(「利波臣氏のその後─越中石黒氏の末裔たち─」の続き)


 四 江戸時代の石黒氏の動向

  『真香雑記』所載系図の紹介

 そろそろ、問題の『真香雑記』に記載の江戸期の石黒氏の系図(主に光治の後裔で、以下では、仮に「真香系図」という)の概要を紹介する。その詳細は本稿末尾に続けて翻案を掲載する。系図は別頁に掲載

 この『真香雑記』自体は草書体で記され、真年の書く文字に慣れない方には相当に読みにくいと思われる(しかも、ネット利用ができる所蔵館の掲載文にはぼやけている個所もある)。だから、真年が清書した完成品の系図というより、草稿的な性格を有したことに留意される。大川原氏が同書を「孤書」と紹介する由縁でもある*16
 「真香系図」は、石黒太郎と号した藤原光弘から始まり、次代に左近亮光清、その次代に左近亮光治をあげ、それぞれにつけられる三代の譜文は、皆が貴布祢城(木舟城*17)の城主であり、当該系図とほぼ同じ内容で、これを少し詳しめにしたものである*18。この三代は親子関係というわけではなく、石黒一族の先祖のうち著名な代表者を系線でつなげたものとなろう。光清・光治やその藤兵衛光増など三兄弟(この三名の名は加越の金沢・富山にはまったく伝わっていない)の名前なども併せ考えると、当該系図に続くのが江戸期の石黒氏の系図であることは明らかである。記事の内容から見ても、始まりの三代が普通の系線でつなげられており、これが江戸期の系図への序章ということであろう。

 石黒光清は、戦国時代に活動した人で、明応中(1492〜1501)に恵林院将軍足利義稙が越中に下向したときに忠功をつくしたというが、このことは、当該系図以外は他の系図・史料に見えないから、これだけ取ってみても、「真香系図」が当該系図と内容が通じるものであることが分かる。真年編纂・関与の他氏の系図でも、例えば上毛野一族の韓矢田部造系となる摂津の寺井氏(『百家系図』巻59所収)について、まずはじめに古代から戦国末期の信長・秀吉のときの寺井種明までの系図を記載し、次ぎに続けて「寺井家近世系図」として、改めて菅原種明(菅原は冒姓)から系図を書き始める例がある。真香系図はこうした例の後ろのほうの部分に通じるものとなろう。
 「真香系図」を見ると、光治の長子の藤兵衛光増の後では、子の久之丞光真、その子の藤兵衛光郡、更にその子の久之丞光武という三代が記載される。藤兵衛光増の記事には、越中国退散の後は牧野伊予守に仕えて野州野間で五百石を賜り(端的な確認ができないが、三河牛久保と小諸藩の牧野氏家臣に石黒氏あり)、その後に東国での合戦、朝鮮の役、大坂の陣にも参加し、紀州藩に仕えて千石をとって旗奉行になり、寛永十年(1633)二月五日、江戸で死去、妻は寛永元年(1624)十月十日に紀州で死去と見える。子の久之丞光真は望みがあって江戸で浪人し、肥前島原一揆のときに黒田甲斐守(筑前秋月藩祖の長興のこと)に従って戦功有り、南龍院公(紀州藩祖徳川頼宣のこと)に再び召し出され三百五十石を賜って大番役となると記される。その子の藤兵衛光郡も三百五十石を賜わり法名秋閑、その子の久之丞光武は元禄中に浪人となるとあって、この系統の記事が終わる。
 次子の久兵衛正信の後では、子におかれる彦太郎正雅が実は佐久間勘右衛門の次男で、五百石を賜り、その子が藤兵衛正吉とされ、ここでこの系統は終わる。久兵衛正信は、紀州公に仕えて寄合となり、貞享三年(1686年になるから、記事になんらかの齟齬あり)八月廿三日に紀州で死去、同国吹上寺に葬る、法名心叟自徹居士、と記される。これらの事情から、藤兵衛光増・久兵衛正信兄弟の後が紀州藩徳川家に仕えたとされるが、この両系統の子孫の記事は江戸中期頃までで系図は終わる。その後、幕末の文久元年(1861)の紀州藩士の『文久紀士鑑』に石黒の名があるから、光増、正信の後なのであろう(後述)。
 第三子の甚右衛門某の系統が長く記載されており、当該系図を江戸後期頃まで伝えたとみられる。その嫡系は、子の「久兵衛某─平内某─藤兵衛吉進─久兵衛(又七郎)吉治=藤兵衛真虎(女婿で養嗣)─藤兵衛真親=藤兵衛真明(実弟で養嗣)─藤兵衛義知─藤之丞喜古」(ここでの「=」は縦の棒で、養嗣の意味)と子孫が九代を重ねる。藤兵衛吉進以降の世代では、各々兄弟姉妹の記載もあって、とくに不自然さは系図に見られない。
 世代の最後となる藤之丞喜古には同母の姉(名は房、母加藤氏)がいたが夭折し、本人も文政元年(1818)に備前岡山で生まれて天保十二年(1841)七月十五日に江戸で廿四歳で死んで火葬をなし長保寺に葬る。父の藤兵衛義知も岡山で生まれたが、天保十五年(1844)正月八日に岡山で死んで長保寺に葬る、と見える。この記事の年次の1844年が真香系図では最も新しいものであり、この父子の子孫も記されず(喜古の下に棒線記載があるから、その子孫があったか)、鈴木真年はその少し前に生まれたから(生没が1831〜94)、真年は石黒義知の遺族関係者から真香系図を入手したと推察される。

 最近開催された池田家文庫絵図展(平成26年度企画展。岡山シティミュージアムで開催)の図書『岡山藩と明治維新』のなかに、明治二年(1869)五月の『征討日誌』が掲載され、箱館五稜郭の戦い前後の行動が報告されるが、岡山藩糾武隊の石黒甚右衛門が筆者と記される。岡山系統の祖の名が甚右衛門某だから、この筆者が藤兵衛義知の子孫にあたるとみられる。「岡山藩諸士家譜抜書」という年代不詳の書が岡山大学附属図書館に所蔵されており、そこには藩士として「石黒藤兵衛、石黒後藤兵衛」の名が掲載される*19
 この甚右衛門某の系統では、江戸前期の三代は実名を伝えず、各々の生地は、甚右衛門が越中、次の久兵衛某が加賀、更に平内某が因幡、その子の藤兵衛吉進が備前岡山と世代毎に住地が変遷する。これは、各々が浪々の身というよりは、岡山藩主池田家に仕えたのなら、久兵衛かその先の代に同家に仕えて、その子の平内が因幡鳥取辺りで生まれ、平内の代に主君光政が岡山に転封になった(1632年)、とみられる。享保三年(1718)に八十歳で死んだ吉進(生年は1639となる)以降の合計七代が岡山生まれであって、岡山に来た平内某が寛文四年(1664)に死、妻が承応元年(1652)に岡山で死、と記される。

