『武功夜話』を巡って小林 滋1.『偽書「武功夜話」の研究』について
偽造された文書、すなわち“偽書”の定義は必ずしも一義的ではありませんが、とりあえず、一つの見解として、本HPでは次のように示されています。「偽書には二様の解釈があって、@虚偽の事柄を纂著したものとする見方、A内容の如何に拘らず、真本でないのに真本を称するものとする見方、があり、その後者が一般に偽書と解されています」(本HP「古樹紀之房間」に掲載されている論考「藤原明著『日本の偽書』を読む」に収められている<その応答>に記載)。
以下は、近年、遠藤周作氏の一連の小説や津本陽氏、堺屋太一氏などの小説で史料として重視され、また織田氏とその家臣団の研究にあたってもその著述に取り入れられている『武功夜話』について、偽作問題を改めて考えてみたものです。 さて、ここでは、遅ればせながら最近読みました藤本正行・鈴木眞哉著『偽書「武功夜話」の研究』(洋泉社、2002.4;以下『研究』とします)を中心に考えていきます。同書では、一般的な見方である上記のAではなく、むしろ前者の@の見方に立ちながら、「『武功夜話』に収められている史料の中身が信頼できるものかどうかという問題、つまり史料価値の問題を中心」に議論が進められています(P.278)。このやり方は、原本やその忠実な写本が公開されない以上、やむをえないことですが。
そして、これだけたくさんの問題点が指摘されうるのであれば、『武功夜話』という「史料は、内容的に信用できないというだけでなく、ある人間に仮託してつくられている疑いが濃厚となり、成立についても疑わざるをえ」ず、まさに「偽書とされるのもやむをえない」ところでしょう(P.279)。数多くの指摘がなされているばかりでなく、偽書にもかかわらず「驚くほど多くの個人や組織が、その信憑性にお墨付きを与えた」ことまで詳述してあり(P.6)、専門の研究者ではない者の感想に過ぎませんが、大変興味深い労作だと思います。
ところで、何気なく巻末の「『武功夜話』関係年表」を見ていましたら、平成3年の項に、「加来耕三氏訳の『現代語訳武功夜話<信長編>』」とありました(P.272)。殊更言うことでもありませんが、加来氏の話をラジオで聞くことが多いので、アレッと思いました。というのも、朝はいつも半身浴でお風呂に20分ばかり漬かっているのですが、酷く退屈なのでよくラジオを聴いております。土曜日になると、7時40分からの「大宅映子の辛口コラム」か8時からの「日本全国8時です」にダイヤルを合わせることが多く、後者に登場する歴史家・加来氏の名前を以前から知っておりました―いずれも、TBSラジオの「土曜ニュースプラザ」の中の番組です―。その番組における加来氏の話しの中身とか話し振りからして、こうした基本的文献とされるものにまでマサカ手を広げているとは思ってもいませんでしたから、その名前を見て驚いた次第です。
さて、加来氏の著作は「現代語訳」と銘打っており、出版されている大部の『武功夜話』の中から信長に関係する部分を抜き出し、それらをすべて現代語に訳し直したものです(注1)。
他方、新人物往来社より出版されている『武功夜話』(1987)は、「吉田蒼生雄全訳」とされています。この「全訳」とは、むろん加来氏のような「現代語訳」を意味するのではなく、第1巻の冒頭に置かれている「凡例」によれば、「和文、漢文体の併用の文体である」原文を「読み下し文にし」、「出来得る限り原文を損なわないように努めた」ことを指しているようです。ただ、一節ごとに「見出し」を付けたり、活字に「振り仮名」を付けたり、更には「訳注」を挿入したり、果ては「会話と思われるところに括弧を付した」りもしているようです。となると、この全訳版においては、単に原文を読み下しただけではなく、訳者の解釈が入り込んだり、ヨリ理解しやすくするために現代語的なものに直したりしている部分も存在する可能性があるものと思われます。
こんなことをまず申し上げますのも、次のように反論できる可能性があるのではと考えたからです。すなわち、『研究』においては、例えば、『武功夜話』には、「「稲葉山とて高き山が御座いました」……などのような、日本昔話的な表現が散見する」とか(P.28)、「「ヒソヒソ語にて」「夜陰に乗じ」などという表現は、当時の文書にはまず見られない」として(P.85)、加えて「軍事用語として「隊」という言葉が普及するのは幕末以後であろう。しかるに『武功夜話』には…「隊」という言葉が頻出する」として(P.91)、これらは「偽書」であることの傍証とされています。しかしながら、こうした批判に対しては、翻訳として現代語的な部分も混交しているのだと議論できる可能性があるものと思われます。
ただ、こうした些細なことも、「前野文書」そのものが公開されて、全訳版ではなく、その「原本」自体を誰でも(当然のことながら、専門の研究者に限定されるでしょうが)調査できるのであればスグサマ解消できてしまうでしょう。仮に、例えば「ヒソヒソ語」なる語句が「原本」に記載されているのが確認されれば、そうした用語が戦国時代に使われていたとはトテモ思われませんから、それだけでこの文書が「偽書」であると直ちに判定されるでしょう。逆に、「原本」にはそうした「近代的な言葉」(『研究』P.92)がどこにも見当たらないことが判明すれば、「全訳」に際して近代的な語句への差換えなどが施されたことになり、『研究』の批判がその部分に関しては成立しなくなる可能性が出てくるでしょう。何よりもマズ『武功夜話』の「原本」の公開が強く求められるところです。
確かに、『武功夜話』の内容に関し、『研究』がこれだけ様々の問題点を指摘できるのであれば、あえて原本の公開を求める必要性は乏しいのかもしれません。ですが、『研究』が「偽書」問題を厳しく追及するのであれば、批判の対象としている文書そのものの問題にも深く立ち入るべきではなかったかと思います。『研究』にも、かなりの問題点があるということの認識です。
以上申し上げましたことに関して、以下では、もう少し具体的な問題点を指摘してみたいと思います。
(イ) 上記において原本を公開すべきと申し上げましたが、「原本は保存が悪」く、「紙の固まりのようになっ」ているようなので、全訳版は「読みやすい江戸中期の写本を底本にし」ていることが、1990年6月27日付の朝日新聞に掲載された記事に基づきながら『研究』で紹介されております(P.42)。とすれば、その「写本」の公開を求めるべきではないかと考えます。ただし、これは、とりあえず先般(2005年9月10日)の家系協議会の25周年記念大会の場で公開されたと聞いています。
