最近の蘇我氏関係著作を読む

                                    宝賀 寿男



  先日、久しぶりに遠隔地出張をした際に立ち寄った駅構内の書店などで、最近刊行の蘇我氏関係の著作二冊がたまたま目に着いたので購入し、これらを読んで、しばらく眠っていた蘇我氏への関心を呼び起こされた。その二冊とは、水谷千秋著『謎の豪族 蘇我氏』文春新書、2006/3)と遠山美都男著『蘇我氏四代』ミネルヴァ書房、2006/1)であるが、ここで取り上げて簡単に評価を加えつつ紹介することとしたい。
 
 大化前代の最大の豪族蘇我氏については、これまでも佐伯有清、加藤謙吉、日野昭、黛弘道、志田諄一、平林章仁などの諸氏による著作・論考が発表されてきており、古代氏族という分野の研究対象としては、蘇我氏の研究者はわりあい多いものであるが、そうした状況であっても問題点が数多く残っている。
上記の両著とも、蘇我氏が大化前代で果たした役割や当時の皇室との関係、蘇我本宗没落の事情などの問題について取り上げ、これまでの学説を整理したり、新説・異説の提示や主張をするなど、総じて蘇我氏について新視点からの検討を加えている。たまたまほぼ同時点の著作刊行ということで、この辺りの古代史に関心のある方は手にとって読み比べてみてもよいものと思われる。
 

2 私的な総論的評価

  水谷千秋氏は、継体天皇とその周辺研究で名前を挙げてきている研究者であり、本作は、北九州市立松本清張記念館の研究奨励事業に選ばれた論考の刊行物とのことである。一方、遠山美都男氏は大化改新あたりを中心的に取り上げている新進気鋭の学究との評価があるようで、その視点や研究経歴の違いが同じ蘇我氏を取り上げても、切り口が違ってくる。
とはいえ、実のところ、もっとも違うのは文献資料の取扱い方なのである。水谷氏は、史料の深読み・ウラ読みを自戒して検討したと記すように、手堅い学者の研究で論理的にも着実に進めているため、個別に結論として異論があっても総じて違和感はない。
ところが、遠山氏は、「蘇我氏四代の歴史的意義を問い直す」といって、戦後の史学界の悪しき風潮を体現したかのように、頭から思い込みの大前提と粗雑な論理で、片端からむやみやたらに史料(『古語拾遺』、『聖徳太子伝暦』、藤氏家伝など)を切り捨て切り捨て、そのうえで文献に基づかない想像論を大いに展開しており、異端学説のオンパレードという状況を呈していて、あちこちで「おや!?」と思われるような個所に行き当たる。しかも、他の学説提起者や先行説を殆ど紹介しないから、同書を読む限り、全て自説のように受け取られるが、実は必ずしもそうではなく、山尾幸久氏などの説を踏襲するものがかなりあることに留意したい。遠山氏の立論の仕方を見ていくと、史料の都合の良いところを拾い上げているようで、史料操作に強引さが目立つ」という批判が他の論者からも言われている。たしかに、史料の取捨と解釈に強引だと思われるものもあり、この批判は元ネタの一部である山尾氏の見解にも通じるものがあって、基本的に宜(むべ)なるかなという感じがある。
こうした事情のため、総じて、短期間の「やっつけ仕事」という感じすら与えるが、もしそうでなかったのなら、遠山氏の学問的手法すら疑わせる、きわめて残念な著作だと感じられる。また、刊行物として、紙数の限界があり、そのため説明不足になったのかもしれないが、それならもっと別の書き方もあるのではなかろうか。先輩諸学の検討成果をふまえず、文献資料を否定するばかりで、あえてこれらを取り上げないとしたら、これは勇敢すぎるし、それでは文学かもしれないが、歴史学という科学といえるのかという疑問さえ感じられる。
 
