『神別系譜』と編者中田憲信(増補版

                        
宝賀 寿男
     
 

 本稿は、先に『姓氏と家系』第26号2021年11月)に、「新出現の」を冠した形の同名で掲載された論考を基礎に、これに若干追補し説明も増やして本HPに掲上するものです(その意味で「増補版」)。中田憲信の諸著作について、『神別系譜』を中心に紹介します。


  はじめに─鈴木真年と中田憲信

 令和三年(2021)八月下旬に、長年、古代氏族系譜の研究を続けてきた私にとって、「驚天動地」とも言うべき系譜情報をいただいた。それが、堀内様からご教示された東京国立博物館(東博)所蔵の『神別系譜』等の史料類であり、標題にあげた明治の国学者中田憲信の著作を中心とするものである。この辺の事情を皆様に提示し、説明いたしたい。併せて、これら系譜情報から何が分かってくるのかを、とりあえずの把握に基づきお知らせするが、この辺にご関心のある皆様により研究が深まり、関係情報のご提供があれば、更に幸いでもある。

 幕末から明治期にかけての時期、平田同門の国学者、鈴木真年と中田憲信(以下では、各々「真年、憲信」とも表記)の活動が、わが国の系図の収集・研究に果たした役割はたいへん大きい。一時期、両人の研究業績は忘れられた面もあって(それでも、知る人ぞ知るという感じであったようだが)、太田亮博士の大作『姓氏家系大辞典』でも真年編『新田族譜』くらいしか記事に見えないが、丸山浩一氏(家研協創立者で、元会長)など在野の研究者のなかでは多少とも知られていた。ともあれ、彼らを含む江戸後末期の国学系研究者たちの系図研究活動が近代系図学や現存系図史料類の研究の基礎にあることは確かである(この辺を無視するとしたら、「無知」で視野狭窄の系図研究としか言いようがないし、古代史学の問題探求を阻害するほか、近代系図学の最高峰ともいうべき佐伯有清博士の業績・学識を無視することにもつながりかねない)。
 戦前に真年四男の防人氏が刊行された『鈴木真年伝』(大空社からの再刊にあたり、宝賀が説明を付記)などを基にして、私が真年・憲信両人の研究を始めたのが一九八〇年代初め頃であった。ほぼ同じ頃に尾池誠氏も真年を主体に研究され(尾池氏の研究が若干先行するようだが、各々独立の動き)、それに付随して憲信も併せて紹介された(尾池氏の『埋もれた古代氏族系図』という小冊子の刊行と佐伯博士によるその紹介)。一九八六年春に拙著『古代氏族系譜集成』(以下、本稿記事ではたんに『集成』ともいう)が刊行されるなどの動きをうけて、真年編『百家系図』及び憲信編『諸系譜』が雄松堂出版からマイクロフィルム化で復刻・販売され、両者の編著作が活用されるケースはより多くなった(これらマイクロフィルムは国会図書館で利用可能でコピーもとれるし、『諸系譜』は同館のデジタルライブラリーで全ての閲覧・ダウンロードが可能)。

 鈴木真年の生没は天保二年(1831)〜明治廿七年(1894)であり、大阪の地で享年六四で逝去し、中田憲信は真年の四歳年下で、生没が天保六年(1835)〜明治四三年(1910)で神戸で逝去し享年七六であった。真年は江戸の商家に生まれ、明治政府の弾正台に入る前は紀州藩士として熊野にあった。両者は平田鐵胤(かねたね)(銕胤、鉄胤。篤胤の養子)の同門であり、明治初期に弾正台(監察機関で、明治4年に刑部省と統合して司法省となる)で同勤し、真年が法曹関係から宮内省などへ転職した後も、両者は長く親交を保ち、かつ、研究同好の士として、その史料の収集・研究にあたって密接に関与・連携したとみられる。
 明治三年(1870)六月当時の政府の『職員録』に拠ると、弾正台の少巡察の筆頭として鈴木真年とみられる「穂積豊盛鈴木」があげられ、その下僚の巡察属に「賀名生憲信中田」が掲載される。当時の両者は三十歳代半ばないし後半であった。憲信はその後も長く法曹で、裁判官や検事をつとめた。
  