なお、この「写本」という点からも、語句の問題にアプローチできると思われます。『研究』は、『武功夜話』は「戦国時代の文書」を取り扱っているはずにもかかわらず「戦国文書に見かけぬ語句や言い回しが目立つ」のだから、「後世に創作した完全な偽文書」に違いないと決め付けていますが(P.87)、ここには江戸時代に作成されたとされる「写本」という観点が抜け落ちているのではないかと思われます。というのも、「写本」作成の際に、その当時使われている語句などが紛れ込んでしまう可能性も否定できませんから(注2)。さてそうなると、「写本」が原本の忠実な写本であったかの問題も生じますが、本来、「写本」に際して明確に後人の書入れと分かる形にとどまるのが「写本」であって、増補改訂が著しいのは「写本」とはいえないことにも注意したいと思います。
(ロ) 『研究』の第3章(「偽書研究B」)では、新人物往来社の『武功夜話』第4巻に収められているはずの「永禄州俣記」ではなく、およそ50ページにもわたって墨俣町編『墨俣一夜城築城資料』(1978.12;以下、『築城資料』とします)にある「永禄墨俣記」が俎上に載せられています。しかしながら、この『築城資料』は、全訳版の刊行よりも10年ほど前に発表されたものですし、その史料の解読には全訳版の訳者吉田蒼生雄氏は参加していないようなのです(注3)。何故、『研究』においては、全訳版にある「永禄州俣記」を取り上げなかったのでしょうか(注4)、「「永禄州俣記」の方が「永禄墨俣記」よりも内容が豊富で記述も詳細だが、一夜城築城の経緯に関する大筋に大差はない」とされているところ(P.83)、ヨク理解できないところです。
ヨリ具体的に申し上げれば、『研究』におきましては、「ヒソヒソ語」(注5)とか「テツポウ」(注6)といった「近代的な言葉」が見出されるという指摘がなされ、この点をも一つの証拠として『武功夜話』は「偽書」であると判定されていますが、これらが記載されている文書は、全訳版『武功夜話』の第4巻に収められている「永禄州俣記」ではなく、それとは別に出版された『築城資料』にある「永禄墨俣記」なのです。「『武功夜話』の史料価値を論じる」場合には、「新人物往来社版を用いるだけで十分」と豪語しているにもかかわらず(『研究』P.174)、そこに収められていない文書の批判を長々と行って『武功夜話』は「偽書」であると断じているのは、批判に際しての公平な態度とはあまりいえないのではないかと思います。
(ハ) 上記に関連しますが、『研究』においては、『武功夜話』を作成した(「捏造」した?)作者が仄めかされています。すなわち、「「武功夜話」の成立に、戦前の軍隊経験者か、少なくともその方面の知識を持っている人間がかかわっていると考えられる、明瞭な論拠がある」(P.46)とし、『武功夜話』において「城下の盟」という語句が使われている点が指摘されております(P.156)。この語句は、全訳版の第2巻に見られるので、あるいはその通りなのかもしれません。
ですが、勢い余って、次のような指摘までするのをみますと首を傾げたくなります。すなわち、墨俣一夜城の築城の経緯を読むと「これが築城参加者の陣中手記の写しとか、参加者からの聞き書きの写しとはどうしても考えられない」とし、「旧帝国陸軍の「戦闘詳報」‥‥などに近い印象を受ける」と述べ、また「日露戦争の大山巌元帥の奉天入城を思わせる」記載が見受けられるなどとコキおろしています(P.90)。しかしながら、これらの記載は、『築城資料』に収められている「永禄墨俣記」に見られるものなのです。そして、この文書は、上記ロで申し上げましたように、全訳版『武功夜話』には収められてはおりません。とすれば、極論すると、『研究』は、全訳版『武功夜話』の外にある材料までも脇から密かに持ってきて『武功夜話』そのものに対する論難を強化していると、あるいはいえるかもしれません。この辺が『研究』の論調が感情的になっているとも言われて、却って批判される所以かもしれません。
(ニ) 『研究』では『武功夜話』の「三巻本」も言及されていますが(P.15)、松浦武・松浦由紀編『『武功夜話』研究と三巻本翻刻』(おうふう、1995.1;以下、『翻刻』とします)に「全文が掲載されている」とあるだけで、それが原本(あるいは写本)からのものなのか、『武功夜話』と同じような「全訳」なのかについて、『研究』は何も触れようとはしておりません(注7)。
『研究』の関心はこうしたところにはなく、冒頭に申し上げましたように、専ら『武功夜話』の「史料価値の問題」に力点が置かれております(注8)。繰返しになりますが、私としては、『研究』は大変な労作であることは間違いないところですが、「偽書」の解釈の2番目、すなわち「内容の如何に拘らず、真本でないのに真本を称するものとする見方」の方からの検討にも力を注いでもらえたらと思っております。
2.『稿本 墨俣一夜城』について
『研究』を読んだ直後に偶々渋谷の書店の歴史のコーナーで、牛田義文著『稿本 墨俣一夜城―秀吉出世城の虚実と蜂須賀小六―』(歴研、2005.8;以下、『稿本』とします)が目に留まり、本ホームページでも取り上げられている牛田氏の論文かと思い至り、出会い(?!)を大切にしようと買ってきて読んでみました。 一読しただけの感想に過ぎませんが、牛田氏は、実に幅広い文献に目を通され、冒頭の「はじめに」で述べておられるように、「色々な角度から改めて墨俣一夜城の虚実について考察」されておられ、その成果である『稿本』は大変優れた出来栄えではないかと思いました。特に、『武功夜話』などが伝える「墨俣築城譚」は虚偽のものでないとする熱い「想い」は、痛いほど読者に伝わってきます。今後は、「墨俣一夜城について調べたり何かを書こうと思った場合には、是非とも本書に目を通してから」(『稿本』P.333)ということになるに違いありません。
さて、私も小さい頃、少年少女向けの名作全集に入っていた「太閤記」に興奮し、以来墨俣一夜城の話をズッと真に受けていたところ、それが単なるお話に過ぎないと『研究』で指摘されて、この問題に興味を持った次第ですから、「一夜城」が築城されたのかどうかといった問題自体に関心がないわけではありません。とはいえ、ここでは問題の拡散を避けるためにも、墨俣一夜城そのものに関する議論というよりは、やはり『研究』におけるこの城を巡る検討とのかかわりという点に焦点を絞ることといたします。その場合には、専門の研究者ではない者が申して恐縮ですが、『稿本』について、次のような問題点をとりあえず指摘できるのではないかと思います。