ところで、蘇我氏について、最大の問題はその具体的な出自(及び発祥の地)がどうだったのかということである。これについては、両著とも、一時学界に横行した空想論「蘇我氏渡来系氏族説」(門脇禎二氏の提唱)に対して否定の国内出自という立場をとっており、この点では妥当な立場といえるし、そこに両著の存在意義がまずあるのかもしれない。
しかし、そんなことはいわば当たり前である。蘇我氏とくにその祖とされる満智が百済官人の渡来者(=木〔木羅〕満致という百済権臣と同人)だったという説は、根拠となる史料・伝承とも皆無である。この説は、当時のわが国の社会・政治事情をわきまえないうえに、文献記事の深読みすぎ的な誤読にすぎず、こんな学説がまともな証明や傍証(『新撰姓氏録』摂津国諸蕃の林氏の記事は傍証とすらいえない)すらないまま大手をふって横行するのを許すこと自体が古代史学界の恥とも言えよう(早くに加藤謙吉氏等の的確な批判がある)。両著とも、宣化天皇朝にはじめて登場する稲目より前代の蘇我氏とその動向については不明として、それ以上の踏み込んだ見解は具体的には示されない。この辺は、戦後の“正統”古代史学者の限界を如実に示しており、史実の究明という学問的姿勢が後退しているのではないかともいえよう。
巨大古墳が五世紀の初め頃にはいくつも造成され、それを経済社会的に可能とする(巨大古墳に対応する)基盤としての政治権力と官僚組織が、遅くとも雄略朝頃までに日本列島内ですでに出来上がっていたにもかかわらず、突如現れたどこの馬の骨ともしれないような氏族(系譜不明の意味)である蘇我氏が一気に大臣に任ぜられ天下の大権を牛耳ることなぞ、本来ありうべき話ではない。上古代の日本、とくに六世紀の大和朝廷においては、部・氏族の職掌が男系で世襲され、カバネや部族・氏族の通婚先さえほぼ定まった階層社会・身分社会であって、そこには戦国時代を思わせる急激な成上りや下剋上などありえない。葛城氏の女性が蘇我氏の先祖のなかに仮にいたとしても(実際にはこの辺は不明)、古代では、母系をもって葛城氏の血脈をうけたとはいえないはずで、男系不明の系譜では蘇我氏の地位の高さを説明できるはずがない。こうした認識が遠山氏においてどうしてないのかが不思議である。蘇我氏が大王になりうる系統の血脈を相承するものであったと主張して、そんな「幻の王統」をあげつらっても、まったくの空想論にすぎない。
 
水谷氏の論理展開にも多少おかしなものがないでもない。蘇我氏は天皇家の力によりその力を伸張させたばかりではなく、天皇家が蘇我氏の力によって勢力を充実させた(「蘇我氏あっての王権」「蘇我氏と結びつくことによって王権が力を回復」)という面があると強調して説くもののとされるが、先祖も分からない蘇我氏が朝廷内でどうして力を得たのかの論証が具体的になされないかぎり、論理及び説明の不足である。
蘇我氏が天皇家や朝廷内の職掌(大臣や官僚としての地位)と無関係な形で勢力拡大がなされたことの説明はなされないし、またそれはありえない話である。継体天皇支持で蘇我氏は力をつけたと水谷氏は推測するが、具体的に史料に見えないし(かりにそうであった場合には、稲目の先代のはずだが、それは誰だったのか)、その場合も王権により力を増大させたということになる。大臣として官僚群を率いて王権増大に貢献したことはありえても、「蘇我氏あっての王権」というのは言い過ぎであろう。
また、大豪族だった「葛城氏の傘下にいた豪族」の一つが蘇我氏だと水谷氏はみられるが、文献史料からは葛城氏と蘇我氏との関係は不明であって、「葛城氏の傘下にいた」と簡単に言えるものではない。葛城氏と別系統の豪族という点では、これと同旨である。木満致にせよ、別の蘇我氏の祖先にせよ、葛城氏に入婿したなどという推測には大きな無理があるということでもある。
 
