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(2)殉葬の有無

 殉死・殉葬は、古代の殷や北狄・東夷系統(匈奴・扶餘等)に広く見られる風習であった。匈奴の例は、『史記』『漢書』に見えて、近臣や寵愛の妾で殉死する者は、多きは数十、百人を数えると記される。
 中国河南省安陽市の殷墟では、王陵級の大きな墓のなかで人々や犬・馬が副葬されている惨状を多く見ることができ、大きな墓のなかでは侍臣・妻妾などや数百人の奴隷が殉葬されている。最近、殷墟で発見された高級武将の墓は保存状態が完璧で、その周辺から、人骨や犬骨が見つかるという典型的な殉葬パターンで現れた*15。同省の鄭州商城でも、殉死者をもつ墓が見られる。

 こうした殉葬の慣習は中国では長く続き、春秋戦国の頃まで記録がある。例えば『墨子』説葬篇には、「天子が殉死者を殺すこと、多いもので数百人、少なくて数十人、将軍や士大夫は多いもので数十人、少なくて数人」と見える。『史記』には春秋期の秦の穆公の記事に、大夫の家柄のものも含め殉死者が一七七人もあったとされる。戦国早期の魏でも、河南省汲県山彪鎮の大墓(一号墓)では棺の四面に殉葬者が一人づつあると報告される*16。動物の殉葬では、春秋末期の斉(山東省)で数百頭の馬の殉葬施設が見られるほか、河北省の殷代の台西遺跡等で牛・羊・豚の陪葬坑(祭祀坑)が見られる。
 遼寧省でも、遼東の代表的な積石塚である崗上墓では、東西28M、南北20Mの墓域には合計23の墓坑があって合計144体の人骨が出土している。一つの墓坑内に複数の人骨が重なって埋葬されており、最も多い墓坑では18体が火葬されていた。これについて、大貫静夫氏は、「血縁家族関係を紐帯とする人々が一つの墓坑に葬られたものであろう」と記すが*17、家族関係者の埋葬も多少あったとしても、かなり多くの部分が殉葬ではなかったろうか。現に、小田富士雄氏は、「東区中央の大形の板石床墓を中心に、放射状に細分化された小区には、計16基の墓壙がある。調査者は主人公を中心として、周囲に奴隷を殉葬したと説明している」と記述する*18

  朝鮮半島南部の伽耶諸国のうち、北部の雄・大伽耶国(慶尚北道高霊)の王陵と伝える古墳を含む池山洞古墳群でも、殉葬が見られる。その44号・45四五号両墳は円墳中央に竪穴式石室(主石室)を設け、これを囲んで10〜30基の小石室・石棺からなる殉葬墓を配置していた*19。前掲したソウル市の石村洞三号墳の東方遺跡群にある積石下層の土壙墓には、同時埋葬とみられる8基の木棺が納められ、殉葬に関連するのではないかとみられている*20
  洛東江下流域の伽耶には、四世紀代に北方遊牧民族系の文物をもつ「金海型木槨墓」が現れ、この時から人及び馬・鳥を犠牲として殉葬する習俗が現れる、と申敬慶星大学校助教授が記述する*21。大型の「金海型木槨墓」(王族墓)の場合、主人公の左右に各々二〜三人が殉葬されていた。なお、申敬氏は、文献に殉葬の習俗が記述されている韓国人関連種族は扶餘だけとして、扶餘文化の南下に関係ありとみるが、その文献『三国志』扶餘伝では、「棺があるが、槨はない」と記されるので、あるいは扶餘以外の種族が関与したことも考えられる(ただし、『晋書』扶餘国伝では、殉葬記事に槨は作るが棺は用いない、とも記す)。伽耶の木槨墓の時代には、日本的な遺物も出ること、殉葬習俗が南方の洛東江下流域から北へ新羅慶州に向かって拡がっていることに留意しておきたい。

  さて、わが国では、殉葬の具体例が現在のところ明確には墓に見えないとされる。そうだとしても、殉死・殉葬の風習があったことは、垂仁紀28年条の殉死停止命令、及び同32年条の野見宿祢の埴輪製作の記事(のち、『続日本紀』天応元年六月条の土師宿祢古人の奏言の記事にも見える)から窺える。この時以降、生きながらの殉葬に代えて埴輪が立てられることになったというが、その後も殉葬が続けられた。このことは、雄略天皇に殉死した隼人の例(清寧紀元年十月条)や、殉葬の風習が改まらないので再び禁令するという孝徳紀大化二年(646)記事から十分知られる。『播磨国風土記』にも、雄略朝に尾治連上祖の長日子が亡くなったとき、遺言に従って寵愛していた婢と馬とを殉じさせ、墓の側に両者の墓を築いて殉葬したと記される(餝磨郡貽和里馬墓池条)。
  大化のときの薄葬の詔三月甲申の詔)では、人馬の殉葬という旧俗が禁じられた。最近、長野県や千葉県などでは、古墳の周溝内や周溝に近接して馬の殉葬土壙が相次いで検出されており、長野県新井原古墳群の例では、弥生期にかかる可能性が考えられる*22。そうすると、同様に人の殉葬もあったことは十分考えられる。新羅の首都慶州では、殉葬墓が見られたが、味鄒王陵地区の第六地区には馬葬墓が三基知られる*23
  殉死して主人とともに同じ墓に葬られたかどうかは別として、殉死の風習はわが国では長く続いた。中世では記録にあまり見えないが(室町前期の細川頼之近臣の例があるくらいという)、江戸前期まで続き、初期には、家康の子の秀康・忠吉の各々近習が殉死し、肥後細川家・仙台伊達家など諸大名でもかなりの例がある。そのため、幕府では台命で殉死禁止の令を出し、将軍綱吉の時には武家諸法度の本文に禁止規定が置かれた。
  『書紀』に記載の例では、大化五年(
649)三月条に、蘇我山田大臣の長子興志の自殺に殉じてその妻子八人が殉死したとし、さらに父のほうの山田大臣が三男一女とともに自殺するとその妻子随身者も多数殉死した、と記される。『令義解』(職員令、弾正台)でも、信濃国の風習には夫が死んだ時その婦をもって殉死させることがあると記す。これらは近親者の殉死例であるが、山田大臣のほうには随身者の殉死も付属していた。

