山内氏と安東氏

      

       山内氏と安東氏
                                  高樋孝助様

  「美濃の林氏諸家の出自と系譜」での樹童氏と林氏のやりとりと重複するところもありますが、以下に所見を記しました。

1 最近、土佐山内家18代当主の山内豊秋氏が亡くなられました。山内家の初代当主は、山内一豊ですが、一豊は美濃衆と極めて近い関係にあります。

 織田信長の家臣は、津田などを含む同名衆、斯波氏の元家臣、津島四姓七党を基盤とする津島衆、木曽川中下流域を拠点とした川並衆、そして美濃衆に分類することも可能かと思います。いずれも樹童氏の指摘のとおり、その出自については怪しいものがある。その上、信長の子息については割りとはっきりしているものの、信秀以前の織田氏の家系についてさえ相当混乱がある。山内家についても、同様であり、さらに一豊の父である盛豊の居城とされる木曽川町の黒田城につきその可否が議論されてきた。その議論は、岩倉市史などで、詳述されている。

 山内盛豊の動向についてははっきりしないものがあるが、美濃側の軍記物などに山内名字の人物が出てくること、盛豊の死後、一豊が牧村政倫の仲介によって信長の配下に入ったこと、野中氏など一豊の重臣が美濃出身者であることなどからみて、盛豊および一豊が美濃と極めて関係がある人物と位置づけても問題ないかと思っています。

 一豊といえば本人自身の業績よりも「一豊の妻」として見性院(千代)の方が有名です。
見性院は、今までは浅井家家臣の若宮喜助友興の娘とみられてきましたが、最近では郡上城主、遠藤慶隆の兄弟、いいかえれば遠藤盛数の娘とする見解が妥当性を帯びてきました。遠藤盛数は、東常慶の娘である照用院(友順尼)と結婚して郡上城主となり、さらに東氏が保持してきた山田庄一帯を奪取した人物です。もともと東氏は、千葉氏の一族として由緒正しいわけですが、盛数の祖父である盛胤を東常縁の息子ないし婿とする東・遠藤系図は、その関係を示す文書が認められないことから疑わしいものであるとみられています。そこで、美濃明細記にある遠藤系図が妥当かというと、その出自ばかりでなく、世代間においても相当問題がある。しかし、いずれにせよ遠藤氏が美濃土着の土豪であることは間違いなさそうである。そして、美濃明細紀の遠藤系図が竹中氏との通婚関係を示すことから、遠藤氏は郡上周辺というよりさらに南の岐阜ないし西美濃周辺に拠点をおいていた可能性がある。

2 さらに、山内氏と美濃との関係を示す人物は、一豊の姉の通(北方殿・法雲院妙栄)である。この通については、平成15年4月の岩倉市の広報において岩倉市文化財保護委員の中山春義氏の「いわくらの文化財」の欄でコンパクトにまとまって記述されています(インターネットで一読できます)。通の息子は、宿毛城主、可氏ですが、その家系は土佐藩の家老として明治まで保持され、男爵伊賀家となります。また、その娘は、土佐藩筆頭家老の家柄となる深尾重良和泉の妻であり、もう一人の娘は乾彦作和信の妻となっています。深尾氏は、岐阜・太郎丸城主深尾重盛の孫です。そして、乾氏については、新人物往来社の「三百藩家臣人名辞典 第六巻」によれば、土岐頼貞の子孫で乾和宣の息子とされています。また、乾氏の本拠が美濃国池田郡東野としていますが、それは揖斐郡池田町東野のことです。なお、その記述によれば、和信は一豊が近江長浜城主であったときの家老で、土佐藩家老となった乾和三の兄にあたります。この和三は、板垣退助の先祖にあたる甲斐武田の家臣、信形の子正信を預かっていた人物とされています。そして、同様に西美濃出身とされる野中兼山も、それらとの姻戚関係にあります。山内家土佐藩重臣として兼山は、郷士制度を含む長宗我部氏以来の土佐の中世支配体制を幕藩体制下の近世支配体制に移行させたと評価される人物です。

