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  (3) 『南方遺胤』について

  後南朝の流れを汲むという諸氏の系図については、私は殆ど関心が無く、これまで検討の対象とはしてこなかった。古氏族の系図を「古代史」研究の基礎資料の一つとして捉えていて、その解明に努めてきたものの、現代に至る個別家系の研究ということは、基本的に私の動機に乏しかったからである。十五世紀の中葉以降、政治・軍事の表舞台から消えた後南朝関係者について、密かに語り伝えられる系譜や家伝の研究もそれなりに意義がないわけではなかろうが、これを検証ないし傍証する資料に乏しく、その意味で科学的な系図研究の対象とはなしがたい面もある。そして、粗っぽく感覚的に言うと、後南朝後裔と称する諸氏の系図はその殆どが仮冒系図であった可能性があり、そこまで研究する余裕もなかったという事情にもあった。

  「系図学ヲ大成スルコト」を研究の五大目標の一つとした鈴木真年翁は、『南方遺胤』を謄写したことはあっても、多くの苗字を概観する『苗字尽略解』では、後南朝関係の苗字を一切あげていない。この辺に、真年の研究姿勢の厳しさが窺われる。一方、憲信は後南朝の末裔と伝えられる家に生まれており、それ故か、この関係の系譜・資料収集にも熱意をもってあたり、『軍事新報』にも南朝関係の記事を執筆したともいわれる(現在、未確認)。憲信編述の『諸系譜』『各家系譜』にも後南朝関係の系図がかなり詳しく記載されており、その特徴の一つとなっている。ただ、その採集の姿勢は是としても、各々の系図について、内容的には多角度からの厳しい検討が必要なことは云うまでもない。

  私に後南朝関係の知識に乏しいことを自覚しつつも、憲信関係の資料として『南方遺胤』(以下、『遺胤』とも記す)に記される憲信の家系について、とりあえず検討してみたのが、以下の記述である。最近、森茂暁福岡大教授が『闇の歴史、後南朝−後醍醐流の抵抗と終焉』(平成9年7月刊、角川選書284)という好著を刊行されており、本稿作成に当たって大変参考になったことに謝意を表しておきたい。

  『遺胤』には文章としての記述はなく、後村上天皇に始まり明治の憲信の諸子の世代に至る全くの家系図であり、奥付けもない同書の成立は事情は不明であるが、その成立時期は憲信の官歴等からみて、最後の日付は養嗣の季信に見えるが、それから遠くない時期(明治6年2月から明治8年秋までの期間)とみられる。なお、東大史料編纂所の謄写本では、その奥書に「明治19年4月鈴木真年蔵本ヲ写ス」とあるが、下限を記すにすぎない。

  まず同書の概略を記すと、
@ 後村上天皇を初祖として、その皇子泰成親王、その子泰邦親王(親王は原本のママ)、その子・定忠王と続けて、播州久留美に住んだ定忠王の子として親直(播磨の大野・小野等の祖)、通直(播磨の中田等の祖)、直壽(近江の篠原の祖)、僧快尊(大和の珠木・堀の祖)のほか2女子をあげる。

A 通直が播州の久留美・平井両村等を領して赤松氏に仕え、初めて中田と名乗って、中田氏の初代とされる。これ以降は播磨在地の家系となり、子の親熈は明応二年(1493)の河内合戦に功ありとして這田村に領地を賜った。親熈以下の系は、子の「教熈−教貞(実弟)−教家(教熈の子)−教有」と続いて、教有のときに江戸期となり相伝の私領を失い、永世の郷侍として池田氏の老臣伊木家に付属となった。

B 教有の孫、信氏は明石藩士となり、一時期主家の大和郡山転封に従うも、明石に帰住。その娘婿で養嗣が信頼(信氏の弟で一族の跡を継いだ中田通詮の子)、その子が為頼であり、為頼は針術で明石藩主松平但馬守直常に仕え、以下、その子の「為秀−為有−有信」と続いて明石藩士であった。憲信の父、有信は針術で明石藩主松平氏に仕えたが、致仕。その後に、高木邑主一柳公に仕えて播州三木に移住したものの、天保2年(1831)にまた明石に戻って、同14年(1843)8月に致仕、10月には死亡した(享年60歳)。

