村崎真智子氏論考「異本阿蘇氏系図試論」等を読む −併せて阿蘇氏系図を論ず− 宝賀 寿男
一 はじめに 1 古代阿蘇氏の系図としては、昭和31年(1956)、高千穂阿蘇総合学術調査団の一員として参加した田中卓氏が阿蘇家で見出し、氏が高く評価したA「阿蘇家略系譜」、B「異本阿蘇系譜」(中田憲信所贈)、F「阿蘇系図」(阿蘇家伝第8巻)の三点があり、以上のABFの三系図に加え、C「阿蘇系図」(仲田信憲編と記される)、宮内庁書陵部蔵の阿蘇惟敦が提出したD「阿蘇家家系」など合計九本の系図を併せて、本稿では「異本阿蘇氏系図」と総称する(なお、系図A〜Iの順番は村崎氏が付けた記号によるが、そのうちE〜Iの五本はA〜Dの亜流とされる)。これらは、いわゆる「正本系の阿蘇氏系図」に対比するものとして知られている。
福島氏の記事の要点の一つは、異本阿蘇氏系図については、「村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」(国分直一博士米寿記念論文集『ヒト・モノ・コトバの人類学』1996年)が出され、この系図は、諏訪社宮司飯田武郷が文案を作り、中田憲信が系図としたと主張した。さらに阿蘇品保夫著『一の宮町史』自然と文化(1999年)が出され、偽作説は決定的になった。」※(下線は宝賀がつけた。以下の下線も同様)ということである。 これには、私として大いに異論があるので、その反論として上記の推論・結論が誤りないし疑問が大きいことを主張するものである。
※ 福島氏のHPの応答では、「系図の「偽作」という表現は用いていませんが、異本阿蘇氏系図が地元の阿蘇家に所在が確認されず、また豊富な阿蘇家文書にも関連する記事のみえない今のところ他に類本のない孤本であることが問題だと思います。…(中略)…「異本阿蘇氏系図」を「偽作」と一刀両断で切り捨てる前に、諏訪地方に残されている諏訪社神官家に関わる系図を含め、総合的な検討が必要と思います。ただ、確実な資料にもとづいて史実を論ずるという歴史の資料としては、現時点ではその取り扱いに注意が必要であるということだと思います。」という穏当な表現となっているが、私には、「偽作説は決定的になった」という表現を問題とするものでもある。
2 まず、大きくいって三つほどの事実を提示しておきたい。
その第一は、「異本阿蘇氏系図試論」(以下、「村崎論考」という)をよく読んでもらえば分かる話であるが、村崎氏は、@「諏訪大社上社の旧大祝家で明治17年に延川和彦が見つけた」短い文章のみの大祝家本「神氏系図」(この表現が紛らわしいため、以下では「延川発見神氏系図」と言い換える)は、「飯田武郷が文案を作り、中田憲信が作成したものと考える」と記している。これは、村崎氏の推論にすぎず、しかも飯田武郷が阿蘇系図に関与したとは一言も言われていない。村崎氏は主に「作成」という語を使うが(村崎論考には1個所「偽作」の表現がある)、彼女が私との応答を通じて「偽作」という語は語弊があるかもしれないとしているので(後述)、「偽作」という表現は阿蘇品氏のものである。 また、A「古代氏族系譜らしき特徴が、異本阿蘇氏系図に存在することについて、次の2つの可能性が考えられる」として、「A 中田憲信がこれらの点も含め、全面的に異本阿蘇氏系図を作成する。 B 中田憲信が何らかの先行史料を素材もしくは参考として、異本阿蘇氏系図を作成する。」という表現でAB両説をあげ、そのいずれかはまだ判断できない、と記述する。
さらに、B異本阿蘇氏系図9本は中田憲信が作成した2本もしくは3本が基にあり、「古代から伝わる古代氏族系譜としては、異本阿蘇氏系図はその信憑性を否定したい」と結論するが、「異本阿蘇氏系図と神氏系図とはそっくりではない」と認めてもいる。
以上の村崎論考の趣旨は、私として個所的には異論もかなりあるが、ある意味で穏当な姿勢ではないかとも評価できよう。しかも、論考末尾の<追記>で、「本稿は別稿(詳細篇)の要約である。宝賀氏の御教示を基に練り直さなければと思っている」とも記される事情にもある。
その第二は、村崎論考にも見られるように、私・宝賀は村崎氏と直接の面識はないが、阿蘇氏系図や中田憲信について、何度か来信・往信や資料のやり取りがあり、私が認識している情報を伝え、本村崎論考の刊行後も論考などの資料提供を受けるなどで村崎氏から連絡を度々受けていた。当時の私の多忙のなかで、あえて反論するまでもないと考えていた。しかも、2000年5月に村崎氏から受け取った私信においては、「「偽作」というと語弊があるかもしれません。中田自身は「偽作」という気持ちではなく、彼が発見した系図に、彼なりの研究の成果として、改訂(校訂)を施したという感じかもしれません」という表現もなされていた。 ところが、論考発表の十年後となる、2006年六月下旬になって、上記福島氏の記事を見、また阿蘇品氏の上掲書の記述を読んで、これは捨てておけないと感じたので、急遽反論の表示をするものである。従って、村崎氏よりも、村崎論考の趣旨を曲解ないし誇張した阿蘇品氏などに対しての反論が本稿の主眼であるが、その前提として村崎論考に対しても十分な検討と批判を必要とすると考えられる。
