『神別系譜』と編者中田憲信(増補版) の続き (4)

  ※
ここでは、東博所蔵の『諸系譜』と『惟宗家系』及び一応の総括について主に記します。    


  東博所蔵の『諸系譜』と『惟宗家系』

 東博には、憲信著述の系譜史料類がまだいくつかある。このことを先に記したが、それらについての概略の説明を、古代氏族系図を含むものを主にして併せて述べておく。

@『諸系譜』

 同名の『諸系譜』は国会図書館には全三三冊の所蔵があって先に紹介したが、一橋家旧蔵本にはこの名で一冊だけあり、前者につながる。その内容は、尾崎氏(韓矢田部造姓)、黒川氏(越智宿祢姓)、山邨(やまむら)氏(穂積朝臣姓)及び豊後の佐伯文書(系図の記載はなし)からなる。こうした記載内容から言えば、本件書名は、憲信編纂の書の名で言えば、『諸系譜』よりもむしろ『各家系譜』という感じが強い。

 最初に記載の尾崎氏の系図は、内題が「相模国尾崎系図」とある。歴代が朝廷の中下級武官で、左近府生、御随身という身分が多かったというが、南北朝期に宗良親王に従って駿河国尾崎荘(比定地不明)に遷り、居地に因み尾崎を名乗る。以降は今川氏、北条氏に属し、記載の末尾が小田原落城時の掃部助宗次(後に行永と改名)に止まって、その子孫は記載されない。これは憲政の神様といわれた神奈川県津久井(現・相模原市緑区域)出身の咢堂尾崎行雄家の祖先の系図である。系図のはじめに「皇孫部 韓矢田部造 崇神天皇御流」と記され、「新田今井舎人源朝臣愛氏編集」とあって、鈴木真年が若い時期に筆写したものと分る(はじめの「皇孫部」の表記は、鈴木真年筆の利波臣姓の「越中石黒系図」の巻頭最上端や『良峯源氏猪飼系図』〔近衛舎人新田源朝臣武智良編集と記載〕にも見える)。系図の末尾には、「以尾崎三蔵二本近藤守重所持本其他二本校合令政正也」と記されて、出典が知られる。

 尾崎行雄の父の行正は、明治三年(1870)の政府官人の『職員録』にあっては、「大韓矢田部宿祢」という姓氏を名乗り、「弾正台少巡察」で見える。明治二年六月に弾正台に巡察属という組織が設置されたから、憲信の弾正台での同勤者であった。ネットのウィキペディアでも、行正の先祖を「掃部頭行永」で、後北条氏滅亡後は又野村に移り、累世相続いて里長をつとめ生家が漢方医だと記している。また、子の行雄(生没が1858〜1954)のほうは、明治初めに十歳ほどで平田鉄胤が開いていた平田塾にて学んだ経歴がある。
 かつて私は、『歴史研究』誌第三六八号(1992年1月号)に「明治初期の政府官員の姓氏」という稿を掲載したが、その時からの長年の系譜の疑問がこれで一つ解決したわけである。上記系図は、同じく弾正台勤務であった真年・憲信両人が尾崎行正から入手した可能性がある。当該尾崎の先祖を天武朝舎人の摂津国島下郡人韓矢田部虫麻呂としており、韓矢田部始祖たる神功皇后時の現古別命から虫麻呂までの中間の歴代(六代ほどか)が記されないのが惜しまれる。

 残りの系譜・文書の史料は、憲信が収集し記したものであろう。
 尾崎氏の次ぎに記載の黒川氏・山村氏は、ともに饒速日命後裔の物部連一族の流れであるから、饒速日命以降の上古代からの系譜が記されており、それが越智宿祢の流れと穂積朝臣の流れとされる。前者では飛鳥麻呂の流れの京師越智氏の系譜が詳しくて、この一族の系譜は他書に見ないし、後者では穂積朝臣姓鈴木一族の系譜で他書に見ない部分もある。
 所載の「黒川」系図では、末尾世代の黒川通軌(みちのり)について、「黒川 陸軍中将 従三位 勲二等 男爵」という記事がある。彼は、明治廿年(1887)五月に勲功により男爵に叙されたが、明治初期に兵部省の糾問少佑から糾問正までを歴任し、陸軍裁判所長などもつとめたから、通軌とは法曹関係の縁由でつながり、当該『諸系譜』の成立が明治廿年(1887)五月以降と分る。次の「穂積朝臣山邨氏」の系図の末尾に記載される総俊について、「山村 弾正巡察属、淳平」「明治二己巳年八月十九日任巡察属」と記事があり、これも憲信の同僚であった。

