鈴木真年翁の系図収集先
                  −併せて「越中石黒系図」を論ず−
                               

  本稿は、家系研究協議会発行『家系研究』誌の第19号、20号(
一九八八年七月、十二月)に掲載された論考を基に、その後の検討を増補したものである。
  「越中石黒系図」については、宝賀会長の著作『越と出雲の夜明け』でもとりあげている。

 
 
 


一 
はじめに−収集先の概要

 「それにしましても、鈴木真年が見た古代氏族の多くの系図は、どこに消えてしまったのでしょうか」
  この言葉は、私の編著『古代氏族系譜集成』(昭和61年〔1986〕4月刊)についての佐伯有清教授の感懐であり(同年6月6日付の私宛の書信)、いまでも私の脳裡に深く焼きついている。こうした疑問は私自身としても、真年翁の収集系図類等を基礎とする同書の作成中に抱いたものであっただけになおさらである。

  明治の大系図学者鈴木真年は、明治27年(1894)大阪市南区の自宅で、その64歳の生涯をとじた。真年翁には系図学分野での中田憲信との関係を別にすれば、弟子が殆どいなかったこともあり、残された膨大な著作と資料は、その逝去後まもなく散失をはじめた模様である。
  はやくも明治31年には岩崎男爵の財力に裏付けられた
静嘉堂文庫世田谷区岡本)が真年翁の遺書数十部を購入しており(百部超ともいう)、それらが関係者のご尽力により現在にまでよく保存されているのは、むしろ幸いであったといえよう。同文庫と東大史料編纂所とが、鈴木真年翁関係史料の二大保存場所となっているが、とくに前者には翁の自筆本が多い。
  愛知県西尾の実業家岩瀬弥助が明治41年創設した岩瀬文庫には、真年翁の処女著作系譜集ともいえる『御三卿系譜』などが所蔵されているのも、天理教の二代目真柱中山正善(
1905〜67)が昭和20年12月に天理図書館に寄贈した真年自筆の『朝鮮歴代系図』が保存されているのも、その遺書群が市中に流通するなかで購入された結果であった。特に、後者の書のなかに、「真年遺書第百九十四号」とあるのは、市中に流通した真年の遺書が多数あったことをうかがわせる。残りの遺書群はいったいどこに行ったのだろうか。
  真年の遺書が火災等により滅失した可能性もないではない。鈴木家にあった多数の蔵書等が大正12年の大震火災のため悉く烏有に帰した(『鈴木真年伝』)ともいわれるが、私としては、その焼失の前に鈴木家より流失した可能性が大きいと考えており、これらが現在どこかにひっそりと眠り、次に陽の目を見ることを待っていると秘かに希望したい1
  真年翁の遺書のうち現存するものはどの程度の割合か不明であり、また、真年関係資料でその出典を明確に記すものはあまり多くないが、でき得る限り、現存する真年翁の遺書から、その出典・原資料をあたってみることとしたい。
  真年遺書の系図資料においては、草稿としての性格を持つとみられる著作(例えば『百家系図』『百家系図稿』など)では出典の記述が多くない(ただし、掲載系図の末尾までみていくと、原蔵者をほぼ推測できるものはかなりあるが)。これに対し、清書して完成本とみられる著作(『諸氏家牒』『諸国百家系図』『良峰源氏猪飼系図』など)では、その末尾に系図の出典と校合に当って用いた系図諸本の名が明記されており、大きな手がかりを与えてくれる。また、『百家系図』『松柏遺書』『列国諸侍伝』には、真年翁が見知ったとみられる古氏族名や社家系図の目録が記されている。

 これらのことから、真年翁の系図資料の原典を分類してみると、概ね次のようになる。
(1)系図学での師、栗原信充(のぶみつ)から受け継いだ資料、或いは師の所蔵本の謄写
(2)真年翁自身が求めた資料
 @系図学の諸先輩(田畑吉正、加藤直臣などで、後述)が入手した資料の謄写
 A書肆から購入
 B文庫、図書館の所蔵本の謄写
 C社寺所蔵資料の謄写
 D交友や職務の関係にあった士族・華族を中心としてその家に伝わる系図の謄写(同好の士、中田憲信が収集した諸本も含む
 Eその他
 以下に、具体的にこれらを検討していくことで、最初に掲げた佐伯教授の疑問に対して、なんらかの回答になるのではないか、と考えて本稿を記述する次第である。
 