  この家系をみると、割合自然な形で系譜は流れていて、一見問題がなさそうに見える。ただ、一族内の通婚・養子縁組に加えて、何故か源姓と称される常深氏との通婚が多いことに留意される。また、中田一族から明石の岩屋神社祠官家大薮氏がでているとのことで、多少の違和感もあり、『式内社調査報告』や地名辞典と照らしてみると、関係する氏や地名には海神族関係の色彩に満ちていることが分ってくる。そうすると、「中田」は皇族の中田宮に起因するものなのか、初代通直のときから姓氏として用いた賀名生(アナフ)朝臣は南朝関係からの由来なのか、何故に播磨の明石からその背後地付近に一族が集中するのかという疑問が生じ、これらを総括して、中田一族は実際に後南朝の遺流なのか、という問題意識が生じてきた。また、『南方遺胤』を資料として得たことで、他の憲信関係資料と照らしてみるとき、新たに記述の意味が分かってくる点も出てきた。

  以下に順を追って、中田家系の検討にかかってみよう。
イ 南朝の系譜として、「後村上天皇−泰成親王−泰邦王」という点は、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』皇室系図に所載されている。この辺まではほぼ妥当なのかもしれないが、関係する所伝には問題もある。
  泰成親王は叔父懐良親王の後継として大宰帥に任じ、南北朝合一後の応永元年(1394)、後亀山上皇とともに足利義満と対面したことが知られる。森氏の前掲書には、「大覚寺殿帥宮(泰成親王とする意見あり)」という記述があるものの、泰邦王については一切現れず、信頼できる史料からはその存在が確認されない。泰成親王にあたりそうな「三宮(後亀山天皇の東宮)」については、成仁という王子が史料に見えるが、逆に、この王子は『遺胤』には挙げられない。また、泰邦親王については、泰成親王の弟とする所伝もあり、例えば『事蹟通考』所載の「征西宮系図」では、泰成親王の弟で大宰帥称帥宮と記していて、泰成親王との混同もありそうである。
  『遺胤』では、泰邦親王について中田宮と註し、嘉吉三年(1443)九月叡山で戦死とあるが、この時の日野有光等の挙兵(禁闕の変)には金蔵主・通蔵主兄弟、また源尊秀が参加したことは当時の日記類から知られるものの、泰邦王の存在は史料には見えない。それでも、泰邦王は出家して頼瑜といい、尾張国中島郡の真福寺に入るという点までは、一応妥当のようである。楠木一族にも正儀の曾孫の小三郎正従は、泰邦王に仕え尾州中島郡大須庄に移住したとその系譜に見える。
  しかし、『遺胤』のそれ以降の記事(嘉吉二年参州碧海郡の中田宮に退隠、同三年九月に叡山で戦死)を裏付けるものはない。「碧海郡の中田」とは、現・豊田市中田のことと思われるが、この地は十七世紀の寛永期に開かれ、幕末ないし明治になって一村として認められたとされており(『角川日本地名大辞典 愛知県』)、疑問が大きい。幡豆郡にも中田村があるが、この地も江戸期以降の地名とのことである。こうしてみると、中田の苗字が由来するとされそうな、中田宮には大きな疑問がある。なお、『皇胤紹運録』では、後村上天皇の子としては長慶・後亀山両院のみを掲げる。

ロ 泰邦王の子に綱忠王と定忠王があり、後者が中田など播磨系統の始祖的な存在(播州美嚢郡久留美に住んで、赤松氏に属)のように『遺胤』に記される。他の憲信の著作では、『各家系譜』九には定忠王の子の通直(中田家初代)までが記載されており、『皇胤志』では通直の子・親熈の世代までが記載されている。
  『遺胤』には定忠王の行動について、細川や畠山との戦い、山名に降参、赤松政則に謁見などと記されるものの、これら事績は最早史料で確認できないし、軍事行動の戦力を考えると、到底信頼し難い。この十五世紀中葉頃に活動したと伝える定忠王やその兄弟の存在は史料に確認できず、かりにその存在が認められても、その子とされる中田通直との関係もまた確認できない。こうしてみると、定忠王の前後の辺りにおいて、系譜の実質的な断絶があるようである。世に伝わる系図の大部分については、その出自部分に疑問があるという傾向が少なからずあり、中田家系においても同様の傾向を免れないものと考えられる。播磨の中田氏については、家伝はともかく、南朝の後裔ということは史実として疑問が大きいとみられる。