第三は、異本系の阿蘇氏系図には、もう一つ重要な系図がある。私が『古代氏族系図集成』を刊行した昭和61年(1986)当時は認識せず、その後まもなく知ったものであるが、津田啓次郎信学輯著『皇国世系源流』(国会図書館蔵)第二十一本に所載の中田憲信編の「阿蘇氏系譜」(J「源流本」と呼んでおく)がそれであり、阿蘇氏系図のなかで最も整理された形となっていると私は評価している。これで異本系は村崎氏のあげる九本と合わせて十本となったわけである。このほか、憲信の同学の志、鈴木真年翁の『百家系図稿』に数か所、阿蘇氏系図を記述したものがあることにも注意しておきたい(以下では、中田憲信、鈴木真年の名を多用するので、それぞれ「憲信」「真年」ともあらわすことにする)。 なお、最初にお断りしておくが、私は様々な資料を見てきたが、現在までのところ、B「異本阿蘇系譜」と「延川発見神氏系図」は未見なため、これらに及ぶ記述は推測にならざるをえない(註)。
(註) 最近(2023年春)、ネットオークションに中田憲信関係で「異本阿蘇家系譜」が出ていたとの情報があり、連絡を受けたところによると、その一部が写真掲示されており、そこには、最初に「中田氏異本阿蘇家系譜 蔵原家市原家及諸家出所表」の記事があって、神八井耳命から始まる系譜が続くものである。この文字は憲信の手によるものではないとみられる。……2023年4月に掲上。 二 村崎論考等への反論
実のところ、様々な点で反論したいと思われるのであるが、とりあえず気の付いたところであげておきたい。
1 中田憲信は何時の時点で阿蘇家に阿蘇系譜を贈呈したのか 阿蘇家所蔵のB「異本阿蘇系譜」には、外題が「中田憲信所贈 異本阿蘇系譜」と記されるということなので、また、C「阿蘇系図」の奥書等から、「仲田信憲(表記はママ)編纂」の阿蘇家(もしくは阿蘇神社)に所蔵された系図を北里栄喜が人に頼んで謄写し、この北里本をさらに昭和五年(1930)に上妻博之が謄写した事情が知られるから、中田憲信は自分自身が関与(普通は「編集」ないし「編纂」という語のはずであるが、「作成」とか「造作」という語を使われる人もいるので、とりあえず「関与」としておいた)した阿蘇氏の系図を阿蘇家に提示・提供したことは確かめられる。ところで、その時期はいったい何時であったのであろうか。 村崎氏は、BC二本の系図を下に述べる事情から明治八年(1875)以前に成立したものと考えた。C系図の末尾が惟孝の子の伊麿で「明治十九年出生」という記事になっていることについては、「明治8年以降に阿蘇神社側で加筆された」と氏は考えられる。C系図の阿蘇家側の現物があれば、それを見れば、憲信作成後に加筆があったかどうかははっきりするが、それができないので推論すると、同系図には少なくとも四個所(惟敦の兄弟二人、惟孝及び伊麿の各尻付記事)について明治十年以降の独立した記事があるので、こうしたこまめな加筆を所蔵者側が行ったかについては疑問がある。
さて、明治八年以前に成立したと村崎氏が考える事情は、次のようなものである。
(ア) 水戸彰考館の史官丸山可澄が貞享二年(1685)に当時の阿蘇大宮司友隆家の蔵本を謄写したが、そのときに阿蘇家では正本系の系図を差し出した。ところが、明治十三年(1880)に阿蘇惟敦が宮内省華族局に提出したのは異本系のD「阿蘇家家系」であった。近世末期まで阿蘇家の正史や流布本に記載されている系図は、全て正本系である。
(イ) 「明治8年5月成立の『阿蘇家伝』第7巻の、阿蘇惟敦の補遺の部分には「会知早雄命御子阿蘇比盗_」とあり、惟敦は中田憲信著「諏訪家譜」を知っている。これにより明治8年の時点(このとき中田は41歳)で、既に中田から阿蘇家に中田著「諏訪家譜」や中田作成の異本阿蘇氏系図B、Cが送られていた可能性が高いと考える。」(村崎氏の表現のまま) (ウ) このほか、@異本阿蘇氏系図独自の神名・人名を作成できる力量は阿蘇惟敦よりも、中田憲信のほうが高いこと、A系図の内容比較からB・C→Dの可能性が高いが、その逆は可能性が低いこと、という事情もある。 これら村崎氏があげる論拠について、各々反論をあげる(「ア」に対応するものとして「あ」という形をとる)。
(あ) 本宗家に残存しない良本の系図が早くに分かれた遠隔地などの支庶家・分流に伝えられることはありうることである。阿蘇家については、南北朝期以降、いくつか分裂抗争を経て、文禄二年(1592)には当主の大宮司惟光が滅ぼされ、慶長五年(1600)になってその弟・惟善が再興を認められるまで没落していた事情もあり、これらの混乱を通じて家蔵資料の散失も十分考えられる。阿蘇氏の系譜に諸本があったことは、上記の『皇国世系源流』で「坂梨本、蔵原本、笹原本、宮西本……」と合計八本等を合わせて校合したという記事から分かる。
