五 越中国石黒氏の研究 1「越中石黒系図」の検討
昭和40年8月、富山県西礪波郡福光町の町史編纂委員会は「越中石黒系図」を謄写したが、この系図は東京都練馬区に居住していた故石黒定治氏の家に伝えられたといわれ、その内容の貴重なことは、佐伯有清氏(『古代氏族の系図』所収の「利波臣氏の系図」)、磯貝正義氏(『郡司及び釆女制度の研究』)、米沢康氏(『越中古代史の研究』所収の「郡司利波氏の実態とその特質」)、米田雄介氏(『古代国家と地方豪族』)などの研究から認められている。 その原本は昭和9年3月当時、定治氏が居住していた函館市の大火で焼失してしまったといわれ、定治氏の叔父である良房氏が明治の末年に原本を忠実に写しておいたとされる系図が良房氏の孫の治男氏の家に残されている。この系図が研究の対象とされているわけである。
ところが、石黒氏の系図としては利仁流藤原氏の流れとする別本がほかにあり、「越中礪波郡石黒氏系」があげられる。同系図は石黒武重氏の所蔵にかかるもので、その弟の山口大学名誉教授石黒秀雄氏は、「越中石黒系図」について大きな疑問を有し、『石黒氏の歴史の研究』(私家本、1993年)という著作をまとめられた。この段では、石黒秀雄氏の御教示・指摘をふまえつつ、「越中石黒系図」の由来や信頼性を検討してみたい。
この「越中石黒系図」が何故鈴木真年と関係あるのだろうか、との疑問がまず生じよう。それは、尾池誠氏が既に次のように指摘しているからである(『埋もれた古代氏族系図』昭和59年11月、41頁)。
「……その系図の写真を見ると、明らかに 鈴木真年自身の筆蹟であることが読みとれる。従っておそらくはこの系図は子孫である石黒氏に伝えられたものではなく、早くから石黒氏の手をはなれていたものを、鈴木がどこかで発見し、その写しを清書して石黒氏に献贈したものではないかと推測されるのである。」
私自身も、石黒秀雄氏が同姓治男氏より昭和60年3月に受領した系図のコピーを現実に拝見させていただき(後日そのコピーを恵贈された)、真年自身の筆蹟であることを確認した。これによって、明治末年に石黒良房氏が忠実に原本を写したという所伝は誤りであることがわかり、この系図の信頼性にやや陰をさしたこととなった(函館市の大火で原本が焼失したというのも、石黒武重家所蔵本と併せ考えると、おそらく事実ではなかろう)。
さて、石黒秀雄氏のいくつかの疑問に対する考え方を示すことで、「越中石黒系図」を検討してみることにしたい。
疑問の第一(この整理は宝賀による)は、歴史上実在性に疑問のある、古代の第8代孝元天皇を始祖とし、ついで武内宿禰の後裔とするのは疑わしく、後世に天皇系譜と結びつけた作為があるとするものである。しかし、孝元天皇や武内宿禰について単純にその実在性を否定できるものではなく、武内宿禰の超長寿も、その当時の天皇の治世期間が記紀の原型を編纂した時代(おそらく6〜7世紀)に再編纂された結果であろう。利波臣の武内宿禰以降の系図は、木曽義仲に従った石黒太郎光弘まで、私の設定した「標準世代」にほぼ合致しており信頼性があるのではないかと一応考えられる*5。
