中田憲信と『南方遺胤』

                                 宝賀 寿男
  

       中田憲信と『南方遺胤』

                                  宝賀 寿男



  はじめに

  この十数年、鈴木真年と中田憲信(なかた・のりのぶ)に関する編著作が次第に利用されるようになってきたとの話しを仄聞する。これも、尾池誠氏編著の『埋もれた古代氏族系図』(1984/12発行、私家本)や拙著『古代氏族系図集成』(1986/4発行)、さらには近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識』(1989年発行)などの紹介が契機になっているものと思われる。
  これらの動きをうけてか、1991年11月には、稀少となっていた活字本『鈴木真年伝』(1943/4発行)が大空社から「伝記叢書89」として復刻された(私の解説等も付)。真年及び憲信の業績が正当に評価され、その資料が活用されることは、私の喜びとするところである(もちろん、対象が系図である以上、具体的で十分な批判・検討を踏まえての活用が必要であるが)。最近では、雄松堂出版から、真年編『百家系図』及び憲信編『諸系譜』がマイクロフィルム化して復刻・販売されており、活用されるケースがより多くなっている。(これらマイクロフィルムは国会図書館で利用することができ、コピーもとれます

  中田憲信は、尾池誠氏が前掲書で鈴木真年翁に付随して紹介し、初めて系図研究者の関心を引くようになったといってもよい人物であった。憲信については、真年の同門(平田鐵胤門)であり、弾正台勤務時の同僚で長く親交を保ち、かつ同好の士として、その史料収集に密接に関与・連携したとみられるので、私自身、鈴木真年とともに併せて研究対象としており、この十数年ほど足跡を追求してきて、その中間報告的なものを拙稿「鈴木真年翁の系図収集先(下)」(家系研究協議会発行の『家系研究』第20号、1988年12月)で整理していた。
  この間、丸山浩一氏(もと家系研究協議会会長)など何人かの研究者からの教示・示唆を得て、憲信について知るところも少しづつ増えてきたが、不明な点も多かった。それが、木村信行氏の『皇胤志』全七巻(憲信編著『皇胤志』『諸系譜』などを基礎に記述)などから、中田家の系図『南方遺胤』や経歴などについて、新たに教示されたり調査の示唆をうけた記述も多少あって、ここに再調査のうえ、中田憲信について再整理をしようとするものである。尾池氏を初めとする関係者の学恩に深く感謝する次第でもある。ただ、未だ不明な点もいろいろあり、憲信著作・関係資料の発掘なども含めて、さらに追跡・調査・検討をしていきたいと考えている。


  (1) 中田憲信関係の著作
                 (順不同。現在までに分かっているものについて、記載
○『諸系譜』33冊  国立国会図書館のデジタルライブラリーで、全巻がネット閲覧可能
○『各家系譜』13冊
○『皇胤志』(内題『皇統系図』)6冊
  以上は、国立国会図書館に所蔵されており、系図集という形になっている。ただ、『諸系譜』については、憲信が主に編纂・収集したとみられる大系図集であるが、鈴木真年翁の筆によるものをはじめ、数人の筆跡が入り混ざっていて、その成立過程は明確ではない。その用紙に、憲信が勤務ないし関係した裁判所(名古屋など)の名が記されているものもあり、これらからみて、かなり長い間にわたり記述されまとめられたことが知られる。このほかにも、東博に「無名」の形で憲信遺書がある(後述)。

  これら以外には個別の系図について憲信の著作があり、管見に入ったものをあげると、次のようなものがある。
○『南方遺胤』 静嘉堂文庫に所蔵(東大史料編纂所にも謄写本がある)。
  掲載の最後の世代が憲信の諸子で終わる系図であり、当事者たる憲信の手による編纂は疑いない(明治6年までの記事がある)。現存する同書自体はもと鈴木真年所蔵のもので、筆は書き入れられた註も含めて、全編が真年の手によるものである。同文庫に多く所蔵する真年所蔵資料とともに、真年の死後に収められたとみられる。
○『亀井家譜』 静嘉堂文庫に所蔵の活字本。
○『有馬家譜』(「馬」は原本の表現のまま) 東北大図書館狩野文庫に所蔵の筆写本。市来四郎編中田憲信考定とされる。内容は、桓武天皇に始まる有島武郎に至る土佐の有島氏の家系である。
この系図については、拙稿「作家有島武郎の家系−系譜仮冒例の一検討−」『旅とルーツ』第78・79号所載
  以上が単行本として存在。
 これらのほか、ごく最近になって真野信治氏が愛知県岩瀬市立図書館の岩瀬文庫のなかに、中田憲信自筆の『甲斐源氏系譜』を発見した。同書には裏書等も含め中田憲信の名が見えないが、内容は『諸系譜』等に所収の系図等も含め武田氏中心の甲斐源氏諸氏の系図であり、貴重な内容も含みそうである。

