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                  卑弥呼の冢補論    
                        −祇園山古墳とその周辺
                               



         卑弥呼の冢補論祇園山古墳とその周辺



  はじめに−卑弥呼の墓の候補

  卑弥呼の冢について、種々の角度から検討を加えてきて、その殆ど最後の段階(平成13年〔2001〕4月初)で、卑弥呼の墓が久留米市御井町字高良山(旧・筑後国御井郡)にある祇園山墳丘墓(一般には祇園山古墳という)に比定するのが現時点では最も妥当ではないか、と思いついた。実のところ、卑弥呼の墓は必ずしも現在まで残っているかどうかの保証がなく、あるいはもう現存していないのではないかとさえ思われた。北九州の弥生終末期の墳墓は低墳丘のものが割合多い事情にあり、既に消滅ないし削平された可能性も十分あると考えていたわけである。
  従って、これまで30年ほど、邪馬台国を含め古代史関係の検討を続けてきたが、現存する具体的な墳丘墓・古墳のどれかに比定しようとは、端から思っていなかった。また、敢えて比定することもない、とも当初は感じていた。 


  実は、2006年の新春になって気づいたことであるが、八王子在住の在野研究者・村下要助氏は、その著書『邪馬台国は決定した(前)』(1986年刊行)で、「祇園山古墳こそ、高良山の女王初代卑弥呼の墓にまちがうものではない」と断言されており、この認識を1980年に持ったことを記されている。
 この先駆者に対して、深い敬意を表するものである。
 こうした事情にあるので、私の検討は、村下氏の検討とはまったく別の形で進められ、同じ結論に至ったものであることを記しておきたい。


  また、田中幸夫氏が久留米郷土史研究会誌の『郷土久留米』11所載の「魏志の邪馬台と大和の神話」という論考(1970年代の発表か)で、祇園山古墳が卑弥呼の冢そっくりだという記述をしているとのことであるが、同論考を具体的には見ていないので、これくらいにとどめる。



 卑弥呼の墓については、邪馬台国畿内説の立場では箸墓古墳に比定する説が多いことは承知しているが、同古墳について卑弥呼にしろその後継者の墓にしろ、比定するのは年代等で極めて無理が大きいと考えていた(大和朝廷の実質初代の崇神天皇の陵墓とするのが妥当か、と考えられる)。
 一方、北九州の範囲の墳墓では、管見に入ったところでは、宇佐市の亀山(小椋山。その上に宇佐神宮が鎮座)とか赤塚古墳、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)では坂田の権現塚古墳(直径約45M、高さ6M弱の円墳)とか堤遺跡、同町山門の藤ノ尾車塚遺跡(江戸中期に後漢鏡三面を出土と伝)、さらには京都郡苅田町の石塚山古墳などに当てる説等々が出されてきた。しかし、豊前の宇佐にしろ、筑後の山門郡等にしろ、邪馬台国の所在地としては疑問大であり、あげられる古墳等が年代的にも不適当だと考えられた。それらの諸説のなかには、祇園山古墳説もあったように認識していた。それでも、殆ど気に掛けずにいたのである。

  奥野正男氏は、卑弥呼の墓の可能性を探るとして北九州の弥生終末期から古墳発生期の五つの墳墓(@平原方形墳、A福岡市早良区の宮の前C地点墳墓、B祇園山古墳、C佐賀県神埼郡の西一本杉古墳、D宇佐市の古稲荷古墳)をあげつつ、そのなかで豊富な出土鏡などから、いわゆる平原王墓@を卑弥呼の墓とみている。しかし、この説では当該墳墓が本国ではない伊都国領域にあることは、いかにも不自然である。奥野氏があげる卑弥呼の死に特殊な事情があったとしても、これに裏付けがあるとはいい難い。邪馬台国甘木説(朝倉市説)に立って、三輪町(現・筑前町)の大塚古墳(径約30Mの円墳)を卑弥呼の墓に比定する説もあるが、規模はともかく、構造・年代等に説得力を欠くように思われる。
  ところが、石野博信氏の記述のなかに祇園山墳丘墓という表現を見て、そんなに古い墓なら、一応検討してみる価値もあるかもしれないと思い、できるだけ丁寧に調べてみた。その結果、現存墳墓のなかでは卑弥呼墓に最も近いのではないか、と思われた次第である。その辺の事情を、先の本論に続き、卑弥呼冢論補遺として平成13年(2001年)段階で整理したのが本稿である。 


  

  『魏志倭人伝』には、文献上の最古の墓として「卑弥呼の冢」が出てくるが、その内容には、@「大いに冢を作る、径百余歩」、A「殉葬者の奴婢百余人」、B墓に槨がないこと、があげられる。私は先の本論(『卑弥呼の冢』)で、「径百余歩」とは30Mほどの円形ないし楕円形の墓であって、高さがあまりないもの(せいぜいでも5Mほどか)、として解釈されると考えた。このほか、同書の「その山には丹あり」「朱丹をもって身体に塗る」という記事等から、墓・棺の内部に丹朱を用いたことが十分考えられ(吉野ヶ里の墳丘墓等でも、棺内に水銀朱が敷きつめられていた*1、これが北九州にある場合には、年代や地位からいって石棺をもち、見晴らしの良い丘陵部に位置していた可能性が大きいとみていた。築造年代が三世紀中葉頃で、邪馬台国の都の近辺にあることは、まず必須である。
 こうした条件を満たす墳墓が、私が邪馬台国の中心領域とみた山本・御井郡一帯(久留米市域*2ないしはその近隣の筑後川中流域にあるのか、という問題でもある。
 
 祇園山古墳の概要とその検討

 祇園山古墳(墳丘墓)は、久留米市の高良大社の麓の西へ延びる丘陵部最先端にある「方墳」とされる墓である。基部の一辺が約23〜24M(一に24〜25M)という不整形であり、もとの高さが推計約5〜6Mで、九州ではきわめて稀な葺石を二段にもつ。その墳頂部にあるひときわ巨大な箱式石棺内法長約2M、幅約75CM)が内部主体となっていて、明確に槨がない。かって盗掘があって、その遺物は全く散逸しているが、棺内及び蓋裏全体には朱(赤色顔料)の塗布が見られる。墳裾の外周地域で調査された範囲からは、合計62基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)にも及ぶ小型埋葬施設が検出されて、残存した第一号甕棺からは成人女性の人骨や鏡片・勾玉・管玉・刀子も出土しており、墳裾の各所から古式土師器・須恵器等が出土した。副葬された鏡については、墳裾の第一号甕棺内に後漢鏡とされる画文帯神獣鏡片が残るだけであったが、当墳から出土したと伝える三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡が近くの高良大社に所蔵される。以上のようなところが、その概略といえよう。

  こうした事情からみて、筑後地区最古の大型古墳とも弥生終末期の墳丘墓ともいわれてきており、その築造時期については、早い見方で三世紀代、あるいは三世紀末、遅いもので四世紀初頭頃とか四世紀後半とされるなど、諸説が出されている。森浩一氏は、「その甕棺の型式や少量の副葬品からみると、顕著な古墳としてはひじょうに古く、弥生時代の末の様相をのこしているようである」とみている*3
  墳裾の多数の小型埋葬施設については、共同体墓所とみる見解もあり、その場合、古式須恵器を出土した竪穴式石室以外は、方墳を中心に順次作られたと考えられている(渡辺正気氏*4)。これに対し、森氏は、「陪葬的なものか、それともまだ弥生以来の共同墓が伝統をのこしながら、首長の墓だけ高塚を築いたのか、いずれにしても重要な問題をなげかけている」と記述する。
 こうした事情から見て、主体部以外の墓のなかには一部後世のものもあるかもしれないが、主体部に一つだけ巨大石棺があり、その墳裾外周という位置には多数の小型墓があるという状況からみて、共同体墓所という見方は疑問である。むしろ、大半は同時の埋葬(すなわち、殉葬か)ではなかろうか、と私には考えられる。

  わが国の古墳を見ると、ほかにも墳裾等に埴輪円筒などの棺を埋葬する例がいくつかある。例えば、奈良市の佐紀古墳群にマエ塚古墳という円墳(径48Mほどで、現在は削平される)があり、墳裾には円筒埴輪列があった。その墳丘東斜面の中段で一基、外堤では三基、計四基の埴輪円筒棺があって、なかから実際に人骨も出ている。同墳からは内行花文鏡など九面の倣製鏡や多量の鉄製刀剣等が出土して、四世紀中頃ないし後半の築造とみられている(近くに位置する佐紀陵山古墳から考えると、時期は四世紀中頃でよいか)。
 長野県更埴市(現・千曲市)の森将軍塚古墳(墳丘長約90M)でも、前方部墳裾の箱形石棺6基を含めて60基ほどの多様な埋葬施設が墳裾に存在する。同墳は、三角縁神獣鏡片や鉄製刀剣・勾玉・土師器などが出土し、四世紀後半頃の築造とみられている。これら墳裾等の棺(前者の四基、後者の六基)は、殉葬の可能性が強いのではなかろうか。三世紀後半から四世紀に栄えた金官伽耶の超大型木槨墓では、数人(申敬氏に拠れば三、四人ないし六人)の殉葬が確認されており*5、人数的にもこれに相応するものとみられる。

  祇園山古墳に殉葬が伴ったとした場合、石蓋土壙や竪穴式石室に複数体の埋葬があれば、百名を超える可能性も出てくる。これは私独自の見解ではなく、「百体ほどの遺体」とみる見解もある。現に同墳では、外周部の竪穴式石室(H7)に「差し違い二体葬」が確認されており、ごく近くの祇園山第二号墳墳丘下の石蓋土壙墓でも、同様に差し違い二体葬が見られる。『魏志倭人伝』の記事には「殉葬者、奴婢百余人」とあるが、これにも解釈を要しよう。すなわち、匈奴の単于の殉葬に関して、『漢書』では近幸の臣妾が数十人も殉葬されたとあるが、一方、卑弥呼には男子一人以外は多数(千人)の婢が仕えて鬼道を助けており、「婢」とは侍女・下女を意味し、卑弥呼墓の殉葬者はこの中から出て、その大半が女性ではなかったか、ともみられる。
 その意味で、前掲の第一号甕棺からは成人女性とみられる人骨が鏡片・玉類とともに出土したことに留意される。おそらく、侍婢のうちでも最も主だった女性(巫女か)ではなかったか。同墳は、築造後も祭祀の対象であったものらしく、後世の須恵器なども付近に見られるから、一概に言えないものの、周囲の各種墓のすべてが後世の墓だとは必ずしも言い切れない。
  祇園山古墳の形状は、図で見る限り、原型でもほぼ方墳とみられるが、樋渡墳丘墓のような多少とも楕円形(二段重ねの底部のほう)であったのかもしれない。二段部分まで考えると、古墳時代の古墳とは同類ではない要素がここにある。あるいは、「径」には「斜径」という語もあり、同墳の斜径を計ってみると約33〜35Mとなり、これが「径百余歩」の意味するものだったか。

  古式土師器については、森貞次郎氏が、「三世紀前半における邪馬台国の時代は、弥生文化終末期から古式土師器の初頭におかれようが、土師器があきらかに、九州各地の弥生式土器の終末様式と接触している様相はいまいちだんと追求されねばならない」*6と記述しているから、祇園山古墳の古式土師器は、むしろ卑弥呼の時代にふさわしいといえよう。西新式並行期という評価もあるようである。箱式石棺や棺内の朱の塗布も、当時のものとして適切である。
  次に、出土した半円方形帯鏡片については、小田富士雄氏が「祇園山遺跡出土鏡は全体の図像不詳ながら同行式の獣形、銘帯、方形帯に各一字の銘文を入れていて、後漢晩期の製作であろう」と評価する*7。類例の多い神獣鏡とはならず、甕棺墓出土の鏡としては異例の型式とされる。銘文のうち判読できるのは多くないが、副銘のなかに「善同出丹□」(「善き銅、丹陽に出る」の意か)と見えて、三角縁神獣鏡銘文に多く見える「徐州」ではないことにも留意される。欠字があるので「丹陽」とは言い切れないが、この地は長江南岸の江蘇省鎮江市のなかにある丹陽市として現在も地名が残る。
 当墳から出土したとも伝える三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡については、その確実な出土地は不明である。従って、慎重な検討が必要であるが、筑紫野市武蔵の原口古墳や神戸市東灘区の求女塚古墳から出土の三角縁神獣鏡と同范鏡(同型鏡)なら、久留米市内の別の近隣古墳から出た可能性もあろう。しかし、ごく素直に考えると、三角縁神獣鏡の最も古い(原型的な)ものは、紀年の示すような三世紀中葉頃に邪馬台国の領域で製造されたという可能性もあるかということにもなろう*8
  このように見ていくと、祇園山古墳については、「方形」に近いという墳丘形状及び推計5,6Mという高さがやや気になるが、年代・規模等の残りの条件は卑弥呼墓に適合する。卑弥呼の墓が仮に同墳であったとしたら、帯方郡太守張撫夷の墓と同じく方墳であり、その規模を各辺5Mほど小さくしたくらいで、高さもほぼ同じ、ということにもなる*9。ここまでの検討の結論的なものとしては、現存するわが国墳墓のなかで考えると、祇園山古墳は『魏志倭人伝』に記す卑弥呼墓の条件に最も近いのではないか、と考えられる。
  なお、高良大社の近隣あたりでは、同墳を卑弥呼の墓に擬する見方もある模様である。これを具体的に主張する説は、端的には記憶・管見に入っていない。先日、インターネット上で探索したところでは、僅かに一人だけで、一九八六年当時小学六年(のち阪大大学院生)であった西村琢郎君の見解(邪馬台国も久留米市域とみる)があげられる。「古代史の海の会」会員の半沢英一氏も、1996年秋に吉野ヶ里で開催されたシンポジウムで、「祇園山古墳が気になるが、断定はしていない」と述べられる*10

