(備考追記)
織田氏と『武功夜話』
前田利家の主・織田信長の家系も多くの説があり、なかなか確定しがたい。私はかって「織田弾正家の成立」という論考を書き、『旅とルーツ』誌第70〜72号(1995/11〜96/10)に掲載したことがある。
執筆の動機は、戦国の信長の系譜さえ明らかではないのに、ましてや古代の応神、継体などの系譜が分かるはずがないという声(趣旨)に反発してのものであったが、同論考ではかなりの程度、信長の出た織田支族「弾正忠家」の系譜を明らかにしたものと考えている。系図も含め多くの資料を多角的総合的に、かつ丁寧に考察することによって、分かってくる史実も多いのではなかろうか。
最近、日本家系図学会理事で丹羽郡扶桑町居住の早瀬晴夫氏が、信長・秀吉・家康の三英傑家系譜を綿密に考察した『織豊興亡史』を出版された(2001/7、今日の話題社)。この書でも、具体的に現地に生活し多くの資料に当たって、『武功夜話』の記述には多くの疑問があることを記される。早瀬氏の教示を受けるまでは、同書の記事に多少おかしな点(とくに関係者の系図関係)を感じつつも、成立時期の遅れが要因ではないかくらいに、私は思っていた。
また、「歴史民俗学」誌第15号では特集として偽書の日本史を組むが、そのなかで同書を偽書と断言し、明治以降の地名が散見するなど根拠を記述する。
服部英雄九大教授も、近著『地名の歴史学』(2000/6、角川書店)のなかで、その偽書性と成立年代についての記述をする。すなわち、文中に美濃の堂洞城に関する記述があって、その中に「冨加という所一筋道あり」とあるが(巻三)、この「冨加」という地名は昭和29年(1954)年に加茂郡富田村と加治田村が合併した際、その一字ずつをとって命名された新町名なのだ、と指摘する。ここに露れた馬脚により、『武功夜話』作成の上限が語られており、ほかにも、八百津という地名は、明治22年(1889)の町村制施行時に、それまでの細目村を故事の考証に基づき新地名に改称したもので、それ以前には八百津という地名は登場しないとも記す。同書の人名にも疑問点が多く、佐々成政のザラ峠越を検証し直してみると、同行した家臣の顔ぶれが、ほかの信頼できる史料と比較してあまりにも違いすぎると指摘される。
昭和34年の伊勢湾台風で崩れた蔵の中から発見されたという『武功夜話』も、遠藤周作や津本陽などの小説題材としてはともかく、史実として同書の記述そのままに鵜呑みすることには、きわめて問題が大きいものであろう。織田氏などの系図関係の記述も同書にあって、私も疑問を多く感じてはいたが、ここまで具体的な根拠をあげられると、「やはり」と思わずにおられない。これに限らず、系図探索にせよ、史実検討にせよ、資料の信憑性について十分な吟味の必要性は、資料一般にいえる話でもあるのだが。
(02.1.16記)
(追記)
最近、家系研究協議会の牛田義文副会長が『歴史研究』第502号(03年3月)に「墨俣一夜城と『武功夜話』偽書説−いじめ問題の終息を願って−」という論考を発表された。
同論考を読まれるようお勧めするところであるが、牛田氏も説くように、『武功夜話』偽書説と墨俣一夜城とは別の問題であって、一括りで論ずべき問題ではない。つまり、かりに墨俣一夜城の所伝が正しくとも、『武功夜話』偽書説は依然として残り、現在までの論点や問題点の指摘を見る限り、偽書説に傾かざるを得ないところでもある。いずれにせよ、同書は今後とも十分に批判的検討を要するものであり、歴史研究に当たって慎重に対処しなければならないことに留意される。
(追々記)
著作『偽書『武功夜話』の研究』について
1 たいへん迂闊な話で恐縮であるが、最近(03.10)、戦国史研究に注目すべき見解を発表されている藤本正行氏と鈴木眞哉氏が共著で『偽書『武功夜話』の研究』(洋泉社刊)という書を2002年4月に刊行されているのを知った。
藤本氏は、以前から『武功夜話』(先祖の前野一族について戦国期から江戸初期に至る動向を中心に記述した多数の書き物、いわゆる「前野文書」を所蔵する吉田龍雲氏の弟・吉田蒼生雄氏が全訳した刊本の名前)とその関連文書について多大な疑念を提示されてきたが、さらに様々な角度から徹底的に検証しており、同著はそれら問題点の集約としてよいものであろう。
2 具体的な内容は、この共著をご覧いただくこととして、概略を紹介させていただくと、次のようなものである。
まず序として「戦国文書『武功夜話』とはどんな史料なのか?」を記し、次に偽書研究として、
@
「武功夜話」はどのようにして作られたのか?、
A
一級史料『信長公記』と偽書『武功夜話』を比較する、
B
捏造された秀吉の出世譚「墨俣一夜城」、
C
偽書を喧伝したマスコミ、有名作家、研究者の責任、
D
『武功夜話』がねじ曲げた戦国合戦史、
の項目ごとに詳細に分析し、『武功夜話』とその一連の文書類との記述の不整合・矛盾点、これらと史実との乖離などを具体的に指摘する。
3 この共著の書評として、氏家幹人氏(日本史研究者)が読売新聞書評(2002.5.5のブックスタンド)で述べられているポンイトをそのまま引用させていただくと、次のようなものである。
