下野の壬生氏、武蔵の行方氏
山椒馬様
戦国期の壬生氏及び行方氏について、私見を記してみますが、それとともに、ご意見・ご教示を願います。
(山椒馬様より、09.1.17)
樹童:この両氏についてはこれまであまり検討をしてきていませんので、感触的なものをとりあえず記し、その後、検討が進んで訂正追補がされることを留保しておきたいと思います。(09.1.30)
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一 下野の壬生一族について
室町中期から近世初期にかけての下野は、江戸時代に創作された数多くの戦記や家記・系図に拠るところが大きく、当該地域の国衆の家伝伝承には多くの疑問があります(例えば、岡本氏は芳賀氏・君島氏・千本氏の由緒に庶流・或は祖として頻出し、益子氏は系図伝承と一次史料に現われる者とに関連性がない)。
そこで本題の壬生氏なのですが、最近ふと「徳節斎」とは綱房、あるいは昌膳の事ではないかと思うようになりました。
通説では、「綱重(1448〜1523)−綱房(1479〜1555)−綱雄(〜1576)−義雄(〜1590)」と当主が続き、綱雄の弟に座禅院昌膳(1518〜)、綱房の弟に徳節斎周長・大門資長(子に資忠)があり、1576年に周長が甥の綱雄を謀殺し、1579年に義雄がその仇を討ったとされます。
しかし、道号「徳節斎」と訓読みの実名「周長」を同一人とせずに、各人の史料上の活躍年代を考え、次のような系譜関係は想定できないでしょうか。試案として提示してみました。
綱重(壬生筑後守)
└綱房(壬生中務少輔、徳節斎[1551年初見])
├綱雄(
壬生中務大夫。1559年銘鰐口[鹿沼市今宮神社]の「壬生下総守綱長」は同一人か)
│└義雄(壬生中務大夫、壬生上総介)
├昌膳(座禅院、1518年生[1534年銘今宮神社棟札に拠る])
├周長(読みは「かね長」。1559年年銘鰐口[鹿沼市今宮神社]の「壬生下総守綱長」は同一人か)
│├氏勝(壬生彦次郎。1567年銘鰐口[鹿沼市磯神社]に「壬生彦治郎藤原氏勝」とあり)
│├綱勝(神山下総守、鹿沼下総守。氏勝と同一人か)
││├某(鹿沼右衛門尉。1600年上杉景勝の陣中にあり)
││└某(神山又右衛門。結城秀康に仕える。忠直に仕えた八左衛門は子か)
│├某(神山左京亮)
│└昌忠(座禅院)
└資忠(大門弥七郎)
└某(大門与兵衛。結城秀康に仕える。光長に仕えた越後高田藩郡奉行の同名人は子だろうか)
神山氏は佐野氏の庶流で益子町上山を発祥(小山市内にも神山という地名があるようです)と伝えるようですが、鹿沼にあった壬生氏の有力者が下総守を称した同時代に、その麾下とされる人物が鹿沼や下総守などと称せるはずもなく、周長の活動が見えなくなった後に官途状を発給していることから、その正統な後継者であると考えられます。
北条氏に接近する壬生氏本宗に対抗し、永禄末期に周長や大門氏・座禅院(日光山衆徒)が佐竹氏・宇都宮氏と結んで鹿沼に独立して(この時、彦次郎氏勝が綱勝に改名し、鹿沼の下総守への対抗として壬生の義雄が上総介を称したか)、1575年頃に周長が没し、1579年に義雄が綱勝を討って鹿沼に進出したとは考えられないでしょうか。
綱雄・義雄の「雄」を「お・かつ・たけ」、周長・資長の「長」を「なが・たけ」どう読むかによって、下総守綱長・彦治郎氏勝の扱いも変わってくるでしょうが、ご意見をお聞かせ下さい。
(樹童の感触)
1 下野国都賀郡にあった壬生氏は、壬生(上原)・鹿沼の両城主として一万貫ほどの地を領し、戦国期の宇都宮氏の第一の重臣ですが、その系譜にはいろいろ謎があり、古族下毛野君一族の壬生君の後裔の名門として貞観頃の慈覚大師円仁を出すなど、古代から活動してきたものです。