 「真香系図」の評価
 ここまで見てきたように、「真香系図」は主体が江戸期の部分である。藤兵衛光増兄弟の後では、通称に「藤兵衛」と名乗る者が多く見え、この一族は全体としていわば「石黒藤兵衛家」と言えよう。藤兵衛吉進以降の一族が備前岡山でどのような身分だったかは系図には記されないが、明治初期頃の上記史料から見て、岡山藩の家臣とみられる。
 「真香系図」の記事内容からしても、大川原氏はこの系図が偽造だとは考えないと思われる。
 「真香系図」と『越中石黒系図』(当該系図)とを比べてみると、光弘の記事に見える「七ツ星」家紋の由来は当該系図に見えず、次の光清の記事に見える将軍義稙の越中逃亡は史料により知られるが、貴布祢城の三城構え・規模は当該系図に見えず、光治討死のときの家老の名(水巻釆女・石黒与右衛門)も当該系図に見えない。貴布祢城の所在地、砥並郡糸岡郷(真年は「系」の字を用いるが)だって、よほどの知識がなければこうした記事を使えるはずがない。また、江戸期の人々に記される死亡年月日・埋葬寺、妻の続柄・死亡年月日等々、この辺は創作で書き出せるものではない。備前岡山藩士や紀州藩士として、ともに幕末・明治頃まで石黒氏が存在した事情もあり、「真香系図」はほぼ信頼できそうである。
 これら辺りの記事は、元となる原資料が実際になければ、江戸あるいは熊野に在住の三十台前半の研究者が容易に作り出せるはずがない。また、わざわざ偽造したのなら、初期三代の者も、なんらかの実名の造作がなされてもよかろうが、それがない。真年には、岡山在住の石黒氏との利害関係はまったくなく、その接点も分からない。

 ここまで書いてきたところで、岡山藩士の石黒家について更に調べると、『池田家文庫藩政資料マイクロ版集成』という書には、藩士関係に「先祖并御奉公之品書上」の資料が掲載され、そこに石黒諸家のものがあることが分かった。
 同書には、石黒平奈家石黒藤兵衛家のこと)、及び石黒董家と支庶家四家という合計六家の記事がある。後者の石黒董家(石黒後藤兵衛家のこと)のほうは、尾張石黒氏の石黒孫左衛門の流れであって、越中石黒氏とは関係が薄い。尾張の先祖を石黒民部といい、武左衛門家治を初代とする流れもあって、こちらの系統も複雑である。幕末頃の石黒武左衛門の道場では、柔術を伝えた。天保十一年(1840)に没した武左衛門忠直の跡目は養子の孫左衛門(後に武左衛門)が継ぎ、その子も武左衛門(後に武吉に改名)という。なお、尾張藩藩士にも石黒氏数家があり、『士林泝』(「石黒氏系図」では重定の後裔とする)、『藩士名寄』(旧蓬左文庫所蔵)や『寛永年中分限帳』などの史料に見える。

 石黒平奈家の書上はかなり多量であるが、それまでの歴代は真香系図とまったく合致する(傍系や女子は不記載だが、これで、「真香系図」の信頼度はほぼ揺るぎがなくなった)。その要点を最初と最後について書くと、次のとおりである。
○最初は元禄九年(1696)の石黒藤兵衛(三百石)であり、曾祖父甚右衛門が播磨宰相(池田輝政)の代に池田家に奉公を始めた。甚右衛門の慶長年間の記事もあるが(慶長九年〔1604〕から奉公か)、病死の年月日は不明である。祖父の久兵衛は加賀に生まれ、寛永年間の記事がある。
 この関係で調べてみると、初代の石黒甚右衛門は、播磨姫路の藩主池田利隆(輝政の長子で、慶長十八年家督相続)の家臣であり、乗馬名手で石黒流馬術の開祖とされており、鎌倉時代中期の銘刀「鳴狐」(なきぎつね。山城国粟田口派の刀工・国吉の作で重要文化財に指定、現在は東京国立博物館所蔵)の所有者として知られる。中里介山による剣豪武術家逸話集『續日本武術神妙記』(1936年刊)にも、その逸話が記される。ちなみに、金沢藩の石黒氏には石黒流弓術が伝えられたといい、彦根藩の石黒氏(伝右衛門家で、明治前期の初代福井県知事石黒務が出た)は名槍家といわれる。
○幕末の石黒藤之丞の次ぎには、歴代最後の第十一代として石黒啓吉がいた。改名して甚右衛門、更に平奈となり、明治三年(1870)十二月の日付が石黒平奈の最後の文書となっている。これが、上記の戊辰戦争で活躍した人であり、真香系図の最後に記載の藤之丞(1841年に死去、享年廿三)の子とされよう。池田家文庫の諸職データベースによると、三五〇石取りで、慶応元年(1865。当時二五歳ほどか)六月に鉄砲頭となり、明治元年(1868)三月に銃隊頭、同七月に二番小隊令官になった、と見える。

 紀州藩士の石黒氏についても調べると、ここにも関連史料が残る。和歌山県立文書館に所蔵の『紀州家中系譜並ニ親類書書上』の目録(『紀州家中系譜並に親類書書上げ』〔収蔵史料目録の第十集〕という名で刊行)を見ると、江戸後期の文化文政期の石黒氏が二系統、@八之右衛門家(八之右衛門の系譜と常之丞の親類書)、A藤兵衛家(藤兵衛と源太郎の共に親類書)が記載される。
 @の系譜概要は、初代の平兵衛信興→平兵衛定興→加右衛門利久→平左衛門時行→八之右衛門良仗と五代続いて、良仗の娘婿有馬大助通明の子で承祖の常之丞柄明が提出者とされ、Aのほうは藤兵衛が祖父で、藤兵衛・藤兵衛(後の源太郎と同人か)の三代の親子が記載される。これら記事は、『真香雑記』所載の系図と端的にはつながらないが、おそらくAの系統が久兵衛正信の後であろう(藤兵衛光増の後は断絶か)。
 @の系統は、初代の平兵衛信興が生国駿河で南龍公に仕えたとあるから別系統であろうが、家紋が九曜星というから同族とみられる。「石黒平兵衛」の名乗りは、加賀のほうでも「袖裏雑記」(『加賀藩史料』第八編)に見える。