 卑弥呼などの邪馬台国支配階層は、北東アジアの東夷系民族の流れを汲んでいて、この国は倭地に建てられた征服民族主体の国家である、と私は考えている。そうした場合、被征服民などの経緯で奴婢も多くもっていて、王侯の死に際して彼らが犠牲等に供されたことは十分あり得よう。二世紀初の倭国王帥升等が後漢に生口(=奴隷)160人を献上し、また卑弥呼が魏朝に生口10人、その宗女台与が生口30人を献上したと記されることとも相通じ、殉葬者百余人も、ありえないとか誇張な文辞であるとは言えない。卑弥呼に侍る婢は千人もいたと倭人伝に記される。『三国志』では、倭人伝と同様、魏志東夷伝のなかの扶餘伝には、「有力者が死ぬと、多いときには殉葬者が数百人に達する」と記されており、この記事を虚偽と立証しないかぎり、卑弥呼の殉葬記事を否定できないはずである(白崎氏に同旨)。
  わが国の古墳には殉葬の形跡がないとして、日本での存在を疑う見解が多いようである*24。しかし、殉死の例は上掲も含めて数多くあり、殉葬者が墓のどこの部分(あるいは陪塚か周溝などの兆域)に葬られたかは不明であるが、殉葬を否定することはむしろ疑問が大きい。北九州のうち周防灘沿岸地域で最大級の古墳、福岡県京都郡苅田町大字与原の御所山古墳(墳丘全長は118M)の例もある。同墳は五世紀代の築造とみられているが、『太宰管内志』によると、後円部の上部に石室内には死体二つのほか、さらに殉葬をおもわせる3体の成人骨があったといわれる。弥生期の吉野ヶ里遺跡でも、合口甕棺のなかに頭蓋骨がない人骨があり、これについて、佐賀県教委には「何者かへの犠牲だったのかもしれない」として、殉葬の可能性も考えられるという見解も示される*25

 殉葬に関して原田大六氏の見解も興味深いので、併せて紹介しておきたい。氏は、具体例をあげて卑弥呼に殉葬がなされた可能性の大きいことを説明する*26。いわゆる「平原王墓」(平原低墳丘墓、平原方形周溝墓、平原一号墓など、様々な呼称がある)の東側に接してあった「東古墳」(円形周溝墓)の例である。同墓は、現在鋤平されて封土は失われているが、全長約13M、後円部は溝を含めて8Mにすぎない小規模な「前円後円墳」であり、副葬された土師器から三世紀の築造とみてよいものがあるとされる。注目されるのは、この墳墓の円形とそれから出た二本の角状の溝で、「この溝には、群をなす赤石および滑石の小玉、鉄鏃、土師器などが副葬され、かつ溝底には酸化鉄(ベンガラ)を敷いた所が二ヶ所あらわれた」とされる。これは単なる周溝といわれるものではなく、人骨こそ残っていなかったが、16名の人間を連接して葬った墓溝であることが推察された、と記される。赤色のベンガラや丹朱は弥生・古墳期の棺の内部に多く見られることに留意したい。
 伊都国発掘に永年携わってきた柳田康雄氏にも見解があり、「『実在した神話』にある「殉葬墓」は、平原王墓には存在しない。しかし、古墳前期に造営された「東古墳」には確実に周溝内に意図して埋葬する目的をもって深く掘られた土壙墓が各一基存在するし、平成10年度に調査された二号墓にも数基存在することが確認され、他の遺跡でも古墳前期に属する方形周溝墓とされる低墳丘の方墳の周溝に埋葬された土壙墓はよく知られている。いずれにしろ、周溝内から遺物が発見されたかといって、そこに人を埋葬したと考えると、他の各地の墳墓も多数の「殉葬墓」が存在することになる」と記述する*27
  なお、原田氏は、肝心の平原王墓を二世紀の前半(中ごろ)を下るものではないとみているため、当該「東古墳」を平原王墓との関係で考えなかったが、現在では平原王墓を同様に三世紀代のものとみる説のほうがむしろ多く*28、その場合、平原王墓の陪塚か関係者の墓とみるほうが自然であろう。原田・柳田両氏の推察・見解が正しければ、周溝に直接なされた殉葬の形跡は、わが国の地質では残りにくいということにもなる。

 次に、原田氏は、この東古墳の例から各地の方形周溝墓にも類推されて、「その溝には穿孔のある壺その他が副葬され、やはり埋め戻されている実情は、埴輪の起源もさることながら、殉葬溝と考えてもよいのではなかろうか」として、「時代は下がるが、兵庫県白水薬師山の夫婦塚では、前方後円墳の封土中や周囲から発見された無遺物の円筒棺は百十例以上もあって、まさに大殉葬の観さえ呈している」と記している。平原東古墳の例からみて、「径百余歩を歩幅と見て全長七〇メートルの古墳となると、連接して埋めれば百余人の殉葬はありうると考えられる」と氏は結論づけている。
 この結論については、長さの単位「歩」を「歩幅」とみる点や、殉葬者を墓本体の溝にみに埋めたとみる点には、疑問があるが、「百余人の殉葬はありうる」という点は妥当であろう。なお、以上の原田氏の記述の背景をもう少し説明しておくと、糸島郡二丈町(現・糸島市)福井の海岸砂丘で発見された「福井式甕棺」が北九州で発生したもので、円筒埴輪に接近している形態に着目して、両者の間に筒形で貫通透孔をもつ器台を考え、円筒埴輪は「死骸を葬らぬ供献的棺」で「殉死の人垣に更えた物であった」と氏は論断している。

