映画と記憶『銀座の恋の物語』を巡って

                                        小林  滋

  1部 映画から

(1)『銀座の恋の物語』へ

1.この間のゴールデン・ウィークで上映が終了するというので、慌てて渋谷のイメージ・フォーラム〔注1〕で見た映画があります。田中誠監督の手になる伝奇ミステリー映画『雨の町』です。

 映画館の入りは、決して芳しくありませんでした。それでも、本年大評判をとった映画『県庁の星』〔西谷弘監督〕で厨房スタッフの役を好演した和田聰宏や、昨年は賞を総なめにした『バッチギ!』〔井筒和幸監督〕で朝鮮高校3年生(卒業後に看護婦)を演じた真木よう子らが実に落ち着いた演技をしていて、しかも映画全体としてミステリアスな雰囲気が大層うまく醸し出されていたので、とてもいい時間を過ごすことができました。

 映画のストーリーを、余り“ネタバレ”しないように注意しながら、簡単に申し上げてみましょう。とある地方の町で、内臓のない男の子の死体が見つかります。早速、フリーのルポライター〔和田聰宏〕がこの事件を取材することとなり、概要を掴むために先ず町役場を訪れたところ、35年前に近くの山村で子どもたちの集団失踪事件があったことがわかります。より詳しく調査しようと、町役場の女性職員〔真木よう子〕の案内で、問題の村に入ります。寂れた昔の小学校に潜り込むと、陳列棚に子供たちの卒業写真を見つけ出します。なんとそこには、死体で発見された男の子が写っています。別の用事がある女性職員と別れて、記者は一人で山林を踏査しますが、その途中で、昔の制服姿のままの小学生二人に出会います。彼らをそれぞれの家まで連れ戻そうとすると、そうさせまいとする男が現れ、‥‥。

 以上は映画の前半部についてであり、もう少し申し上げないと、この映画をご覧になっていない方にはなかなか理解し難いかもしれません。ただ、その中心的なところは次の点にあると思われます。

 

a.ある町で、35年前に子どもたちの集団失踪事件があった。

b.事件に巻き込まれた子供たちが、35年経った今、当時のままの姿で家に帰ろうとしている。

c.ところが、それぞれの家の方ではスンナリとは受け入れてはくれない。

 

2.映画の原作は、菊池秀行氏の同名の短編〔井上雅彦監修『異形コレクションU 侵略!』(廣済堂文庫)所収〕です。といいましても、原作と映画とは原理的に別のものであり、加えて、短編では登場しない雑誌記者とか町役場の女性職員が映画では活躍するという具合であり、基本的なアイデアは同一にしても、両者は全然別物と考えるべきでしょう。

 特に、原作の短編では、集団失踪事件なるものは起きません。子どもたちの失踪は、「あの子は、じゃあね、と言って雨の中へ出て行ったきり戻りませんでした」とか、「(息子が)雨の日に友だちの家に出かけて‥‥それきりだ。‥‥もう50年も前のことだよ」というように、半世紀も昔の個々の出来事として描かれ、さらに「雨の日に姿を消した子供たちが、時折り、戻ってくることがあるのです」と、老夫婦が語り手の「私」に話します。そして、雨の降る中、街灯の下で佇んでいる男の子に遭遇した「私」は、彼を老夫婦の家の門の前まで連れて行き、老夫婦に対し、「お子さんは、ここにいます。何故だか知りませんが、昔のまま、七つのときの姿で」と、玄関を開けるように懇請します。しかし、聞き入れてはもらえません。

 とはいえ、映画のような集団失踪事件であっても、また短編のような個別の出来事としても、「神隠し」のように掻き消えてしまった子供たちは、その両親にとっては、いつまでも見失われてしまった時の姿のままシッカリと「記憶」されているに相違ないでしょう。

 

3.ところで、ゴールデン・ウィーク直前の4月25日は、死者107名を出したJR福知山線の悲惨な事故から丁度1年目に当たることから、TV等のニュース番組で、関係する事柄が様々に取り上げられていました。

 不謹慎だと批難されるかもしれませんが、それらの番組を見ながら次のようなことを考えてしまいました。この「神隠し」という点からすれば、同事故で親族等を亡くされた関係者の方々にとっては、映画『雨の町』の老夫婦たちと同じ目に遭遇された、とあるいは言えるのではないでしょうか?

 申すまでもなく、この事故の原因は科学的な調査によって今後とも徹底的に解明されることでしょう〔注2〕。ですから、いい加減なアナロジーは厳に戒めなければなりません。ただ、現象面だけを表面的に比べれば、この事故で親族等を亡くされた関係者の方々にとっては、犠牲者の方々が、まるで映画の集団失踪事件のように「神隠し」に遭遇され、突然消えてしまったも同然ではなかったでしょうか?そして、あの朝元気に“行ってきます”と言って玄関から出て行ったそのときの姿がそのまま「記憶」に焼きついているのではないか、と考えられるところです。

 としましても、こうしたアナロジーはここまでです。上記1の末尾に列記しましたa〜cのなかでも、特にcに関しては、『雨の町』の原作や映画とJR福知山線の事故とでは大違いです。

 一方で、原作では、「神隠しにあって戻ってきた子供は、決して家へ上げてはならぬ」という「古えの見解」があるとされ、それを聞いた「私」は、「帰ってきた子供たちは―この世界を乗っ取ろうと?」と尋ねますが、老夫婦からははかばかしい答えは得られません。短編においては、彼らは異星からやってきた「侵略者」とされているように考えられます。というのも、この小説は、「書下ろし侵略ホラーアンソロジー」である『異形コレクション』に収められており、同書の編集序文では、監修者の井上氏が「宇宙的生命に翻弄される人間を扱った《侵略もの》」といった言葉が使われたりしているからですが。

 また、映画においても、帰ってきた子供は「あまんじゃく」とされ、その顔も大写しになったりしますが〔注3〕、原作と同じように、結局のところ何者かは明確にされないままです。

 他方、JR福知山線の事故のご遺族等は、亡くなった方々が、是非、家を出発した時の姿で元気に家に帰ってきて欲しいと願っているに違いありません。

 

4. JR福知山線の事故で遭難され亡くなった107名の方々の無念さは余りあるものと思います。ですが、それだけでなく、事故で負傷された方々とか取り残された方々の状況も大変厳しいものです。同事故に関するTVニュース番組では、事故から一年経った現在でも、昔通りの日常生活を営むことができなくなっている方々がいらっしゃる様子が紹介されていました。

 例えば、ご主人をこの事故で亡くされたある女性は、なかなか前向きに進もうという気が起こらず、最近まで、ご主人の遺品の入った風呂敷包みを開けてみることが出来ないほどでした。そして、ただなんとかしてご主人が亡くなった場所〔この電車の何両目におられたのか〕を割り出そうと関係者の間を尋ねまわったりしながら生活している様が映し出されていました。

 更には、この事故によって、強い精神的なダメージを受けた方々がいらっしゃることも報道されておりました。例えば、本年4月3日の読売新聞には、次のような記事が掲載されています〔注4〕。

 「JR福知山線の脱線事故から今月25日で1年を迎えるのを前に、読売新聞は3月、連絡先のわかった負傷者150人を対象に、面接や質問書を郵送して、心身の状況や日常生活への影響など23項目のアンケート調査を行った。/70人(男36人、女34人)から回答を得たが、その半数以上は体や心に負った傷が癒えず、3人に1人は、心身の変調で失業するなどしている実態が明らかになった。/今も身体のけがやPTSD(心的外傷後ストレス障害)など心の傷を抱えているのは38人。「治療中」は25人で、ほとんどが4両目より前に乗っていた。「立っているだけで疲れる」などと訴える人が多い。/心の傷が消えない人は30人にのぼり、10人が専門家のケアを受けている。「事故当時の光景がよみがえる」(19人)などと訴える人が多く、乗車位置に関係なく事故の記憶にさいなまれている。心身の傷で「仕事を辞めた」「大学を長期間休んだ」など生活に影響があったと回答したのは24人。事故後、69人が電車を利用しているが、12人は「JRには乗れない」という。」

 

5.JR福知山線の事故のような大きな出来事に遭遇して強い精神的なショックを受けますと、その後もその「記憶」が突然よみがえるなどの症状があらわれて、日常生活が支障をきたす場合があります。上記の新聞記事にも記載されておりますが、こういう症状を呈する精神障害に対してPTSD(「心的外傷後ストレス障害」)という名称が与えられています。

 このPTSDは、阪神淡路大震災とか、ちょうど5年前の大阪府の池田小学校事件に際し大きく取り上げられました〔注5〕。また、2004年6月には長崎県の佐世保小学校で殺傷事件が起こり、その際にもPTSDが問題となりました〔注6〕。

 その診断に当たりましては、日本でも、米国精神医学会が定める診断基準(DSM-Wによるもの)が広く使われているようです。同基準によれば、次の3つのグループに分類される症状のすべてにつき、それが「1ヶ月以上にわたって持続し、それにより主観的苦痛や生活機能・社会機能に明らかな支障が認められたとき」に、PTSDと診断されます〔注7〕。