 そこで、通の夫は誰かというと、土佐側では安東郷氏とされています。郷氏は、美濃側では安藤(安東)七郎にあたります。すなわち、天正10年(1582)に安藤守就・その長男である尚就とともに本田、北方合戦において、稲葉一鉄・貞通と戦い討ち死にしたとされる安藤七郎(守重・太郎左衛門)のことです。軍記物では、七郎を守就の息子としていますが、守就の弟、すなわち定重(守利)の三男とするのが妥当とされています。その他、守就の兄弟とされるのは、蒲生氏郷から蒲生姓を賜ったとされる蒲生将監と、安藤氏の菩提寺となっている龍峰寺(岐阜市奥)の開山である湖叔宗栄がいます。蒲生将監については、氏郷が亡くなった後、石田三成の家臣となり、関が原の戦い(1600)において黒田長政の重臣・黒田三左衛門可成と戦い、討ち死にしています。そして、守就の妻は、蒲生賢秀の娘とする記述するものがあるが、そうだとすれば氏郷と守就は義理の兄弟である。

 なお、守就の母は、美濃明細記では竹中氏の娘とされています。しかし、前述の中山氏も記述していますが、梶原氏の娘とする見解もあります。そして、一豊の母も梶原氏の娘で、二人は姉妹だとされています。ただ、「新訂 寛政重修諸家譜 第13」でも一豊の母は、梶原氏の娘とされるだけでよくわからにのですが、尾張梶原氏のことでしょうか。すなわち、犬山の羽黒城主、梶原景義につながる人物でしょうか。山内盛豊が黒田城主であるとすれば、山内氏も梶原氏も木曽川流域に拠点をっていた人物で共通点があります。しかし、その関係は、同じく木曽川流域に拠点をもっていた生駒、土田、前野、蜂須賀などのいわゆる川並衆とは、異なる人的ネットワークにあるようにみられます。その観点からいえば、坪内氏も問題となります。

 ところで、美濃三人衆、斎藤六人衆の一人である安藤守就については、竹中半兵衛の岳父として知られていますが、「信長公記」ではほぼ伊賀氏で、伊賀範俊、伊賀伊賀守、定次、平左衛門としてあらわれます。その業績として、永禄7年(1564)に竹中半兵衛がわずかの手勢で行った稲葉山城の変が有名です。そして、その際に活躍した竹中16騎のうち、小右衛門と勘左衛門が守就の息子とされています。次男、守宗・右衛門佐は、「織田信長家臣人名辞典」によれば、元亀元年(1570)に堅田城を守備し、朝倉軍の攻撃を受け、討ち死にしたとされる。越前結城家家臣の高屋越後についても、守就の息子とされるが、これについはよく分からない。なお、守就の娘は、竹中半兵衛の妻、得月院の他に、前述の遠藤慶隆の妻となった娘がいる。そして、北政所・おねの父である木下(杉原)定利の弟にあたる木下利匡の妻も守就の娘ではないかとされている。

 また、守就父子は、佐久間信盛父子が天正10年(1582)8月12日が折檻状まで出されて追放処分にあった後うけ、同17日に林秀貞や丹羽氏勝とともにほとんど言いがかりに近い理由をつけて追放されるという信長の粛清人事にあった。そして、所領を奪われ武儀郡谷口(武儀郡武芸川町)に蟄居した。この地にある汾陽寺は、斎藤利永によって開基され、斎藤利国によって再興されたといわれています。したがって、谷口の地は、美濃斎藤氏にっとって密接な関係にある土地といえる。そして、守就がここに蟄居した理由は、利栄の後裔である白樫城主斎藤利賢の弟とされる改田伝衛門を頼って行ったからだととされている。なお、改田伝衛門の妻は、守就の兄妹であるといわれている。

 また、後年にいたり関が原の戦い以降、小早川秀秋に愛想を尽かした稲葉正成が妻、福(春日局)とともに蟄居していたのもこの地である。地元の言い伝えでは、稲葉正成の弟である開田孫六清常が谷口に住んでいたから、正成と福がこの地を選んだとされる。所領関係からいえば、美濃斎藤氏の所領と見るべきだから、正成に関係するとみるより、利賢の孫で、利三の娘である福に関係するとみるべきでしょう。いずれにせよ、淀藩の初期の分限帳に家老として「改田伝衛門」の名を読み取ることができることから、それが利賢の弟される人物の後裔である可能性が高く、淀藩稲葉家と密な関係にあるものとみられる。

