地震について

                                        小林  滋


  

  本年(2004)10月23日に起きた「新潟県中越地震」は、大変な被害をもたらしましたが、発生から既に2ヶ月ほど経過し、被災地では仮設住宅への入居が行われ、上越新幹線も年末までには全線開通する運びになるなど、急ピッチで復旧が進捗している模様です。 

  9年前の「阪神淡路大震災」には当時非常に驚きましたが、今回の地震からは、それにもまして強い印象を受けました。仕事の関係で、被災地の一つである三条市に何回か行ったことがあるためでしょう。さらに加えて、この地震の直後に、15年ほど前イランで起きた大地震を題材とする映画を偶々見たことも、かなり影響しているものと思われます。

  経緯はこうです。10月の末に書店で、『映画の明らかさ』という題名の新刊本(上田和彦訳、松籟社)を何の気なしに手にしました。著者は、丁度同じ頃に亡くなったフランスの世界的哲学者ジャック・デリダの後継者の一人と目されるジャン=リュック・ナンシーです。彼の著書は、これまで随分と日本でも翻訳・出版されてきています。といいましても、哲学の素養がない者には到底歯が立ちそうもない雰囲気がどれからも漂い、本屋ではいつも素通りしてきました。しかしながら、この本は、150ページ足らずの映画評論であるばかりか、大層綺麗なスチール写真が巻頭に何枚も掲載されています。もしかしたらとツイツイ買ってしまいました。

 本書の特色は、哲学者の手になるということの他に、イランの高名な映画監督アッバス・キアロスタミによって制作された映画だけを取り上げて議論しているという点でしょう(注1)。とはいえ、キアロスタミの映画を、これまで一本も見たことがありません。そこで、読む前に先ずとレンタル・ビデオ店(渋谷TSUTAYA)に行ってみますと、幸いなことに、本書で取り挙げられている6本の映画はすべて揃っていることがわかりました。その中に、『そして人生はつづく』(1992年)が含まれていたのです。
 
  この映画は、三部作の第2作目に当たります(注2)。第1作が制作されて3年後の1990年6月に、撮影地だったイラン北西部で大地震(マグニチュード7.7、死者約3.5万人)が起きたことから、素人ながら映画に出演していた子ども達の安否を映画監督と息子が自家用車に乗って調べに行くというのが、第2作の一応の筋立てになっています。

  料金所で通行料を支払うところから映画は始まり、救援物資を運ぶ車が優先されるため幹線道路が大渋滞となって、なかなか前に進みません。それを避けるべく、迂回に迂回を重ねてヤットの思いで被災地に辿り着き(注3)、主演の映画監督が旧知の人達に次々と再会する姿が映し出されます。そして、調査のためさらに奥地へ向かおうと、彼の運転する車が急坂を喘ぎつつ登っていくところで終わっています。

  この映画からは、様々なことが読み取れるでしょう。ナンシーもまた、哲学者らしい分析をしています。なかで興味深く思われましたのは、ナンシーが例えば次のように述べている箇所です。映画のタイトル「そして人生はつづく」や映画そのものが言っているのは、「存在の存在することへの固執」であり、「存在することは、何らかの物ではないのであって、それが続くということ」である。ただ、「存在することはそれが続くことだといっても、…非連続性そのもののなかで、そして非連続性をひとつの連続体に溶かすことなく、それは続くの」であって、「それは非連続化し続け、それは連続的に非連続化する。あたかも、映画の映像のように」(P。65〜66)。

  大変難解な言い回しでなかなか理解が及びませんが、もしかしましたら大雑把なところでは次のようにいえるかもしれません。天地を引っくり返すような大地震があっても、その後にも「人々の生」は継続する。それは、大災害によって多数の人が死という「非連続性」に遭遇したとしても。これは、決して「死」が「生」に溶け込むという仕方ではなく、「死」は「死」として、「生」は「生」として続く。あたかも、映画の画像は「連続」して動いているように見えても、実際は静止した「非連続」のコマがつながっているだけなのと同じように。「非連続」のコマそれ自体は、決して「連続」することはないものの、画面の方は、あくまでも「連続」した映像となっている(注4)。

  映画の中でも、一方で、地震で亡くなった人々の遺体がいくつも並べられている空き地が映し出されたり、道を尋ねられた老婆が「16人も死んだ。皆、瓦礫の下敷きになった」と嘆き悲しみます。ですが、他方で、林の中でハンモックに入れられた赤ん坊が泣いているシーンとか、丁度イタリアで開催されていたサッカー・ワールドカップのTV中継を見るために、TVアンテナを取り付けている青年もおります(注5)。また、地震にもかかわらず結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦なども描き出されます。

 新潟の地震の場合でいえば、母親と長女は残念ながら亡くなってしまいましたが、2歳の長男が約92時間後に土砂崩れに遭遇したワゴン車から救出されたことが、ナンシーの述べている事柄にあるいは関連するのではないでしょうか?
 
