卑 弥 呼 の 冢 (卑弥呼の墓)宝賀 寿男 はじめに 最近の考古学関係者の論考では、基本となるべき文献を無視ないし軽視する傾向がかなり顕著に見られるようである。近年、重要な考古学的発見が続いて、考古学の発言力が大きくなる一方、文献史学がとみに元気を亡失している。そのため、考古学の役割は相対的に一層高まってきているが、それが文献軽視の姿勢であっては、古代史上の諸問題について合理的な結論に導かれなくなるのではないかと恐れる次第でもある。 かって津田左右吉博士の提起した「記紀捏造」の議論が、それが本意ではないにせよ、総じて上古代関係文献は信用し難いとしていて、古代史学における文献軽視につながるおそれがあった。文献検討の専門家ではない考古学者にとって、文献の不知や分析能力不足はある程度やむをえないとしても、今や最重要資料の一つといえる『魏志倭人伝』の記事ですら、平然と無視するようになるのは如何なものであろうか。古代史に関する文献史学・考古学の議論では、実地・実態を踏まえたうえで論理的・合理的な思考で構成されなければならないことは基本である。戦前の津田史学の結論のみを丸呑みして(あるいは、結論的なものを誤解して)、疑問をなんら感じもせず、その基礎のうえに議論を展開するような論考も多いが、これは疑問が大きい。当時としては画期的な意味があったにしても、あの程度の粗い論理・検討を現在でも「徹底した記紀批判」として信奉する輩には、「科学的」という言辞を弄ぶに等しく、古代史を合理的に解明しようとする姿勢としては、むしろ疑われよう。
邪馬台国問題について、早くに原田大六氏が『邪馬台国論争』(1969年刊、三一書房)で、「考古学者は物を取扱うために、事件を書いている文献に対して、あまりにも軽率である。…(中略)…古代史は発掘だけですべてがわかるなどと考えていては大間違いである。文献も、上代語も、ありとあらゆる力をそこに結集しなければ、難題のなかの大難題である邪馬台国は、いつまでたっても明らかにならないのである。もちろん、文献も上代語も充分な検証を必要とするし、考古学的資料との噛み合わせがまた重要である」として、考古学者の文献軽視を強く指摘し、注意喚起をしている。文献の無視は総じて人間(行動)の無視につながりやすい。歴史(歴史事件の集合)というものが、何時の世でも人間によって作られる以上、個別具体的な人間とその行動・性情を無視した古代史問題の解明などありえないと思われる。また、特定の思想や史観に基づいて個別の史的事実を判断してはならないことにも、十分留意する必要がある。
こうした一般論はさておいて、文献学と考古学との接点にある問題であり、かつ、古墳発生の時期等にかかる重要な問題であると考えられるのが、標記の「卑弥呼の冢」である。この問題についても、考古学者の文献軽視の姿勢が窺えるように思われる。
卑弥呼冢の国際的視点
西暦二四〇年代後半(247〜9年か)とみられる卑弥呼の死とその前後の情況については、『魏志倭人伝』に「卑弥呼以死大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余人更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人」と記される。書き下し文にすれば、「卑弥呼、以て死す。大いに冢を作ること、径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立つ。国中、服さず、更に相い誅殺す、当時千余人を殺す」というのが、一般的な訓みであろうか。これが、厳密な意味でわが国最古の墳墓に関する史料記事といえよう。 この卑弥呼の墓について、これまで、わが国最古の古墳形態とされる箸墓古墳(現時点では、「箸中山古墳」と呼ぶほうが適切かもしれないが、分かりやすい表現として使用)に漠然と比定する説がかなり多く主張されてきた。「あれだけの規模のものを作りうるのは、卑弥呼くらいしか考えられない」*1という大雑把で、いい加減な論理が、被葬者比定に通用してきたということでもある。もしこの比定が正しいのなら、古墳時代の始期については、従来考えられてきた時期を相当繰り上げて捉えることになる(近年の年輪年代法とか放射性炭素年代測定法も、その理論計算値についての裏付けが乏しい面を無視してはならない)。 従って、卑弥呼の墓に関するこの箸墓説が妥当かどうかを、いま一度じっくりと検討する必要があるのではなかろうか。こうした問題意識等から、本稿に取りかかったものである。その場合、卑弥呼を含む邪馬台国関係事項が、当時の国際環境のなかでどのように位置づけられるのか、についても十分考慮する必要がある。この辺の視点が、これまでの議論では大きく欠落していたように思われる。