藤原明著『日本の偽書』を読む

          −併せて、『旧事本紀』『古事記』についての偽書論についての雑考−

                                      宝賀 寿男


 1 本書の概要

  「荒唐無稽なものたちに人はなぜ魅せられるのか」という帯のキャッチフレーズを持った同書(文春新書3792004年刊)により、藤原明氏がいわゆる「超古代史」を記述する「偽書」に迫ります。この「偽書」とは、「作者・書名を偽った、文字を用いたあらゆる書き物を指す」と広く定義されます。そして、内容が真実でも、作者名を偽っていれば偽書となる、という指摘もしております。この定義は総じて妥当といえます。ただ、その場合には、広義の偽書とみられるものについては、単に「偽書」と決めつけるだけで足りるものではなく、史料として価値のあるなしを十分に吟味して、価値を判断する必要があると思われます。「偽書」と決めてすぐ排除するのは、即断にすぎるし、歴史研究においては有害になるおそれもある、ということでもあるはずです。
  本書では、超国家主義者と二大偽書として『上記(うえつふみ)』や『竹内文献(たけうちぶんけん)』、東北幻想が生んだ偽書として『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』や『秀真伝(ほつまつたえ)』、「記紀」の前史を名のる『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』と『先代旧事本紀大成経』という六冊の代表的偽書が取り上げられており、これら書物の生成・経緯が概観的に書かれ、最後に偽書の何が人をひきつけるのかという分析がなされています。このほか、『宮下文献』『安部文献』『九鬼文献』についても、同様な「古史古伝」として簡単に紹介されます。総じて、偽書についての割合よくまとまった読みやすい啓蒙書と評価されます。

 
 2 本書の長所

  我々、歴史を科学的に研究しようと志向する者にとっては、「偽書」はいわば「敵」です。絶対に許せないほどの敵であり、たとえ正史に見られぬ精彩に富んだ歴史像が豊かに描かれている書であっても、明白にフィクションだと断られない限り、却って害悪が大きいものです。それだけ人を蠱惑するからです。むしろ荒唐無稽な偽書のほうが、偽書性が明らかなだけ、害が少ないことになります。しかし、いずれにせよ、敵をよく知らねば、「味方」(原型としての真の歴史的事実)もよく知ることはできませんし、その逆も言えそうです。その意味で、本書は、日本の偽書概観として十分意味があるものです。
  最近では、『東日流外三郡誌』批判を通じて、偽書研究がかなりなされてきたので、少し丁寧に探していけば、偽書についてそれなりの知識は得られますが、それでも、本書は偽書の社会学史として便利な点があります。そして、時代が古ければ価値があるとでも言いたげな「古史古伝」の偽書に通じるものとして、藤村旧石器捏造問題があり、「三内丸山遺跡をめぐる近年の動向をみても同じ過ちが繰り返される危惧がある」という警告を著者が発しています。
  私は、三内丸山遺跡について具体的に検討したことはないので、この遺跡にコメントはできませんが、やや過大に評価されているのではないかという感覚がないわけでもありません。それでもむしろ、最近の考古学者に多く見られる年代遡上の傾向年輪年代法や炭素14法、あるいは三角縁神獣鏡により、古墳築造年代や纏向遺跡の時期、弥生時代開始時期を繰り上げる方向に動く傾向)について、同様に危険な匂いを強く感じているところです。ある意味で、この考古年代遡上の主張は、科学的な様相を装っても、善意で作為を自覚しない「偽史捏造」ではないかとも思われます。機械的に算出される数値を基として適正な較正をしないような考古学者の歴史観・年代観(裏付けのない年代観)に対し、私が厳しい批判をしてきたのも、この故です。
 基本的に、第三者の手によって検証できない議論・仮説は、誰が唱えようと、合理的ではありませんし、数学や機械(機械的な方法)への信仰は、学問につとめる者にとって忌むべきものだからです。