 

a.再体験症状‥‥出来事に関する不快で苦痛な記憶が、フラッシュバックや夢の形で繰り返しよみがえる。

b.回避症状‥‥出来事に関して考えたり話したり、感情がわき起こるのを、極力避けようとしたり、思い出させる場所や物を避けようとする。

c.覚醒昂進症状‥‥睡眠障害、いらいらして怒りっぽくなる、物事に集中できないなど、精神的緊張が高まった状態。

 

 これらの症状の中でも、aの「再体験症状(侵入症状)」が特徴的です。すなわち、「トラウマティックな記憶は、思い出したいときに思い出すというコントロールがきかず、勝手にその人の意識に「侵入」してくる」のです。この場合、「映像など視覚的なイメージの再生を伴うことが多く、患者は「フィルムをまわすように事件が再現されて止めることができない」、「頭の中でストロボがたかれたようにパンパンと場面が出てくる」といった表現をする」とされています。そして、「フラッシュバックは侵入症状の中でもその再体験の程度が最も極まったものであり、今まさにその出来事を体験しているかのような現実感を伴」うようです〔注8〕。

 こうした厳しい症状が繰り返し「その人の意思に反して生じる」ために、この「侵入症状を軽減す」べくbの「回避症状」が現れ、また「常に緊張状態にあってリラックスすることができないために」、cの睡眠障害などの症状を示すことにもなると考えられます〔注9〕。 

 

6.ここで再度、冒頭の映画『雨の町』に話を戻しましょう。この映画は、久し振りに「伝奇ミステリー」でもと思い立って見に行ったわけですが、実はもう一つ、原作者の弟の菊地成孔氏がエンディング・テーマ曲『愛の感染』を作曲している点にも惹かれました〔注10〕。

 というのも、彼は、ジャズ系サックス奏者であり、文筆家等でもあり、また、非常勤講師として東大駒場でジャズの歴史などについて1年間講義をして、その講義録『東京大学のアルバート・アイラー』(メディア総合研究所)が出版されていたりしますので〔注11〕、エンディング曲が一体どんなものなのか是非知りたいと思ったからです。

 映画のラストシーンからクレジットを経てスクリーンが真っ白になるまで流されるその音楽を聴いていますと、実にシンプルなメロディーながら、この映画の印象的なシーンが一つずつ蘇り心に染み込んでいくような感じがしました〔注12〕。

 そういうこともあって、このところ、菊地成孔氏のCDを聞いたり、エッセイ集などを読んだりすることが多くなりました。とりわけ『DEGUSTATION A JAZZ』(2004年)は、どれも演奏時間が非常に短くカットされた30曲も1枚のCDに集められたものながら、サックスの演奏あり、歌あり、ナレーションありと、題名そのもののごとく菊池氏の音楽を心行くまで堪能することができました。

 また、どのエッセイ集も面白いのですが、第2エッセイ集の歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』(2004年、小学館)は、9年間にわたる「過去の書き飛ばし原稿群」(P.314)の「総てに加筆修正を施し、総てに解説を付け」たもので(P.8)、頗る興味深いものがあります。その中には、このCDについて解説している文章が収録されており、それによれば、「(このCDにおいて)僕がしでかそうとしているのは、旧来的なモダン・ジャズのドグマを解体し、エレガントで、フォーマルで、ブルーで官能的な、つまり本来の姿のまま、ジャズのポスト・モダニズムを行うこと」(P.312)だそうです。確かに、「エレガントで、フォーマルで、ブルーで官能的」という狙いは、見事に達成されているのではと思いました。

 

7.そうしたところ、出身地の銚子における小さい頃のことを綴った文章(「放蕩息子の帰還」)が収録されている第1エッセイ集の『スペインの宇宙食』(2003年、小学館)の「あとがき」の中に(同書P.284〜P.285)、大変面白い記事が書かれているのに遭遇いたしました。40年以上も昔の映画『銀座の恋の物語』の中にある一つエピソードを巡るものです。

 よく知られているように、この映画は、蔵原惟繕監督で1962年に制作され、石原裕次郎浅丘ルリ子が出演し、その主題歌は、今もって「銀恋」と愛称されて“おじさんカラオケ”の定番中の定番となっているところです〔注13〕。

 貧乏画学生の裕次郎は、銀座をこよなく愛し、銀座を描くことに生きがいを見出しています。その才能を見込んで高給で雇おうとする人が現われるものの、芸術の道から外れる不純なものは拒否しようとして、それを断り続けています。ただ、そのために、恋人の浅丘ルリ子〔洋裁店のお針子〕との結婚がなかなか現実化しません。

 こうした状況にある二人が遭遇した一つの出来事が、同書の「あとがき」で取り上げられているのです。裕次郎が、浅丘ルリ子と連れ立って、舞台装置担当の友人の仕事場に出向いた際のこと。二人で開演前の舞台に上ったところ、友人がいきなりスポットライトを彼女に当てたのです。すると、「その瞬間、ルリ子が突然ただならぬ悲鳴を上げて昏倒してしま」います。裕次郎に説明を求められた彼女は、戦争中の空襲による炎に包まれた両親の姿を思い出したからと言います。菊地氏は、映画におけるルリ子の台詞を、わざわざ引用しています。「ごめんなさい‥‥‥あたし‥‥‥強い光が怖いの‥‥‥空襲を思い出して‥‥‥防空壕から出ると‥‥‥(ここから一転してヒステリックに)あたしの目の前で!真っ赤な光に包まれたお父さんとお母さんが!!ああああああああ!!」。

 これを踏まえて(「年端も行かぬ少女が、目の前で両親を焼き殺されたのです。米軍の空爆によって。それを、強い光を見るたびにフラッシュバックするんですよ」)、舞台における浅丘ルリ子の反応は、PTSDそのものだと菊地氏は断言するのです(「エッグいPTSDだろこれー」)。

 素人診断に過ぎませんが、私も、このエピソードからすれば、彼女の症状は上記5で触れたPTSDの症状〔特に、aの再体験症状〕に酷似していると思います。

 

8.とりわけ、ルリ子に対する裕次郎の対応振りに、菊地氏は大層驚いています。同書「あとがき」では、次のように述べられています。「彼はニヤリと不敵に微笑むと、人差し指でルリ子の額をちょんという感じで軽く小突き、「馬鹿だなあ。そんなことは忘れるって約束したろう(ニヤリ+ウインク)」と、言ったのでした」。

 裕次郎のこうした言動に対するルリ子の様子についても、「ルリ子はこの台詞に(それが当然だという調子で)、そうね。ごめんなさい。とばかりに健気に答え、それ以後、映画が終わるまでこの問題は扱われない」と書かれています。

 菊地氏が、一体なぜ40年以上も前に製作された映画で描かれたこの話をわざわざ持ち出したのか、その真意が判然としないため〔注14〕、あまりまともに対応するのも気が引けるところです。ですが、それにしても、「あとがき」に書かれているようなことであれば、現在の日本におけるこの問題の取り扱い方と比べて、何という違いなのでしょうか。今や、何か事件があると、関係者の「心のケア」をどうするのか、という点が必ず問題となります。勿論、PTSDの症状が顕著であれば何の問題もないでしょう。しかしながら、診断の対象となる症状の大方は、個人の心の中の状況を巡ってのことです。そこで、次のような問題が指摘されるのも、当然と思えます。

 すなわち、「PTSDについては、本当に該当する患者はたしかに存在するのですが、非常に稀有です。‥‥みずからPTSDと訴える人の多くは、外傷的体験を無意識に利用してPTSDのようにみえる病気≠ノ引き籠もっているに過ぎません」(雑誌『諸君!』2006年7月号掲載の座談会「法と病の隙間に逃避する犯罪者を許すな」における埼玉医科大学助教授・岩波明氏の発言;同誌P.227)。

 また、同座談会においても引用されている事件については、それを報じた産経新聞記事〔注15〕の中で、関係する教員が「医療には素人の私でも『過保護では』と思える面もあった」と述べていることが記載されています。勿論、「PTSDが恐喝事件の原因になることは考えられない」と断言する見解も、同記事では紹介されています。

 ですから、「PTSDという診断概念」を使って「通常の疾患カテゴリーでは十分に描写されない患者に、支援、治療を提供することの重要性は、変わることはないはず」ではあるものの、「安易なPTSD診断の利用は厳に慎むべき」でしょう〔注16〕。

 

                 ※

 

(2)『銀座の恋の物語』から

9.さて、菊池成孔氏については、その言説をそのまま鵜呑みには出来ないとされています。何しろ、本人自身が、嘘を書いていることをアチコチで言い回っているくらいですから〔注17〕。仕方ありませんから、映画『銀座の恋の物語』のVTRをレンタルショップ・TSUTAYAから借りきて、確かめてみることとしました。

