(「村崎論考等を読む」の追補1)
郡評論争と古代氏族系図 宝賀 寿男
一 飯田瑞穂博士の「郡評論争余談」の記事
1 郡評論争に関連して、古代氏族の系譜史料が取り上げられたことがある。しかし、これは戦後になって田中卓博士が初めて立論したものである。
ところが、飯田瑞穂博士が「郡評論争余談」(『日本歴史』第426号)という短い稿で、かつて明治時代の華族提譜を見たことがあるが、「旧公家・旧諸侯出身の家の分はともかく、新たに維新の功績などによって華族の班列に入った家の系譜のなかに、他に所見のない珍しいものがあった。中で、古いところで、国造→評督→大領といふ肩書の変遷を示す例がいくつか目にとまった。…(中略)…全くの憶測であるが、これらの多くは、他にも類例があるやうに、新たに当時の知識にもとづいて作られたものではなからうか。」(下線は宝賀による)との見解を示された。
これに続けて、「「系図家」「系図知り」といふ語があるやうに、系図作成の専門家は、いつの世にもあり、この場合にも、そのやうな背景があったと考へることは、さほど見当違ひではあるまい。鈴木真年など、国学者で、その世界に名を売った者もある。国造→評督→大領の変遷は、それらの人々の知識・理解の反映であった可能性があらう。」と記される。 異本系の阿蘇氏系図を偽作として否定し、中田憲信を偽作者として断罪する阿蘇品保夫氏(及びこれに同調する福島正樹氏)においては、この飯田博士の記事を誤解された可能性が大きいが、その学問的姿勢は疑問が大きいと考えられる。彼らは、飯田博士が「全くの憶測」と断って示した推論を確認もせずに、既定の事実のように受け取った模様であるが、それに加え、田中卓博士の「『評(督)』に関する新史料五点」という論考(わずか四頁の短いものであるが、郡評論争においては重要な論考)を読んでいないと思われる。かりに読んでいたとしても同論考の意味を理解して分析を加えていないし、もっというならば、彼らが歴史的認識も知識も乏しいとみられてもしかたのない面がある。
こうしたことで、古代史研究に貴重な系譜史料を軽々に排除し、真摯な研究者を断罪して良いのか、というのがこの稿(追補分)の記述の基礎にある認識である。
2 私は、上記の記事を読んで飯田博士に私信を送り、どのような系図に「国造→評督→大領」という変遷が見られたかを問い合わせたところ、さだかに覚えてはいないが、宮内庁書陵部に所蔵の華族提譜のなかにあったとのことであり、これをうけて、私は昭和六一年代八月に書陵部へ出かけて華族提譜(『華族系譜』『続華族系譜』という名の系図集綴り)をすべて網羅的に調べた。当時はこうした閲覧が許されたのである(その後、また閲覧しようとしたところ、閲覧の仕組みが変わって、プライバシーの保護という観点から現代まで及ぶような家譜については、閲覧が許されなくなり、たいへん残念に感じた記憶がある)。
ところで、飯田博士が「いくつか目にとまった」と書かれていたので、期待して閲覧したが、清原真人姓・丹治真人姓の興味深い系図(山田家系図、安保家譜)は見つけたものの、残念ながらめぼしい古代氏族の系図にお目にかからなかった。もっとも、当時は郡評論争に関する記事より、古代氏族系譜そのものに関心があったので、郡評関係記事の検索だけに留意していたわけではなかったが、当時のメモから記憶をたどると、子爵河野寿男家(敏鎌の後嗣)の家譜に「評督」の記事があったのかもしれないという程度であった。この河野家が華族に列したのは明治二六年のことであった。
このほか、阿蘇家からの宮内省提譜にも「評督」の記事があるので、これも当然、飯田博士のカウントとなろう。あとは、「評(督)」が現れる可能性があるのは、大久保春野家(後述)、土方久元家くらいではなかろうかと思われるが、当時は確認しなかった事情にある。古代久自国造から系がつながる児玉源太郎家(明治三三年に男爵)・児玉清雄家については、「評(督)」の記事はなかった。
これら宮内省への提譜に、鈴木真年・中田憲信などの系譜研究者・国学者が関与したことも確認できず、彼らがかりに「国造→評督→大領」という知識・理解を持っていたとしても(これも確認できないが)、その反映ということができないものである。
以上の事実からいう限り、飯田博士の憶測・推測は見当違ひであったということになる。飯田博士とは尊経閣文庫主幹に在職時にお目にかかったこともあるが、数回の私信往来等も通じて、上記「郡評論争余談」には言い過ぎもあったかも知れない、というのが感触であったように記憶している。 二 田中卓博士の郡評論争に関する論考