なお、「墳」は土を高く盛り上げた墓の意とされるので(『新字源』など)、そうした事情の保証が必ずしもない卑弥呼の墓については、先入観をもつような墳ないしは墳墓という表現は、とりあえずは控えておきたい。その意味で、標題も「冢」とした次第である。 卑弥呼の居た邪馬台国がどこにあったかは、学説的には依然として決着がついていない。最近では、考古学界の大勢は近畿説だとマスコミ等には喧伝されるが、数だけで決められるわけではない。考古学界の弥生年代把握にも、かなりの問題がありそうである等*2。また、邪馬台国の位置問題は本来的には文献史学の問題ともいえるので、考古学者だけがこの問題の判断能力をもっているわけでも決してない。要は、所与の乏しい資料・条件のなかで、合理的な根拠に基づき論理がきちんと通っているかどうか、その結論が様々な資料と整合性がとれているかということである。
卑弥呼の没年代と箸墓古墳の築造年代がごく近似していて、かつ、卑弥呼が畿内で活動し、築造に要する期間などを含めて、『魏志倭人伝』等の文献など各種の徴証・条件と合致していてはじめて、箸墓古墳が卑弥呼の墓ということになる。ところが、そこまでの立証は現在まで全くなされず、ややもすれば漫然と取り上げられる状況である(だから、「箸墓古墳」の被葬者については、台与なども含め、諸説ある)。邪馬台国の位置問題が決着していておれば、その大枠のなかで考えられるが、それも無理ということであれば、とりあえずここでは位置問題は傍らにおいて、文献的かつ国際的に卑弥呼の墓について、検討してみよう。
こうした観点から標題について詳しく検討を加えた研究者は、管見に入ったかぎり、これまで極めて少ないようである*3。僅かに森浩一、古田武彦(『「邪馬台国」はなかった1971年)及び白崎昭一郎(『東アジアの中の邪馬臺国』1978年)、最近では佐伯有清(『魏志倭人伝を読む』2000年)などの諸氏が行っているにすぎないとみられるので、これら先学の検討から先ず見ていこう。とくに、森浩一氏の問題提起は早く、1973年発行の『古墳』(保育社カラーブックス)や『古墳と古代文化99の謎』(1976年、産報)などで記述している。なかでも、『ゼミナール日本古代史 上』(1979年、光文社)に所収の論考「卑弥呼の冢」という論考は、たいへん有益で示唆深いものである。ただ、その読み方によっては問題提起に止まっている部分もあって、必ずしも結論まで至っていないように思われる。そのため、同論考の検討を私なりにさらに押し進めた形で、最近までの研究も踏まえて本稿を展開していきたい。 森氏は、問題の卑弥呼の「冢を高塚古墳とすることを自明の事実として多くの人は論を進めているが、まず三世紀とその直前での魏あるいは後漢での墓制をたどってから、ここに描かれた冢の実態を推定しよう。ことによると、日本考古学が想像する高塚古墳でない可能性もある」と最初に重要な指摘をする。さらに続けて、「考古学の資料と方法とが割り出している古墳の開始の時期は、四世紀の前半というのが有力であって、倭人の条の卑弥呼の冢の年代との間に約半世紀ないし一世紀のへだたりがある」「約半世紀間にすぎない間隔が、年代割り出しのうえで生じた誤差として処理しきれないほどの重みをもっていると私はみている」という見解も示されている。なお、森氏がここでいう「多くの人」とは、考古学者に関することであって、文献史学者は必ずしもこうした傾向は示していないのではなかろうか(もっとも、文献関係者も考古学者の大勢に引きずられている傾向があるが)。
前掲倭人伝では、もう一つ倭地における葬送造墓の記事がある。地理関係の記事に続く、習俗・生活関係の記事のなかにあって、「その死には、棺があるも槨なく、土を封じて冢を作る。始め死するや喪を停めること十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣し、他の人は歌舞飲酒に就く。すでに葬むれば、家を挙げて水中に詣りて澡浴す、以て練沐(水垢離)の如し」というものである。これは、おそらく卑弥呼の葬送にも適用されたのであろう。このうち、前段では、倭地の墓は封土をもつと記されるから、「冢」の意味にもよるが、墓に若干の高さはあったことが分かる。後段の喪に関する記述は、記紀等にも見えており、沖永良部島では明治まで行われるなど、よく実態を伝えているという指摘もある。