 本稿で主体に書く中田憲信について、その主な経歴を見ると、明石で一柳公家臣の家で出生した後、泉州大鳥郡陶荘陶器村の陶神社など神祇職を経て、明治二〜四年(1869〜71)に弾正台で勤務し、弾正台廃止とともに司法省の勤務となり、以後は一貫して法曹の身分ににあり、同廿三年(1890)十月に秋田地方裁判所の検事正に、翌同廿四年(1891)十月に徳島地方裁判所の検事正に補された(『明治宝鑑』)。
 憲信が裁判官と検事の双方を経験したという経歴も重視したい(当時はこうした人事もあり、これら経歴の者に下記「史料偽造」の疑いをかけることの感覚が疑われる。更に、憲信が「至誠の力」をもつ人であったという万葉叟の評も『日本及日本人』昭和七年四月号に見える)。この徳島勤務の関係で、徳島県関係の古文書・系図類が『諸系譜』にきわめて多く収められており、その記事の詳細さは小杉榲邨編纂の『阿波国徴古雑抄』を凌ぐ。
 更に同廿五年(1892)十月に甲府地方裁判所所長判事に任命された(以上、官報に拠る)。この甲府在任期間中の明治廿七年(1894)四月、鈴木真年が大阪で逝去している(両者が地方在住の時の連絡・交流状況は不明)。甲府時代にも、憲信は部下などを含む法曹関係者等から貴重な系図を採集した。明治廿九年(1896)五月に、憲信は裁判官の休職を命ぜらた(いまの満年齢で言えば61歳のとき)。これ以降は、憲信は休職判事の身分を保持して、帝国古蹟取調会や国語会の運営に関わった(「大審院判事」という経歴を言う記事も見えるが、これは誤解である)。

 さて、最初に言った驚くべき情報とは、東京国立博物館のデジタルライブラリーのなかに、私が長年探し求めていた系図(采女臣氏や丹波国造など)があるという堀内様の教示が発端である。実際にご教示の史料類を閲覧してみると、この辺はもちろん、ほかにも貴重な古族諸氏の系譜が数多くあり、それら東博所蔵の数冊が中田憲信遺筆のものだと分かった〔註〕
 当該デジタルライブラリーは、二〇一五年三月末にネット公開されたとのことであり、東京国立博物館が所蔵する和書、洋書、漢籍をデジタル画像で全文閲覧することができる。

 東京国立博物館は、台東区の上野公園にある博物館で日本で最も歴史が古く、略称が「東博(とうはく)」で、「トーハク」とも表示される。明治五年(1872)に湯島聖堂を博物館として博覧会を開催したことにその歴史が始まり、明治十五年(1882)に現在地に開館した。その後、帝国博物館、次に帝室博物館と改称、昭和廿二年(1947)に国立博物館となり、昭和廿七年(1952)になって現名に改称された。国宝・重要文化財を含む、日本および東洋の美術・工芸・考古遺品などを多数収蔵しており、日本美術が概観できる本館、東洋の諸地域の美術品等を展示した東洋館がある、と説明される。東博が美術・工芸主体の所蔵館とみられてきたことで、そこに所蔵される史料類については歴史研究者の認識が及ばなかった事情もあろう。
 〔註〕なぜ東博のこうした重要史料に気づかなかったかというと、『歴史資料保存機関総覧〔東日本〕』には、「図書室には、徳川本・明治期以降の公文書などがある。」という記事があるのみであった。丸山浩一氏編の『系図文献資料総覧』には、東博にも多くの系図史料類があることを記載してあったが、その書名のみであった事情(「神別系譜 (明治)写 一冊」と記載)。その他の憲信関係史料類にも憲信の名は編著者として見えず、これら書名からは重要性をとくに感じ取られなかった事情がある。

 この東博に所蔵される問題の『神別系譜』等の系譜類は、昭和十八年(1943)に一橋家第十二代徳川宗敬(むねよし)氏により寄贈された古文書類のなかにある。本稿は、憲信遺稿などの東博所蔵系譜類を中心として、その概要(併せて、閲覧時の多少の留意事項など)及び真年・憲信に関連する諸事情を以下に説明することとしたい。


 第一部 中田憲信とその研究業績

 『神別系譜』をめぐる経緯

 もうすこし記しておきたいのが、『神別系譜』などの存在が明らかになった経緯である。
 島根県在住の歴史研究家に原慶三氏がおられる。もと高校教諭で、東大名誉教授故石井進先生のもとで中世史を学ばれ、歴史資料としての系図の重要性を認めた上で、様々な史料研究をされてきた方であり、その運営されるHP「資料の声を聴く」のなかには、出雲を中心に山陰道各地に展開した関東武士・土屋氏一族の記事と「堀ノ内氏」との応答もあって、これに私も参加させていただいた。

