六 明治の華族の呈譜

  『古代氏族系譜集成』を刊行した段階でいくつかの心残りがあった。その一つが故飯田瑞穂中央大教授(後に尊経閣文庫主幹)の次の一文であった。

 「明治時代に華族の諸家から提出された系譜を見たことがあるが、旧公家・旧諸侯出身の家の分はともかく、新たに維新の功績などによって華族の斑列に入った家の系譜の中に、他に所見のない珍しいものがあった」(
「郡評論争余談」『日本歴史』一九八三年十一月号

  そのため、『集成』刊行後の六一年夏に、思い切って非礼をわきまえずに、直接お尋ねしたところ、八月十日付で返書をいただいた。それによると、飯田教授があげた華族の系譜は、宮内庁書陵部に所蔵するもので、明治四〜五年に各家から提出されたものを綴じ込んであった厚冊の資料とのことであった。
  後日折をみて書陵部を訪ね、飯田教授のいわれる資料を探したところ、『続華族系譜』という綴がそれに該当するのではないかと思われた。ただ、その年代が明治末期から大正に及ぶ、いわば新華族の呈譜であるということで、他にまだ別のものがあるかもしれないが、他書に見ない貴重な内容がいくつかあるとともに、古代氏族の系譜の伝来について気づくことがいくつかあるので、順不同で簡単に紹介しておきたい。
 
(1)男爵大久保春野の呈譜明四〇・十・九

  大久保春野(
一八四六〜一九一五)は明治の陸軍大将である。大久保氏は、もと西尾氏と称し、遠江国見附の式内社淡海国玉神社の祠官家であり、相州小田原藩主大久保氏の一族という系図を持っていた。
  この系図は、孝昭天皇に始まる和邇部臣のもので、その後裔に駿河国富士郡の郡領家で浅間神社の祠官家の富士氏が出て、南北朝の頃に分かれたその支族から三河に行き松平氏に仕えた大久保氏が出たと記し、明治期まで至っている。注目すべきことには、この系譜の前半部分こそ、太田亮博士が『姓氏家系大辞典』(ワニ条の六六六一〜二頁、フジ条の五一八〇〜一頁、オホクボ条の一一三六頁)で引用している「和邇系図」である。
  太田博士は「駿河浅間大社の大宮司家は和邇部姓にして系図を伝ふ。真偽詳かならざれど、参考の為に引用せん」と記して紹介しているので、田中卓博士は、「原本を求めて、先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽して探して下されたが、遂に見当らなかった」と記している(「不破の関をめぐる古代氏族の動向」『神道史研究』六−五、昭三三年九月)。このように、同神社には所蔵されていなかったことで、太田博士が何から引用したかはこれまで不明であったが、「大久保春野家譜」をみて、その出典が判明したものである。そうした事情なら、富士宮市の浅間大社には「和邇系図」の形で伝わらず、『浅間文書纂』(昭和四八年一月、名著刊行会)所収の「富士大宮司系図」「富士氏系図」しか所蔵されていなかったことも理解できるものである。
  なお、「大久保春野家譜」と「和邇系図」の同一性を確認できる点はいくつかあるが、その中でも『姓氏家系大辞典』五一八一頁上段所載系図の義利から忠俊・忠照・忠成の世代にかけての三世代に特に注目される。忠俊らは大久保氏の祖先であり、忠俊らの父・忠次兄弟と義利の間に、異なる二つの系図のつなぎ目があるものと考えられる。