以上、とりあえず総論的かつ批判的に記述したが、遠山・水谷両氏に先行する研究に対する批判も根底にあって、私は、両氏だけを批判しているわけではない。両書には崇仏論争や入鹿殺害事件の解釈など興味深いないし示唆深い記述があり、蘇我氏に関心のある読者は、両書を先行研究諸書と併せ読んでみて、蘇我氏に関する諸問題を自分の頭で冷静に総括してみればよいのではなかろうか。
蘇我氏は政治面ばかりではなく、国史編纂などの面でも重要な役割を果たした。『古事記』序に「帝紀・本辞が正実に違い多く虚偽を加えているので、偽りを削り事実を定めようとした」のが本書編纂の主旨だとあることは、この序文に疑問があるとしても、肯ける。
蘇我氏の罪は捏造だ、天皇・皇族が蘇我氏の行動に大きく関与していたと遠山氏は主張するが、蘇我氏の功績を評価するとしても、その専権と天皇・皇族殺害の罪は、反対派からすれば、蘇我本宗の族滅の理由として十分ではないかと私には思われる。それとともに、国史編纂に蘇我氏が与えた影響を看過できない。記紀が削偽定実をしっかり行ったのか私には疑問があり、その意味でも、蘇我氏の罪状は当時の感覚で大きいものと考えている。これらの意味で、蘇我氏四代の果たした役割を総合的に考える必要があり、史料を適切に解したうえで蘇我氏を過大にも過少にも評価すべきではないということである。
 

3 遠山氏の著『蘇我氏四代』に対する具体的な問題点

  同書の問題点・疑問点(実は、遠山氏が採用した先行説の問題点でもあるのだが)はかなり多くあって、いちいち列挙することはできないが、とくに目に着く問題点をいくつか取り上げてみる。また、水谷氏の著については、関連して言及することにする。
 
 (1) 宿祢が付く名の人物 
宿祢については、「系譜の頂点(始祖)とそれに次ぐ位置にある人物に付される称号」として、これが付けられるから架空の人物とするが(黛弘道氏の先行研究を踏まえてのものか)、根拠のない仮説にすぎず、実在性の確かな蘇我稲目や馬子にも『書紀』の記事に見るように宿祢が付けられることと矛盾する。『紀氏家牒』では、蝦夷宿祢や紀大磐宿祢という表現も見られ、遠山氏等の拠って立つ仮説が成り立たないことが分かる。
建内(武内)宿祢や蘇賀石河宿祢は創造された人物で、それに続く満智や韓子、高麗もありえない命名として架空の人物とされる。しかし、これでは、実在性否定の論理があまりにも単純で一面的すぎる。満智や韓子は活躍した年代が確かだし、「混血児の通称」とされる韓子という名で呼ばれた者には、高麗と馬背が同一人であった例に見るように、ほかに実名がなかったとはいえない。高麗が稲目の実在の父の名前ではありえないというのは、遠山氏の思込みにすぎない。
稲目以前の系譜は事実としては極めて疑わしいとして、「蘇我氏という豪族それ自体の初代が稲目その人だった」と主張される(加藤謙吉氏にほぼ類似の先行説)。遠山氏は、高市郡蘇我がこの氏の発祥地だとするから、それなら、同地に稲目が確実に居たことを証明する必要もあるが、それもなされない(実際、稲目の居住地は不明)。石河宿祢の名は、「蘇我氏の数多い分家の一つ、蘇我倉家(後の石川朝臣)が本居とした河内国の石川郡」に因んで創作されたともいうが、蘇我倉家の当時に河内国石川郡を本拠とした証拠がどこにあるのか。石川は大和の高市郡にもあり、馬子が石川宅で仏殿を修治すという記事(敏達十三年紀)もあって、太田亮博士もこの大和石川を重視している。右大臣倉山田石川麻呂の本拠は最期を迎えた山田寺のあった桜井市山田(十市郡山田)であり、明日香村に隣接する。この者の本居を河内国石川郡と遠山氏は記しているが、錯覚にすぎない。