さて、これらの葬儀習俗や卑弥呼葬送に関する記事は、誰によって中国に伝えられたのであろうか。もっとも可能性が高いのは、数度倭地にやって来たとみられる帯方郡からの使者団の手によってであろう。その内容が墓の構造や規模についてまで具体的に筆が及んでいるのは、記述者たる彼らが関心を持って倭地滞在中にその場に立ち会った実見によるものとみられる。これは、単なる伝聞ではないわけで、その場合、表現される語句も当時の帯方郡の官吏による漢字の用法であり、国際的な視点による表現・記述ということになる。従って、相当に重みのある記事と考えざるをえない。わが国の研究者が自分で説明のつけ難い記事について、往々にして誇張とか伝聞あるいは常套句と片づける姿勢は疑問が大きいということでもある。こうした前提に立って、『魏志倭人伝』の葬送関係記事を考えていくことが必要ではなかろうか。
なお、倭地に来た帯方郡関係者が卑弥呼の都までは来なかったとみる見解も、伴信友・喜田貞吉・白鳥庫吉以来、かなり多数の研究者から強く主張されているが、これはまったく採り難い。数度の到来のなかには、魏朝の詔を携えた勅使の形もあり、首都に到着して倭の執政首脳と会わなかったのでは、使いの任務を全うしてないといわざるをえない。津田左右吉博士もいうように、これが常識的な判断であり*4、こちらの立場の人も決して少なくはない。倭人伝では、「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わして詔書・印綬を奉じて倭国に詣らしめ、倭王に拝仮し、併せて詔をもたらし、金・帛・錦・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因りて上表し、詔恩に感謝す」と記される。また、「詣」「拝仮」という語の意味も、現実に首都まで来たことを説明するといわれる。
これらの考察は、三木太郎氏の著『倭人伝の用語の研究』(1984年、多賀出版)に詳しいが、その総括(同書の66頁)を次に引用させていただく。
かくて、倭人伝の邪馬台国に関する記述は、ほぼ魏使の見聞に基づくものとみて差し支えないことになる。したがって、今後、邪馬台国に関する事柄にふれるときは、伝聞か見聞かは不明だからという、曖昧な態度は許されなくなる。基本的には、魏使の見聞に基づく内容として、論議解明を進めるべきであろう。
卑弥呼冢の具体的検討
(1)冢の規模 『魏志』では卑弥呼の墓は、「冢」で「径百余歩」と表現され、高さは表現されていない。一方、中国では、森浩一氏が指摘するように、高さが重視されていたようで、『周礼』では「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」と記されていて、身分による造墓規制が高さにあったことを示している。『後漢書』礼儀志大喪条の古今註では、光武帝以下霊帝までの歴代皇帝の巨大な陵墓が広さと高さの両方で規模の記載がなされる。それは、「冢」が盛り土による墓であっても、「墳」ほどの高さや規模をもたなかったことにも通じる。
これに関して、古田武彦氏が早くに重要な指摘をしている(「邪馬臺国と冢」、『歴史と人物』1976年9月号)。それによると、同じ『三国志』のなかの『蜀志』五の諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という記事、及び蜀志十四の「大君公侯の墓が通例“墳”であった」とする記事を引いて、歴然とした高さのある人工の墓を「墳」と呼び、それよりも規模の小さい盛り土を「冢」と表現したことを記述している。
これに対して、白崎昭一郎氏は、『三国志』において「墳」という言葉は殆ど使われていないとして、「冢」という語からこれを小さく見ようとする議論は無理であるという。すなわち、同書ではよほどの大豪族でも全て「冢」で記されるとして、劉表伝や孫休伝の裴注に見える、劉表の冢、一大冢、公主の冢という語をあげ、「冢」といっても、かくも盛大豪華であったと記す。
しかし、この白崎氏の説明は、いくつかの点で注意を要する。たしかに、『三国志』関係では「墳」の字は、『呉志』の陸瑁が墳墓を起立したという記事(巻57呉書12)以外では、具体的な墓の表現として使われていない*5。それには、当時の戦乱続きのなかで墳墓築造の余裕が乏しかったこと、さらに薄葬の方向が出てきたことと関係があるものとみられる。一方、前代の『漢書』『後漢書』では、「起墳」「立墳」という表現が漢の孔光・揚雄・朱雲、後漢の馮翊の列伝等にいくつか見えて、厚葬であったことが分かる。『三国志』の注に見える魏書所載の明帝戊子詔でも、「昔漢高祖創業、光武中興、謀除殘暴、功昭四海、而墳陵崩頽」とも記される。
また、白崎氏の前掲する墓が「盛大豪華」といっても、墓それ自体の規模はあまり大きくなかったのではなかろうか。劉表の墓の規模は具体的には知られないが、副葬品が立派でその意味で豪華であったとしても、三国戦乱のなかで築かれた地方大豪族の墓の封土規模が大きかったとは、とても考え難い。荊州牧たる劉表の勢力は、数千里の領域をもち独立国家的なものであったが、その病死後まもなく、子の劉と家臣は侵攻する曹操に降ってしまったという事情にあった。孫休については、後述する。
