(「村崎論考等を読む」の追補3)
「1994年歴史学界−回顧と展望−」記事と「阿蘇氏系図」 宝賀 寿男
一 歴史学界の「回顧と展望」という記事
最近、ある示唆があって、ここ二十年ほどの系図・氏族関係の歴史学界の歩みを見る必要がでてきて、これに便宜な歴史学界の「回顧と展望」という『史学雑誌』の記事を読み返してみた。これを歴史学界の学究の論評としてみると、内容的に疑問な個所がいくつか目に着いたので、そのうちの一つをここに取り上げた次第である。
「回顧と展望」の記事は、同誌では毎年恒例で五月号に特集されてきており、(財)史学会の若手ないし中堅クラスの研究者が執筆して、分野・事項などに分けて日本歴史学界の前年一年間の動向を史学会の名前で総括するものであって、その間に公表・公刊された主な書・論考を取り上げて論評・報告してきた。研究誌などに発表された数多くの論考のうち主だったものの紹介にもなるので、歴史学研究者にとって便宜であり、そこでの評価はその時点の歴史学界における動向についての一応の目安・参考であって、ある程度の影響力がある。史学会のHPでは、「「回顧と展望」は、前年の日本における歴史学界の成果と課題を批判的に論評する特集」(下線は筆者〔宝賀〕による)です、と記している。
ところで、かなり長い期間の分の「回顧と展望」をまとめて読み返してみると、氏族及び系譜の分野では、狭い学界内の研究にあっては最近あまり進展がないように感じるとともに、「回顧と展望」掲載の論評記事のなかには、様々な問題点があるものもあることも感じてきた。
まず、若手中堅クラスの学究によるものとはいえ、当然ながら論評者の能力・学識の問題があり(論評の内容が妥当かどうか)、また、どこまでが論評関係者の目にとまり、そのうちどこまでを評価の対象として取り上げるのか(重要な論考などが欠落していないか)、という問題もある。さらに、あまり大きくはない記事スペースのなかで、取り上げられた論考の要点をどこまで的確に紹介できるのかという問題もある。
そこにおいての取扱いの姿勢が論評者の見識を具体的に示す(指導教官からの採点もある?)とさえいえそうだから、論評がたいへん微妙で難しい立場にあるのは理解できる。とはいえ、そのなかで、客観性・公平性を備えた適切な論評が求められるのは、『史学雑誌』に掲載されるのだから、当然のことであろう。
二 「阿蘇氏系図」の取り上げられ方
さて、「阿蘇氏系図」が「回顧と展望」で取り上げられたのは、『史学雑誌』1995年五月号(第104編第5号)に所載の「1994年歴史学界−回顧と展望−」においてである。そこでは、当時三十代半ばほどの荒井秀規氏(現・藤沢市教育委員会勤務兼明治大学講師)が担当する部分であって、「伊藤麟太朗「所謂『阿蘇氏系図』について」(『信濃』四六−八)は異本阿蘇氏系図の偽作性を言うが引用と地の分が不分別。」と記される。これが、「回顧と展望」に記載された全文であるが、この論考紹介記事の取扱いには多分に疑問があるので、それを以下に示すこととしたい。
伊藤麟太朗氏の「所謂『阿蘇氏系図』について」(以下、伊藤氏、当該論考、とも各々書く)は、権威ある史学会の「回顧と展望」で取り上げられるくらいだから、よほどの大作ないし力作だと思われたが、現物を手にとって見たとき、その随想的な小論に驚いた次第である。信濃史学会という長い歴史をもつ地域研究会の会誌『信濃』に掲載されたとはいえ、その「研究の窓」という欄の、大学教授クラスでもなさそうな在野・在地の研究者による僅か二頁(697頁及び698頁で、字数にして1800字弱)ほどの小稿を、歴史学界の「回顧と展望」で取り上げる意味がどこにあるのだろうか。もし、それがあったとしたら、「異本阿蘇氏系図の偽作性を言う」という記事部分にあると考えざるをえない。
ところが、取り上げられた当該論考は、少し検討を加えてみると、内容的に見て、実に杜撰かつ胡乱なものである。これを具体的に示すことにしたい。
三 伊藤論考の具体的な検討