 こうして、蘇我氏の先祖に当たるとされる初期五代の人物が遠山氏により消されてしまうが(先行して加藤謙吉氏も同説)、これで良いのであろうか。蘇我氏と無関係の『古語拾遺』にも見える満智を抹殺するような検討方法は、文献的検討としては無理がありすぎる。武内宿祢を含む上記五代については、それぞれ実在性の説明(例えば、武内宿祢については四倍年暦での記載、神功皇后紀の大幅増加、複数人物像など)が十分できるものである。多少の矛盾・不合理で、かんたんに史料性や史実性を否定する姿勢は疑問が大きい。
このほか、史料に記される系譜関係記事を遠山氏が否定するものとして、@善徳が馬子の長子(『元興寺伽藍縁起』所引「丈六光銘」)、A境部摩理勢が馬子の弟(『聖徳太子伝暦』、『公卿補任』)、などがあり、それぞれ疑問が大きな内容といえよう(一方、水谷氏は、「馬子の長子……蝦夷」〔47頁〕とするが、他の箇所〔135,142頁〕では「丈六光銘」を引いて善徳を馬子の長男とし、Aは認める)。
善徳について、『元興寺伽藍縁起』の成立年代など史料性に疑問があったとしても、だから記事の全てが疑問だということにはならない。境部摩理勢については、同姓の雄摩侶との関係で黛弘道氏らにより問題視される事情にあるが、この人物は蘇我氏の出自や系譜を考える点で重要人物であるということだけ、ここでは記しておく。また、蘇我倉麻呂(割註にまたの名を雄当〔ヲマサ〕)は、その子の倉山田石川麻呂とは別人であるのに、両者を同人とする疑問な主張も遠山氏はしている(加藤謙吉氏に先行説)。
中臣塩屋枚夫という『聖徳太子伝暦』などに見える人物の実在性否定も含めて、なぜこうした記事まで否定しなければならないのか、疑問が大きい。
 
(2) 根拠のない系譜などの主張 
その一方、なんら史料に見えない系譜の主張(推測)が見られる。そうした例としては、@稲目の妻が葛城氏出自で、馬子を生んだとすること(山尾幸久氏の先行説があるが、水谷氏は根拠に乏しいと記述)、A入鹿を生んだ蝦夷の妻が林臣氏であったとすること(これも山尾幸久氏に先行説)、B入鹿の「弟」の物部大臣を、「第」(邸宅)と解釈すること(先行説があるが、星野良作氏により否定される)で、「入鹿=その通称が物部大臣」とみること、などがあげられ、これらについての大きな疑問がある。
入鹿の母については、史料がないので不明も、天孫本紀の記事(物部贄古の娘が入鹿連公を生むと見える)から見て物部氏かとみられるうえに、物部守屋の所領に河内国弓削・鞍作等と見える(『荒陵寺御手印縁起』)から、別名の鞍作臣はこの地名(現大阪市平野区)に関連するものかもしれない。
「馬子が葛城馬子と名乗ったことを想起されたい」(174頁)と遠山氏は記すが、馬子にはそういう史実はない。『聖徳太子伝暦』の割註に見える蘇我葛木臣が誰(とくに馬子)に比定されようとも、この者が葛城氏を名乗ったわけではないことに留意したい。当時の表記方法からみて、臣の前の葛木は名前であって、複姓ではないうえに、『法王帝説』にはたんに「葛木臣」とあって、当時の葛城臣の人(例えば葛城烏那羅臣)だったことも考えられる。物部大臣という通称をもつ者の名が畝傍宿祢(ウネビ。「敏傍宿祢」と『大和史料』に表記されるが、佐伯有清氏は誤記かと疑うのに同意見)とされても、これが建物だというのであろうか。
中大兄皇子の実名が葛城皇子であったから、「葛城氏の血筋を引く蘇我氏によって養育されたことを意味する」(205頁)というのも、二重の意味で暴論である。
なお、蘇我氏の系譜的検討に際しては、田中卓博士の論考「『紀氏家牒』について」、佐伯有清氏の論考「蘇我氏と古代大王国家」(『日本古代氏族の研究』所収)を十分に読んで参考にしてもらえたほうがよいものと思われる。
 
(3) 史料に見える大和朝廷の官職についての遠山氏の見方に疑問が大きい。具体的には、「群臣」、大臣、大連の受け取り方の問題である。
「群臣」とは、たんに多くの臣下(もちろん多くは有力な臣下であろうが)の意味で一般用語であり、官職位ではないのに、任命される職位とみて記述がなされることも、疑問が大きい。使い分けられて『書紀』に散見する「群卿」なら大夫(マエツキミ)クラスとしてよいのかもしれないが、「群臣の地位」などありえないものである(水谷氏も、「群臣=大夫」としていて、同様に疑問)。
その一方、一般に官職とみられる「大連」を一族内の尊称としてしまう(加藤謙吉氏に先行説)。すなわち、大連が公的な職位ではなく、物部・大伴両氏の内部で一族を代表する祖先に付された尊称とみるものであるが、物部氏や中臣氏などで、尊称的に大連と表現する例はあっても、正史としての記紀に現れる大連は官職とされ、これを疑う理由はない。
さらに、稲目以前に大臣に任ぜられたという所伝の人物すべてについて実在性を否定して、従ってそれらの大臣就任も否定してしまい(加藤謙吉氏に先行説)、大臣は大夫を配下として宣化天皇の時代に創設されたものと主張するに至っては、官職の恣意的な取扱いに当惑せざるをえない。
 
