神武天皇の原像            
 
 (神武東征に関連して)                                   

        神武東侵の影響

                                       宝賀寿男
 

 本稿は、全国邪馬国連絡協議会の会誌『邪馬台国新聞』第15号(2022.10.30)に掲載されたものを基礎に若干の補訂をしています。当該会誌は字数制限があるので、見直してみて追補的な記事も必要かと考えたり、その後の感触変化も踏まえたものです。 

 
 一 問題認識の契機─石城国造の系譜

 日本列島中央部の畿内地域でもないと、そこから多少とも離れた地方では当該地域関係の古い文献資料は殆どないから、『風土記』逸文か『先代旧事本紀』の「国造本紀」くらいしか、始源的な事件検討の手掛かりは見当たらない。そして、それぞれにきわめて断片的な記事しかなく、しかも「国造本紀」は得体の知れない史料でもある。
 これを巻第十におさめる『旧事本紀』は、江戸時代から偽書論議が多くなされてきたが(聖徳太子の撰という序文は明らかに後世の偽作)、物部氏や尾張氏の系譜を記載する「天孫本紀」やここで考える「国造本紀」には、他の文献に見えない独自所伝の記載があり、偽書論議をさしおいても、史料として有効ではないかという見方が常にあった。ここでは、『旧事本紀』全体の真偽問題を論ずるつもりはないが、同書巻第一〜巻第九(神代本紀からの帝皇本紀まで)では殆どの巻が編年で記述されるのに対し、巻第十の「国造本紀」だけが別に序文的な記事があり、内容的にも上記の九巻とは独立した形とされる。この点に留意すれば、『旧事本紀』のなかに入れず、それと別書であっても不思議ではない。同本紀は他に類例のない国造関係史料であり、総じて言えば、「かなり信用できる古伝によっていると思われ、古代史研究の貴重な史料となる」(黛弘道氏など)という評価がある。
 この書の記事には実に難解な面があり、「国造」(大化前代の「氏姓国造」)と言いながら、記事には和泉・摂津・出羽・丹後・美作といった律令時代の国司名(国名)も記載され、伊吉・津嶋(対馬)・多?のように島名の長(嶋造、県直)をあげたりもする。また、山城と山背(ともに、訓は「やましろ」)、无邪志と胸刺(同、「むさし」)、加我と加宜(同、「かが」)は重複掲上とみられて、記事に問題があるものもある。それ以外にも、他の史料に国造として名が見える幾つかの国造が掲載欠落したり、記事内容に疑問がありそうな箇所も多々ある。だから、国造の全国での総数が具体的にいくつかの問題については諸説あって、126(新野直吉氏の『研究史国造』。同本紀に不掲載の国造を参入しない数字)とかで、概ね合計130前後とされてきた。これは、『隋書』倭国伝で、「軍尼」(クニ、国造?)が120人だと言うのにほぼ対応しよう。
 しかし、問題は更にある。国造の設置あるいは廃止ないし大国造の分割などが時期によりマチマチなことがある。そのため、数える時期によって存在する国造の総数が変わり、一律にこの総数をとらえきれないが、この辺が意外に認識されていない。

 「国造本紀」に掲載される国造のなかで、最も難解ではないかと思われるのが、陸奥の東南端に位置する石城国造の系譜や領域である。同書には、「志賀高穴穂朝(成務天皇の御世)。以建許呂命定賜国造」(これを後述記事との関係で「@」とする)とのみ記され、石背国造と那須国造とに挟まれて項目がある。ところが、石城国造については、『常陸国風土記』多珂郡の項では、もとは常陸国域の多珂国造(高国造)と一体の国造であったとされ、そうすると、「国造本紀」に掲載される道尻岐閉国造(一に道口岐閉国造)とか道奥菊多国造との同一性はどうか、領域はどうだったか、とも問題になる。そして、東国の諸国造家の系譜には「建許呂命」の後裔とされるものが多く、「国造本紀」の記事だけ見ても、上記の諸国造のなかでは、石城、石背、道尻岐閉、道奥菊多がそう見える。
 問題はこれに止まらない。系図学研究の大家、太田亮博士は、石城国造の系譜は三系統もあって、まず天孫族の凡河内(三上祝)族から国造になり、次ぎに多臣族、更に阿倍臣族になるという形で、それらが国造・郡領となって磐城地方(概ね、現・いわき市域)で順次勢力が交代したとみており、この説が妥当なのかという問題もある。
 すなわち、「国造本紀」に見える建許呂命が茨城国造祖の同名者と同人で(この見方自体が問題になる)、天津彦根命の後裔が最初に石城国造になったと太田博士がみる(ちなみに、国造本紀では、茨城国造祖としては国造初代の筑紫刀祢のみを記す)。次ぎに、『古事記』神武段に神武天皇の皇子・神八井耳命が意富臣(多臣)・道奥石城国造……等の祖なりと見える(常陸の仲〔那珂〕国造と同族とされる)。更に、六国史には、神護景雲三年(769)に於保磐城臣の賜姓が見え、承和三年(836年)に磐城臣から阿倍磐城臣への賜姓が見えており、これらがみな別族、別系統だと太田博士が考えるわけである。
 これら三流岩城のいずれかの後裔が中世武家雄族の岩城氏につながる、と太田博士がみることは妥当だと思われるが、古代磐城地域の国造・郡領の系譜がこのように三交替したとみることには大きな疑問があり、総合的に検討を加えてみた次第である。これが、標題にどのようにつながるかの問題ということにもなる。

