(「村崎論考等を読む」の追補2)

         阿蘇氏系図の古代部分の検討

                                      宝賀 寿男


  これまで、「村崎論考等を読む」の本文及びその追補1「郡評論争と古代氏族系図」を掲載してきて、阿蘇品保夫氏の「異本系阿蘇氏系図は中田憲信が偽作したものだ」という見解を打破したと思われるが、その一方で、(正本系の阿蘇氏の系図も平安後期までの記載内容に疑問があるので)平安後期の阿蘇大宮司宇治惟宣(鎌倉初期の大宮司惟安の祖父)以降しか阿蘇氏系図は信用できないという同氏の見解がまだ残っている。
  そこで、本稿では阿蘇氏の系図については、古代部分はどこまで信頼できるのか、あるいは信頼できないのかという観点から検討を加えるものである。

  そして、これは「村崎論考等を読む」の追補2という位置づけにもある。



  一 はじめに

 一般論としていえば、系図は、@長い年代・期間に何度かにわたり書き継がれたか、A長い年代に活動した多くの人々の人間関係を所伝史料を基にしてある一時期にまとめて書き表されたか、さらには@A併せた事情がある、というものである。そのため、どの家、どの社寺等に伝わる系図であっても、ほぼ例外なく、多くの問題個所を抱えている。具体的には、系図の編纂・転写・謄写のときの誤記や系線の引き誤り、作成者・編纂者・謄写者などの誤解や基になった史料自体に誤りがあるなど、問題の原因は数え切れない。これになんらかの系譜仮冒・系譜修飾や(実際には正当ではなくとも)正当な相続権があるという主張などの目的が加われば、ますます系図には疑問点が増えることになる。

 編纂等に関与した者が明確で、その編纂等の年代がまた明確であって、現在に至る伝来・由緒も問題がないとしても、系図の記載内容に問題個所がないとはならないということでもある。
 従って、国宝の「円珍系図」には初期段階の系譜に疑問がかなりあり(追補1参照)、国宝指定された「海部氏系図」に至っては後世の偽造であって史実に合わないことにも留意される。中世の専門家たる学究が推薦し文部省の専門部会の検討を経て国宝となった古系図「海部氏系図」が実は偽造で史料価値がないという衝撃的なこともある。こうしたたいへん難しい面があるから、系図という史料には、一般の古文書以上に多くの吟味すべきポイントや問題個所がでてくるものである。
  熊本県という地域を限れば歴史専門家であろうが、いわば在野の一研究者にすぎない阿蘇品保夫氏に系図偽作認定の決定的な判断などできるわけがない(こうした認識が福島正樹氏ら『長野県史』編纂者になぜなかったのかが不思議である)。氏は、県内各地の教員や八代市立博物館未来の森ミュージアム館長などの経歴があり、『菊池一族』『神道大系 阿蘇・英彦山』など数冊の著作もあるが、系図や日本古代史の専門家とまではいえない。系図の伝来という基準だけで(それも、正しく事実把握ができているかどうかの保証すらない場合に)、系図評価を判断してはならないといえよう。かつ、阿蘇品氏の判断には、村崎氏の著作の誤解も基礎にあるようであって、この辺にも疑問が残る。

 そして、系図の「偽造・偽作」すなわち偽書の定義はいくつかあるが、史実とは異なる内容が書かれた系図を広義で「偽書」というのなら、世に伝わる系図で上古代に遡るものであれば、その殆どが偽書とされることになる。そうした理由で、系図史料をすべて投げ捨てればそれでよいかというと、ただでさえ乏しい古代史料がさらに少なくなることになるので問題が大きい。現実に貴重な所伝を伝える個所もあり、個々的に判断がなされるべきであろう。
  注意すべきは、後世の偽作的な部分は、比較的特定されがちである。そうした個所としては、系図の初期段階、すなわち姓氏や苗字の発生段階や支族分岐をした部分、名家貴紳から養猶子を迎えたり養猶子となったりという個所においてなされることが多く、これらの部分に問題がなければ、あとはごく部分的な誤記か官位の修飾にとどまるくらいであり、ほぼ信頼できる内容となってくることもある。
  だから、個別にも多くの点から具体的で十分な吟味をしつつ、系図を史料として有効に活用していく必要がある。人間関係や歴史的行動の基盤にあるものとして、適切な批判・検討の下で活かしていくことが史実の実態把握に系図が必要なことはいうまでもない。(※系図の偽作に関しては、本HP内の「作家有島武郎の家系」の1 偽書・偽系図とはなにか の項でも詳しく述べるので、参照されたい) 
 
