宮本武蔵の出生地1



         「宮本武蔵」の出生地(試論)
       
                                             宝賀 寿男
                                            (研究グループ代表)


 
 はじめに−問題の概観

 室町期〜江戸期において剣豪といわれる人物については、武芸・活動の個人的なことが多いから、多くはその系譜・出自を明らかにしない。宮本武蔵は吉川英治の小説や最近では漫画の主人公とされていて名高いが、その活動事績や系譜がきちんと伝えられているわけではない。宮本武蔵(生没年が1582?〜1645)は『五輪書』を残したとされ、子の宮本伊織貞次(1612〜78)が豊前小倉藩小笠原右近大夫忠政(後に忠真)の筆頭家老をつとめた四千石取りの大身であって、武蔵に関する貴重な史料を残した事情がいくつかあり、その子孫も主家から養嗣が入るなどして小笠原藩家老として続き、現在まで残る。それでも、武蔵には実子がなく、後継の伊織も実子ではなく養子であったことから、武蔵に関する出生から活動事績の全てを知悉していたとは思われない事情がある。

 私どもは、もともと宮本武蔵については特段の関心はなかったが、備中国哲多郡のユズリハ(杠)氏を調べるうちに、宮本武蔵につながりそうなものが出てきたので、主にその方面から検討を加えたところ、多少のまとまったものも出てきたので、標記のテーマに関して本試論を書くに至った次第である。
 インターネット上には、武蔵に関する情報・検討もかなり念入りに広範な分野でなされており、武蔵の系譜・出生地・活動などについて熱心な研究者がいることが分かる(著作では福田正秀氏、加来耕三氏、小島英煕氏、大森富士男氏など。ネット上では播磨武蔵研究会新免幸男氏など。勿論、ここにあげただけで網羅しているわけではなく、これら以外でも管見に入ったものはかなり多数、拝見させていただいたものを整理したものである。これら掲名は、本稿がHPに掲上された時点のもので、最近では、越後屋鉄舟さんのHPでも武蔵が取り上げられる)。
 とくに出生地については、美作説と播磨説があたかも邪馬台国論争の九州説と畿内説との対立のような様相を呈しているようでもあることも知った。小説などでは作州浪人という表現もあって、美作説が普及しているようでもある。一方、ネット上では出生地播磨説が強いようにいわれており、その根拠として、生地作州を記す『東作誌』の成立が幕末と遅いうえに、宮本伊織の実家田原氏の氏宮・泊神社棟札の記事や美作の吉野郡大原に宮本村が武蔵出生時には存在してなかったこと、「平田家系図」に武蔵の名が「政名」となっている等疑問が大きいことなどがあげられる。
 それら様々な見方を参照し、研究諸書やHPに書かれる記事をいくつか引用させていただきながら、本稿を整理・とりまとめした次第でもある。あえて提起したのは、これまでの検討のなかで抜け落ちている視点もあるのではないかと思った事情もあった。先学に深く感謝をしつつ、本試論を提起して、皆様のご批判をあおぎたい。
 
 武蔵に関する一次的な史料から分かること
 いま宮本武蔵生誕地に関する一次史料とされているのが、次の三つである。すなわち、
@武蔵本人の著とされる『五輪書』(武蔵没年の1645年に成立とされる)。
A伊織が武蔵死後八年目の承応二年(1653)にその出身地の神社に奉納した泊神社棟札、「田原家伝記」ともいうべきもの。
Bその翌年、承応三年(1654)に武蔵顕彰のため、伊織が知行地の小倉郊外の赤坂(北九州市小倉北区赤坂)の手向山頂に建てた巨石碑文の「新免武蔵玄信二天居士碑」、いわゆる「小倉碑文」。武蔵の主要な伝承はこの小倉碑文を源としているが、碑文の内容は顕彰のための誇張が多く、虚実が混淆しているようである。
 (以下では簡略化して、各々五輪、棟札、碑文とも書く

 これら三史料は、内容的に考えてみると、どうも一級史料とはいえない模様のようでもあり、かつ、すべての記事が符合しているわけではない。共通しているので、比較的正しいとみられるのは、武蔵の名が「新免(神免)武蔵(掾、又は守)玄信」ということくらいであり、これは、上記碑文や熊本市弓削の墓碑に「新免武蔵居士」とあり、武蔵自筆とみられている有馬左衛門佐(直純)宛書状及び長岡佐渡守(興長)宛書状には「宮本武蔵玄信」と記されているから、「武蔵玄信」の苗字が「新免」を主にして、両書状が正しければ「宮本」をも苗字としたことが分かる。あとは具体的な記事がないか、裏付けが必ずしも十分とはいえないことばかりである。武蔵の没後十年以内でも、確実なことがきわめて少ないことが分かる。

