利波臣氏のその後─越中石黒氏の末裔たち

                                     宝賀 寿男


  須原祥二氏の論考に続いて、大川原竜一氏の論考もあって、「越中石黒系図」に対して、鈴木真年への疑惑がまだ向けられる面があり、上記両論考が十分な否定論証をしていないにもかかわらず、両論考の立場を推し進めて、当該系図への偽作論をとる論調も一部に見られるので、ここに、石黒氏末流たちの江戸時代の動向などを調査のうえ、偽作論への反論をするものである。実のところ、こうした反論としては、これまで本HPに掲載していたものくらいで十分ではないかと考えていたが、まだ相変わらず偽作論も見られるようなので、更に掲げる次第である。
  この背景事情には、鈴木真年の若い時期の著作『真香雑記』が早稲田大学図書館に所蔵され、そのなかに石黒氏の江戸期の系図
越中石黒系図」に続く部分)が記載されていることが分かったこともある。その意味で、2005年にご逝去の佐伯有清博士の霊に捧げる気持ちもないでもない。

  ここに掲載するのは、日本家系図学会の会誌
姓氏と家系』誌の第17号および第18号に掲載した論考であって、これを基本として、ごく若干の追捕・修正をしたにすぎない。掲載の標題と号・時期については、次のとおりであり、これらに追加して、大川原竜一氏への拙信を付加している。『姓氏と家系』誌の読者は、あまり多くはない事情もあって、ここに掲載することにより、利波臣氏および石黒氏の系図関係の現在までに知られる諸事情をできる限り明らかにし、かつ、鈴木真年翁の名誉を守りたい気持ちもある。そこは私の気持ちであるので、読者におかれては、冷静に合理的総合的な事情把握を是非お願いしたいところでもある。
 「利波臣氏のその後」第17号(2017/7月、通巻第105号)に掲載。
 「石黒氏雑感」第18号(2017/12月、通巻第106号)に掲載。




  はじめに

 富山県の西礪波郡福光町(
現・南砺市)の町史編纂過程で昭和四〇年(1965)に発掘された「越中石黒系図」(以下、鈴木真年自筆の江戸初期の藤兵衛光増兄弟までのものを、本稿では特に「当該系図」ともいう*1)は、貴重な古代氏族の系図として、多くの研究者に取り上げられ、おおむね高く評価されてきた。その一方で、これが後世に作成された偽造系図とする見方も依然としてある。とくに、現在、練馬区の故石黒定治家(ご子孫・近親一族の治男家を含め一括して「定治家」という)の系統に所蔵されてきた同系図が、明治の系図研究者、鈴木真年の自筆によるもの(他人が転写したものではない)と判明してからは、『越中国官倉納穀交替記』(以下、たんに「交替記」と書く)などを踏まえた後世の製作だとする説も根強く主張されてきている。
 私は、この三十余年、鈴木真年とその同学の士、中田憲信の足跡、収集系図等を追いかけてきた事情があり、また巡り合わせで富山県庁に二年間、勤務して富山市に在住し、加越の史料や県内の祭祀・習俗・遺跡などにも随分触れた事情もあることから、当該系図には関心が強くあり、これまでも何度かこの関係で論考を作成してきた
*2。そして、大川原竜一氏や土佐朋子氏の研究*3で、早稲田大学図書館に所蔵の穂積真香による『真香雑記』が鈴木真年の初期著作だと、私は昨春(2018年春のこと)にはわかり、しかもそのなかに長年追い求めてきた石黒氏後裔にかかる江戸期部分の系図が記載されていた。こうしたことから、最近までの利波臣氏及び石黒氏関係の研究事情などを踏まえて、本論考に取り組み執筆した次第である。
 今回はこの関係で、地元の富山県に在って越中の古代からの歴史を長年研究され、本件についても論考・著作のある木本秀樹氏
*4に関係情報をお願いしたところ、種々の情報のほか、最近の著作だとして『石黒氏と湯浅氏』(湯浅直之・一前悦郎氏の共著。2015年7月刊)などを紹介された。その同書が拙宅に送られてきた日に同じく、『石黒一族の事典』(2015年11月刊)が著者の石黒克彦氏から送られてきており、その偶然の符合にも驚いたところであった。まず、これら関係者に対し深い感謝の念を表しつつ、本稿での検討・記述を進めていきたい。


 一 本件検討の前提事情

 多くの研究者が当該系図に関与し、様々に検討し評価してきた諸事情にあるものだから、これらを多く取り上げ丁寧に書くと多大な分量になる。だから、本稿の紙数に制約のあることや拙考を端的に提示したいという考えなどの基で(
この結果、本稿での批判表現もきつくなる個所もあるかもしれないが、それ以上の他意はない。また、拙考関係でネット掲上の記事も適宜、アドレス表示で提示することになる)、これまでの研究のなかで争いの比較的少ない事項、及び別途に拙考を記したものについて、まず簡単に順不同で記しておく。