また、「越中国官倉納穀交替帳」に記載のある利波臣氏の名との整合性があることは、佐伯有清氏などの指摘するところであり、同交替帳を基礎に利波臣氏の系図を作為・造作したとする考えは、同系図が「標準世代」(『古代氏族系譜集成』18〜19頁参照)とよく対応していること等からいって、まず考えられない。系図の偽作は、「造作説」がお得意な津田亜流学者や一般に考えられるほど、簡単なものではないのである。 だいたい、同交替帳は近江国石山寺に「残巻」が保存されているが、現地の越中には残っていないし、江戸末期頃までこれがどこまで知られていたものだろうか。そして、仮に、「残巻」の内容が知られていたとしても、利波臣氏らが武内宿祢の後裔だとは、記紀・『姓氏録』などの史料に見えず、どのように歴代を入れて系図をつなげたと言うのだろうか。『古事記』には、若子宿祢は江野財臣の祖とだけ見え、高志の利波臣のほうは、孝霊天皇の皇子の日子刺肩別命の後裔にあげられる。これを、『古事記正義』の著作まである鈴木真年が若子宿祢の後裔に置くはずがない。「越中石黒系図」には若子宿祢の後裔に「道公」をあげるが、『姓氏録』右京皇別に道公は大彦命の後裔で阿倍氏族と見え、『古事記』にも大彦命が「越国造」を含む七族の始祖と見えるのだから、これらを無視して真年が造作したなど考えられない(真年は、その著『史略名称訓義』で「道首名」に註記して、「道君姓也大彦命孫彦屋主田心命ノ後ナリ」と現に記している)。 また、真年の系譜学研究の同好の士、中田憲信が、その著『皇胤志』に「越中石黒系図」とほぼ同様に、若子宿祢の子に若長宿祢、大河音宿祢をあげて、各々に「道公・味直公等祖」、「定賜伊弥頭国造」と記している。もし仮に、真年が「越中石黒系図」を偽造したのだと知っていたら、そんな偽造記事は入れるはずがなかったろう。 当該交替帳の「残巻」が記すのは、奈良時代から平安時代前期までの利波臣一族の一部の人々であり、 「越中石黒系図」はその後も長く歴代を続けて戦国時代末期頃の世代までの系譜が記される。こんな長い期間の膨大な系譜を、どんな系図偽造の天才が、何時、どこの地で造作できたというのだろうか(幕末頃までの鈴木真年の国学歴と年齢を考えたら、書写だけならともかく、彼に偽造の能力があったとは到底思われない)。利波臣及び中世・石黒氏の系図には、記事に特段の不自然さがないのだから、しかも、系図全体は幾つかの段落に分けて考えられる(富山県の研究者が指摘し、私見でもそう思う)のだから、石黒氏一族のどこかの家に長期に保存され、適宜書き継がれて戦国末期までの記載に至ったとしか、考えようがない。仮に、これが後世の偽造だとしたら、どのような利益のために、誰がどのようにして造ったのだろうか。「偽作説」は具体的な立証のない想像論としてしか、評価しようがない。 疑問の第二は、「越中石黒系図」の末尾五世(明応の光清から藤兵衛光増兄弟までの五世)の部分について、中世資料と照してみると、その記事には偽造があるとすることである。この点について、石黒秀雄氏の指摘にはかなり説得力がありそうである。しかし、それはその部分が疑問であるということにすぎず、この時期の所伝・系図が複雑に残っていて(後述)、古代部分の否定に及ぶものではない。真年が関与した『良峰系図』(前掲)にも、末尾の二世部分(前野勝長とその子・定長の世代)について疑問があるが、それより前の系図についてはほぼ信頼性があるのではないかとみられるという例もある。
疑問の第三は、利仁流藤原氏とする「越中礪波郡石黒氏系」との関係である。秀雄氏の調査によると、定治・治男氏の家系は、武重・秀雄氏の家系とは本来同族(木舟城主左近蔵人成綱の一族、九郎左衛門成栄の系統で、金沢藩主前田氏の家臣)であり、江戸時代初期に分岐している。この両家の関係は次に示す〔分岐系図〕の通りである。
本家筋にあたる秀雄氏の系統には藤原姓利仁流の系図しか伝わらなく、しかも治男氏系統の系図には中世部分に偽造と見られる点があるので、前者に伝えられる藤原姓の系図が妥当であると秀雄氏は考えている。
