「越中石黒系図」の偽造問題

                                     宝賀 寿男


  最近(2007年)、富山県在住の古代史研究者、木本秀樹氏からその論考「「越中国官倉納穀交替記残巻」と郡領氏族」を所収する『日本海域歴史大系 第一巻古代篇T』の贈呈を受け、久しぶりに利波臣氏の系図について検討を加えたところ、これに関連して、須原祥二氏の論考において気になる諸点があったので、これを論評したのが本稿である。

 なお、鈴木真年の系図収集先として、石黒系図を本HPのなかで取り上げているので、併せてご覧ください。



   

  連絡をうけ気づいたことであるが、須原祥ニ氏「越中石黒系図と越中国官倉納穀交替記─交替記諸写本の検討を通じて─」という論考がある。これが、歴史研究誌『日本歴史』第601号(平成11年6月)に発表され、また、東大大学院の博士論文「古代地方制度形成過程の研究」の一部(全五部のうちの第四部)を構成しており、それを評価しての学位授与が平成十四年四月になされている。
 その論考の趣旨は、「「郡領職=在地首長の族長位」という理解を裏付ける史料とされてきた越中石黒系図が、越中国官倉納穀交替記の写本を参照して作られた偽系図であることを論証した。」と紹介されている。
 
  この表現は由々しきことである。というのは、それまで、「越中石黒系図」は佐伯有清氏など多くの古代史研究家から貴重な古代系図史料だと認められており、これを「偽系図」という評価をした研究者は、かつては石黒秀雄氏くらいというのが管見に入ったところである。石黒秀雄氏はかつて山口大学の名誉教授農学部をされた方で越中・石黒一族の末裔であるが、専門は畑違いの理科系であって、その系図認識や中世系図部分の評価に関しては問題が多々ある(後述)。そして、須原氏は若い学究ではあるが、これを指導した東大の教官が越中石黒系図を偽系図だと評価したと認めることにつながるからである。
  そのため、当該論考を入手して検討したところ、重大な先入観が根底にあって、それが結論を導き出していることが分かった。そのために、ここで反論を加えておくものである。

            
  

 須原氏の検討は、「越中国官倉納穀交替記」(以下、「交替記」と略記)の諸写本を検討し、滋賀県の石山寺所蔵の原本から江戸時代末期頃までに、@京大文学部所蔵本(「光棣(ミツトミ)本」という)、A東大総合図書館蔵本(以下、「小中村本」という)、という二系統の写本が発生したことを調べ、原本とこれら両本、及び「越中石黒系図」の記事の名前の表記や官位を比較して、同系図の古代部分が「交替記」小中村本の記事内容に酷似ないし依拠すると考える。ここまでの論証過程と結論については、私としても酷似に関し異議があるわけではない(事実なら酷似するのが当たり前のこと)。
 問題は、その次である。須原氏の結論としては、「越中石黒系図」が「「交替記」小中村本を参照して作られた可能性がきわめて高いといえるだろう」と推測することであり、その思考過程のなかに、飯田瑞穂氏が言う「系図家」なる者が系図を作る、すなわち偽造を行うものだという思込み(誤解)が当然のように出てくることである。

 もう少し筋道を立てて説明する。
 「越中石黒系図」と「交替記」小中村本という両書の記事内容が酷似するとしたとき、両史料の伝来・保存から具体的な可能性を考えると、次の二つの場合が考えられる。第一は、須原氏がいうように、「交替記」小中村本を基に「越中石黒系図」が江戸末期以降に偽造されたという可能性であり、第二は、現存する「越中石黒系図」写本の原型となる系図がどこかにあって、その校訂の史料として「交替記」小中村本が使われたという可能性である(このほか、史実に基づくのだから酷似するのが当たり前で、両者は別個に成立したという考え方もありうる)。
 ところが、須原氏の頭にはこの第二の可能性はまったく考慮されていない。というのも、系図偽造を行う「系図家」がいたことを当然のこととして受け入れているからである。
また、系図家」がそうしたもっともらしい系図を作成できる十分な能力があると思っている事情もある。この名を出されない「系図家」が誰かは知らねど、そもそもそうした特殊な能力・学識が、いつの時代の誰にあるのだろうか。その系図家がどこに住んで、石山寺に原本所蔵の史料を入手し、誰に依頼されて何のために系図を偽造し、どこに居た誰(どのような石黒氏関係者)に対して「造作系図」を渡したのだろうか。
 たんに、類似するというだけで、偽造に関する様々な立証がなんらなされないのに、「偽造」を軽々に認定して良いのだろうか。これが、合理的・科学的な学問的論理だと言うのだろうか。いったい、石山寺所蔵の史料は、平安前期までの記事しかないのに、戦国時代末期まで長く続く石黒氏の系図をどうやって作成できるのだろうか。現在に残される当該「越中石黒系図」は、はじめから最後まで、鈴木真年一人の手により一筆で書かれているという事情もある。
 総じて言うと、系図学の知識の乏しい学究の方々には、「偽造系図」が簡単に造作できる、というおかしな思込みがあるようで、きわめて遺憾である。