 
  直参の大久保氏は、後世下野宇都宮の一族とする系図を持つが(『藩翰譜』『寛政譜』など)、これもまた出自を仮冒したものであり、実際の出自は堤中納言藤原兼輔の後裔と称する、駿河の大族朝比奈氏(今川氏の重臣)の支族宇津(宇都)氏であることは『下伊那郡誌資料』(上巻一九六頁)に明記されている。そして、実は朝比奈氏自体も本来は藤原姓ではなく、古代の庵原国造(吉備氏族)かその近隣の古族の後裔である可能性が濃厚である。
  この辺の事情については、いずれ機会を改めて詳述したいが、とりあえず簡単に記述しておくと次のようなものか。
  朝比奈氏は駿河国志太郡朝夷郷(同氏の本拠は現志太郡岡部町殿(との))から起った氏であり、朝比奈川下流の平野部に居住した岡部氏とは同族関係にあった。ところが、同じ藤原氏と称しながら、朝比奈氏は北家兼輔の後裔、岡部氏は南家為憲の後裔と称しその系譜が異なっているようにも思われた。
  このため、両氏関係の系図類を、『尊卑分脈』をはじめとして、比較対照したところ、分脈記載の入江馬允維清の後裔の入江、岡部、息津(興津)、渋川、吉香(吉川)、船越、蒲原などの諸氏には同族性が認められ、朝比奈氏もこの同族と考えられる。これら入江の一族は駿河の工藤と称され、工藤氏の元祖為憲の後裔に位置づけられる維清を祖とする。この維清について、為憲の孫の維重(為憲−時理−維重)の子とする説が有力であるが、時信の子としたり、維永の子としたりする所伝もあり、この周辺には混乱がみられる。維清が明らかに工藤氏族である時信、維永、維重のいずれかの養猶子となつた可能性まで否定はできないものの、維清は本来異氏族の出でほないかと考えられる。あるいは、維清自体は為憲流の人であっても、別人が重複していた可能性も考えられる。
  太田亮博士(『姓氏家系大辞典』六一一頁)が、「駿河入江氏の出自については疑義あり、果して工藤族なるや調査の要あらん。又一説に此の入江氏は阿倍氏ならんかと云ふ」と記しており、その着眼点の確かさに敬服するものである。また、「駿河遠江の工藤氏は、一説に秀郷の後裔なりと云ふ」とも記している(同辞典二〇八七頁)。
  しかし、入江一族の分布が駿河国西部、駿河湾沿岸部の旧廬原国造の領域を中心としていること、庵原(廬原)も後世別系統ながら藤原姓と称していること(秀郷後裔と称)、庵原氏の系図に一族として岡部氏があげられることなどから、入江一族の出自は廬原国造とするのが妥当ではないかと私は考えている。
 なお、入江・岡部一族から出た幕藩大名家としては、大久保氏のほか板倉氏(備中松山など四家。清和源氏渋川一族というのは仮冒)、岡部氏(和泉岸和田)がある。また、紀州藩の重臣久野氏(伊勢田丸一万石)もこの同族で為憲流と称するが、こちらは古代久努国造の末流であろう。
 
(2)子爵河野寿男の呈譜

  河野寿男は明治の内務大臣敏鎌(
とがま)(一八四四〜九五)の子である。この家は、伊予の守護大名河野氏の一族で、まず美濃に遷住し、次に尾張に移住して織田信長の重臣となった林佐渡守通勝の支族の後裔である。
  同家には、饒速日命に始まる越智国造(小千国造)の系譜が伝えられており、これによって太田亮博士が、河野氏は越智宿禰姓でないとした推論は誤解と分かる。なお、明治の警視総監三島通庸の家は日向にあった河野支族であるが、この家にも簡略な越智宿禰の系図が伝えられたことは、その子の日銀総裁三島弥太郎の伝記『子爵三島弥太郎伝』に記載があり、分かる。

 
(3)男爵郷純造の呈譜

  郷純造(
一八二五〜一九一〇)は明治の大蔵次官、貴族院議員で、戦前の財界人郷誠之助の父である。この家は、大江広元の後裔で、まず出羽国左沢(あてらざわ)に居住し、後に室町末期に美濃国方縣郡に遷住した江(ごう)氏である。天穂日命から始まり政房までの系図は、内閣文庫所蔵の修史館本「美濃国江氏系図」として知られているが、この呈譜は明治の郷純造まで至っており、両系図ともに出雲国造、土師連、大江朝臣と変遷したこの氏の歴史が知られる。

 
(4)男爵浅野守夫の呈譜明三三・五・三一

  浅野守夫家は芸州広島藩の浅野家の重臣であり、守夫の実家は藩主浅野家の一族である。守夫の養家はもと堀田氏で、大名家堀田氏の一族であり、孝元天皇から出て武内宿禰の子、紀角宿禰を祖とする紀臣(後に朝臣姓)の後裔と位置づけられている。
  この家譜は、『諸系譜』第一冊に所載の紀朝臣の系図と同系統であり、また、高句麗より帰化した八坂造氏の系も引く祇園社家と紀朝臣との交流もわかり、これまで出自を疑っていた堀田氏の系図が明確となったものである。

 
(5)伯爵山田繁栄の呈譜明三三・三・十九

  山田繁栄は、明治の司法大臣山田顕義(
一八四四〜九二)の実弟で、顕義の子・久雄を承げて家督を継いだ。山田氏は天武天皇の後裔の清原真人姓であり、豊後清党の一派で同国玖珠郡山田郷にその名を因む氏である。『続華族系譜』第三十七冊には「山田家系図」が所収される。

(6)このほか、ここでは解説等を省略するが、男爵林清康家(丹治真人姓)、男爵児玉源太郎家、男爵児玉清雄家(ともに有道宿禰姓)などにも、古代氏族に起る系譜が記載されている。