しかし、平安中期以降、上代の名族の遺跡を藤源平などその時代の名族の者が養子となって継ぐ例や、逆に、上代の名族の後裔がその時代の名族の養子となる例がままみられることである。その場合、継承者や当該養子の後裔の家には二系統の系図が残されることになる。そうした好例として、石見津和野藩の大名家亀井氏の例があげられる。
大名家亀井氏は、上代の穂積臣姓亀井能登守秀綱の跡を、その外孫女を妻とした、宇多源氏姓と称する湯新十郎国綱(後に矩と改名)が継いで、その藩祖となったものであり、明治になって亀井氏が政府に呈出した『亀井家譜』(東大史料編纂所蔵)には、穂積氏及び宇多源氏の二つの系統の系譜が記載されている。
このような例は、下野の那須氏(那須国造の跡を称藤原姓の者が継ぐ)、近江の蒲生氏(蒲生稲置の後裔が藤原秀郷の後裔の養子となる)、相模の波多野・松田氏(佐伯宿禰の後裔と称する者が藤原秀郷の後裔の養子となる)などで見られるものであり、石黒氏に二系統の系譜が残されたのは、これらと同様な事情があったのではなかろうか。従って石黒氏の二系統の系譜は、所伝としてはともに正しいものではないかとも考えられる(ただし、実系としてみれば、利仁流藤原氏は疑問が大きい)。その場合、「越中石黒系図」には何ら具体的な記載がないが、@石黒太郎光弘は藤姓光景の子で、利波臣石黒光興の養子となったこと、A光弘の父、光興が藤姓の光景と同人であること、のいずれかのケースも可能性として考えられる。ところが、詳細に検討を加えたとき、意外な姿が浮び上がってきたのである。このことは次項で記述することとしたい。
疑問の第四は、「越中石黒系図」の巻頭最上端に「皇孫部」の書入れがあることである。このことから、同系図は系図書の原稿、写本のコピーのようであり、贋作系図であることを示すものではなかろうかという疑問が生じる。
私もこの指摘は重要であると考える。この「皇孫部」という表現は、真年編の『良峯源氏猪飼系図』(東大史料編集所に謄写本あり)に「皇孫部 良峯大江在原源 近衛舎人新田源朝臣武智良編集」と記されることと軌を一にしている。おそらく、石黒治男氏蔵の「越中石黒系図」は、真年の編集した系図集(残念ながらその全体は滅失したか)の一部分であり、実物を見ていないが、真年自筆本そのものか、そのコピーであろうと考えられる。しかし、これは直ちに贋作系図とされるべきものではない。
中世部分の後半には、石黒秀雄氏の指摘する問題があるものの、系図尻付の記事内容等から考えて、巻頭から南北朝期の応安(1368〜75)頃の光雄まで、或いはその曽孫で長享(1487〜89)頃の光任まで、はほぼ信頼してよいのではないかとみられ、少くとも木曽義仲に従った石黒太郎光弘までの部分の信頼性は高いものと考えられる。
『富山県史』通史編U中世では、執筆者の楠瀬勝氏が「越中石黒系図」の成立について、記述が数次に分かれていたようであると記す。すなわち、「まず南北朝以前の記事は十四世紀末から十五世紀初頭に記され、それ以後の記事は近世に入って書かれたのではないだろうか」、あるいは「十四〜十五世紀成立の第一次系図をもとに、その後の部分を書き継いだものであったのかもしれない」と考えている。さらに、同系図が「中世末期に至るまで一方の石黒惣領家の地位を保った石黒又次郎家の系譜であろうと思われる。けれども、中世末期に優勢となった石黒成綱の系譜に吸収されるようにして、近世における系図編纂段階で、この家系もまた石黒左近成綱に結びつけられたのであろう」とも考えられている。 