当該論考にはおかしな個所が多くあり、これらを具体的な個所毎に取り上げて説明することとしたい。ただ、荒井論評に見られるように、「引用と地の分が不分別」であるうえ、そこで用いられる史料などの定義・限定が曖昧であるので、文意の見極めが難しい点があり、このため、筆者の判断が若干入ることになるかもしれないことを留意されたい。
(※当該伊藤論考は短いものであるから、そのまま全文記したほうが読者の理解を増すのであろうが、著作権の問題もある可能性があって、趣旨と重要部分の引用にとどめた。可能な方におかれては、全文を是非、ご覧いただきたい)
1 「異本阿蘇氏系図」の意義
A 当該論考の表現・趣旨(A、Bは以下も同様。Aの項では、原文をできるだけ踏まえた表現とした):近頃史学界で取沙汰されている「阿蘇氏系図」は、昭和三十年に田中卓氏が九州阿蘇家の史料採訪で見つけたもので、諏訪の神氏が金刺氏の系統を引くものだという系図であり、金井典美氏が異本阿蘇氏系図として紹介したが、「この系図はわざわざ阿蘇まで行ってさがしてくる迄もなく三十年以前既に諏訪に存在していたのである」。それが、大正十年発行の「補修諏訪氏系図」(正続編)延川和彦著、飯田幸太郎補なる大冊であり、そっくりの系図がのせられる。(※「 」内は原文引用の形を示す。誤記〔下線部分〕もそのままであり、以下同じ)
B 筆者の批判・コメント:(1)田中卓氏が阿蘇家で採取した「阿蘇氏系図」は、一般に「異本阿蘇氏系図」として知られるが(『田中卓著作集2』などに所収)、この系図が全てそのまま延川和彦等編著作「諏訪氏系図」に掲載されているわけでは決してない。田中氏の著作と延川等編著作の両方を実見してみれば、こんな初歩的な粗雑な記事は書かないものと思われる(おそらく、金井典美氏論考を見ても、田中氏の著作を見ていない)。
すなわち、「異本阿蘇氏系図」には、信濃部分のほか、本筋というべき阿蘇氏部分があり、さらに大和の多氏部分、火国造部分の記載もあるが、阿蘇・多・火の部分は延川等編著作には見えない。同編著作に信濃とその関係の部分が似ているからといって、「わざわざ阿蘇まで行ってさがしてくる迄もなく」と田中卓氏の業績を貶すのは行き過ぎである。だいたいが、田中氏は信濃の科野国造関係の系譜・記事を探し求めるために阿蘇家に行ったわけではないのである。
なお、当該の延川等編著作である諏訪氏系図のほうは、「修補諏訪氏系図」(正続編)延川和彦著、飯田好太郎補、というのが正確な表現であり(当該系図書ともいう)、これを、編者の飯田氏は「修補諏訪氏系図」(同書の自序のなかに記載)、原本所蔵の長野県立図書館では「諏訪氏系図修補」と表記し、そのマイクロシート所蔵の国立国会図書館では「諏訪氏系図」とのみ表記して存在しており、いずれにせよ、伊藤氏の書名等の表記は正確ではない。このほか、短い所論のなかには「補習諏訪氏系図」「諏訪史料料叢書」「日ふ」などの誤記ないし誤植もいくつか見える(これらを含め、「三」における下線部分は、誤記・誤植とみられるものとそれに対応する部分である)。
(2)田中氏紹介本「異本阿蘇氏系図」の信濃部分は、歴代としては金刺舎人系統の「県主」なる人物まで記載し、その子孫については「大気麻呂」及び「貞長、貞継の兄弟」を注記にあげるが、「諏訪の神氏が金刺氏の系統を引く」ということを端的に示す記事は見られない。金刺氏の後裔が中世の下社大祝の地位を世襲した事情があるから、科野国造の後裔から出た者三人(乙頴、隈志侶、乙兄子)に「諏訪大神大祝」という註の記載がされ、乙兄子についてその「子孫相襲大祝」と記されても、これは直ちに諏訪の神氏の出自を示すものではない。 また、「県主」という者まで記載した科野国造関係の系図は、ほかには管見に入っていない状況でもあるので、この辺は「異本阿蘇氏系図」の独自の所伝である。
2 諏訪大祝家所蔵の系図、とくに古系図