 また、弥生期の方形周溝墓について、樋口隆康氏は、「畿内では1つの盛土に複数(最多で十数人)の人を葬った」と記すが*29、共同墓地的なもののほか、これは一人が主人で、残りは奴婢などが殉葬された場合もあったではなかったろうか。
  このように考えられる事情が中国の山西省南部(
山西省稷山を中心とする一帯)にある。私は、弥生中期に日本列島に渡来したとみられる部族の遠い源流がこの地域にあるのではないかと考えている。稷山の東方近隣には侯馬市があり、その市域の喬村遺跡で発見された小形囲溝墓が、わが国弥生期の方形周溝墓の原型ではないかとみる考えがある*30。喬村では、四十基を超える方形囲溝墓が検出されており、そのなかの墓(M26・27号墓)には、低墳丘をもつであろう長方形に区画した幅1〜2Mの溝内に二つの大きな墓壙が掘られ、それぞれに木棺が埋葬され、その周溝内にも四体の人骨があり、奴隷殉葬を示すものと考えられた。わが国の方形周溝墓の例と比較して、たいへん興味深いものがある。

 殉葬関係の最後にもう一つ付言しておくと、殉葬の跡が出現期の古墳等に見えないとして、倭人伝の記事そのものを否定する学者もいるが、これは全く疑問な文献取扱いであろう。例えば、白石太一郎氏は、卑弥呼冢の形状の文章に続いて、殉葬の記事があるが、「最近の考古学的な調査・研究の進展の結果からも、三世紀中葉にあたる弥生時代終末期から古墳出現期に、殉葬が広範に行われていたという積極的な証拠はほとんど発見されていない」として、倭人伝の記事の「表現から、その塚の形状や正確な規模まで読みとろうとするのはいささか読みすぎであろう」「これらの記事が卑弥呼の墓やその葬送の実際を正確に伝えていると考えることは困難である」と判断し、卑弥呼の墓の規模も倭人からの伝聞と推している*31。さらに、氏の別の論考*32でも、同様の趣旨を述べたうえで、「『魏志』倭人伝の卑弥呼の墓に関する記載をいかに分析しても卑弥呼の墓は見えてこないというほかない」とまで記している。
 しかし、これは明らかに行き過ぎの表現である。繰り返しになるが、帯方郡からの使者団にとって、倭地の政治社会の状況把握は最大の使命であり、それが単なる伝聞で記録したとは思えないし、槨や死亡時の歌舞などの記事の内容から見ても、それは裏付けられよう。殉葬も明らかには確認されていないだけで、それらしい痕跡や傍証はかなり見られることは上掲してきた。貴重な文献資料について、僅かな考古学的検討で簡単に無視ないし否定する姿勢には、むしろ問題が大きいと感じざるをえない。このようなものを「考古学的批判」というのだろうか。考古学者でも、春成秀爾氏は、「考古学研究者は一般に否定的である」としながら、殉死の風習や馬の殉殺例から「殉死については、むしろ積極的に評価する立場」をとると記述される*33。文献検討では、平林章仁氏が多角度から殉死の検討をして、古代の殉死・殉葬を肯定しており、示唆に富む記述をされている*34

 
(3)槨の有無

 『魏志倭人伝』では「棺はあるが槨はない。土を盛って冢を作る」と記載される。佐伯有清氏は、この倭人の習俗は、当時の遺跡の考古学調査によっても裏づけられている、と記し、一方、朝鮮半島では、『魏志』の扶余伝・東沃沮伝・韓伝などに「槨有れども棺なし」とあると記している*35
 倭人伝の記述について、榎一雄氏が北九州で発達した甕棺のことと解釈されている。これに対して、白崎氏が反論し、甕棺が当時の中国では普遍的でなかったとしたら、奇異に映らなかった筈がないのに、甕棺について魏の使節が一言も記載していないとし、当時の中国と殆ど変わらない棺を倭人たちが用いていたからこそ、彼らは「有棺」と記載したのであろう、と記述する。この白崎氏の記述はほぼ妥当であろう*36
 卑弥呼など邪馬台国支配層の起源については、先に少し触れたが、朝鮮北部・遼西、さらには山西南部にその源流をもち、箕子朝鮮や高句麗・貊族と強い関連をもった種族の出であったことが推される*37。その場合、これら種族が持っていた墓制を日本列島でもまず踏襲したことが考えられるが、三世紀前半の当時では外形的に支石墓は考え難い(日本では、支石墓の下限が弥生中期末頃とされる)。棺についても、弥生後期ないし終末期の主体埋葬では、甕棺がほぼ姿を消すようである。残る石棺か木棺かは判じ難いが、敢えていうと、槨がないことや地域分布・時期等からいって、石棺のほうにかなりの魅力を感じる。北九州の原始古墳とされるものの内部構造は殆どが箱式石棺であったからである*38。これなら、帯方郡から来た使節がとくに記述しなくても、問題とするにあたらないと思われる。北九州の弥生終末期は、墳墓といえば、箱式石棺か土壙墓か木棺墓が一般的であり、墳丘をもつものはほとんどない、と渡辺正気氏も記している*39。ただし、この見解のうち、殆ど墳丘を持たないというのは、最近の発掘例からいえば王級の墓では妥当しないと思われる。
 以上のような事情から見て、木棺についての積極的な否定まではできないが、かりに石棺の場合には、後世となるが、福岡県西南部・佐賀県南部・熊本県等の古墳の例が参考になる。これら地域において、古くから石棺の伝統があったのではなかろうか。