「『評(督)』に関する新史料五点」という論考については、もう少し丁寧に書かないと読み方によっては事情が分からない可能性があるので、以下に具体的に敷衍して記述することにしたい。
1 田中論考の概要
坂本太郎・井上光貞両氏の郡評論争について、田中卓博士は、「上古史の研究にはつきものの、史料の不足といふことがこの論争にも大きな障害となった」と受け取られ、そのため、先に「和気氏系図」を紹介して、ここに“評より郡へ”という明証のあることを述べたことがあるとする。すなわち、従前の史料では同一の文献等のなかにこの二種類の用字が同時に記される例がなく、「郡」と「評」との移行関係を明らかにしがたい憾みがあったが、上記系図を用いることにより、「評造→評督→郡大領」という記載が親子孫の三代にわたって記されることから、“評より郡へ”という変遷が一目瞭然に示されることになったとされる。
こうした問題意識のもとで、博士が各地の史料採訪するなか気づいた「評」関係史料が数点に達したので、ここにその大要を紹介するとしている。従って、田中博士は、最初に掲げた「和気氏系図」のほか、@和邇部氏系図、A伊福部氏系図、B田島氏系図、C阿蘇氏系図、D金刺氏系図、の五点の要点をあげて、「評」の文字が見える個所を示し、解説を加えている。このうち、C阿蘇氏系図及びD金刺氏系図の出典は同じで異本系阿蘇氏系図に拠るものとされる。
以下では、田中博士の記述に加え、他の研究者の研究成果(佐伯有清著『古代氏族の系図』など)や私見により、具体的に説明することとするが、「和気氏系図」及び@〜Bの系図の所蔵者関係では、新華族はおろか華族になった家は皆無なのである。ここまで書けば、郡評論争と宮内省への華族提譜に関して、阿蘇氏などの古代系譜が偽作されたとみる阿蘇品説が明白に誤りだと分かるはずであるが、若干の説明も要すると思われるので、さらに記述を重ねるものでもある。
2 取り上げられた系図の説明と検討
(1) 和気氏系図
ここで「和気氏系図」と記されているものは、「円珍系図」とも「円珍俗姓系図」ともいわれ、園城寺の別当、天台座主を務めた僧円珍(智証大師)による自筆書入れのある腐剥欠落の文字もある系図で、現存のわが国最古の系図として国宝指定がなされている。円珍の俗姓は讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)であり、その生存中の貞観八年(866)に一族は和気公の賜姓があったので「和気系図」とも呼ばれるが、佐伯有清博士は系図に記載の人々の名前から賜姓以前(承和の初めの834年頃)に略系図を除く主要部分が作成されたとみるから、この呼び方は適当とはいえないうえに、備前出自の和気朝臣清麻呂の系統と混同されやすいという問題点もある。
さて、和気公・因支首の一族は、景行天皇の子の武国凝別皇子を始祖とするが、この皇子は『書紀』には見えるものの、『古事記』には景行皇子としてはあげられず、系譜上の地位に疑義がある。このことから分かるように、系譜の由緒・伝来が正しくとも、そこに記載される内容が史実に関して疑義あることはありうることなのである。
私は、別途の検討から、武国凝別命なる者は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族に出て、火国造の祖・建緒組命や阿蘇国造の祖・速瓶玉命、大分国造などの先祖、もっと端的に言えば応神天皇や息長君の先祖にもあたる人物で、子孫の一派は豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公らを出したものと推している(この辺は、拙著『息長氏』でもかなり記述した。ご関心の方は、参照されたい)。
これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程のなかで、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたものと考えられるが、皇室と同様に天孫族の流れを汲み、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていた。武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は「鉄塊」であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われていた。 円珍や和気公一族の子孫は後世に残らないから、円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し先祖の系譜を整理して日枝坂本の園城寺に残されたのは貴重である。こうした古文書に「評」という語の見えることは、郡に先行する評の存在を否定できないとしてよかろう。