戦国期の石黒氏最後の木舟城主は石黒左近であり、はじめ上杉謙信に属したが、その没後に信長に属し、天正9年(1581)に長浜に呼ばれて信長の命により丹羽長秀に討たれている。この左近の実名について、「越中礪波郡石黒氏系」は左近蔵人成綱としており、一方、「越中石黒系図」では左近丞光治として、大きな相違がある。金沢の石黒伝六家所蔵の『石黒家由緒書』*6等にも木舟城主として左近蔵人成綱の名が見えるなど、歴代は「越中礪波郡石黒氏系」と同じであって、その意味で前者系図のほうが穏当のようである。
しかし、上掲『富山県史』に記すように、石黒系図には良本がなく、戦国末期にも石黒惣領で石黒上郷(福光)の又次郎光直系統と木舟城の左近蔵人成綱系統があって、惣領光直系統が庶子家成綱系統に吸収されるという系図操作が近世になされた模様であって、極めて複雑である。近江長浜で誅殺された人物も、庄城の石黒与三右衛門とする所伝(「寛文十年書上帳」)がある。『肯構泉達録』には「貴布祢ノ石黒左近光治」と見えて、これは「越中石黒系図」と同じ表記である。こうして見ると、各々の系図に一長一短があり、どちらかに決めがたいものがある。 以上、石黒秀雄氏のあげる疑問点を検討してきたが、「越中石黒系図」の全体はともかく、古代部分の信頼性を否定するものではないといってよいのではなかろうか。これが現時点での総合判断であり、さらに様々な角度から検討を加えていくことも望まれる(その後の話もある)。
それでは、「越中石黒系図」の原典はどこにあったのであろうか。私も、先に紹介した尾池氏の見解と同様に、定治氏のもとにその謄写本があったとしても、この系統に本来、伝えられたものではないと推測している。また、富山や金沢に残る石黒氏関係史料にも、種々当たってみたが、「越中石黒系図」に相当するような古代に遡る史料はなかった*7。
現存する数多くの真年関係資料のなかで、石黒氏がとりあげられるのは、管見では唯一つで、尾張に遷住した石黒氏(改氏して長谷川氏)である。この系統は石黒太郎光弘の子(世代等から考えると「孫」の可能性もある)とされる二郎光時の流れであり、光時の六世孫にあたる長谷川大炊助重行(永享八年十二月十日卒)が尾州春日井郡如意村に居住したことは『諸系譜』(国会図書館蔵)第30巻の石黒系図に見え、『尾張志』や『下伊那郡誌資料』に同様の記事がある。
長谷川重行の後裔は尾張出身の前田家に従属してその家士となり、加賀国金沢に移住した数家があると秀雄氏はいわれる。『諸系譜』に記載する石黒・長谷川氏の系図は利仁流の光景の子に石黒太郎光弘をおくが、この系統に「越中石黒系図」も併存して伝えられたのではないだろうか、と私は推測する次第である。
『諸系譜』所載の石黒系図によると、長谷川重行の父を石黒越中守重之とするが、『遠江国風土記伝』によると、宗良親王が射水郡名古浦(新湊市)の石黒越中守重之の館に興国3年(1342)から同6年にかけて滞在したことがわかる。但し、年代と石黒系図を照して考えると、この石黒越中守は重之の父の重定とした方が妥当であろう。
長谷川重行はもと越中の南朝方であり、信濃宮(宗良親王)に忠あったと『尾張志』に記されており、応永末期(同31年には既に尾州山田郡にあったが、この年か)に宗良親王の系統の南朝皇族(尹良親王及び尹重王)の動向に応じて尾張国に至ったものではないかと考えられる。この人の世代は、「越中石黒系図」の応安頃の光雄とその曽孫で長享頃の光任との中間に位置するものであり、先に同系図で信頼されうる部分を示したところとほぼ一致している。