(4) 見瀬丸山古墳の被葬者を蘇我稲目とすることにも疑問が大きい。
これまでの発掘など考古学的成果として、見瀬丸山古墳が欽明陵であることは定説となっており、これを簡単に否定する立場は学問的に疑問が大きい。蘇我氏の絶頂期ともいえない稲目の墓として、当時の大王陵墓をはるかに凌ぐ巨大古墳を築造することなど、ありうることではない。欽明天皇陵を所説のように平田梅山古墳(先行説あり)とした場合に、その二倍を超える巨大古墳を臣下の稲目関係者が造成すると考えることなど、歴史的バランス感覚の問題であろう。馬子の墓とされる石舞台古墳や蝦夷・入鹿親子の今来の雙墓と比べれば、丸山古墳が異常な巨大さが如実に分かる。
欽明天皇陵については、増田一裕氏の『「天皇陵」総覧』所収の「欽明天皇陵」をご覧いただければ、遠山氏の記述の問題点が明白となる。
このほか、吉備の白猪屯倉の領域についても、遠山氏の記述には疑問がある(水谷氏の記述が妥当)。
 
(5) 以上の諸点にもまして疑問が大きいのは、遠山氏の歴史認識である。
具体的には、@氏とウジナの成立についての認識で、遠山氏は、五世紀後半の雄略天皇の時代になっても、葛城氏などの氏について、a「まだ氏と呼ぶべき実態が成立していない」、b「氏という集団やその標識としてのウジナが成立したのは六世紀以降のことで」、c「大王位が特定の一族に固定するようになったことに対応する」、ウジナは、d「あくまでも大王(王権)の側から授けられるもの」で、「大王への「従属と奉仕」の象徴」、などと主張され、記述の基礎とするが、これら主張を裏付ける端的な文献的な史料はない。(なお、水谷氏も、江田船山鉄刀銘文や稲荷山鉄剣銘文をあげて、a及びbは、同じ主張をするが、辺境から出土した両銘文からそこまでの論断はできない。

  また、A五世紀段階のわが国の王統についての認識で、遠山氏は、「五世紀段階では大王位もまだ後世のような特定の一族に固定しておらず」「この時期、大王を出すことができる一族はなお複数存在していた」とされるが、こうした所説で先行する川口勝康説は、『宋書』倭国伝などの誤解から生じた説にすぎない。大王を出しうる一族が複数で、現皇統のほかにあったのなら、現天皇家以外の他の一族を具体的にあげて見たらどうだろうか。葛城氏が大王を出しうる一族だと遠山氏は規定するが、その論拠をまったく欠くうえ、そこから出た大王が実際にいたのか。このような所論は、現皇統にもつながる騎馬(半牧半農)系民族の厳然たる血統原理の無視ないし無知を示すものである。

  さらに、B葛城県がもともと葛城氏の所有物とみるのも疑問が大きい。葛城県は、葛城県主(国造)が管理する朝廷の県にすぎず、一豪族が所有する「県」なぞ、その概念矛盾であろう。葛城氏がかつて大王を出すことができた一族であったこと(しかも、その資格を最も早くに否定されたこと)、を遠山氏は主張するが、これはまったく論拠がない。葛城襲津彦とその一族の行動をみて、そのどこに大王たりうる資格があるというのだろうか。想像論と歴史的論究とは異なるものである。
稲目が「葛城氏とほぼ同格の一族出身者」だと遠山氏はいうが、この「ほぼ同格の一族」というのは、具体的に何なのか。こういう抽象的な空論はやめるべきである。
なお、葛城氏には大きく二流あり、葛城県主・国造は神武朝の功臣剣根命を先祖とする直(のち連、忌寸、宿祢)姓の神別氏族であり、葛城襲津彦を出した葛城氏は臣(のち朝臣)姓の皇別氏族であったが、これを混同してはならない。
 