 「仕方ありません」と申し上げましたのは、この映画は、格好良いばかりが取得の“裕次郎モノ”の一種で、菊地氏が取り上げたシーン以外は全然期待できないに違いないと心底思い込んでいからです(とりわけ、あの“銀恋”を映画化したものなのですから!)。 

 ですが、実のところは、その出来栄えにホトホト感心してしまいました。冒頭、裕次郎が俥夫となって人力車で銀座を走るのはご愛嬌、昔の銀座の様子を垣間見ることができ〔注18〕、またジェリー藤尾扮する冴えないピアノ弾きとの友情、麻薬捜査官・江利チエミの活躍等々、様々のエピソードがふんだんに盛り込まれていて、最後まで息を継げないほどの面白さでした。

 と言いましても、石原裕次郎の“貧乏”画学生というのは板につきませんし、やはりアクション場面が必要なのでしょう、ジェリー藤尾が使っているピアノを引取りに来た月賦屋を殴り倒すシーンなどもあったりします〔業者は、ジェリー藤尾がピアノの代金を払えなくなってしまったために、そのピアノを引取りに来ただけなのですから、どうみても喧嘩沙汰になるはずもないのですが〕。それに、麻薬捜査のためにキャバレーに潜り込んでいるはずの刑事・江利チエミが、手違いでキャバレーの舞台に引き出されるのはまだしも、歌手・江利チエミの得意の「奴さん」を歌ってしまうのはいただけません〔それだけでなく、こうした歌物映画では当たり前とは言え、彼女は、作詞・作曲が高島忠夫氏の「ノッポの彼氏とおチビの彼女」まで歌っています〕。

 と言ったことはさて置き、わざわざVTRを見る目的である確認作業を忘れてはなりません。すると、実際の映画のシーンでは、菊地氏が言うように「ルリ子が突然ただならぬ悲鳴を上げて昏倒してしま」うわけではなく、単に頭に手を当ててうずくまるだけで、スグに立ち上がってしまいます。とはいえ、空襲がフラッシュバックされたことはきちんと描かれていますから、そのような違いに殊更異を立てるには及ばないでしょう〔注19〕。

 また、裕次郎の対応振りについての記載内容も、実際の映画のシーンとは違っている部分があります。裕次郎は明るく喋りはしますが、いくらなんでも「彼はニヤリと不敵に微笑む」とか「ニヤリ+ウインク」とかは菊地氏の妄想です〔注20〕。ですが、それも些細な事柄に過ぎません。

 ですから、上記7で触れました舞台における浅丘ルリ子の状態を指してPTSDだとする菊地氏の判断そのものに格別問題があるわけではありません〔注21〕。

 

10. 菊地氏の書き振りに仮に問題があるとすれば、ここで触れましたエピソードは映画の前半三分の一くらいのところに出てくるのであって、それ以降の映画の大部分は、浅丘ルリ子の記憶喪失の話であり、そのことについて菊地氏が一言も触れていない点ではないかと思われます。

 すなわち、映画においては、上記6で触れたシーンの後、若干の曲折があった上で、裕次郎とルリ子は結婚することになり、二人で田舎にいる裕次郎の母に会いに行こうとします。ところが、裕次郎と待ち合わせた駅に急ぐルリ子が交通事故に遭遇し、記憶を喪失してしまいます。その後、彼女は、井沢良子という名前でデパートの館内放送係に就いていました〔注22〕。その彼女を裕次郎が探し出し、何とか以前の秋山久子の記憶を取り戻させようとします。ですが、どうやってもうまくいきません。そうしたところ、ルリ子が、裕次郎の部屋にあった卓上ピアノで何気なく“銀恋”のメロディーを弾きだすと、昔ソウだった様に、同じ箇所(鍵)で音が鳴りません〔注23〕。しかし、それを切っ掛けにして、秋山久子の記憶が蘇ってくるのです。

 

11 映画『銀座の恋の物語』は、建築家・詩人であり、かつ映画評論家でもある渡辺武信氏の『日活アクションの華麗な世界』(合本版は2004年発行、未來社)でも、5ページにわたって取り上げられております。同書によれば、「広義のムード・アクション」の第一作目であり、「物語の構成が堅実に組み立てられている傑作」だ、とされています〔同書P.253〕。

 さらに、同書においては、「ムード・アクション」の定義が与えられています〔P.280〕。いうまでもなく、裕次郎主演であり、その唄をタップリ聞ける日活アクション映画なのですが、それだけでなく、

 

a.ヒーローは、成熟した大人であり、「自己回復、自己奪回の行動の過程にも、智力、財力を駆使した政治性が支配的となる」。

b.ヒロインも、成熟した女となり、「しばしばヒーローと対立するしたたかな政治性を発揮する」。

c.ヒーロー、ヒロインの「それぞれの過去、または二人の共通の過去が強く意識され、ラマ全体が記憶への固執に支配される」。

 

 こうした定義が与えられているところからすれば、『銀座の恋の物語』における「記憶」の喪失→回復という過程は、決して単なる一つのエピソードではなく、この映画の勘所と言ってもいいのではと思われます。

 なお、「ムード・アクション」の定義に合致する映画として、渡辺氏は、「63〜67年の爛熟期において15本、その前後の時期の類似作を含めるとおよそ20本になる」が、その「正系」といえるものは8本に過ぎないとしています〔同書P.291〕

 確かに、これらの映画においては、ヒーロー、ヒロインの「それぞれの過去、または二人の共通の過去が強く意識され」はおります。ただ、『銀座の恋の物語』のように「記憶」そのものに焦点を当てた映画は見あたらないようです〔注24〕

 『銀座の恋の物語』は、もとより正統的な“アクション”映画ではないために、かつ、渡辺氏が上記の定義のうちで最も強調するaの点がそれほど強くは見られないために、「ムード・アクション」映画の周辺部に位置づけられるのかもしれません。ですが、それらの点を除き、上記定義のなかでもbやcの観点(特にc)からみれば、むしろその本流としてもかまわないものであり〔主題歌の“銀恋”の歌が、実にうまくストーリーにはめ込まれている点なども加えて〕、かつ質的レベル〔ヒーローとヒロインの造形プロセス〕においてもトップクラスのものではないかと思います〔注25〕。

 

12.『銀座の恋の物語』は、今から40年以上も昔に作られた映画です。ところが、最近の日本映画でも、「記憶」を巡る話が盛んにクローズアップされています。

 田中裕子主演で昨年静かなヒット作となった『いつか読書する日(緒方明監督、2005)では、アルツハイマー〔認知症〕に罹っている元英文学者・皆川真男が登場し〔注26〕、突然、カレー屋のスプーンを握り締めて川沿いを走った挙句、川に下りる階段で弁当を食べているのが発見されたりするシーンが描かれています。こうした場面は、認知症の老人が登場する場合、これまでも何度か映像化されています〔注27〕。ただ、この映画では、「さい(犀)」という言葉がわからなくなって、散々辞書を探しまくる姿が、彼の目を通して映像化されるなど、他の映画では見られない視点が取られているように思われます。

 なお、興味深いことに、この英文学者の妻で彼を介護する役を演じる渡辺美佐子氏は、映画『アカシアの道』(松岡錠司監督、2000年)においては、アルツハイマーに罹った63歳の母親役を演じているのです〔注28〕。

 

13.さらに、ゴールデン・ウィーク後には『明日の記憶』〔堤幸彦監督〕が公開されました。これは、まだ老年期に達してもいないにもかかわらず、記憶が少しづつ消滅していくという若年性アルツハイマー〔注29〕を取り扱っていて、公開前から相当話題になっていたところです。

 広告代理店の部長の渡辺謙は、まだ50歳になるかならないかですが、会議の際など人名が昔のようにスッと出てこなくなり、挙句は、顧客企業との重要会議の日程が変わったことを完全に忘れてしまったりします。そこで、病院で診察を受けますが、「若年性アツツハイマー」だと診断されます。次第に病気が進行していく中、娘の結婚式があったり、会社を退職したりという事件が起きますが、なんとか妻と二人で乗り切って行きます。そして、‥‥‥。

 この映画は、同名の小説〔萩原浩著、光文社、2004.10〕をかなり忠実に映画化しているといえましょう。とはいえ、娘〔吹石一恵〕の結婚式における主人公のスピーチは原作では行われませんし〔当日、妻から「今日はおとなしく座っているだけでいいんだから」と言われます(P.249)〕、また主人公の妻〔樋口可南子〕が友人の店〔陶芸ギャラリー〕で勤務することも原作ではありません〔尤も、「ドレスメーカー時代の友だちに会」ったりして「仕事を探しはじめている」とはされていますが(P.230)〕。

 ただ、そのような点は別に問題になりえません。映画と原作との一番大きな差異は、原作が、若年性アルツハイマーに罹っている「私」の視点から物語られているのに対して、映画の方では、主人公・渡辺謙のナレーションが数箇所入るものの〔主人公が“備忘録”を書いている時に〕、全体としては第3者の客観的な視点に立って描かれているという点ではないかと思われます。

 例えば、「私」の回りの光景が突然歪んでしまう様が原作で書かれています。部下と一緒に昼食を食べに入った蕎麦屋でのことです。「目の前の風景がゆがみ、そして揺れはじめた。蕎麦屋の壁にかかった品書きが、右にかしぎ、左にかしぐ。小上がり柱がぐにゃりと曲がった」。まさに、「私」に起きたことにつき、「私」の目で見た事柄が描かれています。

 他方、映画においても、彼の勤務する会社の入っているビルの廊下を歩いている最中とか、顧客企業のあるビルに行くために渋谷の駅前を歩いている時に、そうした事態に陥った様が描かれています。回りの光景が歪んでしまう様子を描き出すのは、まさに技術の進んだ最近の映画の独壇場でしょう。ですが、そうした映像の中心に主人公の渡辺謙が置かれているとなると、話はややこしくなってきます。果たして、この歪んだ光景は誰の目から見たものと考えるべきなのでしょうか?