早くに分かれた壬生君の一族で甘楽郡熊倉に居住した熊倉氏がおり、その末裔が壬生胤業から綱雄までの四代に仕えたという系譜(『百家系図稿』巻二の熊倉系図)もありますから、都賀郡大族の壬生氏が古代壬生君の嫡裔であることは確かだとみられます。
2 室町中期頃までの壬生氏については、その系譜は不分明であり、戦国期の動向については分かるところで次に記してみます。なお、熊田一氏に「壬生家系譜に関する諸問題」という論考(『鹿沼史林』第16号掲載、1977年)があることが知られますが、いま手元にないので、ここでは参照していません。
壬生氏について検討すればするほど、その系譜の混乱が目に着きます。とかく滅びた名族にはそうした傾向が見られますが。また、『皆川正中録』は混乱の多い史料だとみられますので、その使用には注意したいところです。以下に記してみたのは、とりあえずの試論(推論)であり、良質の史料が出てきたら再考の余地があることを付記しておきます。
(1) 戦国期の壬生氏は、応仁頃から活動した彦五郎・筑後守胤業(生没:1430〜1504と伝えるが、生没年ともにもう少し早いか)を中興の祖として、最後の当主・義雄まで五代の名が伝わりますが、胤業の父祖の名前を明らかにしません(筑後守胤業の父を筑後守某とも伝えるが)。この胤業を京都の壬生官務家(小槻宿祢姓)の庶子で、壬生宗家の左大史晨照の子とする系譜をも伝えますが、やはり仮冒と考えざるをえませんが、胤業が他家から入った可能性を示唆するのかも知れません。
その場合、宇都宮家中には千葉氏流大須賀一族の君島氏がおり、芳賀郡君島郷に起こって宇都宮氏との通婚などで大きな勢力がありましたが、「胤」の字に着目すると、胤業はこの君島氏一族から出て壬生氏を継いだ人物という可能性もあります。君島氏の系図には、壬生上総介義雄の娘や壬生美濃守高宗の娘を妻とした者が見え、これら通婚は壬生氏と君島氏との密接な関連を示唆するともみられます。
(2) 壬生氏本宗は、当初は彦五郎・筑後守を称し(@胤業・A綱重)、次に下総守(B綱房・C綱雄)、最後のD義雄は上総介を称しましたが、左衛門佐や中務少輔(中務大夫、BCD)も称されました。
(3) 綱雄は、所伝のように1556年に家督を継いだとみられますので、鹿沼市今宮神社の1559年銘鰐口に見える「壬生下総守綱長」と同一人だという説に賛意します。
(4) 周長・資長は綱房の弟とされるのが多いのですが、その活動年代(周長が1579死、資長が1587死)から考えると綱雄(綱長)の弟とするのが良さそうです。周長は鹿沼城に拠り、兄綱雄とは違って親宇都宮氏の立場をとりました。宗家綱雄の殺害は天正四年(1576)とされますが、永楽五年(1562)に宇都宮広綱の手による殺害という説もあるようで、いずれにせよ、広綱・周長が組んで壬生本宗を殺害したのだと思われます。「徳節斎・徳雪斎」とは三男という所伝もあり、周長を指すとみられます。綱房とする根拠はどうなのでしょうか。
(5) 義雄は天正七年(1579)に周長を倒した後、天正十八年(1590)に小田原陣で没して男子なく絶家となりました。皆川氏による毒殺説もあるとのことです。この者は中興の祖と同じく、彦五郎も称したようです。
義雄は、始め氏勝と名乗ったとされますが、これには考慮の余地があります。すなわち、享年三九歳という所伝が正しければ、それでよいと思われますが、無嗣断絶という事情、下総守の名乗りをしなかった事情推定や妻が1631年死去という所伝などからいえば、氏勝(綱勝)とは別人であって、氏勝の子が義雄だという可能性があります。その場合、永楽五年(1562)に殺害されたのが綱雄で、天正四年(1576)に殺害されたのが氏勝であったということが考えられます。「周長が甥の当主を謀殺した」という所伝も生きることになります。