羅哲文氏は、蜀の昭烈帝劉備の陵墓・恵陵について、十分な準備時間もなく国の存亡の危機に臨んでいて、陵の造営に大金・資材を浪費する余裕などありえなかったから、当初の規模は不明だが規模はそれほど大きくなかったと思われる旨、記している(『中国歴代の皇帝陵』1989年)。蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾・呂岱などにも、薄葬の記事が『三国志』に見え、他の有勢者についても同様であったろう。さらに、晋の高祖とされる魏の重臣、司馬懿については、その墓は河陰に葬り首陽山に土蔵して「不墳不樹」と記される(『晋書』紀巻1帝紀第一)。これは、当時の薄葬の風潮に則ったものであろう。『晋書』には、「薄葬不墳」という語句も見える(載記巻第一百十一)。
これらの事情を考慮すると、倭人伝に見えるような卑弥呼墓の表現では、「大いに冢を作る」といっても、「倭地や朝鮮半島のなかでは」という限定つきの話しであり、『三国志』当時の中国の薄葬墓との比較でもあろう。前代後漢以前に広く行われた厚葬のもとでの皇帝陵墓や、わが国古墳時代の墳墓と比べた場合では、あまり大きくもなく、かつ高さもあまりない墓と解さざるをえない。記録者が帯方郡の官吏だったのであれば、朝鮮半島における当時の郡太守級の墓の規模であったら十分に大きいということであり、これを超えないくらいの大きさというのが常識的な線であろう。
そこで、「径百余歩」と表現される墓が具体的にどのような規模であったかという判断の問題となる。これまでの議論では、この解釈には大別して三様あったように思われる。すなわち、具体的な計数は人によって多少幅があるものの、考え方自体では、
@魏朝の時代の尺度(一里=300歩で、一歩が約1.45メートル)に基づき、約150メートルとみる、
A倭人伝に通じる「短里」で表現されたものとみて、30Mほどとみる(なお、「短里」についても、朝鮮半島・倭地に限定の短里とみる説と、魏晋朝一般の短里とみる説があり、前者のほうが妥当そうである)、
B「歩」を人間の実際の歩幅(一歩=約60センチないし70センチ)とみて、約60メートルないしは7,80メートルとみる(「百余歩」を慣用句とみて、結論的にこの長さをとる説もあるが、慣用句説は無理か)、
などが挙げられよう。
また、@説の立場を採りつつも、記事には異常な誇張(ないしは誤報)があるとしてその何分の一かにみるという説もある。韓地・倭地の里程が実際の五ないし六分の一にあたるとして*6、結論的に約30メートルである可能性をいう説もある。しかし、これではあまりに恣意的であるし、誇張という前提では具体的な数字は導きがたいはずである。帯方郡関係者の漢人が実見しこれを記録した数字であれば、B説の歩幅などという基準もありえない。もちろん、実数ではないとか、慣用句であるという見方も根拠が弱く疑問である。そうすると、残る二つの可能性についてじっくり検討する必要があるが、具体的な例を踏まえて見ていくことにしたい。
朝鮮半島の帯方郡は、三世紀初頭に楽浪郡南半を割いて公孫康によって設置されており、その存続期間も一世紀ほどと短く、この関係の古墳はあまり多くないようである。それでも、三世紀後葉の帯方郡太守・張撫夷の墓は、方台形の土墳で基底部の一辺が約30M、高さが約5.4Mとされる。楽浪郡のほうでは、大同江南岸に郡治址とみられる楽浪土城(一歩平壌市楽浪区域土城里)があり、その周辺近隣には数千基にのぼるとみられる古墳が分布する。その多くが中国式の墳墓で、竪穴系の木槨墓と横穴系の室墓の二種があり、前者は木槨のうえに封土が被さる方形墳であって、大きいものは一辺が30Mを超えるが、一般的には20〜15Mのものが多いとされる。それらのうち代表的なものとしてあげられる石巌里九号墓は、同穴夫婦合葬墓で木槨をもち、出土した玉製品や純金製帯鉤などの事情から郡太守級(ないし王級)の人物とみられている。その墳丘は一辺30M、高さが5M余と大きく、「居摂三年」(西暦8年)銘の漆器や長宜子孫内行花文鏡・玉爾・金製装飾品・馬具など多くの副葬品が出土して、一世紀代の築造とみられている*7。
また、ソウル市の漢江南岸地域にある石村洞三号墳は、前期百済王関係の陵墓とみられる一辺50Mほどの巨大方形基壇の積石塚(高句麗系の墓制)であるが、四世紀中葉頃の築造とみられる。その南方近隣にある同四号墳はそれよりも若干早い築造で、一辺30Mの同型同種の古墳である*8。なお、百済の古墳は概して小規模で、これら前期の方墳を除くと大多数は直径20Mほどの円墳であり、誌石が出た六世紀前葉の武寧王の陵墓も同様であった。