 
 

 前項は、いくつかの概説的な記事を整理したものであるが、祇園山古墳等を含む久留米市域の主要古墳については、『久留米市史』の第1巻1981年)及び第12巻資料編考古(1994年)には、かなり詳しい記述があって示唆深い。その基本となる福岡県教育委員会による報告書『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告27』(副題は福岡県久留米市所在祇園山古墳・七曲山両古墳群の調査。1979年刊、教育庁文化課の石山勲氏が主に執筆)の記述は、更に詳しく丁寧に書かれており、これも十分踏まえる必要がある。
 先般(2001年5月中旬)には、私は現地に足を運んで祇園山古墳とその周辺・遺物を実見してきたが、このときの事情も考慮したい。この項では、各種資料の記述等を紹介しつつ、現時点での知見からさらに検討を深めたい。
 
 調査と保存の経緯

 女王卑弥呼の運命は数奇なものであったかもしれないが、祇園山古墳の発見とその後の保存はまさに数奇的であった。上掲の調査報告書等に基づき、そうした経緯をまず紹介させていただく。

  祇園山古墳の発見は、九州縦貫自動車道の建設のための準備として、日本道路公団が福岡県史跡調査会(長沼賢海会長)に委託した埋蔵文化財包蔵地の分布調査によるもので、昭和41年(1966)のことであった。これをうけて、同墳の調査が昭和44年に開始され、47年まで計五次にわたり行われた。
 その前半の調査(第T次〜第V次で、昭和四五年までの調査。調査主任は国士館大学考古学研究室・大川清助教授)によって、「本墳は葺石を持つ方形墳で、大型の箱式石棺を内部主体とする古式古墳として極めて重要な意義をもつことが明らかとなった。加えて、裾部外周に本墳と同時期に営まれた可能性もある主体群が確認されたことにより、本墳の現状保持がより強く意識されるに至った」と調査報告書にある。縦貫道の当初建設計画(昭和40・41年に策定)では、その工事を行えば、「本墳は切土部分に属するため本線とこれに付設される側道部分によって東と南の両隅角部が辛うじて残る程度−方墳としては実質的に全壊状態となり、裾部外周にその存在が予測される主体群もまた破壊されることになっていた」のである。
  そこで、第V次調査終了後の昭和46年2月、県教育委員会は道路公団に対して本墳の現状保存を申し入れ、その学術的意義から路線変更ないしは工法上の設計変更を行って現状保存をはかるべきだと主張した。公団では、本墳の前後の建設工事が進捗している段階では、現実問題としては変更不可能だと主張したが、地元御井町では幅広い層の市民による現状保存運動が強く起り、同年10月には久留米市議会も保存の請願書を採択した。こうした事情のもとでその後、地盤の脆弱性によるとして60%の保存率という案の提示が公団からなされた。この提示への反発など更に紆余曲折があったものの、最終的には新工法の導入により方墳墳丘の約80%の保存を計る設計となり、これに基づき辛うじて部分保存がなされた。保存を熱望する市民の声が建設工法を改良し、保存率も60%から80%へと高める原動力となった、と報告書には記される。
  この縦貫道の南関I.C.(熊本県玉名郡南関町)から八幡I.C.までの約104KMの間には、古墳七十数基を含む多数の遺跡があったが、これらは既に消滅し、僅かに本墳と小郡市・三沢遺跡の二遺跡が部分保存されたにすぎないという。いま、祇園山古墳はその西側墳丘がかなり削り取られ、その擁壁の下には九州自動車道が緩いカーブを描いて南北に走っている。残る本墳は県指定の史跡として保存されるものの、雑草がかなり生えるなど、現在の外形保存状態はあまり良くない。主体部の棺もバイク被害により蓋が破壊されて別途保管がなされ、残された石棺の枠が殆ど土に埋もれつつ見えている。
  それでも、よくぞ見つかり、そして部分保存にせよ、よくぞ残ったといわざるをえない。それというのも、本墳を含む地が、『高良記』に大祝家の祖・日往子尊(ひゆきこのみこと)の廟とする所で、かって銅鉾四本が発見されたという記録もあり、高良山三聖所の一つで名高い「高良山の一つ火」もこの丘から出たと伝えるなど、聖なる地と伝えていた事情が地元市民に対し大きく作用したようである。ただ、この地を実見して、なんとか地下を通してでも完全保存ができなかったのだろうか、という感じも強くする。
 
 県教育委の報告書の概要

  県教育委員会の報告書に基づき、祇園山古墳について留意すべき諸点を次に掲げる。各項記述の末尾にある括弧内の「なお」で始まる文は、私見による説明記述である。

@立地・構造  耳納山系の西端の高良山頂から西の平野に向かって派生する丘陵の先端部に営まれ、筑後平野の西半を一望の下に見渡すことのできる、平地との比高約10Mの独立気味の低台地(赤黒山)の上に位置しており、占地の意図を窺わせる。
  その高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、この削出しの範囲は、西辺を除けば、いずれも葺石最下段線よりも広く、底辺長は東西約25M、南北約24Mとなる。これを基部にして、上部に盛り土がなされるが、基部の地山整形作業は裾部外周にも及び、辺により異なるものの、3〜13Mの幅で平坦面を設けている。

(なお
、同墳を葺石線で見る場合、底辺長が各々約1M減で、各々24M、23Mとなる。それ以上に留意されるのは、報告書に添付の測量図(Fig.6。1/300)を見ると、削出しの線より下にもう一つ区画の線があって墳墓が一層大きくなり、二段重ねの構造のようにもみられる。これに基づくと、下段の東西が約30Mに延びて、総じて楕円形のように見え、このなかに外周部の多数の主体群が殆ど収まる。添付図報告書第4図)を参照。
  これに関して、弥生中期の築造とされる吉野ヶ里墳丘墓が、変形八角形ないし長方形、長楕円形ともいわれる下段(南北39M、東西26M)の上に長方形の墳丘(南北24M、東西15M)を重ねた構造をもつことが想起される。この吉野ヶ里墳丘墓や七曲山第三号墳(後述)では、地山整形と盛り土が見られており、これらの技法をもって直ちに「定形化」した古墳とはいい難い。両墓とも共通して、周辺の平野部を遥か遠くまで一望できる眺望の良好さという「占地」もしており、被葬者の地位の隔絶性を示唆する。

A保存状態等  墳頂部平坦面の縁辺部および南斜面の一部が変改を受けているものの、墳頂部には陥没がなく、総じて墳丘の遺存度は極めて良好と思われた。外形は、「方墳の各辺は直線とはならず中央部が稍膨らむ弧を描き、各隅角部は崩壊して不明瞭であるが隅丸となっている」と記される。
なお、これに加え、上掲測量図Fig.6を見ると、墳頂部もやや円状になっているように私には見える。「隅丸」については、残存部分を実見して確認したが、総じて端的な「方墳」とはいい難い

  現在高は、各辺裾部外周の高さが一様でないため、北・西側からは約5M、南・東側で約4.5Mであるが、封土の流失分を考慮すると当初の高さは、北・西側からみて約六Mと推定される。
なお、当初の高さは、現存の高さより幾分高かったとみることに異議はないが、南・東側から見た約五Mというところか

B葺石  現状では墳頂部平坦面(一辺約10M)近くの上半部の葺石を失っているが、当初は、裾周り(第1段。墳丘範囲を示す)と削り出した上面付近以上(第2段。盛土の流失防止)の二段に葺かれていたと考えられる。多量の石が葺かれた築造当時の本墳は、鋭い稜線を見せて周辺を圧するかのように小丘上に聳えていたと思われる、と記される。
なお、近藤義郎氏等*11によると、弥生終末期の岡山県の方形ないし長方形の墳丘墓では、岡山市都月坂二号墓や総社市伊与部山一号遺跡など、墓裾に葺石の先駆ともいうべき石垣状の列石がみられる例も知られる。前者は、一辺が20Mほどの方形の墓域で、高さ約2Mに自然の丘陵を方墳状に削り出している。その墳上の平坦面には、中央の竪穴式石室のほか、土壙墓十、配石墓一と合計十一の埋葬例が出ている。祇園山古墳と似たような墓といえるが、そうすると、葺石を二段に巡らすなどの事情があっても、古墳として「定形化」したとか、古墳期の築造だとはいえないことになる。また、貼石・列石は島根県江津市・波来浜遺跡で先駆的形態が認められる、と県教育委の報告書に記される。同遺跡は弥生中期後葉より後期前半にかけての時期の墳丘墓群とされる
  
  このほか、当該報告書を踏まえて、本墳の性格や築造年代を探るため、外周部の出土遺物などいくつかの問題点について更に検討を加えたい。本墳主体部の出土遺物が皆無なため、直接の年代決定は困難であるが、様々な観点からの総合的な検討が必要となる。まず、これまでの検討を概括してみると、次のようなものであろう。
  大塚初重氏は、当初(1975年頃)、主墳の裾部周辺に62基の同時代の埋葬例があることに着目して、「特定の人のための埋葬例と、それに従属的な関係で存在しているごとくみられる。特定の個人墓プラス集団墓、これは、北部九州のおける弥生時代の最終段階で、前方後円墳などが出現してくる直前における北部九州社会の実態が、いみじくも墳墓にあらわれているのではないか」と述べ、九州における前期古墳と比べて質的に大きな差があるとしている。従って、祇園山遺跡(古墳とはしていない)を弥生時代の終末、もしくは古墳時代前期のごく初めの四世紀初頭に位置づけ、この段階ではまだ前方後円墳は出現していないであろうとの見解を述べる*12。現在では、古墳発生期を四世紀初頭より早いとみる見解が多くなっており、その場合は、三世紀後半頃ということになる。
  これに対し、発掘調査に当たった県教育委の前掲報告書(1979年)では、このような見解を退け、はっきりと前期の畿内型古墳の範疇に含まれるものと考えた。ただ、その一方で、集団墓などで前代の墓制を踏襲しており、外地系と在地系の両要素を合わせもつものといえる、ともみている。

  この報告書の関係結論部分を、次に引用させていただく。
(イ) 弥生時代の北部九州では、「視覚的な高まり−墳丘の出現が、春日市・曰佐原E7号(箱式石棺)の「後期後半」、京都郡犀川町・山鹿遺跡2号石棺の「弥生時代終末期」を遡り、かつ、その後の発展段階を辿れる例は知られていない。つまり、前述の山陰・山陽両地方とは異なり、北部九州では発生期古墳と前代の墓制との間に構造上のギャップがあるように思われる」
(ロ) 祇園山古墳についていえば、「周辺にその先駆的墳墓が知られていない現時点では、一辺23〜24m、高さ6mの本墳の堂々たる墳丘が当該地域における前代からの墓制変遷の到達点とは考え難く、規模・構造において前代の墓制とは断絶があることは明らかである。従って、本墳は完成・定形化した姿で突如として出現したとしかいい様がなく、この意味で山陰・山陽両地方の発生期古墳とは同列に扱えない」
(ハ) 以上のようにみるならば、「祇園山古墳は定形化した前方後円墳の成立に先行するものではなく、また、築造の契機に外的要因が強く作用したであろうことが推測され、本墳は小田富士雄氏が提唱された「畿内型古墳」の範疇に包括されるものと考える。…(中略)…敢えて推測すれば、祇園山古墳は、九州における最古の畿内型古墳とされる京都郡苅田町・石塚山古墳、大分県宇佐市・赤塚古墳の両前方後円墳と相前後して営まれたものと思われる」
(ニ) 結論としては、「以上を要するに、祇園山古墳は、その外形に畿内型古墳としての性格を示すと同時に、墳頂部内部主体の構造と全体として集団墓としての構成をとる点で前代の墓制を踏襲しており、外来系と在地系の両要素を合わせもつといえる」と記される。
  この報告書の発表以降では、ここでの結論がほぼ踏襲されてきた。例えば、『久留米市史』でも、大塚初重氏が編者に参加する『日本古墳大辞典』『日本古代遺跡事典』や石野博信編『全国古墳編年集成』でも、ほぼ同様の内容であり、古墳T期(あるいは古墳前期の前半)に本墳の築造年代を位置づけている。しかし、結論のみが一人歩きをしている感も、私にはある。考古学者は実地に当たってもっと検討すべきではないのだろうか。
 