(当初は、概ね通説的な位置づけでほぼ良さそうに思ったのですが、壬生氏の人々の生没年・活動時期を考え、小田原北条氏の歴代との年代比較などをしてみると、「綱雄─氏勝─義雄」の三代という余地が十分ありうるというところです。とくに、次男の座禅院が1518年に生まれていたら〔今宮棟札〕、その長兄の綱雄が1515年頃に生まれたとみられ、義雄の1552年生まれというのがかなり不自然に思われます。綱雄の子に1540年頃に生まれた者がおり、それが義雄の父で、義雄の生年が1560年代前半という可能性がないでしょうか。義雄ないし氏勝の姉に皆川山城守広照〔1548生〜1627没〕の妻がいることに留意したいところです)
(6) 大門氏は、B綱雄の弟の弥次郎資長に始まり、その子には図書助・弥七郎資忠がいたとされます。
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二 「六郷殿」と行方氏について
戦国時代、武蔵六郷の大部分を領して後北条氏に仕えた行方氏がありました。
私はこの行方氏こそが北条氏の所領役帳にみえる「六郷殿」だと考えるのですが、いかがなものでしょうか。
以下に雑感を述べます。
16世紀の武蔵六郷に在った行方氏は、1452〜66年頃に江戸城を守備して上杉房顕より感状を賜った行方淡路守(麻生氏)、或は上杉氏に属して足利成氏勢と戦い、1459年に武蔵と上野の国境・海老瀬で戦死した行方肥前入道、山内上杉氏の被官だった鳥名木氏、いずれかの末かと思われますが、
『新編武蔵風土記稿』(以下では「風土記稿」という)に曰く、1531年に「行方半右衛門」が六郷神社を修造したことを始めとして(同社棟札)、
1549年には「行方弾正」が再び六郷神社を修造し(同)、
1560年には「行方修理太夫」が妹尾三河守とともに、本門寺11世日現を開山として羽田本住寺を創建、
永禄年中の事として「行方修理義安」が戦死し(妙安寺寺伝。その側室の斎藤氏[円光院殿妙安日行大姉]が兄・政賢の屋敷内に庵室を結び、尼の没後それが妙安寺になったとする)
1573年の下袋村八幡社棟札に代官として「行方望千代」の名がみえ、1589年に「行方修理亮」が近在の真宗寺院巌正寺を焼討ちにしたと記します。
この他に古文書や軍記に見えるものとして、1562年印判状の「行方与次郎」と1568年印判状の「行方左馬允」、1561年長尾景虎の北条攻めに北条氏繁らと玉縄城に篭り、1569年武田の武蔵侵攻に備えて八幡塚(現円頓寺の地)に要害を築き、1589年秀吉の小田原攻めに際し山中城に派遣された「行方弾正」があります(『北条記』『小田原記』)。
これらを受け、印判状や所領役帳に見える行方与次郎を康親とし、その子に修理亮義安、孫に弾正直清(初名明連)とするのが風土記稿以来の通説です。
他方、六郷殿はといえば、これも風土記稿にも引用されている系図記事をもとに上杉憲幸や、室町中期の旦那注文に依拠して役帳に江戸衆としてみえる蒲田助五郎が、その正体と比定されています。
しかし、役帳にみえる武蔵六郷領の知行は「行方与次郎」が361貫24文と抜きん出ています。以下、300貫文余り少ない渋谷又三郎、さらに10貫文余少ない梶原日向守などと続き、実に六郷領においては行方与次郎より335貫文少ない25貫24文の領主として「六郷殿」が現われますが、この六郷殿は、六郷殿と称されながら、その所領の大半が小机領の星川近辺という不思議な有様です。
そこで私は、私称官途とはいえ官位相当に矛盾のない、与次郎→弾正忠(六位相当)→修理亮(五位相当)という通称の変化を想定し(左馬允は七位相当)、役帳(1558年)にみえる「六郷殿」を1549年の行方弾正、1560年の行方修理太夫(出典は分かりませんが、仮に康親とします)、同じく役帳の「行方与次郎」を印判状の同名人、長尾・武田氏の北条攻めにおける行方弾正(同、義安)、そして1573年の「行方望千代」を秀吉の小田原攻めで戦死した弾正直清と比定するのが妥当かと考えます(「行方左馬允」は義安の弟か)。