(イ) マズ言いたいのは、墨俣一夜城に関し、議論の対象とされるものは一体何なのか、という点です。『研究』においては、上記1で申し上げましたように、『築城資料』に収められている「永禄墨俣記」が取り上げられています。
ところが、『稿本』においては、『武功夜話』との関連でみますと、「永禄墨俣記」に関する言及は殆ど見られず、専ら「永禄州俣記」だけが取り上げられています。例えば、「はじめに」においては、「『武功夜話』や『永禄州俣記』などの偽書問題」とあり、この書き方だけからすれば「永禄州俣記」は『武功夜話』の外にあるものと見られているようです。一方で、『研究』がいうように、「吉田家には別に「永禄州俣記」2巻があり、『武功夜話』巻四に収められている」のです(『研究』P.83)。
勿論、『稿本』も「永禄州俣記」一辺倒ではなく、P.216には突然「永禄墨俣記」が登場します。ただ、ザッと見ただけに過ぎませんが、その前後のページには「永禄州俣記」しか見当たりません。これはおそらくは、P.187の※が付いた括弧書きに「墨俣、州俣、洲俣などと記されるが同じ」とあるところから伺われるように、その書き分けに関心が持たれてはいないためなのかもしれません。しかしながら、『稿本』が専ら批判の対象としている『研究』においてはキチッと書き分けられているのですから、『稿本』においても十分の注意が払われてしかるべきではないかと思われるところです。
(ロ) 次に、『稿本』においては、『研究』の第3章(「偽書研究B」)で指摘されている語句の問題に対する反論が述べられています(『稿本』P.282)。
しかしながら、マズ、「隊」という語句が1705年に刊行された『四戦紀聞』において既に使用されている例をいくつか引用されていますが、「原本ではなく訳本による」との注記もあり、これでは決定的な反論にはなりえないのではないかと思われます(注9)。
次に、「弓手」についても、「多くの漢和大辞典には、弓手(きゅうしゅ)とは弓を射る者・弓兵ともある」と述べられていますが、この「漢和大辞典」は一体何時出版されたものなのか、疑問に思われます(江戸時代中期以前の「漢和大辞典」?)(注10)。
『稿本』において「単に用語例だけによって、或る書物の成立年代や、真贋問題および史料性などが、明確に確定できるほど単純なものではない」と述べられていますが、この問題はソウ「単純なものではない」のではないかと思われます。特に、『研究』で指摘されている「ヒソヒソ語」とか「テツポウ」といった語句の使用については、『稿本』では何も触れられてはおりません。
(ハ) 『稿本』では、「『武功夜話』が享保15年(1730)の再写本」であると述べられていますが(P.282)、上記1で取り上げました『翻刻』に掲載の松浦武氏のエッセイ「『武功夜話』の事情」には、「現在、吉田家に伝わっている21巻本『武功夜話』の原本は、19世紀の筆写本」(『翻刻』P.145)であると書かれております。これを字句どおり読めば、上記1で触れました朝日新聞記事にある「紙の固まりのようになっ」ているオリジナルの原本など現在に伝えられてはおらず、残っているのは「筆写本」だけで、それも「江戸中期」のものではなく「徳川末期の写本」(『翻刻』P.201)ということになってしまいます(注11)。
この点に関し、ここでは次のことを指摘しておきたいと思います。
a. 『研究』が引用する朝日新聞の記事には「紙の固まりのようになった原本≠フ写真」が掲載されているようですし、『稿本』でも、「原本」に関し、「うっかり触れるとボロボロになりそうなものや、数枚がくっついて固まり、ほぐすのに苦労しそうなものも見受けられる」と述べられております(『稿本』P.219の※)。『稿本』で取り上げられているものがオリジナルの「原本」なのか「写本」なのかはっきりしませんが、いずれにせよ、吉田家には「紙の固まりのようになっ」ているものが何か存在するようです。さらに、『稿本』によれば、この「原本」に関し、「見開きで約1万枚分がCD化(複写)された模様」で、「いずれ資料館などに公開展示をされたり、企画中の影印篇の出版も順次為されて行くものと思われる」ということですので、その機会を待つしか仕方ありません(注12)。ただ、既に一部の公開が短期間ではあれなされたとのことですが、この複写された対象が何であったのか、明確な説明がほしいところです。
b. オリジナル原本の存否問題はともかく、全訳版『武功夜話』の底本が、江戸中期の写本なのか末期の写本なのかは、使われている語句や言い回しの近代性を問題にする『研究』を批判する『稿本』にとっても、大変重要な問題ではないかと思われます。
(ニ) 実は、墨俣一夜城の問題に関し、『研究』との関係で牛田氏が一番主張したいところは次の点ではないかと思われます。すなわち、『研究』等においては、「通説の墨俣築城譚は史実ではなく、明治40年に渡辺博士が創設した妄説」であるとされるが(『稿本』P.226)、それは、「『蜂須賀家記』や『日本外史』等が9年9月(秋)などと年号を明記したり、「洲股河西」へ築塁したと場所名を明記していることを大きく見落としている」のであって(『稿本』P.258)、従って「秀吉による墨俣築城譚は昔から存在していた」のであり、ただ「年号が永禄4・5・6年などと不統一であったのを、渡辺博士が永禄9年へと「年次訂正」をしただけであり、築城譚そのものは、何も「明治40年に出来た新しいお話」なんかではない」(P.257)と『稿本』は強く主張します。
確かに、『稿本』に引用されている『蜂須賀家記』や『日本外史』等の記述を見ますと、牛田氏の主張には説得力があります。ただ、ヨク見ますと、「永禄9年」と「墨俣」の二つの事項が登場する『蜂須賀家記』の出版は明治9年とのことですし(『稿本』P.228)、『日本外史』の完成は江戸時代後期の文政10年(1827)であり、実際に広く読まれ影響力があったのも幕末のことでしょう(注13)。これらの文献によって、「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」とする『研究』の主張は、明らかに根拠がないことになるでしょう。ですが、これらの文献が存在することにより、今度は、「秀吉の築城譚は江戸後期以降に出来た新しいお話だ」とする新しい仮説が登場してしまうことになるだけではないでしょうか?