 今日時点での再検討

  県教育委の報告書について仔細かつ具体的に検討してみると、その考え方の基礎等には疑問点がままあり、今日時点では別途、再検討を要するものと思われる。同報告がなされてから既に二十余年の歳月が経過し、この間、吉野ヶ里の墳丘墓など、「弥生墳丘墓」といわれる高塚墳墓が北九州で次々に発掘されてきた事情にもある。久留米市とその付近にも、現在消滅のものも含めて多くの古墳や墳丘墓があったことが分かってきた。従って、「山陰・山陽両地方の発生期古墳とは同列に扱えない」とはいえないことになり、また、前代の墓制とは断絶があって突如現れたといえる部分と、必ずしもそのようにはいい難い部分の両面があるといえよう。
  例えば、平成二年に発掘された同市内の藤山町の釜口遺跡に注目される。祇園山古墳から三キロほど南方の藤山町と近辺には、甲塚古墳(帆立貝式の前方後円墳で、全長約75M)や釜口古墳・ひょうたん山古墳群などがあるが、そうした地域の遺跡である。釜口遺跡の円形周溝墓は、果樹畑として墳丘の大部分が削平されて主体部下半部と円形の周溝(直径13M)が残るにすぎないが、箱式石棺の破片や祭祀用の土師器とみられるものが出土した。これは耳納山地西端周辺部において新たな発見であり、祇園山古墳等への空白部分を埋める貴重な資料と思われる、と『久留米市史』第12巻に記述される。甲塚古墳の付近の甲塚遺跡にも、二、三基の円墳があり、径約10M高さ約3Mの円墳が頂部が陥没して盗掘された形跡をもって残存している。
  また、高塚をもつから定式化された古墳だととらえる見方に対しても、見直しを迫るものといえよう。このほか、祇園山古墳を紹介する他の書にも、誤解を招きやすい記述が多々あり、これらも適宜、取り上げていきたい。その検討の重要なポイントとしては、@祇園山古墳が「定形化」した「畿内型古墳」かどうか、A墳頂部被葬者と裾部外周の多数の埋葬例との関係をどう考えるか、というところであろう。
 
(1) 裾部外周主体群と方墳との関係
  当初の調査にあたった久留米市教育委員会(その後、高良大社文化研究所長)の古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、それらの出土品に鏡・装身具・鉄器のほか土師器・須恵器があること、高良大社所蔵の三角縁神獣鏡がかって祇園山古墳で発掘されたと推定されること等の事情から、同種の鏡を出土する古墳の全国的な編年のうえで、四世紀後半の古墳かとみた、とのことである*13。出土品の問題は次項以下で検討することとして、まず方墳主体部と周囲の埋葬主体との関係を考えていこう。

  祇園山古墳辺りが高良山社家の廟所として祀られてきたという事情があって、当該方墳の墳丘上表と周囲からは、日常雑器を中心とする歴史時代の土器が多量に出土した。同地一帯の地形等を見る限りでも、この辺りが祭祀対象となったのは、方墳主体部が設置されてから後のことと考えるのが自然である。従って、古賀氏のいう「地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットした」ものとは、認められない。方墳の裾部外周の主体群には、蓋石が原状を保つと考えられないものが多かったが、これは方墳築造時ではなく、盗掘・祭祀など後世の事情に因るではなかろうか。『久留米市史』では、次のように記される。
  「裾部外周の主体群は、第一号石蓋土壙墓に見られるように、蓋石が原状を保つと考えられないものが多く、撹乱時に再び覆われたものと推定されている。また、墳頂部石棺も盗掘されている。方墳の墳丘上表ならびに周囲から、多量の日常雑器を中心とする歴史時代の土器が出土している。これらは主として十〜十二世紀初頭の時期が考えられる。これら歴史時代の土器群は、墳頂部の盗掘や墳丘裾部の撹乱との関連が考えられる」 
  「方墳の裾部外周に所在する主体群は、方墳に対する主軸方向ならびに頭位に一定の規則性が見られ、二基で一組の単位を構成する傾向がある。また、第一号甕棺墓は、糸島地区の甕棺専用大型甕形土器と系譜的に連なってその最終末期の一つに位置付けられ、方墳の構築に先行するものではなく、大多数の主体についても同様と考えられている。このことは、方墳と裾部外周主体群とは基本的には併存すると考えられており、…」
  県教育委の報告書でも、次の諸点の記述があり、「基本的には裾部外周主体群と方墳とは共存関係にあると判断する」とされる。
  「石蓋土壙墓・箱式石棺・竪穴式石室の3者ともプランは頭部が足部に比べて巾が広い例が多く、後述する他の諸特徴からみても三者は系譜的に密接な関連を有する」
  「石蓋土壙墓と箱式石棺には、外周をさらに一段掘り下げた有段例とそうでない無段例とがある。…(中略)…無段例が上部を削平された結果によるものではないことは、北辺西半でのD14・21・33、H11・14の密集度とこれらの蓋石のレベルが略同高であることを勘案すれば明らかである」(宝賀註;Dは石蓋土壙墓、Hは箱式石棺墓
  「頭部に板石を立てるD19例は、本群における石蓋土壙墓と箱式石棺墓との同時性を示唆するものであろう」
  「以上を要するに、営造期のズレによる小異はともかく三者の間に特に顕著な差異は認められない」
 基本的に裾部外周主体群と方墳とが共存関係だと判断される理由としては、
1. 方墳の墳丘下に主体が認められない。
2. 裾部外周主体群は、方墳構築時の地山整形作業によって形成された平坦面あるいは斜面に営まれている。換言すれば、方墳構築時の地山整形作業によって破壊されていない。
3. 裾部外周に所在する主体の主軸方向は区々であるが、全体として方墳を中心として一定の規範のもとに築造されている。
  これらの事情により、第一号甕棺墓をはじめとして、当該方墳と同期あるいは若干後出する主体の存在が明らかとなった。逆に方墳に先行する例は、確認されていない。なお、竪穴式石室をも含む裾部外周主体群の営造期にかなりの巾があることは既述のとおり(註;土器年代等からの推定。後述)である、と報告書では結んでいる。つまり、従来の見方にたてば、土器の示す年代の巾は一世紀を軽く超えることになり、これを外周主体群全体の造営期間とすると、五世代以上にわたっての造墓を想定することになると記す。その一方、これら主体のうち、重複するのは二例に限られ、かつ、埋葬遺体の頭部の位置に規則性が存在することから、「一部の竪穴式石室を除く裾部外周主体群の大多数は、比較的短期間(註;他の箇所では「半世紀前後」と記述)のうちに継続的に築造されたとみるのが穏当であろう」と結論し、「この被葬者達は、墳頂部被葬者()がよって立つ基盤の中核を構成した人々であったとみられ、主体数からみても、血縁的紐帯でのみ結ばれていたとは考えられない」とも記述する。年代巾の推定の基礎となった土器については、後述するが、それ以外の記述は概ね妥当な見解と考えられる。

  こうしてみると、裾部外周で確認された多数の主体のうちの殆どが、当該方墳とほぼ同時期の築造とみられることになる。また、祇園山古墳と小さな谷を隔てて南約百Mの地には、四基からなる径15M以下の小円墳群(祇園山古墳群)が存在する。このうち、祇園山二号墳では、その墳丘下及び周辺部で、石蓋土壙墓二基、箱式石棺一基、壺棺一基(布留U式併行期)という埋葬遺構や、中世(十二、三世紀代)の土壙墓一基も発見された。同墳には石室の構築がなされており、須恵器・土師器などの出土物の事情も併せて、六世紀中葉以降の築造とみられているが、かろうじて古墳と確認されたという他の古墳や埋葬遺構が全てこれと同じ事情・時期かどうかは定かではない。なかには、祇園山古墳の広い意味での兆域内にあって同墳と密接な関係をもった墓があったのではなかろうか。
  なお、県教育委員会の報告書では、祇園山遺跡を集団墓とみてか、「墳頂部石棺への追葬が行われたことは大いにあり得るが、三世代以上の巾をもつとは考え難い」と記すが、弥生終末期の墳墓であれば、大塚初重氏のように、集団墓ではなく、特定個人の墓とみたほうが妥当であろう。墳頂部石棺には遺存物がなく、追葬の証拠は全くない。

(2) 第一号甕棺墓と出土した鏡片
  外周部の岩盤を穿った浅い墓壙内に営まれた第一号甕棺墓(K1)は、方墳の北隅角部から約4M北に斜交して営まれており、「その存在を全く予期していなかった」と報告書に記される。そのせいか、盗掘を免れたようであり、甕棺は口縁部を打ち欠いた上甕を下甕に挿入した形の棺で、上甕の底部は失われていた。内面には赤色顔料が多量に厚く塗られ、甕棺全体が急角度をもって据えられていた。弥生終末期の類例が乏しいが、福岡市・曰佐原遺跡の甕棺墓では「小形上甕が口縁部を大形甕に挿入していた」と報告された例がある。甕棺のなかに、僅少だが骨片が残存しており、報告書末尾に掲載の永井昌文氏の分析では、右腸骨体の一部とみられる等の事情から、小柄な成人女性のものとみられている。
  その副葬品として、半円方形帯鏡片と緑色の硬玉製の大型勾玉(全長五センチ弱)、碧玉の管玉二個、刀子が出土した。このうち、鏡片が重要なのは、後漢代に製作とみられる鋳上がり良好な優品で、北九州に分布例が多かったからである。
  当該鏡片は半月形で、現存最大径は10センチ強、現存重量は47グラム強であり、折損面のうち一端が丹念に研磨されて平滑である。一孔が穿たれており、鏡面側の孔縁には磨滅が観察される。現存部分の内区には神像の鋳出はなく、類例の多い神獣鏡とはならず、甕棺墓出土鏡としても異例の型式である。鏡片には右行の銘文もあり、副銘は「善同出丹□」、主銘は「吾乍明□幽凍三商周□無□配疆曾……番昌兮」と判読されるが、諸鏡の銘文に倣ってこれを補えば、「(漢有)善同出丹」「吾乍明三商彫刻配疆曾(年益寿)……番昌兮」として復元解読されている。
  こうした後漢鏡片は、殆どが北九州での出土例である。僅かな畿内の例では、大阪府の瓜破北遺跡で方格規矩鏡や内行花文鏡の破片、和歌山県の太田黒田遺跡、兵庫県の播磨大中遺跡でも内行花文鏡片が出土し、研磨して孔が穿たれている。畿内の弥生式土器第五様式の時代は弥生後期後半(二〜三世紀。九州の西新式の時期に対応)であり、この段階には、後漢の分割鏡や貨泉など中国大陸の舶載文物が畿内にも目について現れる時期であると下條信行氏は指摘する*14。弥生終末期の野方中原遺跡の墳墓でも、一基の箱式石棺を方形区画して内行花文鏡の鏡片が副葬されている。
  この後漢鏡片の分析は、賀川光夫氏によってなされ、「所謂北九州外域における後漢鏡片の出土背景」*15として発表されたが、北九州に興味深い分布圏を示すとされる。九州各地から出土した鏡片の二〇余点は、過半が箱式石棺から、残りは住居跡から発掘されており、王金林氏の整理*16によると、三つの特徴がある。それらは、@鏡を割ってその折損部を故意に磨滅させ、穿孔をもった一つの体に仕上げている(全形をとどめる倣製鏡の共伴例からみて、貴重な鏡の分与にあたり鏡不足を補う意味とみられる)、A分割鏡の多くが王莽時代〜後漢前半の製作といわれる方格規矩鏡と判断される、Bこれらの例では、たいてい一地一片という形で発見された、という特徴である。
  北九州から出土した前漢鏡とその分布は福岡・糸島平野を出ていないが、後漢の鏡片では出土地域を拡大して、東側は豊前の行橋一帯まで、西側は有明海沿岸まで及んでいる。これは、博多区辺りを中心に直径五〇ないし一〇〇キロにわたる範囲内で最も集中しており、最も遠いところでは一五〇キロにも及んでいる、とされる。賀川氏は、銅鏡片の分与権を握る最高権力者は、後漢の安帝時に多数の生口を献上した倭国王帥升(伊都国王か)ではないかとみる。もし、「この推論が正しいとすれば、鏡片の出た地域はちょうど邪馬台国が所在する地方であり、鏡片が故意に分割され各地に分与された時期は、ちょうど早期邪馬台国の時期である」と王金林氏は指摘している。

