「牛腸」という苗字について(メモ)  

  牛腸茂雄という写真家がおられ、20年ほど前に36歳の若さで亡くなり残された写真の数も多くないのですが、最近映画まで制作されるなど、次第次第に注目されるようになってきております。この牛腸(ごちょう)という苗字に関して若干の検討を記してみます。  
 
1 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、ゴチャウの項目に「後聴 信濃小笠原氏の一族也。」「牛腸 (項目のみで、記事なし)」と記載します。
  私の記憶では、中央競馬の関西所属に牛腸という騎手がいたこと、かって日立にいた時「後町」さんという旅館割烹のおかみさんと接触があったというものがありますが、姓氏関係で管見に入っているところでは、信濃の国衙があった筑摩郡松本辺りに「後庁(後廰)」という清和源氏新羅三郎義光流の苗字(源義光の子の岡田冠者親義の後裔で、岡田・井深の一族)があったと思いますし、太田博士の「後聴」はおそらくその誤記かと思われます。
  先に挙げた牛腸茂雄氏の出身地は新潟県加茂市(旧蒲原郡)であり、この付近から新発田市にかけての旧蒲原郡地方には牛腸という苗字が散見しますが、ほかの地には「牛腸」という苗字は見られないするようです。
 
2 私が、整理している別稿では、八幡太郎義家の弟・義光(甲斐の武田、常陸の佐竹などの祖)について、概ね次のように記しています。
 
  義光の後には、武田・佐竹という大族のほか、「次男実光の後に常陸の石井(茨城郡)など。四男盛義の後に平賀、大内、飯沢、平尾(以上は信州佐久郡)、佐々毛(ササゲ)、犬甘〔犬飼〕、平瀬、島(以上は信州筑摩郡)、小野(信州伊那郡)、金津、木津、東方、新津、西方、白川(以上は越後国蒲原郡)、穴沢(越後国魚沼郡、会津に分る)など、五男盛清の後が宮元、六男祐義の後が岡本、七男親義の後が岡田、後庁などがあり、各々が信濃の佐久・筑摩郡辺りに居住。」
 
3 以上のことから、私が推測(まったくの推測ですが)するのは、
@ もともと国衙の役人関係者(国造・郡司など古族後裔か)がその役割により「後庁」を名乗った、
A 清和源氏源義光流のなかで居住地・通婚などの縁由で、後庁を苗字とするものが出た、
B @ないしAの一族が信濃から分かれて越後国蒲原郡に遷り、そこで音の通じる「牛腸」の表記にした。この表記変更の事情が不明も、福井県敦賀市の古社気比神社の特殊神事に「牛腸祭」*というものがありますから、何らかの形でこれが影響しているのかも知れません、
ということです。

〔註〕「牛腸祭」について、『神道大辞典』では、気比神宮において毎年六月十六日に行われる祭儀で、本祭はもと例祭当日奉曳する山車の順番ならびに前祭の神輿渡御における犬神人の順番を卜定せんがために起った神事であると称する。俗に牛腸番というが、神事御当番または神事御帳番という意味であろう、と記されている。また、当年の例祭練山曳山等の次第を米くじで決定し一旦帰宮し、再び斎館で当番区は山海珍味を饗応する神事とされ、女子禁制で共他厳重な制度があり類稀なる特殊神事として有名である、と紹介される。
 
4 上記の補足ですが、鎌倉初期には信濃の国衙が後庁(現長野市大字南長野字東後町で、善光寺の門前町でもあった)に置かれておりますし、戦国期には後庁氏の後裔が松本市付近にあったことが見え、筑摩郡洗馬郷を本拠とする三村氏から養嗣が入っています。
  信濃の三村氏は中世、小笠原氏に属し国人領主として勢力を保っていましたが、天文時の当主の三村駿河守長親が小笠原長時に離反して武田方となったものの、天文二十四年正月、甲府一蓮寺で長親主従二百余人は武田信玄に殺害され、洗馬の三村一族も一揆を起こして制圧され、三村一族は没落しました。長親の嫡男は長行で、長親の弟で叔父にあたる岡田の伊深城主(松本市市街地の北方近隣)で洗馬郷を管掌していた後庁出羽守久親の養嗣子となり後庁氏を相続した、とされます。伊深城は平安末期に岡田冠者親義が築城したと伝えられます。
 
 以上、珍しい苗字として「牛腸」を取り上げて若干の考察を加えてみました。
      ( 03.11.9 掲上)


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