 
二 栗原信充関係資料

  栗原信充(生没が1794〜1870)は号を又楽、柳庵といい、諸国の古社寺等を訪れて古記録等を蒐集して多くの著作をなしたが、総じて刀剣・甲冑関係の書が多く(『武器袖鏡』『甲冑図式』『刀剣図考』など)、故実・歴史関係の書(『日本紀私読』『職原抄私記大内裏図』『武林名譽録』『令講義』など)もあるが、系譜関係の書で現存するものはむしろ少ない。
  系譜関係で管見に入ったものとしては、@『百済王三松氏系図』(真年の『百家系図』巻50にも所収。活版本もある)、A『玉簾』(無窮会神習文庫蔵。吉備、安倍氏などの系図で信充自筆稿本)、B『水雄岡志』(静嘉堂文庫蔵。清和天皇の事績とその後裔についての書)、C皇統相承譜(所在不明)、があげられるにすぎない。
  しかし、栗原信充が蒐集した系図がこれに限られるものではない。真年翁の編した「倉垣系図」「長野系図」(ともに『諸国百家系図』に所収)や「猪飼系図」「良峰系図」(ともに『良峰源氏猪飼系図』に所収)の末尾に、栗原本とか栗原又楽老人所蔵本という記述が見えることで、そのことがわかる。また、栗原信充自身の系譜も『百家系図稿』巻18に記載される。

  栗原信充の所蔵本や遺著類は皆滅失して現存しないといわれる。すなわち、これらの書籍類は信充の没後、その長男信晁(のぶあき)(1869年に父より早く死去)の子、信和(1851〜1918)に受けつがれたが、その頃栗原家は居所を転々としていたこともあり、散失なく保存するという配慮から、明治7年頃中島一三(信充門人で島津久光公侍臣)を通じて久光公に送呈し、永く鹿児島城の倉庫に保管できるよう措置した*2。ところが、この配慮が却って仇になり、明治10年に西南の役の兵火にかかり、二の丸の倉庫において焼滅してしまい、栗原家には遺著の一つも残っていないと信和氏が語っている(『国学者伝記集成』1460頁)。信充翁の書籍類は大櫃ひとかつぎ分あったといわれ、この滅失が極めて惜しまれる次第である。
 真年翁の先学が蒐集した系図資料も、真年の著作に多く引用されている。おそらく、これは栗原信充ではなく、真年翁自身により謄写されて所蔵していた資料ではなかろうか。そのような先学とみられる人々に、加藤直臣、田畑吉正、村松茂樹(精一郎)、三宅樗雲、栗田寛といった人があげられる。例えば、『鈴木叢書』巻之13所収の「坂戸金剛家系図」は継体天皇に始まり応永の坂戸孫太郎氏明までの酒人真人氏の系図であるが、氏明の横に「永禄八年二月日 金剛兵衛尉氏正 花押」と記し、末尾には「右本三宅樗雲蔵本写了」とある。なお、この系図に続けて、坂戸孫太郎氏勝(氏明の父)から始まる「坂戸金剛家」の系図も掲載されており、「右者以金剛唯一家本写之 明治三年十一月八日 眞年」と記される。
 また、真年が書肆から購入した書としては、「伊香宿禰系図」「石州益田家系図」などがあり、前者は柳原書舗店、後者は江戸書舗播磨屋という名が記されるが、こうした例はあまり多くない。

 
 三 社寺の所蔵していた資料

  神社又はその社家の所蔵する文書は真年翁の資料源として重要なものであったが、神社に比べ、寺が所蔵する系図で真年が収集したものは多くない。それでも長門の厚東氏や武蔵の五十嵐氏の系図が寺の所蔵する文書にあったと記される。前者は厚東郡の東隆寺・妙音寺に、後者は府中の善明律寺に所蔵のものと、『諸氏家牒』『諸氏本系帳』に見える。
  『列国諸侍伝』には七十余の社家系図の名が記され、『松柏遺書』にもこれとかなり重複する形で多数の社家系図名が記されるが、これに止らない模様である。これらのなかには、信濃の諏訪大社、伊豆の三嶋神社、肥後の阿蘇神社、出雲大社、大和の大神神社、尾張の熱田神宮などの社家の系図のように、他の学者によっても紹介されたものもあるが、真年翁のみが紹介・記載しているものも数多い。

  まず、真年翁がその著作の中で掲載している例をあげる。真年が社家系図についてその出典を示さずに内容を記している例は多いが、出典を示している例は多くない。そうした少い例ではあるが、『諸氏家牒』の「紀伊国牟婁郡海神社祝笠嶋系図」がある。この系図は熊野の海神社の神主小原筑前家本を底本としており、明治元年に熊野三所預であった真年が校合したものである。
 また、『若狭武田鹿島香取大宮司相模軍荼利(ぐんだり)常陸平岡土佐吉良山本系図』(その謄写本が東大史料編纂所に所蔵)に掲載される軍荼利系図には、相模国高座郡の御石明神神主軍荼利家に所伝の系図であることが記される。
  筑波大図書館蔵の『斎部宿禰本系帳』は、安房の洲宮神社の祠官小野義久家の所蔵本を明治4年5月に兵部省の被官であった真年が謄写したものであり、『日吉社司祝部系図』『神氏系図』(尊経閣文庫蔵前田本の真年による写本)など、真年の手による写本もかなりある。『宇都宮旧神官系譜』(中里宗品誌)も、東大史料編纂所に謄写本が所蔵されるが、真年によっても忠実に謄写されて『百家系図』巻44に収録される。真年と宇都宮旧神官の中里千族(宗品の義弟)とは交流があった。