なお、行方弾正明連の「明連」は、法名としての明蓮ないしは妙蓮の誤伝ではないでしょうか。
この六郷の行方氏の伝来とともに、ご教示を願います。
(樹童の感触)
私は戦国時代の関東武家については疎いので、貴信により問題意識をもった程度ですから、ほとんどお答えにはなりませんが、簡単な感触だけ記しておきます。
1 戦国期の荏原郡の名族に行方氏があったことを『姓氏家系大辞典』でも記しておりますが、風土記稿の同郡北蒲田村条に「行方弾正直清墓。俗名平姓。行方弾正居屋舗」とあり、「もと上杉家の家人にて、後に北条家に属し、久しく六郷の地頭たり……」とあると紹介されていますから、これに拠ると、上杉氏の家人として武蔵に来住して荏原郡六郷に地頭として勢力をもったものとみられます。
2 その場合、平姓と行方とから考えると、近隣の常陸国行方郡行方郷に起こった常陸大掾一族の出(吉田太郎清幹−行方平四郎忠幹……)とみるのが自然ですが、この一族に特有の通字「幹」を荏原郡の行方氏がもたないようなので確たることはいえません。行方氏の系図では、建武・正平ころの行方源六郎幹胤までは通字「幹」が見られます。
それでも、麻生氏といい鳥名木氏といい、いずれも常陸大掾氏の一族ですから、それと同じように考えられます。鳥名木氏も室町期の人物となると、「道政−国義−秀国」という名乗りとなります。室町期の行方氏が関東公方足利氏の命を受けたり、逆に足利氏と戦うなどの活動していますから、その過程で武蔵に来住し、上杉氏に従い、さらには北条氏に従ったものとみられます。
(09.1.30 掲上)
<山椒馬様よりの来信> 09.2.07及び2.08
T 09.2.07
(1)について
「壬生美濃守高宗」は「玉生美濃守高宗」ではないでしょうか。
君島氏の系図も相当に混乱していて、1496年生れの胤家の母が壬生上総介義雄女、胤家姉妹が神山下総守綱雄室、胤家妻(広胤母)が玉生美濃守高宗女、広胤妻(高胤母)が芳賀刑部大輔孝高女というのは、どうかと思います。
ただ、この系図作成者にとって、壬生氏の「雄」は「かつ」だったようです。壬生中務大夫綱雄=神山下総守綱勝というのは、可能性としてあるんでしょうか。
(3)(4)(6)について
a.綱長と綱雄が同一人、「雄=長=たけ」ということですね。
b.周長の没年ですが、1575年には神山下総綱勝が小倉某に半左衛門尉の官途状を発給しているそうです。周長は存命中に綱勝に家督を譲ったと考えてよいのでしょうか。
c.資長を、1587年日光山衆徒に斬られた「壬生弥次郎」(『輪王寺文書』)に比定することに問題はないでしょうか。
系図で資長の子とされる資忠には1561年の活動が知られ(『佐八文書』)、そのような年齢の子がある人物が、既に老境とおもわれる天正末期に「弥次郎」と呼ばれるか疑問です。
d.綱房=徳節(雪)斎は、1551年という早い徳節斎の初見年代と周長の活動年代(1570年代)から徳節斎と周長を別人と考え、1561年に鹿沼の地を伊勢神宮に寄進している資忠も加えて、壬生の壬生氏と、鹿沼の壬生氏との分流を早めに想定したためです。
本筋としては座禅院昌膳=徳節斎周長がよいのかもしれません。
ただ、この徳節斎は、徳節斎とういからには出家者だと思うのですが、周長は「かね長(たけ/なが)」と自署しているようです。
これは武田信玄が「徳栄軒のぶはる」、上杉謙信が「不識庵かねのぶ」、太田資正が「三楽斎みちたか」と名乗るようなものだとおもうのです。
出家者が訓読み名を名乗った例や、写しではない書状に「徳節(雪)斎周長」と見える例もあるのでしょうか。
(5)(2)について
氏勝を綱雄と義雄の間に入れるのはコロンブスの卵的な新知見を得たおもいです(つなたけ−うじかつ−よしたけ、でしょうか?)。
しかし、鹿沼にいた氏勝(彦治郎=彦次郎)と、義雄に与した日光山衆徒に斬られた宇都宮方の壬生弥次郎にこそ、父子関係があるようにもおもえます。
