『珠生家伝記』の史料性



※本稿は東大史料編纂所所蔵の『珠生家伝記』の検討結果を記したものであるが、結論からいえば、私見では同書は偽書ないしは創作小説、フィクションと判断される。従って、「偽書」とは何か、その背景はどうかなどという関心がなければ、歴史研究・系図研究の観点からはこれ以上読んでいただく必要はないことを、予めお断りしておきたい。また、試行錯誤を繰り返しているので、文章としても読みにくいかもしれないが、この辺もお断りする。


 
1 『珠生家伝記』の概要
東大史料編纂所に『珠生家伝記』(請求記号:2075-1163)という謄写本が所蔵されている。 内題を「土岐一家珠生家伝記」といい、七巻からなり上下二冊(正確には乾(巻1〜巻4)、坤(巻5〜巻7)の二冊)に謄写されており、その奥書によると、豊後国直入郡竹田(現大分県竹田市)の津山氏蔵本を明治二〇年(1887)十一月に編修の久米邦武が文書採訪の時に大分県庁に託して謄写させた、と記される。同書は、枚岡真守編の大著『碩田叢史』の謄写本全54冊のうちの第34冊にも所収されるから、この地域ではそれなりに知られた書物だったのであろう。
 
枚岡眞守後藤碩田1805〜82:はじめ後藤今四郎といい、碩田と號し、名は眞守(まもり)、字は大化、豊後国大分郡乙津村乙津の豪農・村役人の出であった。西寒多(ささむた)神社の主典・権祢宜を務めたことで、先祖の苗字に復古して枚岡を名乗った。尊王の大義を説き、尚武の急務を論じたことなどで、明治四十五年に従五位の贈位を受けた。
碩田には、勤王の功績以外に学術界―とくに考古界(当時の表現で、いまでいえば歴史学界)に異彩を放ち、『碩田叢史』約六百巻の大作を編修した。この稿本は、豊後の地理歴史を研究し、その関係文書を中心として集輯した一大叢書である。そのなかには、真守が〈尤モ珍蔵スル豊後国「大宝記年戸籍帳」「天平九年正税帳」〉(『進達留』)をはじめ、「豊後国図田帳考証」「大友興廃記」「豊後国古蹟名寄帳」など貴重な資料が収められている。
 
『珠生家伝記』の内容は、初代とされる土岐頼氏が建武三年に家を興してから、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時の豊後での合戦(両賀・重成親子)まで及ぶ「土岐珠生氏」の系譜書である。
 主なポイントをあげると、次のようなものである。
 (1) はじめに清和天皇十七代の珠生和泉守源頼氏(法名道孝。1317生〜1406卒、享年90)をあげ、従五位下で、母は同族土岐氏の小里河内守源正氏の女である。頼氏については往古から委細の伝があってそれに書かれるので、ここには書かないし、「虹丸の太刀」も詳しくはその伝にある。
 (2) その子には、珠生兵庫頭源頼久従五位下、姉(遠山三郎秀光妻)、弟二人(四郎兵衛尉頼高〔土岐左近蔵人頼員養子〕、玉生宮内佐光成)、妹二人(土岐伊予守室、今川伊予守貞世室)であり、頼久兄弟三人は将軍に随って九州に下向した。応安七年三月、義満将軍が菊池武政を討つとき、細川頼之らを大将に土岐頼康・珠生頼久兄弟三人など多くの将士が随った。帰洛後、永和元年に頼久から頼氏に代替わりし、頼久一家は京の二条堀川に住んだ。
 (3) その子の左近大夫頼興、以下は石見守頼方、兵部大輔頼守、石見守頼重、修理亮頼基、丹三郎(伊賀守)頼長、丹後守頼秀と親子相承で続いて(歴代とその事績は省略)、頼秀の子の藤四郎(丹後守)祐秀は子のない宇佐美祐晴の養子となる(この子孫の苗字は珠生とも土岐とも宇佐美とも表される)。その宇佐美祐晴は領地の伊豆宇佐美庄を北条早雲に奪われたので、代わりに大和の丹波市を所領にもらった。
 (4) 珠生氏は代々五千貫の所領を持っていたが、頼秀の時に二千貫減じ、祐秀の時には二千五百貫となっていた。祐秀の子の藤四郎(隼人佐)祐清、その弟で祐清の養嗣九郎左衛門尉重祐であるが、足利幕府が滅びて祐清・重祐は堺の屋宅に蟄居した。
(5) 重祐は出家して両賀といい大名中川氏に仕えて、豊後に移住し、文禄の朝鮮出兵にも随ったが、帰国後の関ヶ原合戦の際、石田方の臼杵城主太田飛騨守政信と中川勢が戦った時に討死して本懐をとげた。その外甥・娘婿で養嗣が勘兵衛重成(旧姓猪津)であり、朝鮮出兵のときは留守をまもって慶長の大津波に遭遇し、義父両賀とともに臼杵勢とも戦った。
 