 さて、阿蘇品保夫氏は本文で掲げた上記著作『一の宮町史 阿蘇社と大宮司』で、異本系の阿蘇氏系図を偽作として否定し、正本系のほうの阿蘇大宮司惟宣以降の系譜しか信頼できないとする。阿蘇品氏の表現をそのまま引くと、「結局、信用できるの阿蘇氏系図は、十二世紀前期の保延から康治にかけて(宝賀註:期間は西暦1135〜44年)の「阿蘇大宮司宇治惟宣解」(阿蘇文書)の惟宣から以降が信用に足る系譜であり、この平安後末期の十二世紀前期は、十二神体制も確立し、大宮司の地位も固まった状況にあった」(同書48頁)という記事である。
  しかし、惟宣以前の系譜を認めない姿勢については、上記の観点から考えて大きな疑問がある。正本系の系図も後ろで併せて検討するが、阿蘇氏の歴代が傍系相続や神社神主(大宮司)職の相承の順位で系図化された可能性もあるので、惟宣以前の系譜が一概に問題だともいえない可能性がある。

 系図自体のチェック方法は多面的になされなければならないが(具体的なチェック方法は、太田亮博士の系図論等を踏まえた当HP内の系図の検討方法についての試論を参照のこと)、記事が信頼性のある史料や行動・通婚などで交流のあった他氏の系譜と整合性があり、その系譜自体でも、古代からの命名方法や世代配分、系図に現れる年代と官位の対応、地理的記事が具体的事情と整合などの総論的なチェックが可能である。こうした観点から言うとき、阿蘇氏の正本系の系図は、いずれも惟宣以前は実系としてみれば信頼性がおけないことは明白である。
 ところが、異本系のほうは、速瓶玉命から惟宣ないし惟安までの系図を見ても、二六〜二九代ほどの世代配分や名前の流れについては殆ど問題がないといってよい。これを、真年・憲信というプロの系図家が作成したからだという見方もあるが、たんなる憶測にすぎない。系図偽作はきわめて難しい(こうした認識は意外に浸透していない)うえに、系図の「プロ」が平気で偽作をするというのは、学究などの論者の大きな偏見であり、いわれのない非難である。彼らの職業倫理(弾正台、検察を含む裁判所や帝大〔東大〕の修史事業など)や、鈴木真年が系図学の確立を目標として励んだ生き方を考えると、人間的に殆どあり得ないことである。

 具体的な検討は、上掲の検討方法で(あるいは別途検討方法があるのなら、それに拠って)検討してみれば、と思われるが、私がチェックしたところでは、平安末期までの阿蘇氏系図は総論的には問題が殆どないと考えられる。
 とはいえ、これでは抽象的な議論だと受け取られそうなので、以下では具体的に異本系阿蘇氏系図が史実と合致・整合するかどうかを検討していくこととしたい。
 
 
二 古代の阿蘇氏の動向と系図記載
 
 古代の阿蘇氏系図を考えるとき、健磐竜命を阿蘇氏は始祖的な存在と伝えていても、「国造本紀」が「瑞籬朝御世、火国造同祖、神八井耳命孫速瓶玉命定賜国造」と記すから、この国造初代と伝える速瓶玉命から検討を始めておくのが無難であろう。といっても、崇神朝には大和朝廷の勢力が北九州まではまだ及んでいなかったとみられるから、同朝頃に九州で活動した速瓶玉命なる者が阿蘇国造家の初代という意味に置き換えて受け取るべきではあろうが。そして、ここでは速瓶玉命から鎌倉初期の治承・建久頃の大宮司惟泰までの系図を考えるということでもある。
 大宮司惟泰は、『東鑑』治承五年(1181)二月二九日条に反平家の行動をおこした輩のなかに南郷大宮司惟安と見えており、その子弟からは文書に登場する事情にもある。
 