A:延川和彦氏が明治十七年(1984)に諏訪大祝家を訪れたとき、同家には三種類の系図があった。すなわち、@前田氏系図(筆者註:前田家本の諏訪氏系図という意味)及びこれと若干の精粗があるもので、この二系図を基本として延川氏が補習諏訪氏系図を書いた、A清和天皇から始る源氏の系図で、これは後作と見えたので採用しなかった、Bもう一つの系図は、「神氏系図とのみあって系表なく前記のみあってえたいの知れない系図があり随分古色ありと思われた。これは補習諏訪氏系図の中に神氏系図aの緒言の中に神氏系図bとして全文がのせられ、諏訪史料料叢書二十八にものせられて居る。又、この前記につき、此は飯田武郷が余が偽撰なりと語りしと云う、と書かれて居り」と伊藤氏は記される。(※本稿中のa、b……のアルファベットは、区別の便宜上、筆者が付したものである。)
B:(1)
A@の表現は、当該系図書を読むと正確ではないことが分かる。延川氏がいう「二系図」とは、@前田家本と若干の精粗がある系図及びA源氏の出とする系図である。源氏とする系図は「後ニ作リシモノ」とみて採用せず、前者を基本として前田家本を参照し守矢氏資料などをふまえて延川氏が編纂したという意味である。また、延川氏の元の著作では、中興の有員より前の系図部分を欠くので、中田憲信編纂の「諏訪家譜 諏訪家事歴及系譜」を抜粋して補ったと飯田氏が書かれている。当該「諏訪家譜」は、『好古類纂』第二編の第二集・第三集(明治37年)に掲載された。
(2)当該系図書では、本体系図の説明及び注記として数多くの系図史料を掲載しており、清和源氏流の諏訪氏系図も、本体系図ではないが、引用され掲載されているから、延川氏が「採用しなかった」という記述をするが、“本体系図としては”という意味にすぎない。
(3)古色ありと思われた「神氏系図」bが『諏訪史料叢書』二十八に掲載されていることはない。『叢書』二十八に掲載される「神氏系図」cとは、中興の有員から始まる系図(前田家本に酷似のもの)であって、そこには、諏訪氏の古代部分も阿蘇氏についてもまったく記載がない。『叢書』二十八の書目解題には、「神氏系図の異本にて明治初年の字かと思はれる。もと大祝家の蔵書であったものが故あって今教育会(註:諏訪教育会のこと)の手に帰した」と記される(註:この文での「神氏系図」とは前田家本)。 (4)古色ありと思われた「神氏系図」bの前記において、「此は飯田武郷が余が偽撰なりと語りしと云う」とだけ書かれているのではない。この部分あたりを当該系図書から引用すると、「或人本図前記ニ就キ此ハ飯田武郷カ余カ偽撰ナリト語リシト云フ是ハ恐クハ初メテ世ニ紹介シタレハ此ノ批評ヲ受ケシナラム」と延川和彦により記されている。
和彦が弟の鮎沢政彦(当時、長野始審裁判所勤務)と語り合ったところでは、大祝家の系図には古き巻物が二巻あり、一つは大いに古く、「諏訪氏元祖ハ用明天皇御宇云云知久、座光寺、保科、藤沢等皆一族衆也トアリ」、もう一つはこれより少し新しく「元祖有員ハ桓武天皇第六皇子トアリ……」という系図であって、後者のほうが和彦採訪のときに残存していた前田家本酷似の系図である。この後者でも、既に百二十余年前の筆記であるから、前者は尚それ以前のものとせざるをえないと記される。
そして、修補諏訪氏系図編纂に際しては、「神氏系図トアリテ系表ナキモノ彼ノ用明天皇云云トアルニ合ウヲ以テ之ヲ前記ト為シ」と飯田氏が記される。前田家本酷似の系図よりも、系表ナキ「神氏系図」bが古色ありとされるのだから、年代的に飯田武郷が偽撰したものではありえない。
この辺はたいへん重要な点であるが、伊藤氏は当該系図書を実際に見て、本論考を書かれたのであろうかとすら疑う次第である。すくなくとも、同書の緒言の記事を理解していないことは確かである。
3 飯田武郷の偽撰とその根拠
A:「更に前記の、補に日ふ、故飯田武郷所論たる本系図に附帯せる神氏系図e並に科野国造考に健隈照命、科野国造建甕富命の女を娶りて妻となし親しく姻を結びたり云云、以下略、と神氏系図fとそっくりの事がかいてある。故にこの神氏系図gなるものは飯田武郷の所論であって、つまり余が偽撰たる事を証して居るのである。更につづいて故中田憲信著なる系図をのせて居るがスサノヲの命から始るもで(※「の」が欠字)健隈照命から下は全部多少の差はあれ神氏系図hによって書いて居るから飯田武郷の説を全面的に取り入れた系図である。これによって神氏系図i、又は阿蘇氏系図なるものは飯田武郷の偽作たる事が断定出来る。」
