山内氏と安東氏

      

           遠山氏 概説
                                 高樋孝助様

T 遠山氏とは

 遠山氏は、江戸北町奉行遠山左衛門尉、いわゆる背中に桜吹雪の彫物をした遠山の金さんが有名ですが、その遠山氏の発祥地は岐阜県恵那市および中津川市です。むかしの言い方をすれば、美濃国(濃州)恵那郡遠山の庄にあたる。
 そもそも、その結びつきは、鎌倉時代の初め(1185年)に源頼朝の重臣であった伊勢加藤氏の流れを汲む加藤次景廉(加藤次郎景廉)が当地方の地頭職を得たことが始まりです。そして、景廉の息子の景朝がこの地に土着して、遠山氏を名のり始めたことが、遠山氏の由来です。真偽は別として、ほぼ全国に散らばっている遠山さんはこの景廉の末裔とされている。そして、遠山氏の家紋は、最初加藤氏の家紋である藤紋を使用していたようだが、室町時代以降は足利幕府の奉公衆として活躍したことから足利氏の家紋である丸に二引き(両引き)紋に改め、現在に至っている。
 当初、恵那市岩村町あたりに土着化した加藤遠山氏は、早い段階で岩村遠山氏・苗木遠山氏・明智遠山氏のいわゆる遠山3家になった。時代が降るにしたがって、この3家を宗家として馬籠遠山氏・阿木遠山氏・久須見遠山氏・飯羽間遠山氏・串原遠山氏などの分家が美濃国恵那郡全域に敷衍して勢力を張った。そして、時代の中で盛衰はあったものの、戦国時代中頃(天文から元亀)にかけて最大となり、美濃国加茂郡のほぼ全域と美濃国守護土岐氏の本拠地であった土岐郡東部をもその支配領域とした。
 遠山氏が全国に拡散していったのは、まさにこの戦国時代のうねりの中である。それ以前にも、美濃の地を離れ遠い異郷の地で勢力を得たとみられる遠山氏もある。しかし、遠山さんが現在日本各地にみえるが、それは明治以降拡散したというより、戦国時代に拡散したものとみられる。
この詳細については、古文書等でも確認でき、最近の研究や全国の遠山氏からの問い合わせ等により次第に明らかとなっている。この事例については、別項で説明する。
 
U 遠山3家
 美濃国恵那郡に勢力を張った遠山氏は、恵那郡北部地域を苗木遠山氏が支配し、中央部を岩村遠山氏が支配し、南部を明智遠山氏が支配した。この恵那郡の地は美濃国(岐阜県南部)の東部地域にあたり、東側では、信濃国と境を接している。また、北側では、飛騨国と境を接し、南側では三河国と境を接している。したがって、各国の勢力からの影響を被る。信濃の勢力は、小笠原氏・木曾氏・知久氏・坂西氏などであり、飛騨の勢力は三木氏であり、三河の勢力は松平氏・鈴木氏である。これら外部の勢力に対して、遠山3家は結束していたが、内においては相互に牽制しあっていたものとみられる。この様な状況が顕著になるのは、15世紀後半の応仁の乱以降の戦国時代に入ってからである。
 
 この応仁の乱に際して、西軍に属した美濃守護の土岐氏と共に遠山氏も京都に出陣した。遠山氏の主力勢力が不在の間に、東軍に属していた信濃の小笠原氏・木曽氏が恵那郡に進出し、瑞浪市あたりまで侵攻した(1473年)。その後、数十年間、恵那郡は、信濃の勢力の影響を被った。特に、恵那郡の中央部においては、その影響力は著しかった。
 
 16世紀になり、信濃の勢力も他国にある支配地域を維持できなくなり、恵那郡に対する影響力も次第に逓減していった。一方、在地の遠山氏は、一時期をその影響力を失ったが、依然として土着の国人として存続していた。そして、他国勢力が後退するという状況において、相対的に遠山氏の影響力も回復していった。それと同時に、遠山氏の中でも秀でた人物が現れた。その中の一人が、岩村遠山氏の遠山景前である。彼が実力をつけてきたのは、天文年間初頭のことであるが、臨済宗妙心寺派の僧である明叔を遠山氏の菩提寺である大円寺に招いたことは、遠山氏の権勢と名声を高めた。一般的には、明叔は、甲斐恵林寺の高僧として知られているが、彼は飛騨の三木氏の出身でもある。ここにおいて、明叔を通じて甲斐武田氏・飛騨三木氏・東美濃遠山氏の同盟が成立した。この同盟は、軍事的制覇を目的というより盟友的なもので、その意味ではゆるい同盟関係である。しかし、甲斐出身武将の平井頼母が高山城主(土岐市)と成ったことや若尾氏が根本城主(多治見市)と成ったことは、その同盟の成果を反映している。
 