  次に、雑誌などに掲載された憲信の著作をあげる。
○『好古類纂』(1900〜09年刊行)の「系図部類」に所収の諸家の系図(活字
  諏訪家譜、徳川家譜、織田家譜、毛利家譜、亀井家譜、菅公事歴及系譜などが、遠祖から明治期の者まで記載され、巻頭に憲信の概説記事がある。
○「阿蘇氏系譜」(活字) 津田啓次郎信学輯著の『皇国世系源流』(国会図書館蔵、明治43年12月購求)の第21冊に所収。同系譜を仲田憲信が編纂したことが記載される。
○「阿蘇系図」(活字) 異本阿蘇系図(仲田信憲〔ママ〕編纂、北小国村北里栄喜氏所蔵本)として、『神道大系』(神社編五十)に所収。 このほか、阿蘇家へ阿蘇氏系図の提供も行っている。
○「楠氏系譜」(活字) 『西摂大観』(上巻。1911年刊)に所収される熊野国造系楠氏系譜であり、前掲『各家系譜』第6冊には出典を記す草稿(賀茂氏系図)が記載されている。
  以上が系図関係の著述である。

  そのほかの歴史関係著述を次にあげると、
○「大久保村西向天満宮新碑」(活字) 国会図書館蔵の桜園叢書巻69に所収。
○『帝国古蹟取調会会報』(のち『古蹟』に改名)に掲載の諸論考があり、次の通り。
  「河内国六萬寺小楠公墳墓の覈査」(第一号、明治33/12)、「武田信玄の墳墓」「尊秀王墓」「小楠公覈査第二」「井光の古蹟に就て」(ともに第二号、同35/10)、「新田義宗脇屋義治の墳墓の始末記」(第三号、同35/12)、「四条隆資・滋野井実勝二卿の墳墓」(この号から『古蹟』と改名、第二巻第一号、同36/1)、「藤原魚名公の墳墓」(第二巻第五号、同36/5)、「織田右大臣信長公墳墓」(第二巻第六号、同36/6)、「日向の古陵墓」(第二巻第八号、同36/8)、「新田公墳墓」(第二巻第十号、同36/10)、「山梨県下の古蹟」(第二巻第十二号、同36/12)、「日向の古陵墓の二」(第三巻第一号、同37/1)、「熱田神宮」「弘文天皇御陵考」「信貴山は物部氏の神蹟」「皇祖の神蹟」(ともに第三巻第四号、同37/4)。
○『国宝将門記伝』の序を執筆(明治38年刊、織田完之著)。
○「中田憲信君朝鮮人の系統に関する所見 附朝鮮分れて三韓四邦となりし事」、『史談会速記録』(第一六三輯、明治39年刊)に講演要旨が掲載。

  なお、中田憲信関係についての紹介記事を載せる本・雑誌等(官報・職員録を除く)もあげておくと、
○『明治過去帳』大植四郎編著
○『明治ニュース事典』
○『明治編年史』
○『日本及日本人』昭和7年(1932)4月号の万葉叟による「一人一話」の記事「中田憲信翁」
○『気吹屋門人録』
○『国学者伝記集成』(昭和9年6月発行、同54年10月復刊
○『名家伝記資料集成』(昭和59年2月発行

○その後、上野の東京国立博物館(東博)に多量の憲信関係史料が残されていることが分かったが、これについては、
  本HPの 『神別系譜』と編者中田憲信(増補版  を参照されたい。