(い)(1) 憲信が何時「諏訪家譜」を著したかの問題であるが、管見に入った憲信編の「諏訪家譜」は明治三七年(1904)刊行の『好古類纂』第2,3集に掲載のものだけである。また、憲信編の『諸系譜』には、諏訪氏関係の系図も散見するが、同書の成立は明治二八年(1895)以降とみるほかはない(『『諸家系図史料集』解題目録』雄松堂出版)。 (2) 憲信は、明治二年(1869)五月に関西から出て、同年九月に京都の弾正台に出仕拝命したものの、明治四年の五月〜七月は大阪勤務をするなど勤務先の変更があり、明治四年八月に在京で司法省勤務となって以降しか、諏訪氏の系図研究に取りかかれなかったのではないかとみられる。さらに阿蘇氏の系図まで研究し成案を得て阿蘇家に送りつけることが明治八年までにできたかどうかは疑問が大きい。
※中田憲信の年譜・業績についての説明 (う)村崎氏は、私宛の書信で、国学院大学日本文化研究所編『和学者総覧』により、明治6年に享年39歳で没したとばかり思っていた、と書いており、私から正しい没年(明治43年、享年は76歳)の連絡を受けて愕然としていたから、彼女の立論の基礎が大きく崩れるものでもある。 (3) そもそも憲信が何時から系図研究を始めたのかが不明である。推測できるのは、明治十五〜十七年(1882〜84)の大阪控訴裁判所勤務のときに上司の所長であった児島惟謙(のちの大審院長)の家系を採取した事情が『諸系譜』から知られるから、これ以降は問題がなかろうというくらいである。明治初期の弾正台勤務の時に系譜採取の様相も窺えるが、実際に整理・編纂をしていたかは不明である。 (4) 阿蘇惟敦が華族に列したのが明治五年(1872)五月のことであり、この頃から阿蘇家が東京で活動したことはありえようが、それ以前に憲信と阿蘇家とが接触を持ったとは憲信の行動歴・経歴から考え難い。上記のように、憲信が関与した阿蘇家の系図は少なくとも三本あり、阿蘇家から要請がなければ、これだけ憲信が阿蘇氏諸家の系図に関わることは考え難い。憲信について、ここまで系図に関与した例は他の家にはない。また、『玉』所収のH阿蘇系図抄も、帝国古蹟取調会(明治33年に設立)を通じる憲信と井上頼との交誼(両者はともに同会の調査委員であった)のなかでなされたものとみられる(村崎氏の見解に賛意)。
(う)@(1) 系譜関係の知識・能力は、阿蘇惟敦よりも憲信のほうが高いとしてよかろうが、他の本に見えないような阿蘇氏系図独自の神名・人名を造作することは極めて難しいことである。異本系の古代部分の神名・人名やその記事は、他の氏族の古代関係と照らしても整合性がとれており、不自然さがないことには十分留意されるべきであり、これは村崎氏も一部認めておられる。戦後の歴史学界に風靡した津田亜流の学究は安易に史料や系図の「造作・捏造」をいうが、整合的・合理的な系図の造作はきわめて難しいという実際の認識に欠けている。 (2) 憲信にせよ、真年にせよ、明治当時ではたしかに優れた系図研究家であったが、かれらが系図を偽造したという具体例はない。優れた系図研究家を即、「系図偽造のプロ」と決めつけるのは論理の大きな飛躍である。「系図家」とか「系図知り」という語が「偽造」の意を含むのなら、このラベルを真年や憲信に貼るのは不当な評価と言わざるをえない。飯田瑞穂氏の「郡評論争余談」の所論が誤解されて、これがどうもひとり歩きをしている模様である。 憲信は明治二九年(1896)五月の甲府地方裁判所所長退任まで裁判官・検察官(秋田と徳島では検事正を務めた)の職掌をもって行動しており、それが系図偽造(私文書偽造)という犯罪行為をしていたということなら、それは職業倫理にも大きく反する。憲信が「至誠・熱情」の人であったことは、万葉叟による「中田憲信翁」と題する記事※(『日本及び日本人』昭和七年四月号)からも知られる。 なお、系図研究家としては、多くの系図をもとにこれらを校合し一つの系図に「編纂」することは当然の作業であり、これを「偽作」といって混同してはならない。
※『日本及び日本人』の記事をもう少し引用しておくと、つぎのような表現がある(なお、漢字は旧字を改めた)。 「皇室の御事か国家社会の事、教育の事、宗教の事等で、ただの一度も此の翁から一人一家の私事を耳にした事はなかった。」 「中田翁は裁判官であったが、裁判をする事の起らぬやうにと力める真の生きた裁判官であったのである。」 「国語問題、教科書問題のために、恩給まで質に入れて、国家のため、教育のために尽され、其の最後は申すも申し難い事であるが、それらのために心身を過労し、窮死せられたと云ふ方が中って居ると思ふ。」 A系図の内容比較からいうと、もと(原型)の系図がなければ、総じてB(Cは未見なので、コメントできない)→Dという可能性が大きいであろうが、両者は建男組命の位置づけに大きな差異があり、建男組命(火国造等の祖)の古代における重要性を考えると、B、Dにはそれぞれ別の原型系図の存在が考えられる。
2 「源流本阿蘇氏系図」の意味するもの
