有害物質を巡って

                                        (繁坊)

  米英軍によるイラク攻撃が03年3月20日に開始された直後に、一枚の衛星写真が新聞に掲載されました(注1)。映像の中心はイラク南部の砂漠、そこから黒いスジが数本立ち昇っているとおぼしき様子が捉えられています。イラク側が火を放った油井からの黒煙とのこと。あゝまた地球の資源が乏しくなるな、さらには多量の有害物質が全世界に散布され環境破壊が進行してしまうな、などといたたまれない感じを持ちました。

そうした折も折、3月23日付毎日新聞・書評欄「今週の本棚」では、渡辺正・林俊郎著『ダイオキシン』(日本評論社、2003.1)が大きく取り上げられていました(注2)。この書評の執筆者・藤森照信氏(東大教授、建築学)によれば、ダイオキシンにかかるこれまでの話しは、「どうもすべてはウソとその上塗り」であり、「少なくともテレビや新聞や国会が問題視するような話ではなかった」と筆者達が述べているとのこと、ダイオキシン=猛毒有害物質と思っておりました私としましては、好奇心がいたく掻き立てられた次第です。 

  早速、本書を購入し読んでみました。その序章によれば、「1994年から98年にかけてたった4人の研究者」が動き、その結果わが国では「世界に類のないダイオキシン法までつくってしまった」が、今やこの件については「さっぱり報道されなくな」ってしまったというのが、この問題を巡っての大まかな動向とされます(注3)。

  いま少し立ち入って申し上げれば、この本で取り上げられる問題点は、大づかみすると二つあります。一つ目は、ダイオキシンに関する調査の問題です。すなわち、「もっとも新しい2001年度の調査は、…「施設周辺地区」と「対照地区」で行われ、…土だけは施設周辺地区のダイオキシン濃度が対照地区に比べて2倍ほど高いものの、大気中濃度には差がほとんどない。…なお、焼却炉付近の土が対照地区の2倍ほど多いダイオキシンを含むとはいえ、まず心配はいらない」から、「焼却炉や塩ビを問題にする理由は何ひとつないとわかる」(本書P.87)というのが筆者達の主張です(注4)。 

二つ目は、統計操作の問題です。書評では、「報道に接した人の目を引いたのは一枚のグラフで、所沢市の新生児死亡率の経年変化とゴミ焼却量の経年変化が並べて図示され、たしかに両者には相関関係が認められ、焼却量が増えるにしたがい死亡率も上がっている」と述べられていて、この点につき筆者達が、「このグラフこそが、『産廃焼却があぶない』『焼却炉近くの住民はダイオキシンにやられている』といった話を生んで世間を騒がせ、ひいてはダイオキシン法を生んだ起爆剤のひとつである。だが実体は、戦時中の大本営発表に似て、都合のいいように事実を曲げたものだった」(本書P.176)と述べていることを藤森氏は紹介しております。

同じ傾向を示す二つのグラフを見せ付けられ、(相関係数・決定係数などといった統計学上の数値が高いなどといわれて)両者の間に因果関係があると指摘されれば、普通の人なら科学的な立証がなされていると考えてしまうでしょう。キチンとした説明を受けさえすれば随分と簡単なカラクリであることが理解できるにもかかわらず、そうした統計操作が行われているとは全く気が付かずに、誤った情報を簡単に受け入れてしまっている事例が世の中では随分と多いのだな、と痛感いたしました(注5)。

   このように、藤森氏の書評及び本書『ダイオキシン』を読みますと、これまでの研究者の当該分野における研究には相当に大きな問題がある、ということが分かります。言ってみれば、ダイオキシンという“有害”物質を“無害”化するはずの研究が、あろうことか“有害”なものになってしまっているのでしょう。

ただ、藤森氏は本書評において、「日本における最初の本格的な化学スキャンダル、環境スキャンダルと後世の歴史家は言うであろう」とまで言い募っております。ですが、逆にこの本の筆者達の見解をそのまま直ちに受け入れてしまい、「ゴミ焼却は忘れよう」(本書P.84)などと一緒になって合唱してしまってもいいものかどうか、いまひとつ躊躇いを感じざるを得ません(注6)。