A『惟宗家系』
 東大史料編纂所に『惟宗系図』という編著作者不明とされる系図が所蔵され、島津氏祖の忠久まで記載される。私が『集成』を編したときは、秦・惟宗氏にかかる最も信頼できそうな系図として、同系図を主体として整理を行った。
 この系図については、昭和五八年(1983)に利光三津夫・松田和晃両氏による論考(「古代における中級官人層の一系図について─東大史料編纂所蔵『惟宗系図』の研究─」、慶応大学『法学研究』五六─一・二所収)があり、当該系図の信憑性を論証して貴重な指摘が多い。その後、よく見直して見ると、『惟宗系図』の筆跡は間違いなく鈴木真年のものであったから、その成立の下限が知られる。

 ところで、『惟宗系図』と基本は同じ内容ながら、それよりも一族・後裔の記事が更に詳細であって、戦国時代末期頃迄の記事も見えるのが、東博所蔵の『惟宗家系』であり、筆跡から見て、憲信の編著であることは疑いない。
 その主な点だけとりあえずあげると、例えば、秦氏本宗とも言うべき太秦公宿祢の系譜が、島麻呂に始まり四代ないし六代にもわたり記載されたり、中世武家で室町幕府管領畠山氏配下として紀伊などの各地で活躍し、旗本にも残る神保氏一族の系図(『集成』では、平安中期の祖先博愛から鎌倉初期の経長までの中間歴代が不記載)、なども見える。
 また、ここまで述べてきたこととの関連で言えば、南山城の椿井氏も惟宗一族の末流にあげられる。すなわち、同家系の第十二葉には、大学頭惟宗孝言の子の山城介長言の後裔系譜が掲載されており、そこには、平安後期の長言の曾孫の宣俊(東史編蔵『惟宗系図』に記載あり)の弟に少外記長業をあげて、その曾孫の長頼が相楽郡椿井地頭となって(鎌倉中期頃か)、その子孫が椿井を苗字としたと見える。この流れは戦国末期・江戸初期頃の世代まで及ぶが、この山城の椿井氏と大和の平群流の椿井氏との関係は不明である。
 ちなみに、『大和志料』の椿井城(平群谷南東部)の項には、文明十八年(1486)十二月に筒井氏と椿井氏が争って、椿井越前入道懐専が島左門と戦い討死したと言い、この室町中期頃から椿井氏は山城の椿井郷へ移っていった模様である。そうすると、山城のほうの椿井地名の起こりは大和からの移遷に伴うものではなかったかとみられるから、惟宗氏後裔の流れが「椿井」を名乗ったというのは疑問にも思われる。旗本に残る椿井氏は藤原姓を称したが、この実態は平群流かとみられ、椿井権之助政隆の家が旗本椿井氏と実際に同族であったかどうかの確認はし難い。椿井万次郎は、後醍醐天皇をお迎えした南山城の土豪の末流だと主張したから、大和皇別の平群流の椿井氏と同じだとは言い難いのである。
 ともあれ、『諸系譜』所載の「椿井家系継」では、末尾に「大永年中の図書に椿井三郎惟宗政熈と記すものあり」という追記の記事(憲信が付記したか)もあり、当該の大永年中(1521〜28)の「椿井三郎政熈」というのは、「椿井家系継」には政隆の直系の祖・椿井越前政矩の弟にあげる「椿井縫殿助政熈三郎」に当たり、「属佐々木京極殿、住江州伊香郡椿井」という譜註記事もある。こうして見ると、山城椿井氏の本姓は、いったい、何だったのだろうか(南山城・椿井の地には二系統の椿井氏があったのかもしれないが、不明)。