(1) 静岡市の津田啓次郎信学は明治後期に全四十三冊からなる輯著『皇国世系源流』を著したが、その自筆本が明治四三年十二月に購入されて国立国会図書館に所蔵される。同書は大系図集であるが、多くは『群書類従』や『改選諸家系譜』『諸家系図纂』など流布する系図集からの転載であって、氏族毎に系図を集めて利用に便宜ではあるものの、他書に見ない系図は少ない。ところが、阿蘇氏についてだけは特別なものとなっている。すなわち、同書の第二十一本に皇別第一巻四十二として阿蘇氏の系図が記載され、最初に正本系の系図が、次に中田憲信編纂の「阿蘇氏系譜」(J)が掲載される。 同系譜は、神武天皇第二皇子神八井耳命から始まり、途中の傍系はあまり長く記さず(科野国造関係も二代目の健稲背命までしか記さない)、末尾は阿蘇惟敦の子の惟孝の世代という明治後期まで至るものである。惟敦の子としては、某、惟孝(初名三千丸、阿蘇神社宮司従四位)、惟教(大里鶴千代)の三人をあげている。C北里本「阿蘇系図」が惟孝の子の伊麿まであげているので、これより早い成立とみられそうだが、よく比べてみると、C北里本が惟孝について「従五位」と記して明治十六年の記事まであり、伊麿に明治十九年出生の記事があるが、J源流本は、惟孝の父・惟敦について「同(明治)十七年七月八日授男爵、同廿六年二月九日卒」、惟孝について「従四位」と記すから、J源流本のほうが成立が遅いことになる。この明治二六年から四三年までの間に、J源流本の成立があったことになるのだが、これがすべて憲信の手で記載されていたのである。『皇国世系源流』にはほかにも憲信について触れるところがあるから、なんらかの親交が編著者と憲信の間にあったことがうかがわれる。
こうしてみると、C北里本に明治十九年までの記事があるにもかかわらず、「明治8年以降に阿蘇神社側で加筆された」とみた村崎氏の推測が崩れることになろう。先に、四個所ほどの阿蘇家側の加筆ということについて疑問を出しておいたが、J源流本の記事を考えると、明治十九年以降の記事を含めてC北里本の全てが憲信の手によると考えたほうが自然だということである(なお、『神道大系』に紹介された北里本は、何回かの転写を経ていて誤記がかなり見られることに注意)。
かりに、最終記事の直後に各本が成立したと仮定すると、C北里本の成立が明治十九年、J源流本は明治二六年ということになる。そうすると、もう一つの中田憲信所贈とあるB「異本阿蘇系譜」が、これらより飛び抜けて早い時期の成立とは考え難い(おそらくC北里本かA略系譜本とほぼ同じ時期かと考えるほうが自然であろう)。B系図の記事が具体的に分かれば、もう少しコメントできそうであるが、その末尾が建久年間在世の惟泰ということくらいの情報しかなければ、手がかりが得られない。
ついでに、A「阿蘇家略系譜」の現蔵本は新しい写本とのことであり、その原型があるのなら、そちらのほうに加筆があったのかどうかということで、その成立時期が変わってくる。田中卓博士により紹介される古代部分については、明らかに明治に書かれた記事があるからである。具体的には、@大田臣について「是火国意富宿祢祖、即今之大村伯爵等之先」、A建加恵命について「火君忠世宿祢等祖也、肥前竜造寺一族出自此命之苗胤、多久諫早両男(※この6字は小さい)」とある記事である。大村家が伯爵位を授かったのが明治十七年、多久・諫早の両家が男爵位を授かったのが明治三十年だから、@Aの加筆が同時か異時かによるが、田中卓博士が書かれるように現蔵本の全文が一筆で書かれていたのなら、現蔵本の写本ないし成立(現蔵本が写本ではない可能性も考えられ、その場合には成立となる)が明治三十年以降となる。なお、Aの記事が少し異色ともみられるので、これを別の筆としても少なくとも明治十七年以降の成立となるが、最後が惟敦(明治廿六年二月九日卒)とその弟妹で末端が破られていると田中博士がいうことであるから、明治廿六年二月以降の成立となる。
さらに注意すべきは、多久・諫早の両家が竜造寺一族の出自であることはよく知られる事実であるが、それ以外の上記@Aの記事は、明治の阿蘇家関係者が加筆できるような内容ではないことに留意される。明治に加筆できる者がいたとしたら、それは憲信以外には考えられないということである。肥前の竜造寺一族は、一般に秀郷流藤原氏と伝え、また実際には高木氏と同族と分かっても、高木氏も藤姓と称し、肥後の菊池と同族と伝えていたから、「火君忠世宿祢等」から出たという知識は、阿蘇家にあったとは考え難い。ところが、憲信編纂の『諸系譜』第十四冊所収「佐藤系図」には、肥宿祢時清の孫の季嘉が肥前国小津東郷に住んで竜造寺太郎と号したという記事が見えるのである。 ましてや、大村伯爵の先祖が火国意富宿祢だという話は、まったく思いもよらない(この関係では、未だに私の管見に入った系譜はない)。そうすると、これに近い原型が原本系図にあったか、憲信の知識で付加したかのいずれかになろう。いずれにせよ、上記@Aの記事に憲信が関与した可能性が十分考えられる。
(2) 憲信や真年は、その編著作や草稿にあげる系図を何時、どこから採取したのかをほとんど記さないが、源流本には参考とした系図が列挙されている。すなわち、はじめに「肥後国阿蘇氏之系有数本曰坂梨本、蔵原本、笹原本、宮西本、甲佐本、猿渡本、市原本、霜宮祝本等也、…(中略)…、特如甲佐本宮西本不然蓋記其本実耶今各本相補備以左掲録之云」と記される。ここに掲げられる諸本が憲信の編纂した阿蘇氏系図の原本といえそうである。