 その検討経緯
(1) この文書に注目されたのは岐阜の研究者林正啓氏である。土岐一族にはこれまで珠生という苗字が知られていなかったことから、この文書が信頼できるものなら、新しい知見を得るものとして検討され、また当方にも検討を依頼してきたものである。「虹丸の太刀」が頻繁に記事に出てきて、妙な感じがするという趣旨もいわれた。
当方は、史料編纂所のデータシステム不調のため、その全体像を把握できないまま検討に入り、「珠生」は『姓氏家系大辞典』にも見えないが、@同文書の記事にある玉生(訓としてタマニフ・タマフ。現代音としては「たまう」あるいは「たまお」か)と同じとみられること、A玉生氏は下野の宇都宮社家につながる塩谷一族が有名であるが、下野のほか、伊予にも玉生庄があることから、これらが手がかりになるかもしれないとみていた。
林正啓氏からは、土岐氏は伊予とも関係が深く、同国の伊予郡松前町大字西古泉には玉生八幡大神社があるので、同書に史料性がある場合には、伊予に居た土岐氏庶流ではないかととの示唆も受けていた。
しかし、通観してみると事情が変わってきた。林氏より上巻分の打出しを受け取るとともに史料編纂所のデータベースがまた開けるようになって、全体像が把握できるようになって、とりあえずの検討の感触としては、「偽書」の疑いが濃いという感じが強くなってきた。史実とつき合わせると、おかしな点が多数、目に着くからである。
 
 (2) そうした疑問点を順不同であげると、次のようなものがある。
@ 先祖の頼氏の父祖が最後まで不明なままであること。
頼氏の生没年(1317生〜1406卒)は土岐惣領の頼康(1318生〜1387卒)とほぼ同じですが、その父にあたる人物が分からない。もし、頼氏が実在の人物なら、頼清・頼遠の多くいる兄弟の一人か、舟木系統の同世代となろうが、そうした辺りには珠生氏をだすような者が他の土岐一族系図にはいっさい目に入らない。
A 珠生の家督歴代は、頼氏以下六代にわたって従五位に叙せられ、そのなかには従四位まで叙された頼基がいたことを記すが、当時の叙位記録『歴名土代』にはそうした記録がまったく見えない。
B 将軍家側近で常に活動するようなことが記されるが、これも土岐珠生氏という者の記録が信頼できる史料(信頼できない史料も含めて)には一切出てこない。例えば、相国寺供養に珠生親子が参加したとあるが、この事件を記す史料にはその名は一切見えない。
京はもちろん、本国であるべき美濃でも珠生氏の存在痕跡がない。
C 子孫の祐秀が伊豆の宇佐美の家を継いだとあるが、この宇佐美が北条早雲に伊豆の所領を取られたことはたしかだとしても、一般に宇佐美氏は越後に行ったとされ、大和の丹波市に所領をもらって存続したということは史実ではないとみられる。
ちなみに、大和丹波市の当該所領についても、大和の戦国期に宇佐美氏ないし土岐氏が領していたという記録がない(『奈良県の地名』などに見えない)。このほか、珠生氏の領地が明確ではなく、実体性が稀薄とみられる。
D 同文書には北条早雲という名で現れること自体がおかしい。その正しい表記は、伊勢新九郎宗瑞が基本であり、北条早雲という名で通俗的に知られるようになるのは相当あとになってからのことである。ただし、北条早雲の駿河下向の年月は正しい記載と思われる。
E 織田信秀の小豆坂合戦の年月が天文十一年八月で、そのときの七本槍の氏名まで正しく表示されているなど、歴史的事件の年月が割合正しく表記されている一方、微妙に月日が異なる個所も少なくない。しかし、いずれにせよ、土岐珠生氏に直接関係ないことがどうして割合正確に記述されるのか、かえって疑問が残る。
F 登場人物(その名前も)もやや奇妙だと思われる者がかなりいる。例えば、毛利氏に滅ぼされた安芸武田の子孫が畿内にあって将軍側近で活動したなど、ありえないと思われることが記載される、等々。
 