このほか、備中岡山藩士に石黒氏があり、幕末・明治まで家系が続くが、岡山藩士の家系を保存する資料館には、江戸時代の藩士しか記されない。また、和歌山藩士の石黒氏もあったが、これらのうち問題の「越中石黒系図」が伝えられたとしたら、岡山藩士家ではないかと拙見ではみている。それが、なんらかの形で石黒治男家にも、もたらされたのではなかろうか。 2 越中石黒氏の出自
既に述べてきたように、石黒氏には二様の系図があり、その二様とも一見、正しいようである。まず、その二通りの系譜の概略を掲げる。 なお、この系図に記す林、富樫氏の祖・吉宗については、『尊卑分脈』では吉信の子の忠頼の子に記すが、国史大系本の上注に記すように「正宗寺本諸家系図を按ずると上文の叙用の子」と考えるのが正しいようである。世代的な検討からそう考えられ、また、それでこそ『尊卑分脈』の吉宗の左註「始住加賀国」も生きてくる(ただし、林、富樫氏を利仁流藤原氏とするには多くの疑問があり、本来は古族〔道君か〕後裔とするのが妥当ではなかろうか)。
当初考えたように、二様の系図がともに正しければ、「越中石黒系図」の石黒太郎光弘と『尊卑分脈』の左兵衛尉光弘とが同一人として合致するはずである。ところが、それに疑問を抱くようになったのは、『源平盛衰記』などに石黒太郎光弘に左兵衛尉という表示がないこと、『尊卑分脈』に叙用以下の年代の記載がないものの、左兵衛尉光弘の時代は石黒太郎光弘より一世代分だけ後ろに位置するのではないかという事情からであった。更に、『尊卑分脈』に左兵衛尉光弘の五世の祖・為輔を「石浦五郎」と記すのに対し、「越中礪波郡石黒氏系」が「石黒五郎」と記し、前者が為輔の子・忠言を「河崎大夫」と記すに対し、後者が「石黒大夫」と記すなど、両系図は微妙に異っているのも疑問である。 「越中石黒系図」では石黒太郎光弘の兄弟を何ら記さないが、「越中礪波郡石黒氏系」では、光延(高楯次郎)、成興(泉三郎)、安高(水巻四郎)、光久(福光五郎)の4名の兄弟を記している。この4名は、石黒太郎光弘とともに『源平盛衰記』にその名が見えるので(ただし、泉三郎、福満五郎は実名が不記載)、「越中礪波郡石黒氏系」はこの部分がほぼ正しいとしてよかろう*8。そうすると、太郎光弘が養子であったことは考え難く、また、泉三郎成興の父の名としては、「石黒氏系」の光景よりは「石黒系図」の光興の方が適切ではなかろうかと考えられる。
石黒太郎光弘の兄弟の苗字である高楯・泉・水巻・福光は、いずれも礪波郡の地名に因るもので、石黒とともに越中の井口(いのくち)氏の一族として知られる。従って、井口氏を探求することが、石黒氏の出自の謎を解く手がかりになるように思われる。そして、『姓氏家系大辞典』のイノクチ条(同書500頁)は『越登賀三州志』の興味ある記述を引用しているので、その記述を紹介する。
「井口三郎光義は越中にて中古諸士の祖、其先斎藤氏より出づ。石黒、高楯、野尻、福満、向田、泉、水巻、中村、福田、吉田、鴨島、宮崎、南保、入膳、皆是れ井口氏の庶流。其中、宮崎、石黒は嫡流にして、惣て二十四家、井口氏に属すと云ふ。富樫家譜に利仁将軍の嫡子太郎、越前に住して斎藤氏を起し、二男次郎、加州に住して富樫氏を起し、三男三郎(光義)、越中に住して井口氏を興すとあり。然れば此井口三郎は越中井口郷に住し、郷名を以て氏と為す也。」(『三州志』礪波郡条)
「石黒氏は、もと井口氏の流れ也」(同書、礪波郡木舟条)
