邪馬台国の所在地の問題 |
<福島雅彦様からの来信> 2010.8.13 受け
「邪馬臺國」の所在地論で「御井・山本説」を聴いた事が無い、旨でした。
私は、 (1)言語考古学を標榜、所謂「邪馬臺國」としていて、魏使(郡使)は女王国まで来ていない、と。
(2)『三国志(魏志倭人伝)』は「邪馬壹國」としている。どちらかが誤記・誤写とする説は在るが、私は双方とも正しい、と。
即ち、「邪馬臺國」=「邪馬・邪靡」たィ、と筑後弁で女王「卑彌呼」の居所説明をしただけ、と。
「邪馬壹國」=「邪馬・邪靡」ンうヰ(上)と、女王「卑彌呼」の居所説明文言の音写である、と。
※裴世清が現地踏査して、「古の「邪馬臺」は「邪靡堆」だった」と「國」の文字を外して、国名ではなかった、
と前史の誤謬を訂正している。
*「邪靡堆」=水縄連山(耳納山地)の山容・山態を表言している。
*この文字撰びは絶妙です。「靡く」=東西25キロの一重の単山の山頂がノコギリの歯状を呈していて、これから伸びる下り尾根は、「黒髪靡く」形容がぴったり。そして「堆(うずたか)い」小山である。
∴御井・山本も包含して水縄連山(耳納山地)が、所謂「邪馬臺國」です。
*「卑彌呼」の奥座敷は八女郡星野村(明治の廃藩置県時点では浮羽郡)です。
*投馬國が八女郡=「上・下妻郡」(倭名類聚鈔)ですから、「邪馬壹國」以北が整合します。
*投馬國=國=水縄連山(耳納山地)と筑肥山地の「双山國」の意。
*因みに「對海(馬)國」も同義=「双山國」(上・下県郡)です。
以上、福島雅彦(福嶋正日子)説です。
himmikot@mocha.ocn.ne.jp
(樹童からのお答え) ご連絡ありがとうございます。
邪馬台国の所在地については、本HPの「随想「真理は中間にあり」か」の記事で要点は記載しているとおりです。すなわち、
1 邪馬台国九州説でも、いくつかの各地について主張がなされているが、当初は、「山本郡に重点を置いて考えていたが、古代信仰の霊地や考古学的な視点等をさらに検討した結果、西隣の御井郡と併せた地域を邪馬台国の主要領域と考え、とくにそのうち久留米市の高良大社を含む一帯を卑弥呼当時の中心根拠地とみる立場となってきており、若干の変更をしている」というのが拙見の基本です。 2 これまでも、御井郡説は植村清二・榎一雄など何人かの学究から主張されておりますが(ネット上でもいくつか見える)、どちらかというと、筑後の御井郡から山門郡あたりまで含むような広域(井上光貞説はこうしたものか)とか、御井郡・吉野ヶ里を含む地域とか、御井郡を含んでも、そこから西側に向けての地域が主に考えられてきたようです。
私は、筑後川南岸の台地で御井・山本両郡を主領域に考えており、その南方の水縄山地から見れば、福島雅彦様がいわれる「水縄山地北麓説」といってもよいと思われますが、これが山本郡説に近いかと思われましたが、具体的な地域としては浮羽郡説とのこととされるようで、これでは少し東へ寄りすぎるので、卑弥呼時代の中心域としては高良大社一帯を考えています。浮羽郡には目立った遺跡もなく、その後の歴史でも重要な位置づけがあったとは思われません。「卑弥呼」の奥座敷は、八女郡星野村という奥まった地域に考えるのは不自然だと思われます。
3 今回の貴見について拙見を言いますと、
(1) 倭国への遣使が北九州に上陸していながら、そこから遠くない卑弥呼の都には来なかったとか、巫女としての性格を有した卑弥呼はともかく、当時の邪馬台国首脳部と会見しなかったと考えるのは、きわめて不自然なことだと考えます。そんなことでは、皇帝の遣使としての役割を果たしたとはいえないということです。
(2) 誤記・誤写の問題では、古代でも中世の文書・書籍でも、誤記・誤写は付き物であり、多くの資料に当たれば、必ずといっていいくらい、誤記・誤写が出てきます。とくに筆写の期間が長い『三国志』についていえば、誤記・誤写がないと考えるほうが不自然な感じです。新疆省で発掘された『三国志』残簡が、現存刊行本とかなり大きな差異があることが知られています。 (2010.8.21 掲上)
<福島様からの来信2> 10.8.21受け 幾つかの疑問点にお答えいたします。短文ですので、表現不足は否めませんが。
1.「卑彌呼」の居所は『三国志(魏志倭人伝)』頃までは、うきは市(筑紫の日向)と星野村で、『隋書』の「阿毎多利思比孤」の頃は高良山に遷ったと思っています。裴世清を十日待たせて、館を飾り道を清めたのは、大宰府に待たせて高良山までの道を清掃(人糞、犬糞、雑草)した、と。 2.伊都國より先へは、道路が整備されておらず、衣冠束帯の貴人は行けなかった、と。 魏使(郡使)は、男弟を呼びつけて伝達し、役目を果たした、と。
水行二十日の投馬國=瑞梅寺川→今津湾→博多湾→御笠川⇒(只越え=船毎担いで)→宝満川→筑後川→有明海→矢部川→八女福島(投馬國)。
↓→巨瀬川遡上=うきは市(筑紫の日向=妹川地区にバス停・日向現存)です。
3.即ち、水行十日陸行一月は伊都國まで。水行二十日の以内に「邪馬壹國」はあり、投馬國の以北が整合します。
※八月二十四日 久留米大学公開講座『邪馬臺國と筑後弁』の講演をします。
私の論拠のレジメをお渡しできますが…。
(樹童の感触)
1 邪馬台国都を高良山周辺におくという点ではほぼ共通するものがありますが、邪馬台国の国王がその都を変遷させたということの裏付けはなんらありません(従って、都の変遷が殆どないとしたほうが自然)。また、いわゆる「九州王朝説」は古田武彦氏らの空想であり、中国文献に過剰に頼った独自の解釈に因るものとみられますし(『記・紀』『風土記』などの国内文献に合わないし、古代九州の諸国造の配置とも矛盾する)、科学的学問レベルでの議論と考えませんので、この関係で議論するつもりはありません。
通説・多数説がいつも正しいとは限りませんが、「九州王朝説」については成立の余地がありません。
2 中国の王朝を代表する使節が倭都まで来て倭首脳部と会ったことは、『魏志倭人伝』の記事のいくつか(梯儁や張政にかかる記事)や使節の役割からみて、当然のことです。経路は、北九州上陸後に「博多付近→大宰府付近→高良山麓」ということが自然です。「投馬国」の所在地については、現存の倭人伝からは具体的な比定ができません。
3
「水行十日陸行一月」や「水行二十日」は、後世の竄入記事だとみています。すなわち、『魏志倭人伝』成立時の記事にはなかった記事という意味です。従って、上記2のように、「投馬国」の所在地不明につながるものです。
4 要は、古代関係の諸文献の解釈には、社会的見地からも政治的見地からも、総合的具体的常識的なバランスに基づく判断が必要と思われます。このアンバランスさが、邪馬台国位置論関係の議論も見かけ上は混乱していることにつながっています。無論、畿内説になるのは、文理的にきわめて無理な議論ですが。考古学だけで、邪馬台国の所在地問題を考えるのは極めて無理なものです。
(2010.8.26 掲上。その後、若干の追補)
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