以上のことから、一応の結論としては、珠生氏関係以外の他の史料に珠生(玉生)氏の存在が確認されない限り、少なくとも創作の域を出ないと思われた。しかし、結構辻褄があっている点もあるので、かなり学識のある人物が江戸中期くらいに各種史料を参照して作ったのではないかとも推測された。後藤碩田や久米邦武がその史料採取で取り上げられたくらいだからである。
これでほぼ終わったつもりでいたら、意外なところから話の続きが出てきた。それが、次に記す豊後の大津波である。
 
3 文禄五年の豊後の大津波
(1) 上記の検討をしていた頃、近くの図書館から借りてきた本があり、その一部を読んでいて、あーっと驚いた。その「珠生家記伝」下冊の第七巻に記載の珠生家の当主がなんと別の名前で登場するからである。しかも、吃驚するような話と一緒にであった。
その本の名は作家の中村彰彦著『史談・信長に仕える苦労』(ダイヤモンド社、2002年4月刊)といい、その話は、「柴山勘兵衛の見た瓜生島「大沈没」」という項(102〜106頁。当初『週刊ダイヤモンド』2001年6月30日号に掲載)にある。
 
(2) 同項の要旨を『珠生家伝記』との関係ある形で取りあげる。
国土消失の例として、昔別府湾にあった瓜生島(うりゅうじま)が大地震の結果、一日にして海に沈没した事件があげられる。この事件は、東大地震研究所編『新収日本地震史料』第二巻にこの島の陥没に関する全史料が網羅される。
本項では、柴山勘兵衛重成(しげなり)という人物から見た事件の概要を紹介する。
@ 勘兵衛と父の両賀とは堺の牢人者ながら船を所有し、この船で交易して土蔵付きの屋敷さえ建てていた(「柴山勘兵衛記」)。これは、秀吉の朝鮮出兵の文禄年間(1592〜96)のことである。
A 両賀には、「能(よ)キ将ノ手ニ付(つき)テ、討死ヲスベシ」(良い大将のもとで合戦して立派に討死したい)という戦国の男ならではの夢があり、そこで、両賀・勘兵衛父子と一族は、豊後竹田に移動し、六万六千石の岡城主中川秀成に採用され、両賀は千石を与えられたが、その知行地は別府湾に浮かぶ「沖ノ浜」(瓜生島の別称)であった。
B 両賀は文禄五年(=十月に改元して慶長元年、1596)正月に瓜生島に引き移り、屋敷と土蔵を建てたばかりか朝鮮渡海のために船10艘を建造し、二月には勇躍朝鮮に出撃した。勘兵衛は残って留守をした。
C 同年閏七月、勘兵衛の妻が一児を出産した数日後の12日に大津波が来て、溺死者が708人にも及んだという。柴山家にも大津波が来て勘兵衛と妻・子は流されたが、うまく救助されて家系図や槍も流されずにすんだ。
D 同年11月には、勘兵衛は主君から沈没して消えた瓜生島の替わりに今津留村(大分市街地北部の海岸)をもらい、ここを中川家の港として船奉行をつとめた。翌慶長二年(1597)には、両賀も無事、朝鮮から帰ってきた。(中村氏はこの親子の強運を言われる
 