 現蔵者の石黒定治家の本家筋にあたる石黒武重家には、当該系図とはまったく別物の利仁流藤原氏の出とする系図(
「越中砺波郡石黒氏系」であり、ここでは「武重氏系」と略記する)が伝わる。これは、石黒秀雄氏(武重氏の弟)の著(『石黒氏の歴史の研究』*5。1993年刊)のほか、近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識』にも概略が掲載されるが、当該系図と共通する人名は源平争乱期に源義仲に従った石黒光弘くらいであり、戦国期滅亡時の石黒氏当主の名前すら異なる。
 この秀雄氏系統の石黒系図(
「武重氏系」)も、『尊卑分脈』の記事内容に照らすと、源平争乱期の石黒光弘より前はまったくの系譜仮冒であり(これは議論の余地なく、この辺が分からない人は系図を評価する資格・能力がない)、藤原姓ということで利仁流藤原氏を称する加賀の石浦氏に系を接合させたにすぎない(近藤安太郎氏の上記書も同説)。石黒一族が中世に藤原姓を称した例は数多いが(後述。橘姓でも見える)、これは地方武家の諸氏に多く見られる冒姓にすぎない。北陸道に分布が多い利仁流藤原氏に系譜を結びつけた系譜仮冒ということである。石黒氏には木舟築城の際に竜神伝承があったり、水神の罔象女(みずはのめ)神や瀬織津姫神、白山比売神の祭祀が窺われるから、本来、藤原氏とは姓氏が異なるものであり、これら祭祀事情からは海神族系統の当地古族後裔とするのが自然である。

 定治家に当該系図が伝わり、その先祖が函館在住中に大火災により焼失したというのは、誤った所伝である
*6。実際のところ、現蔵家の先祖が鈴木真年関係者からなんらかの形で明治期に入手したとみられるのだが、どのような経緯で何時に入手し、伝えられたのかは関係者の接点も含め不明なままである(真年自身が献呈したかどうかも不明)。
 当該本は明治末年(
松太郎の代となる)に定治氏の叔父・良房(良総とも。松太郎の弟で、治男氏の祖父)の手により忠実に書写されて、これが残ったというが誤りである。実際には、この系図は真年(明治27年に死去)の直筆文字で、筆写・作成の年代も異なる。重要な原本だけがなぜ焼失したのかが、そもそも極めて不審である。石黒武重家の所蔵本を考えると、秀雄氏も言うように、定治家(治男家)に当該系図が伝えられたということはまず疑問である。

 利波臣氏が武内宿祢の後裔とされる系図は疑問が大きく(
佐伯有清氏の指摘通り)、実際の系譜は、『古事記』孝霊天皇段に記載の吉備氏一族の出であった(ただし、吉備氏は『記』に言う皇裔の氏族ではない)。これは拙著二作(『越と出雲の夜明け』及び『吉備氏』)で、利波臣氏発生の経緯等も含めて詳細を具体的に記したから、本稿での詳しい説明・論証は省略する。
 要は、倭建東征に随従した吉備武彦が越道への分遣隊として飛騨の神岡鉱山(
付近に「遊部」の地名あり)や越中・越前方面に遺されたが、このとき現地に残された吉備一族の者に出たという事情である。太田亮博士も、利波臣が吉備武彦の北陸経営と関係あらんと指摘し、越前にも「足羽郡少名の人・利波清浜」が『大同類聚方』に見えるとする(『姓氏家系大辞典』)。射水国造及び利波臣氏は、遊部君と同族であり(『古代氏族系譜集成』編纂のとき私も、これに気づかなかった)、越前の角鹿(敦賀)国造とも同族となって、こうした系譜は『古事記』の記事と符合する。
 なお、武内宿祢後裔の系譜が仮冒とした場合、若子宿祢を核として武内宿祢に集約する形の系図を仕上げた可能性は考えられが、その場合でも、系図作成時期は古代頃のこととみるのが自然である(
鈴木真年がこれを作成したとする証拠・動機はまったくない)。

 石黒光弘以降の中世の時期では、石黒氏関係の現伝の系図はきわめてマチマチであり、またこの一族の行動・事績について裏付け資料にも乏しく、これは確かだという系図部分や人名すら戦国前期末頃までは明らかにできない。何本かの系図諸本があるが、それぞれが孤立した内容となっている。
 織田信長の命により天正九年(1581)に近江安土で殺害された肝腎の石黒氏当主の名も、多くは石黒左近成綱と伝えるが(
「武重氏系」など)、当該系図に見える左近亮光治とするのも一概に否定できない。同時に殺害された随行者石黒与右衛門の名も、光重としたり(子孫の石黒伝六家)、当該系図のように豊陳としたりする。このように、石黒一族の人々の行動・通称は多少伝わっても、名前の表記が多くあって、信頼できる史料に乏しいため実名が確定できないことが多い。

当該系図は、最後の世代である藤兵衛光増・久兵衛正信・甚右衛門某という三兄弟(
上記の光治の子におかれる)で終わるが、それらの子孫の流れは、各々に長い縦の棒線(─)が引かれて記載される。この棒線の意味は各々に子孫があって続くということだが、これまではそれら後裔の人々は世に知られず、この辺に言及した書はない。当該系図は孤立本ということであって、ほかの系図で当該系図に接続するものがかつては知られなかった。
 真年の草稿的な書(
著作)には、系図原本どおりに系図すべてを記載していないことが多々あり、前半が落ちたり、後半が落ちたり、また要約版が記述されていたりで、この辺は、当該系図が複写本ないし「草稿」という性格を無視してはならない。このため、藤兵衛光増三兄弟の後裔がどこかにあるかもしれないという期待はなかったわけでもない。
 
 石黒一族の流れでは、江戸期に前田家の金沢藩士(
大炊助家など)や富山藩士(釆女家〔金山谷城主の後。出羽角館にあるのが支族という〕、復馬家など)、尾張徳川家・彦根井伊家などの藩士として数家あり、また帰農したり(越中国の新川・射水郡や加賀で十村役など豪農)、商家になったりする一族も富山県・石川県にいくつかあった*7。これらの諸家に伝わる系図も、総じて言えば、先祖は途中からであり(殆どが近世だけの系図)、しかも記事に省略が見られ、記載の人名もそれぞれマチマチであった。
 こうした諸事情があるから、史料に石黒一族の活動が見える戦国末期以降の動向にも十分留意する必要がある。当然のことながら、系図検討は、大きな歴史の流れのなかで総合的具体的な視点からなされることが必要である。