 
  

 もっと議論を端的にしていこう。
 現存する「越中石黒系図」写本のコピーを実際に見ている私の判断は、その筆が、明治期の系図研究者である鈴木真年によるものであると断言できる。その学識といい、経歴といい、鈴木真年以前に「越中石黒系図」を作りうる条件を満たすことのできる者は、当時、ほかにいなかったといってよかろう。真年は東大でも勤務し修史事業にあたった経歴があり、そのなかで「交替記」小中村本を見た可能性は十分あろう。彼が編纂した大部な系図集と史料集『鈴木叢書』、及び『古事記正義』、『苗字尽略解』などの著作は、各種古典史料に広く深く通じる学識を明示している。
 石黒秀雄氏が問題点として指摘する同系図記載の「皇孫部」は、真年の系図集のなかに用いられる表現であり、「越中石黒系図」は真年の系図史料集(
現存する史料からは、それが何なのかは不明)の一部を構成していた可能性もある。
 それでは、鈴木真年は「越中石黒系図」を実際に偽造したのであろうか。それが、何時のことで、何のために偽造したのであろうか。戦国末期頃までで終わる系図は、この使用の目的も、まるで分からない。彼が幕末頃までに造作したとしたら、わずか三十歳代であり、系図学を学びだしてからせいぜいでも5,6年に過ぎない。そのような彼が、あれほどしっかりした長大な系図をどうして作成できるのであろうか。まったく不審というしかないし、当然のことながら、この辺の立証どころか言及すらない。
 これらが本来の問題点であり、このことを資料に基づき具体的に立証しなければ、「越中石黒系図」は偽造だといえないはずであるが、須原論考ではそれがまったくなされていない。
真年が作成したのでなければ、他の誰かが何時、具体的に作成したのかの説明もなんらない。東大の指導教官が認めようが誰であろうが、おかしなものはおかしいということである。
 別段、権威だけに頼るわけではないが、最近では故佐伯有清氏ほど系図学に精通した学究はいなかった。その佐伯氏が実際に検討のうえ疑わずに同系図を評価し(もちろん、内容については種々の問題指摘をしたが)、論考までなした系図史料が、粗雑な論究で否定され、偽造とされるなんて、そんな馬鹿げたことがあってはならない。

 
  

 飯田瑞穂氏は、宮内庁書陵部勤務の経歴があり、中央大学の教授をつとめられ、また膨大な前田家史料を納める尊経閣文庫の主幹をつとめられるなど、各種史料に通じた研究者であったことは間違いない。氏が残された著作集のなかで、いま最も引用・論及されるのは、あるいは「郡評論争余談」という『日本歴史』第四二六号所載の随想的な短い文章なのかもしれない。
 そこでは、明治に新しく華族の班列に入った家の系譜のなかには、古い時代の記事のなかに、「にはかに悉くには信を措きがたい感がある」とし、「全くの憶測であるが」と断って、「新たに当時の知識にもとづいて作られたものではなかろうか」と記される。この場合に、その背景として、「系図家」「系図知り」といわれる系図作成の専門家がいたと考えている。それに続けて、鈴木真年は、「国学者で、その世界に名を売った者」としてあげられている。
 この分脈をよく理解してもらえば分かるように、飯田氏の感触と憶測に基づき、さらにそのうえに推測を重ねたうえで、鈴木真年の名が系図知りの例として示されているが、真年が何か系図偽造を行ったという指摘をしているわけではない。そもそも、端的に利波・石黒氏に関してのものでもない(この系図関係で、華族に列した家もない)。飯田氏が実際に真年について研究をしたうえでの話でもないし、具体的な証拠もなんら示されない。