これに関して、村崎氏のご教示によると、『阿蘇家伝』にはこうした諸本がかなり掲載されるが、そこには憲信関与の系図に見られる記事がないとされる。たしかに、「享和元年12月.原題:草本阿蘇家伝(明治8年5月写)」という『阿蘇家譜』(東大史料編纂所蔵)の第六冊には、「阿蘇家伝六 阿蘇惟敦」とあって、「元家臣倉原市原猿渡及霜神社の祝山口某の家に伝ふる諸本」という記事が見え、笹原系譜、猿渡系譜、市原系譜、霜宮祝家本などの最初の部分が記載されるが、異本系の記事が見られない。しかし、甲佐本や宮西本の内容が分からず、これらに異本系の記事があった可能性が残る。阿蘇一族の宮西氏は、江戸山王の社家にもあって、そこになんらかの系譜史料が伝わったことも考えられる。あるいは、村崎氏が言うように、信濃の諏訪一族関係になんらかの史料が残ったこともありえよう。
現在の段階では、憲信の編纂過程は不明であるが、憲信は多くの諸本を校合して阿蘇氏系図を編纂したと記述していて、これを覆す根拠がある、とは私には思われない。 3 阿蘇氏系図と神氏系図などとの関係
(1) 憲信や真年が諏訪氏一族の系図を採取していたことは、『諸系譜』や『百家系図』『百家系図稿』などの記事から知られる。諏訪氏一族の系図にも多くの諸本があって、混乱もかなり見られる。だからといって、彼らが系図を偽作したことには結びつかない。尊経閣文庫には前田家本の『神氏系図』があって、静嘉堂文庫には真年がこれを忠実に謄写した『神氏系図』と同様な内容の飯田武郷写本(『諏方氏系図』という表題)とが二本所蔵される事実をとっても、その謄写作業の中味が知られるものである。 阿蘇氏系図に関係のあるところでは、C北里本には科野国造とその後裔一族の金刺舎人・他田舎人の系譜が詳しく記載されているが、これは後世までこれを伝えた伊那郡知久郷(現・下伊那郡喬木村一帯)を本拠とした知久氏の系図などを原型として、これからの転載ではないかと考えられる。喬木村の資料館には二本の「知久家系譜」が所蔵されると村崎論考でも述べられ、私はその現物は見ていないが、知久氏の後裔となる知久利雄氏が『下野の姓氏』第九号に紹介した「下野知久氏の祖 右衛門八の祖先について」という稿にかかげる系譜と記事とから、このように考えるわけである。
憲信自体は、職歴からみても信濃に居住したことはないが、東京や甲府(明治25〜29年)に居たことでこの方面の系図史料の入手はできたのであろう。延川和彦・飯田好太郎編の『修補 諏訪氏系図』には憲信著引抄の「一本金刺氏系図」が記載されており、この飯田好太郎には『諏訪史料名家系譜』という明治三〇年刊行の著作もあるから、この頃までに憲信が信濃の諏訪・金刺などの系譜に関心をもって行動していたことが知られ、その過程で憲信や真年は様々な科野国造や諏訪大祝に関係する系譜(後述)を採集したものであろう。信濃には『諏訪史料叢書』や『蕗原拾葉』などに見るように多くの系図が散失せずに残ったという事情もある。
そうすると、知久氏系図に見るように古代からの系図が信濃に残っていたら、飯田武郷が系図偽作する必要などなく、また憲信が偽作に関与する必要もない。C北里本の阿蘇系図に記載される信濃関係部分には原型があって古伝を伝えるが、その一方、阿蘇関係部分はすべて偽作だというのはバランス感覚上極めておかしいのではなかろうか。
村崎論考では、「飯田武郷の「近キ頃信濃国ノ一故家ヨリ神家系図〔神氏系図とほぼ同じ〕ト題スル一本ヲ取出タリ」とする報告(飯田武 1888:26)は、私見では飯田の嘘だと思う」と記述し、また「神氏系図は飯田と中田との偽作」と推察するが、これらは論拠が薄弱と言わざるをえない。飯田武郷の「弟子」が憲信だと村崎氏はみられるが、私が憲信の生涯足跡を追いその著作で知られるもの現存全てに目を通した限りでは、憲信が飯田武郷に師事したことはなく、両者が同じ平田門であったことが知られるものの、飯田が平田篤胤に師事したのはその死没前一年弱の期間とされ(『飯田武郷伝』)、真年・憲信のほうは平田鉄胤に師事した事情がある。憲信と飯田との密接な接点を関係資料からとくに見出すこともできなかった。
例えば、憲信や真年の編著作には、それぞれ互いの研究成果が記載される例がかなり多いが、憲信関係で飯田武郷を思わせる記述には当たらなかった。かりに飯田武郷が「偽作」に関与したとしても、その能力が及ぶのは信濃関係に限られるものであろう。また、真年のほうの交友関係にも、飯田武郷の名があがっていない(『鈴木真年伝』)。いずれにしても、村崎論考作成時点では、村崎氏は、憲信について殆どご存じなかったとのことであり(肝心な没年すら誤記記事を信頼した)、憲信については疑問な推測が多いことに読者は十分留意されたい。 (2) また、村崎論考では、「宮地直一によれば、神氏の古代系図すなわち神氏系図は、中田憲信著「諏訪家譜」(明治37年、1904)に収められたものがもとであるという。つまり宮地は神氏系図は、中田憲信が作成したと言っている」という記事があるが、これも宮地直一の勘違いにすぎない。鈴木真年や中田憲信の多大な系図収集という成果を知らなかったということである。