 二 当該系図と鈴木真年との関係

 当該系図が真年の自筆だと認定したのは、鈴木真年研究の先駆者・尾池誠氏が最初である。それまでは、筆写の者が誰かは不明なまま、記事内容だけで本件系図が評価・研究の対象とされてきた。尾池氏は、「その系図の写真を見ると、明らかに鈴木真年自身の筆蹟であることが読みとれる」と表現し(
1984年刊行の『埋もれた古代氏族系図』)、私も、石黒秀雄氏から彼が定治家(正確には治男氏遺族)から入手した当該系図のコピーをいただき、実見して真年の筆跡であることを確認した。

 鈴木真年の筆写時期

 鈴木真年が何時、当該系図を筆写したのかはこれまで不明であったが、『真香雑記』の発見によって、これが偽造でない場合には、真年と名乗る前の幕末頃の時期(
明治元年時点で真年は38歳)に筆写がなされたと考えられる(仮に偽造の場合には、作成時期は不明となる)。現存する真年・憲信関係の系図集には、当該系図の片鱗すら見えないから、また、『鈴木真年伝』の製作者たる四男の防人氏ですら「穂積真香」という名を知らなかったくらいだから、真年が若い時期にしかもごく短期間に使用されたペンネームが「穂積真香」だと考えられる。
 大川原氏は、大東急記念文庫所蔵の『令私記』の写本に、文久三年(1863)五月二十四日に「鈴木真香所蔵」という記事があると指摘する
*8から、このとき真年は三十三歳であった。その後も文久三年・元治元年(ともに1864年)の穂積臣真香の署名をも提示する。『鈴木真年伝』記載の真年年譜では、系図編輯事業の任につくとされるのが慶応元年(1865)三十五歳のときであり、明治二年(1869)に弾正台に入ったときには、真年は「穂積臣豊盛鈴木」と名乗っていた(明治二年十二月の『職員録』)。それより早い慶応二年(1866)丙寅に「鈴木舎人」、翌三年二月の書状に「穂積臣真年」という名が『桜斎随筆』に見えるとも大川原氏は指摘する。
 仮に偽造説を説く立場にのっとり、「交替記」を基礎に当該系図を偽造したとしたら、文久三年(1863)十二月十五日の日付で、史生穂積臣真橘(
真年、真香と同人で異名)が丹比部正辞蔵本を模写了と「交替記」の九州大学附属図書館蔵本の奥書に見えるのだから、このときからせいぜい数年間のうち(明治元年頃までの間)に当該系図を偽造したとするのが自然であろう。しかし、その時点でまだ若い三十年代の真年にあって、偽造論者が言うような高度な学識や系図作成能力が果たしてあったのだろうか。偽造論者が「偽造」を言うのは当該系図の全てなのか、古代部分だけなのか、古代・中世部分なのかは不明だが、いずれにせよ、私には能力的に到底無理な話としてしか思われない(偽造の動機すら、真年には考え難い)。具体的な立証もなしに、簡単に「後世の偽造」と言い過ぎるのが問題である。


 「皇孫部」表示の意味

 当該系図の書き出し部分には、「皇孫部」との表示がある。この事情から、鈴木真年の手掛けた系図集のなかにその一部として所載されたことが考えられるが
*9、どの系図集に本来、所収されていたのかは、依然として不明なままである。真年死亡後にその多くの蔵書、著作は散失しており、それでもかなり多くが世田谷区の静嘉堂文庫に収められたものとは思われるが(複写本も東大史料編纂所にかなりある)、散失の全容は不明である。
 散失して現在では所在不明の系図について、真年が「確かに蒐集したにもかかわらず、その後散逸してしまって行方がわからなくなったものとして」、例えば三宅連系図、箕氏裔麻田氏系図、肥宿祢系図などを尾池氏があげており、尾池氏の言う根拠や、これら諸系図の行方はいまだ知られない。
 鈴木真年の著作『列国諸侍伝』や『松柏遺書』などのなかに記事が見える「越後国沼名川社家榊氏系図 
道公」「武蔵国阿伎留社神主阿留多伎氏系図 玉作部」なども所在不明であって、この両社家については、私自身が現地に行ってそれぞれの神主さんにお目に掛かり、各々の家系図所伝の話しも聞いたが、ともに簡単な神主歴代の名を書いた書付けしか両家に残されてなかった。こうした状況だから、私が三十余年探究してきても今だ行方不明のままの書が多い。そんななか、『真香雑記』が世に知られたことは朗報であった。