 私が疑問に思って直接に問い合わせたところ、飯田瑞穂氏も、私との書簡往来や現実の面談のなかで、上記の表現は世評に従ってものであったと認められており
(注)、そもそも、文章自体が随想的なもので、実際に具体的な論拠を示されて考察し論じた論考というものではない。こうした事情に十分な留意がなされるべきである。それが、関係部分の表現だけがどうして一人歩きするのだろうか。そこに、当今の歴史学界の学識について、底の浅さを感ぜずにはおられない。また、系図研究が低く見られて、簡単に系図偽造ができるものだとの認識も示される。
 飯田氏の挙げる新華族による提譜系図類が、宮内庁書陵部に所蔵されているとのことであり、そこで問題の『華族系譜』(正・続)についても、私自身殆ど全てに当たってみたが、これら提譜系図に真年やその同好・同門(平田鉄胤門)の士・中田憲信が関与したことは明確ではなく(提譜に当たって、多少の関与・手助けがあったのかもしれない、その実際の痕跡はなく、誰も具体的に真年・憲信の関与を指摘できるはずがない)、提譜類に明治期の偽造的な臭いを感じることはできなかった。
  こうした華族系譜の多くには、系図という史料の性格からして様々な誤伝・仮冒や誤記・訛伝があることはいうまでもないことであるが、それは鈴木真年や中田憲信の系図研究や偽造問題とは別の話で、系図一般の話しである。両人の信条・人柄や経歴(憲信は裁判官で、秋田・徳島の検事正や甲府地裁所長まで務めたし、両者ともに弾正台勤務もした)からいって、明治前期の上流名家の系図調査に協力したことはかなりあったとしても、偽系図作成に現実に預かったことは、まず考えられない。その交際・職務の範囲から、新華族や法曹関係者などの系譜をかなり多く採集して、彼らの編著作のなかに記載され現存するものもあるが(とくに、憲信の場合は阿波とか甲斐関係の系図を収集した)、これらが彼らの手による偽系図とは考えがたい。
 現在に残る真年・憲信の多くの著作集や編纂系図集を探究し、できうる限り見てきた私が、これまで真年らの「系図偽造」をじかに受けとめたことはまったくない。真年や憲信は多くの系図を収集し、系図編纂に関与したが、みずから系図偽造を行ったことはまずなかったといえよう。系図偽造は、真年が生涯目標に掲げた「系図学の大成」ということに明確に反するものであることはいうまでもない。中田憲信は至誠熱情の人として著名であったという(『日本及日本人』の記事)。
 いったい誰が、何を根拠に、真年を系図偽造を行う「系図家」と評価したのだろうか。江戸時代には著名な系図偽造者もいくらか見られるが、その偽造対象は、例えば沢田源内なら佐々木氏系図など、ごく限定的なものにすぎず、それら偽造系図と真年らとを同一視する須原氏の扱い方は、不当であり、そこに系図研究史に関する知識の欠如を見ることになろう。今年(2020)の春に新書刊行で話題となった大量の偽書「椿井文書」の作者、椿井権之助政隆が関与したかもしれない椿井家の祖先系図の初期部分(中田憲信編『諸系譜』三に所収)は、まことにお粗末、荒唐無稽なものであった。抽象的に「系図偽造」だと決めつける前に、具体的な部分について実証的な論証が必要なことは言うまでもない。

 鈴木真年は天保二年(1831)の生まれで、明治末年でも30歳代の前半に過ぎない。しかも、幕末期の慶応年間頃にはほぼ紀州熊野にあったから、そもそもどこで「石黒系図」の材料となる史料類を入手し、作成したというのだろうか?「交替記」は近江石山にあり、中世の石黒氏系図は、越中・加賀関係に残るものとはかなり異なるものであった。現在に残る『越中石黒系図』を所持した家は、北海道の函館に居た(系図の内容等の諸事情を考えると、備前岡山藩士であった石黒家に伝わった系図が基礎になったのではないかと推される)。こうした地域も含めて、具体的なバラバラな事情が、どうして接合・統合されるのだろうか?
 その年譜によると、31歳(文久元年、1861年)のときに栗原信充に入門して系譜学を学んだもので、信充に師事したのが僅か4年ほどであり、35歳から39歳までは熊野に在住であって、鈴木真年の手による系譜稿は、慶応二年(1866)、36歳のときになした「織田家系草稿」(現伝しない)が初めての模様である。こうした経歴・諸事情から見ても、幕末時点で現伝するような『越中石黒系図』を真年が造作したことは、まずあり得ないのである。

 
(注)系図偽造に関して、 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/arisimata/arisima1.htm  を参照されたい。

 
    