 3 本書の問題点−とくに『旧事本紀』の扱い

  本書の良く評価される点をまず挙げてきましたが、次ぎに問題点を挙げます。
  残念ながら、本書はすべてが手放しで賛意を表せるものではないのです。というのは、藤原明氏が専門的な古代史研究家ではないという限界があることに起因するからです。つまり、『先代旧事本紀』(以下『旧事本紀』と記す)を他の「古史古伝」とほぼ同様に扱い、「史上最大の偽書」に値するのは同書をおいて他にないと思われるとさえ、非常に悪い評価を与えているのが問題だ、と私は考えるわけです。
 『上記』『秀真伝』などのいわゆる近世の「古史古伝」は、古代史や古代氏族系譜の知識なしに分析・批判ができます。明らかな誤りが多いうえに、記紀というしっかりした批判基準があるからです(もちろん、記紀にも誤りがかなりあるが)。しかし、『旧事本紀』の分析・批判は、これとはまったく次元の異なる話なのです。
 
  最初に断りますが、私は、『旧事本紀』が上記定義において偽書たることを否定するものでは毛頭ありません。まさしくその序文は疑問が大きくこの点を否定する見解は、殆ど皆無といえます)、序文と本文の不一致で、作者名を偽っているので、たしかに偽書となるということになります。
  しかし、その意味では、『古事記』もまた、『旧事本紀』なみに偽書だと私は認識しております。後世になって突如出現したという点も両書は同じであって、出現は『旧事本紀』のほうが早いものです。そして、両書とも古代史探究のために欠かせない史料ということでもあります。それは、『旧事本紀』の表現や他書に見えない内容は勿論ですが、同書がすべてある特定時期に成立したとみることは、漢字の表現から考えても、各本紀の記事・内容からいっても無理があります(編著者も諸本紀のすべてが同一人という保証はありません)。個別の表現や内容について、丁寧かつ冷静な具体的分析が必要ですが、そこまでの作業がなされてきたのだろうか、藤原明氏がそれをしてきたとは到底考えられません。これに加え、現実に『旧事本紀』を長期間、様々に使って多くの角度から検討してきた私の体験から思われることです。
  その意味で、『上記』『秀真伝』などのいわゆる「古史古伝」とは比較になりません。わが国歴史学界の多数説では、『旧事本紀』は偽書であり、『古事記』は偽書ではないということですが、この取扱いはきわめて奇妙です。ただし、『先代旧事本紀大成経』はまったくの別物です。この辺を混同してはいけません。
 
  『旧事本紀』には、序文以外にもたしかに明らかな間違いや重複記事など問題点があります。しかし、『古事記』だって、それは同じです。真の編著者が知られない点でも、両書は同様です。『日本書紀』にだって、多くの誤りがあります。それでも、これら史料を多くの観点から総合的に検討することによって、古代史の原型にアプローチできるのではないかと私は考えます。例えば、蘇我氏の真の出自を示唆するのは『旧事本紀』しかありません。同書の「天皇本紀」成務段から推論として導かれるのは、宇佐国造家支流からでたとみられる火国造祖・建緒組命(原態は、多氏支流の出ではない)の子・武貝児命の後裔で応神天皇の父親・稲背彦命の弟、鐸石別命の後にあたるのが、磐梨別君(和気朝臣)や蘇我臣・波多臣などの諸氏ということです。「天孫本紀」の尾治氏系譜に見える「尾治」「身人部」などの古表記もあって、この辺が貴重なものであることは、出土木簡の表記から分かります。
  かって『旧事本紀』は高く評価された時代があり、次ぎに江戸中期以降には偽書として排斥され、また『先代旧事本紀の研究』の著者・鎌田純一氏などの業績により見直し評価がされるようになったとされます。最近では、この鎌田氏と上田正昭氏とが、『日本の神々 『先代旧事本紀』の復権』(大和書房 、2004年2月)という著作を刊行しております。上田氏も、『先代旧事本紀』の史料的価値を認め、論文にも活用してきたといわれます。私がこれまで『旧事本紀』を調べてきた事情では、序文以外は偽書として排除する必要性がないということです。これは、御巫清直の見方にも通じるものです。
 ただし、同書はあくまで古代史料ですから、記事の盲信は常に慎まれるべきことです。その意味で、鳥越憲三郎氏(『大いなる邪馬台国』)や安本美典氏(『古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎 』)における『旧事本紀』記事の素朴な受取りという取扱いには、私は大きな疑問をもっています。邪馬台国は物部王朝ではありませんし、尾張連氏の始祖と物部連氏の始祖は同じ者()ではありません。安本氏は『旧事本紀』を真書としてその価値を尊重する立場ですが、その著述には多くの誤解があります。
 
