随想「真理は中間にあり」か −『季刊/古代史の海』第0号〜第16号を読んで−
宝賀 寿男 |
1 幼少時(昭和三十年代か)のわが家には、何故か表紙の取れた分厚い横長の歴史絵本があり、私は同書に親しんで繰り返し繰り返し読み、日本歴史の世界に没入したものであった。従って、これが今に至る私の日本史への関心・興味の要因であったことは、間違いなかろう。その数十枚にのぼる絵のかなりの部分を今でもはっきり思い出すところを見ると、往時の刷込効果は相当大きかったものとみられる。 同書は神武金鵄伝承に始まり(と記憶していたが、その前に「スサノヲの八俣大蛇退治」があったことが、その後に分かった)、日本武尊の焼津事件、神功皇后の三韓遠征などから江戸末期の桜田門外の変まで、著名な歴史的場面が錦絵風に描かれ、 登場人物にはその傍の短冊で名が記され、簡単な解説が絵の右横に施されてあった。ここまで書けば、お分かりの人もいると思われるが、これが『東日流外三郡誌』に画材を提供した『國史画帳大和櫻』だったのである。
私自身、この画帳の書名自体は『東日流外三郡誌』の真偽論争を通じて初めて知ることになったが、こんな挿絵を臆面もなく用いる同書が後世の偽書であることは論をまたない。五年ほど前(この文章発表の時点からみたもので、具体的には平成六年〔1994〕のこと)、私が在勤中の富山県を訪れた古田武彦氏と懇談の場を持ったことがある。そのとき、『もう、あんな偽書に肩入れするのは、やめたほうがよいのではないか』という旨を、私が述べたことがあったが、これに対して、自分の判断でやっていることで、人にとやかく言われる話しではない、とムッと憤然としたような表情で古田氏が言われた記憶がある。(これも、遠い記憶になった) しかし、歴史という人文科学の一分野だからこそ、権威に囚われず、合理的な批判や検討が必要なわけであり、それが仮に大家の見解・判断にせよ、そこに過ちや疑問があれば、それは糺されなければならないものである。個人の問題ではなく、古代史の基本問題にも絡むし、古田氏自身の見識を問われる問題なのだから、当然に人から「とやかく」いわれる必要性も出てくるわけである。 2 この真偽論争に限らず、有限な時間の中で、惜ら関係者の才能・能力等が浪費されているものが、日本上古代史上の論点に多いように思われる。 邪馬台国の所在地に関連する論争などもその一つで、冷静で客観的・合理的な態度で実証的に本件を見れば、結論は自ずと定まってくるのではないかと考えられる。すなわち、所在地の畿内説や邪馬台国東遷説は、当時の部族国家の列島内多元的配置という観念や日本古代史の流れ、「東遷」の時期についての時間的座標軸把握の欠如に起因するとしか、いいようがない。学問的視野の狭い、とくに日本文献を軽視しがちな「考古学者」(関西主流派?)の見解によって、日本古代史が振り回されるのは、きわめて遺憾なことでもある。考古学的追求は必要であり、重要であるが、その一方、この学問の限界も自ずからあるということである。 常々私が重視してきた事件報道の5W1Hのなかでも、とくに重要な場所及び時間(Where、When)という二大座標軸の把握に大きな問題がある。また、邪馬台国から大和朝廷の国家(王統)への連続性なぞ、何ら根拠をもたない(ただし、両王統における同祖同部族性を否定するものではない)。 邪馬台国関係の諸問題についていえば、例えば榎説、白崎昭一郎説、古田説、三木太郎説、安本説、山尾幸久説(以上、単純に五十音順)など、現代までの代表的な諸説は、「いずれも帯に短し襷に長し」(良く言い換えれば、それぞれに採るべき諸点があるということで、メリットも無視できないが)ということであり、率直なところ、「真理は中間にあり」という線(註1)ではないかと強く感じられる。