  しかし、賀川氏の前掲論考を丁寧に読んでみると、もう少し別の意味を持っていると私には思われる。氏の論考の文章や図から見て注意されるのは、次の諸点である。
 後漢鏡片を注意してみると、方格規矩鏡のほかは、後漢中葉以降のものとみられる内行花文鏡(連孤文鏡)・獣帯鏡・キ鳳鏡の類であり、なかでも内行花文鏡が多い。
 折損されて破片とし周辺を磨いて完形同様にした鏡が遺棄された時期は、弥生の後期初頭から終末期までの間にまとまり、終末期の「安国寺式土器」を共伴するものがある。
 これに対して、後期前葉から中葉にかけての土器を主体とする遺跡からの出土もあり、鏡片の埋葬については明らかに時期差が見られる。
 後漢鏡片の分布範囲はさらに広がり、南方では大分県の大野郡・二本木遺跡や竹田市・小園遺跡、熊本県の熊本市・運動場公園遺跡まで及んでおり、内行花文鏡が多い。
 最近の奥野正男氏の整理によると、九州の後漢鏡片は93例もあり、県別では福岡38、佐賀16、大分25、熊本9と北九州が圧倒的に多く(残りは長崎2、宮崎・鹿児島で計3)、鏡種別では方格規矩鏡28が最多、次が内行花文鏡20であってこの二種でほぼ半数を占め、さらに銘帯鏡6、獣帯鏡5などとなっている*17
  これら諸点に加え、久留米市祇園山古墳出土の獣帯鏡片、大牟田市潜塚古墳の内行花文鏡片等の事情を考えると、私には次のように考えられる。
@後漢鏡片は、弥生後期以降の数次にわたり、その時々の北九州勢力圏の盟主から各地の有力者に対して配布された。まず方格規矩鏡が主に、次いで卑弥呼のでた弥生終末期には、それより広い範囲で獣帯鏡や内行花文鏡が配布された。賀川氏は鏡片の伝世も考えるが、鏡のままでの伝世はともかく、鏡片としての伝世は証明されておらず、疑問に思われる。
A内行花文鏡片等の分布の南限は、北九州の北緯33度辺りまでに及んだ。具体的には、熊本市の白川北岸から阿蘇山を経て大分県竹田市・大野郡へかけてのやや斜めの線の辺りを境界とし*18、久留米市祇園山古墳を中心とする半径ほぼ90キロの範囲である。これは、中広形・広形の銅矛・銅戈の分布地域ともほぼ重なる。こうした地域を勢力圏としたのが卑弥呼の邪馬台国連合であったとみられ、これに対し、弥生期の青銅器分布が見られない九州中部以南の地域で盟主的存在であったのが、狗奴国ではなかろうか。

(3) 鉄製品などの副葬品
  副葬品採取の質量は、前掲の第一号甕棺墓K1を除くと、極めて貧弱である。未盗掘墓での状況も同様で、K1以外では装身具は全く採取されず、鉄器類を副葬する場合でも、1主体1個に限られる傾向がある。従って、K1と鉄製工具類が集中する構造不明のG主体ならびに剣数本を伴った原位置不明の1基の計3基は、本群中では異例に属する、と報告書に記述される。鉄製品としては、鉄製農具工具である厚鎌・錐・・手鎌・手斧鍬、武器として刀子・鉄鏃・剣・刀身状の不明鉄器があげられる。
  以上の報告からは、築造時に実際に副葬品が乏しかったかどうかは不明だが、大半が奴婢身分ならそれもありうるし、盗掘等の結果に因るものもあるのではなかろうか。
  弥生中期後半頃から、「輸入および国産の鉄製武器・工具が登場して、急速に鉄器の進出がすすんだことが、青銅武器の没落を促進したのであろう」という小田富士雄氏の見解がある*19。高倉洋彰氏は、「中期後半以降に武器形祭器と化した銅矛は、その分布から、航海あるいは交通に関する儀礼に用いられたと考えられている。その生産は中期後半〜後期前半の中広段階に福岡平野の須玖丘陵に集中する。以後、福岡平野、つまり奴国を中心として一元的に矛形祭器が生産され、流通網が整備されていく。航海・交通の祭器の掌握は、制海権・交通権の掌握にほかならない。同様の検証は銅鏡でもできる」として、奴国連合という領域があるとすれば、その領域に佐賀平野・筑後平野は含まれた、と指摘する。そのうえで、「北部九州に邪馬台国を求めるならば、それは奴国傘下の小国であり、倭人伝とは齟齬をきたすことになる」とまで結論づけられる*20
  この高倉氏の見解は、指摘の中段までは正しいと思われるが、結論については疑問である。邪馬台国の時代は、弥生時代の後期後半ないし終末期であり、既に中広形銅矛の段階(弥生後期前半とされる)ではなかったからである。邪馬台国王族を構成した天孫族は、鉄鍛冶部族であり、その当時はまさに鉄の時代に入っていたとみられる。弥生終末期において長大・拡幅化が頂点に達し祭器性が顕著な広形銅矛の分布圏は、朝鮮半島南岸や北九州の対馬から豊後・肥後の北部まで及び、さらに豊予海峡を挟んだ四国でも西部の伊予・土佐までが含まれていて、海洋的な広がりを見せる。この地域の中心部にあって当初、覇を唱えたのが青銅祭器をもつ奴国であったが(広形銅矛の製作工場が須玖坂本遺跡にある)、鉄器をもってこれに替わったのが邪馬台国だとみられる。広形銅矛自体も、筑前地域よりは若干少ないが、ほぼ匹敵するような出土量を筑後・肥前地域が示している。
 奥野正男氏は、弥生後期後半から終末期の墳墓の副葬品として、鉄製の刀・剣があり、九州北部でも貴重品で数も多くなかったが、これら副葬の武器こそ、当時の軍事集団の所持していた武器の水準を示すものとしている。同地の農具の鉄器化は、弥生中期末〜後期前半に一つの画期をみることができ、後期には、ナタ鎌・手鎌・鋤先・鍬先など農具・漁労具・生活用具などの広い範囲に鉄器がいきわたるとされる。鋳造の鉄斧は、現在八例を数えるが、うち六例が九州(熊本3、福岡3)で出土し、中国・朝鮮からの舶来とみられている*21

(4) 土師器・須恵器と石棺材
  土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、と報告書に記述される。しかし、ここでの「土師器」の意味を考える必要がある。というのは、弥生終末期の土器について、截然と弥生式土器と土師器に区分することは非常に困難であるとされるからである。
  弥生後期以降の土器について、一般に、北九州では「高三瀦式→下大隈式→西新式」と続き、近畿では「畿内第五様式→庄内式」と続くものとされる。「土師器」は古墳時代の素焼土器とされており、そのなかで布留式がはじめに置かれ、その前の庄内式や西新式は弥生終末期とするものが多かった。最近では、庄内式を古墳時代初期におく説(最古の土師器とみる説)が一般化しているともいわれ、西新式を庄内式や土師器と併行とみる説もある。
  柳田康雄氏は、西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)と考えている。宇佐の赤塚古墳では、周溝から出土した土器は布留式あるいは庄内式の新しいところといわれている時期のものとする。都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式最近では布留0式とするのが多い模様)において、それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、なかでも祇園山のほうを最古としている。なお、赤塚古墳と同じ宇佐市内には、内部主体一基の箱式石棺(安山岩製)と葺石をもつ古稲荷古墳という方形墳墓がある。同墓の一辺は20Mで、墳丘はすべて盛り土で作られて高さ二Mであり、北側に周溝が確認されたが、そこから出土の土器は形態・製作手法から弥生終末期の様相を示すとされる。こうした状況から見て、古稲荷古墳は赤塚古墳より先行するが、『日本古墳大辞典』でも「定形化する以前、発生期古墳の稀少な遺例として重要である」と記される。おそらく祇園山古墳と相前後する時期の築造ではなかろうか。
  土器に具体的な年代を与えるのは相当に難解であるが、卑弥呼が死去した二四七年頃当時の土器については、西新式土器(柳田康雄氏)、纏向2式ぐらい(寺沢薫氏)、庄内式の古いほう(都出比呂志氏)、と表現が異なるものの、ほぼ同様な見方がなされる。これらは昭和61年、いまから15年前の『三世紀の九州と近畿』(河出書房新社から刊行)というシンポジウムに際しての見解であった。それまでの弥生後期・近畿第五様式という常識的な見方を多少繰り上げたものとされている。いまでは、さらに繰上げ傾向がでている模様であるが、私は弥生後期後半ないし終末期のことで、当時の土器の見方はこれでほぼ妥当ではないかと考えている。
  さて、墳丘裾部外周から出土した土師器としては、複合口縁壺・高坏・坏は竪穴式石室(T12、T9)に伴うもののようである。これら土器は、四世紀前半に比定される例に近いとか、井上裕弘氏編年の「柏田U期」に比定される甘木市・神蔵古墳北西側くびれ部出土例よりも若干古式とかの時期評価がなされるが、原位置不明の土師器には、「柏田U期」に相当するとみられる壺・甕、「柏田V期」に相当するとみられる鉢・甕がある、と報告書に記される。この柏田遺跡は、春日市上白水にある縄文後期と古墳前期が主体の遺跡とみられており、在地系土器のほか庄内式・布留式といった畿内系土器も出土する。同遺跡からは中世にいたる各種遺物が出ており、その近くには弥生終末期の辻田遺跡もあって、柏田出土の土器を全て古墳期ものとすることもなかろう。神蔵古墳のほうは三角縁神獣鏡とくびれ部供献された一群の土師器から、四世紀後半に位置づけられているが、時期をもう少し早くみても良いのかもしれない。
  次に、裾部外周から出た第1号甕棺(K1)に使用された甕形土器がどのような編年かという問題で、これは祇園山古墳の築造年代決定に大きな影響がある。これまで出された見解では、弥生終末期あるいは最古の土師器とされており、県教育委の報告書でも、後期以降の変遷がある程度明らかな糸島地区との比較を行いつつ様々に検討のうえ、ほぼ同様な判断となっている。その結論的部分を次に引用すると、
  「K1の土器形態でいえば、甕棺専用大型甕形土器としての伝統を墨守・固執している点を強調すれば弥生式土器となり、丸底化を強調すれば土師器ともなり得る。要するに、誠に微妙な時期の所産といえる」
  「一方、K1は前節で詳述したように方墳と共存する。この存在形態を重視し、また古墳時代の土器を土師器とするとの立場をとれば、土師器として取り扱うべきものと考える」として、微妙な時期にあることをいい、結論として、
  「以上を要するに、第1号甕棺墓に使用された甕形土器は、甕棺専用大形甕形土器としてはその最終末期に位置づけられる」と記している。
  この報告書は、祇園山古墳を定型的な畿内型古墳ととらえる立場にあるので、これを疑問とするならば、K1は弥生終末期の西新式と同時期の土器とみるのが自然であろう。石野博信氏は、一般に弥生終末期とされる西新・庄内式期を古墳時代早期と位置づけるが、この時期に九州では集団墓から離脱し、大型墓が展開するとして、福岡県の妙法寺墳丘墓・祇園山墳丘墓を例にあげる*22。柳田康雄氏も、北部九州で墳丘をもつ特定個人墓が確認されるのは、西新式土器を出す弥生終末から古墳時代初頭であると記している。
 
 須恵器については、甕が竪穴式石室の内から採取された以外は、原位置をとどめない、ほかに・高坏蓋・甕が外周部から出土している、と報告書に記される。これら須恵器は、甕を除けば所謂古式須恵器として見慣れたもので、陶邑窯の年代基準に従えば、大略五世紀後半代に比定されると記される。しかし、県内でも、五世紀後半を遡る古墳に陶質土器が伴う例が、最近の調査によって増えつつある。製作地はともかくとしても、須恵器の国産開始以前に半島からの将来品を使用する時期が存在したことは明らかである。初期須恵器の流入を勘案すれば、県内における須恵器の副葬あるいは葬送儀礼への使用と生産開始期が全体的に繰り上がる可能性がある、とも同報告書に記される。
  小田富士雄氏によると、「須恵器の源流となった瓦質土器(楽浪式漢式土器)の流入は対馬・壱岐・北部九州の弥生後期遺跡にみられ、やがて陶質土器の伝来にまで継承されている」とされる。九州における須恵器生産は、T期(その開始は古墳中期と同じく、AD400年頃としている)から始まるが、それ以前の0期(弥生後期・古墳前期)では、瓦質土器(金海式軟陶等)・陶質土器(金海式硬陶・伽耶土器)が輸入されたとみている*23
  弥生前期末〜中期後半の遺跡とみられる吉武高木遺跡でも、多数の初期須恵器が出土したとされる(菱田哲郎氏*24)。夜須郡の小隈窯跡・山隈窯跡(ともに現朝倉郡筑前町)の調査で、高坏等の特徴を見る限り、陶邑の初期須恵器との隔たりはそれほど大きくないといわれる。北部九州では陶邑に先行して、より朝鮮陶質土器に似た須恵器が朝倉地域を始めいくつかの地域で生産されていた、と菱田氏は記している。
  こうしてみると、祇園山古墳の外周部から出土した須恵器が、かりに主墳築造と同時期のものであっても、須恵器だけから築造年代を算出することは困難といわざるをえない。なお、九州では『延喜式』による須恵器の貢納国として筑前のみが、土師器の貢納国としては筑前・筑後が定められており、土器製作は古くからの伝統技術とみられる。
 
  その他、内部主体の石棺に用いられた安山岩の板石については、一部に補充材を用いているが、側壁ならびに蓋には各1枚の大型板石を使用している。本墳の周辺では、緑色片岩系の石材の入手は容易であるが、これは強度に欠けており、このため適材として安山岩が選ばれたとみられる。この入手先としては、直線距離で二〇KM以上離れた耳納山系東端(現浮羽郡吉井・浮羽町辺り)か南方の八女市東部等の遠隔地にしか産出しないとされる。この安山岩の選択自体が本棺の隔絶性を具現するものといえよう、と報告書に記される。
  北九州では主として五世紀以降に、阿蘇溶結凝灰岩を用いての石人石馬類、石棺等の製作が盛行する特色ある文化が展開されるが、肥前・肥後・筑後を舞台とする各地勢力の統合・連合の動きの反映とみられる。そうした背景をもつ阿蘇凝灰岩の使用に先行する段階の所産が、安山岩の石棺とみられる。これらの事情は、祇園山古墳被葬者の活動年代及び勢力圏を示唆するものといえよう。 