 以上を総じていうと、『旧事本紀』を偽書として排斥するという本書の姿勢は、大きな疑問だということです。平安朝の偽書と近世以降の偽書とは、やはり分けて考える必要があり、十分な分析ができないまま、同一視できないものです。この感覚は、古代史研究に当たって現実に同書を数多く使ってきた立場からしか分からないのかも知れません。しかし、偽書として『旧事本紀』を取り上げるのなら、『古事記』も同様に偽書として取り上げるべきものなのです。これは、両書を比較して考えれば、明らかにそういえるはずです。
  その意味で、本書は学界の多数説に依拠しすぎているのではないか(その受け売りではないか)という面があり、そのことが本書に画竜点睛を欠いているのではないか、と私には感じます。もっとも、本書は「新書版」ですから、執筆にあたっては内容・分量等にさまざまな制約があろうと思われますが、それでも『旧事本紀』の評価・取扱いにはおおいに疑問があります。次の項で、更に述べます。

 
 4 その他『旧事本紀』についての藤原明氏への疑問など

  『旧事本紀』に触れる藤原明氏の記述には、ほかにも疑問な点がいろいろありますので、ついでに挙げておきます。
 (1) 『旧事本紀』が物部連氏と密接な関連を持つことは、内容的に確かです。そして、物部連の祖神・饒速日命と尾張連の祖神・天火明命とを同一神とする奇妙な記述があることも確かです(そもそも、「天火明命」は尾張連の祖先ではありません。かつ、物部氏の祖先神でもありませんが、物部氏同族には天火明命後裔を称する氏もあります)。これは、両氏族の祭祀などの行動形態や一族を見れば分かることなのです。尾張氏や三輪氏は、男系では海神族系の氏族であり、物部氏は天孫族系の氏族です(この辺の種族・祭祀関係が、安本氏には分かっていない)。
ところで、藤原明氏は、「国造本紀」の物部系国造の分布に疑問を呈していますが、これは誤解ではないかとみられます。氏は物部系国造の大半が尾張氏の属する東海地方に濃密な分布を示すのは重大な不審点としますが、私には何故に「重大な不審点」なのか分かりません。静岡県(駿遠豆)及び愛知県東部()におかれた七ないし八の国造のうち、四国造(参河、遠淡海、久努、駿河)が物部系だと伝えられますが、ここには、とくに異とするところがあるともあまり思われません。これは、『高橋氏文』や『書紀』景行段などに見える景行天皇の東国巡狩に随行した物部一族の子弟が配置された結果なのです(ただし、遠淡海・久努については、違う起源も考え得ることに留意)。
『古事記』では、「物部と無関係の天穂日命の後裔とされていた遠淡海国造が物部の系に取り込まれているという問題さえある」と記述されますが、これは氏の誤解に近く、『古事記』の記事も内容を吟味する必要があります。どうして『古事記』の記事のほうが正しく、『旧事本紀』が誤りだと判断したのでしょうか。もっとも、実際には、出雲国造家は天穂日命の後裔と称しますが、この祖神は物部氏の遠祖の天目一箇命の父神と同体であって、物部連は出雲国造家と同祖関係にあった(実際の祖を天若日子、すなわち天津彦根命とする)という事情にあります。遠淡海国造の系譜は、実は非常に複雑であり、そのもとは出雲国造同族の物部氏初期分岐にあって(この意味では、『古事記』は貴重な所伝を遺しています)、それがそのまま長く続いたのか、その系統の家に物部氏一族から入嗣があったかどうかがはっきりしません。
 伊豆国造も物部一族とみる説がありますが、ここの「物部」は「服部」の誤記ないし誤解であり、「物部一族」を饒速日命後裔と限定する場合には、一族ではなく、同じ系統の氏族(服部は広義の物部同族ということ)です。