 最近、三輪山麓にある纏向(桜井市箸中)のホケノ山古墳の発掘で、石囲いの木槨に木棺という埋葬構造をもっていたことが明らかになった。同墳は箸墓古墳の付近にある全長80メートルの前方後円墳であり、近くの纏向石塚古墳とともに最古級の古墳の一つとされている。同墳の出土には画文帯神獣鏡・内行花文鏡や庄内式土器などもあって、邪馬台国畿内説論者は勢いづいたともいわれる。
  これに対して、安本美典氏*40が「棺あって槨なし」という『魏志倭人伝』の記述に合わないと端的に指摘する。その後の竪穴式石室墓も横穴式石室墓も一貫してこれと合わないが、一方、後世の『隋書』倭国伝では、『魏志倭人伝』の記事から変わって、「死者を収めるに棺槨をもってする」と記されることをあげて、中国人の弁別記述は鋭いので、槨のない墓は畿内の墓事情ではないと記述する。これに加え、北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石室((ママ))墓は、一貫して、「棺あって槨なし」であるといえる。古墳時代初期とされる福岡市の那珂八幡古墳(全長約75M)、福岡県小郡市の津古生掛古墳(全長約33M)では木棺が直葬されており、同県前原市の本林崎古墳では箱式石棺の直葬であった。このように、北九州の古式古墳こそ、『魏志倭人伝』の記述に系統的に合致する、と結論する。こうした安本美典氏の指摘は、妥当であろう。
  早くに井上光貞氏も、『魏志倭人伝』の記述が、「弥生時代の北九州の甕棺や箱式石棺のように、棺を直接に地下に埋めた事実とよく合致する」とし、次の古墳時代の高塚式古墳では棺と槨とが備わるから、「倭人伝に記された三世紀の日本は、それ以前の状態だったことになる」と結んでいる*41。佐田茂氏も、弥生後期後葉から末葉段階(およそ二世紀中葉から三世紀中葉)になると、北・中部九州等に低墳丘墓が現れ、その埋葬施設は、箱形石棺・短小な箱形木棺や石蓋・木蓋土壙などで、室や槨の被覆施設を伴わない、と記している*42

  これに対して、古くは小林行雄氏が「槨の語意に問題が残るが」という表現を用い(『古墳時代の研究』92頁)、最近では、白崎昭一郎氏が、喜田貞吉の検討を踏まえて、「『魏志』の「槨」なるものが如何なるものを指しているか十分確かめてかからねばならない」という表現をしている*43。しかし、『魏志倭人伝』の葬送関係記事を帯方郡から来た使節団が記録したという前提でみるとき、記録者は「槨」の意義を十分承知していたと思われる。朝鮮北部では槨はよく普及していたからである。
  朝鮮総督府博物館慶州分館長などを歴任され、『楽浪漢墓』の著書もある中村春寿氏が、「楽浪の古墳は…(
中略)…いちばん古いのは主として西暦後一世紀ごろまでは木槨です」「一室一棺の形態の木槨ははじめから終わりまでずっと楽浪には存在します」という記述をされており*44、これを裏付けよう。この楽浪式の木槨墓が、朝鮮南部では新羅しか見つかっていないが、岡山の楯築古墓(弥生終末期の墳丘墓)で既に見られるという同氏の指摘もある。こうした事情や東夷伝諸国の記事からいって、『魏志』の「槨」の語意には問題があるとはとても思われないのである。

  日本最大の銅鏡を出土したことで名高い前原市の平原遺跡では、18M×14Mの長方形の周溝墓・平原王墓(平原一号墓)があって、中央の墓壙に木棺が置かれていた。こうした土壙も、「槨なし」といえるのかもしれない。この周溝墓は三世紀代頃の伊都国の国王級の墓とみられている。これに先立つ吉武高木遺跡で、多鈕細文鏡など豪華な出土品をもち俗に早良王墓と呼ばれる三号墓も、木棺であった。これらは、同系統の支配者であったとみられる*45
  さて、棺といった墓内部よりも、わが国には極めて特異なものがある。それが、次に取り上げる前方後円墳という外部形状である。これが、何故『魏志倭人伝』には記録されなかったのであろうか。むしろ、棺よりも外観的に明かなこちらの方を重視すべきではなかろうか。

 
(4)前方後円墳という形状

  王巍氏は、「前方後円墳は日本独特の墳墓であり、その特異な形、巨大さ、神秘性を含む埴輪及びさまざまな副葬品は日本古代文化の最も特色あるものと言えよう」とし
*46、前方後円墳の源流は、中国の漢時代に非常に流行した「天円地方」「天界」「仙山」「死後の昇仙」という思想の影響を受けて、それを日本の弥生時代の墳丘墓及び思想信仰とまぜあわせて、成立したものだと思う、と考えている。
  その成立の由来について諸説多くあり、王巍氏のようにいえるのかどうか、私には疑問な面もあるが、原初(発生)期古墳とされる纏向型前方後円墳についていえば、いわゆる前方部は端的に壷形の上部平面形とみるのが自然ではなかろうか。いずれにせよ、わが国独自のものとしてよいようであり*47、五世紀代でも朝鮮半島南部に数基見られるにすぎないこと(日本の埴輪の波及としてみられる円筒形土製品等も伴う)は、十分に留意したい。こうした特異な墳形を帯方郡からの使節が実見した場合には、何らかのコメントがなされたはずではなかろうか。
 永年続いてきた邪馬台国問題の帰趨を結するのは、古墳(前方後円墳)発生の年代・場所の問題だ、と直木孝次郎氏や岡本健一氏はみている。たしかに、卑弥呼の冢をどう解するかにより、「弥生時代の終わり=古墳時代の始まり」にも影響してくる。とはいえ、「古墳」ないし「古墳時代」をどのように定義するかの問題が、先ずあるのではなかろうか*48。そして、卑弥呼の冢を「古墳」と思い込まない方がよいと思われる。

