『神別系譜』と編者中田憲信(増補版) の続き (3)

  
ここでは、憲信の『神別系譜』について主に記します。 
  


  第二部 『神別系譜』と関連諸書

 『神別系譜』の概略紹介

 本題へ入る前置きがやや長くなったが、本題の『神別系譜』という書の説明にそろそろ入る。ただ、私自身、この系譜集に取り組んでからまだ十分に検討したとまでは言えず、ご関心を持ちそうな研究者の方々にこうした貴重な古代系譜集の存在を早くお知らせしたいという気持ちが強いので、私の分析が浅く粗かったり、ときに誤解・誤読の個所もなきにしもあらずという事情がありながらも、むしろ報告の早さのほうを優先しており、この辺を予めお断りしておく。

(1) 同書の特徴
 全体で裏表の表紙を除くと、記事のある頁数は二七六頁(見開きで138枚)であり、憲信編著で皇統及び皇別氏族諸氏の系譜『皇胤志』(国会図書館所蔵)に概ね相当するような、わが国の神別系古代氏族の大系譜集である。そうすると、残る諸蕃氏族の系譜集を憲信が編纂しようとしなかったのかという疑いも出てくるが、これについては今のところなんら手掛かりがない(憲信が諸蕃関係の諸氏にも関心があったのは、下記『惟宗家系』を見ても分る)。

 同書は編著者名・成立時期等の成立関係の経緯を記さないので、字体・内容から判断して憲信の著作と考えられるが、内容から見て、甲府地裁勤務の時代より後の明治三十年代くらいの成立ではないかとみるくらいしか手掛かりがない。
 これまで知られる古代諸氏関係の系譜と対比してみると、相互に矛盾するような系譜の記載は少ないと考える。真年・憲信関係の多くの諸系図の記事を補充・追補するものが多くあり、またこれまでまったく知られていなかった系図でもいくつか記事がある。

(2) 当該系譜で新たに分かる諸件
 一部に項目が重複するところもあるが、ここでは、分かり易さを考えて主な記事内容を表示した(順不同の列挙)。私としては、どこから採集したのか出典不明であり、上古あるいは後裔一族の系譜が、どうしてここまで古代系譜が詳しく分かるのかがとても不思議なのだが、本書で分かることを以下に記しておく。実のところ、ここで拙見を書き綴りながら、判断が迷う個所もかなり多くあり、『姓氏録』を何度も読み返して、総合的な校合・把握に鋭意努めたが、種々勘違いの所もまだあるかも知れない。このこともお断りしておきたい。

○拙著の『集成』編纂時点で不明であった中央及び地方の諸豪族の具体的な系譜が判明する。
 中央:采女臣、玉作部連、阿曇連、伊福部連、凡河内忌寸(国造)、倭川原忌寸、爪工連、榎本連・山前連、阿刀連・中臣熊凝朝臣・漆部連(中間歴代が若干切れる)・猪名部造、倭文連。
 榎井朝臣一族や卜部朝臣一族、忌部首一族では、その詳しい系図も見える。
 地方:斐陀国造、丹波国造、安岐国造、紀忌部造、多珂国造・伊甚国造・相武国造、伊吉島造・伊伎宿祢。
 とくに武蔵国造一族の系譜が笠原直・物部直等や同族の伊甚国造などを含め、驚くほど詳細であり、丹波国造一族も詳細である。隼人系国造(大隅国造、阿多隼人)の異伝系譜も収める(後述。このほか、蒲生稲置・穴門国造・三河国造など、いくつかの異伝系譜も所載)。尾張国造の系譜でも、中島郡領家など一族が詳しい。
 一方で、当該書を見てもまだ良く分からない古代神別氏族の系譜も、次のようにあげられる。
 例えば、服部連、矢作連、香取連、伊与部連、石作連、三野前国造、伯耆国造、駿河国造、周防国造、山城の身人部連(
一部記載あり)、明石国造、村国連(三河国造同族とまでは記す)や播磨の伊和君。大和の倭直については奈良時代頃までしか記されず、伊勢国造については、原典が系図ではなく、初めのほうの一部を憲信が諸史料を基に系譜整理をしたものとみられ、後裔の記載がない。玉祖宿祢や多米連については、始祖までしか記載がなく、これも後裔の記載がないのが惜しまれる。
 このほか、火国造・肥宿祢・筑紫国造や多朝臣など皇別氏族に関しても知りたいが、憲信の『皇胤志』より詳しい皇族系譜集が現存しないようで、この辺も残念に思われる(肥宿祢については、本稿の末尾に触れるが)。


○『集成』編纂時までに知り得た系図よりも、一族後裔についての敷衍追補の記事がかなりある。
 出雲国造一族、土師連(秋篠安人一族など)、榎井朝臣の一族後裔、阿波支流などを含む忌部連の一族後裔、伊勢の石部直(度会神主の一門)など。

○『集成』編纂時点で分からなかった氏について、途中歴代の記載があり、貴重である。
 宗像君徳善(後述)、丹波康頼、春澄善縄(猪名部造)、県犬養三千代、若犬養連網田や林連一族などでは、先祖からの歴代が省略なしで具体的な名で記される。