 とはいえ、これは、映画の技法なのであって、観客は、歪んだ光景は主人公の目から見たものであることを何の疑いも無く理解することでしょう。

 他方、原作においても、違和感を感じるところがないわけではありません。語り手の「私」は若年性アルツハイマーに罹っているのであって、その症状は、時間の経過とともに次第に深刻化しているはずです。例えば、後半には、「本や新聞を読んでいても、文字が意味するものがすぐに頭に入ってこない」(P.263)などと書かれています〔注30〕。にもかかわらず、最後の最後まで、実にしっかりとした記述が続きます。とすると、この本の物語は、一体誰が書いていることになるのでしょうか、あるいは誰が喋っていることになるのでしょうか?

 

14.なお、若年性アルツハイマーに関しては、韓国映画の『私の頭の中の消しゴム』(イ・ジェハン監督)がすでに取り上げており〔注31〕、日本でも昨年10月に公開され大評判になりました。この映画では、女性の主人公・スジン〔ソン・イェジン〕が2度目の結婚で幸せをつかんだものの、アルツハイマーに侵され、ついには結婚相手・チョルス〔チョン・ウソン〕の識別もできなくなってしまうという悲劇のラブストーリーが描かれています。

 ちなみに、映画では、主人公が、友達との会話の中で、「こんな経験ある?いつも歩いている道で迷うこと。最近、家に帰る道が分からなくなるの」と話す辺りからその症状が深刻化してきます。

 ただ、この映画では、若年性アルツハイマーという病気それ自体をとりあげることよりも、むしろ二人の愛の深さをより一層増大させるための道具としてこの病気を使っているのでは、という憶測を捨て去ることができませんでした。というのも、主人公について、単に新しい記憶がなくなるだけのことでそれ以外の身体的な面などは何も変化しないのだ、だから新しい人格を愛せば良いのだ、と言っているような印象を画面から受けてしまうためですが〔注32〕。

 他方、映画『明日の記憶』は、むしろ、若年性アルツハイマーという病気それ自体を描き出すことに力点が置かれているような感じを受けました。無論、病気だけでは映画になりませんから、主人公とその妻が、なんとかこの病気に打ち勝っていこうとする涙ぐましい努力を描き出すことによって、「生きることの喜び、せつなさ、そして素晴らしさを教えてくれる感動の物語」(劇場パンフレットに記載のキャッチコピー)になっていることは事実でしょう。

 ただ、映画『明日の記憶』の冒頭のシーンは、原作には描かれてはいない2010年における二人の様子が映し出されていて、たやすく克服できる病気ではないことが観客にはよく理解できます。

 

15.私が今年に入って見ました映画には、この『明日の記憶』の前になりますが、大ヒットの『博士の愛した数式』〔小泉堯史監督〕もあります。交通事故によって記憶が80分しか保持できない数学者〔寺尾聡〕と、その家に派遣されたお手伝いさん〔深津絵里〕とを巡るお話です。

 なかなかよくできている映画だと思いました。特に、寺尾聡と深津絵里とが、桜が満開のお城の公園を散策するシーン〔注33〕とか、砂浜から海を眺めるシーンなどが印象的でした。

 なお、同じ頃、小川洋子氏が書いた原作の小説も読んだところ、映画が小説と一番異なる点は、主人公の兄嫁の描き方ではないかと思いました。小説では隠し味程度になっている主人公と兄嫁との関係が、映画ではかなりクローズアップされてしまっています〔反対に、原作で中心的な役割を持っている様々の「数式」の扱い方が、映画ではかなり後退しているのでは、と思いました〕。

 勿論、映画と原作の小説とは全然別のものと考えるべきですから、そこには何の問題もありません。むしろ、こういったところに、原作とは別のものとしての映画を制作した監督等の意図を読み取るべきなのでしょう。

 加えて、このような描き方になった要因として、あるいは、兄嫁を演じる役者に大女優を起用したことも考えられるのではないでしょうか?大女優にチョイ役をあてがうわけにはいかないでしょうから。逆に、このように兄嫁をクローズアップすることによって、大女優を起用することになったというべきかもしれません。いずれにせよ、その大女優こそ、『銀座の恋の物語』に出演した浅丘ルリ子なのです

 浅丘ルリ子が、40年経って「記憶」の問題の両サイド〔記憶喪失者の役と、記憶喪失者を愛する人の役〕に立ったことは、映画を見る者にとしても何かしら因縁めいたものを感じてしまい、非常に興味を惹かれるところです。

 

                ※ ※ 

 

   2部 映画へ

(1)記憶へ

16.ここで、以上を振り返ってみましょう。

 『銀座の恋の物語』の前半で描かれていましたPTSDにおいては、本人が思い出したくないトラウマティックな記憶―空襲時の記憶―が、突然本人の意思に反して蘇ります

 逆に、同映画の後半において、記憶喪失の浅丘ルリ子は、井口良子としてデパートに勤めていますが、以前の秋山久子時代の記憶が完全に喪失しています。そして、裕次郎に迫られて、以前のことを思い出そうとしても何一つ記憶を呼び戻すことができません。ところが、たった一つの手懸りで、元の秋山久子の記憶を回復することができました。

 別の映画にも触れてみましょう〔注34〕。

 『博士の愛した数式』では、主人公の数学者は、80分で記憶が切れてしまう生活を続けておりましたが、原作のラストでは、事故に遭ったときから「先へは一分たりとも前進できなくなって」しまうのです(P.248)。すなわち、最終局面では、新しい事柄についての記憶は持続時間がゼロになってしまうわけです。

 また、『明日の記憶』においては、主人公は、会社の部下など近しい人の名前だけでなく顔の判別も次第に出来なくなり、ラストでは妻すらも識別できなくなっております。ただ、判断の内容とか話す事柄は、その場合でも以前と大差がないように思われます〔映画の冒頭のシーン―2010年とされ、事実上のラスト・シーンといえます―では、何も話せなくなってしまっているようにも見えますが〕。

 さらに、『私の頭の中の消しゴム』の主人公の記憶は、次第に新しいものから無くなっていき、現在の夫のことを忘れ、逆に前の夫のことを思い出します。ただそれでも、時折正常に戻ることがあり、その僅かな時間に今の夫に対して真情を綴った手紙を書いたりします〔注35〕。

 

17.ごくわずかの映画を取り扱っただけですが、それでも映画で描かれた「記憶」といっても様々であることが分かります。

 ここまできますと、一旦映画を離れて、そもそも「記憶」とは一体何か、様々な記憶の現象を共通する視点から解釈しうるのか、などといったことに少しは手を付けたくなってきます。といいましても、記憶の解明などは、素人の私にはとても手にあまる仕事です。単に、記憶に関する研究について概観するだけでも、大変なことです。おまけに、辿るべき道は少なくとも2本もあり、一つは自然科学(脳科学)に、一つは人文学(哲学)へというように、全く別々の分野繋がっているようです。

 ただ、これも素人考えに過ぎませんが、前者はこのところ顕著に進展してきているものの、まだ解明の途上にあるようですし、仮にそのまま前進していくにせよ、基本的な問題があるように思えるのです。というのも、脳科学を研究している研究者は、まさに自分の脳を駆使して脳そのものを研究しているわけで、そういうやり方で果たして確かなところに行き着けるのかどうか疑問なしとしないのではと思えるからです。

 そこで、とりあえずここではモウ一つの道を進んでみることといたします。

 

18.となると、その主著の一つに『物質と記憶』があるアンリ・ベルクソンでしょう。といっても、申すまでもなく、彼は、1859年にパリで生まれ、1941年に同地で亡くなった、いわば一時代前の哲学者です。ですが幸いなことに、このところ、彼に対する評価は回復しつつあるようです。例えば、本年4月には、『ベルクソン読本』(久米博/中田光雄/安孫子信編、法政大学出版局)が刊行され、冒頭の「はじめに」においては、「ベルクソン哲学は20世紀の初頭、パリを中心にいわば一世を風靡した。‥‥‥ポスト・モダーンを経た今日、ベルクソン哲学はふたたび欧米・世界各地で新しい世代の新しい読者・研究者たちの集うところとなっている」と述べられております。