 最後に、北九州の墳丘墓の具体例のなかで卑弥呼の墓の規模を考えていきたいが、この部分の記述は、主に小田富士雄氏の著作『倭国を掘る』(1993年)等に拠りたい。
 現在、九州で最も古い墳丘墓といわれるのは、福岡県朝倉郡夜須町(現・朝倉市)の東小田峯遺跡の墳丘墓(一号墓)であり、前漢鏡等を出土した。築造は弥生前期のものとみられて、大きさは18M×13Mくらいの長方形区画で、高さが1Mくらいとされる。なお、この時期推定は、私には古すぎるように感じられる。墳丘の下には8基超(本来はその倍ほどかともいう)の土壙墓が検出されており、これも殉葬に関係がありそうに思われる。峯二号墓も、一辺()20M前後の規模で、多数の土壙墓・甕棺墓を包蔵する。
 弥生中期後半の築造とされる早良平野の樋渡遺跡(福岡市西区)の墳丘墓では、径25〜26Mの楕円形土盛りであり(王巍氏は、東西約24M、南北約25Mの方形という)、高さが約2.5Mであって、中央部に木棺一基、少し離れて石棺が一基あり、甕棺も二五基以上(そのうち、六基に前漢鏡・銅剣・鉄剣などの副葬品がある)とされる。墳丘墓の周囲には、副葬品をもたない甕棺墓群が発見されており、墳丘内の甕棺との格差は一目瞭然であるとされる*49。そうすると、周囲の甕棺のなかには殉葬者の甕棺もあったのではなかろうか。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、樋渡遺跡より格段に進んだ「版築」という大陸系の技法をもち(古墳にはよく見られるが、弥生遺跡では初めて確認された)、規模もさらに大きくなる墳丘墓が見つかった。環濠集落の北部にあって一番見晴らしの良い場所に位置する墳丘墓は、南北約39M、東西約26Mの長方形であり、現在の高さ約2.5M、本来では約4.5M以上だったとみられている。墳丘は地山整形したのち、黒色土を高さ1M強ほど積み上げ、さらにその上に版築状に盛り土をしている。このなかに14基の甕棺墓が確認され、うち8基から銅剣などの副葬品が発見された。また、この墳丘墓の南約一キロの地点でも、ほぼ同時期の墳丘墓が発見されており、一辺34Mの方形で現存の高さが約1Mとされる。これら墳丘墓は、出土甕棺が弥生中期とされる汲田式土器から年代が判断されている。
  須玖岡本遺跡で確認された墳丘墓でも、25M×18Mくらいの規模で高さも2M以上あったとみられている。こうした墳丘墓は、那珂遺跡群にもあり、須玖岡本の近く御供田遺跡でもあった可能性が高いなど、北九州の弥生中期の段階では、甕棺墓葬の盛んであった地域の各所にあったのではないかと考えられている*50
  この後の弥生後期・終末期では、王墓の系譜をひく遺跡に前掲の平原墳丘墓(18M×14M)がある。吉野ヶ里遺跡でも、弥生後期後半(三世紀後半)に築かれたとみられる全長30Mの前方後方形墳墓が最近、見つかっている。こうした弥生墳丘墓の系譜の流れのなかに、築造年代には諸説があるが、福岡県小郡市の津古生掛墳丘墓(楕円状の径が29M、残存の高さが1.8Mで本来更に1Mほどあったかとされる)、糟屋郡宇美町の光正寺古墳(推定全長53M、高さ約6M)なども位置づけられよう。森浩一氏は、福岡市西区姪浜の五島山古墳や早良区の藤崎古墳などは、小規模な円墳で後漢鏡を出土しており、発展期の大和の古式古墳より遡る成立期の古墳としてなんら不都合がないとみている。

  一方、ほぼ同様な時期、弥生中期後半以降の畿内を見ると、大阪府の加美遺跡で26M×15M、高さ2Mほどの墳丘墓が見られ、近くの瓜生堂遺跡でも15M×10Mほどの墳丘墓が見られる。滋賀県の服部遺跡でも、一辺20Mを超える方形周溝墓が見られる。吉備でも、30Mほどの巨大墳丘墓が立坂墳丘墓などあり、楯築墳丘墓はこれらを遥かに上回る規模(径40Mで高さ4,5Mの大円丘があり、その南北に全長70〜80Mの方形の低突出部をもつ)であった。丹後でも、中郡峰山町の赤坂今井墳丘墓は国内最大級で、35M×37Mの方形で高さ4Mという規模であった。
  こうした事情からみると、卑弥呼の墓が弥生後期ないし終末期の北九州にあったとする場合には、規模では最大30ないし40Mほどの径であって、封土の高さが最高で5Mほどとなろう。それを、墳丘墓というか高塚古墳というかは、定義ないし見解や評価が分かれるところでもあるのだが*51。

 
 まとめ

  以上、卑弥呼の冢について様々な観点から記述してきたが、卑弥呼を巡る国内・国際的な情勢を考えてその冢をみる場合、「大いに冢を作る」といっても、いわゆる古墳時代的な「大きな墳墓」ではなかった。すなわち、墓を含む兆域がかなり広かったことも考えられるが、そうだったとしても、封土による高さは数メートル高ほど(
最高で5Mほどか)の墳丘をもち、規模的には径30Mほどの円形(ないし楕円形)の墳丘墓であって、内部構造に箱式石棺をもち、丘陵部にあまり盛り土を持たずに築かれた、と推するのが比較的自然である。
  森浩一氏も、ほぼ同様であり、弥生後期の造墓の実例が最近かなり見つけられてきたことに伴い、「まだ解釈にふくまれる範囲は大きいが、墳丘のない円(方)形周溝墓の仲間でも、山地形を利用した広義の古墳でも、ともに候補となる」が、前方後円墳ではなかろう、と考えるようになったと記される*52。この場合、「山地形の利用」について、「自然地形を利用していて日本考古学では古墳とよびならわされているものの、さほどの盛り土はしていない“井辺八幡山型”の古墳を、冢という字であらわしたこともあるのではないかと考えている」と記述している。