にもかかわらず、『稿本』は、何故『蜂須賀家記』等を持ち出せば「築城否定説」そのものを否定できると考えているのでしょうか?『稿本』のP.207を見ますと、「結局、築城否定説の最大根拠は、「永禄9年9月の秀吉による墨俣築城の話は明治40年に出来た新しいお話なのだ」「だから、江戸時代の史料にはこの話が見当たらない」とされる点にある」と述べられております。そう判断するが故に、『稿本』では逆に、「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」とする『研究』の見方を覆しさえすれば、「築城否定説」を一蹴できると考えられているのでしょう。
更に、『稿本』P.232の※のある箇所では、「築城否定説は「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」とするから、『武功夜話』に書かれている築城譚も明治・大正・昭和期の作だと言わざるを得ない」とも述べられております。つまりは、「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」とするが故に、結局のところ『武功夜話』が「偽書」であることも導き出されるのだと推論されているようです。従って、逆に『蜂須賀家記』等を持ち出せば、とどのつまりは「偽書」説をも覆すことができると考えらえているものと思えます(注14)。そうだからこそ、『稿本』は、「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」とする『研究』の見方に徹底的にこだわり、『稿本』の末尾までのおよそ120ページ強の間に、「渡辺博士が明治40年に創作した新しい「作り話」」というフレーズか、あるいはそれに酷似するフレーズが、なんと20箇所以上も繰り返し見出されるのでしょう!
ですが、これは話が逆で、『研究』は、『武功夜話』が「明治・大正・昭和期の作」の「偽書」であると言いたいがために無理やり「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」としているとみなせないでしょうか?すなわち、『武功夜話』の作者をできるだけ後の者にしたいという目論見の現われとも受け取れるところです(極端な話としては、戦前に教育を受けた者が戦後になって作成したとも、『研究』は主張したいのでしょう)(注15)。
ですから、『武功夜話』が「偽書」であるにしても、『研究』に倣ってことさらその成立時期を明治後半以降に持ってくる必要がないのであれば、すなわち『武功夜話』は「戦国文書」ではありえないという点が分かりさえすればいいのであれば、『研究』のように何もわざわざ「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」と強く述べる意味もないと考えられます。要すれば、『武功夜話』に掲載の「秀吉の築城譚」は、戦国時代〜江戸時代初期においてはそれを裏付ける文書が存在せず、江戸時代中期以降に文献に初めて現われてくる、という点さえ確保できれば済むものと思われます。逆に、『稿本』のように、「秀吉の築城譚を明治40年に出来た新しいお話だ」という仮説を強く否定しただけでは、「築城否定説」自体を葬り去ることにはならないのではと考えられます。また、『蜂須賀家記』の成立等の問題はないのでしょうか。
3.参考としての仮説 〔以下は、“付けたり”としてお読みください〕
『研究』や『稿本』で述べられていることや上記の検討などを総合しますと、全くの素人考えに過ぎませんが、『武功夜話』成立に関する一つの仮説をもしかしたら立てられるかもしれません。すなわち、戦国時代に前野家に関する文書がたくさん作られ(注16)、それらを江戸初期に吉田孫四郎らが編纂した(とされていて)、これが代々伝えられているうちに読み取りが難しくなってきたこともあり、江戸時代中期及び末期に写本ないし編纂本が作られた、その写本(編纂本)を読み下し文にして出版されたものが現在の全訳版の『武功夜話』ではないか、というような粗筋です。この見方 に従えば、『武功夜話』自体が明治以降(もしかしたら戦後)になってはじめて贋造されたわけではないにしても、戦国時代のオリジナルな原本といわれるもの自体が江戸中期以降の偽造のものだったのではないか(全部が全部偽造というわけではないにせよ)、ということになります。
2つの著作それぞれで情熱を込めて説かれている仮説を足して2で割っただけの(政治の世界であればいざ知らず、研究の世界ではありえないことかもしれません)欠陥の多い仮説だとは思いますが、何らかの検討の対象にはならないものでしょうか?
〔注〕
(注1) 加来耕三編『現代語訳武功夜話<信長編>』[新人物往来社、1991.12]の「はじめに」においては、「このたび、『武功夜話』―信長編―として現代語訳するにあたり、吉田蒼生雄訳注・新人物往来社刊『武功夜話』(全4巻補巻1)を原本とした」と記載されております。
(注2) 例えば、本文の1−ニで触れる『翻刻』の「解説」においても(P.201)、「21巻本『武功夜話』は、徳川末期の写本であって、後代の書込みが夾雑物になり、ときどきわれわれのセンシティブな鑑賞の障碍をなす」とか、「じつは原本には誤字・誤記と思われる箇所がかなり多くあった」などと述べられております。
(注3) 『築城資料』は前編と後編から構成され、「前編 資料の部(前野文書)」は全訳版『武功夜話』と同じような原文の読み下し文が記載され、「後編 現代文の部」はその現代語訳となっています。そして、「編集後記」には出版に関与した人の名前が記載されているところ、「江南市(資料提供) 吉田龍雲氏」は挙げられていますが、吉田蒼生雄氏の名前は見当たりません。
(注4) 尤も、『研究』のP.111〜113においては、「永禄州俣記」に掲載されている図が取り上げられていますが、ここでの議論は『築城資料』のP.35〜37に掲載されている図によっても過不足なく行われうるものです。
(注5) 「ヒソヒソ語」は、『築城資料』の前編の冒頭「蜂須賀小六正勝の書状」に見られ、後編では「ないしょの話」とされています。とすれば、訳者の「斉藤利明」氏(中学校教諭)は、「ヒソヒソ語」を古語とみなし、それを現代語に訳していることになります!