 (3)「珠生家記伝」の関連する記事を書くと、次の通り(詳しくは坤冊第七巻参照)。
@ 当時の当主は重祐入道両賀といい、その養嗣・娘婿が勘兵衛重成と見える。堺に住んでいて、のち中川秀成に仕え豊後に移住した。
A 両賀の朝鮮出兵参陣も見える。
B 関ヶ原合戦の時、中川秀成は家康の東軍に属して、同国臼杵城主太田飛騨守政信と戦ったが(これは史実で、『姓氏家系大辞典』4156頁上段にも記載あり)、このときに両賀は戦死し、ともに参陣した勘兵衛重成は合戦後、両賀を弔い、今津留まで戻った。
 
(4) ここまで合致していれば、自ずと結論は出てくる。要は土岐でも珠生でも宇佐美でもなく、柴山氏の家伝だったということで、柴山という苗字については『珠生家伝記』にまったく出てこないのが、その偽書性を裏付けると考えられた。
同書が大分県直入郡竹田町の「津山某」に原蔵というのも、竹田町(岡藩士)のほうに意味があったようである。これに続けて、大胆にも、江戸中期の岡藩士で学者の「柴山鳳来、その子の豫章」とも関係も推測してみた(これは間違いと分かった)。しかし、本件問題には、さらにもう一段の底があったのである。
 
4 津山系図の記事から分かること
(1) 豊後の大地震は当時日本に来ていたキリスト教の宣教師も記録していて歴史的事実と認められるが、これにより瓜生島が海没したのは疑問であり、大分市街地の北部の勢家地区の北方に陸続きで存在した沖ノ浜が海没したのではないかと現在はみられている。

※註:瓜生島や豊後地震については、詳しい検討が次のHPなどで見られるので、参考に挙げておきたい。
 1 幻想諸島航海記 瓜生島
 2 瓜生島沈没  
          http://www.ailab7.com/uryuu.html
 
ともあれ、岡藩で船奉行をつとめた柴山勘兵衛の関係資料は大津波の貴重な記録であることは間違いない。その資料のなかには、『津山系図并世譜』(津山系図と津山氏世譜とが所収)もあり、『珠生家伝記』と同じ時期に採集されて東大史料編纂所に謄写本(請求記号:2075-924)が所蔵されていた。同書は『珠生家伝記』とほぼ同じ内容で、簡潔に系図が記載されている。これにより、新たな事実が分かってきたのである。
 
 (2) 『津山系図并世譜』の記事で注意される点をあげると、次のとおり。
@ 津山氏は本氏土岐又は珠生又宇佐美といい、土岐伯耆守源頼貞から始まり、その五男が珠生の祖の頼氏(珠生和泉守、童名土岐五郎、号悪源次)とあげられる。頼氏の記事は『珠生家伝記』と同じであり、建武三年に尊氏将軍から宝剣を賜って氏の名にしたとされる。→『珠生家伝記』では記さない頼氏の系譜がはじめて記されるが、問題があることは後述する。
A その子の頼久以下も、基本的に『珠生家伝記』と同じとなっている。
B 頼基については従五位下としてしか見えない。
C 重祐には、宇佐美九郎左衛門、後号柴山両賀と記される(それより前は皆、土岐姓で記載される)。
その養子の重成には柴山勘兵衛(初称武田氏、中称猪津氏、前名藤四郎)、実母宇佐美祐秀女と記される。
D 重成の子の佐良には、津山勘兵衛、前名柴山藤四郎、禄三百石、今津留御船奉行、と記される。→この記事により、柴山氏が改称したことが分かるから、『珠生家伝記』がなぜ津山氏に伝えられたかの事情が明確になってくる。
  同系図について若干検討を加えると、疑問な点がいくつか浮上する。それらについて以下に検討を加える。
 