 この時代、美濃国全体では、守護家(土岐氏)の衰退と守護代家(斎藤氏)との確執を背景に斎藤道三が権勢を振るっていたが、それはほぼ西美濃および土岐氏の本拠となっていた中濃を基盤として紛争が繰り返された。そして、尾張で勢力を伸張してきた織田氏との紛争も避けられず、斎藤道三としても岐阜から遠く離れた東美濃に関心はなかったとみられる。
 
 一方、織田信秀・信長親子は、ほぼ天文年間中に尾張の主要な地域をその勢力の下におき、美濃・三河の勢力と干渉しあう状況となった。そして、内津々峠を境に対峙していた東美濃の勢力、とくに当時武田信玄と同盟関係にあるとみられていた遠山氏に対して、自分の妹や姪さらに叔母までも遠山各氏に嫁がせて姻族関係を結んだ。いわゆる政略結婚である。さらに、軍事的には軍事顧問団として信長の兄の織田信広や織田掃部助をはじめとする尾張出身の武将達を遠山氏の各城に配置した。
 
 その天文年間の終わりから天正年間の始めにかけて、遠山氏や東美濃の地は、一方で武田信玄と同盟関係にあり、一方では織田信長と同盟関係にあるという極めて複雑な事態の下にあった。そのことが、その時代の遠山氏の立場や役割を一義的に説明することを難しくしている。
 
 この間にも多少の軍事衝突や突発事故的な武力紛争が起こり、その紛争解決のための和解行為が行われた。それは、上村合戦(1572)であり、秋山氏と信長の叔母である遠山景任夫人の婚姻である。
 
 武田信玄と織田信長が明確に断交したのは、天正元年(1573)1月17日である(甲陽軍鑑)。それに伴い、遠山各家も旗色を鮮明にした。苗木遠山家の名跡を継ぎ、苗木遠山家に従う遠山傍系の各家は、織田信長に従った。当時惣領を欠いていた岩村遠山家に連なる各家は、武田信玄に従った。明智遠山家は、旧知の松平や鈴木が織田信長と同盟関係にあることから織田信長に従った。
 武田信玄の立場からして、天下統一のために都である京へ西上するには、東美濃に武田軍を侵攻させなければならない。高齢となり、すでに発病していた武田信玄にとって、織田信長と和睦して西上する余裕はなかった。そして、武田軍の支城となっていた岩村城を拠点に侵攻を開始した。
 一方、織田信長は、織田方の遠山氏の各城のうち一八ヶ城(遠山18城)の防備を固め、武田氏の侵攻に備えた。そのうちの神箆城(瑞浪市)には河尻秀隆を定番として置いた(信長公記)。
 この後すぐに武田信玄は、信濃国伊那郡駒場村(飯田市)において死去したが、翌年の天正2年(1574)2月に信玄の後継者である武田勝頼は遠山18城を攻めた。武田軍は城郭を攻撃しただけでなく、神社・仏閣をもその攻撃対象にしたために、侵攻を受けた現在の中津川市・恵那市・瑞浪市の多くの文化財がこのとき焼失した。織田軍もこの際に6万といわれる軍勢を東美濃に繰り出し、信長本人も岐阜城から東美濃に着たが、明智城内において遠山友信の謀反により織田勢の体制が崩れたことから退却した(信長公記)。
 翌天正3年5月に織田・松平連合軍に致命的大敗を喫した武田勝頼は、もはや自国経営に専念せざるを得なかった。そこで同年11月に織田信長は、嫡子織田信忠を東濃軍の総大将に据えて岩村城を攻撃して、岩村城内の武田勢および武田に加担した遠山勢を撃破した。その際に、秋山氏・座光寺氏・大島氏それに秋山夫人となっていた信長の叔母である遠山夫人は斬殺された。ここにおいて、東美濃の地は完全に織田信長の勢力下に入った。そして、武田に加担した岩村遠山氏は、信長からその名跡を復活することが許されなかった。これにより、400年間保持してきた岩村遠山氏の名跡は絶えた。
 