   (2) 憲信の経歴等

  明治5年頃までは主として『南方遺胤』に基づき、それ以降は上掲の資料などに基づいて記すと、次のように整理されよう。

出生及び家族
  天保六年(1835)正月六日、明石で出生。父は中田有信(播磨国高木邑主の一柳公の家臣)、母は北小路氏(大江朝臣姓の京官人)の律子で、2男3女のうちの末子として、父52歳の時に生まれる。ただし、長兄の藤吉郎は、文化十三年に三歳で早世しており、実質的には嫡男。
  妻は明石郡大窪村(現・明石市大久保町大窪)の住人、石田龍右衛門晴貞の女、籌子で、浄行寺住職日野正海の養女。石田氏は中臣宮処連(のち改めて中臣朝臣と称)姓であり、その系図は『諸系譜』第八冊に石田氏として掲載される。
  子には、太郎(元治元年六月に生まれ、同月に早世。母は籌子)、寛子(慶応二年正月生、母は同上)、季信(文久二年五月生。幸徳井保源の三男で幼名季丸、明治六年三月に当時、司法大録であった憲信の養嫡子となるが、のち離縁か、任大舎人)と政信(養子とみられるが、その辺も含めて事情不明)。その子孫についても、現在不明である。
  一時養嗣子となった季信の実家幸徳井家は賀茂朝臣姓の地下官人であり、同家については、真年編の『鈴木叢書』第7、巻之十七に「幸徳井家系図」が所載。憲信逝去時に嗣子であった政信については、季信との関係等は不明。
名前・呼称  幼名は伊和三、改めて図書、改めて足穂。号は盟臺。

職歴・活動歴
・天保14年(1843) 憲信九歳のとき、父の有信が死去(10月)。同年に牧野一隠の義子として受業。
・安政元年(1854)12月 押部荘高和村の池田市左衛門昌訓の別宅養子となる。
・慶応3年(1867)正月 泉州大鳥郡陶荘陶器村の陶神社の神祇職に補。
         後に大依羅神社の権神主に補。

・明治2年(1869) 3月に再御東幸に供奉。5月に上京。9月に弾正台に出仕拝命し、弾正巡察属に任。なお、7月に弾正台が設立されており、鈴木真年はその後まもなく、紀州藩から弾正台に入っている。
・ 同3年(1870) 6月に弾正史生に任。同月現在の職員録には、弾正台の権少巡察に賀名生憲信その下に小さく中田と記す)と見える。
・ 同4年(1871) 4月に弾正少疏に転任、大阪在勤を拝命して翌月に大阪移住。7月に弾正台廃止となり、8月に東京に帰着し司法省の権中録に任。11月の職員録には、権中録十等出仕に中田憲信が見える。なお、11月には同僚であった鈴木真年は宮内省内舎人に転じた。 
・ 同5年(1872) 2月に司法中録となり、7月に同権大録、8月に同大録に転任。
・ 同7年(1874) 10月現在の職員録には、大録七等出仕に中田憲信(以下、憲信の名前はあげないこととする)。
・ 同8年(1875) 9月現在の職員録に少丞七等出仕。
・ 同9年(1876) 4月現在の職員録に権少丞正七位。
・ 同10年11月、同11年5月及び同12年2月現在の職員録に、大審院並諸裁判所の判事正七位で見える。その序列は、三年とも、判事総数九十数名のうち第八十位台にあった。
・ 同13年(1880) 9月現在の職員録に、東京上等裁判所の判事正七位。
・ 同15年(1882) 5月現在の職員録に、奈良始審裁判所判事長正七位。
・ 同16年12月、同17年5月及び同18年7月現在の職員録に、大阪控訴裁判所の判事正七位で所内序列九位ほどで見える。なお、当時の同裁判所所長に児島惟謙がおり、その家系は憲信により採収されて『諸系譜』第26冊2に掲載される。
・ 同19年7月及び同22年12月現在の職員録に、名古屋控訴院の評定官(前者では奏任三等、後者では勳六等)で見える。

・ 同23年(1890)10月22日 秋田地方裁判所の検事正に補(官報)。
・ 同24年(1891)10月22日 徳島地方裁判所の検事正に補(官報)。明治25年9月編の『明治宝鑑』には、徳島地方裁判所の検事正奏三正六勳六で見える。なお、この関係で徳島県関係の古文書・系図類が『諸系譜』にきわめて多くで所収されており、その詳細さは『阿波国徴古雑抄』を凌いでいる。
・ 同25年(1892)6月 勲5等瑞宝章を叙賜。
          10月20日 検事正正六位勲五等の中田憲信を判事に任。同日、甲府地方裁判所所長判事に任命(以上、官報)。この在任期間中の明治27年4月、鈴木真年が大阪で逝去(享年64歳)。甲府時代にも、憲信は法曹関係者等から貴重な系図を採集した。
・ 同29年(1896)5月8日 憲信、休職を命ぜられる。後任の甲府地裁所長には志方鍛(のち千葉地裁所長を経て、大審院判事に補)が任命(以上、官報)。以上の官歴は、明治43年5月の叙勲稟議書(国立公文書館蔵)でも確認できる。