(2) 『旧事本紀』が平安時代に急に捏造されたものではないという鎌田説を否定する確かな証拠はありません。物部連の祖神・饒速日命と尾張連の祖神とする天火明命とは同一神のはずはないのですが、これに限らず、平安前期に成立した勅撰的な系譜書『新撰姓氏録』の記事と異なる系譜がいくつも『旧事本紀』に見られます。
 この評価については、『姓氏録』よりも遅く成立したが、これに対する反感・反論があったという見方もありますが、私は、むしろ『姓氏録』よりも先に成立していた、あるいは、それとは関係なしに成立していた所伝を取り入れたからこそ、ありうる話ではなかったかと考えられます。『姓氏録』の記事は尊重すべきものですが、すべての系譜記事が正しいわけでもありません。系譜を提出した氏の主張や自称が入っているものもあるからです。

(3) 『旧事本紀』の編者(作者)については、興原敏久(おきはら・みにく)説、石上宅嗣説あるいは石上神宮の神官説、矢田部公望説などがあるようですが、そのどれも決め手がありません。仮にこれらのいずれかが編者であれば(偽作者であれば、よりなおさら)、同書に記載される自己関連の家系はもう少し詳しいものとなっていても、よいのではないかと思われます(とくに興原敏久に当てはまる)。先に述べたように、『旧事本紀』に単独の編著者を考えるのは疑問のように思われます。
藤原明氏は矢田部公望が偽作者だという説を唱えます。同人は、延喜六年(906)の講書に博士の助手(尚復)として、承平六年(936)の講書には博士として見えており、『外記補任』には929〜933年に見え、大外記まで務めたことが知られます。兄ないし父に大内記をつとめ、「元慶私記」の編者かといわれる名実もおります。しかし、十世紀前半に当代一の学者が権威ある系譜書『新撰姓氏録』や『書紀』などの六国史を無視するとしたら、これはきわめて不思議です。矢田部造()氏の系譜やその一族の名も『旧事本紀』にはあまり見えないように思われます。同書は矢田皇女の母を物部山無媛連として、記紀所伝との差異が見られますが、これをもって矢田部氏が伝えたという根拠にはなりません。
そもそも、先の延喜六年(906)の講書の際に、矢田部公望の筆記に『先代旧事本紀』の引用が見えるのですから、彼が自作したとみるのは疑問なわけです(ただし、序文だけなら偽造しないとも限らないが)。

(4) 藤原明氏は、矢田部公望が「自家の所蔵する断片的な物部の伝承」を記紀等の記述を用いて補綴し、こうして完成した新たなテキストが偽書『旧事本紀』ではなかったろうか、と推測しますが、奇妙な判断が多々あります。例えば、『旧事本紀』に用いられた『古事記』の記事とは何でしょうか(現存の『古事記』と同じものかの判断はできないし、「多氏古事記」なども言われる)、現存の『古事記』と共通の記事があったとしても、どちらが先だと証明できるのでしょうか。『古事記』自体が由来不明の書(序文の不合理は明白で、稗田阿禮の実在性には疑問が大きい)であって、あるいは、共通の史料を種本としたのかも知れません。平安中期に『古事記』がどのような形で保存・所蔵されていたのかは、まったく分かりません。
また、「地祇本紀」に見える三輪氏の系譜はどこの家に伝わっていたのでしょうか。物部・尾張両氏を重視して、この辺を無視するのはとても不思議です。「国造本紀」のような史料は個別の豪族・国造の家に伝わったのでしょうか。『旧事本紀』には、記紀や『姓氏録』『古語拾遺』に見えない貴重な系譜所伝がかなり記載されているのです。しかも、それは皇室系譜にも多々見られ、一概に否定できる内容ではありません。これらは、矢田部氏という個々の家に伝わったものだとは到底考えられません。
 記紀や『古語拾遺』の切り貼りで『旧事本紀』が作られたとみるのは、まったく無理だと考えます。切り貼り論は、『旧事本紀』の内容を具体的に細部まで見ていない人、使っていない人しか言えないものです。

 
最後に、『旧事本紀』についての私見を付加しておきます。
  同書の編著者については、やはりよく分かりません。おそらく、その成立過程には多くの手が加わっていて、特定の人物と決める必要はないのではないか、と基本的には思われます。