所在地論争に決着がつかないように見えるのは、おそらく次の二つの視点・認識が欠落しているからであろう。すなわち、 @ 三世紀前半の日本列島には、近畿など九州以外の地にも有力な地域国家(部族的政治統合体)が発生していたこと(日本列島のなかで特定の一カ所だけが優位な発展をとげていたとはいえないし、邪馬台国の地域が政治・生産・技術的に最も優位であったかどうかも不明という、いわゆる「多元論」ないし「並立論」。日本では、戦後に橋本増吉、田中卓、水野祐の諸氏が提唱という)。現在主流といわれる考古学者の研究視点にあっては、不思議なことに、これがまったく欠如する。
A 現存する『魏志倭人伝』は、当初の『三国志』原本が七百年超にもわたる長い伝写流布期間のなかで一部改変されていた可能性が強いこと(及びまたは、一般に筆写には誤記脱漏がほぼ必然的な付きものである、一系統の写本しか現存しない、という基本認識)。 というものである。中国の天津社会科学院の王金林教授も、一元論の観点で当時の日本の発展をみることが邪馬台国問題の解決障害だと指摘している。
また、現存する形の書物を作成当時の原物であると金科玉条的に盲信する姿勢は、科学的なものとはとても言い難いし、古書伝写や謄写等の実態にも合わない(1924年に新疆省善県発見の古写本『三国志』残簡の例)。 古田武彦氏が安易な原文改定を戒めたのはある意味、当然のことだが、逆に、原文を尊重しすぎてこれに束縛され、明らかな誤記までもこじつけで解釈するのは、同様に問題が大きい(合理的・論理的な思考方法をとる研究者でも、原文束縛に因み、とんでもない方向に持っていくことが往々に見られる)。思いつきで無理の大きい解釈は捨て、できるだけ自然な形で解釈して、その上で結論相互間の整合性を求めるべきであろう。そうした視点で、歴史の大きな流れを考えないと、肝腎の筋を読み間違えるということでもある。 邪馬台国論争もいい加減長く続きすぎて、新説もほぼ出し尽くした感があるので、そろそろ従来から唱えられてきた諸説の整合的なとりまとめの時期に入るべきではなかろうか。 この作業に際して、絶対的な年代観を示さず決定的な記録を持たないはずの考古学的な知見(もう一ついえば、盲信的な結論先取りの傾向も、この分野の研究者には総じて見られる)については、とりあえず排除しておいた無難であろう。当時の生産力や文化水準、人口、さらには古地図論の視点についても、同様である。なお、これらの視点は最後まで排除すべきものとは考えていない。むしろ、北九州とか近畿とかの地域を大掴みに把握した後には、有効に用いるべきであろう。 自然科学的な装いはあるものの、総合的な検証がまったくなされていない、裏付けのない「年輪年代法」「放射性炭素法」といったブラックボックスから出てきた年代数値など、自然科学的な装いがあるだけに却って紛らわしいが、今までのままだと、科学としての日本古代史学の論外である(註2)。論理的に考えても、誤差や幅なしに客観的な年代数値を求められるわけがないが、自然科学への盲信はそろそろ止めなければならない。自然科学といっても、そこには解釈や取扱いの余地が多くあり、上古代の日本列島における異常な気象・現象という自然条件(とくに約6300年前ともいわれる鬼界カルデラの大爆発は無視できない)もあったのである。この辺を無視して、機械的な数値信仰は、厳に慎むべきであろう。 邪馬台国所在地問題の整理のための視点を、私なりに列挙すれば、次のようなものかと思われる(これまで述べてきたことも含み、各項目間でも若干重複する)。各々の項目に関し、自己の見解について、肯定か否定かをチェックしてみていただきたい。なお、設問の文章の表現がややおかしくなっていることについては、下記に記す多少の事情もあり、ご寛恕いただきたい。