 織田信長が奪取した岩村遠山氏の支配地域は、信長の重鎮である河尻秀隆に与えられ、その中に明智遠山氏の明智城も含まれていたことから、明智遠山氏は河尻氏の配下に組み入れられた。苗木遠山氏は、城主としての地位を認められ、恵那郡北部および加茂郡半分ほどを安堵された。なお、苗木遠山氏のその時の惣領は、遠山友忠(苗木久兵衛)であるが、友忠の父友勝は苗木遠山家に伝わる江戸時代後半の「遠山家譜」の記載によれば、三淵大和守の息子とされている。すなわち、細川藤孝の兄弟にあたる。そのことが事実であるとすれば、そのことも苗木遠山氏が残った理由になる。いずれにせよ、遠山3家のうち苗木・明智の2家の名跡が存続することになり、信長の死後、豊臣秀吉の時代に苗木遠山氏も恵那郡を追われるが、関が原の戦いで旧領の復活が認められた。苗木遠山氏の惣領は、友忠の3男友政であったが、1万521石の大名となった。明智遠山氏は大名にはなれず、幕臣となったが、6500石の大身の旗本となり、江戸幕府の重要官僚として幕政にあたった。その分家が遠山の金さんにあたる。
 
V 遠山氏の拠点
 前に述べたように、遠山氏は、加藤景朝が遠山庄に土着したことに始まるが、実際具体的にどこに館を設けて居住したかは不明である。現在の恵那市岩村町あたりであることは間違いないようであるが、その比定地は見出されていない。ただ、遠山館にさほど遠くないところに菩提寺を建てたとすれば、遠山氏の菩提寺である大円寺付近に館が存在した蓋然性が高い。したがって、岩村町の市街地の北東にあたる岩村町富田地区内に館があった可能性が高い。
 日本三大山城とよばれる岩村城跡は、岩村遠山氏の拠点であるが、その創建は不明である。しかし、岩村城内の八幡神社棟札によれば、遠山頼景が城主として存在した可能性が高い。したがって、遅くとも15世紀末から16世紀初頭には岩村遠山氏の拠点が岩村城となったといえる。その岩村城の城主は、遠山頼景に続いて、景友、景前、景任が勤めたが、1573年に織田信長が武田勢を排除したのに伴い、岩村遠山氏の名跡となんら関係のない城主がそれ以降岩村城にはいった。
 明智遠山氏は、恵那郡南部地域を支配領域とした。そこは、東側は信濃国伊那郡と南側は三河国と隣接している。その拠点は、現在の恵那市明智町である。明智城跡が詰めの山城であったとみられる。館は、不明であるが、江戸時代の旗本である遠山氏の陣屋が中世の館跡であった可能性が高い。明智遠山氏の富、すなわち経済基盤は、主に領内支配によって得られる富である。その他に、明智遠山氏の支配領域には、江戸時代に名古屋と信濃を結んだ中馬街道のルートにあったことから流通を押さえることによって得られる権益と矢作川上流部を支配したことによって得られる権益があったものとみられる。
 苗木遠山氏は、恵那郡北部を支配領域としていたとみられている。しかし、その実効支配地域の境界は明確ではない。それは、中世中期から後期にかけて時代により伸縮していた可能性がある。また、その実効支配のあり方も室町時代前期と文明・応仁年間から天文年間にかけてと戦国時代中後期とはそのあり方が異なるようである。それは、室町幕府の有力な奉公衆である苗木遠山氏が在地においていかなる役割をしていたかが問題となる。この問題については、今後の検証課題である。いずれにせよ苗木遠山氏は、少なくとも木曽川北岸の苗木・福岡・坂下を勢力基盤としていたものとみられる。
 系譜上、苗木遠山氏は、遠山景朝の子、遠山景員から分かれたとされているが、遠山加藤五郎が苗木遠山氏であった可能性が指摘されている(大平記)。その子とされる遠山景信は、美濃国諸家系譜に記載されているが、その記載内容からみて実在性が高いとみられる。この景信は、康安元年(1361)に京都において亡くなったとされるが、彼が福岡植苗木に城と館を設け、菩提寺である広恵寺を開基したとされる。
その後、遠山昌利(一雲入道)・遠山景徳親子の時代に本拠を苗木高森城に大永・天文の頃、移したとされる。この苗木遠山氏は、中世後期「遠山左近」ないし「苗木勘太郎」と呼ばれたいたが、苗木勘太郎は織田信長の妹を娶り、その娘が武田勝頼の夫人となったことは有名である。
 苗木遠山氏の富は、主に中央アルプス南西面の森林資源であったとみられている。他に、美濃と信濃および美濃と飛騨の流通権益、さらに木曽川中流域・木曽川支流の付知川の権益を押さえていたものとみられる。
 