  こうした形状の墓なら、むしろ北九州に多く見られる弥生後期・終末期の墳丘墓のなかで考えられそうである。それが、現在時点で既に顕現しているとは限らないが。おそらく筑前海岸部ではない場所(例えば、筑後川中流域)に求められるのではなかろうか。その場合、殉葬の痕跡が明確に認められることが望まれるが、墓の規模・形状からして、既に取り壊されたなど変形の可能性等も考えられないことでもない*53
  卑弥呼墓の規模を上掲のようにとらえるとき、箸中山古墳など巨大な前方後円墳の発生時期も、最近の考古学界の流れとは逆方向にむけて、すなわち年代を押し下げる方向になろう。総じていえば、往時の通説的な地位にあった四世紀前半に古墳時代が始まる(その画期が箸墓古墳の築造か)というのが、やはり穏当な線ではなかろうか。せいぜい遡っても、始まりが三世紀末頃ではなかろうか。
  最近では年輪年代法などを根拠に、弥生時代の年代比定をさらに早い方向で引き上げる傾向が強くなっているが、これも疑問が大きく、年輪年代法は少なくとも上古について、何ら検証がなされていないことに留意される。そもそも弥生期の年代観については、弥生中期までは、往時の通説でさえ、多少とも引上げ気味であったように私には感じられる。九州北部において、弥生後期の遺物があまり豊富とはいえず、三世紀の王墓級の遺跡が未だ見いだされていないともいわれるのは、本来この時期に置かれるべき墳墓が実際以上に古く引き上げられたり、高塚状の形態をなすものは逆に古墳時代まで引き下げられた結果ではなかろうか。


  実のところ、本稿のなかでは私見と言うべきものは、とりまとめた結論的な部分を除いて、殆ど無きに近い。また、できるだけ私見を抑制的に表現してきた。そうした問題を、何故ここに取り上げたかというと、これまでに個別的には多くの卓見が研究者から出されてきたが、それらを総合的に整理する記述・論考に巡り会わなかったと感じたからである。従って、やむを得ず、自らの手で整理を試みたわけであるが、逆に言えば、この問題はそれくらい重要な問題と感じる次第でもある。
  最後に、森浩一氏の見解とこれらに対する反論を出された白崎氏の学恩には、深く感謝申し上げたい。こうした論争なしに、検討は深まらないと考えられるうえに、本稿作成に当たって様々で有益な示唆をいただいたからである。そのほか、ここで引用させていただいた多くの先学諸賢の研究にも感謝を表しつつ、一応、総論的な検討を終えることとしたい。
 
    (補論へ続く)  ※この後、具体的な各論もありますので、続けてお読みください。


 
〔註〕の続き

*15 朝日新聞夕刊、2001年2月6日(火)。
*16 李学勤著・五井直弘訳『春秋戦国時代の歴史と文物』35頁、1991年、研文出版。
*17 大貫静夫『東アジアの考古学』1998年、同成社。
*18 小田富士雄『倭国を掘る』49頁。
*19 池山洞古墳群の殉葬墓については、小田富士雄「古墳文化期における日韓交渉」(『伽耶と古代東アジア』新人物往来社、1993年)。
*20 韓国の殉葬墓について、申敬氏の後掲分析が扶余影響という点を除き妥当するとした場合、四世紀中・後葉という築造年代等から考えて、石村洞三号・四号墳は百済の近肖古・近仇首王親子の陵墓とみるのが自然であろう。両王のとき百済は全盛期をむかえ、その都を石村洞古墳群の付近の漢山(漢城)に置いており、殉葬の風習も倭から逆輸入されたとしたら、両王のときに倭と初めて接触し、提携関係に立っていたことが知られるからである。

*21 申敬「加耶成立前後の諸問題」(『伽耶と古代東アジア』1993年、新人物往来社)。

*22 馬の殉葬土壙については、白石太一郎「弥生・古墳文化論」(岩波講座『日本通史第2巻』所収、1993年)。同論考では、西日本にも例が見られるというが、九州でも、宮崎県東諸県郡国富町の六野原古墳群にある十号地下式横穴の横に犠牲馬一頭を埋めた例がある(森浩一『考古学と古代日本』600頁)。長野県の例では、飯田市新井原古墳群に見える。二号墳の周濠縁に重なって箱形石棺と土壙墓があり、そのなかの二基から馬の歯が発見され、また12号墳(帆立貝形前方後円墳)の北側から発見された土壙からは馬具を伴う埋葬馬骨が検出された。

*23 慶州の馬葬墓については、『韓国の古代遺跡T新羅篇』(東潮等著、1988年、中央公論社)。
*24 『国史大辞典』の殉死の項(尾藤正英)など。考古学者の田中琢氏は、広島県福山市の山ノ神一号墳で一つの石棺のなかに成人男子と女子の人骨二体が見つかった例をあげつつも、これが殉葬か追加埋葬かは判じがたいとし、確実な殉葬の実例が見つからないとして、結局、殉葬のような「習俗は実際にはなかったにちがいない」と結論している(集英社版『日本の歴史A 倭人争乱』)。しかし、結論までの挙証が不十分ではなかろうか。
 また、『魏志倭人伝』の記事の「徇葬」の意味を「葬儀に使役されること」と解する見解(水野祐氏)もあるが、この解釈が誤であり、「徇」が「殉」に通じることは、佐伯有清氏が『魏志倭人伝を読む』で記述している。
*25 YOMIURI SPECIAL 31『吉野ヶ里・藤ノ木・邪馬台国』24頁(1989年、読売新聞社)。
*26 原田大六『邪馬台国論争』81〜85頁。
*27 柳田康雄『伊都国を掘る』160頁(2000年、大和書房)。