○女王卑弥呼の時代では、日本列島内の主要地域に有力な部族国家体がいくつか成立していたか。
○女王卑弥呼に具体的に比定されるべき人物は、記紀には登場しないのか。
○女王卑弥呼から四世紀大和朝廷の大王(仁徳など)まで、同一国家が同一地域に連綿とは続いていないのか。
○(九州説を採られる場合には)邪馬台国そのものは東遷しなかったか。なお、東遷の時期は問わない。
○帯方郡から女王国に至る「万二千余里」には、行程記事の「水行、陸行」の日数は含まれていないのか。なお、女王国の定義としては、「女王が居住した国〔直接治めた国〕、またその宮都」の意味で、邪馬台国と同じと解しておく。
○伊都国から女王国までは、千五百余里の距離であったか。
○現存『魏志倭人伝』の行程記事は、古代の中国では直線的(順次式)な行程として読まれていたのか。
○魏の正使は女王国の都に詣り、女王卑弥呼(ないしはそれに準ずる高官)に拝謁したか。
○当時の行程記事の記録者(魏の正使等)の認識は正しかったか。また、『魏志倭人伝』には誇張なしに記述されたか。
○女王国の都や中心(主要)領域は、海に接していなかったのか。
○現存『魏志倭人伝』の記述には、誤記誤植がないはずはないか。また、記事の事後改変はあったか。
○現存『三国志』(『魏志倭人伝』を含む)の記述だけで、女王国の都の所在地が確定できないのか。
○『魏志倭人伝』の記述に見える末盧国・伊都国・奴国は、現代地名に類似する松浦・怡土・儺でよいのか。
○投馬国の位置を確定しなくとも、女王国都の位置探索には影響がないのか。
○狗奴国は肥後以南にあったのか。 ○『魏志倭人伝』には、いわゆる「短里」の記述があるか。なお、それが部分短里か全体短里かを問わない。
以上の諸点についての拙見は、いずれも肯定(これは日本語的な用法での「肯定」であり、具体的な表現としては、いずれの項目も設問の文から「か」「のか」を除いた形)である。 従って、女王国の都の所在地については、『魏志倭人伝』の記述からは、北九州の内陸部(肥後より北の地域)、としか導き出せないことになる。 私見では、別途の視点からの検討も併せ考えて、結論としては、筑後川中流域の南方部(具体的には『和名抄』の筑後国山本・御井郡辺り、現・福岡県久留米市中心域あたりで、高良山の北西麓から北麓にかけての地)と考えている。 この筑後川流域に邪馬台国の位置を考える説は、従来かなり見られたが(筑後御井郡説、佐賀県三養基郡説、吉野ヶ里を含む筑後川北岸説、甘木説など)、端的に筑後山本郡をあげる説は現在まで管見に入っていないので、同様な説をご存知の方がおられたら、ご教示いただければ幸いである。拙見では、その後、山本郡よりも「高良・高羅」のある御井郡のほうに比重が遷っている(なお、安本氏の昭和42年刊『邪馬台国への道』では、山本郡を示唆するが、結局は甘木説を採用。大和岩雄氏の筑後川中流域説もあるが、その範囲は不明)(註3)。 3 私は『古代日本海文化』(『古代史の海』誌の前身)以来の会員であるが、これまで本『古代史の海』誌には投稿などの積極的な行動をとってこなかった。それどころか、同誌を瞥見はしたものの、じっくり読み込んでもこなかった。その理由は仕事などで多忙の他にもあって、同誌がその名にかかわらず、邪馬台国論争とそれに関する用語の海外文献等を通じる解釈に、投稿主題がやや偏る傾向があり(とくに、古田氏風の解釈学アプローチが多い)、私が最も関心を持つ古代氏族の動向研究に及ぶ例が少なかったからである。時にそうしたテーマがあっても、空想論的な論述傾向が割合、感じられたのである。 ところが、最近、思うところがあって、『古代史の海』誌を第0号から最新刊まで(同誌の基となった『古代日本海文化』の第25号以降も含めて)読み直したところ、種々示唆を受ける点があり、この一文をものした次第である。この四年間ほどの掲載論考の作者は、比較的限定されているようであるが、なかでは半沢、木佐、秦の三氏(世辞ぬきに、さすが編集委員!というところか)などの論考は、示唆深く読ませていただいた。その学恩に深く感謝する次第である。