  たとえば、次のような反応が直ちに出てしまうのも、大新聞の影響力からいって仕方のないところでしょう。「毎日新聞の書評ですごい本に出会った。…。そもそもゴミ焼却よりももっと大きいダイオキシン発生源が知られずにいたのだ。水田への農薬だ。ことダイオキシンに関するかぎり、焼却炉や塩素プラスチックを悪と見るのは見当ちがいの極致だった。去年12月から施行されたダイオキシン規正法は、何なのか?日本最初の環境・科学スキャンダルになるだろうと予想している。ゴミ焼却施設の製造企業の謀略説も飛び出しそうな気配だ。私の常識が覆る本だ。これだから水俣病以来、科学者ってのは信用できない」(注7)。

  ですが、従来のダイオキシンに係る研究に問題があると指摘している本書の筆者は二人とも科学者なのです。このように一方的に決め付けてしまっては、元も子もないのではないでしょうか?こうした反応を呼び起こしてしまうのでは、“有害”な研究を“無害”化するはずの本書が、実際には“有害”な影響を及ぼしている、というように、批判の対象となった研究と同じような構図になってしまいます。

たとえば、地球温暖化問題にしても、別にそれほど重大視するような事態ではないと主張する学者が現れたりもします。そもそも、数十年前までは、科学者達は地球寒冷化を議論していたのですから。このように、環境問題に係る話は、極端に振れる性格を本来的に持っているのかもしれません。だからといって、科学者不信に一気呵成に陥ってしまう必要もないわけで、科学者同士の議論が活発に行われ、その研究の一層の進展を望むのが本筋ではないかと考えられるところです(注8)。

最終的には賛成・反対のいずれかを採るとしても(どちらかといえば、私も藤森氏と同じように、「ここに書かれていることが事実なら、私にはそう思われたが、ずいぶんひどい話である」と言ってしまいたいのですが)、こうした問題につき、直ちに一方の見解をそのまま受け入れて行動に走るのは、研究水準の問題もさることながら、どちらの側においても多少なりとも情報操作が行なわれている可能性がある点を考えますと、リスクの多い行為です。この本はこの本で、自分たちの主張を首尾よく打ち出そうとするために、都合の悪い点をあるいはもしかしましたら隠蔽(意図的にではないにせよ)しているかもしれません。少なくとも、この本が批判している研究者側の反論を読んでから判断し行動しても、決して遅くはないでしょう。

 

  10年ほど前の湾岸戦争の際、大々的に取り上げられ宣伝に使われた写真に「油まみれの水鳥」があります。当時、戦争の犠牲になったのは人間ばかりでなく動物もだということで、環境問題に関心を持つ人々のみならず、戦争に対して批判的な姿勢をとる人達の間で、大変注目されたところです。ところが、この写真については当初、イラク軍がクウェート沖の油田施設からペルシャ湾に放出した大量の原油によって重油まみれになった海鳥だ、というように報道されておりましたが、その後そうではなくてむしろアメリカ側の攻撃によるものであるとされ(注9)、現在ではまったく別の場所におけるやらせ映像だという説も出されているようです。こうしたわずか一枚の写真につきましても、どのような態度をとるべきなのか、こと環境問題が絡んできますとなおのこと、なかなか判断が難しくなっているのが現代ではないでしょうか?


    〔註〕

(注1) この写真は、たとえば次のHPで見ることができます。

   http://www.nikkei.co.jp/topic3/photo/g3/

(注2) ここで取り上げた藤森教授の書評は、次のHPで読むことが出来ます。

   http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2003/0323/01.html
 

(注3) 関連で、最近よく言われる「シックハウス症候群」もまた、「ダイオキシン」問題と似たような現象を見せているような感じを受けます。その原因物質とされる「ホルムアルデヒド」は、気化しますと目などの痛みや呼吸困難などを引き起こすばかりか、発がん性も指摘されているとのことです(ダイオキシンの場合も、先天性アトピーとか発ガン性が云々されました)。また、その濃度を測定するNPOが作られたり(ダイオキシン測定分析機関が日本には70以上も存在するようです)、「シックスクール」ということで「子供」の環境が問題視されたり(ダイオキシンでは「乳児」に対する母乳が問題となりました)、シックハウス対策は今のところ換気扇を設けるといった程度になっていますが、今後は家自体の建直しといったことにもなりかねないかもしれません(ダイオキシン対策として、新設の焼却炉はかなり高額なものとしなければならないようです)。