  『越中石黒系図』の原蔵者

 これまで述べてきた事情があるから、江戸期の「真香系図」について疑問があまりないとすれば、江戸期は勿論、その前までに記載される系図個所についても信頼性も高まってくる。大川原氏の論考では不明であるが、中世部分の系図を真年が創出したようにも受けとれない(中世の戦国後期の部分の内容には、石黒秀雄氏が多くの疑義を出しているが)。
 そうすると、石黒光弘より前の古代部分だけを真年が創出したというのだろうか。私には、そうした手間暇かけて真年が石黒氏の古代部分について偽造系図を造り出すとは到底思われない。その偽造の意味・利益が真年(及び中田憲信)にはまったくないからであり、定治家の先祖が多額の報酬を払おうとしたとも思われない(そもそも、この接触の有無すら知られない)。きわめて多数の系図を当時の真年・憲信は収集に努め、また成果を上げたが、わざわざ偽造系図を造り出す動機が、彼らにはまず皆無といって良いのである。
 そもそも、「越中石黒系図」の原典はどこにあったのかという問題について、先に紹介した尾池氏の見解と同様に、定治家にその謄写本があったとしても、この系統に元から伝えられたものではないと、私も推測していた。富山や金沢に残る石黒氏関係史料にも、富山在任中に種々手を尽くして当たり探してみたが、『越中石黒系図』に相当するような古代に遡る史料はなかった(古代に遡る史料のかけらさえ見出しえなかった)。だから、「真香系図」が知られた以上、備前岡山の藤兵衛義知家に元来あったとするのが最も自然である。
 なお、石黒氏の一派には、いったん尾張に行って長谷川氏を名乗り*20、尾張出身の前田家に従属しその家士となって加賀国金沢に移住した数家があった。この系統に当該系図が併存して伝えられた可能性も、「真香系図」が知られるまでは私は考えていた。ところが、『諸系譜』に記載される石黒・長谷川氏の系図は、定治氏系とは内容が違いすぎるので、この辺もやはり無理が大きい。


 五 当該系図の中世部分の検討

 当該系図で最も重要な部分があるのか

 大川原竜一氏は、当該系図で最も重要な部分が、主に中世の時期である「石黒権大夫光久から天正九年自害の光治とその三子まで」だとみており、これは彼の二つの論考で共に主張される。しかし、こうした見解は、誤りである。真年や中田憲信は、そもそも時期により系図の重要性を区別するような、そうした取扱いは一切していない。真年・憲信の作業は、古代から中世・近世までの長い大きな歴史の流れのなかで、体系的な系図を整理することが目的であり、中世の石黒氏だからといって、それだけを念頭において検討することは、彼らは全くしていない。だから、当該系図が、「あくまでも中世の石黒氏の系図であり」とみるのは、大川原氏の明らかな誤解・予断である
 こういう思込みで立論するのは、問題が大きい。肝腎の中世部分の系図により、真年は何を表現したかったのだろうか。そもそも、中世部分には、その後半のほうにかなり疑義があり、藤原姓の問題は、利仁流藤原氏を称した林氏(現・石川県白山市菅波町の正八幡神社〔拝師神社〕の祭祀もある)との深い所縁(通婚・猶子などの関係)に基づいて、石黒氏が藤原姓を称したという事情があった。それだけのことで、江戸期の系図を基礎にして、その先に中世や古代部分の系図をわざわざ架上するはずがない。その能力すらない。真年のほかの系図・資料での行動を見る限り、原典をそのまま筆写したとするのが自然である。


 石黒氏中世系図の検討

 さて、源平争乱期の石黒光弘から信長により殺害されたという光治までを「中世」の時期だとしたら、「標準世代」で考えると、これら両人を含んで歴代合計が十四世代(両者の中間に入る世代が十二世代)ほど、経過年数にして約四百年(この場合、一世代当たり平均28.5年)、というのが概ねの数値である。この概数的な把握をもとに、中世の石黒氏一族の動向を考えてみる。
 『越中石黒系図』(当該系図)と「越中国砺波郡石黒氏系」(仮に「武重氏系」と表示する)とは、源平争乱期の光弘だけを共通にし、それ以降の歴代の名前、記事はすべて異なるが、基本的に両系図とも木舟城主石黒氏の系図だというから、どこかに両者の接点がなければおかしい。光弘以外のもう一つの接点が木舟城主家滅亡のときの光治と、事績がそれにまったく対応する成綱(武重家の祖)である。光治と成綱とは、同人であったとみるのが一応、自然だが、それは何により考えられるのか。
 石黒定治家には、別途、光治の父におかれる光兼から始まる近世系図部分があり(この部分は真年筆ではない。『富山県姓氏家系人名辞典』の巻末にも記載)、この系図(仮に「定治氏系」と表示)では、光兼の子には三子があって、光治・湯原八丞国信・治部とし、光治の譜文には「石黒左近蔵人成綱 後に光治」との記載がある。成綱の子に左近成重をおき、「父左近自刃後従弟九郎左衛門之を養育し十八才の時前田公より九郎左衛門知行の内七百五十石を賜るところ左近夭折し此の胤絶ゆ」と見える。「武重氏系」などに拠ると、左近成重(一に成高)には左近重職という養子(堀氏から入る養嗣)があったが、切腹で、この家は断絶となり、後は見えない。これらの記事から見て、左近成重は父死亡時には五歳ほどと幼く、藤兵衛光増ら三兄弟とは別人であった。
  「武重氏系」では、成綱末弟の治部こと、石黒治部少輔光家(成栄)の子が九郎左衛門(成家)とされ、これが浪人して能登に行った後に、加賀藩祖前田利家に仕えて家を存続させ、武重家及び定治家などの先祖となる。すなわち、武重・定治両家の系図所伝に拠ると、九郎左衛門の子、彦右衛門為家が武重家の祖で(為家の次子為忠の後。その兄・吉正の後となる石黒本家は、明治前期に行方不明となったとのこと)、その弟の太左衛門が定治家の祖となるが、「定治氏系」には為家の名が見えない。もっとも、「武重氏系」には「光兼」の名も見えず、「成定」という名にされており、「定治氏系」の書出し部分は、『越中石黒系図』を基礎に幕末・明治期に書き直された可能性も考えられる。
 ともあれ、滅亡時の成綱という名前だけが正しいと言い切れないのは、当該系図とはまったく無縁に江戸中期に富山で編纂された『肯構泉達録』(富山藩士の野崎伝助と孫・政明により書かれた書)には「貴布祢ノ石黒左近光治」が滅ぼされたと記される。秀雄氏も『越登賀三州志』に左近亮光治と見えるとするから、光治の名をただちに偽造とすることもない。従って、とりあえず「光治=成綱」としておく(どちらかから他のどちらかに改名された事情があったものか)。これが、まず無難であろう(後ろで更に、この是非を検討する)。
 そのうえで、光弘から「光治、成綱」までの歴代数(端的に世代数)を見ると、両者の中間におかれる世代が、当該系図では十二世代である(標準世代に合致する)のに対し、「武重氏系」ではなんと十六世代もあげられて、異常に世代数が多くなっており、この意味でも当該系図のほうが「武重氏系」よりも優れている。しかも、「武重氏系」には、光弘の子の兄弟世代から戦国の成親の世代まで、十五世代も連続して傍系の記事が皆無なのも極めて不自然であり、後世の偽造疑惑が出てくる(「武重氏系」の成親の親の世代より前の時期、とくに光直あるいは光教より前の時期については、疑問があって、十分に検討の必要があることを意味する)。