  しかしながら、新潟の地震直後に見たせいでしょう、話の筋とかいろいろのエピソードもさることながら、むしろ映画の背景として映し出されている被害の余りの甚大さの方にどうしても眼が奪われてしまいます。映画自体は勿論フィクションであり、監督役を含め俳優がシナリオに沿って演じています(注6)。ところが、監督の制作姿勢からか、まるでドキュメンタリー映画のようであり(注7)、画面に映っているすさまじい破壊の爪痕は、実際は、地震発生から数ヶ月以上経過してからの光景とされるものの(P.74)、すべて地震直後の実写のように見えます(注8)。特に、イランの家屋は、伝統的に“アドベ”といわれる日干しレンガで造られているため、地震により完全に崩壊して文字通り跡形もなくなっています(注9)。生き残った人々が茫然自失状態で細々と後片付けをしている映像は、衝撃的ですらあります(注10)。 

  今度の新潟の地震の場合は、マグニチュード6.8で、死者40人、重軽傷者3,000人、全壊家屋2,700余り等という大災害でした。それでも、上記のイラン大地震と比べてみますと、勿論人口の稠密さなど異なる要因は多々あるでしょうが、事前の地震対策(建物の耐震構造の普及など)が日本ではかなり進んでいるためもあって、この程度の数字で止まっているのではと思われます(注11)。
 
  ただ、こうした事前対策をいくら講じていても、地震がひとたび発生すれば、やはり事後的な救済・支援事業がそれに劣らず重要となってきます。イランの大地震では、映画からしますと、地震直後という設定でもあり、余り支援事業が進んでいる様子が窺われません。それでも軍隊が出動して、村人たちと一緒になって瓦礫の片づけをしていたりします(注12)。一部では、居住用の大きなテントも配給されている様子です。

  新潟の場合、冒頭でも申し上げましたように、9年前の阪神淡路大震災の教訓もあってか、かなり復旧・支援援事業が進んでいると思われます。しかしながら、例えば、水田が崩壊したり、ため池の堤に亀裂が入ったり、用排水路や農道の損壊等があったりして、早いうちに対策を講じないと、来年の作付けが難しくなるなどともいわれているようです。

  幸い今年は暖冬のため、当初予想していたほどの積雪はまだないようですが、それでも被災者の皆さんは気が気ではないと思われます。一日も早く抜本的な対策が講じられるよう願っているところです。 

  〔注〕

 (注1) 残念ながら、密かな期待に反し本書もやはり難解なものですが、それでも嬉しいことに、映画評論の他にナンシーとキアロスタミとの対談が掲載されています。その中でキアロスタミは、「映画が重要性の高い芸術と見なされるべきなら、この理解されないという可能性を与えるべきです。人生の様々の瞬間に、一本の映画は私たちに様々の印象を残すことができます」などと、傾聴すべき見解をいろいろ話しております(P.105)。
 
(注 2)三部作の第1作『友だちのうちはどこ?』(1987年)は、学校が舞台となっています。物語自体は単純で、一人の生徒が、誤って隣に座っている子どものノートを持って帰宅してしまったため、それを返却しようと友だちの家を捜し歩くというものです。ただ、この映画では、大部分の出演者がズブの素人(実際の先生と生徒)であり、そのため返って大変リアルさに富んだ素晴らしい映像になっていると思います。

  第3作は『オリーブの林をぬけて』(1994年)。映画の設定は前作と同じ場所となっていて、第2作で新婚夫婦の夫役を演じた青年が、以前プロポーズし断られていた妻役の娘に対し、再度映画の中で申込みをするというストーリーです。この映画につきナンシーは本書で、「『そして人生はつづく』の演出に必要だったいくつかの技巧と嘘が(『オリーブの林をぬけて』において)暴露されるが、この暴露がひとつの新しい、最初のものと全く同程度に現実的な物語の導入となるようになされるのだ」などと述べております(P.31)。
 
(注3)映画監督が運転する車は、幹線道路を迂回すべく脇道に入ったところ、道を尋ねた村人たちに、この先は「急坂が3つもあるから」とか「道に亀裂が入っているから」という理由で「その車ではとても無理」と何度も止められます。にもかかわらず、「道はどこかに続いているもんだ」とか「とにかく行ってみます」、「なんとかなるだろう」とどんどん前に向かって進んでいきます。