 なお、改田ないし開田氏は、もとは清和源氏山田流の名字であって、これは美濃斎藤氏とは直接関係ないものの、先に樹童氏が論じられた時(源平争乱期〜鎌倉期)と時代が違うことから、斎藤氏が通婚関係から改田を継いだものとしてみれば問題はない。また、木田・開田・改田の拠点は、岐阜市北西部として指摘されているが、その南西側は安藤守就の居城とされる北方城や河渡城のある長良川西側にあたる。また、その北側は、加藤氏と関係する黒野にあたる。

3 つぎに、安藤守就の系譜については問題である。樹童氏の指摘どおり秀郷流の伊賀稲葉系図は、検証を必要とする。岐阜城すなわち稲葉山城を二階堂行政が築き、それが伊賀佐藤朝光、そしてその次男である伊賀光宗、さらにその三男の光資に受け継がれ、光資が稲葉名字を名のったことは問題ない。また、光資、光房と続く家系も光房の子ないし孫あたりまでは問題なさそうである。しかし、それ以降は問題となる。それは、太田亮氏が「姓氏家系大辞典」において、秀郷流藤原姓伊賀氏流の項目で、『「・・・・家紋稲抜穂、又巴」と云ふは此の家の事なり。』としてまとめている系譜である。そして守就の系譜は、光資、光房、光義、光定として、さらに光直、光忠、光祐、光就、定就、定重、守就としている。

 伊賀氏を論ずる前に、安藤(安東)氏についてみてみる。まず、美濃において安藤氏が系譜の上で現れるのは、古い段階からみると、前に述べた紀の池田系図においてである。そのうちで池田奉忠は、自分の妹を安東能宗に妾として嫁がせている。その系譜は能光、村能、熈能とつづいている。村能が「武蔵時村仍誤合戦時討死」とされることから、熈能は14世紀第二四半期、南北朝のころまで生存していた可能性がある。13世紀後半、池田氏は近隣の在地領主と通婚して、姻戚関係を結び、その地位の安定化を図っている。奉忠の母は、席田郡領主の蓆田藤三の娘である。また、奉忠の妻は、諏訪浄我の娘である。さらに、その息子である奉任の妻は、安八郡大井荘の領主、大中臣大井光教(光政)の娘である。その立場からすれば、安東能宗が東国、特に北条氏との関係が不明確であるとしても、領主クラスかそれと同等な地位を有し岐阜市周辺ないし西美濃に勢力をもった人物と推測できる。

 次ぎに、美濃斎藤氏との関係から、河合稲津斎藤氏の安東範能を上げることができる。殷富門院蔵人である安東範能は、美濃斎藤氏の斎藤景頼、親頼とは、系譜上近い関係にある。しかし、範能の美濃での動向は、全く不明である。

 同じ利仁流斎藤氏のうちで、弘岡斎藤氏については、その一部の氏族が美濃に進出したとみられるが、能秀・勝秀の後裔としての安東氏は、樹童氏が仙石氏の項で指摘されているとおり疑わしい。

 15世紀中頃、東常縁の兄(異腹の兄)である氏世が安東氏を称する。歌人としても有名な氏世は、室町幕府申次である。氏世は、美濃においては二日町城主です。また、東氏の篠脇城発掘調査の際に、「進上 あんとう三郎・・・」とする木簡が出土しています。ただ、西美濃の関係からいえば、西美濃に所領を有していた可能性を否定できないが、本来の拠点である二日町城は、郡上郡白鳥町にある。白鳥町は、奥美濃とよばれる郡上八幡町や大和町の北側にあたり大日岳山麓、長良川の上流部である。したがって、西美濃にとっては遠隔地である。
 なお、安東氏世の後裔については、不明である。15世紀前半において室町幕府で活躍する安東泰職などを氏世の後裔として推測することもできるが、その関係は明瞭でない。