 中世及び近世の加越の石黒一族

 実のところ、「中世」の史料に現れる石黒一族は、どれも断片的であって、しかもごく少数現れる人物は、通称を記しても実名が見えないのが殆どすべてである*21。だから、当該系図も「武重氏系」も、又次郎光直より前は記載内容の裏付けが殆どできない。ただ、石黒本宗の居た西勝寺城の築城者という伝承のある石黒太郎光秀が、年代的に当該系図に見える相模守光秀に当たるとしてよさそうであり、これが唯一、当該系図と符合するといえよう。太郎光秀に関連する子弟の名も当該系図には見えないが、矛盾するものではない。
 しかも厄介なことに、尾張に分れた支流の長谷川氏につながる系図では、両系図とはまったく別の歴代の名を伝える(この長谷川氏については、別途註*20で概要を記す)。真年が仮に偽造で当該系図の中世部分を書くとしたら、中田憲信編の『諸系譜』(第15、30、31冊)に記載される石黒・長谷川氏の系図を基礎にするのではないかと思われるが、そうはしていない。長谷川氏の系図には、重之の父・越中守重定に「越中木舟城主、仕宗良親王」があり、当該系図と明らかに反する内容を持つ。「李花集」では宗良親王が石黒の舘に赴いたことが知られるが、訪問先の相手関係の名が明確ではない。こうした三本の系図がそれぞれ孤立本というのも、奇異である。

 くだって戦国期には、石黒の山本塁(南砺市山本で、西勝寺城の西南方三キロ弱)に石黒太郎光秀の二男宗五郎が拠ったというが、宗五郎の系譜も子孫もよく知られない(前述)。
 江戸後期の石黒信由(生没が1760〜1836)は和算家・測量家として著名である。幼名を与十郎、通称は藤右衛門といい、射水郡高木村(現・富山県射水市高木で、もと新湊市域)の肝煎(村長)の家に生まれた。この家の系図(『越中百家』に所載)では、石黒光弘の子に福光城主の右近、木舟城主の左近の二系統があり、その左近のほうの子孫で、天正中の左近の二男久三郎を初代として、信由は第七代とされる。この家は利仁流藤原氏ともいい、利波臣志留志の後裔ともいう(久三郎家は久兵衛正信となんらかの所縁ありか)。陶芸家で人間国宝の石黒宗麿氏も信由一族の流れとされる。また、木舟城主家の六男の流れから出たのが越中薬業の始祖中田清兵衛家といい、初代が砺波郡中田村(現・高岡市中田)の土豪善右衛門とされるが、この家から富山県元知事の中田幸吉氏も出た(これも『越中百家』に記事あり)。成綱の婿など女系を通じる石黒氏もあるが、この辺は省略する。

 これら石黒諸家のほか、越中には、石黒左近蔵人が誅殺されたときに随行して討たれたという同姓の与右衛門、清右衛門、太右衛門(その子が太七郎)がおり、それぞれ岡村、島村、木舟村において帰農したと伝える(『石黒氏略伝』)。幕臣にも石黒四兵衛家があり、四兵衛を通称とする三代が『改選諸家系譜』に掲載される(三代目が石黒易慎で、元文五年に奈良奉行となり、従五位下但馬守に叙され、領六百七石と見える。この家は、『寛政譜』には橘姓とするが、家紋七星・蛇の目で、元禄七年に歳七五で死去の弥市左衛門正易〔四兵衛家の初代の某にもあたる〕を初代とするから、越中と同族か)。『寛政譜』には藤原姓が三家あげられるが(作右衛門政次を祖とする二家及び新右衛門武信が祖という家で、後者の祖・石黒大助成道が三河で家康に仕えたと記載)、これらが越中石黒氏にどのようにつながるかは不明である。
 越中の西隣の加賀国能美郡には金平村(現・小松市域)に十村役(庄屋相当)の石黒家があって、慶長年間から代々、十村役をつとめたといい、石黒源次は明和年間に金平鉱山(金、銅)を発見した。これに関連して、新川郡金山谷城(現・魚津市域)の石黒氏支流が、出羽の院内銀山の地を経て角館の佐竹北家に仕えた事情があり、金山谷の居た頃に松倉金山に関連して鉱山技術をもっていたのではないかとの見方も出ている。この鉱山関係は、吉備氏一族が金資源探索の倭建東征に随行し、利波臣同族の遊部君が飛騨の神岡鉱山付近に地名など足跡を残したことと符合する。
 石黒氏には七流ほどの系統があったというが、当該系図にはそれが具体的に見えず、多く石黒惣領家ともされる福光の石黒右近家ともどのような分岐関係だったのかが不明である。中世の石黒氏一族の系図も、当該系図でもかなり不完全である。金沢藩士に見える石黒諸家も先祖がどれも明確とはいえない。明治に石黒氏で唯一華族(子爵)に列した石黒忠悳(ただのり)は、軍医総監等の功績によるが、陸奥国伊達郡の平野氏に生まれて越後国三島郡片貝村(現・新潟県小千谷市域)の石黒氏に養子となったものである。その観音信仰の篤さが知られるが、馬術名人の石黒甚右衛門にも、同族射水氏出身の算道大家の三善為康にも篤い観音信仰があったという。