    憶測に基づく不謹慎な言動は厳に慎まなければなりませんが、ホルムアルデヒドはダイオキシンの立派な後継者になる資格を十分に持っているといえるかもしれません。
 

(注4) その後の対策によって濃度が減少したのかもしれませんが、「ダイオキシン類はゆっくりとしか分解しない」(本書P.81)ため、地中濃度はそれほど対策前とは変わらないのではないかと思われます。
 

(注5) いろいろな事例は、たとえば谷岡一郎著『「社会調査」のウソ』(文春新書、2000.6)をご覧ください。 

(注6) ひとつの事例に過ぎませんが、今度の神奈川知事選挙立候補者の一人は、その政見で、「「循環型社会」の構築には、焼却炉による深刻な環境汚染を段階的に減らすため、地方自治法が定める通り住民自治の精神にもとづいて、住民に密着した方式で行う」とか、「焼却炉による環境汚染を検証する徹底した安全調査を行う」などと言っています。

 さらに、もう一人の候補者も環境問題を取り上げて、「県内市町村の焼却施設は42施設、処理能力は日量約1万5千トンあり、実際の処理日量8,800トンをはるかに上回っています。ダイオキシン対策は、大磯町などで成功しているように徹底した分別収集や焼却炉の改良で可能です」などと主張しています。

  これらを見ますと、「焼却炉」問題は、いまだ「忘れ」られているどころか、依然として政策の一つの柱になる場合もあるようです。 

(注7) HP「K美術館」―http://web.thn.jp/kbi/index.htm―の「日録・雑記」

http://web.thn.jp/zatu3.htm―によります。 

(注8) つい最近出版されたばかりの本に立石勝規著『ごみは燃やせ』(光文社、2003.3)があります。題名からテッキリ『ダイオキシン』の主張に沿ったものカナと思いましたが、どうもやや違った立場のようです。同書によれば立石氏は、「容器包装リサイクル法に基づいて1997年から始まったペットボトルのリサイクルの奇妙な現象」、すなわちペットボトルの「回収率が上がれば上がるほど、廃棄処分されるペットボトルの量がどんどん増えていく」という現象を見て「おかしい」と思い、いろいろ調査した結果「考え方は次第に「ペットボトルは燃やして、熱エネルギーを利用したらよい」へ傾いてい」き、「ペットボトルを燃やし発電や地域暖房に利用することを提案」するに至り、遂には「ごみは全部燃やしたらどうか」とまで言うようになっているとのことです(同書P.110〜P.125)。

  要するに、ダイオキシン問題というよりも、むしろ「リサイクル神話」の批判に重点がおかれています。なお、ダイオキシン問題に関しては、『ダイオキシン』の主張にように、現状の焼却炉でも問題としないという立場ではなく、「ガス化溶融炉」による高熱焼却を提唱しております(「ダイオキシンは800度以下の焼却でしか発生」しないためとされています―同書P.130)。ただ、その場合には、同じ著書で批判されています「ゴミ処理場、施設をめぐっては脱税のほかにも、汚職事件も発生して」(同書P.33)いるという利権の構図が、またもや復活しかねないではないでしょうか?

 
(注9) ここら辺りの詳しい事情につきましては、たとえば新藤健一著『新版 写真のワナ―ビジュアル・イメージの読み方』(情報センター出版局、1994.4)のP.12〜P.21をご覧ください。


 (03.4.12に掲上)

 〔追記〕
 週刊誌でも、前掲の書ダイオキシン』が取り上げられ、例えば、Yomiuri Weekly のGW合併号(2003.5.4→11)21〜23頁の「ダイオキシンの猛毒説に異議?」という記事となっている。


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