  憲信は甲府地裁所長で休職となって以降、逝去まで休職判事の身分のままであり、実質的にこの時点(当時62歳)で法曹を致仕したこととなり、以降の職員録には掲載がない。次の活動が明らかになる明治33年初までの期間、憲信の行動は不明だが、官報や職員録には一切登場しない(中田憲信について、大審院判事になったと記すものもあるが、これは誤記で、何かの勘違いによるものと思われる。「明治期官僚・官職データベース - 國岡DB」でも、甲府地裁所長の後は官職就任を記さない。この辺は、岸本良信氏のご教示にも拠る)。

・ 同33年(1900) 帝国古蹟取調会(会長九条道孝公爵)が設立される。
  憲信はこの会の歩みと終始ともにする。同年2月以降、年内に八回開催された評議員会には、憲信は全て出席しており、12月に発行の会報(当初、『帝国古蹟取調会会報』といい、のち『古蹟』に改める)の第1号には小楠公墓についての調査報告が掲載される。以降、明治37年4月まで同誌は十九回発行されるが、殆ど毎回のように、憲信の調査報告が掲載された。
  憲信は同会発足以来、評議員と調査委員を兼ねていたが、調査委員のメンバーは、ほかに井上頼、星野恒、吉田東伍、田中義成、坪井正五郎、小杉榲村、木村正辞、三上参次、三宅米吉と当時の歴史学界の錚々たる人士であった。明治36年11月には、憲信は同会の協議員と主事をさらに兼任しており、この体制で37年4月に実質上、休会となるまで続いた。会報の発行は、戦時中(日露戦争。2/10付けで日本はロシアに宣戦布告)で事情やむなきため、当分これを見合わすとあるが、それ以降、発行されることはなかった。

・明治37年(1904)4月 東亜精華女学校を設立して、その初代校長に就任(新聞「日本」)。
・明治38年(1905) 国語会幹事長(枢密院副議長東久世通禧伯爵が主盟)として、第一次の「国語仮名遣いの改定」問題に取り組む。

明治43年(1910)5月16日 神戸にて逝去、享年76歳
  5月16日付けで、「休職判事正五位勳五等 中田憲信」に対して、勲四等に叙し瑞宝章を授与(5月18日付けの官報に公示)。この関係の記事は、『特別叙勲類纂(死没者)上』(昭和58/3発行、総理府賞勲局)にも見えており、「在職中勤労不尠其成績顕著」であり、「夙ニ勤王ノ志厚ク維新ノ際屡々死生ノ境ニ出入シ鞠躬国事ニ尽瘁シ其功労不尠」というのが、叙勲の理由としてあげられる。

 大阪朝日新聞の5月19日には葬儀広告が出される。その内容は、次の通り。
「休職判事正五位勲四等中田憲信儀神戸市ニ於テ死去候ニ付五月十九日午後四時 同市多聞通五丁目中田兵蔵宅ヨリ葬送相営候間生前辱知諸君ニ謹告仕候也
 在神戸市 嗣子 中田政信
 親族 総 代  中田兵蔵 」

中田兵蔵とは、親族で姉壽子の嫁ぎ先〔のち離縁〕の中田為継の養子有業の子にあたる者であり、また、壽子の次の嫁ぎ先・常深芳成の娘を母としている

 國學院大學日本文化研究所編の『和学者総覧』(1990年刊)は、「近世、近代の和学者11,637名について、別称、出身地、没年月日、享年、学統が一覧できるように編集したもの」というのが謳い文句であるが、呆れたことにどこで間違えたか、中田憲信については、「明治6・5・16没、享年39」という記事がある。この誤記に誘導されて、村崎真知子氏は、異本系阿蘇氏系図について誤った推論をしてしまい、それが分かった後日に悔やんだ事情がある。

  (続く)

 ※この頁について、2017.7.11等に追補あり。

 <追補>

(1) 06年7月になって、憲信の業績を誹謗する阿蘇品保夫氏の著作などに気づき、その反論として、
     村崎真智子氏論考「異本阿蘇氏系図試論」等を読む
       −併せて阿蘇氏系図を論ず− 
      
 を書きましたので、併せてご覧下さい。

(2) さらに、 郡評論争と古代氏族系図 をも上記(1)の追補として掲上しました。



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