 武蔵の出生地については、『五輪書』に「生国播磨の武士」とあるが、他の棟札・碑文には記載がない。『五輪書』は死亡数日前に武蔵が弟子に渡したこととされるが、完成状態であったかどうかは疑問である(どこまでの内容や部分が自筆で書かれてあったのかが不明。また、後世の追記あるいは書換えの可能性も指摘される)、との指摘がある。その自筆本が現存せず、写本間での相違も多いことや、誇張や不正確な表現がかなりあり、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に高弟が創作あるいは整理したという説もある(『国史大辞典』島田貞一氏の執筆記事や『宮本武蔵事典』・Wikipedia・『日本史広辞典』等に拠る)。同書に「新免武蔵守藤原玄信」と記されるのも、自ら「守」をつけるのだろうかという不審な面がある。当時の武蔵の身分からすれば、伊織が書くように「武蔵掾」か、本人書状にあるように単に「武蔵」ということであろう(家老クラスでも「守」を付けるのを自粛して国名のみを名乗った傾向が当時、あったから、尊称的な「守」は追記か)。どこまで信頼できるか不明であるが、美作の「平田家系図」にも「平田武蔵掾二天」とあるとのことであり、武蔵の地位だと「武蔵掾」がせいぜいであろう。
 こうした疑問諸点があるから、『五輪書』は一次史料であったとしても、一級史料とはいえないのかも知れない。播磨の具体地がいわれずに、国名だけが唐突に記されるのは当時の言い方として不自然だという指摘もある。武蔵はこれ以外に生国について語った形跡がない事情もあり、『五輪書』の記事にのみ依拠するのは非常に危険であるといえよう。播州生まれが確実な伊織が、武蔵の生誕地について碑文に「播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信」と記すくらいであるが、「播州の英産」は微妙な位置にあり、どこにかかっているのであろうか。碑文の名が「播州赤松末流新免武蔵玄信」とある事情にあり、かつ、新免氏が後述するように、美作の著姓だけに疑問が大きい。
 だから、先入観を抜きにして、確実な点を押さえて考えていかねばならない。
 
 武蔵の実父は誰か
 碑文には「父、新免無二と号」とあり、棟札には「作州の顕氏に神免なる者があり、天正の間、無嗣で筑前秋月城で卒した。その遺家を継承したのが武蔵掾玄信という」とあるから、両者がまったく整合するのであれば、「新免無二」とされる父は養父ということになるが、どうもそうとも言い切れない。というのは、「新免無二」なる者は天正年間(1573〜92)に筑前秋月城で死去していないという事情が具体的に指摘されている。ふつうに何も断りなく「父」と書けば、それは実父を意味するものでもある。
 かりに「新免無二」が養父の場合には、次ぎに誰が実父だったのかという問題がある。その場合、名をあげられるのは、伊織貞次の実家の父・田原甚兵衛久光の父(つまり伊織の祖父)たる田原甚右衛門家貞という者である。これは、「小倉宮本氏系図」(以下、「宮本系図」とも書く)に記載するもので、伊織貞次は父・久光の弟の養嗣になったということであるが、同書の家貞と武蔵との生没年からいって、両者の間に親子関係がなかったという指摘もあるが、これは家貞の没年に誤伝があったという見方もある。天正八年の秀吉の三木合戦のときに別所方の名簿(「東西両軍将士名録」)のなかに田原甚右衛門家貞の名が見つかったと福田正秀氏から報告される。
 この宮本系図は、江戸後期の弘化三年(1846)頃以前に作成されたとされるが、誤記が多くて参考にするには難があるし、かつ、後年に記事が改竄されたという説もある。伊織関係の棟札・碑文には、武蔵との関係がなんら記載されず、上記の「東西両軍将士名録」のなかでも、田原甚右衛門家貞が「宮本伊織の祖父」としてしか記されない。十八世紀中期の『播磨鑑』では、伊織と武蔵は別の村の出身とあり、同書の著者・平野庸脩(つねなが)が伊織出身地と東に隣接した同郡平津村(現加古川市米田町平津)の出身なので、別村というのがほぼ確実だといえるし、これらの意味でも、武蔵と伊織には血族の関係はなかったというところである。泊神社棟札の記事からも、武蔵の田原氏出自を読みとることができず、出生地播磨説を強調する播磨武蔵研究会でも、宮本氏系図を信頼していない。福田正秀氏も、田原家墓地に武蔵の供養墓がないなどの事情も含めて、「伊織兄弟、田原氏の子孫に田原氏とする認識のないことをうかがわせている」と指摘する。また、播磨説で根拠とされる小笠原文庫の『諸士伝記』のなかに「宮本玄信伝」も、内容的に新しいもので『二天記』からの引き写しが見られて、根拠とならないことを福田氏は指摘する。
 