(注6) 「テツポウ」は、『研究』に掲載の図4(P.93)に見出されますが、元々は、「永禄州俣記」ではなく「永禄墨俣記」に掲載されている図です[尤も、全訳版第4巻のP.70に掲載されている「前野党請け取り候馬止柵の図」が類似していますが、「テツポウ」という語句は記載されてはおりません]。
ただ、『研究』に掲載の図は「模写」とされていますから、『築城資料』に収められている図それ自体も現代語訳されたものなのだという反論も、可能性としてありえないわけではないでしょう。
なお、「鉄砲」に関しては、「蒙古襲来絵詞」の“てつはう”が思い出されるところです。ただ、最近の研究によれば、この文字のある部分は江戸時代に改竄で描き込まれた箇所とされるようです(毎日新聞8月19日―
(注7) その「凡例」には、「これは、三巻本『武功夜話』を活字化したものである」とだけあって、よくはわかりませんが、「原文の読み下し」作業は行われているものと思われます(ただ、「三巻本の翻刻文は、いうまでもなく原文どおりである」との記述もあります。『翻刻』P.232)。いずれにせよ、吉田蒼生雄氏とは異なる人の手になるものですから、これと「全訳」版との比較検討も行う必要があるのではないでしょうか?
(注8) 「史料価値の問題」については、筆者は、本書のP.29において『武功夜話』の特徴を7つ挙げております。例えば、「C登場人物の官職を、しばしば誤記していること」としては、「上総介から尾張守になったあとの信長を、部下が書状の中で上総介と呼んだり」していること(P.27)などを指摘しています。ただ、この点に限って言えば、情報の伝達速度を現代並みとして過去のことを判断しているのではと反論される可能性があるように思われます。
(注9) 茨城大学附属図書館のホームページ(「菅文庫」)で『四戦紀聞』を調べてみますと、確かに、根岸直利による「序」の末尾には「寶永乙酉重陽日」とあり、これは1705年に相当します。ですが、これはその後翻刻されず、実際に出版されたのは、その表紙や奥付にある「弘化丙牛」の1846年と考えられます。とすると、『研究』が「軍事用語として「隊」という言葉が普及するのは幕末以後であろう」(P.91)と述べているのを、『四戦紀聞』の例を持ち出して反論というわけにも簡単にいかないのではと考えられます(『四戦紀聞』の影響力は、幕末にならないと出てこないでしょうから)。
なお、『稿本』では、「原本ではなく訳本による」との注記がなされていますが、ホームページで見る限り、『四戦紀聞』の本文自体は漢文ではなくそれを読み下した形のもの(漢字とカタカナが混合したもの)となっていますから、注記の「原本」及び「訳文」とはそれぞれ何を指しているのかよく理解できないところです。例えば、『稿本』P.282で引用されております「先隊は寵臣井伊萬千代直政、手勢並に附与の兵すべて二千余」は、『四戦紀聞』の本文では、次のように記されております。「先隊ハ寵臣井伊万千代直政、手勢並に附與の兵惣テ二千餘」(第4巻「尾州長久手戦記」)。
(注10) 尤も、『研究』が指摘している「弓手」は、「永禄墨俣記」や「永禄州俣記」に見られるものではなく、『武功夜話』の第2巻や第4巻に記載されているものですから、『稿本』がことさら反論せずともかまわないのではと思われるところです。
(注11) 『研究』のP.169で引用されておりますが、「前野文書」を実際に調査した神奈川大学教授の三鬼清一郎氏は、その論考において、『武功夜話』は「総合的に判断して、江戸時代末期のものが殆どすべてで、それ以前にさかのぼるものは見あたらなかった」と述べています(「『武功夜話』の成立時期をめぐって」[『織豊期研究』第2号P.85])。
(注12) ただ、『稿本』の「第5章、終章」においては、「見開きで約1万枚のCD複写版もできたり更に続行されているので」とあり(P.317)、そうだとすると「模様」どころか既に作成済みとも考えられますが、真相はどうなのでしょうか?