 
 二 陸奥南端地域あたりの諸国造の起源

 前置きがやや長くなったが、2022年夏の高校野球で優勝旗が今回、初めて白河の関を越えたと大きな話題になった。陸奥と関東の要めの境界地には、東の勿来の関、西の白河の関という関所が古代にあって、古代の氏姓国造の時代では、東側の関の南北に多珂国造・石城国造が居り、西側の関の南北には那須国造・白河国造が居たとされる。現伝の史料類にあっては、これら四国造の系譜(祖系)はみな異なるものとされる。
 すなわち、上記の石城国造(@として上記)以外では、「国造本紀」に次のように記される。
 A高国造:志賀高穴穂朝御世(成務天皇朝)。弥都侶岐命の孫、弥佐比命定賜国造。
 B那須国造:纏向日代朝御代(景行天皇朝)。建沼河命の孫、大臣命定賜国造。
 C白河国造:志賀高穴穂朝御世。天降天由都彦命の十一世、塩伊己自直定賜国造。
 これら記事だけだと分かりにくいが、要は、Aは出雲国造族(神別の天津彦根命・天目一箇命の後裔で、物部連・武蔵国造などと同族)、Bは阿倍臣族(皇別の大彦命後裔)、Cは玉作部族(神別の天明玉命・少彦名神の後裔で、阿岐国造などと同族)、ということである。

 ところで、明治期に中田憲信が編纂した『諸系譜』巻十五に掲載の「那須直」系図には、天津彦根命・天目一箇命の後裔として「磐木彦」をあげ、その一族後裔として石城国造・那須国造及び石背(磐瀬)国造が記される。これは、上記の「国造本紀」等に見える記事とは系譜が全く異なるが、その祭祀(温泉神たる天湯津彦の祭祀など)・職能、丈部・阿倍陸奥臣の分布や関連する地名(高久、仁井田など)などから見て、肯けそうである。
「磐木彦」の名は『陸奥国風土記』逸文の八槻郷(現・福島県東白川郡棚倉町八槻)の条に見え、国造の磐城彦が敗走してから後は八人の土蜘蛛が当地に横行したが、景行天皇朝に倭建命に命じてこれを征討させたとある。八槻郷の北方の建鉾山(武鉾山。白河市表郷地区にあって、東北地方南部最大の祭祀遺跡が残る)には、倭建命が登って鉾を建てたと所伝があり、それに因む都都古和気神社が陸奥国白河郡の式内名神大社として在って、その論社が、棚倉町の馬場と八槻とに各々鎮座する。してみると、「国造本紀」に見える石城国造建許呂命の祖先として磐城彦をとらえてよさそうである。
 上記の「那須直」系図の初期部分には疑問箇所も種々あるものの、天目一箇命の後裔として武蔵国造・相武国造や房総の海上国造などがあり、これらが出雲国造族とされることから、石城・那須・石背の三国造は、関東の上記諸国造からの早期分岐ではないか、と当初みていた。しかし、当該三国造の祭祀・職能・地名など諸事情を検討して、同じ天津彦根命(神話に見える「天若日子」のことで、天明玉命と同神)の後裔ながら、天目一箇命の後裔ではなく、その兄弟の少彦名神(天湯津彦と同神)の後裔とみるのが妥当だと思い直した。それは、陸奥各地の衣服・織物や玉作部に関係する古代諸事情や現代に残る様々な痕跡から見て、古代の系譜に窺われるからである。さて、これら石城国造などの遠祖は、どのような経緯で関東・陸奥へやって来たのだろうか。