 以上が系譜の上から確認できる美濃と関係する安藤(東)氏である。文献上に現れる安藤氏として、前に述べた下真桑の安藤氏がいる。「角川日本地名大辞典 岐阜県」の本巣郡真正町の下真桑村の項に記載されている安藤惣右衛門尉・同甚右衛門尉がそれである。なお、真桑庄の領家方とされる上真桑の小字名に「安藤分」があることから安藤氏の支配していたことをしることができる。しかし、その安藤氏の出自については、仙石氏と同様に不明である。

 同じく「角川日本地名大辞典 岐阜県」の真正町の小柿村の項で、小柿城主、安藤伊織盛元(守光)について記述されている。よくわからないが、守光(光重)は、安藤守就の父、定重(守利)の兄にあたるとされている。この安藤氏は、小幡左近・丹後守を称する。
 文献上明確でないが、稲葉正成の母、すなわち林政秀の妻は、安藤丹後守の娘とされている。したがって、それが正しければ、稲葉正成は安藤氏の外孫である。

4 ところで、美濃における守護方の支配体制は、土岐源氏による支配がなされた南北朝・室町時代はほぼ明らかであるが、鎌倉時代については不明である。鎌倉時代の土岐氏は、旧土岐郡(多治見市南部、土岐市、瑞浪市、笠原町)を支配していたにすぎない。このことから、小木曽荘(長野県木曾郡の一部)を除く恵那郡(中津川市、恵那市、恵那郡、瑞浪市の一部、愛知県旭町、木曾郡の一部)を支配していた加藤景廉、景朝の後裔にあたる鎌倉時代の名族、遠山氏と比べ土岐氏は同等かそれ以下であった。

 鎌倉時代の美濃守護として、明らかに確認できるのは、初期の大内氏を除くと、1249年ごろの宇都宮泰綱、1296〜1300年の北条時村、1332〜1333年の北条政高である。したがって、基本的には北条氏が守護方支配をおこなってきたとみてよいでしょう。そこで、前述の秀郷流伊賀氏の美濃における位置づけが問題になります。この関係を考える上で、若狭国が参考となります。

 福井県史で、「伊賀氏は鎌倉幕府の有力後家人として幕府評定衆などの要職に就いてきたが、兼光の父光政は若狭国税所今富名(得宗領)の代官として得宗に奉公しつつ、一方で遠敷郡津々見保・三方郡日向浦などを領有する在京人として六波羅評定衆の要職にもあった人物である。一族の光範とその子孫も若狭国内に所領を有しているから、若狭は伊賀氏にとって、光綱流の陸奥国好嶋荘(福島県いわき市)とならぶ重要な経済基盤だったのである。」と記述されています。そして、美濃においても同様な関係を認めることができるのではないでしょうか。すなわち、光資流の伊賀稲葉氏が、美濃守護ないし北条得宗を補助・代行していたのではないでしょうか。

 それについて、岐阜市史で詳述している、茜部荘をめぐる東大寺学侶と地頭長井静瑜との争いは着目される。その争いについて、正安3年(1301)三月、六波羅からの御教書を地頭代に通達した使者が、伊賀二郎兵衛尉行定、鵜飼三郎太郎であった。著者は、『三郎太郎は鵜飼荘の地頭、行定は「守護方」といわれている。当時、美濃国の守護は北条時村であるが、行定はおそらく周辺の守護領の地頭代、あるいは給主だったのではないだろうか。』と記述しています。行定は、光資流の伊賀稲葉系図には現れませんが、それに連なる人物の可能性があるのではないでしょうか。

 次ぎに、室町時代前期の長善寺文書の明徳3年(1392)年6月3日付けの将軍家御教書がある。土岐刑部少輔入道に宛てた文書であるが、その内容は美濃国郡上郡内鷲見郷河西河東地頭職についての伊賀彦十郎時明の違乱を問題としたものである。当該地方は、長良川最上流部で、現在の郡上郡高鷲村である。歴史的事実として、伊賀彦十郎時明が鷲見城を攻め、禅峯がそれを退けています。そして、その8年後の郡上藩家中記録にある応永7年(1400)4月25日付けの鷲見彦五郎申状は、同じ地域の地頭職について安東三郎の競望を土岐美濃入道に願い出ています。それに際して、鷲見氏保は、攻め込んだ安東三郎を敗退させています。この安東三郎がどういう人物かはっきりしません。前述の安東氏世が安東姓を名乗る前の事件とみられることから、安東三郎と安東氏世とは異なる人物のようです。ただ、前述した篠脇城出土の木簡については疑問が残ります。