ここで、明治二七年に六四歳で死去した鈴木真年について、阿蘇系図や神氏系図の収集ないし記載を記しておくと、成立年代が不明な『百家系図稿』に多く所載があり、巻三に他田舎人直と宇治部君(阿蘇氏のこと)、巻五に諏訪、巻六に神、阿蘇、巻八に岩下(薩摩に遷った阿蘇一族)、巻二一に阿蘇(尾張を経て下野に遷った阿蘇一族)などがある。同書には、金刺舎人・金刺宿祢関係の系図も多く、目に着いたところでは巻二に手束、巻六に手塚、武井、巻十に金刺という諸氏が記載される。
以上の系図のうち、とくに注目されるのは、『百家系図稿』巻三に所収の他田舎人直と宇治部君の系図である。この系図は、速瓶玉命と建稲背命を兄弟として、前者の後の阿蘇氏系統は惟泰と国則・惟則兄弟まで続き、後者の後の他田舎人氏系統は知久氏の祖の信貞(C系図の信濃系統末尾に見える中津乗又太郎信忠の孫)の兄弟・従兄弟の子の世代まで続いているから、中田憲信が阿蘇家に所贈したB「異本阿蘇系譜」に相当するのがこの宇治部君の系図ではないかと推される(村崎氏の記述からは、B系図には知久氏部分がないように読みとれる)。
この系図をまとめた形で原蔵した者がいたとしたら、それは信濃の知久氏でしかありえない。憲信と真年のどちらがこの系図を先に入手したか不明であるが、憲信が勝手に偽作したものではないと考えられる。最初の入手者が真年(その蓋然性が高いと思われるが)だとしたら、憲信はこれを書写すればよいから、かなり早い時期に阿蘇家に提供したことも考えられるところである。以上の推測が正しければ、異本系統ではB系図の成立が最も早かったことになり、この点では村崎論考とも合致しているが、成立時期は不明としかいえない。
一方、中田憲信関係では、『諸系譜』第十冊や『各家系譜』第六冊に宇佐神官四姓中の漆島(ぬりしま)公の系図があって、そこには神八井耳命にはじまり建男組命を経てその子孫に及ぶことに注目される。建男組命の周辺の人物として、火君・大分国造・伊余国造が系図に現れるほか、建男組命の七世孫の会田公には「火君忠世宿祢祖」という記事まである。憲信には『皇胤志』全四巻という古代からの皇室・皇族の系譜もあって、そこでも多氏一族の系譜が見える。これらの系譜により、神八井耳命にはじまり阿蘇氏の速瓶玉命に至る系譜部分を補うことは可能であったわけである。『諸系譜』では、第四冊には他田舎人姓の深沢・五味氏、第六冊に神氏、第十三冊に諏訪氏、第十五冊に手束氏の系図もあげられる。このほか、真年所蔵の各種系図を憲信が利用できたと考えてよさそうである。『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939刊)によると、憲信には「神家系図」(一本金刺系図も含む)や「知久家系譜」という著作があるとのことである。
(3) 繰り返しになるが、系図編纂という作業では原本が複数あって、それらをまとめて整理し、そのなかの良本をもとに一本の系図とすることもあり、その場合に阿蘇氏系図と言っても、阿蘇氏以外の氏族に伝えられた系譜部分により本体の系図を補うことも当然ある。これは編纂作業の一環であり、「偽造・偽作」というべきではない。憲信がJ源流本であげた阿蘇系図諸本から憲信編纂の阿蘇氏系図が復元できなくても、その復元できない部分は憲信が偽造したとはいえないと言うことである。
ここまでの記述から総括的にいえそうなのは、「憲信についての系図偽作の疑惑は誤りであること」のほか、
@憲信が明治八年頃までに阿蘇氏系図を作成して阿蘇家に提供したというのは、疑問が極めて大きい、
AA「阿蘇家略系譜」の現蔵本にも憲信が関与しており(この点は村崎氏も考えておられる模様)、阿蘇家にはほかに原本がなかったことなどからみて、これは写本ではなく、原本そのもの(ないしそれに近い存在)であった可能性もあって、その成立は明治三十年代ではないかとみられる、
B阿蘇氏系図の初期部分は、阿蘇家以外の諸氏に伝わる系譜が採り入れられた可能性があるが、明治十三年の阿蘇惟敦の提譜が何に基づいたかにも係っている、
C明治十三年の阿蘇家の提譜に憲信が関与したことの確証はない(阿蘇惟敦が何に拠って提譜史料を作成したのかは、現時点では不明としかいえない)、
D鈴木真年の死去時期から考えると、明治二十年代前半頃までに真年は多くの阿蘇・信濃関係系図を入手し、同志の憲信もこれらを利用し、また独自に系図を採取して研究を進めたとみられるが、編纂・整理して公表・刊行したのはおそらく明治二十年代後半以降ではなかろうか、
などである。
4 阿蘇品保夫氏の所説への批判