  多少の煩を嫌わず、新華族の系譜の説明をしたのは、これらの系譜を鈴木真年が見知っていたと思われる材料が多々あるからである。真年翁の著作類に、そのふしぶしがうかがえるとともに、大久保春野、河野寿男、郷純造、児玉源太郎などの家系は、真年の友人中田憲信が編述した『各家系譜』(
国会図書館蔵)にも収められている。また、山田繁栄家の家譜の前半は清原真人氏各家の分出過程を示し、他書に見ない貴重な内容となっているが、山田家系図の深養父以下は、真年の編した『百家系図』第廿に記載する系図と同様になっている。真年と交際のあった山田顕義の家系を真年が知らなかったはずはないと考えるのは自然であろう。(系図はここでは省略
  逆に、新華族により呈譜された家系の原本の殆どを鈴木真年や中田憲信が作成したのであろうか。そう考えるのは、これら両人の学殖の過大評価であり、かつ、両人の学問や行動への不当な非難であると思われる。両人が関与した系図は一部に編集や記述の誤りがあるものの、それは原典そのものに問題があった場合が多いようで、基本的に信頼してよいものであり、歴史資料ともその内容が合致していることが多い。そして、私が多くの古代氏族系譜から帰納的に導出した“標準世代”と合致している。
  新華族の呈譜のなかで、明らかに鈴木真年が知らなかったものもある。例えば、それは男爵新井清一家の系譜である。この家は新井白石の大叔父広義の裔(清一は広義の九世孫)であるが、真年編の『新田族譜』の新居の項には、広義に該当する次郎兵衛某の後は実名無しの某として、孫世代まで三名あげられているにすぎない。
  以上のことから、新華族の呈譜に作為性をみるのは無理ではなかろうかと考える。

 
 七 中田憲信という人物
この項は原文にあったので若干の修正をしてここに残したが、概要にすぎないので、中田憲信について詳しくは本HPのなかの「中田憲信と『南方遺胤』」をご覧いただきたい。
 
 
  中田憲信(図書)は天保六年(
一八三五)播州明石の生れで、明治四三年に七六歳で神戸で死去したから、鈴木真年より四歳若い同時代人といえよう。不二斎とも号した。
  『鈴木真年伝』(六七頁)には、真年の、「瓢々たる風格を仰ぎ慕って来る者は年と共に多きを加え、中には翁の門に入り親しく教を受けた者も少くなかった。親しく教を受けた人では中田憲信・田中光顕・大槻如電・朝倉滝洞の諸氏を始め、文人墨客はもとより神・仏・軍・政等様々な方面を集めまことに清濁相混合するの様を呈した」と記し、中田憲信を真年翁の門弟のようにも記しているが、憲信は平田篤胤の養嗣銕胤(かねたね鉄胤とも記す。一七九九生〜一八八○没)の門下生(「気吹屋門人録」に弘化元年から明治三年までの門人として中田憲信があげられる)であり、一時銕胤について学んだこともある真年翁とは同門の国学者であった(但し、真年は「気吹屋門人録」に記載されておらず、銕胤門下での接触は不明)。そして、憲信は真年の系図研究の唯一の同志といえる者であった。
  中田憲信はその本職を終始、法曹界においたが、真年翁も司法省とその前身の弾正台に明治二〜四年の間在籍していた。明治三年六月の『職員録』に拠ると、弾正台の少巡察の筆頭として鈴木真年翁とみられる「穂積豊盛鈴木」があげられ、その下僚の巡察属に「賀名生憲信中田」が掲載される。明治初期には中田憲信は本姓を賀名生と称していたことが分かる。この賀名生は他に見ない姓氏であるが、穴太とも記す姓氏と同じと推される。
  憲信が明治六年三月には司法大録の任にあったことは知られるが(『鈴木叢書』所収の「幸徳井家系図」に文久二年生れの季信が明治六年三月に憲信の養子になったと記されたときの官職)、明治十一年頃真年翁はその養子(女婿)原田真義の就職を判事であった憲信に議り、その推薦を得て原田真義は司法省傭員となることができたといわれる。憲信は、法曹界では甲府地方裁判所長(日清戦争当時)まで至り、終始この世界に身をおいたものと考えられる。
  憲信は至誠の人で、副島種臣、山田顕義、東久世通禧、伊藤博文、山県有朋といった明治の貴紳も翁の熱誠の議論には太刀打ちができなかったといわれる。中田翁は、国語問題、教科書問題のため、恩給まで質に入れて国家や教育に尽力したが、「国語仮名遣ひの改定」が問題となった明治三八年の時には寝食を忘れて奔走したとのことである。また、本務にあっては、裁判をする事の起らぬようにと力める真の生きた裁判官であったと評価されている。(この項は『日本及日本人』昭和七年四月号の万葉叟による記事に基づく