 
(5) 「畿内型古墳」の意味
  様々な角度から祇園山古墳の築造年代を考えてきたが、総合すると弥生終末期とみるのが概ね妥当のようである。そうすると、次に「畿内型古墳」として捉えられるかという問題が出てくる。
  小田富士雄氏のいう「畿内型古墳」とは、その記述*25や斎藤忠著『日本考古学用語辞典』を踏まえて整理すると、畿内及びその周辺に流行した高塚古墳である。具体的には、@外観は、高大な封土(墳丘)をもつ前方後円墳(ときとして前方後方墳)、A内部構造は、整った狭長な竪穴式石室、B副葬品では、三角縁神獣鏡などの鏡類や玉類・碧玉製腕飾(鍬形石・石釧・車輪石という石製品)をもち、鉄製武器や工具類も含む豊富なもの、C立地は、丘陵や丘陵突端部という自然地形の利用、などといった特徴をもち(地域により、若干変容の場合もある)、それぞれの土地に発達した墳墓とは区別される。北九州では、豊前の石塚山古墳が外形・内部構造・副葬品の三者からみて典型的なものとされる。このほか、筑前の原口古墳*26、豊後の赤塚古墳などを第T期の畿内型古墳とされている。こうしたなかに、筑後の祇園山古墳・潜塚古墳はあげられていない。
  祇園山古墳が出現し、これを「畿内型古墳」と位置づけする見解は、筑後地方の古墳についての従来の認識を新たにするものである、と『久留米市史』第一巻に記述される。すなわち、「これまで有明海に臨む筑紫平野地域は、畿内から伝播した古墳文化の受け入れは、北部九州の沿岸地域よりは一歩遅れていたと認識される。そのことが、地理的事情もあって五世紀後半を中心とした横口式家形石棺や石人・石馬などの石製装飾物に見られるような、北部九州沿岸地域とは異質の地方色豊かな古墳文化を生み出したものと考えられてきた」ということである。
  しかし、本稿での検討を通じての結論は、祇園山古墳は定形化した「畿内型古墳」というものでは決してなかった。同墳の周囲から見て、その顕著な高さは被葬者のもつ権力・勢威の大きさを端的に示している。同墳を「畿内型古墳」から除くと、有明海に臨む筑紫平野地域は、畿内から伝播した古墳文化の受入れについては、豊前・豊後の北部九州の沿岸地域よりは一歩遅れていたことが分かる。山中英彦氏も、「土師器TB期(註:庄内式新段階)に豊地方に波及した畿内型古墳は、UA期(同、布留式古段階)には豊・筑紫・肥地方に拡充し、その地域の盟主的首長墓に採用された姿をたどることができる」と記述する*27。すなわち、従来の認識のほうが正しかったと考えざるをえないのである。


 

 祇園山古墳のごく近隣や同じ筑後国内にある古墳(群)には、ほかにも注目すべきものがいくつかあり、併せて検討しておきたい。 とくに七曲山古墳群である。
 
 七曲山古墳群と鉄矛

  祇園山古墳に先行する可能性がありそうな墳墓として、先に久留米市藤山町の釜口遺跡をあげたが、それ以上にもう一つ留意しておきたい重要な墳墓群がある。それは、同市内の山川町東端部の字城に所在した七曲山古墳群であり、なかでも第三号墳に注目される。現山川町の地域は江戸期には旧・筑後国御井郡に属したが、中世では山本郡の地域も一部含んでいたようであり、いずれにせよ、七曲山辺りはその境界付近であった*28
 耳納山地の北面には無数の急峻な支脈が派生しているが、七曲山もそうした高良山のすぐ北面に派生した尾根筋の一つで、標高60〜80Mを測る。この七曲山の中腹稜線上に七曲山古墳群が位置しており、祇園山古墳とはほぼ真ん中に吉見岳を挟んで、東北二キロほどの地にあたる。昭和38年(1963)の春、果樹園の造成に際して石棺が発見された。これまで五基の古墳(南端を第一号墳、以下は北へ数字をうって北端を第五号墳とする)が確認されており、発見時の応急調査、市の放光寺浄水場拡張、道路公団の九州縦貫自動車道の採土計画に応じて、昭和四六年(1971)まで三次の調査がなされた。
  最初に発掘された第二号墳は方墳で、箱式石棺二基にそれぞれ男女一対の人骨が埋葬されており、貴重な合葬例として注目を集めた。二基とも男女が年齢的に近似しており、少なくとも一基は同時埋葬ではないかと考えられる可能性がある。古墳群のうちでは、最高所を第三号墳が占め、築造順も最初とみられている。これに続く築造とみられる第四号墳は、墳丘が農道で削られていたが、推定直径約20Mの規模で、盛り土と地山削り出しによって形成されており、葺石を伴い、当初の高さは2Mを超えたとみられる。その墳頂部に木棺と推定される二基の主体が営まれるが、出土品は皆無であった。両端の第一・第五号墳は「竪穴式石室」(後述)を主体としており、中央部の三つの墳墓に後出するとみられている。
  第三号墳の墳丘は地山削り出しによって形成され、盛土は墳頂部の主体被覆として僅かに行われた程度である。大きさは径17〜20Mの不整円墳で削り出され、高さは1.3Mを測る。この削り出しは、裾部外周のかなり広範囲にも達しており、一見、二段築成の堂々たる円墳であるかのような外観を呈する。内部主体は箱式石棺と粘土床上に置かれた木棺墓との二基が営まれるが、墓壙内の石棺は内部に赤色顔料が残り、その内法が長さ1.8M弱、幅0.5〜0.6Mと大型である。墳丘裾部には、本墳に付随することが明らかな石蓋土壙墓三基が確認されており、これらの被葬者は墳頂部の主たる被葬者達に対して従たる関係にあったとみられている。また、第二号墳との間には、方形周溝遺構も見られた。第三号墳関係の出土遺物は、木棺のほうに短剣一口があるくらいで、あとは皆無であるが、石棺には盗掘があった痕跡が見られる。
  遺物を多く出したのが、南端の第一号墳であり、墳丘の径約13M、推定復元高1Mとされる。その「竪穴式石室」のなかには、濃密に赤色顔料が塗布され、二体の男性人骨(壮年〜熟年)合葬と各種鉄器の副葬品が発見された。鉄器としては、短刀・刀子・錐状の鉄器・・鑿・鉄斧と鉄矛があげられており、報告書では、「鉄器については、短刀や鉄矛は多少新しい観があるが、工具類の特徴や組み合わせからみて古い様相をもっているようである」と記される。これら鉄器類のなかでは、『魏志倭人伝』に関して、とくに鉄矛に注目されるが、残念なことに今は散失して現存しないという。
  倭人伝には、倭地の習俗のなかに、「兵には矛・楯・木弓を用いる。…(中略)…竹の箭は、或いは鉄鏃或いは骨鏃」とあり、また卑弥呼の「宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人有り兵を持ち守衛する」と記される。ここでの「兵」は兵器の意味である。この矛が鉄であるか銅製であるか記載はされていないが、倭人は矛を武器に用いていたのは事実である。古田武彦氏は、この記事に着目して、矛を弥生期で中心をなす銅矛と解し、矛とその鋳型の分布中心は筑前中域(博多湾岸とその周辺山地)だとして、ここに卑弥呼の都が存在したと結論づける(『古代史は輝いていたT』など)。
  この古田氏の着眼は有益ではあったが、解釈・応用に大きな問題があり、早く白崎昭一郎氏によって反駁がなされている*29。すなわち、@「魏志」に出てくる「矛」は明らかな武器であり、そうでなければ、宮室の守衛は出来る筈がないが、博多湾岸等に大量に出土する銅矛の大部分は祭祀具の広鋒銅矛であった、A「銅剣・銅矛が広鋒化して実用化を失った時代には、武器としての剣・矛は当然鉄を以て作られていた筈である」、というもので、白崎氏の指摘は全くその通りであろう。佐伯有清氏も、矛はのちに広く大形になり祭器として用いられ、「倭人伝の時代には、鉄製の矛がつくられており、青銅製の実用武器としての矛は、鉄製のものに変化したとみなしてよい」と記述する*30。このほか、上掲の「倭人伝」の記事にも、銅鏃は見えずに鉄鏃のみが挙げられることからいっても、邪馬台国当時の武器としての矛は鉄矛以外に考えられない。
  一方、白崎氏の記述が全て妥当かというと、そうでもない。前掲の文に続けて、「鉄製利器は酸化して後世に遺存しないことが多いから、畿内説・九州説何れにとっても、利器の有無は決定的な論点とはなり得ない」と述べるからである。たしかに鉄矛の遺品は少ないが、皆無ではない。これまでの出土を見ると、弥生期に関して、鉄矛の出土は北九州に多く、畿内では殆どない。一九九一年刊行の奥野正男氏の著作『鉄の古代史−弥生時代−』には、「弥生時代の鉄矛は、現在、九州北部だけに一六例知られている。福岡県岡垣町元松原遺跡出土例は、中期中葉とみられ、中期後半〜後期に漸増している」と記述する*31 。現在まで、九州での銅矛の出土は約四百例、鉄矛は二十例で、畿内からは銅矛十例、鉄矛の発見はないといわれている。その後、これより少し増加はあったとしても、傾向はあまり変わらないのではないか。少なくとも、弥生時代における畿内の鉄矛出土例は、管見に入っていない状況である。
  鉄矛は、わが国では古墳時代に著しく発達するとされるが、早く弥生時代にも若干の資料が見られており、海神族の銅矛に対して、鉄鍛冶技術に優れた天孫族が鉄矛を製作したのは自然であろう。北九州の主な鉄矛出土地をあげると、福岡県では寺田池遺跡(春日市下白水)、東入部遺跡(福岡市早良区)、吉武高木遺跡(福岡市西区)、立岩遺跡(飯塚市立岩)や甘木市・前原市など、佐賀県では二塚山遺跡(神崎郡東脊振村)、吉野ケ里遺跡などがあり、長崎県の対馬からも数例あり、大分県三重町の下小坂潰平石棺群でも出土があった。

  もう少し具体的にいうと、福岡市早良区の東入部遺跡では、弥生中期後半の甕棺墓から鉄矛1口が出土している。福岡県飯塚市の立岩遺跡は、弥生時代中期後半の集団墓とされるが、二例の出土がある。ここでは布目順郎氏(京都工芸繊維大学名誉教授)により、出土された鉄剣・鉄矛に付着していた布が絹である事が初めて明らかになった。また、三養基郡上峰町の船石遺跡は、弥生時代から中世までの複合遺跡であるが、三基の小円墳からの出土遺物に注目される。一号墳からはは蛇行状鉄剣、二号墳からは蛇行状鉄矛・鉄鏃・不明鉄器・刀子・須恵器、三号墳からは鉄剣・刀子・須恵器・土師器がある。この蛇行状鉄剣と鉄矛は、その特異な形状からみて、実用的なものではなく、儀礼的用途が考えられるという。三基の小円墳は、五世紀代中頃から終末にかけて築かれたものとみられているが、あるいはもっと遡って弥生期の可能性はないだろうか。
  九州と海峡を隔てる周防でも、鉄矛の出土例がある。山口県熊毛郡田布施町川西の丘陵先端部にある国森古墳は、南北約27M×東西約30Mで高さ約4Mの方墳であり、東側に高さ1M・長さ4Mの張出し部をもち、東側以外の三面には葺石がある。土壙に箱式木棺を直葬しており、定形化した前方後円墳が出現する前の墳墓で、山口県下最古の古墳とされている。その副葬品として、連孤文鏡という前漢鏡や鉄剣・鉄槍・鉄矛・鉄鏃・鉄斧・鉄削刀子などが出土している。伴出した土器は、弥生後期末の吹越式よりやや新しい様相を示して庄内式併行と考えられる(『日本古墳大辞典』)というから、四世紀初頭前後の築造と推定されているが、もっと早い時期の可能性もあろう。同墳は形態的に祇園山古墳によく類似すると思われる。
  七曲山第三号墳の築造法・構成等は、祇園山古墳や吉野ヶ里墳丘墓に類似しており、祇園山古墳に対して時期的にやや先行する重要な墳墓ではなかろうか。祇園山古墳が卑弥呼の墳墓だとしたら、山本郡ないしその境界近隣に位置する七曲山古墳群は、その近い父祖及び後孫という卑弥呼一族関係者の墳墓であった可能性がある、とまで私は評価している。現山川町の中世の地名・阿志岐は御井・山本両郡にわたり、高良王子阿志岐社(高良玉垂御子神社王子宮)があるなど、永正五年(1508)の神領坪付では高良大社の根本神領であった。
  ところが、きわめて残念なことに、九州自動車道の土採りと放光寺浄水場拡張に伴い、同古墳群は完全に破壊されてしまい現存していない。それというのも、出土品・築造時期の推定を含めて、この古墳群への考古学的評価が相当に低かったからであろう。このような文化財破壊を招くような、現考古学界のあり方・見方には何かの偏りがあるのではないかとさえ感じる次第である。