 三 当該系図にかかる偽造疑惑

 これまでの主な偽造疑惑や問題点

 当該系図についての疑問や問題点については、これまでもいくつか提出されてきた。
 まず、古代の利波臣氏の出自がどうかということで、孝元天皇の後とされる武内宿祢後裔か、孝霊天皇の後とされる吉備氏の族か、あるいは中央と無関係の越中古来の土豪かという問題である。
 例えば、佐伯有清氏
*10が『古代氏族の系図』(1975年刊)所収の「利波臣氏の系図」であげられたところでは、当該系図の始まりのほうの個所、大河音宿祢から初祖・波利古臣までの三代の世系には疑問があるとして、@「利波臣の始祖は、もともと利波地方に勢力をもっていた豪族であって、天皇系譜とは無縁のものであったことは、他の地方豪族と同断である」と考え、A成務朝の人とされる大河音宿祢から継体朝の人とされる波利古臣まで僅か三世代しかないことが疑問だとする(すなわち数世代の欠落ありか)。これら以外は総じて妥当な内容だと評価し、最終的な当該系図の成立は、最後の方の部分の天正九年の記載から考えて十六世紀末ないし十七世紀初めとみる。
 これらの佐伯氏の指摘は概ね妥当であろう。こうした初期段階部分における系譜の仮冒(
ないし誤記・誤伝)は、古代・中世の系図には往々にして見られる傾向があり、系譜を伝えた氏のほうの事情に因ることが多い。ほかでは、国宝指定の「円珍俗姓系図」(全文が円珍のほぼ一筆で書かれ、景行天皇の後裔とする系図)でも、やはり書出し部分のあたりには系譜仮冒が見られる(実際には景行天皇後裔ではなく、伊予別君や讃岐綾君の同族)。この辺を種々考え関係氏族の系譜検討を重ねると、武内宿祢が遠祖とされる系譜はやはり問題が大きく、地域的にも、吉備氏一族の角鹿国造や遊部君(垂仁天皇後裔と称した)という氏が利波臣との同族関係で重要な存在であった。この関係(大川原氏のいわゆる「A系譜」の部分)の検討は、角鹿国造とどのように分岐したかの問題で、拙著『吉備氏』(2016年刊)で具体的に記述したので、ご関心の方は参照いただきたい。また、利波臣と道公とが同族とするのも疑問が大きい。
 ただし、佐伯氏がいう「天皇系譜とは無縁」という点については、地方の古代豪族(
国造級ほどの大族)で天皇家ないし中央豪族と無縁のものは、蝦夷地や隼人居住地域を除くと、まずなかった。また、当該系図の成立時期が『真香雑記』の発見によって、更に後ろへズレる可能性が出てきた(成立を想定された上記時期頃の甚右衛門の実名の記載がなく、「某」と記されるのには疑問がある。元服前でなければ、それよりかなり遅いか)。
 利波臣の初祖・波利古臣以降の当該系図の記事では、木曽義仲に従った石黒太郎光弘まで(
大川原氏のいう「B系譜」の部分にほぼ相当)、古代氏族の「標準世代」多くの古代氏族の系譜をもとに、「私見」で、帰納的に求めた上古代から江戸初期までの標準的な世代配分。天皇の世代とはかなり異なり、しかも、他書には記載されないことに留意)にほぼ合致しており、世代配分などには信頼性があると一応考えられる。滋賀県大津市の石山寺に残る『越中国官倉納穀交替記』に記載のある八世紀中葉から十世紀初頭にかけての利波臣氏一族の人物の名前と『越中石黒系図』記載の名前との整合性があり、この辺は多くの諸学が指摘する。
 同交替記を基礎に、これを見て利波臣氏の系図を後世に作為・造作したとする考えも依然としてあるが、波利古臣から交替記に見える者までの七代ほどの人名や傍系一族の人名について、時代に合う形の名前・官位・事績で系図を創作することは極めて無理であり(
とくに無関係の傍系系図の適切な作成はまず困難。だから、一般に偽造系図には傍系があまり記載されない)、同系図が中世以降でも上記「標準世代」とよく対応すること等からいって、これらの偽造はまず考えられない(系図の偽作は意外に難しいし、偽作の場合に作者と目される鈴木真年にはその動機もなく、偽造疑惑は冤罪である。後述)。


 大川原竜一氏等へのとりあえずの論駁

 系図偽造論については、先に須原祥二氏の論考に反駁したことがある
*11。須原氏論考が十分な立証をしないで、予断から系図偽造という結論・評価に導いているからである。
 最近、大川原竜一氏が「『越中石黒系図』と利波臣氏」という論考
*12で当該系図の偽書説を展開するので、その反論が必要になったという認識がある。上記の『真香雑記』も出てきて、材料もほぼ揃ったということで、その後の石黒一族の行く末の追跡という問題も含めて、本稿を手掛けたものでもある。

 これまでの偽書説の論拠は極めて弱い。管見に入ったところで言うと、これまでの主な論拠では、@「系図屋」とも呼ばれる鈴木真年が手掛けた系図であること、A「交替記」の記述に合致し過ぎること、B著名な利波臣志留志の名が見えないことである。しかし、冷静に考えれば、これらは、どれも真年が自ら偽造したことを論証するものではない。後ろでも大川原氏の見解に対して更に詳しく反論するが、とりあえず先ず反駁をしておく。

 @への反論:だいたいが、故飯田瑞穂氏(
宮内庁書陵部勤務の後に、中央大学の教授、更に尊経閣文庫の主幹を歴任)が、世評で真年を「系図家」「系図知り」と呼ぶのを聞いたことがあると、『日本歴史』四二六号(1983年1月)に掲載のごく短い随想「郡評論争余談」に「国造→評督→大領」という肩書の変遷に関連して書いたものが契機である。これは、真年が系図偽造を行ったという指摘ではない。この標題にもあるように、「郡評論争」に関連して、古代氏族の系図に「評」の表記例がかなりあるのを、幕末頃の国学者で系図に詳しい者がこの文字を使って肩書を表記したのではないかという推測だけの話であり、系図記載の人名を含めて系図偽作をしたということにはならない。
 「利波評」が実際に何時設置され、いつこの表記がなされたかは裏付け史料がなく不明だが、この飯田氏の記事をもとにして鈴木真年による系図偽作まで考えるのは、想像論としてひどすぎる。飯田氏が見たとして例示する華族提譜のなかに利波臣の後裔はいないし、真年・憲信は華族提譜の時期には官途についており、提譜への関与も管見に入っていない。
 私は、飯田氏に手紙で本件を尋ねたこともあり、その後もご本人と実際に面談したことがあるが、彼自身の検討による評価ではまったくない。そもそも、真年が具体的な系図を偽造した例証は、これまでも誰からもまったくなされていない。飯田氏がいう「系図家」なる者が系図を新たに作成する、すなわち系図偽造を行うものだという思込みが当然のように出てきているが、上記の「郡、評」関係の文脈からしても飯田氏はそこまでの意味を持たせていない。こんな具体例なしに、人の噂だけで、この筆写者が手掛けたのだからこれは怪しい、系図が偽造だと決めつけるのは、よほど非科学的な姿勢である。