B:当該論考では、具体的な定義なしに「神氏系図」の語が頻出するが、文意不明に近い。かりに、(1)ここの分脈での「神氏系図」e〜iがすべて同じ系図を指すものともみられる場合には、それが上記ABの系図(すなわち、「神氏系図」b)を指すのなら、それは「系表なく前記のみある」もので、ごく断片的な記事であるため、具体的な歴代の名前がきちんと系図として書かれるはずがなく、「健隈照命から下は全部多少の差はあれ神氏系図によって書いて居る」とはいえない。
(2)神氏系図の記事では「f=g=h=i」で、これらがe(=b)と異なる場合には、これら前四者が具体的に何を指すのか分からない。それが、神氏系図aを指すのなら、それは「中田憲信著なる系図」である。いったい伊藤氏は、どの系図(部分)が飯田武郷の偽撰の系図だと言いたいのか。
(3)「中田憲信著なる系図」が飯田武郷の所説とほぼ合致していても、「神氏系図、又は阿蘇氏系図なるものは飯田武郷の偽作たる事が断定出来る」といえるはずがない。「中田憲信著なる系図」が実際に諏訪地方の諸家に伝わる多くの系図に基づくもの(ないし編纂したもの)であれば、中田憲信も飯田武郷も、諏訪氏の系図を偽撰したわけではない。しかも、現実に古い系図が諏訪大祝家にあったことを延川氏が伝えている事情にある。このくらいで、偽撰を「断定」するのは即断にすぎるし、論理的ではない。
(4)なお、伊藤氏は、飯田武郷と中田憲信とが「極めて密接な関係にあった」と記すが、両者が平田鉄胤の同門であったことは確認できるものの(飯田は平田篤胤の没後弟子とされる)、中田憲信・鈴木真年の著作などからは、飯田との密接な交流を示す記事はこれまで見ていない。当該系図書の序・緒言でもこの関係の言及がない。武郷と憲信の具体的な交流関係を端的に示す資料があるのなら、是非ご教示いただきたいものである(これは、読者へのお願いでもある)。
4 飯田武郷の偽撰の理由
A:飯田武郷が偽系図を作った理由としては、金刺氏が皇別でその元祖は記紀にも書かれ姓氏録にも掲載があるが、これに対し、神氏、守矢氏(神長官家)は姓氏録に記載がなく出自さえはっきりしないので、天皇制下において、両氏の身分の差は月とすっぽんであって、「これを嘆き神氏の系図を金刺氏の系図に結びつけたのであろう」。
B:(1)守矢氏の系譜は姓氏録や記紀に記載がないが、建御名方命が諏訪に鎮座したと『古事記』『旧事本紀』に記載があり、この神を奉斎する神氏すなわち諏訪氏がその後裔であるという系譜は明らかである。
(2)神氏、守矢氏、金刺氏(科野国造一族)や滋野氏は、信濃の特定地域において混住しており、平安期以降でも相互に多くの通婚や養猶子関係が結ばれていたから、系譜が結びつくのも不自然ではない。神長官守矢氏も、地元神の守矢神(洩矢神)の後裔だといっても、系図的には建御名方命の血筋を養嗣に迎えて続いたと所伝にある。
神氏の先祖と金刺氏の先祖との通婚も当時の事情からいって十分ありうることであり、科野国造初代の武五百建命は神氏の先祖・会知早雄命の娘を妻としたと伝える。それ以降も多くの通婚がなされたとみられるから、その関係で上社大祝にも科野国造の血筋が入ったことは直ちに否定できない。ただ、中興の祖の有員は諏訪神建御名方命の血流を引く神氏(神人部宿祢姓)の出であって、科野国造の血筋を受けていた上社大祝家の跡に入ったものとみられる。
5 「諏方下社大祝武居祝系図略」の偽作
A:ついでながらとして、『諏訪史料叢書』二八に記載の「諏方下社大祝武居祝系図略」を取り上げ、同系図の偽作を主張する伊藤富雄氏(伊藤麟太朗氏の父親。政治家・地方公務員で地域史研究者)の所説を、「精密な考証の結果」、偽系図ときめつけたものだと紹介し、富雄氏は偽作者の名指しは避けているが、自らも、「これも恐らく飯田武郷であろう」と当該伊藤論考は記している。
富雄氏の所説は、「金刺大祝家は室町時代からしばしば戦乱の渦中におかれ、戦国時代に入っては上宮神氏に攻められ、遂には甲州へ亡命のやむなきに至り、再び諏訪へ帰る事を得なかった。かかる理由で同家の系図記録は全く伝わっていない」。従って、標記の系図は、「これは幕末が明治の初年に国学者の手によって偽作されたもので、信用できないものである」と記される。