なお、火災によって焼失したという壬生系図の1本(『一色文書』)には中務大夫綱雄を下総守綱房の叔父とするものもあったようです。
今回の往信によって、壬生氏の系図を考えるときにイレギュラーなのは徳節斎や大門氏ではなく、1人壬生の地に孤立していた義雄なんではないかと気付かされました。
U 09.2.08
昨日のメール後も色々と考えてみたうえでの記述です。
仮説.1
綱重[つなしげ](壬生筑後守)
└綱房[つなふさ](壬生中務少輔、壬生下総守)
├綱雄[つなたけ](壬生中務大輔、壬生中務大夫、壬生下総守綱長)
│├綱勝[つなかつ](壬生彦治郎氏勝、鹿沼右衛門尉、神山下総守、鹿沼下総守貞勝)
││├某(壬生弥次郎)
││├某(鹿沼右衛門尉 1600年上杉景勝の陣中にあり)
││└某(神山又右衛門 結城秀康に仕える)
│└義雄[よしたけ](壬生中務大夫、壬生上総介)
├周長[かねたけ](徳節斎、座禅院権別当昌膳ヵ)
└資長[すけたけ](大門左衛門尉)
├資忠[すけただ](大門弥七郎)
│└某(大門与兵衛 結城秀康に仕える)
└昌忠[ショウチュウ](座禅院権別当)
しかし、1562年に殺害された「壬生中務大輔」を綱雄とすると、1559年の「壬生下総守綱長」は同一人たりえず、樹童さんの説と合わせ綱雄と義雄の間に「壬生中務大輔」を入れるのがよいのかもしれません。
仮説.2
綱雄[つなたけ](壬生中務大輔、壬生中務大夫、壬生下総守綱長)
├某(壬生中務大輔 1562年宇都宮氏によって討たれる)
│└義雄[よしたけ](壬生中務大夫、壬生上総介)
└綱勝[つなかつ](壬生彦治郎氏勝、鹿沼右衛門尉、神山下総守、鹿沼下総守貞勝)
どうでしょう。
追記
壬生氏や徳節斎の出自を考えるとき、西方氏の系図に見える「綱定(徳威斎)」も気になります。
(樹童のメモ)
1 山椒馬様から以上のメールを受けましたが、いま私の手元には検討材料がありませんので、とりあえず来信を紹介して、読者の皆様のご判断を仰ごうというものです。
2 ご指摘のうち、「壬生」と「玉生」との誤記は十分ありうると思われます。『君島系図』が収録される『群書類従』には「玉生美濃守高宗」と記されていて、『姓氏家系大辞典』ミブ条の太田亮博士の誤記をそのまま踏襲してしまいました。現に宇都宮一族の玉生氏には雅楽助綱宗、五郎昌宗など「宗」を名前にもつ者が見えるとともに、『姓氏家系大辞典』タマニフ条には「天正中、宇都宮氏配下の将に玉生高宗あり、常陸笠間の城主たりしが、慶長四年、宇都宮氏と共に除封」と記されます。
玉生氏の系図については、『佐野本系図』(彰考館文庫原蔵)の第25冊及び刊本で『玉生家系図』(玉生正五編)があり、ともに東大史料編纂所に所蔵されています。
(09.2.17掲上)
<山椒馬様よりの追加来信> 09.2.19
○樹童さんの示唆があるまで、綱雄と義雄の父子関係には、全く疑問を持たずにいまし
た。
そう考えると大関高増・福原資孝・大田原綱清3兄弟の父、大田原資清なども山城守と備前守(永存)2名の人物が合一された姿で、分離して一代加える余地があるのかもしれませんね。
(樹童のメモ) 大田原氏の戦国後期の人々
(1) 大田原氏の戦国末期の人々「康清−胤清−資清−高増・綱清兄弟」の部分に所伝等の混乱があることは、私も感じていました。というのは、手元に使える史料が乏しいのですが、胤清(1447生〜1514没と伝)と高増(1529生〜1600没と伝)とが祖父と孫の関係にあるのは年代的に不自然だからで、胤清の生没年代が正しければ、その場合には、中間に2世代入るのが妥当だからです。資清には初名が貴清という所伝があり、これで二人かもしれません。
鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻二所収の「太田原」系図には、康清と胤清との間に高清を書き込むのがありますが、この高清(山城守)が貴清と同人であったとすれば、それは「胤清の子、資清の父」におかれるのが年代的に妥当となります。
(2) その一方、 胤清の生没年代が正しくなければ 、すなわち、上記の生没年代が胤清の父の康清についてのものであれば、世代関係はこれでよいことになると思われます。
ちなみに、康清の弟に信清がいて、その家系は「信清−清乗(阿久津氏)−清幸−光清」と続きますが、信清が1493没、清乗が1522没、清幸が1568没で、光清が大関高増と同時代の人と伝えますから、この活動年代が1つのメドになるのではないかと考えられます。
手元にあまり判断材料がないのですが、上記のうちでは(1)の可能性のほうが高いのかもしれません。
(09.2.19掲上。09.3.12補訂)
<山椒馬様より更に来信> 09.3.15受け
これも史料的裏付のない感覚的な疑問なんですが、よくよく考えれば、『寛永譜』などに見える資清の生没年(1486生〜1560没)が正しいとなると、高増は40歳を過ぎてやっとできた嫡子であり、そんな嫡子を他家の養子に出すというのは、相当思い切った行為ですよね(資清はこの時、60歳目前)。
高増は系図によって生没年に1529生〜1600没と1527生〜1598没の2説があるものの、妻が佐竹義篤(1507生)の姪・部垂義元女ということなので、この年代の人物なのを疑う必要はないでしょうが、資清(『寛永譜』では胤清、『下野国誌』では晴清)には外孫に高増と同世代の那須資胤もあり、資胤母と同年代の男子がいてもいいように思います。
(『下野国誌』那須系図に資胤の外祖父としてみえる「大田原備前守丹治晴清」と、『寛永譜』の増清注記「大田原備前守晴清か弟なり。天文17年、・・・」という五月女坂合戦従軍の記述に、微妙な年代の符合がありますね)
ひとまず、胤清と資清を繋ぐ高清とは別に、資清の後にも1世代加える場合「資清−某−高増・資孝・綱清」になりますが、資孝(則)の没年やそれぞれの息子の生年をみると高増と資孝・綱清にも若干の年齢差がありそうで、「資清−某・高増、某−綱清・資孝」ともできそうです。
一応の生没年は、高増息に晴増(1561か60生)・清増(1565生)・資増(1576生)、資孝(1614没)、資孝息に資広・資保(1571生)・千本資勝(1576生)、綱清息に晴清(1567生)・増清(1570生)となるようです(出典は群書系図や寛永譜の他に、ウェブサイトをメモしたものです)。
(樹童のメモ)
大関高増と福原資孝・大田原綱清とは兄弟でよさそうですが、これら戦国期の人々の生没年や確実な史料でチェックができるまでは、通行する所説や系譜関係には多少とも疑問を留保しておいたほうがよい場合がいろいろありそうです。
なお、大田原綱清の娘二人が大関高増の男(
美作守清増)と福原資孝の男(
中務丞資広)に各々嫁している事情もあります。
(09.3.20 掲上)
<山椒馬様より来信> 09.6.6受け
ウェブサイトから引用していた大田原晴清・増清、福原資孝・資保の生没年は『寛政譜』が出典だったようです。なお、大関晴増・清増・資増が『寛永譜』、千本資勝は『群書系図』が典拠になります。
資孝の没年齢を大田原資清(75歳)・大関高増(72歳)と同程度と仮定(1540〜43年頃生)して資保や資勝の生年も考え合わせたとき、資清との年齢差が離れすぎること、先述した高増の大関氏入嗣に関する疑問から、行き過ぎた想像に走ってしまったようです。
今回、『寛政譜』の千本系図も参照してみると資勝の生没年が『群書系図』とは異なり(1574年生)、確かに、系図にみえる生没年の違和感を根拠に一足飛びに系譜関係を云々するのではなく、発給文書などから活動年代を精査したうえで始めるべきですね。
(09.7.12 掲上)