村崎氏が阿蘇神社や阿蘇氏の研究に関して師事してきた阿蘇品保夫氏は、『一の宮町史』シリーズのなかで「自然と文化 阿蘇選書A 阿蘇社と大宮司」(1999年刊)を著わし、異本系阿蘇氏系図の偽作説を鼓吹した。しかし、この偽作説には疑問が大きい内容があるので、ここで具体的に反論しておきたい。 (1) 阿蘇品氏の記述には、村崎論考の真意を示しているとは思われない個所がいくつかある。村崎論考が「異本阿蘇系図の信憑性をはっきり否定した」ものではないこと、「偽作」というのは語弊があるかもしれないとも村崎氏が考えていたことは、すでに述べたとおりである。 村崎論考で「偽作」の臭いを感じさせるものがないではない。それが、そこに引用される飯田武郷の孫の小沢正元の伝聞(武居幸重「阿蘇氏系図一件」)であり、神氏系図の文案は祖父飯田が作って、実際に飯田の弟子が書いたという趣旨であるが、飯田が諏訪氏(神氏)の系図を謄写したことは先にも述べたことであり、他の神氏一族の系図類も、諏訪大社の宮司として武郷が当然目にしていたろうから、何もないところから根拠もなく系図を偽造したことはまず考え難い。本来、伝聞証拠は証拠力が弱いものであるが、それはともかく、神氏一族の系図類等を検討して現在に伝わる神氏系図の文章の原案を作り、その弟子が清書したと解するのが自然ではなかろうか。「作成=偽作」と受け取るのは過剰反応であろう。憲信は、飯田武郷の弟子ではなかった。
そもそも、具体的に異本阿蘇氏系図のどこに「偽作」があるというのだろうか。村崎氏が異本阿蘇氏系図と神氏系図を比較して、両者が類似する部分があるのは二点だけで、しかもそれは異本九点のうち系図Aにのみ見えると記述される。この二点とは、@神子・神代・弟兄子の三代、A健瓶富命・諸日別命の二代、に関することであるが、これはともに科野国造と諏訪大祝に関する系譜であって、阿蘇氏系図とは直接の関係はない。論理的に言えば、本質的ではない部分の類似が「偽作」の証拠になるものではない。もっと言えば、二点とも知久氏の系図に登場するものであって、内容的にも史実偽造とはいえない(次の(2)に記す「郡評論争」とも関係が全くない部分でもある)。抽象的な「偽作」論議はいい加減に止めたらどうだろうか。
(2) 「偽作」というからには、何のために偽作したのかという偽作の目的が必要かつ重要である。村崎氏は、これについては分からない旨、私信で書かれている。
ところが、阿蘇品氏も「何の目的も利益のないところに行為は生じない」と自覚されていて、「偽作」の狙いをいわゆる「郡評論争」がらみで記している。この記事は問題が大きい個所(上掲書46〜48頁)があるので、少し長くなるが最も肝腎な個所(47頁の真ん中の段落部分)を引用する。すなわち、
「そこで再び飯田瑞穂の所見が浮かび上がる。明治維新の功による新華族の系図に、国造→評督→大領という肩書の変遷を示す例がいくつもあり、その間の伝来を考えると不審であるという指摘である。中田のねらいは鈴木、中田、さらには飯田などが新華族の宮内省提出のために偽作した系図に不審を生じる者を警戒した故と考えられるのである。そこで依頼主と作成者の立場を守るために工夫されたのが、阿蘇家に異本系図を贈ることであったと推測される。古代以来、著名な阿蘇家の系図にも国造や評督、郡大領の注記があるとすれば、他の系図への不審の声は説得力を失うに違いないという読みである。」
この文章には、驚くべき予断・偏見と年代(時期)倒錯がある。それらを次にあげることにする。
(ア) 「鈴木、中田、さらには飯田などが新華族の宮内省提出のために偽作した系図」という表現は、いったいどのような根拠によるものだろうか、誰が言っているのであろうか、きわめて不審である。私は、宮内省に提出された華族系譜のほとんど全てを手にとって現物を見てきたが、「鈴木、中田、さらには飯田」が関与したと分かる系図は一点もなかった。しかも、この三人が阿蘇氏以外で「偽作」した系図とは具体的に何であろうか。具体的な根拠なしで非難するのは、正しい学問的姿勢とは到底思われない。
たしかに、真年や憲信の交友範囲に新旧の華族が多少おり(飯田については不明)、彼らはその交友範囲からその家に伝わる系図を採取して、その編纂した(あるいは草稿段階の)系図集に記載しているが、そのことが華族系譜提出のときに偽造に関与したと言えるものではない。本当に古代に遡るような古い由緒の家柄なら、国造や評督、郡大領という肩書など格別に必要ではなかったと思われる。真年や憲信の関与した系図集に関して、こうした大化前後の肩書に彼ら編纂者がこだわったと感じられるものは、皆無であった。
(イ) 国造や評督、郡大領の注記に関していうと、国造や郡大領の注記は多く現れるが、「評督」の注記はむしろかなり少ない。古代系図の専門家ともいえる田中卓博士がかつて「『評(督)』に関する新史料五点」と題した小論考(『日本上古史研究』第一巻第一号、のちに『田中卓著作集6』に所収)を発表したくらいの点数である。しかも、この五点のなかには華族とは関係のない姓氏の系図もいくつかある。 もう少し具体例をあげよう。「評督」の肩書が家系に見える元高知藩士の土方久元伯爵家(伝記『土方伯』に古代土形君からの家系図が記載される)がはじめ子爵を授けられたのは明治十七年(1882)、同二八年には伯爵に転ずるが、その提譜が阿蘇家より遅いことは当然である。同様に元高知藩士の河野敏鎌子爵家の家系(古代の小市〔越智〕国造末裔)にも「評造」「評督」の肩書が見えるが、子爵を授かったのは明治二六年(1893)であった。