ただし、これは、とりあえず先般(2005年9月10日)の家系研究協議会の創立25周年記念大会の場で公開されたと聞いています。
(注13) 更に、『稿本』のP.233で特記されています『生駒家譜』は、「「墨俣」という地名は具体的に明記されていない」うえ、「明治初年に世に出されたと言われている」とのことです。
(注14) 牛田氏が何度もおっしゃるように、「『武功夜話』・『永禄州俣記』などを偽書であるとして、その史料価値を如何に減殺したからとて、それによって墨俣築城が否定できるものではない」ことは確かです(P.218)。ただそうであるにしても、「秀吉築城譚」を極めて詳細に記述している唯一の文献である『武功夜話』が「偽書」であるということになれば、「墨俣築城」説が大きな打撃を受けることもまた確かだと考えられます。そこで、『稿本』も、『蜂須賀家記』等を持ち出して、『武功夜話』の「偽書」説を覆そうとされているのだと考えられます。
(注15) 『研究』では、『武功夜話』には「編纂者≠ナはなく作者≠ェいると考えている」とし(P.26)、本文の1−ハでも引用しましたが、「「武功夜話」の成立に、戦前の軍隊経験者か、少なくともその方面の知識を持っている人間がかかわっている」とか(P.46)、「中国大陸を舞台にした戦前の「忠勇美談」のような読後感」(P.91)といった文章をアチコチにばら撒いて雰囲気作りをした上で、挙句の果ては、他人事のように「『武功夜話』は戦後に書かれた偽書であるとの説が、広く知られるようになった」(P.166)と述べられております。もとより、『研究』においては、「実際にこれらを編んだのがどういう人物であったのかもよくわからない」(P.279)とはされていますが、実のところは具体的な人を頭の中で特定しながら、表現だけは曖昧にしているのではと勘繰ってもみたくなります。
(注16) 『稿本』には、「美濃国の旧家には必ず系図があると言われたり、美濃国には諸記録が多くて歴史の宝庫だと言われたりする」が、「そのすべてが真実のみを伝えているとは限らず」、「中には大袈裟に誇張して書き残されたりもする」などと述べられています(P.298)。『武功夜話』を伝える吉田家は、尾張国といっても美濃国に最も近い江南市にありますから、そうした気風は共有していたと考えられないでしょうか?確かに、『稿本』のP.109に転載されております地図に拠れば、従前は美濃国と尾張国との間には木曽川が流れていて、両国相互の交流を検討する必要がありましょう。ですが、元々「川筋の者は美濃・尾張の区別なく、いつの間にか皆が知り合いや仲間であ」ったとのことですし(P.110)、加えて「天正14年(1586)に発生した大洪水によって木曽川の流路は大きく変わり」、「木曽川の対岸に広大な尾張領が存在することになった」わけですから(P.209)、少なくとも戦国時代から江戸時代初期にかけては、気風の共有が考えられるのではないかと思われます。
(樹童の感触) 先般(05.9.10)の家系研究協議会の創立25周年記念大会に出席してきた者からの報告などを踏まえて、以下に、再咀嚼した後のとりあえずの感触を書いてみます。その場では、『武功夜話』のコピー(写真焼付け)を含め前野文書といわれるものの主要部分がわが国で初めて展示され、研究者の注目を浴びました。
1 展示されたのは約9000枚のコピーで、あと1000枚ほどの写真撮影を終え、残りはまだ5〜6000枚あるとのことです。残るは書状などの文書類が主なようですが、展示されたもののなかには竹中半兵衛関係の書状(真偽不明)もありました。
前野文書について実物の展示はなく、大変な分量の文書類のコピーで、草書体に近い形の書体で書かれていますので、書かれた紙質は確認できませんが、江戸期の書物であった可能性が高そうです。かつて調査したといわれる三鬼清一郎氏(当時名大教授)は、その結論としては江戸時代の作成であり、明治以後のものは含まれていないとされますが、写真の一見ではたしかにこうした印象があります。ただ、明治期くらいに作成の文書だと、こうした筆体で著作の作成が可能かも知れません。現物を直接に見ていない段階の総じての感触では、『東日流外三郡誌』とは異なり、現代人が作ったものと考えるのは、なかなか無理なようです。書物・書状は、かなりの学識者の能力ではなかなか読み切れないような達筆の書体ですが、中世・近世文書の専門家ではない吉田蒼生雄氏は12年かけて解読したとはいえ、どのように解読されて現代語訳されたものか不思議な感も残ります。
2 文書の分量が多量だと言いましたが、今回展示された約9000枚では、見開きA4版の大きさの文書で高さ60cmほどの箱に4つあると言っていました。これらが所蔵者の元から大阪の展示会場へ運ばれてきたわけです。これに更に6000枚が加わるというのですから、文書類は木箱などに容れ普通に土蔵に置いて保管していたものと思われます。それが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で土蔵が壊れ初めて世に出てきたなどという疑問・不審な説明を世間に対して言うものですから、『武功夜話』の信頼性が疑われるわけです。現に、蒼生雄氏の上記記念大会における講演のなかで、それまでも何度か土蔵が破られ、その都度盗難にあった可能性があることを示唆していますから、これは普通の(ないし厳重な)保管をしていた以外に考えられません。ただ、吉田家の歴代の当主が世に出すことを避けたか嫌っていたというのは事実だったのでしょうが。こうした秘密の長期保存という所伝は、どこまでが事実であるか不明で、それだけで偽書の疑いを抱かせるものです。
原本は紙が固まったような状態であって、そのままの状態では簡単に見られないという言い方も聞かれましたが、これも疑問な内容であって、展示されたものについては、一応、普通に写真撮影がなされている模様でした。そうすると、上記展示がされたものは最初に作成された文書ではなかったのでしょうか。やはり現物を数冊でも展示の場に持ってきて人前に現実に曝したほうが説得力があると思われますが、どうしてそれをやらないのでしょうか。コピーから見る限り、展示のものは文書としても簡単に壊れてしまうとは思われません。
3 表紙には、『武功夜話』と書いたものと『先祖武功夜話』と書いたものがあり、これらを合わせて『武功夜話』ということにして、その『武功夜話』も古いほうの版と、それを拡充増補した版(21巻本)と少なくとも2種類があるようです。上記2のように、そのうち、古い版が最初に作成された版かどうかが不明です。また、古いほうの版が江戸初期の十七世紀中頃に書かれたとしても、次の増補版がいつ誰によって何を基に書かれたのか、が大きな問題となるはずです。こうした作成ないし編集の経緯・過程を十分検討しなければ、『武功夜話』に書かれた記事・内容が信頼できるかどうか判断ができないところです。そもそも、これまで伝えられてきた同書の作成及び伝来の経緯は、何に書かれていたのでしょうか。