 Aへの反論:「交替記」の記事と矛盾する具体的な点があるとかいうのなら、系図に疑問をもって良い面もあるが、あまりに合致しているから、しかも「交替記」の写本に関与したことが分かったから、それを元に系図を造りあげたというのは、まったくの想像論にすぎない(
偽造者の事績・行動、能力及び動機などを的確に立証しないで、想像論を展開するのは合理的な論証とはいえない。しかも、鈴木真年が他に系図を偽造したことについても具体例の提示がない)。「交替記」の当該記事が史実であるのならば、両書が符合するのは当然である。
 逆に当該系図と「交替記」とが符合しない個所を、具体的に取り上げてみよう。それは、「交替記」貞観四年(862)八月に見える「大領外正八位上利波臣氏良」(
ただし、斉衡二年六月には「擬大領外従八位上利波臣氏良」と記)、「擬大領従八位上利波臣安直」であるが、これが当該系図にあっては両者が親子とされ、前者が「郡司擬大領外従六位上」、後者が「名が安真で、擬大領外従八位上」と系図に見える。この相違があるのに、完全に記事が合致するとか、「交替記」を基にして当該系図が造作できるとどうして言えるのだろうか。
 系図偽造と言うのなら、『源平盛衰記』に見える石黒光弘の兄弟らしき者、高楯二郎・泉三郎・福満五郎らをなぜ当該系図に織り込まなかったのだろうか(
「武重氏系」では、この三人に水巻四郎まで含めて光弘の弟に置くが、後者は疑問である)。福光の地はこの一族の本拠で、この地の高楯城には光弘の父まで居城し、福光城は光弘が築き、山本八幡宮は一族の守護神だと伝える。
 また、天正の石黒氏滅亡の時の当主の名前くらい、加越地方で通行する所伝などと合わせなかったのだろうか。鈴木真年は、戦国後期の石黒氏当主の歴代をその著『百家系図』に掲載し、成綱の名もそこに記される。石黒荘に起こった同族とみられる中世諸氏の名も当該系図には全く見えない。仮に系図偽造をするのなら、こうした内容も織り込まれてよいと思われる。
 古代部分について言うなら、利波臣氏は上述のように『古事記』孝霊段で吉備氏同族だと書かれており、ほかにこの氏の出自を記す史料はないのだから、新たな造作においてこれを無視するのも疑問が大きい(
ちなみに射水国造については、武内宿祢後裔だと「国造本紀」に記載があり、古代に当該系図の古代部分が整理されたのなら、同本紀成立の後か。鈴木真年には、こうした造作をする意義がないし、中世以降の石黒氏は称藤原氏なのだから、祖先変更の必要性がない)。

 「系図の偽造」は、それが「精巧な偽造」であるのなら、判別はじつはたいへん難しい。だから、偽造した系図なら、だいたいすぐ判断できるはずである(
それにもかかわらず、後世に偽造された「海部系図」を国宝指定にしているのが、日本の歴史学界の現状である)。いったい、「交替記」を含めての諸史料になんら出ていない人々については、どのように名前を造り出して、その譜文に事績・通称・肩書などを書き込み、彼らがどのように世代配置をしたというのだろうか。この辺を、いわゆる「系図家」がどこまで的確にできるのかという問題である。
 系図と古代史の分野について高度な知識をもつ「系図家」だと、たかだか三十代前半の真年を評価するのは、過剰で異常な「誉め言葉」ではなかろうか(
かりに老齢期であっても、真年をそこまでの買い被りはできない、と私には思われる。江戸末期・明治期のなかで高い系図収集能力を有したことは高評価できるが、それは系図の分析・創造の能力とは別問題である)。しかも、そうした創造能力が仮に真年らにあったとしても、実際に系図偽造をするかどうかは別問題である。系図偽造の意思と動機、利害勘定で見てプラスとの判断が十分なければ、こんな馬鹿げたことは、普通の歴史研究者は行うはずがない。
 大川原氏自身が1860年代の真年について、依田百川が真年の知識が玉石混淆だったと評したことを紹介している。真年には老壮になってから数年、東大史料編纂所でも数年、勤務した経歴がある。系図やその他史料を偽造をしていた経歴があったら、こうした勤務につけることはなかろう。当該系図古代部分が「交替記」に基づく幕末期の偽造だと最初に指摘したのが、石黒秀雄氏であるが(
「武重氏系」以外の系図を「偽造」と評価したかった事情が彼にはある)、真年はそのとき三十代にすぎず、まず絶対にありえないことである。
 系図は、一般的には何度も何度も代を重ねるなかで書き足されていくものであり、長い年代の系図は、それがたった一人の手で簡単に完成できるような代物ではない。こうした基本的な認識に欠けているとしか言いようがない。
 鈴木真年には、同門同学の士たる中田憲信
真年より四歳若い同時代人)がいた。ともに弾正台に務めた経歴があり、相互に系図資料の連絡・やり取り等深い交流もしており(相互の著述にも関係)、真年には「系図学の大成」という生涯の大目標があった。中田憲信は生涯を法曹で勤務し、最終官歴は甲府地裁所長で、死後に勲四等に叙せられた。彼らには、系図偽造をする動機がまったくない。多くの系図に基づき校合・校正したり、系図を編纂することは十分あり得るが、新しい人名・事実や系図の創作・偽造はないということである*13。当時の豪商などに金をもらって、真年・憲信がその系図編纂に関与したこともあるとは思うが、例えば三菱の岩崎家の系図を見ても、とくに造作の跡は見られない(両者がその系図作成に関与したとの痕跡はない)。
 真年・憲信の系図関係の学問的評価は、両者一体で考えねばならない。この辺が、真年の活動を否定的に考える研究者の認識には無いと、私には思われる。憲信は明治二九年(1896)の休職まで終始、司法界に身をおいた。前半は国学者、神官で、その後の大半は裁判官という生涯であったが、秋田と徳島の地方裁判所の検事正もつとめた(
当時は、裁判官と検事が一体運営)。法曹関係者は証拠書類の重要性を強く認識するから、自らの手による証拠の捏造・造作は絶対に許されないことである。萬葉叟による「一人一話」のなかに「中田憲信翁」という記事があり(『日本及び日本人』昭和7年4月号に掲載)、そこで、憲信は「実に至誠の力」を持つ人と評価されている。
 真年・憲信の関係史料を的確に十分に批判するのはおおいに結構なことであるが、彼らを断罪するのなら、刑事訴訟の起訴要件(
報道の5W1Hの要件にも重複)をきちんと踏まえて論証することが必要である。