 石黒秀雄氏が、「史料批判『越中石黒系図』の真偽を問う」という論考を『姓氏と家紋』誌第五八号(1990年)に発表し、次いでその著『石黒氏の歴史の研究』(私家版、1993年刊)で、所論を展開されるが、その要は、石黒氏後裔で本家に近い自家に伝える系図『越中砺波郡石黒氏系』が正当かつ史実を伝えたもので、これに反する所伝である『越中石黒系図』は偽造であるとの主張がその内容である。
 その出自する石黒氏が利仁流藤原氏で、これが正系だと秀雄氏が主張したいがゆえに、石黒氏の利波臣姓の出自を否定し、鈴木真年翁の偽造を示唆するような表現を論考・著作の随処で行っている。しかし、氏の専門分野は歴史学ではなく、系図についてはまったくの素人にすぎず、また氏が生まれた石黒家でどのように伝えようと、『尊卑分脈』などの系図史料と比較検討すると、石黒氏の利仁流藤原氏という出自は明らかに系譜仮冒、虚偽であり、これを重視するわけにはいかない。石黒氏が古代越中の氏族の末流であることは、他の越中の中世雄族の系譜を考えてみてもきわめて自然である。
  従って、石黒秀雄氏の主張に妙なバイアスを感じなければ、系図研究者としてむしろ適格とはいえないということでもある。古代系図に関する学識からいえば、石黒氏の論考では『越中石黒系図』を評価する佐伯有清氏を様々に貶しているが、これもかなり的はずれといわざるをえない。
 また、石黒秀雄氏が偽造だとして問題視する『越中石黒系図』の後半部分も、これを説明する事情が他の史料に全くないわけでもない。例えば、石黒左近成綱に相当する石黒左近丞光治という名についても、『肯構泉達録』に貴布祢の石黒左近光治と名があげられている。
 いずれにせよ、中世の石黒氏の系図は諸伝あって、現伝史料からは、どれが正しいといえる裏付けもない。私自身、富山での勤務時代も含めて、石黒氏の系図を各地で鋭意探究したことがあったが、古代はともかく、源平争乱期の石黒太郎光弘以降の中世系図についても、信頼できる系図がないことを痛感した。これは江戸初期に石黒本宗の嫡系が断絶した影響があるのかもしれないが、石黒一族で南北朝時代後期に尾張に遷居した長谷川氏を通じて見ても、同様であった。『越中石黒系図』の中世部分が正しいのか、石黒秀雄氏の一族に伝わる系図が正しいのかを判断する史料も、中世ですら伝来する史料の乏しい富山県内には存在しない。肝腎の「交替記」が越中の地に残らなかったのも、その一環であり、古代中世の信頼できそうな史料は、むしろ越中以外の地域に残った可能性が高い。『越中石黒系図』の古代部分もそうしたものであった可能性がある。

  『越中石黒系図』の原本がどこに残ったかという可能性を考えてみると、先にも触れたが、備前岡山藩に家中に石黒氏があり、戊辰戦争のときにはその一族から箱館まで赴いた者もいたが、この家に伝えられた可能性が考えられる。岡山藩藩士の家系は、現在も県関係の史料館に残るが、そこでは江戸前期に同藩に仕えた者から幕末少し前くらいの時期の代くらいまでしか家系が見えないし、古代に遡る系図にも言及がないが、系図が残るとしたらこの家ではないかと拙見ではみている。加賀金沢藩士にも石黒氏が数家あるが、金沢の史料館でいろいろ当たっても、内容から見ると、この地の石黒氏が遺したものではなさそうである。

 
  

 『越中石黒系図』の古代部分である利波臣の系図について、信頼性が高いかどうかについては、総合的に考えて行かねばならないが、系図の偽造や創作はその実、きわめて難しいもの(とくに命名法や世代配置である。こうした認識は、一般に学究においてもまるで持たれていないから、簡単に偽造を云々されるが、系図を多く考察してきた研究者にとって、偽造系図や偽造部分を見破ることは割合し易いといえよう。そのポイントは、本HPの「系図の検討方法についての試論
   (http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/kentouhou.htm)をご覧いただきたい。

 私は、継体天皇の御世に利波評を賜ったとされる波利古臣以降、石黒光弘までの系図は基本的に信頼してよいと考えている。中世末までの各世代の配置が適切であるとともに、名前や記事に不自然さがないからである。ただ、鈴木真年の手によって数本の系図が校合された結果が現在に伝わるものであれば、原型がそのままに伝えられているものでもないのかもしれない(『越中石黒系図』も数本の系図が接合された可能性もあろう)。系図の編纂ないし校合の過程のなかでは、信頼すべき史料に基づいて記事や文字を変更することもないわけではなく、それを偽造とはいわないものである。現存する「越中石黒系図」と「交替記」小中村本との関係を、私はこのようにみている。
 