集安時代の高句麗でも、四世紀中葉頃に築造の安岳三号墳が一辺33M、高さ6Mの方形墳丘をもつことが知られる。『魏志』高句麗伝には家財を尽くした厚葬がなされると記されても、この程度であったことに留意しておきたい。同地区の王陵候補では、「太王陵」が一辺66Mの方形積石塚であり、近隣の「将軍塚」(一辺が32M弱の方形積石塚)とともに、故国原王(西暦371年没)や好太王(同・413年没)の陵墓に擬されている。
朝鮮半島南部を見ると、慶尚北道高霊郡では、池山洞古墳群が規模が最も大きく、もっとも高い尾根上に直径40Mを超える特大型円墳が五基(47〜51号墳)あり、大伽耶国の王陵にふさわしい古墳とされる。その下の稜線には、直径20Mを超える大型墳(44号墳・45号墳)があって、両墳や30号墳では殉葬も見られる。この古墳群は、五世紀中葉に始まり、特大型墳は六世紀代の古墳といえよう、と前掲書で早乙女雅博氏は記述している。また、高霊の東南の昌寧にも、直径40M台の円墳が二つある。
墳丘型式が異なるが、新羅では、さらに規模が大きいものもある。同地では、全長114Mの双円墳である皇南大塚、直径80Mほどの鳳凰台古墳が傑出していて、前者は五世紀第2四半世紀頃の築造とみられている。これら慶州とその近郊の巨大古墳は双円墳であり、110〜120M級のものが二つ、70〜80M級のものが三つあるともいわれる。皇南大塚はそれぞれの円墳の築造時期の違いもみられ、双円墳は五〜六世紀頃の国王とその后妃(次代国王の可能性もある)といった複数者の合葬墳ではないかとみられる。
また、半島南部にあって日本の前方後円墳と共通する墳丘型式をもつ古墳として知られる長鼓山古墳(全羅南道海南郡、墳丘長77M)、舞妓山古墳(松鶴洞1号墳、慶尚南道固城郡、同66M)も当地では巨大古墳であるが、ともに南海岸部の港を見下ろす丘陵地にあって五世紀初頭前後から五世紀代にかけての頃の築造とみられている。 こうして朝鮮半島の主要古墳を通観してみると、単独墳としては四世紀中葉頃までは、一辺30Mほどで高さ5Mほどの規模が、郡太守や国王という最大規模級の墓といえよう。
一方、中国では春秋末期から高塚墳墓が登場したとされ、被葬者の勢力誇示を目的として、その規模は朝鮮半島よりも遥かに大きい。河北省平山県にある戦国期中山国の国王陵は、長さ110M、幅92M、高さが約15Mもあるとされる。戦国期の燕の下都「虚粮冢」の墳丘墓にも一辺50Mを超える巨大なものが四基あり、なかでも一辺55M、高さ15Mほどものが最大規模であった。
戦国の統一者たる秦の始皇帝の陵は、造営に四十年近くかかったという大規模なものであるが、その墳丘規模は現存が一辺約350M、高さ43Mの大方墳であり、当初はさらに大きな規模であったともいわれる。次の王朝の前漢では、諸陵がみな高さ十二丈、百二十歩四方であるのに対し、武帝の茂陵だけは高さ十四丈、百四十歩四方と記される(『関中勝跡図志』)。大正期には足立喜六が、茂陵を除く前漢の陵墓の高さを八〇尺と記述している。劉慶柱氏等の『前漢皇帝陵の研究』*9によると、前漢の皇帝陵では武帝陵だけが飛び抜けて大きく(基部が一辺230Mの正方形で、高さは46.5M)、他の陵は基部がほぼ170〜175Mの方墳というのが多く、その高さも約30Mと記される。これら秦・前漢の陵墓は、奥地の西安・咸陽の周辺にあって、卑弥呼の頃まで倭人がこの地に到達しこれら陵墓を見聞したことは、まず考え難い。
次に続く後漢及び魏の陵墓は、洛陽とその近隣にあって、これらは魏都に詣った倭人が見聞した可能性もあろう。ただ、魏朝については、曹操の陵墓は河北省臨にあると伝え、初代文帝曹丕(在位が西暦220〜226年)のは洛陽の西方60キロ余の池にあって、それらまで倭人が行ったとも思われない。建安25年(220)一月に没した曹操の墓では、人工の封土は営まなかったようであり、その子で初代の文帝(曹丕)は、黄初三年(222)に徹底した薄葬の方針を打ち出し、以後、魏では薄葬が一般化していく。魏では、裴潜・王観など諸臣の伝に薄葬の遺言が見える。文帝の次の明帝(同、226〜239年)の陵墓は、洛陽の北隣で黄河の船着場・孟津にあるが、同様の埋葬方向であれば、魏朝の陵墓は実際には倭地の墓の参考にはできず、むしろ後漢代のほうが参考になるのかもしれない。
森浩一氏も、「卑弥呼の使者たちが洛陽に来たのは、まさしく曹操や文帝の薄葬主義のまっただなかであった。だから支配者の墓に壮大な高塚古墳を営むという方針を魏から新知識として学んでくる可能性は少なく」、卑弥呼の墓について、「高さを記していないのは記事の偶然性ではなく、かなり忠実に魏の影響をうけた、あるいはうけたはずとおもわれていたと私は推測している」と記している。ただ、この後半部分は、そこまでいえるのだろうかとも感じられる。いずれにせよ、倭地の墓に対する影響があったとしたら、中国よりもむしろ朝鮮半島の墳墓の影響のほうが大きかったのではなかろうか*10。