 (3) 珠生の初祖の頼氏の系譜
頼氏が土岐頼貞の五男とされることには疑問が大きい。なぜなら、五男の位置には、『尊卑分脈』や『土岐大系図』では周崔があげられ(後者では土岐五郎と記す)、子孫を伝えないからである。また、先に記したように、頼氏の在世年代は土岐惣領頼康とほぼ同じであって、それが頼康の父・土岐六郎頼清の兄にあげられるはずがない。系図作成者が周崔を抹消して、その位置に珠生初祖の頼氏を押し込んだとみられる。
だいたい、宝剣を賜ってそれに因んで苗字にするなどの発想が南北朝期にあったとは思われない。珠生ないし玉生が現実の地名に因む限り、土岐一族の出とは考え難い。林正啓氏が可能性として考えた伊予については、『珠生家伝記』や『津山系図并世譜』にはまったく出てこないので、関係があったとは思われない。このように、珠生氏は出発でまず躓くわけである。
 
 (4) 柴山両賀が柴山を名乗った事情
@「津山氏世譜」には、宇佐美九郎左衛門重祐について、前名藤四郎、後名柴屋勘右衛門、柴山両賀と記し、堺で柴薪を扱う仕事もしていたことをあげる。
「柴屋」に着目して『珠生家伝記』を見ると、興味深い記事が二つある。一つは柴山両賀が朝鮮渡海をしたときの家来に柴屋与左衛門・柴屋八介という二名の柴屋姓が見えるから、商売・商号に関係するものとは思われない。もう一つは、柴山両賀が討死したときの合戦記事に「柴屋漢兵衛」なる者が見えるが、これは記事の前後関係を見ると、両賀の養子・柴山勘兵衛と同人である。そうすると、両賀の苗字はもともと柴屋で、のちにこれを改めて柴山にしたのではないかとみられる。その場合、宇佐美も土岐も珠生も、まったく関係なくなる。

A 『珠生家伝記』の記事では、もとは古い部分の頼氏から九代目の頼秀までがあったが、虫食いなどの事情から慶長十八年十月に書き直して、祐秀から重祐までの三代の記事を追加したと同書の最後のほうに書かれるが、こうした作成経緯は偽りとみられる。もともと記録にあったのは重祐入道両賀の実父の祐秀までであって、それ以上は後世の偽作であったろう。

B 柴屋・柴山については、具体的に系譜は知られない。『姓氏家系大辞典』を見る限りでも、土岐系の柴山氏の系譜は不明である。もし、若干なりとも土岐氏に関係があったとすれば、次の可能性が考えられる。一つは尾張国海部郡芝山郷から起った柴山(芝山)氏があり、室町幕府の奉公衆に見えるから、かなりの名族であって、これが実際に土岐氏の流れを汲んでいたことも考えられる。
また、『寛政譜』に土岐支族の柴をあげ、土岐頼孝の後というとされるが、土岐頼康の従兄弟としては、土岐十郎頼兼(頼興)の子に蔵人頼孝が見え、土岐九郎頼基の子に彦十郎頼隆が見える。後者は明智系統で、この流れが尾張の海部郡等に居た可能性もある。
 
5 結論など     
 いろいろ試行錯誤をしてヨレヨレしながら、なんとか最後まで辿り着いたのではないかと思われる。以上の検討から見て、『珠生家伝記』や「津山系図」の大半は後世の偽造であって、史実ではない、土岐珠生氏は存在しなかった、としてよかろう。
 まったくの余談であるが、この夏、映画『日本沈没』が上映されてヒットし、私も先日見ているが、豊後の陸地海没という話が十六世紀末頃の日本に現実にあったのですね。それにしても、特定の系図を追い掛けていって、いろいろな意味でビックリしたというところでした。
 
      (06.9.1掲上)


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