 この伊賀行定と伊賀時明によって、14世紀初頭から15世紀初頭にかけての美濃における伊賀名字の動向をしることができます。次の伊賀時明と安東三郎の関係についてやや時間差がありますが、同じ鷲見郷地頭職を争ったものです。文書の評価は多様でしょうが、文書の発給形態、名宛人をみると次の推論も可能かと思います。すなわち、前者は土岐氏に対する御教書であり、後者は鷲見氏から土岐氏にあてた申状である。したがって、文書にあらわれた事件が一連のものであるとすれば、鷲見氏と争った人物も同一の集団とみることはできないでしょうか。そして、同じ集団のうち、御教書にあらわれた伊賀氏が申状にあらわれた安東氏の上級者にあたるとみることはできないでしょうか。いいかえれば、実際に鷲見氏に対して押領した安東氏が伊賀氏の被官であったかもしれない。

 このような伊賀氏と安東氏との主従関係が成立するとすれば、在地の美濃において数代経過することによって、伊賀名字と安東名字が通婚関係を結び、一帯の同族となった可能性が認められないでしょうか。これは、かなり危険な推論ですが、伊賀氏から安藤氏に改姓した安藤守就が名字を変えた根拠の一つにはなりうるのではないでしょうか。ただ、その根拠として単に守就が長良川西岸にいた安藤名字を束ねるために安藤に改姓した可能性も考えられなくはない。

 いずれにせよ、それらの事実や推論は安藤守就の系譜を明らかにするものではない。それらは、せいぜい美濃における伊賀氏や安藤氏の動向を探る手がかりにすぎない。

 なお、高知県在住のの著者が最近出版した山内氏に関する書物の中で、極めて混乱した安東可氏の系譜を記載しているものを見かけた。また、歴史的素養のある人物が書いたとみられる「三百藩家臣人名辞典 第六巻」の安東可氏の項に「・・・叔父婿の竹中半兵衛重治を頼り本巣郡岩手に幽居。」とある。安東可氏が流浪した原因は天正10年に父親が死亡したことであるから、その時点では竹中半兵衛重治は亡くなっている。そして、岩手が本巣郡でもないことは明らかである。岐阜県や美濃に関する出版物をみればそのような錯誤は生じなかっただろう。この錯誤の原因は、岐阜県と高知県とが遠隔の地であるからだろうか。そのあり方は、信長についての岐阜県と愛知県との関係や前田氏の石川県と岐阜県・愛知県との関係とは、大きく異なるものだ。

                                
5 美濃の林氏、稲葉氏や一柳氏の関係では、そもそも、江戸時代大名家の臼杵、淀の稲葉家と一柳家がほぼ似通った系図を持っていることが問題なのでしょう。それはどうも「寛政諸家系譜」を作成する時点で揃えた可能性がある。
 その際、淀稲葉家が譜代、老中職の家系であるから、幕府内で系譜作成を担当した当代一流の歴史学者・国学者の充分な検証がなされているはずである。ただ、その検証が、いい加減とは言わないにせよ、それがお手盛りであったり、現代のような科学的実証がなされていたかというと疑問である。

 そのあたりの事情を斟酌したうえで、林氏・稲葉氏・一柳氏の系譜を論ずる必要がある。 それについて、本来伊賀系図であるべき稲葉名字だが、それを採用せず越智・河野系図を採用した理由を考えるべきでしょう。当時としても美濃の稲葉名字が伊賀系図に属することを知らなかったということはないわけだし、秀郷流伊賀系図を採用することがとりたて不都合であったはずもない。

 また、稲葉氏の系譜をみるうえで、頑固一徹の稲葉一鉄を中心に据え、シンボライズ化してみると混乱が生ずる。稲葉一鉄が中心であれば臼杵稲葉家の家格が宗家として淀稲葉家と同等以上でなければならない。しかし、実際は臼杵稲葉家は単なる外様にしかすぎない。美濃苗木遠山氏が、外様ではあるが、譜代格の待遇を受け、織田諸家と同様な扱いを受けていたのとは異なる。稲葉氏の系譜は、やはり淀稲葉家の立場にたって検証する必要がある。