 『富山県史』通史編U中世では、執筆者の楠瀬勝氏が『越中石黒系図』の成立について、系図の記述が数次に分かれていたようだと記す。すなわち、「まず南北朝以前の記事は十四世紀末から十五世紀初頭に記され、それ以後の記事は近世に入って書かれたのではないだろうか」、あるいは「十四〜十五世紀成立の第一次系図をもとに、その後の部分を書き継いだものであったのかもしれない」と考える。さらに、同系図が「中世末期に至るまで一方の石黒惣領家の地位を保った石黒又次郎家の系譜であろうと思われる。けれども、中世末期に優勢となった石黒成綱の系譜に吸収されるようにして、近世における系図編纂段階で、この家系もまた石黒左近成綱に結びつけられたのであろう」とも考えている。しかし、この辺も推測であって、拠るべき具体的な資料に乏しい。
 楠瀬氏が言う「石黒又次郎家」とは右近家のようであり、戦国末期にも石黒惣領で石黒上郷(福光)の又次郎光直系統と木舟城の左近蔵人成綱系統があり、惣領光直系統が庶子家成綱系統に吸収されるという系図操作が近世になされた模様だとみられている(ところが、「武重氏系」では光直と成綱とを系一本でつなげて、祖先と後裔の関係におく。光直と光教とが親子ではない可能性もあろう)。本願寺証如の『天文日記』には又次郎光直が石黒惣領と見える。すなわち、永正十六年(1519)正月の書状に又次郎が見え、その十年後の享禄二年にも活動したことが「武重氏系」に記事があり、さらに『天文日記』に天文十年(1541)二月条に「越中国石黒惣領又小郎、庶子小三郎」と見える。
 木舟城は石黒氏が砺波北部に勢力を広げる過程で築かれ、石黒氏の庶流が城主を務めていたと推測されている。文明十三年(1481)八月、福光城主石黒光義(右京亮)は医王山惣海寺と組んで越中一向一揆(本願寺派)の瑞泉寺と対峙したが、田屋川原合戦で敗れて自刃し、石黒惣領家はこれで衰退、没落した(『西礪波郡志』『闘諍記』)、ともいう。この辺の詳細な事情は不明であり、光義は系図に見えず、福光のほうが石黒惣領家だという確認もできない。大川原氏が言う肝腎な中世部分が、このような状況なのである。


 石黒氏最後の木舟城主の実名は何か

 戦国期の石黒氏最後の木舟城主は石黒左近(左近将監)とされる。はじめ上杉謙信に属したが、その没後に信長に属したものの、上杉に通じた嫌疑をかけられて天正九年(1581)七月に近江長浜で丹羽長秀に討たれた(『信長公記』など)。
 左近の実名について、名が種々伝わる。『上杉家中名字尽』には「石黒左近蔵人(成綱)」とあり、『史料綜覧』巻十一では成綱、「越中砺波郡石黒氏系」は左近蔵人成綱とする。『越中旧事記』では左近成親とし、『越中石黒系図』では左近亮光治とし、『肯構泉達録』には「貴布祢ノ石黒左近光治」と見える。庄城の石黒与三右衛門とする所伝(「寛文十年書上帳」)があるが、これは同時に誅殺された家臣の石黒与右衛門(一に与左衛門)との混同があったか。金沢の石黒伝六家所蔵の『石黒家由緒書』*22等にも木舟城主として左近蔵人成綱の名が見え、伝六家の伝える歴代は「越中砺波郡石黒氏系」と同じ内容である。
 近江長浜で誅殺された人物の名も、こうして見ると、各々の系図に一長一短があって大きな相違があるものの、総合的に見れば、名は左近蔵人成綱(成親の孫で養嗣)が妥当だと思われる。その場合、「武重氏系」では、成綱には夭折した父・成定がいたため、祖父成親の跡を継いだとされており、この辺にも湯原国信など一族との関係で系図混乱の一因となろう。
 砺波郡の石黒荘は、旧・福光町を中心領域としており、京都の御室円宗寺の所領として平安後期に成立したが、在地の開発領主・下司として石黒一族があった。同荘の弘瀬郷の地頭藤原氏も石黒一族とみられており(『富山県史』通史編Uの25頁)、その関係中世文書が若干残るものの、中世の石黒一族活動の全体像を継続的に記す史料に乏しい。この辺の事情が石黒系図の信憑性の確認を妨げている。

 戦国後期の石黒氏の当主(木舟城主)の歴代は、以上を総括すると、『姓氏家系大辞典』では「三州志」(正式には『越登賀三州志』で、寛政十年〔一七九八〕に加賀藩士富田景周が著作)が「石黒譜」(武重氏系に近い)に拠って記すように、「又次郎光直─大炊助光教─大炊左衛門成親─左近蔵人成綱(※為信長被誅。承祖父相続)─左近」とするのがほぼ妥当なところであろう。鈴木真年も、その著『諸系譜』第五巻で、又次郎光直から左近までの五代(及び若干の傍系)の系図を記載するから、この辺の事情を承知していた。
 そうすると、『越中石黒系図』記載の戦国後期の歴代の名前表記とは全く異なる。藤兵衛光増兄弟の先祖とされる「光清─光貞─光兼」が「光直─光教─成就」の三代(あるいは後ろの二代)と重なり合わない場合は、光増兄弟の系統は光清を初祖とする支流系統だったのかもしれない。
 なお、南北朝動乱期を物語る『太平記』にも、石黒の名はまるで見えない。越中守護の普門蔵人利清は、井上・野尻・長沢・波多野の者共とともに同書に見える。この普門氏については新川郡松倉城主(魚津市域)で父の普門院法印の号に因むといわれ、井上氏の一族として井上俊清ともいわれるが、それでも系譜が知られない。桃井直常も越中守護で、当該系図や「武重氏系」には石黒一族が桃井と争ったり和睦したりとの記事が見えるものの、『太平記』には記事がない。南北朝の頃、石黒左近大夫成行が宮方で活動したという記事が『南朝編年記』に見えるが、この者も系図に見えない。