勿論、こう書くことは、それら結論の是認を意味するものではない。さらに残念ながら、大王家(天皇家)などの氏族研究に及ぶと、論理の飛躍や疑問な表現(例えば、「猿女君」という姓氏は存在しなかったのに、存在を当然の前提とした議論がある(註4))もまま見られる。半沢氏のいわゆる“キョウダイ原理”(傍系相続と意味が異なるのなら、これに読み替えれば)が、大和朝廷の初期大王に当てはまることを、基本的には私も認める。ところが、どうして即、神武天皇など初期大王が虚構的存在といいうるのか。単に初期大王たちの父子相続という系譜が否定されるだけなのである。
私は、初期大王たちの属する世代を、多くの古代氏族の系譜から帰納的に求めて、崇神天皇を神武天皇の九世孫(直系の第十代目の意味)とするという記紀記述を否定し、五世孫(その中間に四世代あるという意味。ただし、中間の系譜の詳細は、確定しがたい面がある)と算出している。同様に、応神の属する世代(仲哀も同じ世代)は崇神世代の三世代後(すなわち、中間に二世代。ただし、男系の子孫ではない)に当たるとみる。 こうした世代配置は、多くの古代氏族系図に当たれば自ずと理解されるものであり、最近では、崎元正教氏がその著『ヤマトタケるに秘められた古代史』(2005年)でまったく同様な結論に到達されている。 具体的に天皇の在位者数と世代数から求めた回帰方程式等から、神武の在位時期は西暦175年頃〜194年頃、同じく崇神は西暦315年頃〜332年頃、同じく応神は西暦390年頃〜413年頃と試算して、それぞれの実在性を考えている。この関係では、拙著『古代氏族系図集成』(昭和61年4月刊)の第一部第二編(とくに17〜29頁)を参照されたい。本稿では、その当時算出した数値を再考した結果、若干の変更をしているが、年代論の基本的な考えは変わっていない。 こうした上古年代の検討にあっても、『古事記』の伝本により取扱いの異なる崩年干支(註5)などというあやふやな記事は、基本的に排除すべきであろう(そのまま換算するような年代算出は避けるべきだと言うこと)。上古大王の治世時期や古墳築造時期等の年代観でも、邪馬台国東遷説をとる安本氏はやや引き下げ気味であり(古代諸天皇の一代平均在位年数を10年余ほど〔10.44とか10.77、10.88とかの数値〕として上古へ遡る手法は、基礎数値の採り方によって算定値にかなりのムラが出るし、本来幅をもってみられるべきものである。従って、基本的には取り得ない)、一方、崩年干支等に拠る論者は引き上げ気味であり、いわゆる主流派の考古学者の近年の傾向は、年輪年代法や放射性炭素年代測定法に基づいて、かなりの年代引き上げ気味である。
この辺りの論議も、両者の中間地帯に歴史の実態があるのではなかろうかと私はみている。上掲の試算値はとくに中間値を目指したものではないが、回帰方程式等の総合的な検討から導かれたものであり、貝田禎造氏の年代・暦に対する考え(倍数年暦論。『古代天皇長寿の謎』六興出版、昭和60年刊)や書紀紀年修正値等ともほぼ符合するものがある。 4 ここに一例として、初期大王の活動年代を取り上げたが、私が言いたいのは、『古代史の海』誌に記紀関係分析の論述がもっと増えたほうがよいのではないかということである。これは、日本古代史分野の全体に対しても同様に言えることであり、古代史上の諸問題が考古学者(主流・多数をなす関西系学者?)の出す結論で全て決着するような風潮に対しての疑問提起でもある。論理的に考えても、文献にしか現れない邪馬台国所在地問題は、明らかに先ず文献検討で大枠が決められるべきものである。 