B:(1)「諏方下社大祝武居祝系図略」は、金刺大祝家が滅びた後に、諏訪にあって下社の祭祀を受け継いだ一族、武居祝家の今井氏に伝わる系図(東京の今井安良氏蔵)であり、鎌倉期以降を含めて系図の全てを偽作とするのは疑問がある。幕末か明治初期に国学者が偽作したという根拠も不十分であるのだから、その偽作者を飯田武郷だと推定するのはさらに無理がある。この系図に関して、どうして武郷が偽撰する必要性があったのか。
(2)ただ、戦国時代以前の期間の同系図については、信濃とは別族とみられる駿河の金刺舎人姓の者を取り込んだりして、内容的には古代部分などに疑問な個所が多くあり、信頼性を大きく欠くのは確かである。とはいえ、中世部分以降の系図をも否定するのは行き過ぎでもあろう。
下社大祝の歴代は簡単なものであり、多少の系譜・所伝を知れば、このくらいの系図は、諏訪下宮の神官家なら古代部分の造作を含めて編纂できるものだとも考えられる。その主な作成時期は、ほぼ江戸時代ではないかとみられるものの、具体的な特定は無理であり、ましてや編纂者の特定も無理である。こうした無理な推論はなすべきではない。
四 とりあえずの総括
以上に見るように、当該伊藤論考は、「異本阿蘇氏系図の偽作性を言う」ものでは決してなかった。同系図の全体ではなく、そのうちの科野国造部分について、偽撰を主張するものではあるが、その論証がきわめて不十分だといわざるをえない。
諏訪大社の宮司をつとめた飯田武郷が遠く離れた肥後の阿蘇氏の系図に通暁するはずがなく、諏訪氏や武居祝家のために系図を偽撰するなど、大作『日本書紀通釈』を著した大学者(東大や慶應大などの教授でもあった)にあるまじき行為を、彼について考えるのは、いわれなき論難であろう。また、中田憲信が生涯の職掌たる裁判官・検察官の倫理にに反するような行動をしたとみることも、同様であって、ともに考えられないことである(『日本及日本人』では、憲信は至誠の人と評される)。当該系図書の序文に「敬神篤学の士」と記される飯田好太郎氏が、偽撰と分かるような系図書を多額の出版費用の調達などの苦労をして刊行するものだろうか。
武郷ないし憲信が上社大祝諏訪氏の系図を古代・中世の全般にわたって偽撰したとしたら、なぜ下社大祝金刺氏の系図を諏訪氏同様にきちんと偽撰しなかったのだろうか。両方の系図を比較してみると、下社大祝の系図のほうはきわめて見劣りすることが分かる。要は、下社大祝関係の系譜・所伝が諏訪地方に乏しかったからにほかならない。
こうしてみていくと、様々な点で当該論考の論理には粗雑さ・乱暴さが見られ、目を覆いたくなるほどである。その原因として、伊藤麟太朗氏は各種原典にきちんと当たって読解していないのではないかとさえ思われる。
当該論考は最後に、「へたの偽系図などにたぶらかされれば歴史が目茶苦茶になってしまいます。これは学問以前の問題であると思ふのである」と結ばれる。この結論に対する異議はまったくないほどの正論であって、日頃、筆者はそうした姿勢につとめているつもりであるが、この言葉とは裏腹に、あまりにも粗雑な「資料紹介と検討」を記す滅茶苦茶な論考を、史学会の機関誌で取り上げた荒井論評についても、同様なことが言えそうである(「へたの論考にたぶらかされれば、歴史研究が滅茶苦茶になってしまいます」)。ただ、見方によっては、ここまで検討するための示唆と機会を与えてくれたものと感謝すべきかもしれないが。
読者は如何に思われるであろうか。是非とも、ここで取り上げた各々の原典に直に当たって、ご自身の頭と手でしっかり考えていただきたいものである。これに関係する主な史料はすべて国立国会図書館の所蔵にかかるものであり(現在では、デジタル・ライブラリーで殆どがネット閲覧できる)、こうした所蔵状況は、そのことを十分可能にするものでもある。
(2007.11.14 掲載。その後、若干表現を補った)
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