吉田家が『武功夜話』について真本性、内容の真実性の主張をしたいのなら、例えば、東大史料編纂所や大学等の研究機関あたりに『武功夜話』ばかりではなく書状・系図などの前野文書類の全てを貸与するなり寄贈するなりして、書かれた内容・紙質などを専門家によってきちんと総合的に分析してもらうことが必要だと思われます。
4 「永禄州俣記」も、表紙にそのように書かれた文書が展示されていましたが、それがどのように、何時成立したのかは、十分に検討する必要があります。表題の記載から見て、「永禄州俣記」は本来、書(写本)の『武功夜話』とは別本の模様だったようです。『武功夜話』の吉田蒼生雄氏全訳本として刊行・発表されているものと筆で書かれた『武功夜話』との違いを説明すること(言い換えれば、もとの『武功夜話』には、何が含まれ、何が含まれていなかったのかをきちんと提示すること)の必要性があると思われます。
牛田義文氏の労作『稿本 墨俣一夜城』は、かなりの大作であると思われます。阿波徳島藩士諸家の事情に詳しい牛田氏の検討が多くの面から十分になされていて、この関係の研究者には是非、一読をお願いしたい書であろうと思われます。しかし、上記のように書『武功夜話』や「永禄州俣記」の成立の経緯・時期などを考えなければ、これらが江戸期(それも中期以降の)の創作・想像ないし認識である可能性が十分残るわけです。
5 「前野系図」も展示されていましたが、こちらは平安末期頃の高成から始まるものであり、蒼生雄氏の話では、それより先の世代を記す系図はないということでした。系図のコピーを外見的に一部を一見したとき、その書込みなどを含めて記載の内容は、偽作問題に関してはほぼ信頼して良いかもしれません。こちらは、比較的見易い書体で書かれており、普通の読解力でも十分読みとれるものですが、中世ないし近世の“作り物”という雰囲気はとくにないように思われます。
6 竹中半兵衛の書状は、『武功夜話』が軍師としての能力を高く評価する武士に関する数少ない書だということで、本物かどうかの疑念も出てきます。最初から疑うのは失礼かもしれませんが、新発見の資料類については慎重な懐疑姿勢が必要とされるという基本原則を踏まえて対応する必要があります。
これも含め、前野家文書に含まれる書状・文書は、全てにわたり十分な検討が必要であり、早とちり気味に受け入れるのは歴史研究者として問題ある姿勢です。信長とその家臣団研究で有名になった谷口克広氏については、『武功夜話』を信頼しすぎるという批判が出てきております。 7 『武功夜話』や前野文書類が偽書であるかどうかは、上記の諸事情が分かったもとでの判断となりますが、乏しい判断材料から現在までの多様な問題点指摘などを総合的に考えるに、これまで喧伝されてきた十七世紀中葉(寛永11年〔1634〕から永い年月かけたといわれる)に吉田カツカネ(雄)とその娘・千代女が書き残した文書というのは、やはり疑問ではないかと思われます。彼らが原本作成に何らかの関与をしたとしても、それは実際にどのようなものだったのでしょうか。少なくとも、展示には、分量の少ない古本とそれを基に拡充した新本があるように見受けました。
1749年に没したらしい第19代吉田雄武が改書再写したとのことですが、これがあるいは抜本的な拡充だと思われ、そうだとしたら、そのときに現在に伝わるとされる書が成立したというべきでしょう。また、その後にも幕末期などにおいて拡充増訂がなかったのでしょうか。尾張や美濃には郷土史的な書が江戸中期以降にかなり作られ、そうした書には『張州府誌』『張州雑記』『塩塵』や『尾濃葉栗見聞集』(享和元年〔1801〕自序のある吉田正道編)があげられますが、『武功夜話』はこれらを参考にしていないのでしょうか、という指摘も見られます。また、武功夜話中に出てくる木曽川河川図が変で、江戸時代半ばであんな図は当時の河川とも合わないとか、『尾濃葉栗見聞集』に掲載の図や『木曽三川流域史』や『一宮市史』の天正13年前後の河川変遷図と合致しないとも指摘されています。
古本の基となった「六宗記」(前野長康の書という)や『武功夜話』で典拠が明記してある「家伝記」「南窓庵記」がなどの史料は現存していないようですから、おそらく最初に書かれた書も同様に現存していないのではないでしょうか。そうすると、なぜ上記竹中半兵衛書状が残っているのでしょうか。この書状も含め、吉田家所蔵の前野文書類に含まれる多数の書状類や文書類も全て真偽判定が必要ではないかと思われます。そのなかで、真物の最古の文書を確認し、それに続く文書類相互の関係を体系的に考えて、そのうえで『武功夜話』という書物を冷静に総合的に評価(注)してみるべきです。
(注)網野善彦氏は、「様式、年月日、人名、花押、用語、書風、紙質等の諸要素の十分な吟味による文書の真贋の判定は、古文書学の発達ともかかわる歴史学の基礎的手続といってよい」と述べられる(『偽文書学入門』の「序にかえて」)。
8(とりあえずの結論)
以上の諸事情からみると、現段階の評価としては、『武功夜話』は書物の経緯由来を偽ったという意味で「偽書」の疑いが濃いとされるのが自然ですし(内容も勿論十分な吟味を要する)、その拡充本は戦国史料としての価値(ほぼ同時代の書という性格が重視され評価されていたこと)は大きく疑問視されます。 従って、当面は、『武功夜話』は江戸中期ないし後期以降の「読み物」として取り扱っておくのが無難だと思われます。なお、「曖昧な記憶のまま記録としてのこされた覚書を編集したもの」と判断したいという見解も一部に見られますが、覚書の作成時期が不明なままでは、これでも歴史史料としてはまず使えないということです。小説としての素材としてはともかく、歴史史料としての取扱いは十分慎重に対応していきたいものです。
(小林滋様からの再信) 上記1、2及び3を書き送った後に、「樹童の感触」を受け取りました。以下は、それについての感想です。 1 さて、貴信に拠れば、展示されたコピーを見る限り、「江戸期の書物であった可能性が高」く、「現代人が作ったものと考えるのは、無理」で、「紙が固まって、簡単に見られないというのも疑問な言い方であって、一応、普通に写真撮影がなされている模様」だとのこと。もしかしましたら、展示されたものは、『歴史民俗学』No.15「偽書の日本史」のP.73に掲載されている写真に見られるものと同一なのではないでしょうか? といいますのも、この写真に付けられている説明で、「伊勢湾台風の際、壊れた土蔵から見つかったという「前野文書」。保存状態は全て良い」とあり、前半はともかく「保存状態は全て良い」とされている点と、写真には「先祖武功夜話」と記されている表紙が写っていることから、貴信の内容と一致するのではないかと思いました。