記紀の科学的検討が必要だとする津田左右吉博士の問題提起は正しかったが、応神天皇より前の時期の記紀の殆どの記事を「造作論」として否定しがちな博士の結論は、当時の関連諸科学の進歩状況の制約を考えても、否定の論理がかなり粗雑であって、総じて視野狭窄的であって疑問なものが多い。 記紀については、主流の歴史学者からは、厳密で徹底的な史料批判など、現代に至るまで決してなされてはこなかった、というのが実情である。既にこれが津田博士などにより十分なされてきたという認識も学究などの論考記事のなかにときに見かけるが、どうしてそう思い込まれるのか、私には疑問が大きい。津田博士及びその亜流の学者の検討結果に対する盲信は、古代史研究の大きな阻害要因であり、もはや止めるべきである。津田博士らの学問的姿勢が当時はいかに立派であっても、その導き出した結論とはまったく別物である。ましてや、勘違いも多々ある。 いま必要なのは、津田信仰に基づく盲信的な結論を排して、実証的・具体的・総合的な視点から記紀などの文献資料を十分に合理的総合的に検討することである(註6)。結論の是非はともかく、三木太郎氏や古田武彦氏などの問題提起により、語句を中心とする『魏志倭人伝』関係の検討は近年、著しく進展しており、そのことは『古代史の海』誌全巻を通読しても、実感するからでもある。 国内及び海外文献が古代史において稀少なことを考えると、その検討が均衡的整合的に進展することを強く願う次第である。日本古代史の文献分野の研究者の奮起が強く望まれるところでもある。
〔註〕 (註1)真理が「中間」といっても、ある程度の幅のある感覚でいっており、足して2で割ったものというわけではないことは言うまでもないはずである。ところが、最近、まさにちょうど真ん中という理解をされて面食らったことがある。 「真理は中間にあり」ということは、私が古代史を研究する過程で感じたことであるが、理論物理学者の佐治晴夫氏も同様な感触(両極端の狭間にある)を随想で述べられるのを見て(読売新聞02.7.28日曜版「夢見る科学」)、学問に共通なところがあるものだなあ、と感じた次第でもある。 (註2) 総じて数学や統計学に弱そうな人文科学系の研究者は、「年輪年代法」などの自然科学の装いに惑わされがちの模様だが、これまで誰もその結論数値を検証できないという致命的な問題点がある。これについての批判は、畏友小林滋氏が「法隆寺と年輪年代法(上)」(『季刊/古代史の海』第26・27号に所収)で記述される。 本HPの小林氏の寄稿「年輪年代法を巡って」も参照されたい。 (註3) 本稿発表後では、在野で久留米在住の研究者福島雅彦氏が水縄山地北麓説をネット上に掲載しており(現在では、この記事は消滅)、これが山本郡説に近いかと思ったが、具体的な地域としては奥地の浮羽郡説とのこととされる。これでは、少し東へ寄りすぎる。 また、私自身も、本稿発表頃までは山本郡に重点を置いて考えていたが、古代信仰の霊地、祭祀や考古学的な視点等をさらに検討した結果、西隣の御井郡と併せた地域を邪馬台国の主要領域と考え、とくにそのうち久留米市の高良大社を含む一帯を卑弥呼当時の中心根拠地とみる立場となってきており、当初からは若干の変更をしている。 (註4) 半沢英一氏に限らず、「猿女君」という姓氏が存在したように解する学者が多いが、これは「姓氏」の意義を理解しないことからくる誤解に過ぎず、「君」は尊称・美称であって、一種、「遊君(遊女)」に通じるようなものもある。 拙稿「猿女君の意義−稗田阿禮の周辺−」(『東アジアの古代文化』106号〜 108号)を参照されたい。 本HPでは、「稗田阿禮の実在性と古事記序文」でも記述する。 (註5) 現存『古事記』の伝本は、最古のものでも南北朝期の応安四年・五年(1371〜72)に書写された真福寺本であり、同書では割註(細字双行)の形で「崩年干支」を記すが、他の伝本ではこれを本文として記すなど、その取扱いが異なるものがある。そのためか、度会延佳の『鼇頭古事記』、本居宣長の『古事記伝』『古訓古事記』では、崩年干支の記事を一切削っている。