 そこで、研究者の論文を集めた同書ではなく、素人でも取り付き易そうにみえる啓蒙書『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか(シリーズ・哲学のエッセンス)』(金森修著、NHK出版;2003.9)から、ベルクソンの考えとされるものの中で「記憶」に関係するところを若干抜き出してみましょう〔同書は、従来の類書とは違って、ベルクソンの四大主著のうち、『時間と自由』及び『物質と記憶』に主たる焦点を当てている点が特徴的だと思われます〕。

 

a.ベルクソンは、「<知覚の場所>なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのものだ、と考える」(P.78)。そして、「なにかを知覚するとき、そこにはその時点までの蓄積された多くの記憶が必ず付き従っており、その意味で、現在は過去の大波に溺れかかっている」とする(P.82)。こうして、ベルクソンが「はっきりと否定するのは、記憶を劣化した知覚としてみる、つまり両者の間に程度の差しか見ないという考え方だ」(P.81)。

b.このように、ベルクソンにおいては、知覚と記憶とは「原理的に違う」とされるものの、この「二つのものは、事実上はその間に存在している中間物のような<記憶心像>を介してつながりあっている」とされる。この場合、「記憶心像の背後」にあるものが「純粋記憶」といわれ、「実際にはそれは、記憶心像によってたえず徐々に物質化されている」のであって(P.82)、ひとが「いまこの瞬間知覚している、と思っているものは」、ひとの「純粋記憶から養分を受け取った記憶心像が物質化しつつあるものに他ならない」とされる(P.84)。

c.「ベルクソンは、純粋記憶はいわば自立的に存在し、身体とは関係のないところで成立している、と考える。だから身体のごく一部である脳のなかに、それが閉じ込められていることはない。‥‥‥彼にとっては脳は<行動の器官>であり、仮に脳の損傷が記憶を駄目にすることがあったとしても、それは記憶の物質化過程の最後の段階が閉ざされるということを意味するにすぎず、記憶がどこかで作動を待ちかまえているという事実が、それによって壊されることはない、とされた」(P.87)。

 

19.啓蒙書の記述とはいえ、対象自体が難しいために意味が汲み取りにくく、ましてベルクソンの思想に共感するのは難物です〔注36〕。ただ、誠に浅薄な理解ながら、仮にベルクソンに倣えば、例えば次のように言えるのかもしれません。

 本稿の冒頭で取り上げました映画『雨の町』に出てくる「侵略者」は、なぜ“小学生”の格好をしているかといえば、35年前に失踪してしまったわけですから、「その時点までの蓄積された多くの記憶が必ず付き従って」いるとしても、それらはまさに35年前までの記憶以外のものではありえないからでしょう。そして、そうした“小学生”を老夫婦が結局のところ受け入れてしまうのも、上記aで言うように「現在は過去の大波に溺れかかっている」からなのかもしれません〔注37〕。 

 さらに、映画『私の頭の中の消しゴム』で、若年性アルツハイマーに罹った主人公が時折恋人のことを思い出すのも、上記cで言うように「仮に脳の損傷が記憶を駄目にすることがあったとしても、‥‥‥記憶がどこかで作動を待ちかまえているという事実が、それによって壊されることはない」ということの現われと言えるかもしれません〔注38〕。

 

                  ※

 

(2)記憶から

20.以上は、専ら、映画が対象とする「記憶」それ自体に関することでした。能力不足もあって通り一遍の説明しか出来ませんでしたが、どうもここらあたりから逆に「映画」へ通ずる道がありそうなのです〔注39〕。

 すなわち、上記『ベルクソン読本』に収録されている論文において、大阪大学大学院助教授・檜垣立哉氏は、「ドゥルーズはその出発点から手法から主題に到るまで、徹底したベルグソニアンであった」と述べているところ(同書P.242)、同氏の手になる『ベルクソンの哲学』(勁草書房、2000.4)を見てみますと、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925年〜1995年)が「ベルクソンの継承者」〔注40〕とされ、特に、その映画を取り扱っている著作について、次のように述べられているのです。

 「ベルクソンの議論の焦点を存在論的場面に見てとるドゥルーズは、自身の後半生といえる時期に、少し意表をついた仕方でこの主題を扱いなおすことになる。それは『シネマT 運動イマージュ』(1983年)と『シネマU 時間イマージュ』(1985年)の2冊においてである」(P.240)。

 そこで、檜垣氏の著書においてこの『シネマ』が論じられている部分から、関係すると思われる箇所を少しばかり書き抜いてみましょう。

・「この著作においてドゥルーズは、「運動イマージュ」という、知覚され、体験される運動の映像から、「時間イマージュ」という、知覚されず、体験されることもありえない時間の映像へと向かう展開を体系的に描き出している」(P.241)。

・まず、「運動イマージュ」とは、「現在を軸に繰り拡げられる経験のイマージュ」であって、「そこでは実在は、生ける現在における運動を中心に提示される」(P.242)。

・したがって、「運動イマージュ」とは、「おおまかにいえば映画の初期から古典期において見出されるイマージュ」である。中でも「モンタージュの技法」によって、映画は、「すぐれて実在の運動を表現する手段として提示」される(P.243)。

・この「運動イマージュ」から次の「時間イマージュ」への「展開」は、ドゥルーズの著書において、「イタリアにおけるネオレアリズモやフランスのヌーヴェルヴァーグ、そしてさらにはオーソン・ウエルズの作品を軸に論じられる」(P.244〜P.245)。

・その場合、「時間イマージュ」とは、「運動を超えた時間そのもののイマージュ」であり、「身体の現在における行動性との連携を切断された、剥きだしの実在の奔出のようなもの」であり、それによって「知覚ではない純粋な視覚」が明らかにされていく(P.245〜P.246)。

・こうした「時間イマージュは深く記憶の映像と結びついている」のである。この場合、「記憶がかかわる映像」としては、まず「映画史的にいえばフラッシュバックのことだろう」。しかしながら、「フラッシュバックは現在から遡られた過去の映像という点で、あくまでも感覚運動系に繋がれてしまう」。したがって、「フラッシュバックとは、現在を中心に語られる過去の個別なイマージュにとどまっている」のだ(P.246)。

・そこで、「記憶がかかわる映像」としては、さらに「過去一般である純粋記憶の映像」がありうるのであって、それは「現在との連携から解き放たれて潜在的な全体が溢れかえるような映像である」。「こうした映像が、すぐれて時間イマージュを表すものになる」のだが、「その最初の表現者は、オーソン・ウェルズであるといわれている。彼の代表作『市民ケーン』は、フラッシュバックには依存しない、過去そのものを提示する試み」によって、すなわち、「パンフォーカスの獲得やワンシーン・ワンショット」などの導入によって、「過去の諸層が共存しながら現出するような映像が生みだされていく」のだ(P.247)。

 

21.以上は、哲学研究者の手になる研究書からの引用のため、大変分かりづらいものがあります〔注41〕。とはいえ、なにはともあれ「フラッシュバック」に戻ってきました。ここから、本稿の上記5に再接続できるかもしれません。そして、本稿の記載内容について、全く別の視点から議論することも、あるいは可能でしょう。

 ですが、映画『雨の町』から『銀座の恋の物語』を経て『明日の記憶』に至り、菊地成孔氏のエッセイから檜垣立哉氏の研究書まで触れてきました長々しいだけが取柄の本稿も、このあたりで打ち止めにしたいと思います。

 元々、本稿は、映画と記憶との関係を、『銀座の恋の物語』を中心に簡単に辿り直してみようという単なる思い付きで書き始めたものです。結論めいたテーゼを提示する心算は、もとよりありませんでした。どこで打ち切ってもかまわなかったと言えば言えるでしょう。

 もしかしたら、あとは、ドゥルーズの『シネマ』に従ってさらに歩き続ければ良いのかもしれません。ところが、楽屋裏をお見せするようで非常に心苦しいのですが、同書の翻訳本は、原著の刊行後20年以上経つにもかかわらず、まだ出版されてはおりません。それに何より、元々哲学的素養に著しく欠ける者が、たとえ『シネマ』の邦訳が既に出版されていたとしても、今のままの状態では到底歯が立つはずもありません。加えて、独自の見解を持たずに、そうした思想書から単なる引用だけを行って意味があるはずもありません。

 ここは、『シネマ』の翻訳書が未刊行なことを奇貨として、出版されるまでの間に、哲学的素養を少しでも身に着けるとともに、できれば自分なりのものの見方をある程度確立すべく努力することとし、結局のところは、別稿にて捲土重来を期すに如くはないと考える次第です。 


 〔注〕

〔注1〕この映画を上映した映画館では、雨の日に傘を持参して来場すると料金を200円割り引くとか、ゴールデンウィーク中は、先着30名までレインコートや折畳み傘などを進呈するといったサービスをしていました。勿論、それに釣られて出かけたわけではありませんが、映画館にしては随分と面白いことをするものだと思いました。