1 阿蘇君氏の成立と支族分岐

(1) 阿蘇氏が大和朝廷の勢力圏に入ったのは、四世紀中葉の景行天皇の時代であろう。それは記紀の記述の流れからいっても自然であり、『風土記』逸文でも纏向日代宮朝で治世をもった天皇(景行)が阿蘇郡に来て、阿蘇都彦・阿蘇都媛という二柱の神が現れたとあるから、この二神が阿蘇国造の祖ということになろう。阿蘇国造が周辺の国造ともども成務朝に定められたとすれば、阿蘇氏系図に見える美穂主命が初代国造であって、景行朝の阿蘇都彦はその先代で健渟美命に当たる者か。「阿蘇家略系譜」(A系図という)では、美穂主命に「又曰阿蘇都彦命」と記すが、これは記す個所がズレている可能性があろう。
 
(2) 美穂主命の子とされるのが大宮司家の祖・武凝人乃君で、応神朝に宇治部舎人となって供奉したので宇治部公()姓を負うとA系図及び宮内省提譜の「阿蘇家家系」(B系図)等に見える。君などの古代の姓は履中〜允恭朝に設けられたとみられるから、武凝人乃君についての「君」は追記かもしれないが(その場合、人名表記としては武凝人命か)、長生きすればカバネの授与時期まで当人が生きていたことも考えられる。宇治部は応神の皇太子・宇治若郎子(菟道稚郎子)皇子の御名代であるから、応神朝に設置されたもので、そのときの武凝人が肥後の宇治部を管掌し、その職掌に因んで宇治部姓を負ったことはありえよう。
ところで、阿蘇国造の姓氏は阿蘇君であるから、国造家の本宗はこの姓氏を子孫に伝えたことになる。武凝人の時点ですでにこの系統の支庶家となっていたということであるから、A系図に見える武凝人の兄弟の味吹乃君に国造職は受け継がれたとみられる。味吹の孫の宇志瓶・吹羽の兄弟は、遠明日香大宮朝(允恭朝)に阿蘇直姓となり、その甥の馬甘は長谷朝倉大宮朝(雄略朝)に穴穂部直姓となったと記されるから、この辺は『書紀』雄略十九年三月条の記事と合致し、自然な流れといえよう。阿蘇本宗がどの系統なのかはA系図からは不明であるが、宇志瓶の後は記されず、吹羽の後は春山その子・大渕まで記されていて、それ以降は記されない。
 
雄略天皇の皇后若日下命に因むとみられる日下部(草部)も阿蘇にある。すなわち、阿蘇神社の神官のなかに草部権大宮司家のほか、年祢祝・修理職検校・諸神祝・擬大宮司(苗字はいずれも宮川)として見える。もう一つの権大宮司家の下田権大宮司家も、草部権大宮司家の祖・草五郎吉治の兄の草部四郎吉成の後裔という系譜があるが、後に阿蘇一族から養子が入った形になっている。地名としても阿蘇郡東南隅にあたる現高森町草部に遺名地があって、草部吉見神社が草部一族の祖神として鎮座することも興味深い。
 この阿蘇の日下部公氏について、東博所蔵の『惟宗家系』(編著者は不記載も、筆跡等から中田憲信とみられる)の巻末に付記され、建草辺命(吉見神)の子の建日那古命の後裔として長く見える。
 
(3) 『日本書紀』には宣化天皇の元年五月条に阿蘇仍君(名前は不明)が見え、宣化天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前の那津の口まで運ばせたと記される。このとき、物部麁鹿火は同族の新家連を、阿倍臣は同族の伊賀臣を各々遣わしており(蘇我稲目が尾張連を遣わした事情は不明だが)、この阿蘇君が九州の氏族か下記讃岐の支族かどうかは不明だが、阿蘇氏と茨田連が同族だという系譜を伝えていたことと無縁ではないと思われる。阿蘇仍君は天皇の直接命令を受けているということは、「阿蘇仍君が天皇家と密接に結ばれていたことを示唆する」と井上辰雄氏は記述しており、このときには阿蘇氏と天皇家との同族系譜が定まっていたのかもしれない。
 