 ところで、稲葉一鉄が旗印として三文字を使用したとされているが、それは真実なのでしょうか。一鉄については軍記物などで相当華燭された可能性がある。私が現在一鉄に抱いているイメージは、相当に悪い。軍事面での実行力はあるにせよ、情け容赦のない人物である。信長の時代は評価されたが、秀吉の時代は典通が伊勢朝熊で蟄居を命ぜられている様に冷遇されている。また、一鉄が茶会の席で墨跡を読んだことを信長が賛したとされるが、三条西家の娘が妻であるから、墨跡を読むことができてあたりまでである。信長しにてもほぼ西濃一円を押さえた一鉄が岐阜に入ることを許さなかった。

 やはり、稲葉系譜を考えるうえで、稲葉正成・福の系譜を中心に据えて考えるべきでしょう。なお、淀稲葉家ばかりでなく、青野藩稲葉家も正休が殿中で大老堀田氏を討つという事件を起こすが、そのときの役職は若年寄であった。

 視座をどこに置くかによって相当違うものになる。

 淀藩稲葉家と一柳家との関係だが、明確な姻戚関係は認められない。一柳氏と稲葉氏との関係は、一柳直末が秀吉時代に稲葉氏、林氏の所領を与えられたことだけだ。このことだけでも、稲葉系譜に乗っかってしまう根拠となりうる。逆に、このことから一柳直末流の稲葉系図は打破できる。たとえば、大洲の加藤氏の重臣、一柳光吉の系譜を検証するこによっても可能かと思います。

 美濃の帰農した在地の諸家が持っている系図は、ほとんど使えない。池田町史で、国枝氏の系譜を扱っているが、ほとんど隣近所に住んでいる国枝氏同士で系図に整合性がない。それらはまともに検証できないが、ただ帰納的方法として体系化できるかもしれない。その意味で、岐阜の林氏も地元の地の利をいかして林系図の収集にあたるのも意味がある。

 しかし、現時点ではこれ以上林氏・稲葉氏の評価は無理ではないだろうか。

                                   以上(03.10.13受信 )

 (樹童のコメントと関連する事項説明)

1 土佐藩主山内氏と美濃の安東(安藤)氏、遠藤氏との関係を中心に美濃諸氏について、最近の地元の研究事情を踏まえて記述されており、とくに応答ということでもないので、「客人神の部屋」に掲上した次第です。
 本稿で取り上げられている関係では手元に殆ど資料がないため、あまりコメント等を加える余地はありませんが、山内一豊妻や安東氏について、ネット上ではktak様とほぼ同様な記述をするHP(ex司馬遼太郎を歩く・取材レポート『功名が辻』など)が散見しており、かなり強い主張となっているようです。
 
2 山内一豊の家系・出自については、不明な部分がかなりあるようです。
  一般には、頼朝殿に仕えた山内首藤三郎経俊の子孫で丹波国船井郡三宮庄の山内氏の一族が、一豊の祖父久豊か父盛豊の代に尾張に来て黒田城に居し、父が岩倉の織田伊勢守信安に仕え、その討死後に一豊が信長に仕えたとされております。
  しかし、祖父久豊より前の家系がはっきりせず、諸説あります。これも、備後国地毘荘にあった山内本宗の支族末流という出自故と思われます。
  『古代氏族系図集成』では『諸系譜』『百家系図』所収の系図を整理して「山内一豊の系」(中巻1163頁)として掲げていますが、故地の丹波三宮庄は同じでも、鈴木真年翁は『華族諸家伝』山内豊範条では、経俊の曾孫左近将監俊家の十一世但馬守盛豊が尾張に移り、その子が対馬守一豊だと記しています。こちらの説のほうが通行しているようですが、「山内一豊の系」では、左近将監俊家の弟で山内本宗を継いだ縫殿助時通の曾孫又二郎通義が正慶二年(1333)足利尊氏の六波羅攻めに功があって三宮庄を賜ったとし、その六世孫に久豊をあげて尾張に赴いたとし、その孫に一豊をあげています。
  また、『姓氏家系大辞典』では、経俊の子とする経通(山内首藤太)の後とする系譜も一本系図にあるとして記載していますが、経俊の子に経通なる者は見えず、疑問が大きいものです。『百家系図』30では、遠江国山名郡天方居住の山内一族天方氏の支族に一豊の先祖の出自を架けています。これも、明らかに接ぎ木です。
 いずれにせよ、左近将監俊家から久豊に至る系図歴代がはっきりせず、また、山内氏の通字の「通」が何時、どのような事情で「豊」の通字に変わったのか、などという問題点も残っております。
 
