戸内海西部を囲む地域では、古代玉作部の同族諸氏が海上交通に大きな役割を果たし、当時の準構造船での航行が可能であった。歴史とは、古代からの大勢の人々の手、集団の人知・技術や祭祀によるもので、そこに大きな流れが現実にあることを忘れてはならない。現代の自然科学や航海の知識・技術だけの狭い視野では、古代の歴史問題は解決できず、祭祀・習俗などを含め、常に総合的科学的な視野・知識を歴史研究に必要とするということである。
 なお、以上の話しは大部になり、本稿は紙数制約からその要点版にならざるをえず、私が関与する歴史・姓氏の研究二誌『姓氏と家系』『家系研究』において、「周防・安芸の玉作部とその末裔たち─瀬戸内水軍の起源に関する一試論─」(『姓氏と家系』第27、28号〔2022年6月及び11月〕に掲載)、「伊予の越智氏・河野氏の祖系と同族」(『家系研究』第73、74号〔2022年5月及び11月〕に掲載)、というテーマで詳細を掲載したところである。             
                               (基礎となる初稿は2022年3月中旬に記)
 (2023.6.07掲上)


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