中国から伝来の古代暦法は元嘉暦・儀鳳暦と変わり、また、書紀紀年でも七世紀中葉の記事では三通りの干支紀年が見られて、干支紀年による暦法が崇神天皇の頃から現行と同じ形で行われたことは考え難い。これらの事情から、崩年干支には後世の加筆の可能性も考えられないこともなく、信頼を置き難いものがある。管見には入ったところでも、井上光貞氏(『神話から歴史へ』283頁)や鈴木靖民氏(『古代国家史研究の歩み』73頁)等は、崩年干支から天皇の年代を推定することに疑問を持っている。
(註6) 記紀を邪馬台国研究などにどの程度利用できるかという問題があり、安本美典氏のような取扱いは疑問が大きいが、静岡大学の教授であった原秀三郎氏のように“否定的な形”での使い方は十分できると考えられる。すなわち、記紀の記述に拠ると、「邪馬台国が畿内大和にあったとすると、邪馬台国(崇神朝の初期大和政権)の勢力圏は北部九州に及んでいない」「大和王権が邪馬台国をはじめ西方55国を平定し、国土を統合するのは、景行朝のヤマトタケル以後」の時期である、と考えられ(「歴史万華鏡」毎日新聞・平成10年2月12日掲載)、この結果、邪馬台国九州説に導かれることになる。
原氏の年代観には多少とも問題もあるが(いずれにせよ、崇神の実在を認める説では、三世紀中葉〜四世紀前葉というほぼ百年の幅に収まる)、記紀をいかなる意味でも邪馬台国研究から排除するという立場は、文献資料が乏しい時代を研究対象とする研究者の姿勢として疑問が大きく、わが国上古の歴史の流れを無視することになろう。
(平成11年7月25日記述し、『季刊/古代史の海』第17号(1999/9)に所載の稿を若干修正。その後に、2003.1.13、2010.10.6、20.11.08などにも追補あり)
<追補> 先般、ネットや関係書に当たっていたら、邪馬台国所在地の問題について、次のような表現が見られた。これこそ、「真理は中間にありか」の一例でもあると思われるので、私見を表示しておく。 記紀に「神武東征」と言われる、九州勢力の畿内への東征が現実にあったとしたら、その時期は卑弥呼の邪馬台国時代の前か後か、という視点である。 その答の選択肢として、多くが次の2つしかあげられないことに、私は愕然となった。すなわち、 A 邪馬台国時代の後で行われたとしたら、九州説が有力。(邪馬台国勢力が東遷) B 邪馬台国以前に行われたとすれば、畿内説が有力。(東征後に邪馬台国に発展) しかし、選択肢はこの2つだけではない。それは、邪馬台国という1つの国が理由なしに全体が東遷するはずがないという見方(及び歴史の具体例)に基づくものであり、かつ、九州と畿内に大勢力(一方は、中小勢力かもしれないが)が並存していたことも十分ありうるという立場からのものでもある。すなわち、 C 邪馬台国以前に行われたとしても、九州説が有力。(神武東征後の近畿の勢力と邪馬台国とが並立) そして、私は現実にCの立場にたつものであり、久保田穰氏も『邪馬台国と大和朝廷』で同様な見解を表明している。かつ、卑弥呼は天照大神でもないし、記紀に見える何者でもないこと(記紀には卑弥呼が見えないということ)、に留意される。記紀の記事をそのままに素朴に受けとめて、卑弥呼は天照大神だとか、天照大神が「女神」だと思い込むのは、是非やめてほしいと思われる。 (2010.10.06 掲上。20.11.08等に若干追捕) 邪馬台国の所在地の問題についての<福島雅彦様からの来信> |