『神別系譜』と編者中田憲信(増補版) の続き (2)

  
ここでは、憲信に関わる系図偽造疑惑について主に記します。
 
 


  憲信と偽書・偽作の問題

 中田憲信については、一部に「系図偽作」の絡みで引き合いに出されることもあるので、念のためにこの辺にも触れておきたい。総じて言えば、論拠の薄い疑惑なのであるが、自らの手で具体的に論証していない見解が殆どであり、そうした姿勢には呆れるしかない。

@『椿井文書』の関係

  まず、山城国相楽郡の『椿井文書』絡みである。当該『椿井文書』については、先に『姓氏と家系』誌第七〇号(2020年12月刊)の研究編集部名義の「令和二年の回顧と展望」で、馬部隆弘氏の著作ともども触れたことがある。
 憲信編著の『諸系譜』第三冊には、椿井権之助政隆の子まで及ぶ「椿井家系継」が掲載される。すなわち、当該系譜の末尾に記される「椿井萬次郎政福」が、明治二年に憲信らの務める弾正台の門兵としてつとめた事情も、当該系譜に見える。この者は、膨大な『椿井文書』の偽造に関わったといわれる椿井権之助政隆の子だと当該系譜に記される。

 京都府の木津川市山城町椿井へ行った馬部隆弘氏は、「……椿井万次郎平群政辰明治二十有五年(1892)九月廿ニ日逝去……大正二年(1913)六月遠族今井良政建之」と彫られた墓を発見したという(馬部隆弘氏「椿井家墓所と椿井文書」『群像』第七五巻第十一号、二〇二〇年十一月)。万次郎の名は、当該系譜の政福に見え、墓誌では政辰の名だが、同人としてよかろう。後醍醐天皇のときの「南山郷士」末裔として、椿井万次郎が活動したと言われる。
 上記「椿井家系継」とは、若干記事が異なるものに「平群姓正嫡椿井家系図」があり、これを私は未見だが、椿井政隆の作成かと言われる。この両系図でなぜか異なるのが肝腎の政隆の死亡時期で、前者は天保十一年、後者は天保八年(1837)と記されており、馬部氏は後者のほうを採用する(根拠は良く分からない。いずれにせよ、政隆の後嗣しか時期が確認できない)。

 ネットやツィッターでは、馬部氏の見方について歴史科学的ではないとして疑問を呈する見方や批判(「眞葛原雪」氏など)もかなり見えるが、拙見では馬部説で概ね妥当ではないかと思われる。ただ、いくつかの留意点はあろう。
 例えば、文化五年(1808)死没の椿井権之丞政矩、天保十一年(1840)死没の椿井権之助政隆、明治二年(1869)に弾正台門兵の椿井萬次郎政福という椿井家三代の実在性は、いつ誰がどのような方法によって確認したのかという疑問もネットで見えるが、これは愚問と思われる。明治二年当時は、憲信自身が弾正台勤務だから、その勤務先の奉職者に関し架空の人物を捏造することはありえず、萬次郎の父の死亡時期に二説あっても、天保十一年末頃迄には政隆が既に死去していたことで良かろう。
 『諸系譜』掲載の「椿井家系継」の記事内容は、初期部分は確かに姓氏などがデタラメな内容(初期のほうには神手小将軍が記される一方、渡来系の大蔵直廣隅という名まで見え、これでは平群氏出自も疑問となる)であるが、中世以降の部分について、全面否定ができるかどうかは分からない面もある。総じて言えば、憲信が採集してその編著作に収めた系譜でも、その記事の全てについて史実だと憲信が考えたわけではなかった。系譜・伝承が史実原態と異なることを承知していても、その家系の家・氏ではそのように伝えていたことを、憲信が記載したということにすぎないということである。
 『皇胤志』の著作をもつ憲信が、大和の平群臣氏の本来の系譜・出自を知らないわけではなく、そうであっても、これと異なる「椿井家系継」を『諸系譜』に掲載した。こうしたおかしな系図記事の例は、後述するが、九州の国前臣氏の系図でも見える。そして、一見してデタラメなことが分る「椿井家系継」を椿井政隆が作成ないし所伝改編をしたとしたら、その系図の古代関係の知識・能力もかなり低かったと推察できる。これまで『椿井文書』とされてきたなかには、若干の中世系図が含まれたが、この辺の是否はともかく、古代部分に関する椿井政隆の系図関係の知識・能力はかなり低かったと評価できる(中世・近世の系図についてはコメントしない)。憲信が椿井萬次郎との接触があったとしても、この接触により憲信著作に入り込んだ他氏の「偽造古代系図」は見当たらない。