ハ 中田氏の系に入って、初代の親熈が播磨国主赤松政則に属して十五世紀後葉に活動したことは、とくに問題ないのかもしれない。ただ、赤松政則は、家臣が長禄の変(1457)で後南朝の二王子(尊秀王、忠義王の兄弟)を殺害し神璽を奪い返した功により再興された赤松家の当主であり、応仁の乱(1467〜77)でも、南朝の流れをひく小倉宮後裔を奉じた山名宗全と対立した側についたことを考えると、その家臣として後南朝の末流が属したというのは、疑問が大きい。
  中田氏の祖先が元々播磨にいて長く赤松氏に属した事実は変えようがないので、この辺は無理に系図をつなげたことも考えられる。残念ながら、赤松氏関係の資料では、家臣としての中田氏の活動が管見に入っていない。
  親熈が当初に源朝臣姓を負い、次に父王の命で賀名生朝臣姓となったというのは、また問題が大きい。姓氏は私称されるべきものではないからである。賀名生は南朝の宮居があった吉野の地であるが、姓氏として考えると、素直に穴太(ないしは安濃)姓とみたほうがよかろう。おそらく、中田氏は本来、穴太姓であって(その場合、姓はおそらく首で、渡来系の穴太村主とは別系統と推される。後述参照)、このことから南朝の宮居があった賀名生にかこつけ、南朝の末流と伝えそれに対応する系図作成をしたものではなかろうか。

ニ 中田直系から見ていくと、第二代親熈の子(第三代)から中田家第九代の信頼までの系譜が、次に問題となる。というのは、憲信編纂の『各家系譜』九では、初代通直のあと記載がなく、同頁の端の部分に耕斎(ママ)信頼、耕斎為頼、芸庵為秀、慎斎為有、与斎有信と憲信の父までの五代が説明なしに記載されているからである。この信頼以下の者が憲信の家系であることは、『南方遺胤』を見て初めて分ることでもある。おそらく、中田家では信頼なる者を中興の祖として伝えていたものとみられる。なお、通直から信頼に至る系図は後で補った可能性もないではないが、他に資料がなく、『遺胤』の内容から一応、疑問を留保しつつ信頼しておく。

ホ 中田信頼は十八世紀前半に死去した人物(享保廿年〔1735〕死去、享年八十二)であり、この辺から後の系図はほぼ問題なしとしてよかろう。

ヘ 次に傍系では、岩屋神社祠官大薮家が問題である。何故、こうした祠官家が中田一族から出たのか事情は記されない。ところが、岩屋神社を調べてみると、種々興味深い事情が浮かび上がってくる。同社は、明石郡の式内社伊和都比売神社の論社であり、『式内社調査報告』によると、明石付近には同社を含め三社が論社となっている。具体的には、
  A 稲爪神社境内の伊和都比売神社(明石市大蔵本町)、
  B 伊弉册神社 (明石市岬町。もと当津庄中庄村)、
  C 岩屋神社(明石市材木町)であり、
 このABCの三社は各々密接な関係をもち、いずれも境内社に猿田彦神社がある。また、BとCとは近隣にあり、旧社家に井上氏が共通して見える(Cでは他に大薮・大井氏)。Cは明石海峡を挟んだ対岸淡路島の式内社岩屋神社(津名郡淡路町岩屋明神に鎮座)からの勧請など、淡路と関係があったものと伝える。淡路には伊弉諾神社(淡路一宮で式内名神大社)もあり、諾册二神はエビス神の父母神とされ、淡路の岩屋神社ともども、海神族・漁民集団が奉斎したものとみられている。これらABC三社のうち、古伝等からCの式内社比定が最も適当ではないかとみられている。Cの鎮座地は東戎町(恵比須町)とも呼ばれことがあり、戎神信仰の影が濃厚であったが、淡路の岩屋神社にも戎信仰が顕著に見られる。
  また、同名の伊和都比売神社が赤穂郡の式内社にもあり、赤穂市の播磨灘に突き出た御崎に鎮座するが、ここでも末社に恵比須神社がある。これらに関連して、美嚢郡の式内社に御坂神社があり、一般には三木市志染町御坂の同名社とみられているが、その有力な論社が這田と久留美(いずれも現・三木市内)に鎮座する。中田氏の祖や一族は久留美に居住し、久留美と這田はともにその領地であったと『遺胤』に記される。志染町御坂の西近隣には井上と窟屋という地名が見えるが、窟屋は岩屋と同じ意味であり、井上はBCの旧社家にあった苗字で、中田一族との通婚も数例見える。志染町御坂の東近隣には、中世、淡河荘戸田村(現・三木市域の東端部)があって、この地には中田家初代通直の兄とされる大野親直と子孫が居住したが、この大野一族とも中田一族は通婚例が数例あった。