阿蘇家は旧家として華族に列したのは明治五年であり、これは公卿・諸侯が約四七〇家が華族となった明治二年に次ぐ時期であった。旧藩士の新華族では、木戸が明治十年、大久保が同十一年に華族に列したから、阿蘇家が提譜した明治十三年以前に宮内省に提譜した新華族の家があるはずがない。早い段階で新華族となった家で、その家譜に「評督」の肩書が見えるものがそもそもいたのだろうか。ましてや、明治八年以前の時期にあって、提譜に関してそうした郡評の論議や疑惑など生じたはずがない。時期倒錯もいいところであろう。後の「郡評論争」に関して、明治の真年・憲信が気にかけるなんてことはありえない。
以上のように、具体的に見ていくと、阿蘇品氏の記事・主張には論拠がまったくないことが明白になろう。福島氏も長野県史を執筆するくらいの研究者なら、ご自身の手で事実関係をきちんと押さえたうえで判断されるべきである。阿蘇品氏のこんなにいい加減な論拠を吟味もせずに、異本系阿蘇氏系図について「偽作説は決定的になった」と書くのは、研究者として阿蘇品氏同様、資質と研究姿勢を問われるものではなかろうか。
5 阿蘇氏系図の内容検討と本稿のまとめ
村崎氏は大著『阿蘇神社祭祀の研究』を著された真摯な研究者であり、ここで取り上げた村崎論考の内容を批判したとしても、その地道に研究を重ねてきた姿勢を批判するものでは決してない。村崎氏の尽力により、阿蘇氏系図の諸本についての事情が分かってきて、この関係の研究におおいに貢献したことは高く評価できる。あとは、こうした諸本や諸事情を適切に活用することが必要だが、それを他の研究者が誤った、と私は考えるものである。 また、憲信や真年がやはり真摯に系図編纂をしたからといって、その紹介・編纂した系図の内容がすべて正しいわけでもないことにも留意される。系図には一般的にいって、出自・官位・官職などの部分において、仮冒や誤伝・訛伝が見られることが多く、それぞれ、個別具体的に十分な注意を要することが多いからである。
ここでは、論考が長くなったので結論的なものだけ、村崎氏の問題提起に応じて少し掲げておく。 @ 科野国造の祖の武五百建命と阿蘇氏の祖・健磐竜命とは、異人である。これは村崎氏に同説であるが、記紀編纂時までに科野国造・阿蘇国造が同族とされ多氏族に組み入れられたときに同人化されたことも考えられる。従って、信濃の諏訪大祝家のほうが阿蘇家よりも本流だと主張するまでの気持ちは憲信らにはなかったものと思われる(この点で、村崎説に反対)。彼らは、信濃の系譜所伝を否定するまでの判断もなかったのであろう。
A 阿蘇氏の祖の惟人命は武凝人乃君の名前が後世に転訛したものである。「惟人」という命名は古代では不自然だからであるが、この者が在世時に「君姓」をもったかどうかは疑問もやや残る。一本系図に見えるように、武凝人命としておくのが自然か。
B 阿蘇比当スが諏訪の会知早雄命の女とされることは疑問が大きいようだが、判断しがたい面もあり留保する。
<まとめ>
系図などを含め古文書は一般論として、常に史料的性格の厳密な分析・検討が必要である。その際、「厳密な分析・検討」とは史料の過剰な否定というはずではなく、過不足のない適切な評価が重要であることも併せて述べておきたい。
そうした事情を十分踏まえても、阿蘇氏系図や神氏・他田舎人氏などの信濃関係系図が、「現時点では歴史分析の史料としては用いることができないであろう」とする福島正樹氏の見解については、上記で述べてきた理由から大いに異議ありということで、本稿を締めておくこととする。
なお、ここに掲載する記事の大筋は、2006年6月29日から同年7月1日にかけての数日間で急遽作成したものであるので、多少の思い違いがあるかもしれないが、主旨には基本的にブレはない。今後気のついたところで表現等を修補していくつもりでいるので、この点について読者は寛恕されたい。
(2006.7.2掲上、同.7.9追補、07.11.12、23.04.27などにそれぞれ追補)
1 (上に関連して追補1)として 郡評論争と古代氏族系図 を掲上しましたので、併せてご覧下さい。 2 (追補2)として 阿蘇氏族系図の古代部分の検討 を掲上しましたので、併せてご覧下さい。 3 (追補3)として 「1994年歴史学界−回顧と展望−」記事と「阿蘇氏系図」 を掲上しましたので、併せてご覧下さい。 村崎真智子さんのご訃報 私が阿蘇神社と阿蘇氏系譜の関係で様々なご教示を受けた研究者・村崎真智子さん(もと鎮西高校教諭)が本年(平成18年。2006年)1月3日に逝去されました。享年52歳とのことです。村崎氏は平成5年(1993)出版の『阿蘇神社祭祀の研究』で翌6年に熊日出版文化賞を受けましたが、同著作などを通じて、阿蘇神社と阿蘇氏の研究に貢献されました。心からのご冥福をお祈りします。
恩師にあたる熊本大学教授の安田宗生氏の追悼記事が熊本日日新聞に追悼記事を掲載されています。
(2006.7.17 掲上) 「樹堂等の論評・試論・独り言・雑感」へ戻る |