 
 三 神武東侵への畿内部族の対応

 紀元二世紀後葉にイハレヒコ(神武天皇)が畿内へ東侵行動を起こしたとき、この動きに対応して東侵を受け入れる人々と、これに抵抗したり、あるいは拒絶して畿内を離れる人々があった。上古当時の畿内の支配階層をなしていた部族は、海神族系(大己貴神系)の三輪・諏訪部族や天孫族系(天津彦根命系)の物部部族及び鴨部族が主であって、それらの部族連合的な政治体が当地にあったが、部族それぞれに受容側に立つ者と抵抗・拒絶側に立つ者があった。
 津田博士の影響を受けた戦後史学界では、いわゆる「神武東征」を記紀編纂者の造作と評価・判断したが、これは視野狭窄で素朴すぎる見方の結果のものである。When・Whereの的確な把握ができなかったことに因る。すなわち、記紀の暦法・年代についての理解能力がない故に年紀記事を誤解したか、古代地名・東侵経路なども併せて誤解した結果でもある(神武の実在・肯定論は、いわゆる「皇国史観」とはまったく別物であることに留意される)。この辺は拙著『「神武東征」の原像』で詳細を具体的に記述したから、それをご覧いただくこととして(本HPでは、その概略を「神武天皇の原像」で記した)、当該神武東侵に基づく結果として、幾つかの部族移動が上古の日本列島で具体的に大規模に生じた。それが、記紀編纂者の創作ないし推測の能力をはるかに超えるものであった。このことを、上古史の大きな流れのなかで見て、ここで説明してみたい。
 
 抵抗側の族長は「長髄彦」の名で『書紀』に見えるが(『記』も那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古で、同訓)、その実体は諏訪神建御名方命であった(この実体を見極めずに論じても無意味。建御名方神は諏訪へは到達していない)。長髄彦は外甥の可美真手命(物部連の祖。饒速日命の子)の手で殺害されたが、その親族はその後も長く抵抗姿勢を保ち、多くは東国方面に逃走し、一部は四国の阿波・土佐方面に逃れた。長髄彦の兄・事代主神(大物主命)の諸子では、兄磯城が抵抗して殺害され、弟磯城こと黒速(天日方奇日方命)は神武軍に降伏して神武創業後は磯城県主となり、妹・五十鈴姫は神武皇后となる。
 可美真手命は神武軍に降伏して、子孫は大和王権を支える穂積臣・物部連などの一族となったが、その兄弟で伊勢に居た神狭命(『伊勢国風土記』逸文に見える「伊勢津彦」に当たる)は東走して、武蔵国造ら東国諸国造の祖となった。問題は、少彦名神の一族である。神武東侵の際に宇陀山中を道案内する八咫烏(多く「鴨健角身命」とされるが、東侵当時はその子孫の生玉兄彦が八咫烏の実体)が著名で、族裔には鴨県主や葛城国造、忌部首、玉作連など多くの諸氏が残った。その一方で、諏訪神族との通婚もあり、その縁由で東走に同行した一派もあった。
 東走した諸部族は、まず遠江に落ち着き(三遠式銅鐸の痕跡がこの地域に著しい)、その辺(ないし駿河)で分派して信濃の諏訪に向かった集団もあるが、神狭命や、天御鉾命などの少彦名神後裔部族は、その後も東へ移遷して伊豆に落ち着き、次いで東方の相模・武蔵や、更には房総にも向かった。伊豆に定着した集団は伊豆国造や服部連を出したが、この支族が下総・香取にも移った。
 陸奥の磐城方面には下総・香取から分かれ、常陸府中あたりから北上して同国多珂郡そして磐城郡に至ったとみられる。磐城地方には、鴨族関連の祭祀がかなり見られるが、諏訪神祭祀も併せて多いから、信濃に行かずに少彦名神後裔部族と同行した諏訪神一派もあった。那須地方や岩瀬地方でも、諏訪神の祭祀がかなり多い。こうした目で見て結論的に言えば、白河・勿来両関の南北に位置した四国造の系譜原態はみな同族であり、中世武家岩城氏は、「海道平氏」と称しても、それは桓武平氏の後裔(平繁盛流)ということではなく、石城国造後裔の「一系」であった。
 
 上古の部族大移動など諸活動の痕跡は、中世・近世になっても祭祀・習俗や遺跡などで残るから、記紀などの所伝の軽々しい切捨ては厳しく戒める必要がある。歴史とは遠い過去からの大きな現実の流れのなかで総合的に因果関係を考える科学であり、このことを本件でも痛感する次第である。

                                (基礎となる初稿は2022年9月下旬に記)

 (2023.6.07掲上)


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