 但馬守護山名氏の守護代をつとめたのが、土屋氏の流れを汲む垣屋氏である。その系譜について、私は関心をもっていたが、その契機は、真年著作の『百家系図稿』所収の土屋氏系図にあった。同書は、『百家系図』などと共に静嘉堂文庫に所蔵されており、雄松堂出版が各種系図資料をマイクロフィルム化した際には、貼り紙や朱文字など追加書込があまりに多い草稿本だとしてこれを断念したものだが、そこには、従来殆ど知られない系図もいくつか混在して見える。真年の後末期の未整理メモみたいな性格も感じられる史料である。
 同書の土屋氏系図には、これまで不明であった土屋宗遠(頼朝創業時の功臣)と垣屋氏初祖「継遠」(続遠が正記か)との間の歴代や出雲関係の土屋一族の分出過程が記されており、系図の末尾には信長に仕えた福富平左衛門とその子にまで及ぶ記事もあった。系図には、関ヶ原奮戦の大谷吉継や古田織部にも関係がありそうな記事もある。その系図の信頼性は総じて感じられたが、出典や史料裏付けなどを追い求めるなか、当該HPでの主宰者原氏と「堀ノ内」氏との応答記事に注目された。
 その記事には、『百家稿』所収系図と大筋は同じながら、細部はかなり異なる土屋垣屋一族の系図があることが記される。その出典は、肥前島原藩主松平家(深溝松平氏。最後の藩主松平忠和が慶喜将軍の弟で、幕末頃に養嗣に入る。明治に子爵)が所蔵した文書類で、島原市に寄贈され、「肥前島原松平文庫」として残る。そのなかの史料『系図雑集』が国文学研究史料館のデータベースにあって、同書のなかに「土屋垣屋系図」が所収される。

 垣屋氏についての応答やり取りがほぼ終わりかけたところで、「堀ノ内氏」から概ね次の趣旨の教示があった。
 「采女姓春木氏と丹波国造の系図は、東京国立博物館のデジタルアーカイブで、『神別系譜』という本の中に掲載があるのを見た記憶がある。同館所蔵の別の書『武田族譜』には、中田憲信の付箋があったので、憲信の蔵書かと考える」というものである。
 この教示に従って、東博所蔵文献を見たところが、最初に述べたものであり、当該HPの主宰者原氏と「堀ノ内」氏に対して、深い感謝をまず示しておきたい。


 『神別系譜』編者の中田憲信の事績

 中田憲信の編著作はかなり膨大なものではなかったかと思われるが、彼の著作品には編著者名、出典や成立時期等の記事が記されないものが多いので、現時点で明確にその辺の全容が把握ができない。憲信の著作や旧蔵書は散失したものもかなりあったとみられるが、現存する関係史料のなかで、憲信の代表的な編著とみられるのは、次ぎのとおり。
○『諸系譜』全卅三冊(国立国会図書館のデジタルライブラリーで、全巻がネット閲覧可能)。
○『各家系譜』全十三冊。青木、妻木、諏訪、上田、瓜生、大久保など諸氏の系図集。
○『皇胤志』(内題『皇統系図』)全六冊。『本朝皇胤紹運録』よりも詳細な皇統関係の系図である。ただ、同書のなかには、神武天皇より前のウガヤ朝七十三代など、疑問な系譜・記事もあることに留意。

 以上は、国立国会図書館に所蔵されており、みな系図集という形になっている。このうち、もっとも膨大な『諸系譜』については、憲信が主体で編纂・収集したとみられる大系図集であるが、なかには鈴木真年の筆によるもの(第三冊所収の「中臣氏総系」に穂積真年編と記され、真年の筆跡である)をはじめ、阿波諸家の系譜諸伝(部下や関係者による筆写か)など、数人の筆跡が入り混ざっていて、その成立の過程・時期は明かではない。
 その筆写用紙に、憲信が勤務ないし関係した裁判所の名が記されているものもあり、後述する椿井氏系図や武田一族の系図なども含まれるところからみて、明治初期くらいからかなり長い間にわたり憲信のもとに書き貯められてきて、甲府地裁所長を経て休職判事になって以降の時期、すなわち、主に明治卅年代以降(1897年以降)になって、本書全体が取りまとめられたのではないか、と想定される。同書には捺印の「帝国図書館蔵」「大正三年(1914)六月十六日購求」の記事もあって国会図書館の入手時期が分かるが、これが憲信の死後それほどでもないことで、あまり散失しなかった事由か。