〔注2〕例えば、『なぜ福知山線脱線事故は起こったのか』(川島令三著、草思社;2005年)では、次のような指摘がなされております。「尼崎事故の要因の一つはボルスタレス台車であり、事故を大きくした要因は連結器が弱かったことである」(P.202)。なお、この「ボルスタレス台車」とは、車軸が二つ組み込まれている台車に取り付けられている「ボルスタ(枕梁)」を、車体を軽くするために取り払ったものを指します。

  この川島説に対しては反論もされているようですが、同書で取り上げられているマスコミ報道の誤り〔例えば、福知山線は“過密ダイヤ”だった〕に関する指摘は貴重なものだと考えます。

〔注3〕これは、映画『雨の町』の問題点ではないかと思います。

 @映画館で販売された劇場用パンフレットには「監督インタビュー」が掲載されていますが、その中で、田中監督も、「原作はいわゆる「侵略者もの」」だとし、「原作でははっきりと名付けられたりなどしていな」いが、それを「あまんじゃく」という妖怪にすることにより、「「侵略者」」という概念をSF的にならずに観客にわかりやすく伝えられることができたと思」うと述べています。

 しかしながら、このように「侵略者」を明示化することによって、なぜこの侵略者が、取り付いた小学生の両親だけに接近しようとするのか、なぜそのために35年も待っているのか、などという疑問が湧いてきてしまいます。というのも、異星からの「侵略者」にとっては、地球人ならば誰であっても差異は無いはずでしょうから。

 A原作者・菊地秀行氏が、パンフレットに掲載されているエッセイ「「雨の町」と「雨の町」との違い」で述べるように、映画が「あまんじゃく」とした点は、「賛否両論の分かれるところ」でしょう。すなわち、彼は、小説の「雨の町」の核心は、「戻ってきた子供たちの“変化”と“行動”を描かなかった点にある」とし、「作中人物のひとこと「―とても恐ろしいことが」でもって、読者の想像を促すのである。だからこそ、ラストが効いてくる」と述べています。ただし、そうは言いながら、「映画は、はっきりとそれを画面に出していた」と評価していますが。

   菊地氏が言うように、「小説で“隠した部分”こそ映画は“露出させなければならない”」し、小説で隠れている部分も、映画では自ずと露出してしまうでしょう。映画と小説とが別物であるとされる所以ではないでしょうか。としましても、この映画のような解決法しかなかったのかどうか、ヨク考えてみる必要があるのではと思われます。

 Bこの異星からに「侵入者」に関しては、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシー(1940年―)の『侵入者 いま<生命>はどこに?』(西谷修訳、以文社;2000年)などにもよりながら、もう少し議論できるのではと思いますが、ここでは差し控えることといたしましょう。

 C映画に現れる小学生は「ミュータント」と解釈できないでしょうか?すなわち、遺伝子のDNA配列に突然変異が起きた動物をミュータントといいますが、映画の冒頭で取り上げられる“死体で見つかった内臓の無い小学生”は、遺伝子に突然変異が生じた場合ではと考えてみるのです。

 しかしながら、最近刊行された『ヒトの変異』(アルマン・マリー・ルロワ著、築地訳、みすず書房;2006.6)には、「私たちはみなミュータントなのだ。ただその程度が、人もよって違うだけなのだ」(p.19)とあり、そうだとすれば、この『雨の町』のお話自体が無効になってしまうことでしょう。

〔注4〕次のHPの記載によります。

 http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe5000/news/20060403i301.htm

http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/dassen/jd60403a.htm

〔注5〕この事件では、殺された8人の小学生については、3年前に賠償金が国から遺族に対して支払われ、また昨年5月には、重傷を負った8人の小学生に対しても、国側からの見舞金の他に、PTSDに対する障害見舞金が認定され、「学校災害給付共済制度」から給付金が支払われることになったようです。

〔注6〕事件から1ヶ月ほど経過した後の新聞には、次のような記事が掲載されています。

 「6同級生殺害事件が起きた長崎県佐世保市立大久保小学校で、6年生を含む10人近くの児童に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあることが、同市の調査で分かった。こうした児童について、市は国の補助金制度を利用して、医師の正式な診断を受けさせる方針。

  事件から1カ月が過ぎたことから、市は全児童(186人)を対象に、精神科医や小児科医、臨床心理士ら12人態勢で、PTSDに関する調査を実施。登校した177人が「よく眠れたか」「食事が食べられるか」など22項目のアンケートを受けた後、6年生全員とPTSDの兆候がある児童について、面談調査を行った。3段階に分けてPTSDの可能性の高さを選別したところ、10人近くが、PTSDの疑いがある段階に入った」(毎日新聞 2004713日 東京夕刊)。

  なお、草薙厚子著『追跡!「佐世保小六女児同級生殺害事件」』(講談社;200511)は、事件を引き起こしたA子が“普通の子”ではなく「アスペルガー症候群」という診断を受けたことがあるとの事実を探り出し、あわせて、事件のあった小学校の校長の心無い一言によってPTSDの症状を示すようになった子供がいることも明らかにしています(第13章)。

〔注7〕加藤進昌・樋口輝彦/不安・抑うつ臨床研究会編『PTSD 人は傷つくとどうなるか』(日本評論社;2001年)のP.10P.11。なお、実際の基準はもう少し条件が付けられており、aの再体験症状が1つ以上、bの回避症状が3つ以上、cの覚醒昂進症状が2つ以上存在し、かつそれらが1ヶ月以上持続していなければならないとされています。

〔注8〕中井久夫著『徴候・記憶・外傷』(みすず書房;2004.4)では、「外傷性フラッシュバックと幼児型記憶」とは、「鮮明な静止的視覚映像」とか「文脈を持たない」といった様々な点から、「その類似性は明白」であり、そうなる理由は、それらの記憶が「何よりもまず危険への警報のためにある」という点にある、と述べられている(同書P.53P.54)。

〔注9〕『こころのライブラリー11 PTSD(心的外傷後ストレス障害)』(星和書店;2004.2P.61P.64

〔注10〕菊地氏が映画音楽に関与したのは、『雨の町』が最初ではありません。これまでも、『大停電の夜に』(源孝志監督、2005年)の音楽を担当し、そのサントラのCDWait Until Dark』も出ています〔前者の映画は、ジャズ・ベーシストの豊川悦司が十分様になっているいるなど、日本でもこのように格好のいい映画を作れるのだ、ということを示していますが、菊地氏のサントラCDも、これまた大層格好いい仕上がりになっていると思われます。〕。

  なお、あろうことか、『雨の町』には、お兄さんともども、ほんの僅かの時間ですが出演までしているのです。ちなみに、兄弟といえば、そこでも菊地氏が音楽を担当している映画『ソラノ』には、『トーリ』を初監督した俳優の浅野忠信氏とそのお兄さんのKUJUN氏が出演しているのです〔尤も、『ソラノ』は『トーリ』のメイキング・フィルムといった性格の映画で、KUJUN氏は後者の中の第3話で音楽を担当しているのですが〕

〔注11〕その本の前編である「歴史編」(20055)を読みましたが、私のようなジャズの素人にとっても、現代思想の系譜を縦横に論じた浅田彰氏のように、ジャズ演奏家の系譜を明快で理論的な見地から縦横に論じていますので、非常に面白く、かつ驚いたところです〔なお、後編である「キーワード編」は20063月刊〕。

〔注12〕原作の短編の末尾は、次のように書かれています。「世界はいつの間にか、私の胸中と同じ色に染まっていた。空は晴れ渡っている」。菊地氏のエンデングテーマ曲が『愛の感染』と題されているのも、あるいはこれを踏まえているのかもしれません。

〔注13〕本文の11で取り上げました渡辺武信氏の『日活アクションの華麗な世界』によれば、この歌は、「この映画のためのオリジナルではな」いようです〔同書P.254の注5〕。

〔注14〕『スペインの宇宙食』の「あとがき」には、「この映画が作られた翌年に生まれた僕」とあります。このエッセイ集の冒頭に収録された「放蕩息子の帰還」においては、菊地氏の幼少期のことが綴られているところからすると、あるいは、その時代の雰囲気を知ってもらおうと、この映画を持ち出したのかもしれません。

〔注15〕本年511日付産経新聞によれば、「今年4月、高校時代の同級生から現金を脅し取ったとして」、愛媛県宇和島市に住む無職の男性が「愛媛県警に逮捕、起訴された」が、同人は、「平成13年、ハワイ沖で沈没した県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の元実習生で、被害者も同じ体験をした元実習生だった」、起訴状によると、同人は仲間二人とともに、「今年3月までに計約5百万円を脅し取った」とのことです。

  さらに、同記事によれば、えひめ丸の「事故後、不眠や腹痛、幻覚、いらだち、興味や関心をなくす―といった症状を訴える元実習生等は、全員がPTSDと診断され」、特に同人に対しては、「担当医は「深刻なPTSD」と診断。完治が発表された164月以降も、定職につかず、アルバイトを1-2カ月続けてはやめており、犯行当時は無職だった」ということです。

