(神籠石についての補注) ○足利健亮京大教授著『景観から歴史を読む』(NHK出版、1998年)の267頁に所載の「北九州・山口県における古代山城跡の分布」図を借りて掲げさせていただく。 なお、足利氏は、「朝鮮式山城と神籠石は通説に従って区分してあるが、……、両者を同種のものと考えている」と記すが、私は、ほぼ同種であっても、築造年代に違いがあり、神籠石のほうが年代的に相当古いものと考えている。もっとも、朝鮮式山城のなかには神籠石の旧地辺りに築かれた可能性もあったものもあり、基肆城が築かれた基山(標高405M)の南麓に位置する基山町の南部には皮篭石の地名が残る。 |
○足利健亮氏は、『続日本紀』文武天皇三年(699)十二月四日条の「大宰府をして三野・稲積の二城を修らしむ」とあるうち、「三野城」が高良山の神籠石遺跡と考えているが、同城の所在地は現在未詳であり、『大日本地名辞書』では筑前国那珂郡海部郷にあったとみられる美野駅(現在の福岡市博多区住吉付近)周辺としている。 高良山が耳納山地につながる山で、耳納(水縄)が三野と同名であることには異議がないが、稲積城が糸島郡志摩町稲留にある火山(ひのやま)に比定されており(青木和夫説)、戦略的に考えて北九州沿岸地から離れた地に天智九年(670)二月に築き、さらにその三十年ほど後に修理させた城とみるのは不自然であると考えられる。 そもそも、『書紀』天智九年二月条に見える「長門城一・筑紫城二を築く」という記事は、日本古典文学大系『日本書紀 下』の374頁上註にいうように、「四年八月条の重出」(すなわち、百済から渡来の達率一人を派遣して長門に城を築き、同じく達率二人を派遣して筑紫に大野及び椽〔「き」で、基肆に同じ〕の二城を築いたという記事)とみるのが妥当であろう。天智四年(665)は白村江戦の翌々年であり、その前年には筑紫に水城(太宰府市西部の大字水城から大野城市東部の水城跡にかけての城か)を築いていた事情にあった。 |