 馬部氏は、穂谷村が訴訟で有利になるため、椿井政隆(1837年に死去?)へ依頼して椿井文書を作らせたと言うけれど、一八七八年七月に津田山訴訟は裁判で和解しており(『枚方市史』第一巻)、その十七年後の一八九五年(明治廿八年)になって、穂谷村上武氏・津田村三宅源治郎氏及び三之宮神社三松俊季氏が今井良政から高額で資料(家系図や三之宮神社古文書)を購入したのだから、その説明が矛盾するとの指摘もネットに見える。
 ここで当事者として名前が出される三松俊季は、百済王家末裔という系図をもつ河内国茨田郡の旧家三松本宗から入った養嗣で、三松本家(俊季の兄の家)には、幕末期の著名な国学者栗原信充(鈴木真年の師)の孫・信優が養子に入ったくらいだから(栗原信充校訂の系図も同家に残った)、妖しげな椿井政隆や『椿井文書』類に助力を仰ぐ必要もなかったのではなかろうか。
 だいたい、三松俊季氏は生没が「一八二五〜一九〇二」とされており、政隆の活動期とあまり重ならず、有栖川宮家監察も務めたと系図にいい、幕末・明治期の国学者敷田年治との接触もあった模様である。その息子には、大正初期に枚方町長をつとめた俊雄氏がいる(彼は栗原信充本を基礎に『百済王三松氏系圖』を刊行)。中山太郎著『日本民俗学』(昭和六年刊)には、「三松家の宗廟・百済王神社はあけすけに木津の阿部さんという系図作成業者に由緒書き作成を頼んだと言ってる」という記事も見えるが、これはあまり肯けない。
 明治初期頃に栗原信充・鈴木真年が三松氏の系図を採録・編纂した事情が既にあるからである(真年の系図史料集のなかにも、関係系図がある。ただし、三松氏は江戸前期に百済王神社とその地を離れた事情があり、現存する三松氏の系図にも平安中期以降では疑問な個所がないではないことに留意される)。

 この辺を含め馬部説の問題点として考えられるのは、ほかには次の点もある。すなわち、馬部説で『椿井文書』だと指定する諸文書の全てが、偽造書なのか、また政隆一人が偽造したものかの精査を要する。関西地域広域に関係して『椿井文書』問題があるわけだから、今後とも慎重かつ十分に文書偽造の是非を審査して欲しいところである。総じて言えば、椿井政隆の文書・系図の偽造能力を過大評価してはならないように、私には思われる。なお、鈴木真年に関しては、当該椿井文書との関係は管見に入っていない。