(4) 阿蘇君・阿蘇直を名乗る者はその後の肥後では史料に見られない。A系図には阿蘇宮司の共直が正七位上に叙せられたと貞観七年(865)の官符に見えるとあるが、これはまだ確認されていない。
ところが、平安中期になって遠く離れた讃岐に阿蘇氏一族が現れる。『政事要略』五九の承平五年(935)六月十三日の太政官符に弾正少疏大初位下阿蘇公広遠の調を免除するとし、広遠が三年前に出した解状では、讃岐国大内郡白鳥郷の戸主阿蘇豊成の戸口とされる。広遠は累進し、右大史を経て天暦五年(951)には左大史正六位上阿蘇宿祢広遠と見える(『朝野群載』『政事要略』)から、カバネも公→宿祢と立身に応じて変わったことが分かる。広遠の子孫は京都の官人として残り、正暦年間(とくに991〜994)の右少史として阿蘇有隣が見えるが、世代的に考えると広遠の孫ではなかろうか。
讃岐ではほかにも阿蘇氏が見える。寛弘元年(1004)の同国大内郡入野郷の戸籍(『平安遺文』)には戸主阿蘇氏宗(姓は不明)、同貞町、同中知など十八名の名前が見えるから、大内郡に阿蘇氏の支族が遷住していたことが知られる。阿蘇氏の同族は、北九州から伊予・讃岐さらには播磨に進出し、これらの地域に国造家として有力者であったから、阿蘇氏自体からもこのルートに乗って遷住した支族があっても不思議ではない。
 
(5) 本国の阿蘇郡において阿蘇君・阿蘇直氏がいつまで存続したかどうかは不明であるが、支庶家の大化頃の人とみられる宇治部君真里子が阿蘇評督に任じられたというA系図等の記事に拠ると、このころには本宗家は衰弱していた可能性がある。真里子の末流にあたる阿蘇大宮司惟馨が江戸末期になって阿蘇公姓と称し往時に復したが、『阿蘇家伝』の編纂などを通じて復古意識を高めたものか。惟馨は明治に華族に列した惟敦の父である。
 
 いずれにせよ、こうした古代における阿蘇氏一族の動向は、歴史の流れを見ても自然なものであろう。なお、上記で触れたように、井上辰雄筑波大学教授は、著作の『火の国』や『日本の神々1』の阿蘇神社・国造神社などの記事を執筆され、そのなかで適宜、異本系阿蘇氏系図の個所を引用して、これら個所が歴史的に整合性があり、「かなり信憑性が高い記載を含む」という見方を示されている。

 
2 謡曲「高砂」に見える阿蘇神主友成とその後裔

 宇治部君氏は角足のとき、朱鳥二年(687)二月に評督となり宿祢姓を賜って宇治宿祢となり、その一族後裔は阿蘇宮神主と阿蘇郡司を世襲したとされるが、平安後期まで氏人は史料には見えない。なかで、十世紀前半の延喜頃の神主阿蘇友成が謡曲「高砂」に現れる。この謡曲は室町前期の世阿弥元清の作品であり、高砂神社に伝わる伝説をもとに作られたとか、『古今集』仮名序に見える「高砂、住の江の相生の松」の中世解釈をもとに作られたとされる。
 高砂のあらすじは、『古今集』の撰集された延喜の帝(醍醐天皇)の時代、九州阿蘇神社の神主友成の一行は、上洛の途中、播磨国加古郡の高砂の浦(現・兵庫県高砂市高砂町東宮町)で、和歌の神である住吉明神の化身の老人夫婦(老翁は高砂、老婆は対岸の摂津住の江〔住吉〕の住人で、ともに松の精)に出会い、そこで二人の神は友成の問いに「相生の松」のいわれを教え、松の寿命の長さをあげて人の世を寿ぎ国土安穏を祝うとともに、『万葉集』の昔と変わらず歌道が繁栄する今の帝の御世を讃える、というものである。
 ところが、ここで主人公とされる阿蘇神主友成が延喜時の大宮司として阿蘇氏系図に見え、「延喜三年二月叙爵」と記される。阿蘇神社の境内には「高砂の松」があり、友成が持ち帰った高砂の松の実を植え、育てたものといわれる。
 こうしてみると、世阿弥はなにもないところからこの謡曲を作りだしたのではなく、古伝を脚色して謡曲に完成させたとみるべきであり、阿蘇友成は実在の阿蘇神主であったことは認めてよさそうである。
 