「はたして『武功夜話』は戦国史を塗りかえる貴重な史料なのだろうか。著者たちは真っ向から否定する。記述内容、用語、表現、地名、日付等さまざまな面から検討した結果、偽書(近代以降に書かれた可能性もある)と言わざるをえないという。偽書か否か。本書を読むかぎり黒に近い灰色の印象を免れないが、著者たちの論証に対しては反論もあるにちがいない。それにしても、原文の写真さえ満足に公開されず、早くから信憑性を疑う声があったにもかかわらず、何故かくも簡単に“お墨付き”が与えられてしまったのか。問題の根は「日本人の歴史認識や社会の仕組み」にあるという指摘は、発掘ねつ造事件や芭蕉自筆『おくのほそ道』の真贋をめぐる論争などが記憶に新しいだけに、深く噛みしめなくてはならないだろう。」
これに若干付け加えれば、『武功夜話』には信長・秀吉など生駒屋敷に集う有名人物の言動が実に活き活きと記録されていることに加え、桶狭間合戦の裏話や“墨俣一夜城”築城の経緯まで克明に記されていた(氏家氏の表現を踏まえたもの)という事情があるので、そうした内容の魅力を感じる人々からは、同書を頭から偽書と決めつけるような藤本・鈴木両氏の記述に反発を感じる向きもあるかもしれない。また、両氏の表現が感情的すぎるという批判も見受けられるが、表現がきついかどうかは冷静に読み手が内容を受けとめればよいだけの問題である。また、藤本・鈴木両氏の検討や批判には、多少の誤解や誤ったと思われる点もないではないが、それらの事情があっても、総じて当を得ていると言えそうである。
4 歴史研究に関する限り、要は史料か虚構の文書かということであり、厳しく冷静に判断すべき問題である。「偽書」の定義の問題もあるが、その文書・史料の成立経緯や内容に作為的な重大な偽りがあれば、これは偽書といわざるをえない。「曖昧な記憶のまま」の書置きだとしても、それが史料価値の乏しいことも当然のことである。
藤本・鈴木両氏は、関係資料をかなり詳細な検討をしたうえ、偽書としての心象を固め、それを踏まえて共著を構成したものであるから、「頭から偽書として決め打ち」という批判が当たらないのは言うまでもない。もちろん、問題点の指摘に疑問や勘違いがあれば、冷静に反論するなどの検討を加えればよいだけである。百%正しい指摘を最初から期待するのは無理な話である。
そして、『武功夜話』に関する経緯を見る限り、最近のいわゆる偽書・捏造の問題に関わる要素を全てしっかり備えていることに驚かざるをえない。
すなわち、
@ 偶々、台風で崩れた旧家の土蔵から発見された先祖の文書で、資料保持者が情報を独占(本件)……旧家(?)の屋根裏から発見された先祖の文書(『東日流外三郡誌』)。以下のA〜Dも、両書に共通である。
A 史料分析能力の乏しい公的機関や大マスコミがその史料価値を喧伝、
B その原本が公開されておらず、専門家のしっかりした検証がなされていない。
C 用語・固有名詞や記述などに時代を先取りしたか超越したものがあり、多くの疑問がある。それは、些細なものではなく、大きな疑問である。また、系譜的な記述においても、多大な疑問があることに留意したい。これら問題点は、仮に原本が公開されたとしても、偽書性の否定とはならない。先祖の自慢話だからといって、虚構として許される範囲は自ずからあり、内容の具体性があったとしても、その評価は虚実とはまったく別の問題である。
D 偽書問題に本来率先して取り組むべき歴史学専門家が無関心(このためか、在野の研究者が指摘)、
ということであり、従って、少なくとも現段階においては、多くの問題点を考えると、『武功夜話』については、歴史研究の分野からは史料としては速やかに徹底的に排除のうえ、せいぜい小説・物語として読むべきものである。
※ 『東日流外三郡誌』については、取り上げるのはもう時間の無駄であるが、安本美典氏らが『日本史が危ない! 偽書『東日流外三郡誌』の正体』という書(全貌社刊、1999)で検証を加えているので、ご興味があれば参照されたい。
そして、これら問題点は、旧石器捏造や年輪年代法による年代推定などにも通じるものである。歴史学者にせよ、考古学者にせよ、自らが拠って立つはずの基礎資料や立論に対して、その根拠の開示請求や具体的な批判・評価などを含め積極的な発言をしないということは、その研究によって「禄をはむ」という立場を忘れたものにすぎないのではないか。誤った学説の流布は、その分野の学者の重大な責任であるということである。
「『××』が偽書であることは学界では周知の事実であった。しかし、それを言わないのが○○学者の「エレガント」な慣習である」とか、「旧家に伝わる巻物や、寺社秘伝の古文書を調査したとき、偽物と分かっても公言せず、「結構なものですからしまっておいてください」などと言って早々にその場を立ち去り、再びその資料について言及することを避ける」(以上のカッコ内は引用です)ということは、本来、良心的な学者の姿勢にあるまじきことである。こうした「エレガント」な慣習がなければ、史料の新発見ということはおぼつかなくなるとは、なんといい加減な言い訳であろうか。自らの分析能力や問題意識の乏しさを厚顔に糊塗するものにすぎない。これらの姿勢は、学者を「新聞記者」に置き換えれば、田中角栄の金脈問題にも通じることは言うまでもない。
歴史学者や考古学者は何度同じ失敗をすれば、分かるようになるのだろうか?
(03.10.13 掲上。のちに若干追補)
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