須原氏が「交替記」小中村本から現存の石黒系図を作り上げたというのは、まったくの想像にすぎないし、当該系図が始まる利波臣の祖先部分や、「交替記」の記事がなくなる平安中期以降の系図については、いったいどのようにして真年が造作したのであろうか。彼の論考では、何時・誰が造作したのかついてもなんら言及、立証がなされていない。それなのに、どうして『越中石黒系図』が偽造だと認定するのであろうか。十分な「史料批判」は系図に限らず、万事必要であるが、それとともに、安易で具体的な論証なしの認定・決めつけは、是非避けねばならない、慎まなければならないことである。

 真年が「およそ郡司が転任するものとは考えず、豊成の官職は三カ所のいずれかが正しい」と判断したということは、まずありえない。六国史に見える利波臣志留志を知らないはずもなく、やはりこの名前表記が原型系図には見えなかったものだと考えざるをえない。基本的に正しい系図でも記事が十分ではないことが往々にしてあるうえに、古代から中世、近世に至る系図が一挙に完成したものではないだけに、系図の何度かの転記転写のなかで誤記脱漏、系線引誤りの個所もかなり多く生じるものである。
 須原氏が取り上げないが、細かいことをいえば、「交替記」には原本・小中村本がともに「甥丸」とする人名が「越中石黒系図」では「甥麿」と記される例がある。また、問題とする個所「安真」についても、当時の人名から考えれば、原本にある「安直」の表記よりは妥当だと考えられる。『越中国官倉納穀交替記』の記事も万全なわけではなく、例えば、天平勝宝三年六月二十七日付の礪波郡司の署名に「蝮部北理」とある者が『万葉集』に見える礪波郡主帳の多治比部北里に対応する(さらに、私は「北理・北里」の「北」は「比」の誤記で、名の訓はヒロではないかと疑っている)。系図記事を綿密に考証するのはよいが、微細な誤り故に簡単に捨て去らないような留意も併せて必要である。 

 また、別途の検討によって、利波臣の実際の出自が、武内宿祢の子の若子宿祢の後裔ではなく、『古事記』孝霊天皇段にあるように、利波臣は越前敦賀の角鹿国造同族だという結論に私が到達していることを付記しておきたい(この辺は、拙著の古代氏族シリーズ『吉備氏』でも書いた)。

 「越中石黒系図」が記録する長い年代から見ると、同系図は3ないし4部分に分かれるとみられており、これを一人の者が一挙に作成するのが極めて困難ということでもある。初期部分は、『古事記』等の記事にも反するし、そこには「遊部君」という垂仁天皇後裔を称し、飛騨・越中や大和に分布する氏族の祖までが登場しているが、実際に自らの手を動かして系図研究をしたことのない人々には、こうした諸事情も目に入らない。
 総じて言えば、世に伝わる系図のほとんど大部分が、偽造ないし仮冒ともいうべき個所や、転訛・誤記による問題点をもっているのは確かであろう、と私も感じる。従って、系図史料について厳正で十分な吟味・批判が必要であるという点にはまったく異議ないが、系図の批判・研究の方法についても十分合理的なものであるべきことはいうまでもない。それは、論拠が合理的でなければならないことは勿論のこと、系図の否定にただ走るものであってはならないことも、当然のことである。


 (一応の総括) 

 まだ書き足りない点もあるし、もう少し論証を要する点もあると感じるが、系図偽造については、先にも触れた、本HPの「作家有島武郎の家系 −系譜仮冒例の一検討−」などの記事も参照していただければ、と思われる。

 とりあえず、本稿の締めをしておくと、須原氏の本件論考は、『越中国官倉納穀交替記』と『越中石黒系図』の古代部分との関係を研究したものとしてその意義を評価するが、残念ながら、飯田瑞穂氏の随想と石黒秀雄氏の論考の評価と受取方を誤った結果、適切かつ厳正な史料批判をなしたとはとても言えず、疑問がきわめて大きい結論に導かれた、と私は考えている。
 
 (2007.1.12 掲上。2020.11.08などに追捕)


  本考の続編も本HPにありますので、併せてご覧ください。

    利波臣氏のその後



 ※次の所論も参照されたい。
 
   下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」を読む

 

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