  以上のように、当初考えてみました。ところが、更に多面的に検討を加えてみたところ、矢田部造()氏の先祖におかれる者の系譜やその一族の名が『旧事本紀』の「天孫本紀」物部氏系譜に他書に見ないくらい書き込まれていると見て良いと考えるようになりました。とくに、具体的には武諸隅、多遅麻、大別などの者であり、後二者は他書や他の系譜史料には見えないようです。また、これらの先祖の大新河命が「天皇本紀」には重視した記事が見えます。従って、おそらく矢田部公望一族の手が「天孫本紀」物部氏系譜や「天皇本紀」に何らかの形で加わっているのではないかという可能性を若干なりとも感じざるをえません。この意味で、藤原明氏の見解には少々敬意を払いたいと考えを変更しました。
 
〔この茶色文字部分は追補部分です〕

  同書は現存形態はまさに偽書ではありますが、序文を除くと、古代史検討の基本的な史料と考えてよいと思われます。とはいえ、すべてが信遽できるものではありません。学界などで比較的信頼できるとみられている「国造本紀」「天孫本紀(尾張連・物部連の系譜)」でも、かなり多くの誤り・混乱があります(それでも、検討すると、それなりの理由があります)。「国造本紀」は参考とすべき記事が多いのですが、国造の重複掲載の記事など問題点もかなりあります。物部連の系譜でも、いろいろ混乱や附合もあるようで、先祖からの世代数などでは、『新撰姓氏録』のほうが総じて正しいのではないかとも拙見はみております(『姓氏録』にも多くの仮冒や系譜改変もありますが)。尾張連の系譜にも、系譜附合や欠落・系線などで問題が多々あります。
  その一方、記紀と異なる記事のある部分でも、記紀が一方的に正しいわけではなく、十分参考になるものがあります。要は、各種史料を総合的に考えて、原型ないし当時の実態を合理的具体的に追求していくことが必要だと思われます。

      ( 04.6.13 掲上、08.4.29及び08.7.12、09.1.31や2021.03.06などに増補訂)




  <小林滋様からの見解・質疑>

 藤原明氏著『日本の偽書』についての批評では、同書の長所と短所を極めてバランスよく的確に評価されているだけでなく、細部まで腑分けして具体的に問題点をいくつも指摘されており、新聞・雑誌でみかける数多の書評を凌駕するものとみられます。
私のほうでは、同書について、第4章の「「記紀」の前史を名のる偽書」が面白そうでしたので―聖徳太子関連でもあり―購入したままにしてありました。
貴殿の書評にいたく刺激され、早速パラパラ見てみました。貴殿の主張されていることの大半は了解するのですが、次の点については如何でしょうか、ご教示があるとありがたいと思います。
 
. 同書の初めの方では、貴殿も指摘されるように、「通常、偽書という場合、記述内容に偽りがあるものと認識されているようである」(P.24)が、「本書では、記述内容に偽りがあるものが偽書という解釈は採用しない」()と高らかに宣言した上で、「偽書とは、作者・書名を偽った、文字を用いたあらゆる書き物を指す」(P.25)とキッパリと定義しています。
ですが、貴殿が取り上げる『旧事本紀』については、目録と「序」とが一致しないこと(P.137)、内容的に「杜撰な実態」(P.139)や「奇妙な記述」(P.141)や「重大な不審点」(P.142)が見られること、更には物部氏と尾張氏の祖神を同一神としている問題点まで指摘しています(P.144)。そして、そうしたことから、同書が聖徳太子真撰を装っている(「とうてい聖徳太子勅撰の最初の国史とはいいかねる代物」P.139)と主張しているように思えます。
私には、これでは話しが逆ではないか、記述内容が偽りであることを以って作者名の偽りを主張しているのではないか、あまつさえ書名の偽りについては何の記述もされていないではないか、結局は自分で自分の定義を放り投げてしまっているとも言いうるのではなか、と思えたのですが、如何でしょうか?
貴兄は、「まさしくその序文は疑問が大きく、序文と本文の不一致で、作者名を偽っているので偽書となるということにな」ると書いておられます。この点につきもう少し丁寧に説明していただけるとありがたいと思います。
なお、もともと“正しい”「書名」など存在するのでしょうか?たとえ、『旧事本紀』が偽書だとしても(どの定義を使って?)、その作者がそうした名前を付したなら、当該書名自体は偽りではないはずです。
 