〔注16〕前掲注9『こころのライブラリー11 PTSD(心的外傷後ストレス障害)』P.47

〔注17〕雑誌『ユリイカ』の本年4月号は菊池氏の特集で、そこには彼を巡る年表「菊池成孔クロニクル」が掲載されています。その作成には彼も参加しているところ、末尾に至って「自分で書いておいてなんだけど、この年表かなりデタラメだ」などと自ら記しているくらいなのです(同誌P.232)。ただ、掌編「ミスタードーナツのシュトックハウゼン」のことを、自分で、「誠実な虚言、というのが僕のデビュー作である事は、これは残念ながら嘘ではなく本当のことだけど」とまで言ってしまうと(『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』P.10)、“嘘つきのクレタ人”ではありませんが、読者としては何をどこまで信じていいのかわからなくなってしまいますが。

〔注18〕下記HPの「ロケ地案内板―銀座の恋の物語編」は、映画冒頭の人力車が銀座のどの辺りを走ったのか、現在の様子を写真で見ることが出来ます。

  http://tokyo.cool.ne.jp/nikkatsu/maruko/ginkoifinal.htm   

〔注19〕映画における裕次郎〔“伴次郎”役〕と浅丘ルリ子〔“秋山久子”役〕の台詞は、「どうしたのチャコちゃん」「消してもらって」「(照明係に)消してくれー」「表に連れて行って」「真っ青だよ。どうしたんだい」「空襲を思い出して」「空襲?」「お父さんとお母さんが、火の塊になったと思ったら、私の目の前で一遍に」というもので、菊地氏の引用とは若干違います。

〔注20〕映画における裕次郎の台詞は、「馬鹿だな。忘れるんだよそんなこと。約束したろう」というものです。

  また、実際の映画においては、菊地氏の言うように「そうね。ごめんなさい。とばかりに健気に答え」と続くのではなく、「死ぬほど怖いのよ。一人ぼっちだと思うと怖いのよ」という台詞を踏まえて、裕次郎に「次郎さん、私のことどう思っているの」と浅丘ルリ子が結婚を迫る場面に繋がっていきます。

  映画においては、浅丘ルリ子に両親がいないことを説明する事柄として、どうも空襲が持ち出されているに過ぎないようです。とすれば、映画の後半でこの話が二度と持ち出されないのも、当然なのかもしれません。

〔注21〕もしかしたら、本文の5に記載しました診断基準に厳密には当てはまらないかもしれません。なにしろ、空襲のあった時点から15年以上も経過しているのですから。ですが、浅丘ルリ子に典型的なフラッシュバックが起きたことは事実ですし(再体験症状)、裕次郎に促されて舞台に上がろうとするときに、周りを見回して「怖いわ」と言いいますが、そこには尻込みするような感じが窺えます(回避症状)。また、この事件の直後に屋上で裕次郎と喧嘩までしてしまいますから(覚醒昂進症状)、素人診断に過ぎないところ、PTSD的な症状を示していると言ってもおかしくないのではと思われます。

  なお、PTSDの研究が進展したのは、一つには米国におけるベトナム帰還兵の社会的不適応という問題があったからとされています(前掲の注7PTSD 人は傷つくとどうなるか』P.7)。『銀座の恋の物語』が制作された1962年当時はベトナム戦争のごく初期の頃であり、少なくとも日本においては、こうした症状をまとまった精神障害としては捉えてはいなかったことでしょうから、このエピソードは特筆すべきことではないかと思われます。

〔注22〕浅丘ルリ子は、以前の秋山久子の記憶をマッタクなくしてしまい、井沢良子という人格に変わってしまっています。しかしながら、そういう人物がデパートに就職していることは常識的には考えられないでしょう。というのも、井沢良子に関して、戸籍とか住民票といった就職に際して必須な書類が整うものか頗る疑問だからです。仮に整えられたとしても、都心のデパートに、身元が不確かな者が就職するなど難しかったのでは、と考えられるところです〔40年以上昔ですから、デパートの地位も現在よりかなり高かったでしょうから〕。こんな些細な事柄につき揚げ足取り的なことをいうのも、前掲の『日活アクションの華麗な世界』では、この映画について「緻密に考え抜かれた細部の映画的話術の巧みさ」などと書かれているからなのですが(同書P.253)。

〔注23〕“銀恋”の出だしの歌詞「心の底まで しびれる様な 吐息が切ない 囁きだから」の最後のフレーズは、楽譜では「ラ−−ソ−ミ−♯レ−ミ」となっており、その二つ目の「ラ」(音名はイ〔A4〕―最初のラより1オクターブ上―)の鍵が鳴らないのです。

〔注24〕いうまでもなく、「ムード・アクション」の映画を、たとえ「正系」の8本にしても、すべて見たわけではありません。渡辺氏が「ムード・アクション」の「代表作」とする5本―『赤いハンカチ』(舛田利雄監督、1964年)、『夕陽の丘』(松尾昭典監督、1964年)、『二人の世界』(松尾昭典監督1966年)、『帰らざる波止場』(江崎実生監督、1966年)、『夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生監督、1966年)〔『日活アクションの華麗な世界』P.339〕―のうちの『帰らざる波止場』を除く4本を、レンタルショップから借りてきて見たにすぎません。ただ、渡辺氏の当該著書には、「ムード・アクション」に属する映画すべてについて、その概要が記載されているのです。

  なお、『夕陽の丘』では主題歌が最後に一度しか出てこない点など、また『二人の世界』は、確かに「傑作」に違いありませんが、ラストのハッピーエンドがそれまでの“ムード”をぶち壊してしまうと思われます。さらに、『夜霧よ今夜も有難う』についても、渡辺氏は「情感豊かなメロドラマの傑作」であり、「ストーリー展開が悪い意味でのムード≠ノ流されず、隙のないロジックを持っているのがこの作品の良いところ」としています(同書P.331)。確かに、『銀座の恋の物語』と同様に、主題歌と映画の連携が見事に図られているなど、「傑作」だとは思います。しかしながら、例えば、ヒロインの浅丘ルリ子が交通事故に遭遇し、結婚するつもりだったヒーローの裕次郎の前から失踪してしまいますが、その理由が、交通事故によって“男3人、女2人”の子どもを生めない体になってしまったというのでは、『銀座の恋の物語』における“記憶喪失” のような説得力に乏しいものと思われます(“少子化”の現時点から40年前を見るからソウ思えるのでしょうか?)。

〔注25〕これらのことは、もしかしたら渡辺氏の『日活アクションの華麗な世界』に対するささやかな批判に繋がるかもしれません。

 @確かに、『赤いハンカチ』も本当に素晴らしい出来栄えです。ただ、主題歌とストーリーとの関連性がうまく付けられてはいないように思われます〔もしかしたら、主題歌にある「アカシアの 花の下で/あの娘がそっと 瞼を拭いた/赤いハンカチよ」の“瞼を拭いた”は、出勤途中のルリ子が、裕次郎の目のホコリを自分のハンカチで拭き取ってあげるシーンに結びつくのかもしれません〕。

  それに、裕次郎とルリ子との最初の出逢いがほんの僅かだったにもかかわらず(「ルリ子が露地から駆け出してくるワン・ショット」『日活アクションの華麗な世界』P.292)、映画の後半で描かれる悲劇の大きな原因になってしまう点や、確かに裕次郎は自分の過去にこだわるものの、「記憶への固執」とまではいえないのではないかという点で、私としては『銀座の恋の物語』の方に軍配を上げたいのです。

 Aモット一般的に申し上げてみましょう。渡辺氏の著書においては、冒頭で次のように述べられています。「54年から71年までの17年間の間に日活が送り出した無数のアクション映画‥‥‥の中に北極星のように決して動かなかった核心がある。‥‥‥それは、「我々には誰にも譲りわたせぬ自己≠ニいうものがある」という信念である。‥‥‥日活アクションのヒーローたちは、いつも自己についてのくっきりとしたイメージを追い求めてきたのだ」(P.16P.17)。こうした見方に立ちますと、本文の11に記載した「ムード・アクション」の定義の中で最も重要なのがaとなり、したがって、『赤いハンカチ』に対する次のような評価に繋がることになります。「「赤いハンカチ」の場合、その(観客の)自己陶酔のうちになにか固い芯のようなものがめざめ続ける。それは、たぶんヒーローがあらゆるものを犠牲にして奪回した自己≠フ裸の質量の触感である。‥‥‥(この)自己の触感は、ありふれた定型に従いつつも、それを一歩踏み越えた感動を、ぼくの心に残した」(P.304)。

  勿論、映画にどんな点を見出そうと見る人の勝手であり、それが何であれ非難されるいわれはないかもしれません。ただ、渡辺氏にあっては、確立した「自己」、奪回できる「自己」というものが存在するという近代主義的な信念が余りにも強く、そういう強固な観点に立ってどの映画も判断しようとしています。ですが、「我々には誰にも譲りわたせぬ自己≠ニいうものがある」とする時の「自己」とは、一体何でしょうか?そんなものは、どこに転がっているのでしょうか?そして、2006年という時点に立つとき、そうした視点からしか裕次郎映画を見ないとしたら、実に退屈でつまらないことではないでしょうか?