4 蘇我氏の先祖とその系譜(結論)

 上記二冊とも、蘇我氏の具体的な出自解明には手がつけられていない。そのため、水谷氏の上記著作について、謎がほとんど解明されないと不満をもらす向きがないでもない。しかし、それは酷かもしれない。これまでわが国の歴史学界で、武内宿祢という先祖の否定説(通説では武内宿祢の実在が否定されているので、当然これまた通説となる)のうえで、蘇我氏の先祖・系譜について解明した学説はなかった。というのは、古代史の知識はもちろんのこと、古代の大王(天皇)、有力氏族やその系譜についての該博な知識と合理的な思考方法が基礎として必要だからである。
 もっといえば、解明のためには、応神天皇自体の系譜解明や神功皇后や日本武尊などの系譜解明も必要なわけであるが、それが、系譜所伝を軽視(無視)し、古代の人物を乱暴な論理で否定し切り捨てまくる津田亜流の思考方法では、どの問題についても解明できないからである。ここまで多くの点で遠山氏を批判してきたが、実のところ、遠山氏の説に先行する山尾幸久氏や加藤謙吉氏などの先行説の批判をしてきた模様でもある。
  してみると、これまでの蘇我氏研究は根本から問い直されねばならないのかもしれない。こうした認識さえ出てくるが、その意味で、確実にいえることから、きちんと地道にポイントを押さえていく必要がある。
水谷氏の今回の研究は貴重なものかもしれない。
 

 最期に、ここでは書評としては蛇足であるが、
蘇我氏について結論的な概要を説明抜きであげておくと、次のようなものである。
@ 蘇我氏は、宇佐国造支流から出て皇位簒奪をした応神天皇の同族の出で、ともに九州で活動したヤマトタケル記紀に一般的に出てくる景行天皇の皇子小碓命ではなく、景行記に訶具漏比売の曾祖父にあげる倭建命のことであり、火・讃岐・播磨などの諸国造の祖先の建緒組命に当たる)の子孫にあたる。
A 蘇我氏は、飛鳥の西南近隣の高市郡波多郷(現高取町南部)を本拠とする波多臣氏とは同族であるものの、実在した武内宿祢の系統の葛城臣氏やこれとは別系統の紀臣・平群臣氏とは別族であったが、馬子の国史編纂事業関与などを通じて、武内宿祢の後裔とする系譜大系を創り上げ、勢力が著しく退勢となった葛城臣氏に替わって武内宿祢後裔氏族のなかでも宗族的であるとの主張をしたものであった。
大和国葛城郡を先祖の地とする馬子の主張や祖廟を葛城高宮に立てた蝦夷の行動は、この過程で出てきたものにすぎない。葛城氏から蘇我氏につながる男系・女系とも、史料としては一切管見に入っていない。
B 石河宿祢(武内宿祢の子ではない。訓みはイワカワか)を初代とし、稲目までの蘇我氏の歴代について実在性を疑う理由は見当たらない。
C 蘇我氏の起源地についても、諸説あり定説がないが、讃岐から備前播磨の辺りを経て大和に来て、まず高市郡蘇我(初代のときに遷住か)、次いで同郡飛鳥辺りで大発展したのではないかとみている。「すが(=そが。真菅)」も「あ(接頭語)+すか」も、「菅」や「蘇」という鉄に通じる地名であった。
なお、河内国石川郡(遺称などから、もとは「い+すか」か)については、早くに分かれた支族的なものの居住がないわけでもないが、直接の起源地ではないと考える。石河宿祢と石川郡とを直接に結びつけることは慎重に取り扱うべきであろう。葛城氏の正統な後継者だと蘇我氏が主張し行動したとしても、出身地を葛城地方に求め、滅衰した葛城氏の流れをくむ氏族とみる説(加藤謙吉氏など)も、疑問が大きい。
 
 以上の結論に至ったものの、なにぶん多くの基礎・根拠から結論まで複雑に組みたてていく過程が必要なため、多量の紙数を要し簡単な論考では書き尽くせない事情がある。そのうち詳細をなんらかの形で説明したいと考えているところでもある。
 
(06.5.28掲上)
 


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