この『三州志』の記述のうち、利仁将軍の三男が越中に在って井口と云うとするのは明らかに誤りである。『尊卑分脈』でみると、利仁将軍の三男はおろか、利仁の後裔に、井口氏も井口光義も見えないからである。但し、利仁将軍の子・叙用の長男の系統から斎藤氏が、次男の系統から富樫氏が出たと記載されており、こちらの部分は必ずしも誤りとはいえない*9。(前掲の系図を参照のこと)
それでは、井口氏を中心とするこれら苗字の集団はどのような氏族に出自しているのだろうか。そのヒントは『列国諸侍伝』にあることに最近私は気づいた。
『三州志』に掲げる井口氏と石黒以下鴨島までの14氏は越中国礪波郡の地名に因るもののようであり、宮崎、南保、入膳(入善)の三氏は同国東部の新川郡の地名に因るものである。そして、『源平盛衰記』『平家物語』等から宮崎・入善は密接な同族関係にあること(例えば、「宮崎太郎が嫡子入善小太郎安家」など)が知られる。
『列国諸侍伝』は、越中の宮崎氏について、その出自を「射水直(ママ)」と記しているのは極めて注目される。この射水直(「直」は「臣」の誤記か)は、利波臣の本宗家である射水国造(伊弥頭国造)の後裔である。そうすると、中世に至るまでは射水国造の一族は越中国にかなりの勢力を持ち、射水臣*10の系統としては同国東部の新川郡内佐味荘・入善荘の宮崎氏のグループ、利波臣の系統としては同国西部の礪波郡内石黒荘の井口・石黒氏のグループがあり*11、お互い同族意識を相互に持っていたものと考えられ、宮崎氏も藤原姓を称したとされる*12。新川郡宮崎邑に拠った宮崎太郎(長康)は木曽義仲に従って活躍したが、その孫・左衛門尉定範が承久の変のとき官軍に属して破れ、その後は大きく衰えた。
このように越中武士団を考えるとき、井口氏の祖・光義は石黒光久の近親かあまり遠くない先祖(年代不明だが、光久の兄という可能性もあろう)に位置づけられよう。また、『源平盛衰記』養和元年条には「越中には野尻、河上、石黒の一党」と記され、野尻も河上も礪波郡の地名であるので、井口・石黒氏の同族と考える太田亮博士の見解は妥当といえそうである。
上代の伊弥頭国造一族の後裔はこのように越中国に繁衍していたことが知られる。その一方、井口・石黒の一党を除くと称藤原姓の有力豪族は、古代末期では越中国に見られないので、石黒氏の祖、太郎光弘はやはり利波臣とするのが妥当である。古代末期に藤原姓を称しても、それが実際に中央の藤原氏の出であったことにはならないのである。「越中石黒系図」に、石黒光弘について養子関係の記事がないのも、光弘が光興の実の子であったからではなかろうか。石黒太郎光弘は左兵衛尉光弘とは別人であり、石黒氏の系譜を左兵衛尉光弘に結びつげたのは中世の仮冒といわざるをえない*13。『尊卑分脈』では、左兵衛尉光弘の後は一切、記されず、また石黒関係の記事も光弘の周辺には見えないこと(その苗字も光弘の曾祖父忠言に記される「河崎」か)に留意される。
しかし、「越中礪波郡石黒氏系」は、石黒太郎光弘とその兄弟の世代以降はほぼ正しい伝承を伝えているのではないかとみられる。同系図がこの「光弘」という名を結節点にしているのは、石黒太郎光弘が小矢部(おやべ)川の上流域の福光の地から、同川中流域で礪波平野の中央に位置する木舟城(西礪波郡福岡町木舟。小矢部川の南岸にある)に遷住した*14、いわば中興の祖とされるからであり、『源平盛衰記』に記されるように石黒氏の中でも著名人であったこと、偶々利仁流と称される加賀の石浦氏(加賀国石川郡石浦に因る氏。石浦は現・金沢市の一部)の一族に、太郎光弘とほぼ同世代の人として左兵衛尉光弘という同名の人がいたという事情に因るものであろう。