 こうしたことから、私には、作者の偽書に関する定義はヨク理解できません。谷沢永一氏御推薦の佐藤弘夫著『偽書の精神史』〔講談社選書メチエ、2002年刊〕では、ザット見たところ、偽書の定義は一切なされていないようです。こうした方法もありうると考えられますが、それでも佐藤氏は無用の議論しないだけで、自分なりの定義は必ずや持っていることでしょう。
その場合には、どうしても記述内容を手がかりにせざるを得ないのではないかと思われるところです。絵画の贋作問題でも、絵の具の使い方、署名の仕方など(勿論、額やキャンパスの問題などもありますが)、描かれた絵自体が判定されると思います。
といいましても、「記述内容に偽りがあるものが偽書という解釈」を採用すれば、作者も貴殿も言うように、「記紀等の正史にも史実に反する記述があるので偽書という極論さえ成立しかね」ません(P.24)。ただ、貴殿が、「その意味では、『古事記』もまた、『旧事本紀』なみに偽書だと私は認識」と言う時の「その意味」が、前段の「作者名を偽っている」ことを指しているのであれば、作者とは見解がやや異なっていることになると思われますが、いかがでしょうか。
これは、作者の単なる言葉遣いの問題ですが、P.33において「超国家主義者」を「便宜上、偽書を支持した人々」と定義しています。しかしながら、周知のようにこの言葉は、丸山真男以来随分と手垢がついており、作者もそうしたこの言葉の持つ通常のイメージに寄りかかって書いているような感じを受けます。例えば、P.36には、「なぜ「超国家主義者の熱い眼差しを浴び再生することになったのだろうか」とありますが、定義からすればこのような疑問など起こりようがないはずです。総じて、この作者の言葉の定義の仕方には問題があるのではないかと思えます。
 


  <その応答>

 私がかつて論考「有島武郎の家系」で偽書・偽系図に関して触れたように、偽書には二様の解釈があって、@虚偽の事柄を纂著したものとする見方、A内容の如何に拘らず、真本でないのに真本を称するものとする見方、があり、その後者のほうが一般に「偽書」と解されています。
藤原明氏も、Aと同様に広義のほうの立場だと読みとられます。そして、『旧事本紀』が記事・内容から見て、序文にあるような「聖徳太子勅撰の最初の国史」ではないことが分かるわけですから、偽書ということになります。そのうえで、内容にあっても疑問があると主張しているものとみられます。同書の記述が少し整理されていない部分もあるのかもしれませんが、私にはこのように解されます。
 
ただ、序文については、問題があります。その内容的には、「聖徳太子撰」ということは、その時代以降の記述が多すぎることから明らかに疑問がありますが、『旧事本紀』の研究家鎌田純一氏は、同書の成立とみられる平安初期には現序文がなく、後の時代(古代末期か中世初頭)に誰かが付け加えたとみています。これだと、偽書説を否定することにも繋がります。
この鎌田説の論拠をもう少し説明しますと、承平六年(936)の『日本書紀』講義のときに矢田部公望が『古事記』と『旧事本紀』とはどちらが先に成立したかについて語っており、醍醐天皇のときの講書の先師藤原春海は『古事記』のほうが先だと言っていたと記述しています。そのうえで、矢田部公望は『旧事本紀』のほうが先だと考えると述べるわけですが、この議論の時に序文の話が出てきていないので、まだその時点では『旧事本紀』序文が付いていなかったからではないかと考えられるとしています。
これはかなり説得的な話ですが、現実に付いている序文の成立もまるで不明であるため、いわゆる偽書論議では、現存の書の全ての形で考えねばならないということで、私は偽書説に立っている事情にあります。
 