 六 当該系図全体を通しての概括評価

 とりあえずの総括

 ここまでに、石黒秀雄、須原祥二、大川原竜一などの諸氏も含め、これまで出されてきた当該系図の疑問点・問題点を検討してきたが、「越中石黒系図」の全体(あるいは古代・中世部分)を鈴木真年が偽造したという具体的な論拠は、まったくない。このことが確認できたと考えられる。当該系図が通常の系図と同様に、現存の形になるまでに何度か書き加えられ、そのうえで現在まで伝来されてきたとしたら、仮に系図全体の信頼性に問題があったとしても、まず古代部分の信頼性を否定するものではない。
 中世部分の後半には、石黒秀雄氏の指摘する問題がたしかにいくつかある。明応の義稙将軍下向の記事が見える光清以降では、当該系図の末尾までの系図(すなわち、戦国時代後期の五代の部分)は偽作だ、と彼は判定した。この見方を基礎においたとしても、系図尻付の記事内容等から考えて、光弘から南北朝期の応安(1368〜75)頃の光雄まで、或いは光雄の曽孫で長享(1487〜89)頃の光任(光清の父におかれる)までは、裏付けの史料・所伝が殆どないものの、当面ほぼ信頼してよいかもしれない。というのは、光任の子におかれる光清の代以降は傍系を殆ど記さない(与二郎光吉から出た系のみ)のに対し、光任には傍系で同世代の従兄弟が三人記載されており、この辺まで先に系図が成立したという見方もできるからである。石黒秀雄氏も、光清以降の記事について内容が疑わしいと指摘する。
 だから、戦国時代後期の光清以降光治までの四代という一団は、疑問をもつ部分と一応しておくが、同人異名の問題もあって、直ちにこの辺が偽作だとは言いがたい(先に別系支流かという可能性も記した)。しかも、誰が偽作ないし加筆・修飾したかという問題では、藤兵衛光増兄弟かその子孫とするのが自然であろう(偽作があったとしても、真年に結びつけられる要素がない)。「武重氏系」では、先祖の九郎左衛門を最後の当主成綱の子に置いたように(実際には従兄弟)、藤兵衛光増兄弟の流れにあっても、仕官活動などの事情で、この系統が石黒氏嫡流の家だと虚飾したいという動機が一応考えられるからである。

 次ぎに、光治からの江戸期の「真香系図」を見たときに、そして「武重氏系」など関係系図を考えたときに、ここにも疑問が残る点もある。それは、戦国末期から江戸前期に系図がうまくつながっているのかという疑問であり、それが、石黒氏滅亡時の当主あたりの関係図に現れる。
 一般に系図で仮冒・偽造ないし変な接続が疑われるのは、@系図全体の書出し部分(遠祖・始祖を飾り立て立派なものに見せるため修飾・変更する傾向あり)とA系図と系図の接合部(有名人や有力一族、一族の本宗家に出自したように変更する傾向)である。だから、その辺にとりわけ留意して十分な検討を系図に加えねばならないが、当該系図にあっては、すでに@部分に問題があったことが分かった。Aの部分の検討も当然に必要となる。
 さて、藤兵衛光増兄弟の後の「石黒藤兵衛家」一族の祖ともなる光治は、本当に成綱と重なる同一人物なのだろうか。「石黒藤兵衛家」一族では江戸期にあって「左近」を名乗る者が皆無である反面、藤兵衛の通称を多く名乗った(次ぎに久兵衛が多い)という事情があって、この辺の疑いを起こさせる。光治と成綱とが仮に別人だとしたら、光治には先に「藤兵衛」を名乗る者の子孫ではないかという可能性がある。本来は、この傍流の人であって、滅亡時当主の成綱に光治が置き換えられたと推測されるということでもある。
 当該系図では、支流の与二郎光吉の子におかれる「藤兵衛豊清」が見え、世代的に光治がその子におかれてはどうか(この場合、与右衛門豊陳の兄弟にもなる)。一方、加越に残る関係系図*23をいろいろ見ていくと、成親には藤兵衛という通称がまたあったともいうが、その兄の成就が藤兵衛といったとする所伝のほうが妥当であろう。これが『三州志』に「天文の比に石黒藤兵衛、天正中石黒右近」と見える前者のほうであろう(各々成就、成綱にあたるか)。そうすると、この意味でも成就の子に光治をおくのが最も自然であろう。
 上記関係諸系図を基礎に、戦国後期からの一族につきいろいろ試案を作って整理した結果を、末尾に第二図「戦国後期・江戸前期の石黒一族の系図推定試案別頁に掲載)としてあげておく。備前や紀州の「石黒藤兵衛家」の系図が加越地方にまったく残らなかったのは、この系統が石黒庶流であったからではなかろうか。

 利波臣・石黒氏に関する系図は、いわゆる『越中石黒系図』として知られる古代・中世部分と『真香雑記』掲載の近世部分を一体として、全体的に評価すべきである。この辺は、『真香雑記』の存在が知られた以上、当然のことである。真年・憲信の諸著作でも、上古から近世・近代に及ぶ長大な系図が『諸氏本系帳』『各家系譜』などに多く記載されるから、こうした総合的な考察が必要なことは言うまでもない。
 その場合、全体を仮に「利波臣氏系図」として名づけたとき、その構成は、次の五つほどに区分される。
  @書出しの孝元天皇から利波臣氏初祖の波利古臣までの発生段階の部分
  A波利古臣から石黒光弘までの古代の部分
  B石黒光弘から戦国時代前期の光任までの中世の部分
  C石黒光清から江戸時代前期の藤兵衛光増兄弟までの戦国後期の部分
  D藤兵衛光増兄弟以降の近世の部分……ここが『真香雑記』掲載部分

 これらの評価については、@の部分については、武内宿祢後裔という系譜仮冒があるが、波利古臣が射水臣の兄弟からの分岐や、その父・努美臣については信頼してよかろう。
 Aの部分は「交替記」等の史料に符合し、標準世代から見ても問題がないから、ほぼ信頼できそうである。
 Bの部分は、石黒光弘以外は史料に見えず、掲載記事の裏付けができないが、太郎光秀の上述伝承もあって、否定するまでには至らないと考えられる。石黒氏が康平年間頃の井口三郎光義の流れという井口氏を本宗とするという所伝があるが、この井口氏は具体的な系図に見えず不明である(系図では、石黒光弘の祖父光久が初めて石黒と名乗ったと伝えるから、井口光義が実在したのなら、光久の兄弟くらいに位置づけられるものか)。
 Cの石黒光清から藤兵衛光増兄弟までの五代は、石黒本宗家と人名の重複がない場合には、光清から始まる石黒支流の系統の可能性もある(一応、重複で良いか)。早くに分かれた支流の家に貴重な系図が残ることも往々にしてあり、重複がない場合、光清は光直の兄弟近親というよりは数代先に分かれた支流ではなかろうか(系図を見ると、三郎左衛門光任の伯父・太郎兵衛尉光業の長子におかれる伊勢守光景の後が石黒本宗で、この光景が光直の父という可能性もあるか)。
 いずれにせよ、光増兄弟の父という光治は、石黒氏最後の当主・成綱とは別人とされよう。岡山でも和歌山でも、光増兄弟の子孫がそれぞれ「石黒藤兵衛」の通称を名乗るほど、「藤兵衛」の称に拘ったことが史料により具体的に分かったから、戦国末期にこの通称を名乗った成就(成綱の兄)の子孫とみるのが最も自然である(光治が実在の場合には、本来の通称も「藤兵衛」かそれに近似するものかもしれない)。
 成綱の石黒本宗家はいったん落城、滅亡したが故に、古代からの系図を後世に伝えなかったともみられる。武重氏系も支流の九郎左衛門を祖とするものにすぎず、又次郎光直より前の系図は信頼性に欠くともいえよう(光直とその子という光教の親子関係にも、疑問があるのかもしれず、金沢藩の『諸士系譜』*23でも大炊助光教から系図を始める)。
 Dの部分は、池田家文庫に所蔵の諸史料(石黒藤兵衛家の書上げ等)や紀州藩の諸史料により史料の裏付けがほぼできたが、史料に見えない傍系などの記事も内容から見てほぼ信頼してよかろう。
 こうした古代からの長い年代にわたって複雑な内容・構成をもつ利波臣氏の流れを、真年が一人単独で系図という形で創出したと考えるのはきわめて無理がある。