  これら以外には個別の系図について憲信の諸著作が他所にあり、管見に入ったものをあげると、次のようなものがある。
○『南方遺胤』 静嘉堂文庫に所蔵(東大史料編纂所〔本稿では「東史編」とも略記〕にも謄写本がある)。憲信の家系では、南朝天皇の後裔と称し、賀名生(あのう)姓を名乗るものだが、途中に疑問な個所があり、これは系譜仮冒である(アノウは南朝ゆかりの「賀名生」ではなく、実際には穴太姓〔村主か連〕か穴穂部姓か。先祖の地・播磨を考えると、播磨国飾磨郡英保郷が起源の英保首姓〔孔王部首・穴太首で、系譜は息長氏族か〕もありえよう)。同書掲載最後の世代が憲信の諸子で終わる系図であり、内容から当事者たる憲信の手による編纂は疑いない。静嘉堂に現存する同書自体は鈴木真年の原蔵であって、筆は書き入れられた註も含めて、全編が真年の手による。同文庫に多く所蔵する真年旧蔵資料とともに、真年の死後に収められたとみられる。
 同書については、本HP古樹紀之房間の「中田憲信と『南方遺胤』」に詳細がある。 
○『亀井家譜』 静嘉堂文庫に所蔵の活字本。
○『有馬家譜』(「馬」は原本の表現のままで、「島」の誤記) 東北大図書館狩野文庫に所蔵の筆写本。「市来四郎編、中田憲信考定」と記される。内容は、桓武天皇に始まる有島武郎に至る土佐の有島氏の家系である。

 雑誌などに掲載された憲信の著作も次ぎにあげるが、年代が分かるところから言うと、甲府地裁所長を終え、休職判事となって以降の明治三三年(1900)から死没までのほぼ十年間の活動業績である。そうすると、成立時期不明の上記編著作も、概ねこの期間の成立ではないかと推される。
 この明治後期には、憲信は、系譜学に関し、「洞院公定・丸山可澄以来の第一人者」という評価を得ていたとされる(「増田于信の「野路村雨」」、『日本書誌学大系47 渡辺刀水集 (1)』所収)。渋沢栄一家の系圖についても、知人で系圖に精しい憲信に相談したとされる(『渋沢栄一伝記資料』 第1巻)。

『好古類纂』明治33〜42年刊行) 明治後期の歴史研究書で、小杉榲邨・井上頼圀ら数十名が執筆して全卅八冊からなるが、そのなかの「系図部類」に所収の諸家の系図(活字)を憲信が執筆した。
 織田家譜、諏訪家譜、徳川家譜、毛利家譜、亀井家譜、菅公事歴及系譜などが、遠祖から明治期に活動の者まで記載され、巻頭に憲信の概説記事がある。憲信の記事があるのは、明治三四年〜三八年に刊行された分であり、諏訪家譜は明治三七年刊行分に掲載される(阿蘇家では既に明治十年代に、異本系の阿蘇氏系図を宮内省に提譜している)。
○「阿蘇氏系譜」(活字) 津田啓次郎信学輯著の『皇国世系源流』(国会図書館蔵、明治四三年十二月購求)の第廿一冊に所収。同系譜は「仲田憲信」が編纂したと記載される。

 このほかにも別本の「阿蘇系図」があり、「異本阿蘇系図」(仲田信憲〔ママ〕編纂、北小国村北里栄喜氏の所蔵本の活字化)として、『神道大系』(神社編五十)に所収されるが、これは憲信が阿蘇家へ提供した阿蘇氏系図を謄写した本とされる。
○「楠氏系譜」(活字) 『西摂大観』(上巻。明治四四年刊)に所収される熊野国造系楠氏系譜であり、前掲『各家系譜』第六冊には出典を記す草稿(賀茂氏系図)が記載されるものとほぼ同内容である。東博所蔵の『楠家系譜写』(楠正済旧蔵。明治三七写)もほぼ同内容かとみられる。
  以上が系図関係の著述であるが、併せて、そのほかの歴史関係著述を次にあげると、
○「大久保村西向天満宮新碑」(活字) 国会図書館蔵の桜園叢書巻六九に所収。
○『帝国古蹟取調会会報』(のち『古蹟』に改名)に掲載の諸論考があり、次の通り。
  「河内国六萬寺小楠公墳墓の覈査」(第一号。明治三三年十二月)に始まり、「武田信玄の墳墓」「尊秀王墓」「井光の古蹟に就て」「日向の古陵墓」などがあり、「熱田神宮」「弘文天皇御陵考」「信貴山は物部氏の神蹟」「皇祖の神蹟」(ともに第三巻第四号。同三七年四月)で会報掲載が終わる。
○『国宝将門記伝』の序を執筆(明治三八年刊。織田完之著)。
○「中田憲信君朝鮮人の系統に関する所見 附朝鮮分れて三韓四邦となりし事」、『史談会速記録』(第一六三輯。明治三九年刊)に講演要旨が掲載される。  