3 美濃の遠藤氏は、江戸期幕藩大名となって平姓東氏の後継を称しますが(明治には東子爵家)、千葉一族東氏とは通婚関係があったものの、出自は別族であり、『藩翰譜』にあるように「摂津国の渡辺党遠藤の後胤」です。
 『華族諸家伝』には、源頼光に仕え渡辺総官職となった遠藤六郎為方の子孫とし、尊氏に仕えて武功のあった遠藤右馬太郎為継(左兵衛尉盛綱の四世の子孫)の孫但馬守為頼が美濃に居住し八幡山城主となるが、その子孫が遠藤盛数・慶隆親子だと記載されます。すなわち、「遠藤系図」では文覚上人(遠藤盛遠)の甥にあたる左兵衛尉盛綱の子孫となりますが、美濃への移転時期については、その子の兵庫頭盛正が移遷したという所伝もあります。これは『藩翰譜』に記載の所伝ですが、それに拠りますと盛正の母は土岐光衡の娘だった縁だとされます。
 
4 美濃の伊賀氏、安藤氏については、良質と思われるような系図は管見には入っておりません。伊賀氏と北条氏は縁が深い関係にありましたので、ご指摘はもっともではないかと思われますが、関係の資料を見ておりませんので、判断しがたいところでもあります。この辺が分かってくると、美濃の中世史は明らかになる部分が多くありそうです。
 なお、管見に入った伊賀氏の系図とは、『百家系図稿』巻六所収のもので、『尊卑分脈』に見える「光宗 ━ 宗義 ━ 光政 ━ 光景 ━ 光家」に続けて、「−光澄−光保−光明−光恒(伊賀守、応仁、土岐成頼ニ従ヒ出陣)−光就−定就−定重−守就」とするものです。貴記述の系図とは、光就から守就までの四代が合致していますが、それ以前の室町中期頃の人より前は疑わしいことになります。(なお以下は、03.11.26に追記

5 美濃の遠山氏については、網野善彦氏が名古屋市の蓬左文庫所蔵『諸士系図』に所収の「加藤遠山系図」について、同系図を紹介しつつ解説を加えていますので、ご参考までに。網野善彦著『日本中世史料学の課題』(弘文堂、1996刊)の第3章。
 
 (03.10.14 掲上、11.3、11.26追加))
 

  (その後の高樋孝助様からの信) 03.10.15受け

  
  私も前に「功名辻が花・・・」のHPをみましたが、郡上八幡町も早くも一豊の妻の銅像を立てているのには驚愕しました。千代が盛数の娘であると確定したわけではない。近江ではいまでも若宮説に立っている。田舎の役場のやることはこういうものなのか。だいたい、八幡町といい隣の大和町でも、東氏や遠藤氏についてどこまでわかっているのでしょうか。大作の千葉一族のHPでの検証をみて考えてもらいたいものだと思われます。
 
 石野弥栄氏が美濃源氏フォーラムで12月13日に講演することをHPでみました。「伊予史談」での石野氏の見解をよんでいませんが、1991年に発表された内容以上のことを論じられるのでしょうか。
 
 網野先生の著作について御教示ありがとうございました。どこかで探して読んでみます。網野先生といえば名古屋大学時代に岐阜県史を書いていますが、当時は荘園史を研究していたので、岐阜県史の内容もほとんど荘園史に力が入っています。当時史料がとぼしかったといえ、テーマが少し片寄りすぎな感じです。そして、その後出版された岐阜市史では、網野見解を一部修正しているところがあります。この進展をみると平安末から鎌倉時代の美濃の歴史研究も内容的に深まるかもしれません。

  (03.10.17 掲上)

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