〔参考余談〕
 話しが本題からすこし逸れるが、最近のネットオークションで出品された物のなかに建部氏などの系図を含む『源氏系図』というものがある、との指摘が「堀ノ内氏」からあった。
 そこで、ネットに当たって見ると、『諸氏系図』という標題で「祥椙廼家蔵書」とあるものの出品が知られた。この原蔵者自体も編著者も不明であり、同書の一部がネット上の写真として掲示されるのを見ると、江戸時代の国学者らしき者が作った古氏族関係の偽系図集かとみられる(表紙には犬上朝臣、建部朝臣から始まり、道島宿祢・太朝臣・和邇古君なども記載されるが、内容はネットに見えない)。ネット上の写真に見える建部氏や加茂氏の関係系図も、もっともそうな名前がごく一部に見えるが、あとは明らかに偽作である。不思議なのは、掲示写真数葉のなかに見える嵩山(すせ)忌寸姓(渡来系で、唐詩人の孟浩然の族裔)の黒川・田谷氏の系図は、なぜかかなりもっともそうな名前と形になっていることであるが、嵩山忌寸という氏の名は表紙に記載がない。
 このオークション出品の由来や出品関係者などの具体事情が分かれば、あるいは椿井政隆の関与に関係するかもしれないが、はじめに記載される建部氏や犬上氏が近江を本貫とした事情などから、山城の椿井政隆くらいしか偽作候補者がいないのかもしれない。先にも記したように、彼の古代系譜関係の知識能力が低く、明らかに偽造が分かる程度の低い水準であったし、本系図もそうした水準だとみられる(この史料を誰が落札したのかなど、その後の事情も不明)。
 なお、平田篤胤門の六人部是香や角田忠行(熱田神宮大宮司)にも系図偽作の嫌疑をいう者もいる。現伝の六人部家の系図は確かにデタラメであるが、誰が製作者かは確認がとれず、後者については『天皇系図』を国会図書館デジタルライブラリーで見ることができるが、天皇名のただの列記だけで、とくに偽作とは受け取れない(何が偽作なのか?)。六人部是香が仮に系図偽造したとしても自家の系図であるが(しかも、あの程度の酷いレベル)、同門の飯田武郷の場合に言われるのは、他氏の古代系図であり、どこの部分が偽造で、史実原態と異なるという具体的な指摘はないし、拙見では、古代阿蘇氏関係の「異本系図」に問題箇所は基本的にないと考えている。武郷は後述するが、諏訪神社祠官を務めても、遠い九州の阿蘇氏系譜の知識があったかも疑問である。篤胤以降の国学者が古代系譜に関心をもって熱心に研究するのと、これを偽作するのとでは、大きな差違がある。この辺を混同してはならないと思われる。

A阿蘇氏系図の偽作嫌疑 
 併せて、阿蘇氏系図をめぐる阿蘇品保夫氏らから言われる「中田憲信への偽作嫌疑」にも触れておく。
 田中卓博士が昭和三一年(1956)に九州で阿蘇惟孝宅などを調査した際に、見出した数点の阿蘇家系図があり(なかでも、憲信が関与した『異本阿蘇氏系図』が著名)、これが昭和三五年(1960)に報告書で公表された(後に『田中卓著作集2』にも所収)。ところが、長野県立歴史館の一九八〇年代の調査では、現在の阿蘇家当主宅には「異本阿蘇氏系図」が存在していないとのことである。
 この事情と下記村崎真智子氏の研究を踏まえて、「異本」は後代になって混入したものだとみる向きがかなり多いとの記事がある。

 阿蘇氏が同族で関係する信濃でも、諏訪大祝家に「阿蘇氏系図」「神氏系図」があり、それを明治十七年(1884)に延川和彦が見たが、伊藤麟太郎氏が、当該両系図は飯田武郷が偽撰して中田憲信が阿蘇家や知久家に送りつけたものだと主張した(飯田武郷が案を作り、これを承けて中田憲信が偽作したともいう)。先年、五十歳代前半で亡くなられた村崎真智子氏の研究(近世後期に成立した『阿蘇家伝』七巻本には異本系の神名は見えず、阿蘇家にはこの頃まで『異本阿蘇氏系図』が存在しなかったとみる)などを踏まえて、憲信と飯田武郷とが系図を偽作した、と阿蘇品保夫氏は主張する(『一の宮町史』など)。
 最近でも、井原今朝男氏の論考「神社史料の諸問題」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一四八集所収。二〇〇八年)で取り上げられ、「「阿蘇家略系図」 をめぐる諸問題―国家神道下での関係史料の偽作・偽編」という項目が立てられる。
 そこでの結論は、「幕末から近代国学者や神官の編纂物や書写類が多数混在しており、実際に社家や神社、宮司家に伝来したものと後代に混入したものとを識別した史料学的な文書管理学・文書伝来論が必要になってくるといわざるをえない。」と記される。このことは基本が正しくとも、社家には長い奉祀期間のなかで衰滅、交替があり、現在の社家に伝えられるものだけが正しいわけではない。歴史の長い神社ほど多くの祠官一族、関係者をもち、その辺の没落・交替などで種々の異伝が時代変化と共に生じることがあるのだから、この関係で編纂物・書写類を斥けるのは無理がある。冷静で総合的な分析調査が必要であるが、これがこれまでなされてきたのだろうか。