*28 斎藤忠、渡辺正気(『日本の古代遺跡34福岡県』)、高倉洋彰(『金印国家群の時代』)、石野博信などの諸氏があげられよう。実年代はともかく、弥生後期(終末期も含め)という見方ではおおかたが一致しているともいわれる。柳田康雄氏は、当初、総体的に見て四世紀と考えたが(『三世紀の九州と近畿』)、のち副葬品の比較検討から弥生終末期の三世紀初頭と考え直している。鏡などの出土遺物等から考えると、森浩一氏もいうように、二世紀末期〜三世紀前半という可能性もあるが、いずれにせよ、三世紀代としてよかろう。

*29 樋口隆康「日本の遺跡」(『図説日本文化の歴史1 先史・原史』所収、1979年、小学館)。
 例えば、東大阪市の加美遺跡や瓜生洞遺跡二号墓などの方形周溝墓では家族墓とみられそうである。その一方、東日本の方形周溝墓は概して単葬が多いと指摘され、家族墓とする理解が危ぶむ意見も多い、と寺沢薫氏が記述する(「弥生の墓−方形周溝墓と四隅突出方形墓」、アサヒグラフ別冊『戦後50年古代史発掘総まくり』1996年4月1日号)。

*30 侯馬市の喬村遺跡については、寺沢薫氏の前掲「弥生の墓」参照のこと。奴隷殉葬と考えるのは、山西省文物管理委員会・山西省考古研究所発行の『文物』1960年8・9期合刊号掲載の「侯馬東周殉人墓」であり、これに対して、寺沢氏は、「周溝内の埋葬を奴隷殉葬と考える点には問題が残る」と記している。殉葬かどうかについては、中国側の見解が妥当と考えられ、卑弥呼の殉葬記事を思わせるものがある。

*31 白石太一郎「卑弥呼は箸墓古墳に葬られたか」201〜202頁(『卑弥呼は大和に眠るか』所収、1999年、文英堂)。
*32 白石太一郎「大いに冢を作ること径百余歩」(『三国志がみた倭人たち』所収、2001年、山川出版社)
*33 春成秀爾「南して邪馬台国、女王の都する所」(同上*32書所収)。
*34 平林章仁「殉死・殉葬・人身御供」(『三輪山の古代史』の第四章、2000年)。
*35 佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上』。

*36 白崎氏の記述には、結論的には賛同するが、やや注意も要する。というのは、前代の前漢・後漢の時代には、棺の素材について、石とか木(桐など)が史書に見えるが、『三国志』には棺の形状・素材について殆ど記述がなく、魏の使節に関心が持たれた事項とは必ずしも思われないからである。また、朝鮮半島には甕棺もあった。
 中国東北地方や朝鮮半島に分布する支石墓等を研究した三上次男氏に拠ると、細形銅剣を有する土壙墓や甕棺墓は、衛氏朝鮮以来土着した中国人墓ないし中国化した土着人文化の所産と考えた(『満鮮原始墳墓の研究』、一九六一年刊)。そうすると、楽浪・帯方郡辺りの漢人系の墓には甕棺墓がかなりあったことが知られる。ソウル市の漢江下流域にも甕棺墓はあり、新羅の首都慶州や周辺でも、朝陽洞遺跡群(無文土器時代及び紀元一〜三世紀の原三国時代の代表的遺跡)では20基など、いくつかの甕棺墓がある。 

*37 わが国上古の支配層の出自については、拙稿「騎馬民族は来なかったか?」(『季刊/古代史の海』第23号)を参照されたい。
*38 『日本の考古学W 古墳時代上』(河出書房、1966年)に所収の小田富士雄氏執筆の「九州」の項。そこでは、畿内型古墳伝播の前の九州原始古墳をあげ比較対照をしているが、福岡県三瀦郡(久留米市三潴町)塚崎の御廟塚などの内部構造が箱式石棺であることが示される。また、福岡県の主要古墳分布表をみると、朝倉郡杷木町の宝満宮古墳や大牟田市黄金町の潜塚古墳のように、山頂の円墳で箱式石棺をもつものがかなりあげられる。
*39渡辺正気著『日本の古代遺跡34 福岡県』(1987年、保育社)。

*40安本美典氏の「棺あって槨なし」の記述は、新聞記事も含めいくつか見られるが、その著『「邪馬台国畿内説」を撃破する!』には整理して記述される。なお、箱式石墓は箱式石棺墓の誤植か。
*41井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(1965年、中央公論社)。

*42佐田茂「前方後円墳と沖ノ島」(『新版[古代の日本]第三巻 九州・沖縄』所収、1991年)。ただし、佐田氏の次の記述は、私としては肯けない。すなわち、低墳丘墓からしばしば葬送儀礼に供献された土器が出土し、その主体が近畿系の外来系土器であり、ほぼ庄内式に並行する段階であることから、後期末葉に現れる低墳丘墓は前代からの大型墳丘墓を継続したものではなく、瀬戸内ないし近畿地方の影響下に成立したもの(北九州が畿内・瀬戸内勢力に統属された結果)とみるべきであろう、とみる点である。これは、土器の性格づけに疑問があるのではなかろうか。土器の流入は、ある勢力圏に入ったことを直ちには意味しないはずである。

*43白崎昭一郎「邪馬台国・古墳・三角縁神獣鏡」(『東アジアの古代文化』107号)。
 白崎氏は、安本美典氏の「槨」についての論を粗い議論と評価するが、根拠として挙げられる喜田氏の二論考(『喜田貞吉著作集2』所収)を読むかぎり、そうとは思われない。氏は、「喜田貞吉は中国人の用いた棺・槨・壙の字義について、考古学者が往々誤解して用いていることを詳細に論じている」と記述するが、その考古学者とは日本人のことである。中国では、「三代と、漢魏と、六朝と、唐宋と、それぞれに葬制に変遷あるべきも、棺は屍を容るるの器、槨は棺を容るるの器、壙はさらにこれを安置すべき墓穴なりとの点においては、前後毫末の異同あるを見ず」と喜田論考には明確に記述されており、『魏志』当時の中国人関係者に概念の混同があったとは思われない。また、かりに概念の混同があったとして、「棺あって、槨なし」の記述で「槨なし」とは、どういう状態を白崎氏は考えられているのであろうか。
 喜田貞吉は、「『魏志』にいわゆる倭人とは太古九州地方に住せし種族にして、これただちに大和民族なりと謂うべからず」「わが大和民族の俗、葬には棺と槨とあり、倭人の槨なきと同じからず」とも記述している。