 大川原竜一氏論考の批判の総括

 系図でも古文書、各種史料でも、厳しく批判的な文献チェックが必要なことは、誰の著述に限らない、歴史学研究にあたってはすべて適切で十分な史料批判が必要である(東大史料編纂所のデータベース整理でも、『平安遺文』の整理でも、実のところ、様々な誤記・誤整理が見られることに留意)。要は、真年・憲信関係の文献だから、とくに「厳しい批判」が必要ということではない。その一方、『旧事本紀』や『古事記』の各々の序文問題なども含め(拙見では、両書とも序は後世の偽書と判じる。後者は、稗田阿禮が非実在とみられる故)、偽造の記事・文書が仮に一部にあっても、史料全体を否定できないこともあることに留意したい。

 大川原氏は、須原祥二氏の研究やご自身の研究だけを基にして、「近年の研究では、『系図』(註:越中石黒系図のこと)は古くから伝わってきたものではなく、後世に作成されたことが確認され」と第二の論考(後稿)で表現するが、これは誤った主張・認定である。要は、真年が『系図』を書写し、「交替記」の書写にも深く関与したことについては、私もその通りだと確認するが、これまで確認されたのはそれだけのことにすぎない。
 真年という人間が『系図』を偽って造り出した、創出したという最も重大な立証が、須原・大川原両氏の論考にはまったく欠けている。飯田瑞穂氏の言を膨らませて、「系図家」とは系図を偽造・創出する者だという意味を勝手につけ、いわゆる世の風評をもとにして真年(ひいては中田憲信)に対して「系図偽作者の汚名」を負わせたと言うことである。「古くから伝わってきたものではない」ということも、明確に立証されていない。何を以て、このように言うのだろうか、極めて疑問である。
 次ぎに、大川原氏は、無雑作に「『系図』が、幕末から明治期の系図研究者の鈴木真年により作成された」と言い切るが、この「作成」が創作・造作の意味なら、これも誤った判断・評価である。氏は、第一の論考(前稿)で江戸期の藤兵衛光増兄弟の後裔一族の系図を紹介しており、利波臣・石黒氏として、上古から幕末まで脈々と続く一連の長大な系図体系だとしっかり認識していながら、この膨大な系図を、作業利益が殆ど考えられない真年がわざわざ創作・造作したとみるのである。ここに大きな矛盾があり、真年は何のためにこんな偽作活動をしたというのだろうか。現在に残された多くの著作のなかで、真年が『越中石黒系図』や利波臣氏に言及したものは、これまでのところいっさい管見に入っておらず、実際、利波臣・石黒氏について喧伝をした証拠もない*24
 大川原氏の史料発掘には裨益するところが多く、その学恩に対しては深謝するものの、上記二点については、論理的思考を欠く(ないしは、論理的な飛躍がある)という重大な誤りがある。そして、真年の研究者としての悪意認定を安易に行うと共に、その一方で真年の系図関係能力を過剰評価するものだとしか言いようがない。一例でも良いから、真年が系図偽造をしたという具体例を出していただくことを希望する

 飯田瑞穂氏がもつ「古代系図がここまで分かるのか」という感慨は、真年の師・栗原信充以来の系図収集に向けられた在野の系図研究者たちの多大な努力の蓄積とこれらの結果の実情を知らない飯田氏の感覚にすぎない。宮内庁書陵部に残る華族呈譜を見ても、下級武士の出身といえども、古代から長く続く系図を伝える家がかなり多い。もちろん、その全てが史実として信頼できるものかどうかは別問題であるが。多くの系図が幕末期以降に散失・滅失するなか、これまでに知られない新資料も時々出てきており、そこに歴史探究の楽しみもある。こうした様々な経緯と大きな歴史の流れの把握のうえで、総合的客観的な学問的判断を強く求められる。


 おわりに

 これまで鈴木真年などに関連して多くの方々にお会いして話しを聞き、様々な資料提供を受けたことを思い、改めてこれら学恩に対し深く感謝いたしたい。私は石黒秀雄氏から、「確実な史料を基礎にしてもう一度十分に検討して論及されることを希望する」という課題を二六年も前(本論考作成時から見て)に受けており、本稿はそれに応えようとするものでもある(本稿の内容は、利仁流藤原氏の出を否定することで、おそらく秀雄氏の意に反するものなのであろうが、誠心誠意で本件を手掛けたことで、気持ちの上でお応えすることとしたい)。

 一般論として、現存系図史料はほぼ九割方、系譜仮冒や様々な虚飾が見られており、厳しい目で史料検討をする必要がある。このことを、これまで常々実感してきた。だから、系図には、「その史料の性格をふまえた厳密な考証と検討が必要である」という大川原氏の言う基本的な立場にはまったく異議がない。飯田瑞穂氏が私宛の書信にも書かれるように、「史学は、史料によって過去の事實に接近しようとする學問で、すべての叙述は史料の裏付けを要することであり」というのも、まったくその通りである(ただし、この「史料」は文献ばかりではなく、考古遺物・遺跡や習俗・祭祀など様々な資料を含むものとしなければならないが)。
 だからこそ、史料批判にあたっては、的確な史料評価のうえで、かつ、厳しい論理構成が必要でもある。論拠の弱い想像論や安易な造作論を展開することは、科学的合理的な史学とはまったく逆方向の話である。また、史料における多少の誤記・訛伝をハナから排除するということでもない。ただ、系図研究にあっては関連する様々な資料(祭祀・地理や考古遺物なども含め「資料」と表現したい)をもとに、系図を合理的に校訂・編集することもあり、系図検討に際しては、これらの作業を「造作・創作」とは言わないものである。 

 最後に、飯田瑞穂、佐伯有清、石黒秀雄、磯貝正義の諸氏など、多くの関係者方々が既に故人となられていることについても、皆様のご冥福をお祈りすると共に、この約四〇年という研究歳月の重みを改めて感じるところでもある。
                            (平成29年〔2017〕3月下旬に主として記)