 『惟宗家系』には、本体の惟宗氏一族の系譜に続けて、最後に附載される異系の系譜が数本ある。そこに、皇別の多臣一族や国前臣一族、神別の三輪君・宗像君一族(宗像君支族の「姓氏不明の氏」〔『神別系譜』にも不記載〕の記載が長い)、という系譜が見える。国前臣の系譜は、これと同内容が憲信編著の『皇胤志』だけに見える荒背男命の流れであって、初期部分には名が疑問な歴代も記載されることにも留意される。
 附載で最も肝腎な多臣一族の系譜には、多臣本宗に加え、科野国造や阿蘇君・肥君一族の系図なども簡略ながらある。先に阿蘇氏の系図に触れたから、これに関しても少し書いておく。ここに見える阿蘇君一族には、他の系図にまったく見えない日下部君氏の長い系図(小山氏の名が見えるが、肥後国託麻郡小山邑より起こるか。菊池一族にも小山氏がある)が記される。それとともに、「異本阿蘇氏系図」に見えない宇志瓶乃君(允恭朝に負阿蘇直姓)の子孫が、子の兄比古以降で九世代も記されることに留意される。憲信偽作説をとる見方では、明治三十年代という遅い時期にあっても、憲信がこの辺を偽作したと言うのだろうか(もちろん、郡評論争に関係する記事もこれら系譜には無い)。なお、憲信編の『各家系譜』六には、やはり火君・大分国造一族の漆島公系図も見えるから、憲信の関心は阿蘇氏に限らない。

 その後、東博には、憲信の養子季信の実家たる幸徳井家陰陽道の官人で、鴨朝臣姓)の始祖健速須佐乃雄命から始まる系譜『幸徳井世系 考訂本』もあることが分かった。同書も、憲信の筆であって、明治七年十一月までの記事が見えており、季信が明治六年に養子になったことも見える。


 東博所蔵の『武田族譜』と『橘田纂集系図』

 東博所蔵の中世武家系図たる『武田族譜』について、次ぎに記し、これに関連する書『橘田纂集系図』についても併せて記しておく。
 憲信は甲府勤務の時に、地元の武田一族の系図に関心をもって、各地の一族関係系譜を集め編纂したが、そのうち今に残って知られるのは、真野信治氏などの情報に拠ると、西尾市の岩瀬文庫所蔵の『甲斐源氏系譜』のほか、国会図書館蔵『各家系譜』のなかの「青木家譜」「岩崎家譜」や、『諸系譜』の八代系図があり、東博所蔵の『武田族譜』はそのなかでも最も詳しいとされる。この『武田族譜』も、同書だけでは例によって編著者や成立年などは不記であるが、内容・筆写文字から見て憲信の編著に間違いがない。かつ、同書のなかには、憲信宛の付箋「東京都 武蔵国豊多摩郡大久保村二三六 中田憲信殿」とあり、「約束郵便」印がつく)も挟み込まれる。先に、望月氏や児島惟謙に関して記したが、このように職場の法曹関係の人々の家伝・家譜を熱心に集める努力が、憲信から絶えずなされていた。

 ところで、山梨県での系図収集に際しての協力者がほかにいたのだろうか。これに関して、「堀ノ内氏」は、山梨市矢坪の永昌院住職の橘田寰海(かんかい)を教示・示唆される。 
 永昌院とは、信玄の曾祖父 武田信昌の菩提寺で曹洞宗の龍石山永昌院といわれ、昔の住職が橘田家であった。岩瀬文庫所蔵の『甲斐源氏系譜』についても、憲信の筆跡であることは間違いないが編著者の名は記されず、そのために、同文庫古典籍データベースには「兜巌史略〈系譜〉橘田寰海纂集」と記される。「兜巌史略」は永昌院所蔵の史料であり、そのなかにあった『甲斐源氏系譜』が今は西尾市に残り、その兄弟分の系図とも言うべき『武田族譜』が東博所蔵となっていることになる。
 東京国立博物館には、徳川宗敬氏寄贈と捺印された『橘田纂集系図』五巻が所蔵される。同書には、坂東八平氏や藤・源等を含む中世武家諸氏の多くの系図が記載され、その「空」の巻には、藤原姓の少弐氏に付加して、竜造寺氏の古代からの系譜として肥君姓系図併せて、草野氏の初期段階まで記載)も見える。これら諸事情を考えると、『橘田纂集系図』も憲信が旧蔵したもので、付加記事の肥君姓系図は、憲信が情報を提供し、橘田寰海が纂集・筆写した系図集に織り込まれたとみられる。