 すなわち、これら偽作説は、総じて疑問が大きな見方である。私は、憲信等の業績を誹謗するなどに気づき、その反論として、ネット(本HP古樹紀之房間)上に、「村崎真智子氏論考「異本阿蘇氏系図試論」等を読む−併せて阿蘇氏系図を論ず」を書いたので、併せてご覧下さい。

 そこに書かなかったことを主体にして、要点を若干、以下に記すことにしたい。
 宮内庁書陵部には「華族系譜」が所蔵され、その十三に「阿蘇家 家系」という系図が収められる。これは、阿蘇家が明治五年(1872)に華族に列なったことをうけて、その家譜を明治十三年五月に提出(宮内省宛)したと記載される(末尾に惟敦の子の惟孝が明治十二年四月に叙爵した記事も見える)。当時の当主従五位阿蘇惟敦の責任で、これが提出されている。この内容は、問題の『異本阿蘇氏系図』よりも若干簡単な系譜だが、記事内容の主要部は基本的に変わらない。憲信が阿蘇家に自分が編纂した阿蘇氏系図を送ったのは確かであり、それを北里栄喜氏が写させたのは確かだとして、それぞれが何時のことかが不明である。憲信の上記活動事績を見ても、明治十三年頃迄に憲信が阿蘇家に系図を送ったということは、まず無理な話であろう(明治四年八月〜同十三年九月の期間は、憲信が東京の司法省や大審院のもとで横浜・東京などの裁判所に勤務)。
 津田啓次郎信学の輯著『皇国世系源流』(明治四三年十二月に購入されて国会図書館に所蔵)の第二十一本には、中田憲信編の「阿蘇氏系譜」が記載される。これを今、「源流本」と呼べば、北里本が惟孝について「従五位」と記して明治十六年の記事まであり、伊麿について明治十九年出生の記事があるのに対し、源流本には、惟孝の父・惟敦について「同(明治)十七年七月八日授男爵、同廿六年二月九日卒」、惟孝について「従四位」と記すから、源流本のほうが成立が遅い。このように見れば、明治二六年から四三年までの期間のなかで、源流本の成立があったことになるのだが、これがすべて憲信の手で記載されている。
 憲信や真年は、その編著作や草稿にあげる系図を何時、どこから採取したのかをほとんど記さないが、上記の源流本には、編述にあたり参考とした系図が珍しく列挙される。
 すなわち、はじめに「肥後国阿蘇氏之系有数本曰坂梨本、蔵原本、笹原本、宮西本、甲佐本、猿渡本、市原本、霜宮祝本等也、…(中略)…、特如甲佐本宮西本不然蓋記其本実耶今各本相補備以左掲録之云」と記される。ここに掲げられる諸本が憲信の編纂した阿蘇氏系図の原本といえそうである。憲信の編纂過程は不明であるが、憲信は多くの関係諸本を校合して阿蘇氏系図を編纂したと自ら記述しており、これを覆す根拠があるとは私には思われない。憲信偽作説を裏付けるものは、皆無と言えるのではなかろうか。阿蘇品氏などの非難者は、いったい具体的にどの系図部分が憲信による偽作だと言うのか、それが史実とどのように違うというのか、そして何時、憲信らが偽作したと言うのか、これら諸点を、偽作論者は具体的に明らかにする責任があるはずである。