なお、孟津の付近には、後漢・光武帝の陵墓もある。後漢の陵墓については、『後漢書』礼儀志大喪条の古今註に記載があって、山方300歩くらいが多い(光武陵の原陵は山方323歩と記載)。その高さはかなり幅があって、五丈から十五丈まで分布するが、平均すると八丈余くらいということになる(光武陵の高さは6丈6尺。なお、一丈=2.4M)。森氏の記述によると、これら後漢陵墓を実見したところでは、円墳が多く、「山方」とあっても、方墳と断定できないことを知ったとされる。そうすると、陵墓そのものではなく、陵墓を含む兆域の規模が前掲註に記されていることになろう。
森氏は、『後漢書』に加え南朝の西晋や宋の陵墓にも言及して、『建康実録』には、例えば晋の穆帝の永平陵が周囲四十歩・高一丈六尺など、王陵の規模はずっと縮小しているが、やはり高さは書いてあるとも記述する。「中国の墓は平面規模よりも高さに価値の基準があった」として、「中国の王陵の記載法と比較すると、卑弥呼の冢は高さのない墓、平面だけ土地を占有していた周溝墓の仲間かもしれない」と考えている。
これに対して、白崎昭一郎氏は、「魏書」所載の明帝の詔には、「高祖、光武陵、四面百歩」云々と高さに触れず、『三国志』自体において明らかな陵墓にも高さの記載が一箇所もないことをあげて、「高さの記載なきを以て、卑弥呼の墓を高塚にあらずということは出来ない」と記している。
たしかに、『三国志』では墳墓について高さの記述は全く見られない。これは、そもそも、墳自体の記述も具体的にはないことに因るものである。三国時代には一般に、盛り土墳のような形で陵墓も築かれなかったうえに、魏朝では薄葬の方針が出されていた。魏の高祖の曹操の墓が自然の地形を利用し封土を営まなかったとされるから、封土があってもその高さがあまり意味のないこともある。『三国志』に陵墓の高さの記載がないのも、割合自然な成行きであったと思われる。そうすると、卑弥呼の墓に高さの記載がないのは、魏の薄葬の影響かその他の事情で、現に高さがあまりなかった可能性もあろう。それでも、わが国の弥生後期の墳丘墓であれば、既に若干の高さはあったと考えられる。なお、前代の『漢書』『後漢書』では、例えば、秦始皇帝の陵はその高さ五十余丈(当時の一丈=2.25M)と『漢書』列伝に記録されており、他の例もあげられる。
また、白崎氏が引く孫休伝の裴注は、呉の第三代景帝(=孫休のことで、孫権の子。在位が259〜264年)の時代にあばかれた広陵所在の墓についてであり、これが「一大冢」と表現されるものの、墓を含む墓域の話でしかも埋葬内容物が豪華であったということである。その高さは「以て馬に乗るに可なり」と具体的に表示されるから、せいぜいが2Mくらいの高さであろう。墓そのものの規模は具体的に知られない。このように読めば、氏の記述は必ずしも正しいといえないことが分かる。
なお、景帝の陵墓は、いま安徽省当県にあって定陵と呼ばれる。その現状が築造時と同様かどうかは不明であるが、規模が大きなものとはとても思われない。 陵墓の規模を考える際、常に念頭に入れて置かねばならないのは、築造当時の政治情勢である。つまり、生前いくら権威・権力が大きくても、築造に要する期間において後継の政治権力が長期にわたって安定していなければ、大きな陵墓とはなりえない、ということである。後漢でも、最後の献帝は譲位を強制されて後漢が滅亡したが、その禅陵は後漢皇帝のなかでは唯一、墳を起こさずに築造された。
当時、倭地で寿陵の風習がどの程度あったのかは不明だが、卑弥呼の死後、国中で争乱が続いたとされる以上、卑弥呼冢の築造にはあまり時間・人力がかけられなかったとみるのが自然であろう。台与が登場し倭国内が安定してから、じっくりと長期間かけて築造されたという可能性は、築造記事の記述者がせいぜい数年、倭地に滞在の帯方郡使関係者であったことからみれば、まず考え難い*11。 こうした卑弥呼を巡る国内・国際的な情勢を考えてその冢をみる場合、規模的には直径30Mほどの円形的な墓と推するのが、ほぼ自然なようである*12。これは、後の巨大古墳と比べると、かなり規模が小さいように見えるが、これでもほぼ同時代の帯方・楽浪郡の太守の墓と比べて同等程度という大きさであった。従って、前掲の諸説のうちでは、A説が比較的妥当ということになろう。