〔注26〕皆川真男役は、上田耕一氏が演じています。なお、同氏は、『雨の町』でも町役場の職員を演じています。

〔注27〕有名なものでは、有吉佐和子の原作を森繁久弥主演で映画化した『恍惚の人』(豊田四郎監督、1973年)があります。その映画では、冒頭から、立花茂造役の森繁が、雨の中を傘もささないで歩くシーンが描かれています。

〔注28〕この映画では、母親に反発して家を飛び出した娘〔夏川結衣〕が、介護のために家に戻るのですが、母娘の激しい反目は続きます。

  なお、この映画の原作は、近藤よう子氏による同じタイトルの漫画で(青林工藝舎;1996)、映画はかなり忠実にこの漫画のストーリーに従っています。ただ、映画においては、母親役の渡辺美佐子氏の演技が余りに真に迫っているために、母娘の葛藤という面よりも、むしろアルツハイマー患者の介護の大変さという面が強く出てしまっているといえるかもしれません。

〔注29認知症とは記憶障害を中心とする病気で、脳血管性のものとアルツハイマー型のものがあり、高齢者に多いのですが、20歳代で発症するケースもあり、64歳以下の場合が若年性と呼ばれます。

  なお、雑誌『Newton』の本年7月号(創刊300号記念号、P.5)によれば、「アルツハイマー病の認知障害は、脳に蓄積するタンパク質集合体が原因らしい」とする研究論文が、雑誌『Nature』の本年316日号に掲載されているとのことです。

   それどころか、613日の読売新聞夕刊によれば、「アルツハイマー病を治療する新しいワクチンを東京都神経科学総合研究所などの研究チームが開発、効果と安全性をマウスの実験で確認した」とのことです。

〔注30〕原作には、主人公が書いた備忘録(日記)が、何日か分そのまま記載されています。その始まりは、まだ病院に行く前で、顧客企業との重要な打合せの日程を忘れてしまった事件が起きた日のあたりです(106日;P.41)。その書き振りは、通常の人と何ら変わりありません。ですが、翌年の1月1日の分になると、誤字が多くなり(「開禁」(解禁)、「改全」(改善)など;P.221)、掲載されているものの最後の427日となると、「新こん旅行」というように、以前漢字で書くことが出来た語句がひらがなになったりしています(P.283)。

  病気の進行に合わせて、原作者が随分と工夫していることが良く分かります。ただ、そうだとすると、この物語の話し手である「私」の話し振りも、病気が深刻化するにしたがって最初と最後とで大きく違ってきてしかるべきではないでしょうか?

〔注31〕といいましても、この映画の原作は、20014月〜6月に日本テレビ系で放映されたTVドラマ『Pure Soul〜君が僕を忘れても』なのです。その経緯は、講談社文庫『私の頭の中の消しゴム アナザーレター』(木村元子/松田裕子著;2006.5)の「あとがき」に記載されています。そして、この文庫は、インターネット放送の「GyaOオリジナルドラマ」として更にリメイクされたものの小説版なのです。なお、放送自体は本年6月上旬に終了してしまいました。

〔注32〕更には、スジンの病状が進むと、2度目の夫・チョルスの記憶が無くなって、最初の夫・ヨンミンの記憶が戻ってきてしまいます。すると、チョルスは、スジンが一番愛していたのはヨンミンではなかったのかと、二人の愛を疑い始めたりしてしまいます。ただ、これは、アルツハイマーという病気が介在していますが、よくある三角関係とも言えるのではないでしょうか〔前掲の注の文庫の「あとがき」で、脚本家の松田裕子氏は、「愛する人を忘れてしまう。/愛する人に忘れられてしまう。 そのせつなさを軸に、‥‥二人のラブストーリーを描いた映画」と述べています〕?

〔注33〕興味深いことに、『博士が愛した数式』では満開の桜が咲いている公園(懐古園)が、本文の12及び前掲の注28で触れた『アカシアの道』ではニセアカシアの花びらが散っている散歩道が、次の注34で取り上げる『折り梅』では梅園(愛知県鳳来町川売)のたくさんの梅の木が、そして『明日の記憶』ではラストの木々の緑が、それぞれとても印象的です。

〔注34〕前掲の注27の『恍惚の人』では、主人公・立花茂造は、その長男・信利〔田村高廣〕の嫁・昭子〔高峰秀子〕のことは「昭子さん、昭子さん」と呼んで識別できていますが、信利や長女・京子〔乙羽信子〕はまったく識別できません。また、前半では、一定のまとまりのある話ができていますが、後半になると「もしもし」などしか言えず、全体として幼児的な段階に後退してしまいます。

また、映画『折り梅』(松井久子監督;2001年)では、アルツハイマーに罹った義母〔吉行和子〕が、その嫁〔原田三枝子〕を困らせるのですが、デイケアーに通ううちに絵画の才能が隠れていたことが分かり、その後何枚もの絵を制作し、賞を受賞するまでになります。

〔注35〕スジンは、新しい夫・チョルスが識別できなくなってしまいますが、彼と最初に出会ったときに印象付けられた“工具の入ったベルト”を家の棚に見つけると、その記憶が蘇り、自分が一番愛しているのはチョルスだと分かり、「私スジンはチョルスだけを愛します」と置手紙に書いて行方をくらましてしまいます。

  また、入院先の病院では、介護されないと服も着られないことがある病状にもかかわらず、状態が良いときは、「今日は不思議よ。突然記憶が戻ったの」などと書いてある手紙を、チョルス宛てに送ることが出来るのです。

  これらからすると、この映画では、アルツハイマーという病気について、記憶を破壊してしまうものではなく、記憶に幕をかけるものであって、何かの拍子でその幕が一時的に持ち上がることがある、と捉えているようにも思われます。

〔注36〕本文の18で触れた『ベルクソン』の著者金森氏(東京大学大学院教授)も、「ここでの議論には、僕自身、なかなか完全にはベルクソンについていけないところがある」などと書いている始末です(同書P.87)。

〔注37〕ですが、第三者である雑誌記者の目にも小学生と映るのであれば、それは単なる記憶ではなく、“侵略者”、あるいは“あまのじゃく”だからということになるのでしょう。

〔注38〕ベルクソンは、「さまざまな失語症の特徴である脳の傷害は、記憶内容そのものに及ぶものではなく、したがって、大脳皮質の特定の点に貯蔵されていて、病気によって破壊されるような記憶内容は存在」せず、単に「それらの傷害は、記憶内容の想起を不可能にしたり、困難に」するだけだ、などと述べています〔ベルクソン『精神のエネルギー』(宇波彰訳、レグルス文庫;1992.4P.90〕。

  これは、次のような脳機能局在説とは、対極的な考え方だといえるでしょう。すなわち、「個々の知覚情報は、大脳皮質で情報処理されたあと、海馬に至る。海馬は逐一すばやくその情報を取り込み、そこで『あのときあそこでああだった』というような単一のエピソードを形成する。その後、何回も記憶情報のリプレイが海馬から皮質へ流されていくうちに、個々のエピソードから一般的事例が抽出され、皮質で意味記憶が貯蔵される」〔『脳はどこまでわかったか』(井原康夫編著、朝日新聞社;2005.3)のP.167で引用されたジム・マクリランドの仮説(1995年)〕。

〔注39〕ベルクソンは、出来上がったばかりの映画(世界初のシネマトグラフの興行は、189512月にパリで行なわれました)に関心を示し、彼の主著の一つである『創造的進化』(1907年)においても取り上げています。ただ、例えば次に見られるように、それほど高い評価を与えてはおりません。

  「各人物にそれぞれ固有な運動の全体から、非人称かつ抽象的で単一な運動、すなわちいわば運動一般をひとつ抽出して、それをその装置のなかに仕こみ、そしてこの名なしの運動と各人物の姿勢との合成から、おのおのの特殊運動の個性を再構成するのである。以上が、映画のからくりであった」〔『創造的進化』(真方敬道訳、岩波文庫)P.358〕。

〔注40〕「思想の継承者とは、その思想の透徹した理解者であるとともに、たんなる解説者やエピゴーネンにとどまることなく予想もしえない別の領域に志向の本質を繰り拡げていく者であるならば、ドゥルーズはほとんど唯一といってもよいベルクソンの継承者である」(檜垣立哉『ベルクソンの哲学』P.12)。

〔注41〕特に、「イマージュ」という言葉の理解は難しそうです。ちなみに、檜垣氏の著書においては、次のように述べられております。「イマージュとは、まさに光の織りなす像である。それは映像と訳すことすら可能だろう。光の諸方向が交錯し、戯れのように一つの像を紡ぎ結ぶもの。そしてその像の背後に、戯れならざる根拠など何一つ設定できないもの」(P.93)。


  (06.6.28に掲上)

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