  久留米市教育委員会発行の文化財マップ(山川校区)では、「5世紀前半の円墳・方墳からなる古墳群です」と記述されるが、これは第三号墳の墳丘北側裾部から出土した土器による判断に基づくものであろう。この土師器の片が大略、「柏田V期」に包括されるとみてのことである。しかし、この大部分が細片で各個体とも一部のみが採取されたにすぎず、同時採取の一点のみの須恵器が器形からみて本墳に伴うとは考えられないと記されるので、土師器も須恵器と同様に考えられそうである。その場合には、本墳築造の時代は五世紀をずーっと遡るとみられる。奥野正男氏は、「箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」と指摘する*32
  また、同古墳群の第一号墳の「竪穴式石室」も築造年代推定の資料とされている。すなわち、同墳では、地山から掘り込んだ3M×2〜2.4Mの墓壙のなかに、小型の「竪穴式石室」が構築されていた。その石室の規模が、床面でみて長径2M弱×短径約0.5M前後とされるから、長側壁は扁平な割石(耳納山に産する片岩系の石)を小口積したとはいえ、実体は石棺であろう。第五号墳でも、2.4M×2Mの墓壙のなかに小型の竪穴式石室が設けられている。報告書でも、「竪穴式石室は、内法および木棺を納めない点で、箱式石棺的である。両小口に板石を立てる点も、その名残と思われる。第1号墳の竪穴式石室が第5号墳のそれに若干先行するかとも思われるが、当該地域ではこれらに先行する竪穴式石室は知られていない」と記している。なお、祇園山古墳では、裾部主体のなかで構造不明とされる七基のうち、三基は「石棺系石室」とも考えられるという記述が県教育委の報告書に見えており、『久留米市史』第12巻には、「竪穴式石室十三基のうち十基が石棺系石室に属する」という記述がある。
  こうした小型の「竪穴式石室」は、朝倉郡朝倉町(現・朝倉市)の虚空蔵十一号墳や山門郡瀬高町(現・みやま市)の蛇谷古墳など、久留米市付近の地域に数例が知られるが、「他の地域ではこの種の石室を確認することができない」と記される。その数例がほぼ古墳中期前半とみられていて、この年代観が第一号墳の築造年代の見方に影響し、第三号墳裾部から出土の土師器の年代と併せ考え、古墳群がほぼ五世紀前半代とされている。また、五基の古墳が重複・破壊せずに営まれている点から、大略半世紀のうちに全て築造されたとみられている。しかし、三世代にわたるものであれば、もう少し長い期間をとってもよさそうであるし、「竪穴式石室」と呼んで他の竪穴式石室と年代観を合わせることには、形状からみて疑問が大きい。
  このほか、第一号墳・第二号墳には一つの棺に成人男性二体ないし男女一対が合葬されていたことも、古墳時代の築造とは考え難いし、第三号墳と第二号墳との間に位置する方形周溝遺構があったことや、同じ七曲山の裾部にある竹の子集落(山川町東端部)からも石棺群が出ていることにも留意しておきたい。
 

 祇園山古墳に続くとみられる古墳

 七曲山古墳群のほか、祇園山古墳に多少とも遅れるとみられる筑後周辺の古墳について、付言しておきたい。
  まず北方では、筑後川中流域北方の支流、宝満川上流域には、筑紫野・小郡古墳群が見られる。そのなかには、筑紫野市の原口古墳や小郡市の津古生掛墳丘墓(古墳)もある。

  後者の津古生掛墳丘墓は、この地域最古で全国的に見ても最古式に属する古墳(三世紀末か四世紀初頭の築造かとされる)ともいわれ、丘陵尾根上に削り出して築かれており、箱形木棺の直葬で、棺内から方格規矩鏡・鉄剣・ガラス玉などの副葬品、墳裾などから多くの古式土師器や鶏形二重口縁土器などが出土した。全長三四Mほどの帆立貝式前方後円墳(畿内型ではない)とみられて、円部の径は二八M、方部の長さは短く五Mとされるが、図を見る限り、方部は必ずしも明確ではないように思われる。おそらく、単純に円形か楕円形の墳墓ではなかったろうか。小郡市教育委員会が出版した文化財調査報告書『津古生掛遺跡1』では、「楕円形気味で前方部は短くばち形気味に開く」「前方部前端部は不明瞭で盛土はほとんどないものと考えられる」と記されており、この表現からも、方部があると言い切ってよいか疑問である。
 その墳裾には、周溝墓七基・木棺墓三基があり、古墳の被葬者と深い関わりをもつ人々の墓であろうとみられている。これも、殉葬かそれに近いものを含むのではなかろうか。また、周辺から出土した土器片のなかに庄内式土器があったとされるが、庄内式(ないし併行)とみられる土器と在地系の土器との混在について、慎重に考える必要があろう。この古墳の発見により、「北九州の勢力と畿内とのかかわりの深さがうかがわれるものの、この古墳は畿内の力が及んだことによるともいいきれない」という見解も示されている*33。出土土器の比較から、同墳は宇佐の赤塚古墳より新しいという見解もあるが、山中英彦氏は、前方後円墳とみるより、陸橋部をもつ周溝墓または墳丘墓として把握すべきものであろうと記している。
  こうしてみると、津古生掛墳丘墓はおそらく、築造は三世紀後葉か四世紀初頭であって、卑弥呼の後継者(ないしその次の)の世代における近隣国王級の墳墓ではないかとみられる。その近隣には、ほぼ同規模で時期的にはやや遅れる前期の前方後円墳である津古一号墳・津古二号墳等もあり、少し東方には現段階での最古の墳丘墓とみられる東小田峯遺跡の第一号墓もある。賀川光夫氏は、同遺跡を中心とした夜須盆地一帯(西の基山、東の宝満山、南の城山に囲まれた三角状の地域)には、『魏志倭人伝』に見える国々(福岡平野、糸島平野、唐津平野など)と同規模程度の国が成立していた可能性があることを指摘しており、そうすれば、邪馬台国の宮都が固定であった場合には、付属した近隣国の王の墳墓であった可能性もある。近年、小郡市で二枚の鏡面を合わせて甕に納め埋葬された多鈕細文鏡が発見されており、吉武高木遺跡などの分布・発見例からみて、同地には古くから天孫族関係の有力者がいたものとみられる。

  つぎに、久留米市の南方では、大牟田市に三池古墳群に属する潜塚古墳という古墳1期に属するとみられている古墳がある。同地は筑後の南端で肥後との境にあって、有明海を擁する枢要の地であり、『書紀』景行一八年条等に見える「御木国」(『和名抄』の筑後国三毛郡)に当たり、景行天皇の高田行宮が置かれたと伝える。潜塚古墳は、径約二五M、高さ約八Mの円墳で、並列する二基の箱形組合せ石棺(砂岩製)が営まれ、一号棺から壮年男子遺骸一体とともに神人竜虎画像鏡・管玉が、二号棺から連孤文鏡(内行花文鏡)の鏡片などが出土した。そのほか、棺外には銅鏃・鉄剣・刀子・鎌・鉄鋤先・・鉄斧・土師壺などを副葬していた。この潜塚古墳の二棺は、祇園山古墳の石棺と比べて加工度が高いとされ、祇園山のほうがより古式に属するとみられている。
 中心の久留米市域ではもともと古墳・遺跡が多くあったが、部分破壊されたり消滅したものもかなりある。それらのうち、祇園山古墳に続く主なものとして南方の藤山甲塚古墳があり、さらに推定全長110Mほどの前方後円墳である石櫃山古墳(高良内町にあって、当初、前方部が削平され、現在は消滅)が続くとみられている。甲塚古墳は墳丘全長約75Mで帆立貝型の前方後円墳であり、葺石・埴輪をもち後円部に竪穴式石室をもっている。これらの事情から、五世紀前半代の築造とみられているが、前方部北側裾部には石蓋土壙墓一基も確認されており、築造時期はさらに遡る可能性もある。
  帆立貝型の前方後円墳では、市内大善寺町宮本(高良大社の旧別宮の一たる大善寺玉垂宮の所在地)に御塚古墳もあり、周濠を含め全長は123Mを超えるが、出土した各種埴輪から五世紀後半の築造とみられている。その近隣には、大円墳である権現塚古墳など大小四十余基の古墳が往時あったといわれる。権現塚古墳は、出土遺物からみて御塚古墳との時期的な差はあまりない(少し後か)と考えられている。かって、喜田貞吉がこの古墳とか山門郡女山付近の大塚などを卑弥呼の墓ではないかとあげている。
  藤山甲塚・御塚古墳等の前掲年代推定が正しければ、祇園山古墳との間には一世紀以上の差がでることに留意したい。これら現存する墳墓からみる限りでは、卑弥呼のあと、これにすぐ続くめぼしい墳墓が久留米市域に築造されなかったということであり、彼女なき後の後継者の運命や邪馬台国の行方(勢力圏の衰退、分裂?)を示唆するものかもしれない。ただ、関係墳墓の消滅や未発見という余地もまだ残されており、初期大和朝廷のように天皇(大王)ごとに、近隣でも少し離れた地へ宮都移転したという可能性もないではない。

 
 

  祇園山古墳の周囲環境についてもう少し見るとともに、その所在する御井郡に関係する神社・地名・古代氏族等についても、検討を加えておきたい。
 
 祇園山古墳の周囲環境
  祇園山古墳は、高良大社の登り口にある大鳥居や、高良大祝家・同大宮司家の旧邸宅、高樹神社(祭神はこの地の地主神で、高牟礼神とも高魂命ともいう)・高良下宮社(地元では「祇園さん」と呼ばれる)、礫山古墳・愛宕山古墳・御手洗池などの近隣にあって、高良山中腹を巡る神籠石(国史跡)からも遠くない。この辺りを通る九州自動車道が祇園山古墳の墳丘西側の一部を削り取っている。

  高良山神籠石は、高良大社の社殿裏の付近から時計回りに吉見岳(高良山支峰で標高一五七M)の西麓の虚空蔵堂付近までを延長1.6キロにわたり現存し、推定線をたどれば全長2.5キロに及んで巨列石で取り囲んでおり、壊れているが水門もある。これまでの学界の検討から、「神籠石」は防御施設としての機能が推定され、古式な朝鮮式山城(七世紀後半代に唐・新羅に備えて大和朝廷が構築か)とみられている。しかし、森浩一氏は、霊域説も全部が否定されたわけではないとし、「その前段階にも何らかの施設があったことは予測できるので、筑後平野での注目すべき要地である」と記述している。『肥前国風土記』基肆郡条では、景行天皇が巡行された際、御井郡高羅の行宮にいて、国内を遊覧したと記されるのも、その要地性を示している。山中耕作氏も、「築城当時、すでに高良山で三つの磐座の祭祀は行われていたものと考える。…(中略)…『肥前風土記』によるかぎりは対外的な軍備とは思えぬ」とし、筑後鎮護の山城で、高羅行宮もこの山域内にあったと信じられていたかもしれない、と記述する*34
  この神籠石について、『書紀』天武七年(679)十二月条の筑紫国の大地震に関連して重要な指摘もある*35。この大地震の震源となった活断層は、久留米市山川町東部の前田遺跡の発掘により、耳納山地の北麓に沿って横たわる水縄断層系であることが明らかになっており、前田遺跡を眼下に見下ろす位置に築造された、この断層線に沿う虚空蔵山〜高良大社社務所北側の間の列石が未確認となっている。これが、水縄断層の激しい地震動により崩壊したことは十分想定され、この想定が正しければ高良山神籠石は天武七年には既に存在したことになる、というのである。その場合、朝鮮式山城と技術的に関連するとはいえ、大野城など七世紀後半代に築造されたものに対して遥かに先行する古代山城だったという可能性が相当に高まる*36
  出宮徳尚氏は、有明海沿岸の古代山城を見ると、朝鮮式山城の基肆城及び神籠石系山城五城が筑紫平野とそれにつながる筑後川中流域に展開しており、これら六城の間隔は直線距離で16〜32キロ、実行距離で18〜40キロしかなく、「相互の視覚的連繋はもちろん、人的連繋と支援の可能な間隔で展開しており、高良山城を中核にした城郭網の形成と評価できる」とまで述べている*37。これら山城の築造者は果たして誰であったのだろうか。

  祇園山古墳は、その先祖を「日往子尊」という高良大社大祝家(物部公姓鏡山氏)の墓所と伝えられ、高良山の祭りは同墳の祭祀に創まるともされる。旧大祝屋敷は同墳に殆ど隣接していた。高良大社は千栗八幡宮など末社・分社や由緒の神社が多く、九州屈指の名社として、豊前の宇佐八幡宮や山城の石清水八幡宮(その摂社に高良社がある)では格別の扱いをうけている。本社祭神は、八幡神補弼の神として高良玉垂命とされるが、その実体については諸説ある。高良大社の祭神は、その神社名からして、近江国犬上郡の甲良神社(犬上県主が奉斎者として推定される)や相模国中郡の高来神社(高麗権現。同、師長国造)とも関係しよう。両社とも、高天原の主宰神たる高魂命の子孫神・天津彦根命の後裔氏族が奉斎する神社であったとみられる。また、日神・石神の信仰や鍛冶、玉・鏡などの製作管掌氏族の祖神とも関係しよう。