  昭和54年に刊行された『甲斐国一之宮浅間神社誌』(
鎌田純一著)の史料編によって紹介されて、佐伯有清、田中卓、溝口睦子の諸氏により注目され、その史料性を高く評価されている同社祠官古屋氏の系図(『古屋家家譜』)は、既に明治期に鈴木真年によって多少とも採録された可能性もある*3
  その系図研究仲間・中田憲信の関係資料である明治期の『諸系譜』(
その第4冊、第6冊、第9冊、第25冊、第31冊に記載)及び『各家系譜』六においては、『浅間神社誌』に記される宗家分に加えて支流の諸家の系図も多く記されている。田中卓博士によると、昭和59年2月古屋真孝宮司に『古屋家家譜』を拝見させていただいたが、明治時代の新写本であり、そのもととなった古写本を探して貰ったが、見出すことが出来なかったとのことである(田中卓著作集6『律令制の諸問題』163頁)。私は残念ながら、同家譜を実見していないが、当初、明治新写本が真年翁の手になる可能性もあるではないかと考えていた。(しかし、後ほど、田中博士より当該コピーの一部をいただいたところ、真年とは別人の筆らしいとが分った
  これら真年翁によって紹介されている系図類を、他の学者等による紹介のものと比較対照してみると、前者が何ら改変造されていない忠実な謄写であることがわかる。『古屋家家譜』についていえば、前掲の中田憲信関係史料の方が明治新写本よりもむしろ正確で詳しい部分がみられる。
  こうしたことから、「鈴木真年が関与しているので、充分な史料批判が必要である」と考えるよりも、むしろ「真年が関与しているので、原典がどこかにあった筈である」と考えてよいのではなかろうか。もちろん、誰が関与していても十分な系図批判は必要である。先入感を排して、系図類一般に対してと同様に、個別の系図に対して充分な内容検討が必要なことはいうまでもないということである。

  最後に、真年の現存する著作・所蔵本には掲載されていない社家系図の主要なものを、将来再発見されることを期待してここにあげておきたい。

  摂津国坐摩御巫家系図  凡河内宿禰
  吉備津宮検校大公文家系図  品遅君
  下総船橋神家冨氏系図  伴冨宿禰
  越後国沼名川社家榊氏系図  道公
  周防国玉祖神社家土屋氏系図  玉作部
  武蔵国阿伎留社神主阿留多伎氏系図  玉作部
  筑前国志加神社宮崎家系図  阿曇連
  美作国二宮神主家系図  漆部宿禰
  河内国枚岡神主家系図  中臣平岡連
  大和国春日梅木氏系図  釆女朝臣
  加賀白山神主家系図  上道朝臣
  能登一宮神主家系図  羽咋公
  熊野新宮三党系図  穂積臣、榎本連、丸子造
  香取大禰宜系図  中臣連、矢作連
  武蔵国氷川物部氏系図  物部直
  厳島社家棚守氏系図  佐伯朝臣
    など。

  これらの系図類に関し、都下あきる野市に鎮座の阿伎留神社については、現神主阿留多伎弘氏に現存する家伝資料を私は拝見させていただいたことがあるが、簡略な歴代の名前の記述に過ぎず、真年翁のいう玉作部姓の系図ではなかった。また、糸魚川市鎮座の沼名川社家の榊氏を訪ね、現在まで伝来する系図資料を拝見させていただいたが、ここにも簡単な歴代神主夫妻の名を伝えるものしかなかった。加賀の白山神主の系図も平安後期以降のものが紹介されている。また、最近の宇井邦夫氏の情報によると、「熊野山新宮社家惣系図 榎本宇井鈴木三党系図」があり、内容が紹介されるが、これには平安中期頃からの人々しか見えない。
  明治初期に氷川神社の祠官家(
岩井、東角井家)が提出した「武蔵国一宮氷川神社書上」が『埼玉叢書』第三に所収されているが、そのなかには真年翁のあげる「武蔵国氷川物部氏系図 物部直」は見当らない。そうした系図類の散失をきわめて残念に思う次第である。
 また、最近分かったことであるが、東博所蔵の憲信編著の『神別系譜』には、釆女朝臣の系図記載が見られるから、真年との史料共有があったのかも知れないが、ほかは所在不明である。
 