○歴史上の有名人に至る系図歴代が判明する。
 源信・卜部季武(ともに占部宿祢)、役行者(役公小角)、相模出身の良弁(東大寺別当、義淵僧正の弟子)、凡河内躬恒、隼人の曽婆訶理(ソバカリ。『古事記』で主君墨江仲皇子を暗殺)。

(3) 紹介しておく掲載例……宗像君の初期系譜
 ここまで記してきた抽象論ばかりではもの足らない方もおられるとも考えられるので、古代系図の具体例を一つ掲示しておく。

 北九州の雄族で、高市皇子の生母・尼子娘を出した宗像君胸形君)は、朝鮮半島に至る主要海路の一つ「海北道中」をおさえ、天武朝の八色之姓では朝臣姓を賜った。
 その系図は、普通には平安前期ないし中期頃の清氏から始まるものが多く、始祖的な位置づけをする清氏について。桓武天皇の孫とか嵯峨天皇や宇多天皇の皇子とも称された。例えば、東大史料編纂所所蔵の『宗像系図』(鈴木真年蔵本を明治廿五年に謄写とある)でもそうである。大正三年(1914)に謄写されたとの記事がある近藤清石蔵本『訂正宗像大宮司系譜』でも、桓武天皇から始めて、その子の「清広─清氏……」と系を続ける。
 それでも、これまで知られた真年の系図集には、尼子娘の父の徳善から始まる奈良時代以降の歴代を記す系図(『百家系図』巻廿七所収の「宗像」系図)があるが、宗像君初祖とされる阿田賀田須命から徳善までの中間歴代は知られなかった。ところが、本『神別系譜』の記事にはこの間の歴代の名も載せられており、これを次ぎに記しておく。

   ※「宗像君の初期系譜」
     


 当該系譜では、崇神前代の阿田賀田須命から徳善までの途中歴代数が若干少なめのような気がするが、名前等は妥当だと思われ、ほぼ信頼してよいと思われる。このなかには風土記に見える「珂是古カゼコ)」の名も見えて、「火国御原郡姫社(ひめこそ)之社奉斎」とある。
 この者は、『肥前国風土記』基肆郡の姫社郷(鳥栖市姫方町が遺称地)の条に見えており、山道川の西に荒ぶる神が坐して路行く人々の多くが殺されたので、神意を仰いだところ、「筑前国宗像郡の人、珂是古をして吾が社を祭らしめよ」との神託があり、そのとおりにしたら路行く人々の殺害が止み、機織り器具が現れたことで、この神が女神と分かった、と記される。風土記には事件の年代が記されないが、当該系譜から推すると、景行朝頃かとみられる。宗像社で祀る宗像三女神が機織りと縁由が深いことは、別途にも伝えられ(応神紀四一年条に、呉から縫工女を伴い筑紫に戻った阿知使主らは、胸形大神の求めで工女の兄媛を献上したとの伝承が記載)、宗像市鐘崎には織幡神社(名神大社)が鎮座し、三女神の各々の社と共に宗像五社とされる。
 なお、ヒメコソ神社は、佐賀県鳥栖市姫方町に姫古曽神社が、その東近隣の福岡県小郡市大崎に媛社神社があり、「肥前国宗形天神」に対する從五位下の神階授与が『三代実録』の貞観十三年(871)四月三日条に見える。


 『神別系譜』を活用する際の留意事情

 『神別系譜』掲載の系譜を見てきて、これら諸記事に関し総体的に高い評価をするものだが、個別系譜の評価・判断も含めて、それが難しい面が多々あって、とりあえずの感触、留意事項を次ぎに記しておく。
○中田憲信が諸氏の系譜を解釈して古代氏族の系譜を合理的に整理したものとは必ずしもなっていない。むしろ憲信が見た所伝原態の系譜を、系譜記事も含めて短く簡略化するくらいの形で整理した感じがある。だから、内容的に祖系や初期段階等が疑問なものも(三嶋県主、宇佐国造など)、そのまま掲載されているおそれもあって、この辺は要注意であり、系譜や記事の丸呑みには注意される。
 私にとって、今のところ、判別・評価が極めて困難なものの一つが隼人族長の系譜で、憲信が『諸系譜』第十二冊で別途、提示する隼人の系譜と相矛盾するものが『神別系譜』のなかに提示されており、各々に記される名前等があまり不自然ではなく思われることである。

○平安前期に成立した『新撰姓氏録』の記事との関連では、この『神別系譜』の系譜記事が割合対応しており、むしろ使いやすい利点があるが、系譜を保持した諸氏の仮冒・冒称らしき系譜も併せて記載されることに注意したい。知々夫国造や阿智祝の系譜も整合性がとれていないようだし、玉作連の初期段階系譜には、他氏と異名同人の歴代の記載がありそうに思われる。