 阿蘇友成は阿蘇氏にとって中興の祖というような地位を占めていたようで、この代から大宮司職となったとも伝えるし、正本系の阿蘇氏系図でも、実系と神職相伝との混合など様々な混乱はあっても、友成の兄とみられる友利以降の人々は実在する者とみてよさそうである。そうであれば、異本系阿蘇氏系図は、少なくとも十世紀はじめの友成兄弟の世代以降はほぼ信頼してもよさそうである。そのことは、以下に記す寛治の阿蘇社祝恒富や天永の相撲人阿蘇四郎惟利などでも示される。
 
@寛治元年の阿蘇社祝恒富  A系図には、友成の玄孫にあたる大宮司友房の弟・阿蘇宮祝友恒の子に同祝の恒富をあげ、恒富には「寛治元年為免敵難奉負御正体逃脱」という譜註(尻付)が見える。この裏付けとなる記事が『百錬抄』に見える。すなわち、堀河帝の寛治元年(1087)四月条に阿蘇社祝恒富と見え、「四月廿日諸卿定申、大宰府言上、阿蘇社祝恒富為敵難御正体逃脱事 」という記事がある。このときの敵難がどういうものかは不明であるが、敵難を避けるため阿蘇社祝の恒富が神社の御正体をもって逃げ出したという史実が知られる。異本系の阿蘇氏系図には、恒富を記載しその譜註をあげるのがいくつかあり、貴重な所伝だと思われる。
なお、恒富は下田権大宮司家の中興の祖とされ、『神道大系 阿蘇・英彦山』所収の下田権大宮司家の系図では、「永治元年(1141)大宮司より下田荘を賜り、地名を家号とす、下田権大宮司の職を襲ひ、西野宮の社司となり下野狩を掌る」という記事が見える。一方、永治元年に権大宮司に補されたのは惟俊の兄弟の惟政で、これが下田の祖だという所伝もあり、これらは年代的にみて混乱がある。同系図では、「恒富−恒員−惟恒−惟昌」と続けて、惟昌には「下野狩の仕様につき源頼朝の許に参向す」と記されるから、永治元年に権大宮司に補されたのは惟昌(惟政?)よりも、その父の惟恒とするのが妥当なようである。
 
A相撲人阿蘇惟利  『長秋記』の天永二年(1111)八月の相撲召合には相撲人として「宇治惟利 阿蘇四郎」が見える。この宇治惟利とは、阿蘇氏系図に見える大宮司惟俊(又名惟永)にあたるとみられる。その子の大宮司惟宣は、康治元年(1142)十二月日付宇治惟宣解(『平安遺文』2497号)で確認されるが、保延年間(1135〜41)頃から大宮司の任にあったとみられるからである。
阿蘇神社では奉納相撲が盛んであり、一の宮町の阿蘇神社と国造神社の二か所で秋の九月下旬に行われる田実祭(たのみさい)では、相撲の奉納が現在も行われる。阿蘇の分社である大津山阿蘇神社(熊本県玉名郡南関町)、田浦阿蘇神社(同県葦北郡芦北町)、河俣阿蘇神社(同県八代郡東陽村)や長崎県諫早市多良見町の阿蘇神社などでも奉納相撲が祭事として行われるから、相撲は阿蘇神社の伝統的神事であったことが分かる。阿蘇神社では駕與丁が相撲を行うから、大宮司惟俊が相撲人として上洛することはありえないのではないかという見方もあろうが、天永二年当時まだ大宮司職に任じていなかったことも考えられる。
 