 憲信の系譜収集範囲はかなり広いが、とくに阿蘇氏や甲斐武田一族は熱心に集めたようであり、最終官歴が甲府地裁所長だから、武田氏の系図に関心をもつのはよく分かる。阿蘇氏については、信濃の諏訪氏の系図にも関連するのかもしれない。こうした系図への関心・整理が、直ちに憲信の系図偽造疑惑へと飛躍する論理にはならないはずである。
 憲信は、甲府地方裁判所での下僚の望月直矢家(日下部出張所勤務)に伝えられる神魂命以来の紀国造・滋野朝臣一族についての貴重な系図も収集し、これは『諸系譜』第四冊に「望月系図」として掲載される。また、憲信が大阪控訴裁判所勤務のときは、判事正七位で所内序列九位ほどであったが、その当時の同裁判所所長に児島惟謙がおり、その家系(三輪氏の古代からの詳しい系図)は憲信により採収されて『諸系譜』第二六冊ノ二に掲載される。
 そのほか、同僚上司など周りの法曹関係者から系図を収集していた。彼が徳島検事正の時も、同地の系譜関係資料を多く集め、これが『諸系譜』(国会図書館蔵。同名書が徳川宗敬家旧蔵本にも一冊あり、後述)に収められる。名古屋控訴裁判所の用紙が同書第一冊に使われており、ここには中原朝臣氏(大判事明法博士を歴代務めた勢多家)の系図が記される。憲信は、明治十九〜廿三年の期間、同所にあった。後述するが、椿井氏の系図なども、弾正台勤務の時の収集とみられる。


 徳川宗敬家の旧蔵書

 現・東博への寄贈者たる徳川宗敬とは、一橋徳川家第十二代で、慶喜将軍と関係が深い人物である。まず一橋家について言うと、第九代当主の慶喜は水戸徳川家斉昭の子から養子に入り、一八六六年に第十五代将軍となるが、その跡を同年、茂栄(もちはる)(元尾張藩十五代藩主徳川茂徳のことで、尾張藩主慶勝の弟で、慶喜の又従兄弟)が継ぎ、明治に徳川伯爵家となり、明治十七年(1884)に逝去した。その跡を承けて子の達道(さとみち)が第十一代となり(昭和十九年没)、その養嗣が宗敬であり、水戸徳川家(篤敬の次男)から養子に入って、昭和九年(1934)に家督相続し伯爵を襲爵した。血筋は慶喜の兄・慶篤の孫にあたるが、義母鉄子(達道の妻)は慶喜の娘で、妻は慶喜の孫娘・幹子(慶喜の子の侯爵池田仲博長女)である。
 こうした一橋家歴代の動向を見れば、甲府地裁所長の後の憲信が接触したとしたら、相手は達道であろうが、その辺の事情は不明である。その後継の宗敬は、一橋家蔵書五万冊ほどを東博に寄贈した。そのなかに、憲信名義の著作はないが、内容及び書体などの諸事情から見ると、『諸系譜』や『惟宗家系』『武田族譜』が憲信自身が書いた筆跡であり、『橘田纂集系図』が憲信旧蔵書と知られるので、これらについてはもう少し詳しく後述する。

 東博寄贈分以外の一橋家蔵書は、茨城県歴史館に寄贈された。同館には「一橋徳川家文書」として、「主に江戸時代から明治初年の資料」がある。なかに中田憲信関係で検索すると八件あり、殆どが中田憲信書簡で田丸税稔宛の「国語会創始等の件、貴家御系譜取調べの件」であった(残り一件は、『好古類纂』第十一集の抜萃で亀井家譜関係)。同館には、茂栄が明治十年(1877)に作成した「一橋家譜案」や鈴木真年編の『楽家系譜図』(一橋徳川家文書)も所蔵される。
 茨城県歴史館に著者無名の「憲信関係書」がないかどうかを、同館の目録から当たってみたが、それらしきものは見当たらなかった。茨城県では水戸の県立図書館や筑波の旧教育大図書館に所蔵の鈴木真年関係書などをかつて当たったが、私が閲覧して回ったときは、中田憲信の資料には気づかなかった事情もある。真年の遺されたメモ書き(『松柏遺書』など)から、彼の承知していた古代諸氏の系図リストが知られるが、今どこにどうなっているのか不明なものがまだ多くあって、探索の手がかりがつかめない。

  (2023.04.14掲上。その後も何度か追補)      (続く)

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