  伊和都比売神社の祭神伊和都比売神の夫君は、伊和大神とするのが自然であるが、伊和大神は播磨一宮の伊和大明神として宍粟郡に鎮座する。同社は式内の伊和坐大名持御魂神社であり、祭神は大己貴命とみられて、古来から伊和君氏が奉斎していた。その鎮座地一宮町須行名の近くには安積の地名があり、古代の阿曇連との関連が想起される。同社神主家は伊和君の後裔とみられる大井・安黒氏と英保(安保)氏が務めたが、大井氏が伊和都比売神社の明石での論社岩屋神社の祠官家にあったことは、先に述べた。また、飾磨郡の式内社であった射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)は播磨の総社とされたが、惣社伊和大明神と称された。射楯神は船玉神ともみられ、境内社には恵美酒社・蛭児神社・住吉神社などがあって、海神性が強いが、同社の旧社家には上月・黒田(ともに赤松同族か)や井上が見える。
  さらに、中田一族は明石郡井川荘白水村(現・神戸市西区潤和)にも居住したが、この地の赤羽にも式内赤羽神社があった。同社は明石駅の東北二キロに位置する。
  こうしてみると、中田一族と伊和都比売神社・御坂神社が密接な関係にあったことが知られる。一族の大薮氏が岩屋神社の祠官となったのも、こうした古族(猿田彦神の後裔の海神族)の色彩をもつ背景からすれば、理解できるものである。

ト 中田憲信が仲田憲信とも書かれ、また親族に「名方」と表記する者(宣国のこと)も見られるので、いずれも「ナカタ」と訓むものの、中田宮との関係が薄れることも考えられる。明石・神戸周辺には端的な「中田」の地名は見られないが、淡路には津名郡津名町と洲本市に各々、中田の地名があり(ともに、天正期以降の地名かもしれないが)、前者の北西四キロほどに淡路一宮の伊弉諾神社が鎮座する。
  『和名抄』に「ナカタ」と訓が付けられる長田なら、近隣の播磨国賀古郡にも長田郷(東急本に奈加太と訓。加古川市南西部の尾上町長田一帯)、摂津国八部郡に長田郷(東急本に奈加多と訓。現長田区南西部)がある。前者の地には住吉大明神を祀るという式内尾上神社が鎮座し、後者にも式内の長田神社(祭神は事代主神とされるが、同神はエビス神の眷属神とも実体ともいう)が鎮座する。「長・長田」は海神族の本拠で奴国のあった筑前国那珂郡に由来する地名であり、蛇のナーガにも通じる。なお、海神族が繁衍した淡路にも、三原郡に長田村(現・緑町倭文長田)や長田川の地名が見られる。

チ 海神族には穴太・穴生(ともにアナフ)という地名が関係することが見られ、これに通じる英保(アボ)を氏の名とする英保首が播磨の古族として見え、前掲の伊和大社の祠官家にも英保(安保)氏が見える。その系譜は明確ではないが、おそらく宍粟郡の伊和君の同族ではなかろうか。室町期にも英保氏があって赤松家臣に見え、赤松同族ともいわれた(『赤松盛衰記』巻之中)。
  英保首が居住した播磨国飾磨郡英保郷(現・姫路市阿保で、市川の下流域)の隣には、大野郷があったが(『和名抄』。姫路市上大野から野里にかけての地域に比定)、中田氏の同族に大野氏があったことは、前述した。播磨に起った福岡藩主黒田長政の重臣に、姫路生まれの井上周防之房(平兵衛之正の子)があり、その家来に大野勘右衛門・同久大夫があった(『姓氏家系大辞典』のイノウヘ条、『系譜と伝記』第八号)。この井上氏は、信濃源氏姓井上氏の後と称したが、その実、明石の祠官家井上氏の一族ではなかったろうか。中田一族からも黒田長政に仕えた者が出ており、幕藩大名の黒田氏もその実際の系譜は、一般に通行する近江の佐々木一族ではなく、播磨地付きの赤松一族(実際には、古代の伊和君・英保首一族の流れか)庶流の出自だったと推される。
  なお、大野という地名は兵庫県にはかなり多いが、中世以前に遡るのは飾磨郡(現・姫路市)と明石郡(現・神戸市西区。明石駅の北五キロほど)、淡路の三原郡(現・洲本市)の大野くらいのようである。淡路の大野は古代南海道の大野駅に因み、猿田彦命を祭神とする白鬚神社が鎮座するが、淡路の長田の東五キロほどに位置している。