 <中田憲信についての追加説明> 最近、憲信の著述を改めて見直してみると、『皇胤志』甲の記事で、武内宿祢の子の若子宿祢の子の記事が『越中石黒系図』に拠るとみられる要素があって、憲信も鈴木真年の当該系図史料を承知していたことが窺われると分かった。
 すなわち、『皇胤志』では、若子宿祢の子に若長宿祢(道公 味直公等祖)、大河音宿祢(高穴穂朝定賜伊弥頭国造)、真猪宿祢(子に志波勝宿祢をあげ、柴垣朝定賜江沼国造、是江沼臣祖也の順であげており、「味直公」や「志波勝宿祢」関係の記事は『越中石黒系図』に見えないが、道公や兄弟順などの記事は他の史料には見えないから、『越中石黒系図』に拠るとともに、他の系図史料などからも記事追加をしたものと考えられる。

 Bへの反論:一族で著名な志留志の名が当該系図に見えない事情については、下鶴隆氏
*14の検討が参考になろう。
 利波臣氏にあっては、中央官人になって立身した
利波(砺波)臣志留志(しるし)という人物がいた。奈良時代末期の光仁朝における活動が『続日本紀』等に見えて、利波臣氏一族のなかで最も有名な人物である。その立身の経緯は、天平十九年に東大寺大仏の知識物として米三千石(一に五千石)を寄進して、無位から一躍外従五位下に叙せられ、その後に越中員外介にも任じられた。東大寺に砺波郡の墾田百町(井山荘とされる)を寄進したことで、更に従五位上に昇った(利波臣氏一族では史上最高位)。越中国内の東大寺領荘園の検校を行い、越中関係の文書や絵図に署名を残しており、彼の大きな財力が示され、宝亀十年(779)には伊賀守にも任じられる。このように、地方豪族が財力を背景に国守にまで昇進した例は少ない。
 この人物は、『越中石黒系図』に見えないと一般に受け取られてきた。ところが、利波臣氏の検討が進むなか、下鶴氏が同系図には「砺波臣志留志」の別記載があると指摘した。
 その要点は、利波臣志留志にあたる者が実は同系図に「諸石」と記される人物にあたるということである。下鶴氏は、「諸石」の文字がシルシと読みうる「誌石」の誤記だとして、両方のくずし字の酷似や、諸石及びその近親と志留志との活動年代が合致すること、本宗家嫡流との確執や道鏡のあった中央政界の動向などを背景にあげる。
 利波臣志留志が史料に見えるのは天平十九年(747)からの約三十年間であるが、大財力を示し、越中員外介として東大寺田の検校を行ったなどの事績には、利波臣一族という出自を疑わせるものはない。系図に「諸石」の長兄であげる虫足が「交替記」に砺波郡少領として天平勝宝三年(751)に見え、虫足の長子の真公が同交替記に同郡大領として宝亀二年(771)に見えるから、志留志の活動と年代的にまったく符合する。
 「誌石」が志留志と別の字で書き表されることは、当時、往々にしてありえた。『続紀』に登場する人名を見ても、同訓・別表記の例がかなり多くある(
利波臣志留志と同じ頃に活動した佐伯今毛人が今蝦夷、若子とも記される例などで、遅く中世までなどでも異表記・異名は多く見られる)。その前に、「誌石」の訓みが難解だとして、本人自身が中央出仕の際に「志留志」と表示した可能性も考えられる。「誌=志留」というのも、文字が通じる表現である。これが他に見ない名前であったことから、系図転写が何度か行われた際に「誌石」が諸石に書き誤られて、原記が変更した可能性が十分ある(一般に、文書転写の際の誤記・誤読は例が多い)。