  中田憲信は自分自身でも系譜の収集にあたったと思われるが現存する憲信関係資料をみる限り、真年翁の所蔵系譜を謄写し整理したものと考えられるものが極めて多いようである。中田憲信関係資料とみられるものをあげると、次の通りである。    
 @『諸系譜』三三冊
 A『各家系譜』十三冊
 B『皇胤志』(内題『皇統系図』)六冊
  @〜Bは国立国会図書館蔵の筆写本であり、同館ではその著者を@は鈴木真年、A及びBは中田憲信と整理している。しかし、@には真年の自筆稿のとじ込みが若干あるものの、大部分は真年の筆蹟とはいえないものであり、この著作自体は中田憲信が編集したものと考えられる。そして、@の内容については、「真年と親交のあった中田憲信が、おもに鈴木の蒐集本をさらに筆写したものである」とする尾池誠氏の見解(『埋もれた古代氏族系図』三四頁)が妥当であろう。また、Bには多くの書込みがあり、憲信関係資料としても、本体そのものなのか書込みなのか判然としない。

 C『好古類纂』の系図部類に所収の諸系図(
活字
  諏訪家譜(神人部宿禰姓)、徳川家譜(清和源氏)、織田家譜(斎部宿禰姓)、毛利家譜(大江朝臣姓)、亀井家譜(宇多源氏)などが、その遠祖以来明治に至るまで記され、巻頭に憲信の文がある。なお、活字の「亀井家譜」は静嘉堂文庫にも所蔵される。

 D「阿蘇氏系譜」(
活字
  津田啓次郎信学輯著の『皇国世系源流』(国会図書館蔵)、の中に所収。神八井耳命に始まる系図で、憲信が坂梨本、甲佐本などの諸本を校合して編集したものであるが、その原典は不明である。

 E「楠氏系譜」(
活字
  『西摂大観』(上巻)に所収される熊野国造系のもので、中田憲信の説として紹介されている。その原典は不明であるが、憲信の『各家系譜』第六冊に草稿が記されている。なお、『西摂大観』については、家系研究協議会の丸山浩一氏の御教示によるものである。

 F「大久保村西向天満宮新碑」
  国立国会図書館蔵の桜園叢書に所収。

 Gこのほか、東北大狩野文庫に「有馬家譜」(
実際には有島家譜)があり、市来四郎編中田憲信考定とある。

  私が中田憲信について知れるところは以上のものにすぎないが、その人となりや法曹人の経歴をみても、系図の捏造・偽造に関与したとはとても思われない。その学殖からいっても、内容の不自然な系図についてはとりあげなかったものと考えられる(
現在の目から見れば、疑問な系図も多少あるが)。
  結論としては、鈴木真年や中田憲信は明治前期の誠実な系図研究家・系図採集者であったと評価して大過ないのではなかろうか。
 

 
八 おわりに

  本稿では、鈴木真年や中田憲信の系譜収集先を探求することにより、彼らが見た古代氏族の系図の行方を考察したものである。
  真年翁らが見た数多くの系図資料の大半は、社寺や旧士族等の家に代々伝えられてきたものと考えられる。従って、士族階層を中心に個々人として社会階層の変動が激しかった明治の世の中で次第に散失していったものも多かったのではないだろうか。
  社寺でも神仏分離令(明治元年三月太政官布告)や神社の世襲制の廃止(明治四年の太政官布告)等により、旧来の社家で先祖代々祭祀してきた神社を離れた家が多くあり、その際に散・滅失した資料も多くあったものと思われる。これら原蔵者(の子孫)の手元に、現在、当該系図が残っていないからと言って、鈴木真年や中田憲信を系図の捏造者呼ばわりをするのは、明らかに飛躍があることに留意したい。
  そして、関東大震災や諸戦役(今次大戦、維新の戦役、西南の役)、あるいは一般の火災・水害など各種の災害もあり、さらに系図類が滅失していたのではなかろうか。今後は、こうした史料散失に対する十分な対策がとられることを強く希望する次第でもある。
 
  以上、様々に考察した結果が極めて平凡なものとなったが、冒頭の佐伯教授の疑問に対して何らかの回答となったものであろうか。
                                                (了)

  (09.1.27に若干ながら追補)


(備考)
現在、冬季オリンピックが開催されているユタ州ソルトレーク市の近郊、岩塩層のなかに堅固な図書館が建設され、そこには世界中の家系・系譜関係資料が保存されていると仄聞する。こうした文化的配慮がわが国でも望まれる。(02.2.20 附記)

 故飯田瑞穂先生には尊経閣文庫主幹のときに一度お目にかかったことがあるが、今となっては、もう少しお話ししてもよかったと残念に思われる。

 

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