W 全国の遠山氏
 @ 武蔵遠山氏
明智遠山、10代目とされる遠山景保の子、遠山直景は、奉公衆であったことから同僚の北条早雲の知己をえて15世紀末に武蔵に移った。直景は、江戸城代の地位を与えられ、その息子綱景とともに後北条氏の重臣として活躍した。この後裔も江戸時代旗本として存在した。そして、大道寺氏もその姻戚関係から一時期遠山苗字を名のった。
一方、在地の明智に残ったのは、遠山景保の子、景成である。景成の子、景行はいわゆる上村合戦で戦死した。その直系の孫、遠山一行は、小牧・長久手の戦いに伴う戦闘で亡くなっている。したがって、旗本となった明智遠山氏は、傍系にあたる遠山利景の系統である。
ところで、遠山直景と遠山景成のいずれが嫡子かは、不明であるが、大名となった苗木遠山氏はその所有する文書から、遠山直景の系統を明智遠山氏の直系とみている(遠山家系)。
 
 A 館林・長岡遠山氏
大名家の苗木遠山氏の初代藩主である遠山友政は、森長可によって父と共に苗木の地を追われ、徳川家康のもとに走った(1582)が、小田原の役(1590年)以降、友政は家康の命により榊原康政の客将となった。関が原の戦い(1600年)により、友政は旧領を安堵され大名となったが、友政の叔父(友忠の弟)にあたる遠山弥右衛門景利が榊原康政のもとに残り、400石の扶持を得た。榊原家はその後、越後長岡に転封され、遠山景利の末裔にあたる遠山吉兵衛家もそれに従った。
 
 B 四国の遠山氏
天正年間初頭に神箆城(瑞浪市)の城主は、土岐(遠山)三郎兵衛であったとされる。かかる人物は、最近の研究によれば、小牧・長久手の戦いに際して徳川家康から感状を得た遠山佐渡守だとされる(三宅唯美)。さらに、この人物は延友信光、遠山景延の名を持っていたとみられる。
遠山佐渡守の嫡子は、半左衛門であるが、彼は井伊直政の輩下として小牧・長久手の戦いに際して、明智城・岩村城を攻めた。その攻略後、半左衛門は戦死した。そして、程なく遠山佐渡守も亡くなった。遠山佐渡守の一族で残ったのは、半左衛門の息子である平兵衛と半左衛門の弟である茂兵衛である。平兵衛は、讃岐生駒家に出仕したが、生駒家が転封された際に浪人し、その後病死した。その子、伊兵衛は、高松藩士となった。一方、茂兵衛は、宇喜多秀家に仕え、土佐山内家の家臣を経て、今治藩松平家の家臣となり、そこにおいて重臣として活躍した。
また、丸亀京極家の遠山氏は、美濃遠山氏の出身とみられるが、詳細については検討中である。
 
 C 江儀遠山氏
信濃国下伊那に江儀遠山庄がある(吾妻鏡)。ここの支配者も中世全般において遠山名字のものが支配した。美濃遠山氏との関係は、明らかではない。しかし、美濃遠山氏、とくに苗木遠山氏は、松尾小笠原氏、知久氏、坂西氏などの飯田に勢力を持っていた土豪と関係を持っていたことから、江儀遠山氏と没交渉であったとはいえない。特に、江儀遠山氏のうち遠山遠江守景広、遠山土佐守景直親子については、今後詳細な検証が必要である。
 
 山城の遠山氏、九州の遠山氏などその他の地域の遠山氏についても、現在研究中であるが、その成果は今後の課題とする。
                                            (以上)
 (06.4.4受け、06.4.11掲載.)


 (樹童のとりあえずのコメント)

  美濃東部の山間部を鎌倉前期から支配してきた遠山氏は、なかなか興味深いもので、早瀬氏も『肥前の龍と遠山桜』で取り上げられている。私も、かつて網野善彦氏が『日本中世史料学の課題』で名古屋市蓬左文庫の「諸士系図」のなかの第4冊所収の「加藤遠山系図」を取り上げたときに、若干検討したことがあったが、途中で手が回らなくなった経緯がある。
 その意味で、地元在住の高樋氏が研究され、整理されたことは意義深いものと受けとめている。
 
 (06.4.11 掲上)
 


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