 伊織貞次ら田原一族が居住したのは「播州印南郡河南庄米堕邑(高砂市米田町米田)」とされており、兵庫県加古川市加古川町の泊神社(泊大明神)の北西近隣に位置する。そこからかなり遠く離れた美作の宇喜多氏(直家・秀家)の部将新免伊賀守(弾正左衛門。宗貫あるいは宗実)の家臣たる新免無二の家に武蔵が養嗣に入った事情が、無理があって、まったく理解しがたい(新免幸男氏の見解に同意)。それが、新免無二が筑前秋月に居たのだとしたら、その死亡のときに武蔵がどこに居て、どのような事情で養嗣に入ったというのだろうか。まるで、説明がつくものにならない。ましてや、播州揖東郡の宮本村なら、武蔵の実父は不明であり、養子となった事情もまた不明ということになる。
 ごく自然に考えられるのは、武蔵の実父が「新免無二」であって、武蔵の養嗣に伊織が入ったことで、後世になって、伊織の子孫が伊織実家の田原氏の系譜のなかに武蔵を取り込んだということなのであろう。これが、武蔵が死ぬまで新免姓を使い続けた事情だと考えられる。
 
 新免無二と宮本姓の由来
 「新免無二」については、その人生後半期の行動が史料から知られる。福田正秀氏はその労作『宮本武蔵 研究論文集』(2004年刊、歴研)で、その足跡を史料に基づき克明にしている。それに拠ると、慶長七年及び同九年の「福岡黒田藩分限帳」には「古譜代百石、新目無二、播州人」(旧主君の新免伊賀守宗貫も「新目伊賀宗貫」と記される)として名前を残し、四通の免許状には、「宮本無二之助」「宮本無二助藤原一真」「宮本無二斎藤原一真」と見える。関ヶ原のあった慶長五年(1600)から九年までの五年間は、豊前中津の黒田藩家中にいて新免を名乗り、「免状の慶長十二年を含んだ慶長十七年までのある期間は豊後木付の細川領内にいて」、その後、豊後日出藩主の木下延俊に仕えたことが知られる。
 すなわち、慶長十八年の「五月、京に現れ、延俊に召抱えられて、その年の七月には豊後日出に延俊とともに入国し、延俊に兵法を教えたり、……延俊の側に侍っている」と一級史料の『慶長十八年木下延俊日記』に事績が見え、『平姓杉原氏御系図附言』の木下延俊の項には、「剣術は宮本無二斎の流派を伝えたまふ」と記される。免許の巻物を発給するまで少なくとも数年は日出にいたとみられ、翌々の慶長二十年(1615)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡するまで、「黒田、細川、木下家と渡り奉公し、無二は一貫して東側の大名家を渡り歩いていることがわかる」とされている。武蔵もまた「一貫して東軍側の徳川家に縁の深い大名家を渡り歩いている」という事情にあった。
 『浮田家分限帳』によると、宮本無二の主君新免伊賀守は浮田家の組頭で三千六百石を知行したが、慶長五年春までに浮田家を立ち退いている事情(戸川逵安・花房正成らの退去と同様な事情か)が知られるから、その退転後は黒田家に仕えたことと符合する。宮本無二親子が関ヶ原合戦に関与したとしたら、黒田氏配下で東軍ということになるが、その主戦場は、黒田兵庫の与力となれば九州方面ではないかといわれている。
 武蔵の流れをくむ筑前二天流第五代の兵法家、丹治峯均の著『武州伝来記』(「兵法大祖武州玄信公伝来」)でも、「新免武蔵守玄信は播州の産、赤松の氏族、父は宮本無二と号す。邦君如水公の御弟、黒田兵庫殿(兵庫助利高のこと)の与力なり」と記されている。