 この志留志に関する検討を通じると、一部から疑問が出される『越中石黒系図』の信憑性が更に高まる。当該系図に関与した鈴木真年自身も、その筆跡を見る限り、「諸石=志留志」とはとても思わなかったと考えられる(真年が系図偽造をするとした場合には、一族で最高位に昇り大財力をもった志留志を除外することはまず考えられない)。
 志留志自身が「志留志」の署名をいくらしてようが、奈良時代の多くの文書で「志留志」の表記があったとしても、当該系図は志留志の後裔が伝えたものではない以上、出身現地の親元でどういう表記がなされたかとは別問題である。仮に、志留志が「諸石」と別人だとしても、別にいた兄弟近親として存在したのかもしれないが、それはむしろ不自然である。当該系図では、「諸石」について官位や子などの記事をなんら付さないが、これは中央出仕で終わって、地元越中では最終の官歴・没年等を知らなかったのかもしれない。
 下鶴説は、筆跡例など的確な分析にたつ妥当な結論であろう(
あるいは、次の「記塚」の例から見て、名前は「記石」かもしれないが)。
 ところで、南砺市福光町岩木(
福光駅の北西、東石黒駅の西方に位置)には志留志の墳墓といわれるもの(「記塚(しるしづか)」*15と呼ばれ、荊波神社本殿の背後に位置。平安期の経塚の痕跡あり)が残る。その前方の荊波(うばら)神社は、石黒郷の総社とされ、利波臣氏が奉斎して日子刺肩別命を祀る。同社は天平宝宇三年(759)の「越中国礪波郡石栗村官施入田地図」に「荊波神」と見えており、当該式内社の論社が岩木や砺波市池原など数社ある。旧岩木村畑宮中鳥居野は中鳥居の在った所といい、この地から「荊波領」と刻まれた礎石が発掘され、岩木の小矢部川対岸に位置する旧桐木村田畠字荊波島には大鳥居の跡があるというから、式社は岩木の地に比定されよう。岩木・池原で祀られる祭神は先祖の日子刺肩別命とされ、岩木では三海神も配祀する。池原の配祀は菊理媛(くくりひめ。宗像女神や罔象女神、騎龍観音、観音信仰にも通じる)等の名で、「白山社」とも称した。
 岩木の荊波神社の西南近隣、旧西勝寺村(
現・大字川西)には石黒宗家の居館跡と伝える地もある。この宗家は、文明十三年(1481)に滅亡した福光城主石黒右近光義の関係家か(その場合、光義は西勝寺城の築城者と伝える太郎光秀の族裔で、子か孫の世代にあたるか。太郎光秀が当該系図に見える「相模守光秀」に当たるのなら、その孫の光任が長享二年〔1488〕、六五歳で死と見えることに年代的に符合しよう。太郎光秀の弟・五郎光信が福光に居り、光秀の子・宗五郎が文明年間、山本村に居たという)。
 このほか、当該系図には志留志とともに同文書に見える利波臣浄貞(
東大寺東南院文書、「越中国司解」神護景雲元年十一月。志留志の近親か)も見えていないが、一族が系図に網羅されないことは十分ありうることである。

  
 (続く)



 
 〔註〕 

*1
 石黒治男家から福光町史編纂委員会に提出されたのが『越中石黒系図』として知られる系図である。これを、石黒秀雄氏*5は、「古代・中世」の部分としており、ほかにもう一本「近世以後」の部分があって二つの部分からなり、治男家は双方を所蔵していた。なお、「近世以後」部分は、『富山県姓氏家系大辞典』の巻末に活字版が収録される。こちらの部分も、私は秀雄氏から現物のコピーを受領し実見したが、光兼(光治の父)に始まるものであり、真年の筆ではない。なお、『越中石黒系図』の研究は、米沢康・磯貝正義氏など数多いが、主に『真香雑記』が知られない時期のものであり、ここでは省略する。

*2 利波臣氏及び石黒氏関係の研究の拙考では、「鈴木真年翁の系図収集先−併せて「越中石黒系図」を論ず−」(『家系研究』第19、20号、1988年7月・同12月)、及び『越と出雲の夜明け』(2008年刊)、『吉備氏』(2016年刊)など。
 ネット上では、主に次の三本がある(
みな本HPに掲載)。
@ 越中国石黒氏の研究 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/matosi/matosi2.htm
A 「越中石黒系図」の偽造問題 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/matosi/tonami.htm
B 下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−
中央と地方の狭間」を読む
   http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/shirushi.htm

*3 『真香雑記』を紹介した論考は、主に次の二つである。
 @大川原竜一氏の「利波氏をめぐる二つの史料」(
『富山史壇』163号所収。2010年12月刊
 A土佐朋子氏の論考「今井舎人と鈴木真年」(
汲古書院の雑誌『汲古』第68号所収。2015年12月刊
 
*4 木本秀樹氏の主な関係論考には、「「越中石黒系図」成立に関する試論」(『日本の前近代と北陸社会』に所収、1987年)、「「越中石黒系図」成立に関する試論」(『越中古代社会の研究』所収、2002年)、「「越中国官倉納穀交替記残巻」と郡領氏族」(『日本海域歴史大系 第一巻古代篇T』に所収、2005年)、「古代越中国の在地勢力とその動向」(『古代の越中』所収、2009年)などがある。

*5 石黒秀雄氏は長年、石黒氏関係の資料収集に尽力され(私もその恩恵にあずかったが)、私家本で『石黒氏の歴史の研究』を1993年に刊行された。その前にも準備稿を関係者に配布したり、論考を発表したりしており、例えば論考「史料批判『越中石黒系図』の真偽を問う」(『姓氏と家紋』58号、1990年6月)がある。
 ただ、彼の属する石黒武重氏の系統がもつ系図が利仁流藤原氏で、これが真系だと信じており、その主張がゆえに、利波臣姓の出自を強く否定し、これを支持する佐伯有清氏などの研究者を批判し、鈴木真年の偽造を示唆する表現を著作の随処で行った。秀雄氏は自然科学分野(
山口大学農学部名誉教授)の学究で、歴史学の研究者ではないから、その面でも利仁流藤原氏や『尊卑分脈』などの把握・系図評価等でいくつかの問題がある。