橋本増吉博士は、卑弥呼冢の径百余歩という表現から、「一般に、円墳が行われていたことが知らるる」と記し、規模の百余歩・殉葬百余人は伝聞による誇張であって、九州の箱形石棺をもつ小円墳と考えた*13。ここでの「伝聞による誇張」という見方は、前掲に説明したように、問題が大きいが、後の世からみると、比較的小規模で円形の墓という結論だととらえれば、ほぼ妥当であろう。わが国の特徴的な前方後円墳について、その円丘部のみ取り上げる一方、方形部を無視して「径○○歩」と表現したと考えるのは、文理的に疑問が大きい。箸墓古墳の後円部の直径が156Mであるとして、これを卑弥呼の墓に比定する説(笠井新也氏等)は、形状だけでも無理が大きいということである*14。
わが国の現存する円墳をみると、最大級のものは直径100Mほどであるが(6世紀前半築造とされる埼玉古墳群の丸墓山古墳や、4世紀末築造とされる岡山県総社古墳群の小盛山古墳の例)、径が約150Mという巨大円墳は、わが国ではまずありえない。畿内では80M級が最大級の円墳であり、奈良市大和田町の富雄丸山古墳(径86M、高さ10Mほどで、四世紀末頃の築造とされる)、五条市近内の鑵子塚古墳(径85Mほど)が主なものとしてあげられるが、桜井市・橿原市辺りにはめぼしい円墳は見られない。
九州では、円墳が少ないともいわれるが、仔細に見ていくと相当数あり、主なものをあげておく。なかでも、福岡県久留米市大善寺町の権現塚古墳には留意される。その墳丘自体は径約55M、高さ8M弱ほどで、全国の円墳のなかでは第20番ほどであるが、幅約10Mずつの二重の周濠があって、これを加えると径が140M超にもなって、兆域では最大級となる。同墳は、南東6〜8キロほどの近隣に石人山古墳や岩戸山古墳があり、築造時期は六世紀前半とみられる特異な古墳である。
同県前原市(現・糸島市)の釜塚古墳も大型円墳で、径約56M・高さ10Mで周濠があり、朝倉郡三輪町(現・筑前町)仙道の仙道古墳も、二重の周濠をもつ高さ4Mの円墳で六世紀中頃の装飾古墳であり、外側の周濠を入れた直径は45Mとされる。大牟田市黄金町の潜塚古墳は径25Mほどの初期の円墳であり、近くの山門郡瀬高町にも径50Mほどの権現塚古墳がある。豪華な出土品をもつ宗像郡津屋崎町の宮地嶽大塚古墳も、径34Mの円墳であった。
〔註〕詳細版 *1 例えば、正確な報道ではないかもしれないが、『週刊読売』2000.1.23号に記載の白石太一郎氏の発言。 *2 最近の考古学界では、弥生時代の具体的な年代比定について、いまだに検証のまったくなされていない年輪年代法や放射性炭素年代測定法などを基礎にして、頓に遡らせる傾向が強いが、これは疑問な姿勢といえよう。弥生式土器の製作年代も、古墳時代の始期や個々の古墳年代が確定しないなかで、三角縁神獣鏡の魏鏡説などを基礎として遡らせる傾向が強い。
日本の古墳で被葬者が明確なのは、七世紀の聖徳太子墓や天武・持統合葬陵、六世紀の筑紫磐井君墓くらいだとしたら、古墳・墳墓の築造順や各種土器等の製作順がほぼ分かったとしても、具体的な年代など割り出させることは無理な算段である。文献を全く参照しないなかでの古墳年代の比定、ひいては弥生式土器の年代比定は、かなりの幅(ないし誤差)なしでは困難である、と私には思われる。 *3 卑弥呼の墓については、多くの研究者によって多かれ少なかれ触れられ何らかの記述がなされてきたが、文献的・国際的な視点から検討がなされたとは必ずしもいい難い。
例えば、ごく最近でも、考古学者の石野博信氏が『邪馬台国の考古学』(2001年3月刊、吉川弘文館)を著して、そこでは、「卑弥呼の墓」という項目を立てるものの、この両視点からの検討は全くなされていない。石野氏が三世紀中葉のものと考える伴出土器によって墳墓の時代を推定して、「卑弥呼の墓を三世紀中葉の日本列島に求めれば、墳丘では大和・中山大塚古墳、埋葬施設・木棺の規模では大和・ホケノ山古墳、副葬品の質量では筑紫・平原方形墓となる」と記述している。同書の各種土器の年代比定がかなり遡りすぎではないかとみられるうえ、卑弥呼の墓の検討に際して『魏志倭人伝』の記事を全く無視しているのは、学問的検討としてバランスを欠くものではなかろうか。
また、『邪馬台国論争』(1995年、講談社)を書かれた岡本健一氏も、卑弥呼の墓という章を立てながら、鬼道と前方後円墳の発生等の問題を取り上げるにとどまり、両視点からの検討はなされていない。
*4 魏使が倭の都まで来たか来なかったかについての判断は、近畿説・九州説という立場を問わずになされている。例えば、近畿説の白崎昭一郎氏の『東アジアの中の邪馬臺国』、九州説の古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』でも、本稿本文と同様な趣旨で現実に到来したと記述される。中国の研究者でも、王金林氏も、正始元年の記事等から魏使が邪馬台国に行ったことがあると考える(『古代の日本−邪馬台国を中心として−』1986年、六興出版)。沈仁安氏も同様であり(『倭国と東アジア』)、実地の見聞・調査に基づき同時代史料として信憑性が非常に高いものと倭人伝を評価している。