 以上のように、新免無二が宮本も名乗り、実名が一真で藤原姓を称していたことが確かめられる。武蔵の養子の伊織も、当初は藤原姓で見えるから、武蔵が藤原姓を称したことがうかがわれるが(『二天記』には「新免武蔵藤原玄信……」、『五輪書』も「新免武蔵守藤原玄信」、熊本の泰巌寺旧蔵の武蔵の位牌は「新免武藏藤原玄信……」となっているが、小倉碑文には藤原の文字がない)、藤原姓は赤松氏とは合わない。また、武蔵の最初の養子・三木之助(造酒之助)貞為が宮本と名乗ったことは墓誌等で確認されるから、武蔵が宮本を名乗ったことは確かであろう。
 黒田兵庫助利高(生没が1554〜96)
 黒田兵庫助は、黒田二十四騎、黒田八虎の筆頭にあげられる。黒田職隆の次男で、甥の長政の後見役を務めた。同母兄の黒田孝高(如水)が九州平定後に豊前六郡を領有する豊前中津城主となったときに、一万石を分与されて豊前高森城主となり、文禄五年(1596)に死没し、息子の政成が継いだ。兵庫助は、前宮本武蔵の父、新免無二之助を招いて藩士に剣を学ばせた。子の政成は、関ヶ原合戦の時に豊後臼杵城の攻撃をし、城を受け取ったが、長政が筑前配置換え後には一万四千石を領した。
 後に、秋月に城代として駐在したのが、兵庫助の弟・図書助直之(生没が1564〜1609)であり、新免無二はその後も豊後日出等で活動が見えるから、新免無二が秋月城で死去したというのは、泊神社棟札の明らかな誤記である。棟札は一に「田原家伝記」とも呼ばれるように、新免氏については殆ど触れていない。

 新免無二は当初、宇喜多氏の配下の新免伊賀守宗貫に仕えたが、主家新免家の浮田家退転の後は黒田氏など勝者の側で行動したことが知られる。美作の「新免家中に「平田無二」が実在する。1578〜1593年の間、参戦記録あり。その無二に「新免無二斉」を名乗った文書が存在。武蔵の父は美作・新免家中の「平田無二」」だという新免幸男氏の指摘は妥当であろう。『新免家古書写』(『兵庫県史』史料編中世九)によると、新免殿と「御同名無二斎殿」という記事が天正六年頃あるいは八年(1580)頃の文書に見えている。
 美作の竹山城主の新免氏は釜坂口の宮本の構に平田武二を置き、播磨方面からの侵入に備えた(『角川日本地名大辞典 岡山県』)とされるから、この「平田武二」は新免無二一真の父の可能性があるが、「宮本の構(木の柵で簡単に囲った砦)」の守将であった故をもって宮本をその子孫が名乗ったことが考えられる(これ以前に、先祖の平田将監が下庄村のうち宮本を領したという所伝があるが、確認できない)。
 だから、作州英田郡の宮本村(讃甘庄宮本村)が何時できたかを検討し、それが武蔵の死後であった(明暦三年〔1657〕に下庄村から分村して生れた新村だと『岡山県の地名』に記される)としても、それは武蔵の美作出生を否定することにはならない。この宮本村すなわち美作国吉野郡宮本村(岡山県美作市宮本。もと英田郡大原町宮本)には、旧英多郡讃甘(さのも)郷中の総鎮守として、かつては荒牧大明神と称していた讃甘神社(旧社格は郷社)があるので、その地元として宮本を名乗る地域が行政区画である「村」の成立前にあってもなんら不思議ではない。同社は、武蔵の生家跡と伝える平田家とは宮本川を挟んで隣り合う位置にある。

 地理的にいえば、美作の宮本村は東南に山を一つ越えれば播磨の佐用郡だという国境付近にあるから、おおまかに播磨といってもさほど気にしないのかもしれない。武蔵には、「佐用郡平福の住」という説もあるようであり、平福(兵庫県佐用郡佐用町)は宮本の東南十キロ弱という近隣に位置する。しかも、武蔵の先祖とみられる平田将監の領地は、下庄村のうち宮本・中山であったが、宮本に隣接する中山は播磨国域にあったと伝える。
 武蔵関係の「宮本村」としては、このほか、播磨国揖東郡宮本村(兵庫県揖保郡太子町宮本)があげられているが(『播磨鑑』)、播磨宮本は少なくとも新免氏とは関係がないし、武蔵に関する物証や伝承は一切存在しないとされる。この地の場合、武蔵が誰の子かという肝心な点もまったく明らかではなくなる。『播磨鑑』の編著者・平野庸脩がなぜこの地にもっていったかは、根拠も含めて不明であるが、播磨ではこの地しか宮本の地がなかったことに因ったものか。
 
   続く


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