  従って、八幡大神たる素盞嗚神(祇園社の祭神で、実体は筑紫国造等の遠祖・五十猛神か)から高魂命(日神たる天照大神の父神の実体)、さらにその子孫神に至る天孫族の祖神系統の神々(人々)のなかに、高良大社の祭神に比定されるべき者がいるものと推される。地主神たる高魂命に替わったのが高良玉垂神という所伝からいって、おそらく高魂命の子孫神が同社の祭神であろう、と当初は考えた。具体的には、高魂命の孫神くらいにあたる「天明玉命(玉祖神)=天目一箇命(鉄鍛冶神)」に比定される、と私は当初考えたわけであるが、その後、再考してやはり高魂命のほうが自然であろうと考えている。
  『魏志倭人伝』の卑弥呼も、高魂命の流れを汲む高天原支配者一族の出自とみられる。祇園山古墳の近隣、久留米市域には前掲の高樹神社のほか、御井郡の式内社として伊勢天照御祖神社もあって、のち大石太神宮(久留米市大石町に鎮座)とも呼ばれることが想起される。天照御祖神とは天照御魂神、すなわち高魂命の子神のことであるが、同社の論社がいま高良大社参道にあり、江戸期まで山麓の御井町の「伊勢の井」付近にあったと伝える。高良という名が『肥前国風土記』では数か所で「高羅」と書かれるが、これなら「高の国」の意であり、その高所たる高良山が高天原に通じるのかもしれない。高良が音としては、「香春」(金の村の意かという)に通じるという指摘もある。
 

 地名・神社名からの考察

  高良大社には至聖の霊地が三か所あって、神籠石馬蹄石という大磐石)と別所の清水(奥宮、水分神社)・朝妻の泉(頓宮、味水御井神社)であり、これらはみな磐座とみられる。朝妻の泉は山麓の御井朝妻にあり、「三ツ井」と呼ばれる御井郡名の起源の良質な泉である。『書紀』継体紀や『和名抄』には「御井」と表記されるが、当地で発掘される奈良期の土器の墨書には「三井」の文字が多いといわれる。「御井の三井()」とは、古来からよくいわれるが、朝妻・磐井・徳間の高良三泉を指す場合と、大城村の益影の井と高良山麓の朝妻の井・御手洗の井をいう場合もある。
  なかでも朝妻の井は重要であり、本社お旅所で、高良山三潮井場(禊場)の一つであり、この潮井をとるたびに諸神影向すると伝える。傍らの味水御井神社は「国長明神」の名がある。また、磐井の清水の傍らに中世の地蔵菩薩彫像があり、この泉のある地域は「岩井」と呼ばれ、高良大宮司宗崎氏の居屋敷の一つがあった。岩井の地名の由来について、『北筑雑纂』『筑後地鑑』等の書は、筑紫君磐井に結び付けるが、おそらく話は逆で、彼のほうが泉の名(ないしは高良山の井のいずれか)に因んで磐井と呼ばれたのではなかろうか。
  森浩一氏は、筑紫君磐井の勢力の精神的なよりどころを考えると、大和の三輪山に相当するのは高良山で間違いないこと、その高良山の麓に磐井という聖なる泉があるが、三輪山の麓にも磐井という井があったこと(雄略即位前紀)をあげて、従って、継体天皇軍と磐井軍との決戦の場所が筑紫の御井郡というのも、「政権にとっての象徴的な聖地」の争奪だと解している*37。御井郡には筑後の国府がおかれるなど、古くからの中心地であったので、筑紫君磐井の当時でも高良山信仰とともに磐井の根拠地であったことが考えられるが、必ずしも森氏のような結論までいかなくてもよいのかもしれない。山城の石清水八幡宮にも高良社があり、同社と山頂の石清水の本殿との中間に石清水といわれる湧き水があることに着目して、石清水とは磐井的な聖なる泉ではないか、という指摘も森氏はしており、これは妥当なものではなかろうか。

  筑後には高良大社に関係する神社が多い。その社名は、高良神社・高良玉垂神社・高良玉垂命神社・玉垂神社・玉垂命神社など各種であるが、筑後川南岸の久留米市及び三潴・三井両郡を中心にして、東は浮羽郡田主丸町から南方は八女・山門両郡や大牟田市まで広く分布している。この分布圏*38には、「物部」の名をもつ神社もまた多く、天慶七年(944)の『筑後国神名帳』などから、御井郡正五位下物部名神等が知られる。
  太田亮博士は、筑後平原を物部氏族の起源の地とし、高良社はその氏神とみており、私もこれは妥当な見解とみている。というのは、先に高良玉垂神の候補にあげた高魂命にせよ、「天明玉命(玉祖神)=天目一箇命(鉄鍛冶神)か近親」にせよ、物部氏族の遠祖神とみているからである。高良内町には赤星神社・富松神社があって弦田物部の祖・天津赤星を祀り、近くには物部祖神・経津主神(これも実体は天目一箇命か)を祀る楫取神社もあり、これら物部系の小社の中心は高良大社とされる。筑紫君磐井の乱にあたって、物部の族長たる麁鹿火大連が討伐に向かったのも、こうした背景があったものとみられる。
  「御井」という名をもつ神社については、東山道の美濃に分布が顕著であり、式内社が各務郡(旧地名は稲葉郡更木村三井、現各務原市)と多芸郡(旧養老郡多芸村金屋、現養老町)にある。両社ともに美濃に多く分布する物部氏族が奉斎したとみられ、具体的には前者は村国連、後者は物部多芸連が考えられる。「美濃国神明記」には多芸郡従四位上物部明神のほか、各郡に多くの物部明神が掲載される。大和にも宇陀郡(宇陀郡榛原町檜牧)に同名の御井神社があって、その名のとおり御井神(木俣神)を祀るが、気比大明神とも呼ばれた。御井神は素盞嗚神と稲葉八上姫との間の子と伝えるが*39、その実体は五十猛神の子神(すなわち高木神で、物部氏族等天孫系氏族の遠祖)ではないかとみられる。
  御井神社は、出雲国では出雲郡及び秋鹿郡の式内社にもあり、やはり木俣神(御井神)を祀る。前者は、古代当時の地形では宍道湖に突き出ていた半島の丘陵地・直江(簸川郡斐川町直江)に鎮座する。左側の田圃に福井・生井・綱長井の三つの井戸があるとされる。この三井の名は、摂津国西成郡難波で凡河内(都下)国造が奉斎した座摩神社(大阪市中央区渡辺町)の五神のうちの三神の名としても見える。出雲国造や凡河内国造も、物部氏族と同祖で、天孫族天津彦根命の子、天目一箇命の後裔であった。
  但馬国養父郡の式内社・御井神社(兵庫県養父郡大屋町宮本)も祭神は御井神であるが、他に大屋比古命、大屋比賣命を祭神に追加する説がある。氏子に大屋谷十二ヶ村等があり、かって岩井牛頭天王といった。素盞嗚尊の子で木に関係している神として大屋比古命がおり、またの名の五十猛命とされる。同国には気多郡にも式内の御井神社がある。
  五十猛神を祭る紀伊の伊太祁曽神社の摂社には、元宮かとも思われる御井神社がある。
武蔵国荏原郡の式内社・磐井神社(東京都大田区大森北)は、霊井や鈴の音のする霊石・鈴石があってもと鈴森八幡といったという事情からみて、素盞嗚神すなわち五十猛神を祀ったものとみられる。越後国三島郡の石井(いわい)神社(式内社の論社で新潟県三島郡出雲崎町石井に鎮座)に五十猛命のイメージを感じられたという報告もある。柏崎市北条にある同名の論社も、旧称八幡宮(石井八幡宮)である。そうすると、「磐井」はやはり五十猛神に関係ありか、ということになる。
  こうしてみると、「御井」「高良」という固有名詞には、天孫族の五十猛神・高魂命の系統に密接な関係があったことが分かる。

 
 おわりに

  卑弥呼の冢について、総論・各論そして地名・神祇など様々な面から検討をしてきて、現段階では祇園山古墳が最も妥当ではないかと結論される。ただ、現在までのところ久留米市内には金属器等の考古遺物の出土があまり多くない事情にあるので、高良山を中心とする地域に多量の鉄器を出土する弥生終末期の遺跡が発現することを期待する次第でもあるが。

  最後に、本稿作成の過程で感じたことを附記しておきたい。まず、各項目の検索・調査にあたってインターネットを随分活用したが、とくに中国の二十五史については、台湾の中央研究院の電子資料がたいへん役だったし、また、在野の研究者の皆さんがネット上に多くの見解や資料を開示されていることにも気づき、種々の有益な示唆を与えられた。個別には名を挙げないが、そうした学恩に対して、深く感謝を申し上げる次第である。

  もう一つは、古墳・墳墓などの遺跡の保存と破壊の問題である。残念ながら、久留米市域には多くの遺跡破損例があることを認識した。これら遺跡について、存在した当時の記録をいくら残そうとしても、やはり限界があり、実物に優るものはない。ましてや、記録が不十分ではなにをかいわんや、という感を強くする。是非とも、今後の遺跡破壊はもう止めにして、適切な保存策を講じてほしいと切望している。
  そのためにも、現在の考古学界が邪馬台国畿内説に過剰に傾くことに大きな危惧を感じる。それにしても、祇園山古墳(墳丘墓)やその第一号甕棺がよくぞ残ったものと改めて思わざるをえない。 

 


   〔註〕 詳細版

*1 こうした見解はいくつか見られ、例えば、市毛勲氏は「当然のことながらその遺骸は多量の辰砂に埋まったものと思われる」と記述する(『朱の考古学』雄山閣、1984年)。
  弥生期後期から古墳前・中期の墓には、棺内部や石室を朱・赤色顔料で塗られた例が多く見られる。とくに、弥生墓のうちで施朱されたものの発見例は北部九州に集中し、なかでも箱形石棺の事例が多い。例えば、福岡県前原市の三雲遺跡の寺口地区の石棺墓は、三世紀初頭の墓であり、二基の石棺を囲むL字形構内には、供献土器群や赤色顔料・鉄器があると報告される。このほか、鏡山猛氏は「原始箱式石棺の姿相」(1941年)で、現・糸島市(前原市)や三井郡大刀洗町などの施朱された石棺の事例として福岡県の七遺跡あげている。

*2 私見については、拙稿「邪馬台国東遷はなかった」(『季刊/古代史の海』第21・22号所収)。私見とほぼ同様な御井郡説(広域な領域を考えるが、その盛時の中心を同郡にみる説も含む)を採る研究者には、植村清二・榎一雄や谷川健一などの諸氏がいる。肥後までの拡がりも考える井上光貞氏も、大局的にはこれとほぼ同じ立場であろう。小説家の邦光史郎氏は、邪馬台国の領域が五世紀の筑紫君の勢力圏とほぼ重なるもの(有明海水系の全流域、つまり筑紫野)とみて、高良山こそ女王の都だとその著作のいくつかで明言している。ほぼ同様であるが、耳納(水縄)山地北麓に都があったとみる福島雅彦説(『卑彌呼が都した所』)もある。
  なお、御井郡は明治29年に隣郡の山本・御原郡と統合して三井郡となったが、なかでも御井郡と山本郡との結びつきが強かった模様であり、両郡の各郷の比定が困難なものもあって、古代の境界は必ずしも明確ではない。

*3 森浩一『古墳と古代文化99の謎』(産報、1976年)。この関係での引用は、同書に拠る。

*4 渡辺正気著『日本の古代遺跡34 福岡県』

*5 申敬「四・五世紀代の金官伽耶の実像」(『巨大古墳と伽耶文化』角川選書、1992年)

*6 『日本の考古学V 弥生時代』(河出書房新社、1996年)のなかの九州の項。

*7 小田富士雄著『倭国を掘る』256頁。

*8 次のような事情から、古い三角縁神獣鏡の製作年代が考慮される。まず、福岡県では甘木市字小隈にあって四世紀後半の築造とみられている神蔵古墳(全長40〜50Mほど、高さ5.5M以上の帆立貝式に近いタイプ)からも椿井大塚山古墳出土鏡と同型のものも出ているが、それ以上に、その北方近隣の大願寺墳丘墓(方形周溝墓)からの出土品とみられる三角縁神獣鏡もあるからである。また、筑紫郡那珂川町恵子の妙法寺墳丘墓からも古式の三角縁神獣鏡が出土した。上掲で北西近隣の原口古墳も、いわゆる「畿内型古墳」より古い弥生終末期に築造された可能性がある。福岡市西区姪浜の五島山(古墳?)の箱式石棺からも、三角縁神獣鏡二面や銅鏃・剣・玉類などが出土したが、銅鏃はその特異な携帯から畿内の最古式古墳より年代は下らないとの論もある。
  安本氏によると、三角縁神獣鏡の古いものを出土した府県としては、近畿地方の奈良県・大阪府に次いで、福岡県が四面と西国では飛び抜けて多く、そのなかには福岡市早良区の藤崎遺跡(西新の近隣)の方形周溝墓の箱式石棺から一面が出土している。同遺跡には、方形周溝墓が十基ほどあり、箱形石棺があって、多量の古式土師器や珠文鏡・素環頭大刀なども出土した(「三角縁神獣鏡の起源は、北九州!?」『季刊邪馬台国』67号、1999年春)。
  これら筑紫の墳丘墓(方形周溝墓)から出土した「舶載」三角縁神獣鏡まで、全てを初期ヤマト政権が配布したとするのは、裏付けがなく疑問が大きい。