 
四 真年の職務を通じて獲た資料

 真年はその生涯のなかで、文庫・図書館の関係の職務や、文庫等を利用しやすい職務についていたことがままある。
  まず、慶応元年(1865)35歳のとき、紀州藩の藩士となり、系譜編輯事業の任についたが、熊野本宮に居住し、同時に熊野神社の事業にも参画した。先に記したように、明治元年頃に熊野三所預という職にあり、明治2年紀州藩を去ったが、それまでに紀州藩(南葵文庫など)や熊野三社の所蔵文書類に精通したものと考えられる。

  次に、明治四年(
1870)41歳のときから同六年まで、宮内省に転じ、内舎人・雑掌の任にあったが、このときに皇居(宮内庁書陵部につながる)に伝えられていた多数の史料や系図類と接したことが考えられ、さらに、同七年には司法省の官員であるとともに、浅草蔵前の文部省所管の図書館員も兼務していた。
  明治21年58歳のときには、東京帝国大学において大日本編年史の編纂事業(総裁重野安繹)に従事したが、これは同24年まで続いた。このときにも現在の東大史料編纂所に所蔵されている資料類を利用できたものと考えられる。

  以上の様々な機会を通じて、真年は多くの古文書・系図類と接触し、その鑑識力を高めたものとみられ、明治の華族(
大名家、公家等)の系譜に関する真年の著作『華族諸家伝』はこうした過程で生み出されたものといえよう。
  真年はその職務等を通じて多くの知己を得たようであり、そのなかには元長州藩士山田顕義(生没が1844〜92)、元土佐藩士土方久元(同、1833〜1918)など貴重な系譜を伝えた家の人もいる。土方久元は宮内大臣をつとめて伯爵となったが、その伝記『土方伯』(菴原鉚次郎等著、大正2年)には同家に伝わる「土方家系図」が記載される。応神天皇の皇子大山守皇子から始まる土形公氏の系図は真年翁も知っており、『百家系図』巻廿には、上古部分を欠くが慶長頃の土方半三郎久則まで記す系図が掲載される*4
  このほか、多くの旧士族家に伝えられた家譜と巡り合ったのではないかと考えられる。例えば、『諸氏家牒』に所収の「鈴木尾州」の末尾に「右尾州家人鈴木猪大夫家本」と記され、『諸国百家系図』に所収の「倉垣系図」の末尾には「三州吉田藩倉垣喜八郎家本」と記されている。



 
 〔註〕

*1
そうした市中散失の一例として、家系研究協議会の中田みのる氏から、京都の古書店で購入したという『鈴木氏系図』(江戸末期頃までの旗本鈴木氏の系図)を呈示されたが、筆跡からみて鈴木真年翁の手になることは間違いない。その表紙には、「沼田文庫」の判が押されていて、明治大正期の紋章学者で『日本紋章学』の著作で名高い沼田頼輔(1867〜1934)の文庫に一度収まったことが知られ、そこから市中へ出たものとなろう。

*2
 鹿児島の玉里文庫には、栗原信充著『職原抄私記』が所蔵されるが、慶応4年(1868)に薩摩藩によって刊行されたものである。信充は元治元年(1864)72歳の時、鹿児島に招かれ、島津久光の知遇を得たという事情がある。その死没は明治3年(1970)、京都であった。 

*3
 真年翁が『古屋家家譜』を見知っていた模様であったことは、その著作の『華族諸家伝』(明治13年刊)の池田章政条の記述を示せば理解されよう。このほか、『苗字尽略解』『史略名称訓義』にも『古屋家家譜』に基づくと見られる記述がある。

*4 『百家系図』巻20に所載の系図では、上古部分を欠くが、『土方伯』所載の系図は応神天皇から始まっており、この前半部分はもともと土佐の土方家で所蔵していたかどうかは確認できない。あるいは、真年翁が関与して、武蔵国三沢村居住の土方氏に所伝の系図を接合した可能性もないわけでもない。
 すなわち、土方久元が鈴木真年翁と交友関係があったので、何らかの形で系図に真年の手が入ったことも可能性として考えられるが、仮にその場合でも、真年が余所から入手した上代部分を附記したくらいではなかろうか。武蔵国多摩郡土淵荘三沢村には土方氏の分流(
三沢氏ともいう)がおり、この系統の系図が真年の『百家系図』にかなり後世の人まで記載されるからである。『新編武蔵風土記稿』には、三沢村の土方氏が「家に古文書を蔵す」と特記される。

   (続く)



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