そして、郡評論争そのものも、田中博士の掲げる論考等に見るように、主に第二次大戦後の昭和二六〜二八年に行われたものであり、「藤原京跡の発掘調査で出土した木簡の用字から、浄御原令での「評」が大宝令で「郡」になったことが明らかになり、一応の解決をみた」とされている(『日本史広辞典』)。
明治の鈴木真年や中田憲信が系譜研究を通じて「評督」という語は知っていたものの、評や郡とそれに関わる官職を特別に意識していたと考えるほうがむしろ疑問である。
(2) 新出の系譜史料五点
田中博士が掲げた五点、すなわち@和邇部氏系図、A伊福部氏系図、B田島氏系図、C阿蘇氏系図、D金刺氏系図、のうち阿蘇氏に関係のない最初の三点について具体的に見ていく。
@和邇部氏系図 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』に記載されるが、静岡の浅間大社の系譜であるものの、現在時点ではその出典は不明であり、田中博士は原本を求めて同社を訪れ八方手を尽くして系図を探してもらったが、見当たらなかったと報告される。ただ、これほど詳細ではないが、同社には別の形で伝わる「富士大宮司系図」があり(『浅間文書纂』所収)、世代や名前など基本的な点は相通じるものなので、原本が見つからないとはいえ、その史料性を否定できるものではない。ここで、「評」が見えるのは、傍系の久米臣の系譜記事であって、本体とはまったく関係がない個所であるし、その子孫も示されない。
太田博士は、この和邇部系図については、「真偽詳かならざれど、参考のために引用」「上古の分は偽作なり」として。記事内容的に疑問を呈しているが、これは古代の諸天皇の世代との対応関係が少ないという理由のようである。それならば、上古代諸天皇の世代配置のほうが応神以前ではおかしい(応神天皇以前の天皇家系譜には疑問が大きい)ので、却って和邇部系図のほうの信頼性を高めることにつながるものである。ただし、総じて言えば、系図は初期段階(ないし出自段階)の部分はいつも要注意であり、和邇部臣の本宗たる和珥臣一族が孝昭天皇の子孫であることは、後世の系譜仮冒であり(実際には三輪君などと同祖の海神族の出)、また駿河の浅間大社神主家の姓氏が和邇部臣であったことが認められるとしても、近江の和邇部臣氏から駿河への分岐が奈良朝前期という遅い時期であったかどうかについては疑問が残る。
駿河の浅間大社神主家一族から出た華族・新華族はないが、これには若干のコメントを要する。まず、大名家では米津氏が実質的にこの一族から出ているが、養猶子関係により同じ駿河の大森一族の血も引いていて藤原姓を名乗り、幕府へも明治政府への提譜もこちらの形になっている。
また、新華族となった幕臣系の大久保春野の家は、駿河ではなく遠江の遠淡海国魂神社の祠官家の出であるが、宮内省への提譜や中田憲信が編纂した『各家系譜』第四冊に掲載のその家譜は、まさに『姓氏家系大辞典』所載のものとほとんど類似する。とはいえ、大久保春野が陸軍大将となって華族に列したのが明治四〇年のことであり、阿蘇氏の提譜から大幅に遅れていて、相互に関係のない事情にもある。憲信の死去が明治四三年のことであるから、大久保家が華族に列し提譜を意識して、憲信に系譜作成を依頼したとは考え難い。むしろ、大久保家に伝わる系譜をそのまま自己の編纂する系図集に取り入れたとみるほうが自然であろう。
A伊福部氏系図 伊福部氏は饒速日命の後裔で、物部連一族から出て因幡一ノ宮の宇倍神社の神主家を古代から世襲した家柄であり、明治後期になって北海道に遷住し、最近なくなった現代音楽家・伊福部昭氏も出ている。この家も華族とは無関係である。田中博士が宇倍神社の秘蔵本を見たと記し、この原本を所蔵する北海道の伊福部家から大野雍熙氏が採取して『日本上古史研究』第1巻第10号に発表され、佐伯有清博士も原本を見られて「『因幡国伊福部臣古志』の研究」(『史学論集 対外関係と政治文化』第二、吉川弘文館、1974年)などで取り上げている。