リ 中田一族と通婚例が多い常深氏については、『姓氏家系大辞典』でも項目にあげるだけで、記述はなく、系譜等が不明である。中田一族が賀名生朝臣姓に改める前は源姓と記されるから、同じく源姓という常深氏は中田一族の本家筋の可能性もある。播磨で繁衍して村上源氏を称した赤松一族には、常深の苗字は見えないから、おそらく別族であろう。
  常深一族の居住地が、美嚢郡の保木村(現・三木市保木で、吉川谷の入口)や小川荘上南村(現・三木市細川町瑞穂のうち)、淡河の木津(現・神戸市北区淡河町木津。保木の南西七キロほどの地)及び摂津兵庫とされることから考えて、常深は「志深(シジミ志染・縮見とも書く)の屯倉」に関係するものではなかろうか。御坂の御坂神社の前を志染川が流れるが、「シジミ」とは加古川の上流、志染川・淡河川流域に棲息する淡水の蜆貝(信深の貝)に由来するとみられ、漁労に関係ある名詞であり、志染屯倉の長は顕宗・仁賢天皇発見の功のあった忍海部造細目(風土記には伊等尾〔イトミ〕とあり、細目と同じか。彦坐王の後裔だが、これも実際には海神族の一系統三輪氏族に出る)であった。常深氏はおそらく忍海部造の族裔ではなかろうか。

  以上の事情から総合的に考えてみると、これだけ古社奉斎・古地名に関連するところからみて(いずれも傍証的なものにすぎないが)、中田憲信の一族は海神族系の古氏族の末流と推されるものであり、後南朝の流れを引くという所伝については、否定的な立場に傾かざるを得ないところである。本稿はこの辺で一応終えたいが、憲信や真年についての知見を持つ方や後南朝の関係に詳しい識者のご助言・叱正を賜れば、幸いである。
                                          (以上)

 (99/3/31一応完成、その後、適宜改訂増補、06.7.9及び10.10.16に追補)


  その後、本HPをご覧いただいた方から2003年4月下旬にご連絡いただき、「常深」を名乗る苗字は、現在、兵庫県三木市辺りと鹿児島県に見られること、前者は「つねみ」、後者は「つねぶか」と訓まれることなどのご教示をいただきました。
  それまで、信濃に深沢(
みさわ)という苗字があることを承知してはおりましたが、常深が「つねみ」とは考えてもいませんでした。たしかに、上記で常深は「志深(シジミ)の屯倉」に関係するものではなかろうか、と書きましたが、「志深(シジミ)」は正しくは「志々深」と書くのかも知れません。これに関係するのかどうかは不明ですが、大隅(鹿児島県)には志々目(宍目。シシメ)という建部姓大禰寝一族に出る苗字があります。
  ともあれ、本HPと系譜研究を通じて、いろいろな地域とご縁がつながることを実感しております。

   (樹堂)




 <参考> 早瀬晴夫氏著『消された皇統』の刊行

  後南朝の血筋を引くという家が明治の南朝正閏論を巡って注目を浴びたが、その殆どが系譜仮冒によるものではなかったかと考えられる。とはいえ、歴史のロマンを感じてか、南朝・後南朝について興味を持つ人々が現在でもかなり多いのではなかろうか。
  最近(2003.5)、愛知県在住の系図研究家早瀬晴夫氏が『消された皇統』を著して、この関係で世に伝わる多くの系図を網羅的に記載される。上記の性格上、これらは十分慎重に扱わねばならないが、同書が多くの参考となり、示唆を与えるものであることを記しておきたい。

 <追記> この早瀬氏もいまはご逝去になり、時日の経過を思うものでもある。

   (樹堂)


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