奴国から邪馬台国まで、及び狗奴国については、旅程・戸数・官職など簡単な記録しかないとみて、これは体験しなくても書けるから、魏使は奴国以降へは行っていないとする立場もあるが、伊都国まで来て近隣の奴国すら行かなかったとみるのは不自然である。むしろ、旅程・戸数に表記法の違いが見られることから、佐伯有清氏のいうように、「投馬国」以前と以後との記事で用いた史料が異なっていたと推測するほうが妥当であろう。
*5 最近では、台湾の中央研究院等で中国二十五史などの電子データをホームペ−ジ(http://hanji.sinica.edu.tw/)で公開しており、フォント等がパソコンに組み入れられておれば、網羅的な語句索引を簡単に行うことができる。例えば、「墳」という語を中国二十五史で当たってみると、注の記述も含め1112の該当個所もあり、『三国志』でも30箇所あることがわかる。そのなかには、「墳典」(三皇五帝などを記した古籍)という用法もあるが、墳墓の本来意味の用法もある。
*6 地域的短里説(東夷伝短里説)を採る研究者としては、白鳥庫吉・安本美典・木佐敬久などの諸氏があげられるが、彼らが卑弥呼墓までこの短里で表現されたと考えているかどうかは不明である。その点、古田武彦氏は魏晋朝短里説の立場で地理記事・卑弥呼墓で徹底している。
*7 帯方郡関係墳墓の記述は、斎藤忠著『日本古墳の研究』等、楽浪郡関係墳墓については、早乙女雅博著『朝鮮半島の考古学』(2000年、同成社)等の記述に拠る。
*8 石村洞遺跡については、『韓国の古代遺跡2 百済・伽耶篇』(東潮等編著、一九八九年、中央公論社)等に拠る。
*9 劉慶柱夫妻著、来村多加史訳『前漢皇帝陵の研究』(1991年、学生社)。同書では、個別に実数値があげられるが、本稿では概観して計数をあげた。
*10小田富士雄氏もほぼ同旨で、弥生中期の大型墳丘墓は、「さらに新しい漢代王陵や、楽浪郡周辺の墳丘墓に関する知識・築成技術が導入されたことによる、といった考察のほうに妥当性が浮上してくるであろう」と記述する(『倭国を掘る』1993年、吉川弘文館)。
*11大和岩雄氏の『新邪馬台国論』(2000年、大和書房)も同旨。箸墓築造には少なくとも十年程度は必要だという山成孝治氏の見解も引き、卑弥呼墓は帯方郡使張政らが倭国に滞在した政治的に激動の短期間(3年間くらいか)に築造された急造の円墳であったと主張する。なお、大林組の試算に拠ると、箸墓の造営には延べ170万人の工夫(一日千人で6年間かかる)が従事したとされる(NHK特集『巨大古墳の謎』)。
*12白崎昭一郎氏は、卑弥呼の墓についても倭人伝の里程と同様、誇張の可能性があるとして、結論的には「卑弥呼の墓は径三十メートル程度のマウンドを持ったものでもよい」としているが、それでは、実際には30〜150Mの幅のなかのどこで捉えているのであろうか。「誇張」という見方を採る限り、具体的な規模は定まらないはずであり、白崎氏の論拠が不明である。もし仮に、卑弥呼墓を実際には径30メートル程度とみるのなら、邪馬台国大和説をとる見方と同地のこれに続く箸墓(墳丘長280Mほど)など巨大古墳との関係が、時間的・規模的にきわめて不自然になるのではなかろうか。
また、『魏志倭人伝』の語句解釈の場合、「実数ではなく、常套句(虚数)だ」という言い方も往々にして目にするが、誰がその常套句ということを証明したのであろうか。
*13橋本増吉著『東洋史上より観たる日本上古史研究−邪馬台国論考』(1932年)。
*14寺沢薫氏は、「箸墓のように前方部が巨大に発達した定型化した前方後円墳を、はたして「径」と表現するだろうか」と疑問視し、「「径」と形容される墓は、前方部が未発達で一見円墳に見える纏向型の可能性があると考える」と記す(『日本の歴史第02巻 王権誕生』講談社、2000年)。この前半は妥当であるが、後半は疑問が大きい。すなわち、纏向型前方後円墳なら「径」と表現するのかというと、その国際的な特異型を考えると、やはり疑問ではなかろうか。
卑弥呼の墓を箸墓古墳とみて、この墓が本来は円墳で、のち方形部分が追加されたとみる見解は、渡り堤など最近の発掘調査などから考古学的に否定される。大和岩雄氏の前掲書などの著述には、箸墓の後円部に卑弥呼墓をあてはめるのは、短絡で恣意的すぎるなどと批判され、明確な否定論が記述される。また、箸墓の年代観からみて、これに先行するホケノ山古墳等に卑弥呼墓を比定する説も出されるが、これは安易な姿勢ではなかろうか。
(続く) |