本系図は『因幡国伊福部臣古志』といい、奈良朝末期の延暦三年(783)に一族の散位従六位下伊福部臣富成が編纂したものが原型で、その後書き継がれており、都牟自臣が大化三年(647)の小智冠から小黒冠、大乙下、大乙上と累進していく次第が『書紀』所載の冠位制の変遷に合致するなど貴重な所伝を伝えるから、内容的には概ね信頼してよかろう。個別にいうと、平安期以降の官位官職には後世の添削・追記による疑問点もかなり見えることに留意されるが、だからといってこの系譜の信頼性を否定すべきではない。
この系図でも、難波長柄豊前宮御宇天皇(孝徳天皇)二年に都牟自臣が水依評を立てその督に任じたと記される。
B田島氏系図 原本は不明であるが、私も田中博士と同様、宮内庁書陵部所蔵の写本「尾治宿祢田島家系譜」(「田島家系譜」という)を見たことがあり、尾張連氏の多々見について、「板蓋宮朝(皇極斉明天皇朝のこと)供奉熱田神宮」「年魚市評督」の記事があることに間違いない。また、書陵部所蔵の「尾張氏副田佐橋押田系図」にも同様の記事がある。
田島氏は尾張国造家の後裔・尾張宿祢姓のなかでも嫡流であるが、平安後期に熱田神宮大宮司職が大宮司員職の外孫の藤原朝臣季範(藤原南家の季兼の子)とその系統に移ってからは、同神宮で祝詞師・権宮司職を世襲して明治に至っている。尾張宿祢姓諸氏の中世以降の系図は、『熱田神宮史料』などに見える。大化前代に混乱が見られる異系本と比べて、田島家系譜は世代配置や命名に不自然なところがない。
熱田神宮では、明治五年七月に大宮司の千秋家(藤原朝臣姓)が阿蘇氏など他の有力社家とと同時に華族に列したものの、その他の同社祠官家で華族となったものはなく、従って宮内省への提譜も無関係である。
以上に見るように、田中博士が「評(督)」関係史料としてあげた史料四点は、阿蘇氏系図の提譜と無関係であり、憲信・真年とも無関係であることが明白になったと思われる。
(3) これら以外に、私が別途目にした土形君と越智宿祢については新華族に関するものだったので、本文で触れた。
また、利波臣姓の「石黒系図」にも「評(督)」が見える。同系図では、継体朝の波利古臣の記事に利波評、岡本朝(舒明天皇朝にあたるため、「後岡本朝(斉明天皇朝)」のことかと佐伯有清博士が指摘)の財古臣に利波評督が見える。これも原本は焼失の模様ということではっきりしないため、現在に伝わる系図が鈴木真年筆ということで、石黒氏後裔の石黒秀雄氏は鈴木真年による偽作説を唱えているが(『石黒氏の歴史の研究』)、『越中国官倉農穀交替帳』に見える人々が系譜に適切に記載されており、説得力が弱い。石黒秀雄氏には、自家に伝わるという利仁流藤原氏の系図が最も妥当だという認識があり、これ以外は排斥するという姿勢が強く見られるが、これはむしろ疑問である。越中の石黒氏は、養猶子関係などで藤原姓を名乗ったとしても、その実系は古代利波臣氏の後裔とするのが妥当だと判断される。
実は私は、郡評論争はまだ終えてはいけないと考えている。いま、すでに記したように木簡などに基づき、評は「大化以後、浄御原令制までの地方組織」で、これが「大宝令の施行によって郡と改称された」(『日本史広辞典』)とみられている。
しかし、「円珍系図」「越智宿祢系図」や「石黒系図」などに見るように、「評造」「評督」の肩書が数世代にわたって続いており、この期間を考えると、大化以前にも地方組織としての「評」が使われた可能性がある。その場合に、国造の置かれた「国」が全て「評」となったのか、比較的に小規模な「国」や県主が置かれた「県」が「評」に改められたのか(これとともに、後世の郡ほどの広さの「評」が別途置かれたこともあったか)、という問題点も生じる。古代氏族の系図からみる限りでは、私は後者の可能性もあると考えている。
こう考えると、利波臣氏の財古臣の活動時期が原文どおりの「岡本朝」(舒明天皇朝)で問題がなくなる。そして、世代的に考えると、後岡本朝よりも岡本朝のほうが年代が妥当なのである。 3 まとめ
以上、古代氏族系図に現れる「評(督)」について、管見に入ったかぎり取り上げて検討してきたが、この関係の系譜記事に疑念が感じられるものではないと思われる。
また、真年・憲信が作為的にこの関係の記事を偽作して自ら編纂する系図に書き入れたということも、まず考えられないことである。そのほかの事例でも、真年・憲信が系図を偽造したという例は管見に入っていない。この関係の認定は、十分慎重に総合的になされるべきものと思われる。
(06.7.5 掲上。その後も若干の追捕あり)
さらに、(追補2) 阿蘇氏系図の古代部分の検討 がありますので、併せてご覧下さい。 また、本文「村崎論考等を読む」へ戻る。 |