 私は佐藤弘夫著『偽書の精神史』が未読であるため、的確なお答えにはなりませんが、『古事記』を偽書と考える根拠は、やはりその序文にあります。
 拙稿猿女君の意義−稗田阿禮の周辺−『東アジアの古代文化』106〜108号)のうち、108号の註(24)で、同序文に見える稗田阿禮を中心に次のように記述しております。すなわち、『古事記』も『旧事本紀』も、ともに成立の経緯・時期及び撰者が事実と異なるのではないかということです。
 
稗田阿禮の実在性は、相当に疑わしく、大和岩雄氏などが主張するように、実在を否定したほうが論理的に妥当することが多いように判断される(現在まで文書検討や発掘等が進んでも、実在性は疑わしいままである)。この立場に立てば、少なくとも『古事記』序については、後世偽作説となる。『古事記』については、全体を偽書とする説もあるが、この関係の偽書説のなかでは、その序だけを後世作成の偽書とする説(その場合、本体部分の成立も和銅四年より遅れそうである)が割合、穏当なようであり、この立場が多い。 
稗田阿禮の存否両論について様々論拠がいわれているが、序が公式文書としたら、太朝臣安萬侶の官職及び稗田阿禮の「姓(カバネ)」が不記載(また、官位もなかったのだろうか)という事情は、ほとんどあり得ないことである。従来、太朝臣安萬侶の官職不記載が云々されても、稗田阿禮の姓については従来殆ど議論がなされなかったように思われるが、これはたいへん不思議な話である。大和岩雄氏の表現を借りれば、『古事記』序の筆者はこの両方について知らなかったから、記せなかったということになる。稗田阿禮の年齢が記される一方、肝腎の天武天皇から阿禮に対して帝紀旧辞を誦習するようにとの命令が出された時期が不明確であるのも、序の記述のバランスがとれていない。こうした疑問は、藪田嘉一郎氏「古事記序文考」でも提起されている。」

 このほか、『古事記』の内容を仔細に見ていくと、海神族系統に伝えられたのではないかとみられる所伝の色彩が強いように思われます。大己貴命関係のいわゆる「出雲神話」が多く見えるという特徴があり、こうした内容が天孫族の皇統のもとで長く保持されたのは疑問です。太安万侶の出た多氏族も天孫族の流れを汲むものです。

この辺の事情は、稗田阿禮の実在性と古事記序文 をもご参照。

  (04.6.20 掲上、08.7.12追補)


 『古事記』も『旧事本紀』と同様に考え、取り扱ったらよいという表現の真意が分かり難かったようなので、もうすこし付記しておきます。

 偽書についての私の考えは、『旧事本紀』も『古事記』も、ともに本文と序とは合わないが、それを偽書だと評価しており、それが同様だということです。ただ、それ故に直ちに両書を排斥するのではなく、本文と序とをそれぞれ個別に検討して、別の時期に成立した可能性のほうを考え、序文を除外して、本文の内容が見るべき点があるのなら、貴重な古書・史料だとしてその内容を十分吟味しつつ有効に使っていけばよい、というものです。もちろん、序文にとるべき内容があれば、それはそれとして参考にすればよいとも思われます。
そして、『旧事本紀』が最大の「偽書」というのなら、現在まで信奉者が多い『古事記』は、それを超える「偽書」とさえ言ってもよいということでもあります。本居宣長の『古事記』鼓吹をはじめとして、現在でも、学界ではまだ真書説が圧倒的に多数のようであり、一般に「偽書」として認識されていないのですから。ただ、日本古代史の理解は『日本書紀』のみに依拠すべきだというつもりは、まったくありません。多くの史資料をもとに具体的な地理状況などを含め、総合的に歴史原態を考えて行くべくだと思われます。
簡単に偽書だと片づけてしまうのは、古代の貴重な史料を無駄にするものだ、と私は思います。その意味で、藤原明氏は、「自分自身で古代史を考える」という歴史家にはなりえないのではないか、と言いたかったわけです。史料の乏しい日本古代史を長く探究している身にとっては、『旧事本紀』も『古事記』もたいへん重要で貴重な史料なのです。
 だから、個別に十分吟味して原型史実の探索のために適切に丁寧に用いていきたいものです。

 (04.6.27 掲上、08.4.29及び08.7.12、21.03などに増補訂があります)


  ホームへ  ようこそへ   Back