*9 東アジア史研究の西嶋定生氏が、中国王朝から国王の称号を貰ったことが高塚墳墓造営の始まりと考え、親魏倭王たる卑弥呼が死に際して高塚墳墓=古墳を造営するのは自然という見解を出した(『古墳と大和王権』)。しかし、魏朝では、既に徹底した薄葬の方針を打ち出しており、その令が出された黄初三年(222)以降に築造された墓が、「親魏倭王」という観点で巨大な労働力を要する高塚であったというのは、説明として疑問が大きい。卑弥呼の墓が当時の朝鮮半島在住の使節の目から見て巨大であるとしたら、それは、主として帯方・楽浪両郡などの影響ではなかろうか。

*10 半沢英一氏は、「私が言う短里ならば三十bの円墳となる。しかも百人の殉葬をしたという記述から、まだはっきりしたことは分からないが、私は久留米にある祇園山古墳が怪しいと思う。」とも述べている(「佐賀新聞」1996・10・13に掲載の日曜討論)。

*11 近藤義郎著『日本考古学研究序説』増補版330頁(2001年、岩波書店)。また、大塚初重「古墳はいつどこから」(『日本古代史の謎』所収、1975年、朝日新聞社)でも、両墳が取り上げられる。

*12 前掲の大塚初重「古墳はいつどこから」。

*13 『日本の神々1 九州』の高良大社の項、200〜201頁。

*14 『三世紀の九州と近畿』祭祀の項、1986年、河出書房新社。

*15 『歴史学論文集』(日本大学史学科五十周年記念事業実行委員会、1978年)所収。

*16王金林著『古代の日本』六興出版、1986年。

*17 「三角縁神獣鏡の「ふみ返し」による量産」(『東アジアの古代文化』107号)

*18 竹内理三等編『日本歴史地図 原始・古代編(上)』。後漢鏡や銅矛・銅戈に比べて若干後代になるが、「畿内型古墳」の分布もほぼ同様な南限を示す。小田富士雄氏によると、「四世紀代に畿内型古墳が流入した南限は、地形的に九州を南北に分かつ臼杵−八代構造線以北であったことがあらためて注意される」(「畿内型古墳の伝播」)と記述される。具体的には、宇土半島基部の南端部(火国造関係の古墳か)から臼杵にかけての線であり、境界線が熊本県で若干南下しているものの殆ど同様であった。この線は南下傾向にあったとみられるが、その北と南には、上古から異なる文化圏が存在していたことを窺わせる。

*19 小田富士雄「吉野ヶ里と北部九州の弥生時代」(YOMIURI SPECIAL 31『吉野ヶ里・藤ノ木・邪馬台国』所収(1989年、読売新聞社))

*20 高倉洋彰「奴国連合の雄、吉野ヶ里国」(YOMIURI SPECIAL 31『吉野ヶ里・藤ノ木・邪馬台国』所収(1989年、読売新聞社))

*21 『邪馬台国発掘』の第二節 九州北部の鉄器(1983年、PHP研究所)。柳田康雄氏も、庄内式併行期とみる神戸市西区、明石川支流域の天王山四号墳という長方形の墳丘墓が八禽鏡や玉類・鉄刀・鉄鋤先・・鉄斧を副葬していると記す。

*22 石野博信「弥生墳丘墓と吉野ヶ里「王族墓」」、YOMIURI SPECIAL 31『吉野ヶ里・藤ノ木・邪馬台国』所収(1989年、読売新聞社)。

*23 「九州における古墳文化の展開」『九州における古墳文化と朝鮮半島』所収、1989年、学生社)。

*24 菱田哲郎著『歴史発掘10 須恵器の系譜』62頁、1996年、講談社。

*25 小田富士雄氏の関係論考として、「古墳文化の地域的特色」のうちの「2九州の項」(河出書房版『日本の考古学W古墳時代(上)』所収、1966年)、「畿内型古墳の伝播」(『古代の日本3九州』1970年、角川書店)など。

*26 原口古墳については、形状は前方後円墳(円部が約50M)とも円墳ともみられている。『日本古墳大辞典』には、円墳で、おそらく粘土槨と推定され、三角縁神獣鏡三面や玉類・鉄斧・鉄刀などを出土したが、埋葬主体が不明確という事情もあって、年代の決め手を欠く、と記述されている。こうした事情から見ると、同墳は椿井大塚山古墳と同范鏡を持つとはいえ、「畿内型古墳」とはいい難いのではなかろうか。むしろ、筑前では那珂八幡古墳が代表例とみられ、山中英彦氏も「畿内型古墳の出現」(古代を考える『磐井の乱』)で取り上げる。

*27 山中英彦「畿内型古墳の出現」。津古生掛古墳についての見解も、同論考による。

*28 元禄八年(1695)に建てられた御井郡・山本郡郡界標が七曲山の東北近隣にあり、市指定有形文化財となっている。七曲山古墳群は当初、放光寺古墳群と呼ばれたが(現在、放光寺浄水場の敷地内になって消滅)、麓の放光寺集落は明治九年(1876)の五か村合併で山本郡豊田村を構成した。

*29 『東アジアの中の邪馬臺国』288頁。

*30 『魏志倭人伝を読む 上』134〜135頁。

*31 森浩一・炭田知子「考古学から見た鉄」(『日本古代文化の探究・鉄』1974年、社会思想社)でも、26頁所載の鉄戈出土表は弥生中期以降のものが掲げられる。

*32 『邪馬台国発掘』92頁(1983年、PHP研究所)。

*33 小郡市埋蔵文化財調査センターの宮田浩之技師(アサヒグラフ『新・古代史発掘』1983-87)。

*34
『日本の神々1 九州』の高良大社の項。

*35
久留米市教育委員会発行『第42回 ふるさとの歴史を訪ねて』(2000年3月)。

*36 古賀寿氏は、「学界では六世紀後半の対韓緊張の時期から七世紀初頭にかけ、外敵の侵攻にそなえて大和朝廷が築いたとする説が有力であるが、筑紫国造磐井に代表される北九州勢力の築造とする見解にも捨てがたいものがある。いずれにせよ、将来の調査研究に待つところが大といえよう」と総括する(高良大社社務所資料)。
  神籠石は、福岡・佐賀両県で八か所知られており、いずれも玄界灘海岸部ではなく内陸部に築かれた事情などから見て、大和朝廷の外敵防御用とするには説得力が弱い。おそらく、その築造者は北九州の上古在地勢力であって、年代も相当遡るものではなかろうか。ほかでは、山口県の石城山(熊毛郡大和町塩田。国森古墳の北東近隣)にも神籠石が知られるが、同地鎮座の周防国熊毛郡の式内社・石城神社が周防国造により奉斎され、その後裔で現宮司家・石原氏の家譜には天目一箇神が見える、と伊藤彰氏が報告する(『日本の神々2』247頁)。これに続けて、「その遠祖が石城築城に関与した可能性なしともいいきれまい」と記されるが、興味深い指摘と考えられる。

*37 出宮徳尚「瀬戸内の山城」『新版古代の日本 第四巻中国・四国』(1992年、角川書店)。

*38
門脇禎二・森浩一著『古代史を解く『鍵』』59〜62頁(1995年、学生社)。

*39
谷川健一氏は、邪馬台国の盛時の中心を御井郡と考え、「邪馬台国の領域と重なる物部氏の勢力範囲」という項をその著『白鳥伝説』(一九八六年、集英社)で立てる。
 この見解は基本的には妥当であろうが、@高良大社大祝物部氏は物部連一族ではなく、筑紫・肥国造の一族で君姓だったこと(ただし、遠い祖先は同じ)、A高良関係神社の筑後分布圏がほぼ邪馬台国領域とみたほうが端的であること、を指摘しておきたい。 

*40 御井神の父神について、「延喜式注」のいう素盞嗚神ではなく、『古事記』では大国主神と記す。しかし、御井神を祀る摂津の座摩神社を天津彦根命の流れを引く凡河内国造が祀るなどの事情からみて、前者のように、天孫族系統の祖で素盞嗚関係神とみるのが妥当であろう。おそらく、大国主神の異名として掲げる「八千矛神」は本来、素盞嗚神ないし五十猛神であり、これが大国主神の異名と混同された結果とみられる。



  (備考)*36及び*37で取り上げた神籠石・朝鮮式山城については、
      次の
(神籠石についての補注)も参照されたい。



  (追補1)

  最近、大牟田市在住の廣木順作氏は、2004年11月から2005年9月までの講演を取りまとめたものとして、『久留米は邪馬台国の『ミヤコ』だった』(2006年5月)という著作を自費刊行されたが、そこで、祇園山古墳が卑弥呼の墓だと記述される。
  その論拠は、殉葬の存在、径百歩は短里法でいうと約25.7bにあたるが同墳の一辺が実測約25b前後とされること、箱式石棺が弥生後期で卑弥呼の時代も含まれることとされており、この範囲では私見とほぼ同様である。
 その一方、神武から九代の初期諸天皇が筑後川中下流域に居て、崇神天皇の時に東遷したなどとする他の見解は、私見と大きく異なっている。初期諸天皇が筑後にいた証拠はなく、崇神天皇のときの東遷もまったく根拠がない。
 
  (2006.9.16掲上)



  (追補2)

  『週刊朝日』の2011.9.23号から同年10.21号まで5回にわたり、ノンフィクション作家の足立倫行氏が、「倭人伝を歩く」という特集記事を書いており、その最終回の最後の部分で祇園山古墳が取り上げられて、「卑弥呼の墓を彷彿とさせる」と書いている。森浩一氏が殉葬の参考になると指摘した古墳とされるが、どういう根拠だかは不明であるが、「卑弥呼の時代より半世紀後の古墳だ」という誤った年代把握をしているため、「彷彿」という表現になっているのが惜しまれる。

  (2011.9.16掲上)

 ※まったくの余談だが、当該『週刊朝日』も百年の歴史に幕をおろし、2023年5月末(2023.6.9号)で休刊となったが、足立氏は長く書評欄などで執筆された。


  
  (追補3)

  最近、某所で祇園山古墳について、福岡県教育委員会の報告書(『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告書 27』1979年)に基づかない主張が見られるので、念のために気づいたところを次に掲げる次第です(本文の繰り返し的な記事もあります)。

○祇園山古墳から確実に出土したのは、墳丘裾部にあった第1号甕棺墓(K1)から出た「半円方形帯鏡片」だけです。この鏡は、「現存部分の内区に神像の鋳出はない」「類例の多い神獣鏡とはならず、また甕棺墓としても異例の型式である」と福岡県教育委員会の報告書にありますから、通常の神獣鏡と同じ扱いは無理かと思われます。

○高良大社所蔵の三角縁神獣鏡が祇園山古墳から出たとの伝えはありますが、墳丘中央部頂上におかれる大型箱式石棺から出たかも含め、実際に祇園山古墳から出たとの確認はなんらありません。それどころか、上記報告書には、「かってここ(祇園山古墳のこと)から銅鉾4本が発見されたという記録がある」と記されており、こちらが本当なら、三角縁神獣鏡の出土とは時期的に相容れないものと思われます。

○「祇園山古墳が布留式古段階平行」だという判断は、上記報告書にはありません(西新式土器ないしその併行という記事は見たことがあります)。石野博信氏は祇園山古墳と庄内式土器の関係について、祇園山の甕棺の時期が報告書では狐塚二式であって、それは西新式に併行すると言われているとのことです。

 そもそも、祇園山古墳の墳形を見ても、古墳時代の「古墳」とは明らかに異なっており、それは同墳の実測図を見ても明らかです。現地で同墳を見れば、もっとよく分かるはずです。議論・検討には、現物に当たる必要性を感じるものでもあります。
 ちなみに、土師器は、「すべて墳丘裾部外周から出土している」と上記報告書にあり、須恵器もすこし出ていますが、これらは後世まで続けられた祭祀による可能性もあります。第1号甕棺墓(K1)は、埋設の状況も新旧の特色を併せ持ち、祇園山古墳本体とほぼ同時のものと報告書がみています。
 すなわち、報告書では、「K1は方墳構築時に形成されたテラスを新たに掘削して営まれたものと見做される。すなわち、K1は方墳に先行する弥生時代の甕棺墓ではなく、営造期の若干のズレはともかくとして方墳と大略同期に属するとみてよい」と記されており、この見解に基づけば、主人たる箱式石棺墓の被葬者に仕える重要な女性の殉葬ないし直後の追葬を示唆するものとみられます。

 (2015.6.30掲上)


 
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