(注4)ナンシーはまた、次のようにも述べております。「主題となっているのは、流れる(過ぎ去る)がままの生である。‥‥奇妙にも痛々しく生の一部をなす死以外には、ほかの何ものへも流れていかないものとしての生が主題となっている」。「死は生とは反対のものでも、もう一つの生への移行でもない。‥‥死はまた誕生に近い」(P.22)。

   こうした言明は、もしかしましたら、ナンシー自身の体験にも相即しているといえるかもしれません。すなわち、ナンシーは、ここで取り上げているイラク大地震とマサニ同じ時期(1990年夏)に心筋梗塞に襲われ、翌年心臓移植の手術を受け、その後容態が悪化したりしましたが、今ではかなり普通の生活に戻っているのです。こうしたことにつき、ナンシーは自ら『侵入者』(西谷修編訳、以文社、2000.9)で触れ、例えば次のように述べております。「わたしの生のなかに侵入してくる複雑多岐なよそ者とは、死にほかならない、というよりむしろ生/死だ。つまり存在の連続性の中断、そこでは「わたし」がほとんどなすすべもない断絶だ」(同書P.22)。
 
(注5) 映画では、映画監督が、自分の車に乗せた子供に、「地震の時に何をしていた」と質問すると、子供が「テレビでサッカー(ワールドカップ)の試合を見ていた」と答え、息子が「どこの試合だった」と聞くと、「スコットランドとブラジル」と答えるシーンがあります。

  ちなみに、1990年のワールドカップはイタリアで開催され(第14回大会、西ドイツが優勝)、スコットランドとブラジルの試合は、予選リーグ(Fグループ)で6月20日にトリノで行われています(1対0でブラジルが勝利)。
 
(注6)第1作でドア職人役を演じたルヒさんに映画監督は再会します。彼は、映画監督を自分の家まで案内しますが、そのとき「本当のことを言うと、この家はわしの家じゃない、映画の人たちがわしの家だと決めたんだよ」と暴露し、さらには第1作で使った家も「映画の中の家だよ」と言ってしまいます。この台詞は前もってシナリオで決められたものなのでしょうが、いかにも映画撮影中にアドリブで自然にポロッと出てきたような雰囲気を持っています。
 
(注7)ナンシーは、第2作につき本書において、「すべてが辛抱強く整えられており、場面は「ありのままに」撮られたにしては片づきすぎで、的確すぎる。すべてがルポルタージュ風なのだが、すべてが明らかに指し示すのは、これがドキュメンタリーのフィクションであること、これはむしろまさしく「フィクション」についてのドキュメントであるということだ」と述べております(P.74)。

   なお、第1作の制作ノート(助監督キューマルス・プールアハマッドが執筆)を第1部とする『そして映画は続く』(土肥悦子訳、晶文社、1994)の中で、キアロスタミの撮影姿勢をプールアハマッドは「現場主義」と呼び、「現場主義というのは、<望むもの=監督のイメージ>と<結果的にそうなったもの=撮影中にシーンのなかで起きていること>の中間にあるものを意味する」と説明しております(同書P.77)。
 
(注8)映画の中で、若夫婦の夫に対し、映画監督がいつ結婚したのかと聞くと、その男は「新婚5日目だ」と答え、さらに「地震の次の日に二人で結婚式を挙げた」と付け加えます。とすれば、この映画は、大地震が起きた時から6日後に設定されていることになります。
 
(注9)映画の中で、息子が「皆の家はセメント(作り)だった?」と尋ねたのに対して、父親の映画監督は「泥と日干しレンガだ」と答えます。
 
(注10)イランでは、2003年12月にも、南東部でマグニチュード6.7の大地震があり、これまた4万人以上の死者を出しています。ある都市では、一般家屋および公共建造物が約2万5000棟(全建造物の8割)も倒壊したとされています。
 
(注11)「阪神淡路大震災」の場合は、震度7(マグニチュードは7.3)で、死者6,000人強、重軽傷者者43,000人強、全半壊家屋274,000棟余り。この地震と新潟のとの差は、あるいは大都市部と農村部との違いによるものかもしれません。
 
(注12)第3作は、地震から3年後の時点(1993.5.30)に設定されていますが、その時でもまだ支援事業は十分に進展しておらず、例えば、支給されたと思しき大きなテント脇の空き地に机を並べて、学校の授業が行われているに過ぎない様子です。

   なお、第1作で活躍した素人の子供たちは、撮影時から6年以上経っていますから随分と成長しましたが、この第3作で元気な姿を見せています。

 (04.12.19に掲上)
         独り言・雑感に戻る          ようこそへ