「石黒氏系」には、もう一つ注意しておきたい点がある。それは、この太郎光弘から南北朝時代に桃井直常と相争った九郎入道光吉までの世代数が多すぎることである。光弘と光吉との間の世代数は実際には4〜5世代程度でよいにもかかわらず、同系図は7世代を記しているので、3世代ほど兄弟関係を父子関係に記している可能性が強い(おそらく、光成と成秀、秀政と光政、光重と重高は兄弟ではなかろうか)。
以上で、石黒氏の系図の検討を一応、終えることにするが、確認できることはあまり多くなかった。同氏は七流あったといわれており、それらの系図が今後明らかになり、新たな事実もわかってくることを期待する次第である。
〔註〕
*5 利波臣は,『古事記』孝霊天皇の段に、日子刺肩別命の後裔で、国前臣(国前国造)五百原公(庵原国造)・角鹿海直(角鹿国造)と同族、すなわち吉備臣の一族とする記事があるが、吉備関係系図には利波臣は見えず、孝霊記の誤記と当初、私は考えていた。 佐伯有清教授(『古代氏族の系図』所収の「利波臣氏の系図」)は、「越中石黒系図」の大河音宿禰から波利古臣までの三代の世系には疑問があるとし、「もともと波利古臣以前の人名は、利波臣氏において伝えを早くから失っており、射水臣の伝えていた大河音宿禰に利波臣氏がその系をのちに結びつげた結果、このあたりの世系があいまいなものとなっているのであろう」としている。その考え方の基礎として、@「利波臣の始祖は、もともと利波地方に勢力をもっていた豪族であって、天皇系譜とは無縁のものであったことは、他の地方豪族と同断である」と考えること、A成務朝の人とされる大河音宿禰から継体朝の人とされる波利古臣まで僅か三世代でしかないこと、があげられる。
しかし、大河音宿禰の時代の表記に誤伝があったとすれれば、全てにおさまりがよくなる。大河音宿彌の時代は世系の前後から考えて、履中・反正・允恭朝とするのが妥当ではあるまいか。この一族が伊弥頭国造ということで、その国造設置の時期について後世に記憶を失い、多くの国造が設置されたと伝えられる成務朝とされた可能性も考えられる。というのは、「越中石黒系図」に射水臣・利波臣の同族として記される江沼国造の設置年代が「国造本紀」に柴垣朝(反正天皇朝)と記されており、おそらく伊弥頭国造もそれと同じ時代に設置されたものではないかと考えられるからである。
このように考えてみると、武内宿禰から波利古臣を経て財古臣に至る利波臣の初期の系図には、世代的な疑問がなくなる。そして、具体的な疑問がない以上、利波臣が天皇系譜に後世附会させたと推論するには無理があるのではないか、と当初考えていた。
その後に再考するに、江沼臣と武内宿禰につなぐことは、やはり問題がありそうでもある。その事情を簡単にしておく。
平成5年(1993)7月に富山県に着任して現地に住むことで、県内地名の感覚がわかり、そこから利波臣と吉備氏族角鹿国造とを結ぶ存在として遊部君という氏に気づき、大河音宿禰とは、成務朝の人、大阿音宿禰(オホクマネ・大隅根命)のことで、角鹿国造の祖・建功狭日命と同人であることが分かってきた。従って、利波臣の実際の出自は、『古事記』に記されるようにやはり吉備一族ということになる。
*6 石黒伝六家は金沢市の福久屋薬舗を営む商家であるが、その先祖は木舟城主石黒成綱の一族で家老を務め成綱生害のとき殉じた石黒与左衛門光重とされるから、「越中礪波郡石黒氏系」と同内容の系図をもっていたのも不思議ではない。同家の家譜は福光史料採集に当たり、大正14年(1925)に採録されている。