ところで、管見に入った阿蘇氏系図ではすべてが惟俊の父を大宮司友房と記す。この場合、上記@寛治元年の祝恒富と惟俊は同世代となるが、惟俊のほうが一世代遅いほうが自然であり、かつ、永長元年(1096)に大宮司となりこの時に大宮を創建したと伝える惟行が系図に見えないという不合理も生じる。おそらく、大宮司友房と大宮司惟俊との間に大宮司惟行を置くのが妥当だと考えられる。
 
B相撲人阿蘇惟遠などの相撲人  阿蘇一族からはもう一人、相撲人が見える。それは、『中右記』寛治二年(1088)八月七日条に見える「相撲人五番阿蘇惟遠」である。この惟遠も系図に見え、大宮司友孝の兄・権宮司惟行の四世孫で阿蘇郡主帳として見える。天永二年の相撲人惟利が大宮司友孝の四世孫(大宮司惟行一代を補った場合)になるから、惟遠は同じ世代となるが、活動世代を考えると、実際には権宮司惟行の三世孫が正しく、この間に傍系相続が混入していそうである。また、権宮司惟行は上記の大宮司惟行と紛らわしく、正本系の系図と比較したとき、頼元という名にに置き換えたほうがおそらく妥当であろう。
ともあれ、相撲人の惟遠・惟利が阿蘇一族で、彼らがほぼ正しく系譜に記載されることは重要と思われる。

  ここで取り上げた惟利・惟遠より前にも阿蘇一族から相撲人を出したことが十一世紀前葉の『小右記』『権記』に見える。代表的なのは、長保二年(1000)七月から長和二年(1013)七月にかけて見える宇治部利村であり、清原時武など数人に対して勝っているから相当の強豪であった。名前と年代から考えると、延喜の大宮司友成の兄・友利の曾孫くらいにあたる者か。利村は宇治利村とも見えるから、『小右記』の長和二年(1013)七月から治安三年(1023)七月にかけて見える相撲人宇治常村は、おそらく利村の弟であろう。
 
C鎮西八郎源為朝の舅・阿蘇忠国
『阿蘇氏家伝』には「保元平治物語ニ鎮西八郎為朝阿蘇三郎忠景ノ子平四郎忠国カ婚トナシテ云々」という表現があるように、為朝の舅については阿蘇忠国という所伝があったが、忠国が一般に流布する阿蘇系図に見えないことから阿多平権守忠景のことではないかともみられていた。しかし、B系図には、大宮司友孝の兄・祝是員の四世孫として忠国(北平四郎)が見えており、これは世代的にも問題がない。忠国の系統では、異本系では『皇国世系源流』本が最も詳細であり、各人の簡単な記事のほか、忠国の子の忠秀(阿蘇刑部大夫)・女子(鎮西八郎為朝妻)の世代まで記している。 
『阿蘇氏家伝』に引く「霜宮祝家本」には「西氏系譜ニ是貞ノ庶子某阿蘇忠国ノ祖トス後ニ其子孫東西南北ノ四家トナル」「今ハ西北ノ子孫ノミワヅカニ存セリ」と記されており、B系図に合致している。
 
 以上、史料に現れる平安末期までの氏人を取り上げて、異本系阿蘇氏の系図記載で検討してきたが、この系図記載にはとくに問題が見当たらなかった。むしろ貴重な所伝を記していると評価してよかろう。
  従って、検討の結果は、初代の速瓶玉命から平安末期の大宮司惟泰までの系譜は、個別に問題個所が多少あるとしても、総合的にはかなり信頼性が高いものと考えられる。
 (なお、私としてはできうる限り、基本史料に現れる阿蘇氏について検討を加えてきたつもりであるが、個別具体的な検討がさらに進められることを期待したい
 
 (2006.7.8 掲上、同7.13や2023.05.17などに追補)



 関連して、(「村崎論考等を読む」の追補3)として
 
 『史学雑誌』の「1994年歴史学界−回顧と展望−」記事と「阿蘇氏系図」 を掲上。
 

       「村崎論考等を読む」へ        追補1へ


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