*44中村春寿「新羅系古墳の調査とその意義」(韓国文化院監修『古代の韓国と日本』所収、その84〜86頁)。

*45私見では、筑前の早良・怡土郡辺りを領域としたのが神武天皇家の祖先と考えられ、二世紀後葉の神武の時に東遷して大和に原大和朝廷を建てたとみられるが、これは、拙稿「邪馬台国東遷はなかった」で記した。神武の大和入りの経路上にある大和国宇陀郡の下井足(
いだに)村(現・榛原町)の大王寺山丘陵には、庄内式土器を伴出する方形台状墓や古墳六基などの大王山遺跡がある。台状墓(大王山墳丘墓)は長辺二1M、短辺15M、高さ1.5Mで箱式木棺を直葬し、6基の古墳も(そのうち、全長27Mの前方後円墳が1基で、残りは円墳であるが)、埋葬はすべて木棺直葬である。おそらく神武王統の初期段階に分れた一族関係者の墳墓ではないかと私は推している。

*46王巍著『中国からみた邪馬台国と倭政権』1993年、雄山閣。

*47小林行雄氏も、その著『古墳時代の研究』64頁で、「前方後円墳のような異色ある墳形は、かえって日本以外にその源流を求めることが困難である」と記す。高橋克壽氏も、今のところ前方後円形の系譜を直接大陸に求めることは難しいと記す(「埴輪と古墳の祭り」、『古代史の論点5 神と祭り』1999年、小学館)。

*48古墳時代の定義について、種々の見解があろうが、東北から南九州に及ぶような「広域的な大和政権確立の指標(政治的な記念物)」という政治体制等から意味づけるとき、最初の巨大古墳とされる箸中山古墳の築造をもって開始期とする見解が、やはり妥当ではなかろうか。武末純一氏は、「前方後円墳ができたから古墳時代になったのではなく、古墳時代になったからこそ前方後円墳が出現したのである」と述べている(「弥生時代の終わり」、平凡社『弥生文化』所収、1991年)。白石太一郎氏も、「古墳の成立、すなわち古墳時代のはじまりを、現在のところ箸墓型前方後円墳の出現に求めるのがよいと考えている」と記す(「弥生・古墳文化論」)。とくに、かなりの高さをもつ吉野ヶ里墳丘墓の例も考慮して、古墳及び古墳時代の定義を考えたい。
 なお、奥野正男氏は、早くに1983年春に刊行の『邪馬台国発掘』で、邪馬台国の時代を弥生後期にあてる通説的年代観に立つ限り、邪馬台国畿内説は破綻してしまうから、「今後は、その破綻をつくろうものとして、おそらく古墳時代の開始時期を卑弥呼の時代までくり上げる主張が、畿内説の新しい旗手によっておこなわれるであろう」と予言している。そして、まさにそのように進行しているのが、最近の考古学界の動向ではなかろうか。

*49 樋渡遺跡の弥生墳丘墓については、王巍氏の前掲著にも拠る。
*50平田定幸氏(奴国の丘歴史資料館員)の発言(小田富士雄編『倭人伝の国々』228〜234頁)。

*51白崎氏は、「福井平野周辺の一首長すら、一辺二十メートル程の方墳を築いている時代に、魏に使を出した邪馬臺国の女王が、「壮大な高塚に葬られたとは考えられない」などとどうして断言し得るのであろうか」と記述する。しかし、白崎氏が挙げる福井平野の方墳が卑弥呼と同時代の築造であると証明できるとは、到底思われない(
おそらく、卑弥呼の時期よりおそいのではなかろうか)。墳墓築造の絶対年代把握はたいへん難しいからである。また、本文で述べるように、朝鮮半島の墳墓の規模を考えれば、おのずと規模の限界があったとみられる。

*52森浩一『考古学と古代日本』431〜432頁(1994年、中央公論社)。

*53卑弥呼墓がどのような形態にせよ、これが既に取り壊されている可能性もないではない。北九州の支石墓について破壊が進む状況を記述した乙益重隆氏の論考「日本における支石墓研究の歴史」(八幡一郎等編『アジアの巨石文化』1990年、六興出版)等からも、これは可能性として類推される。古墳でも、久留米市善導寺町木塚(旧山本郡)の木塚古墳や同市大善寺町(旧三瀦郡)の銚子塚古墳の消滅が知られる。

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卑弥呼の墓は、殉葬などの事情からいって、あるいは現在では寺社等の一部に変じているの可能性も考える必要があるのかもしれない。その場合、社寺に関係する墳墓では、筑前には、福岡市博多区の那珂八幡古墳の墳頂部に那珂八幡社が祀られ、筑紫郡那珂川町の安徳大塚古墳(現人塚)は仲の現人明神の古宮跡といい、宗像郡津屋崎町の宮地嶽古墳は宮地嶽神社の境内、北九州市小倉南区の荒神森古墳はその後円部頂部に荒神社、などの例がある。浮羽郡吉井町若宮の若宮八幡宮境内には、月の岡古墳(全長95Mの前方後円墳で、前方部には三重の周濠)があり、その長持形石棺が社殿の下にあるといい、同じ境内には日の岡古墳(同、全長86M、周濠あり)もある。

         (補論へ続く)



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