 最後に、東博を離れて、ネット利用可能な中田憲信の著作について併せて付記しておくと、明治後期に刊行された『好古類纂』の「系図部類」に掲載された憲信編纂の系譜が個別に本とされ、そのデジタル化されたものがネットに掲上されている。具体的には、諏訪家譜、織田家譜、毛利家譜はその後に別冊として刊行されたとのことであり、これらをネットで見ることができる。ネット上では、「信長は忌部氏也」(織田系譜〔系譜部類〕)、「毛利家譜」などとして掲載がある。そして、これらの家譜類に対して、憲信が刊行後に補筆・加筆した朱文字書込みが付いているものもあることに留意したい。


<一応の総括>

 系譜研究を含め歴史研究は、常に偽史料との厳しい戦いのなかでなされる(べきものである)。このことを今回の系譜探索に関しても強く認識する。偽文書(偽作)を正文書とするのは問題が大きいのは当然のこととして、その逆に、正文書を偽文書(偽作)として安易に斥けることも極めて問題が大きい。とくにいわゆる「学究」関係者に関しては、後者のほうの取扱いの重大さを十分に認識されるべきではないかと、私は痛切に感じる。
 中田憲信に広く関連することを、以上に縷々記し、試論旁々で報告してきたが、平田門下の国学者たちや弾正台関係者がいろいろ出て来て、その巡り合わせの多さに驚く。これも、平田篤胤が歴史研究における系譜史料の重要性を弟子たちに説いた故だったか。篤胤による当時の系譜研究がすべて正しい調査・結論になったかは疑問があるし、その門下生の弟子たち国学者の諸研究も同様にそうである。でも、そうであったとしても、その辺は系図偽作の問題ではなかった

 ともあれ、憲信・真年関係の系図史料群を新たに見出したことで、平田国学の流れの一端についても、憲信・真年の系譜収集活動についても、かなり多くの知識・認識を得ることができた。これを踏まえた本稿作成には、「堀ノ内」氏の上記ご教示・示唆が大きく寄与しており、それに対し、深甚なる感謝を重ねて申し上げたい。そして、系譜研究が数多くの関連史料を必要とし、それらに関する具体的・実地的な見聞・知識などを含めて、総合的に十分に吟味・考察することを必要とするのだから、そこには大勢の関係者の協力・思考やチェックが不可欠だと実感する。

 私はこれまでも憲信の系譜収集の業績に関しておおいに評価してきたが、東博所蔵の『神別系譜』など一連の著作類により、ますます高い評価をせざるをえない。実際にどのような苦労でこれだけ多くの系図史料を集めたのか、出典・旧蔵者がどうだったのかが、いまだ不思議な感もある(かつてお聞きした飯田瑞穂中央大学教授の言葉、古代の系図がこんなに分かって良いものだろうかという趣旨も、併せて想起されるが)。ただ、それが憲信の分析・整理とは別問題であり、各家・諸氏における所伝に対して、やや素朴に受けとめすぎる面も憲信にあるので、別途の視点から十分で総合的な検討を要する。本稿は、はじめにお断りしたように、取りあえずの問題提起を兼ねた拙見の試論・粗論であり、ご関心ある方々により更に研究が進められることが期待される。
 憲信がその諸著作において、その著述者名も史料出典も、編述・成立時期についても殆ど記さなかったことについて、多少とも疑義が残る感が否めないが(いつまでも原稿段階の気持ちで追補を重ねていくつもりかも知れないが)、まだ日本各地に残るかも知れないその著作類などを追い求めることにより、更に史料分野で新しい展望が開けることの可能性に期待をかけるものでもある。すくなくとも明治に鈴木真年や中田憲信が見た古代氏族関係の系譜史料は、古社祠官家などにまだかなりあったのだから、これらの探索努力を、広い範囲で常々続けていく必要があろう。

                    (上記記事は2021年9月中旬に当初、記して、後に更に追補)
 
   (2023.04.14掲上。その後も何度か追補

  本稿の文頭へ戻る

    系譜部トップへ         

   ホームへ     古代史トップへ   応答板トップへ      ようこそへ