また、富山県立図書館蔵(原本は高岡図書館蔵)の「石黒氏略伝」所載の島村住、石黒清右衛門家でも、「木舟の城主石黒左近蔵人成綱の家老石黒清右衛門」と表記される。
*7 金沢の石川県立図書館には、金沢藩家臣の系図集『諸士系譜』(津田信成著)があり、その巻一に掲載の石黒氏の系図がある。同系図は、越中木舩城主大炊助光教から始まり、その孫に九郎左衛門成栄(一に成家)が見え、また左近蔵人成綱は成栄と同世代の本宗であったが、世系に混乱があって成栄の従兄弟の子にあげられる。これに拠ると、左近蔵人成綱の系は、その子左近成重が金沢藩に仕え、その養子の左近重職に至って切腹断絶となったと記される。 *8 近藤安太郎氏は、『源平盛衰記』の記載と通字からいって、水巻四郎安高を石黒光弘の兄弟とすることに否定的であり(『系図研究の基礎知識』第二巻)、この見解に従うべきであろう。近藤氏が記すように、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高は兄弟と推測される。これらは皆、一族とみられる。 *9 『尊卑分脈』に記載の富樫氏の系図は、必ずしも史実通りではないようであり、信頼できる史料からは初期段階の裏付けができない。その祭祀や伝承等、様々な角度から考えたとき、実際の系譜は古代加賀地方の大豪族道君の末流とするのが妥当だと考えられる。拙稿「猿女君の意義」(『東アジアの古代文化』誌に掲載)を参照のこと。 *10 『三代実録』仁和2年(886)12月18日条に、新川郡擬大領正七位上伊弥頭臣貞益が見え、私物をもって官用を助けた功績により外従五位下を借授されている。後世に新川郡に勢力を持った宮崎氏の一族は、この後裔ではなかろうか。なお、射水臣氏の一族から、平安後期の文人、算博士三善為康(為長の養子)が出ている。 最近出土の木簡等から、射水臣氏は日本海沿岸の越後にかけて広く分布していたことが知られる。
*11 礪波郡の石黒荘は、福光町(現・南砺市)を中心領域としており、京都の御室円宗寺の所領として成立したが、在地の開発領主・下司として石黒一族があった。同荘の弘瀬郷の地頭藤原氏も石黒一族とみられ(『富山県史』通史編Uの25頁)、その関係中世文書が若干残るものの、中世の石黒一族活動の全体像を記す史料に乏しい。この辺の事情が石黒系図の信憑性の確認を妨げている。 *12 宮崎太郎の後裔と称する氏が信濃国伊那郡黒田村にあり、『北陸宮と宮崎氏』(朝日町発行、1970年)に引く『南信伊那史料』には「文治年間、藤原氏の分流宮崎太郎長康居住」と記される。太田亮博士も『姓氏家系大辞典』で、利仁流藤原姓と記している。 *13 近藤安太郎氏も同旨である(前掲書)。 *14 『富山県史』(通史編Uの42頁)に拠ると、木舟は小矢部川交通の要地であったが、石黒氏の「その地への進出は鎌倉後期をさほどさかのぼらないように思われる」と記されており、その場合には、石黒光弘の所伝にも疑いが出てくる。 「越中礪波郡石黒氏系」が石黒光弘の子の源五光俊・源六英光を祖とし、一方、「越中石黒系図」が二郎兵衛尉光宗を祖としており、この通称から見ると、後者のほうが本家筋にあたるようである。
(本項の部分は、2020.11.09に記事を大幅に増補したが、主旨は変わっていない) (続く) (内容は「六 明治の華族の呈譜」) 前へ戻る <追補> 利波臣氏と石黒氏に関しては、最近の論考を踏まえて 「越中石黒系図」の偽造問題 を検討し、掲上したので、併せて参照されたい。 (03.11.23掲上し、その後に追捕あり) さらに、最近は「利波臣氏のその後」の記事を追加していますので、併せてご覧ください。 |