2 ただ、単なる推測ですが、展示されたものはあくまでも「写本」のコピーであって、『偽書『武功夜話』の研究』で紹介されている朝日新聞掲載の「紙の固まりのようになった原本≠フ写真」の被写体である「原本」自体とは、おそらく違うのかもしれません。あるいは、伊勢湾台風で出てきたものは、こちらの「紙の固まり」の「原本」であって、これが「写本」以前のものなのかもしれません(そうしたものが存在するとしての話ですが!)。
3 そこで、国会図書館に出向いて、件の朝日新聞に当たってみることにしました。確かに、掲載の写真には吉田龍雲氏が変なものと一緒に写っています。それに付けられている説明では、次のようになっています。「吉田龍雲さんと三つの武功夜話。右から、こびりついてほごとなった江戸初期の原本、江戸中期の写本、最近出版された五巻。 =江南市前野の吉田さん宅の土蔵で」。要するに、3点セットというわけです。ただ、こびりついてほごとなった江戸初期の原本≠ヘ、マイクロフィルムで見るからかもしれませんが、クタッとなっており、なんとも判断できかねるものです。
〔つまらないことですが、『偽書『武功夜話』の研究』のP.42では「「朝日新聞」(中部本社版)の平成2年(1990)6月17日付けの「あんぐる愛知」」と記載されていますが、実際は、「「朝日新聞」(名古屋本社版)の平成2年(1990)6月10日付けの「あんぐる愛知」の「「武功夜話」真実か偽書か(上)」」でした!〕
4 次いで、貴信では、「『武功夜話』も最初の本と、それを拡充増補した本と2種類があ」ると述べられ、また「少なくとも、展示には、分量の少ない古本とそれを基に拡充した新本があるように見受け」たとも述べられております。
これも推測に過ぎませんが、「最初の本」及び「分量の少ない古本」というのは、あるいはもしかしたら、松浦武氏らが翻刻した「三巻本」の「写本」なのかもしれません。松浦氏は、その論考で、マズ「寛永18年(1641)」にこの「三巻本」が作成され、その後、「次第に修正を加えながら、詳細に加筆していって、大部の『武功夜話』が成立していった」と述べています。ただ、この記述にはさしたる根拠が与えられてはいませんから、貴信が言うように、「こうした作成過程を十分検討しなければ、『武功夜話』に書かれた記事が信頼できるかどうか判断できないところで」あることは間違いありません。
5 なお、上記1と同じ『歴史民俗学』No.15のP.77には、今回展示がなかったと思われます『永禄墨俣記』(墨俣町編「墨俣一夜城築城資料」に掲載)の写真が掲載されていて、その説明には「紙質、筆跡からして、昭和30年代の偽作と思われる「永禄墨俣記」原本」とあります。ここには二つ問題があるのではと考えれます。
a. やはり貴信に言うように、「吉田家が真実性の主張をしたいのなら、例えば、東大史料編纂所あたりに寄贈するなりして、内容・紙質などをきちんと分析する必要」があるのではないかと考えます。
b. 「原本」という言葉がひどくいい加減に使われている感じがします。この写真の「永禄墨俣記」は、当然のことながら「写本」でしょうから。
6 更に申し上げると、『偽書『武功夜話』の研究』等で総攻撃をくらっている「永禄墨俣記」は、確かにオカシナ点が多々あると思われ、そのことを一つの大きな根拠として『武功夜話』(全訳本)全体がオカシイ(明治40年以降に作成されたものだなど)と決め付けられています。しかしながら、これは、『武功夜話』(全訳本)に収められている「永禄州俣記」とは別物であって、あるいは昭和になってから作られたものなのかもしれません。ただ、本体の『武功夜話』(全訳本)の方は、基本的には、江戸時代中期〜末期に作成された「写本」によるものだ、と考えられるのではないでしょうか?
私には、『偽書『武功夜話』の研究』等は、『武功夜話』の一番脆弱なところ〔しかし、全訳本の弱点ではないところ〕を最大限に論っていて、余りフェアな議論の仕方をしていないのではと思えて仕方がありません。
7 だからといって、『武功夜話』自体が「偽書」でなくなるわけではないでしょう。
貴信でも、結論的に「これまで喧伝されてきた十七世紀中葉に吉田カツカネとその娘・千代女が書き残したというのは疑問ではないか」と言われます。これは「原本」の成立自体の問題でしょうし、それだけでなく「写本」の成立過程にも問題は多々あることでしょう。そういう点になると、モウ歴史専門家の調査分析とそれに基づく意見に拠らざるを得ません。
ただ、『研究』のように、『武功夜話』の全部が全部“明治40年以降”に作成された「偽書」に相当するものだとまでいえるかどうか、これまで発表されている論考等においては十分議論され尽くしていないのではという気がします。『研究』の問題点指摘が必ずしも当を得ていないことも述べましたが、いずれにせよ、『武功夜話』の問題点とその反論を含める検討など、なすべきことは多くあろうかと思われますが、冷静かつ建設的に研究が進展することを望む次第です。 (以上) (05.9.19 掲上)
<追補> 谷口克広著『目からウロコの戦国時代』における評価 信長研究で着実な業績をあげておられる谷口克広氏は、その著作(2000年刊行、PHP研究所)で、「内容に、他の編纂物にはない記事が含まれており、その中には一次史料で確かめられるものもあるから」、「部分的に評価できる本だと思っている」として、羽柴秀吉の天正九年(1581)の鳥取城攻めを例にあげる。 その一方、竹中半兵衛のことなどは事実と大きく異なる部分が多すぎるとして、『武功夜話』は何度も書き直されたと伝えられ、また江戸末期などの地名や表現も現れることは承知して、「もともとは実録として史料価値が高かったのに、何度か手を入れられてその価値を失っていった本」なのではないだろうか、というのがその結論でもある。 この谷口見解は比較的穏当な見解で、伝来の実態がそうでありそうだといえそうでもあるが、ここまで原型と思しきものから乖離したときに、同書を「史料」として評価できるのかという問題が次にある。 同書の系図関係記事などにも大きな疑問があって、史実と虚構が渾然一体となった書は江戸期の読み物の類と評価しておくのが無難であろう。 (06.8.10 掲上) |
<備考> 先に『武功夜話』について言及した頁(『武功夜話』の真偽性)も本HPにありますので、併せてご覧下さい。 |