*6 明治40年(1907)に函館の大火があり(このとき定治氏の父・松太郎の代)、その後の昭和九年(1934)三月の函館史上最大の大火(定治氏の代)により原本が焼失したというが、各々関係者はどうしていたのだろうか。秀雄氏は上記*5記載の論考で、定治氏の先祖は江戸期は加賀藩老臣前田家に仕えて能登の穴水におり、明治になって秋田に移り、戦後事業に成功して都内に移ったという。そもそも、この一家は実際に函館に居られたのだろうか。

*7 各地の石黒氏について、角川書店発行の富山県・石川県などの『姓氏歴史人物大辞典』や石黒克彦著の『石黒一族の事典』(桂書房、2015年11月刊)などに多数あげられるから、本稿では主なもの以外は省略して、網羅していない。

*8 大川原竜一氏の上記*3記載の論考に拠る。本稿では、この論考(前稿)と*12後稿)という二つの論考を主に取り上げて、検討することになる。総じて言うと、前稿には納得できる部分も多いが、後稿には大きな予断や論理の飛躍があって、その結論については、拙見は反対だということである。

*9 「皇孫部」との表示は、真年の別名、新田武智良の名で編集される『良峯源氏猪飼系図』(東大史料編集所に謄写本あり)に見える。同書には、頭に「皇孫部 良峯大江在原源 近衛舎人新田源朝臣武智良編集」と記される。定治家所蔵の「越中石黒系図」は、真年の編集した系図集(残念ながらその全体は滅失したか)の一部分の記事内容であり、現物自体は見ていないが、そのコピーを見ると、真年自筆の系図集そのものの一部か、真年自身が自筆で複写したもの(ただし、「抄」ということはありうるが)、と考える。このことをもって、直ちに真年による贋作系図とされるべきものではない。ちなみに、「新田源朝臣武智良」の名は、真年年譜では安政五年(1854)、28歳の時にこの名に改めたと記載されており、この「皇孫部」の表記からも当該系図が真年の活動初期頃の書と推測される。

*10 佐伯有清氏が当該系図の高い価値を認めたことについて、情緒的な思込みがあると石黒秀雄氏は批判するが、長年、古代氏族の系図に関心をもって多くの系図を見てきた佐伯氏にとっては、系図の記事内容から評価したものにすぎないと思われる。
 なお、佐伯有清氏も越中に縁がある方で、石川県立図書館の加越能文庫に所蔵の鈴木真年自筆の『前田家系図』のコピーをかつてお渡ししたところ、有清氏の祖父有敦(
幕末・明治期に富山藩に仕えた)の名が記載されているとの連絡があった。この家は、立山開発で名高い佐伯・志鷹一族の出であったから、越中の諸事情にも詳しいと思われる。

*11 須原祥二氏の論考「越中石黒系図と越中国官倉農国交替記」(『日本歴史』第601号、平成10年6月)。ここでは、結論としては、「越中石黒系図」が「「交替記」小中村本を参照して作られた可能性がきわめて高いといえるだろう」と推測するが、これに対する反駁は、ネット掲上の次の拙考記事を参照のこと。両史料がおおいに符合するというだけで、偽作の「可能性がきわめて高い」と即断するのは、ここに論理の飛躍が大きすぎる。
  http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/matosi/tonami.htm

*12 大川原竜一氏は、二〇一五年に「『越中石黒系図』と利波臣氏」という論考を『日本古代の王権と地方』(大和書房、2015年5月刊)で発表された。それより前に、『富山史壇』163号に論考(*3参照。前稿)を発表されており、この当初論稿は偽造説までは踏み込んだものではなかったが、最近稿(後稿)では、『交替記』の諸本を詳しく検討したうえで、前稿からトーンを大きく変えて真年の偽造説を展開する。拙稿は、この大川原両論考(とくに最近論稿)への批判を主眼の一つとするものである。なぜ、こうした考え方の変化をしたのかが、後稿を読んでも理解が困難である。

*13 大川原竜一氏の最初の論考(*3)では、「真年は、系図の偽作・捏造よりは、自ら収集の既存の系譜や資料を組合せしたにすぎない。当時の学知をもって系図を作成したもので、偽系図を作ろうという作為があったわけではない」と表現する。ここでの「系図を作成」という表現は「系図の編纂というべきであり、数本の系図や関係史料がある場合には校合・校正のうえそれがなされたと思われるが、多くは原本の忠実な書き写しを真年が行ったとみられる。それは、静嘉堂文庫に所蔵の「綾氏系図」「神氏系図」が他本を忠実に真年が謄写している事例にも、鈴木真年の著述・研究の姿勢がうかがわれる。

*14 下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」(栄原永遠男編『古代の人物B 平城京の落日』に所収。2005年刊)。

*15 志留志の墳墓といわれる遺構が南砺市岩木の荊波神社本殿の背後に位置するが、これについて、富山県史編纂専門委員であった石崎直義氏が「古代越中の豪族利波臣一族の隆替とその居館杜考」(『歴史地理学』110号所収、1980年)で取り上げ、岩木の荊波神社とその周辺の地図まで提示する。そこでは、志留志塚との表示があるが、「留志居館祉」とされる地も荊波神社周辺にある。こうした位置づけをもつ志留志が本宗家そのものではなくとも、ごく近親の関係にあったとみるのは自然である。
 
 
  本論考は、次ぎに続く                (2020.11.25 掲上し、その後も追捕)



  本考は、「越中国石黒氏の研究」及び「
「越中石黒系図」の偽造問題に続くものです(雑誌掲載稿を基礎にしているので、多少ともの重複があります)。

 ※次の所論も参照されたい。
   下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」を読む

 

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