 現在の阿蘇家に異本系の系図が存在しなくても、上記宮内省への提出した系譜の原本があったはずであり、田中卓博士も現地調査で確認してそのことを著したが、この田中博士の行動も疑うというのだろうか。明治十三年に提譜した時には、間違いなく異本系の系図が阿蘇家にあったわけである。最近またネット・オークションに「中田氏異本阿蘇家系譜」という書が出された。ネットから分かるその部分系図を見ると、当該系譜は「蔵原家市原家及諸家出所表」と見え、従来の鈴木真年・中田憲信関係の系譜では見られない「市原隼人佑惟就、下田左ヱ門大夫惟則」という名も見える。そこには、科野国造系の系図(他田太郎信行や諏訪評督倉足などが記載)も併せて記されるから、広義の阿蘇氏同族の系図が上記中田氏異本系ということであろうが、そこにはなんら偽造部分があるとも思われない(「偽造論者」は何をもって偽造と言うのだろうか)。
 更に言うと、東博所蔵の『惟宗家系』の末尾にも他書に見ない阿蘇氏一族(日下部君)や多氏の系図が記載されるが、これらも憲信採集の系図だと推され、とくに偽造らしき面は感じられない。

 中田憲信には甲府地裁所長や秋田・徳島の検事正の職歴があり、飯田武郷(生没が1828〜1900年で、これが真年のとほぼ重なる)は幕末・明治期の国学者で、東大や慶応等の教授までつとめた。こうした彼らの職歴・職業倫理から考えて、彼らが多くの系図を研究し整理・編纂作業は勿論やったとしても、系図偽作を行ったと考えるのはまず無理な話である(編纂に当たって、記事に多少の誤りは考えられても、偽作というほどのことはなかろう)。
 だいたい、飯田武郷が具体的に手がけた系図類は残されていないようで、少なくとも管見に入っていないが、是非、具体的にご教示いただきたい。いわゆる「郡評論争」の絡みで、自説を強化するために系図偽造を行ったと考えるものだろうか。憲信が「諏訪家譜」を編纂して雑誌に公開したのが明治廿七年(1894)という遅い時期のことであり、憲信の多くの著作を見ても、かつての平田篤胤・鉄胤の同門とはいえ、系図関係はおろか、他の分野に関しても、飯田武郷との連携・研究関係や親密な接触を示すものは管見に入っていない。
 なお、憲信僚友の鈴木真年が阿蘇氏・神氏について無関心なわけではなく、『百家系図稿』には、巻三に「他田舎人直」と題する科野国造一族及び「宇治部君」と題する阿蘇国造一族のかなり詳しい系譜が掲載され、巻六には「阿蘇」「神」という両氏の初期系図が記載される。これら記事の筆記時期や系図の入手経路は知られないが、『百家系図稿』が主に真年死没前頃の後期の筆写メモだと見れば、明治廿年代半ば頃あたりに記されたものだったか。これより早い時期において、憲信が阿蘇氏系図を入手・整理して阿蘇家に送ったとは考え難いということである。

 私は村崎氏とは、彼女が平成十八年(2006)一月に逝去(享年五二歳)されるまで、何度か史料・手紙のやり取りをしたが、憲信に系図の研究・編纂はあっても、それが偽作だという考えにはなっていなかったと受けとめている(阿蘇氏系図については、更に後で触れる)。そして、村崎氏が、中田憲信の没年を誤って記す史料に基づき、これを誤解して受けとったことも、私に知らせてきており、現在残された彼女の著作の記事だけを鵜呑みにして、憲信偽造説を説く論拠にはならないのである。偽造論者は、是非自らの手で具体的に偽造の論拠を追求し、提示していただきたいと思われる。
  

  (2023.04.14掲上。その後も追補)   まだ続きます

   この続きへ    本稿のtopへ

    系譜部トップへ         

   ホームへ     古代史トップへ   応答板トップへ      ようこそへ