○同名異人()、異名同人()の問題について、憲信はあまりうまくは処理できていないように思われる。江戸後期に平田篤胤はその著『古史徴』に併せて『神代系図』を著したが、具体的な系図(とくに後裔諸氏の系図)の知識が彼には殆どないので、同名異神・異名同神の判別が適確にはできず、この辺が混乱していて、酷い内容である、と拙見では評価する。総じて言えば、神代及び崇神前代という上古時期には、同名異人()の例がかなり多いとみられるのだが、その辺の把握が当時の篤胤の知識では適確ではないと思われるからである(篤胤が神統譜に取り組んだ影響は大きいと思われ、その辺は業績としておおいに評価するものではあるが)。
 憲信はそれでも内容的には篤胤よりもまだましであって、諸々の神の異名もいろいろ掲載するが、やはりこの辺の判別・処理があまり適確とは言えず、若干の混同があると思われる。『神別系譜』にあってもそうで、例えば天村雲命という同名異神に気づかず、伊勢国造という氏の位置づけを誤るとみられる。一番難解でとくに異名の多い少彦名神後裔の諸氏族について、中臣氏族との混淆(知能が高く思慮深い神〔思兼神、思慮神〕とみられた少彦名神と天児屋根命〔天見通命〕との混同などに因る)や、少彦名神とその兄の天目一箇命(天御影命)の後裔諸氏にあっても、祖系の混淆(ないし異伝)が同書に一部見られるようであり(例えば、穴門国造や額田部)、この辺には、私としても判断がなかなかつかない個所がある。

○上記事情もあって、諸氏の氏族分岐が必ずしも実態ではなかった模様のものも、原典に各々異伝がある以上、致し方がないかも知れないが、この辺の混同がいくつか見られる。また、後裔の者が直子のように記される個所(歴代の一部欠落する個所)も散見する。系線の引き方に混乱・疑問が多い系譜もある(佐伯連、倭川原忌寸)。

○『神別系譜』を通覧して、最も強く感じるのは、「天諸別命─天御行命」という親子神の後裔におかれる諸氏の数多さである。
 天諸別命とは、『姓氏録』にも見えない神だが、同書に一個所(大和神別の御手代首)だけ見える天諸神命と同神ではないかと考えられ、天御行命のほうも一個所(右京神別の屋連)だけ同書に見える。それが、『神別系譜』で天御行命の神系後裔となる諸氏には、屋連、天語連、多米連、雄儀連・手人造、桜井田部連、県犬養連、穴門国造などと極めて多く、注目すべき位置を占める。また、天御行命の兄弟の後裔とされるものに弓削連や御手代首・神人(『姓氏録』河内神別)などもあげられる。

 こうした摩訶不思議な「天諸別命─天御行命」なる親子神の実体解明が必要だが、『神別系譜』にはもう一個所、「天諸別命─天御行命」という記事が出て来て、天諸別命が天羽雷雄命(天日鷲翔矢命の子に置かれる)の子とされる。天諸別が天羽雷雄の子だというのは疑問が大きいが、両者は近親なのであろう。そして、『姓氏録』では上記諸氏の多くが、天日鷲命(実体は少彦名神のこと)の後裔だと記される。穴門国造族で賀田宿祢(もと神田直)姓の「長門国住吉荒魂社大宮司中島家系図」には、「天諸神命 一名天三降命 宇佐宿祢御手代首等祖」と記される(鎌倉前期頃の中島家先祖も、『神別系譜』に掲載)。拙著『息長氏』では、宇佐国造が少彦名神後裔で鴨氏と同族であることを記した事情にある。「御手代」とは、御幣を手に持ち神事を行なう者を言い(だから、諸々の神を奉祀か)、大和の御手代首の居住地近くの山辺郡に服部氏も居た。服部連とこの氏だけが、『姓氏録』では天御中主尊を共に始祖と仰いだ事情があるから、両氏は同族とみられ、少彦名神の後裔となろう。
 これら幾つかの乏しい史料ではあるが、これらを併せて総合的に考えると、天諸別命が天日鷲命(少彦名神)にあたるのはほぼ確かなようであり、その子の天御行命については天羽雷雄命に当たりそうな色彩が強そうである。『姓氏録』左京神別の雄儀連について、「角凝命十五世孫乎伏連之後也」という記事があり、これに基づいて、その中間歴代を埋めてゆき、天諸別命に当たるべき者を探ると天日鷲命に当たる事情もある。
 天羽雷雄命は、鴨県主の流れや葛城国造の流れの祖だが、倭文連や美努連・大椋連などの祖とも伝えており、このグループの諸氏のなかに天御行命の後裔諸氏も入りそうである。だから、総じて敢えて言えば、葛城国造の初期分岐で剣根命の後ではないかという可能性も推されるが、現存の葛城国造系図の初期段階は割合簡単なものでしかないので、系図の上からは確認ができない。倭文連、長幡部と三野前国造、鴨県主の系譜も、崇神前代の途中までは、異名であっても歴代の実体が同じではないかと推されるが、『神別系譜』を見ても、各々が異伝であって判断がつきにくい。これまで長い期間、古代氏族シリーズで諸氏族の著作を手がけてきて、少彦名神の後裔氏族には多くの難解さを常々感じてきたが、この『神別系譜』でも同様な感触を改めてうける。


   (2023.04.14掲上。その後も追補)  まだ続く

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