 最後に 石黒氏についての雑感  もあります。  


  〔註の続き〕 

*16 『真香雑記』に掲載の系図では、石黒氏の系図に限らず、掲載の記事・内容自体は孤書というわけではない。例えば、紀伊熊野の仲丸子氏の系図が『古屋家系図』記載の大伴連氏につながるものである事情などがあげられる。

*17 貴布祢城(木舟城)は砺波郡糸岡郷、現・高岡市(旧・福岡町)福岡町木舟にあり、砺波平野の北部、小矢部川右岸の微高地に築かれた平城である。周囲を深田で囲まれた三郭からなったとみられており、現在は、水田の中に郭の一部と思われる微高地が残るのみという。その規模は、「真香系図」の光清の譜文に見えるが、これは『越中古城記』の記事とかなり異なる。後者では、「本丸南北七十五間程、東西六十間程、二の丸南北五十間程、東西四十五間程、三の丸南北六十間程、東西三十間程」と記される。

*18 『越中石黒系図』の活字版は、磯貝正義氏の著書など、かなり多くの書に掲載されるが、一部省略のものもかなりあるので、全体としては『富山県姓氏家系大辞典』の巻末に記載のものが利用しやすい。それと本稿末尾に附載の「『真香雑記』所載の石黒系図」の記事を対照されたい。

*19 『池田家文庫藩政資料マイクロ版集成』が1993年に丸善から出版され、そのなかに藩士関係の資料がある。目録四冊、マイクロフィルム556巻という膨大なものである。そのなかに、石黒藤兵衛家も「先祖并御奉公之品書上」が記載される。

*20 現存する数多くの真年・憲信関係資料のなかで、石黒氏一族の系図がとりあげられるのでは、長谷川氏が最も多い。この系統は、尾張に遷住した石黒氏支流という系図をもち、石黒太郎光弘の子(世代等からみて「孫」の可能性もあるか)とされる二郎光時の流れであり、光時の六世孫の長谷川大炊助重行(永享八年十二月十日卒。重定の孫)が尾州春日井郡如意村に移遷したという。この辺は『諸系譜』(国会図書館蔵)第15巻及び第30・31巻の石黒・長谷川系図に見え、『尾張志』や『下伊那郡誌資料』に同様に見える。
 長谷川重行の後裔は尾張藩に仕えたり、尾張出身の前田家に従って加賀国金沢に移住した。『諸系譜』所載の石黒系図によると、長谷川重行の父を石黒越中守重之とするが、『遠江国風土記伝』によると、宗良親王が射水郡名古浦(旧・新湊市)の石黒越中守重之の館に興国三年(1342)から同六年にかけて滞在したとされる。但し、年代と石黒系図を照して考えると、この石黒越中守は重之の父の重定とした方が妥当か。
 長谷川重行はもと越中の南朝方であり、信濃宮(宗良親王)に忠があったと『尾張志』に記され、応永末期(同卅一年には既に尾州山田郡にあった)に宗良親王の系統の南朝皇族(尹良親王及び尹重王)の動向に応じ尾張国に至ったものか。この人の世代は、「越中石黒系図」の応安頃の光雄とその曽孫で長享頃の光任との中間に位置する。

*21 中世史料に現れる石黒一族としては、まず『東鑑』承久三年(1221)六月七日条に官軍に参加し降人となった「石黒三郎」が見えるが、実名は記されない(『承久記』も同じ。年代的には光弘の子くらいだが、系図に見えない)。石黒三郎について、秀雄氏は「惣領」とうけとり、当然記載があるべきこれが記載にないのは当該系図が偽作の疑いがあるというが、「武重氏系」にも承久の乱は記載がなく、三郎が惣領かどうかも不明である。次ぎに、建長二年(1250)三月一日条に、石黒太郎・河尻太郎が閑院殿造営に際し各々油小路面に築地・垣形を建てたとあり、『東鑑』に石黒氏が見えるのはこの二個所だけである。このほか、『鎌倉遺文』には寛元二年(1244)十二月の武蔵守(北条経時)から石黒弥三郎宛の文書も見える。
 戦国期には「武家家法V」永禄六年(1563)十月十二日に石黒弥左衛門尉吉冨、『信長文書』天正三年(1575)八月七日に石黒弥三郎が見える。「東寺百合文書」には、室町後期かという石黒太郎左衛門尉滋円からの書状があるが、系譜関係は不明である。

*22 金沢の石黒伝六家は金沢市の福久屋薬舗を営む商家で、先祖が木舟城主石黒成綱の一族で家老を務め成綱生害のとき殉じた石黒与左衛門光重とされ、「越中砺波郡石黒氏系」と同内容の系図をもつ。富山県立図書館蔵の「石黒氏略伝」所載の島村住、石黒清右衛門家も一族で、「木舟の城主石黒左近蔵人成綱の家老石黒清右衛門」と表記される。

*23 加越地方に残る石黒氏関係の系図として管見に入る主なものは、
 @富山県立図書館蔵(原本は高岡図書館蔵)の「石黒氏略伝」
 A金沢の石川県立図書館には、金沢藩家臣の系図集『諸士系譜』(津田信成著)があり、その巻一に「石黒氏系譜」が掲載。それを大正十四年に森田直吉が謄写と奥書に見える。
 B福光図書館蔵の「石黒家譜」。金沢市の福久屋石黒伝六家の家譜が原本で、福光史料採集に当たり、大正十四年に篠島久太郎が謄写と奥書に見える。湯原氏関係も含まれる。
 C福光図書館蔵の「享保十七年 先祖由緒並一類附帳」石黒三五郎。これも大正十四年に謄写。
 このほか、岩手大学所蔵の宮崎文書中の「石黒系図」や名古屋市石黒大介氏所蔵「尾張石黒家系図」などもあげられ、いずれも石黒光弘の後とされる。
 これら石黒氏関係の系図については、最初にあげた石黒克彦氏の著作『石黒一族の事典』もご参照のこと。

*24 真年が石黒氏について言及するのは、本文であげた『百家系図』に末期歴代五人の系図の掲載があり、これ以外では、その著『苗字尽略解』(明治十一年八月に刊行)に、利仁流藤原氏の一群のなかに齋藤、林に続いて「石黒 同越中人」と見えるくらいである(猶子や通婚で、石黒氏が林氏に関連するが、男系としては林氏同族ではない)。同書の武内宿祢後裔のなかにも、吉備氏の族にも、利波臣はあげられない。
 歴史上の事件・人物を取り上げて註をつける著『史略名称訓義』には、砥波山・倶利伽羅谷の語句があっても石黒光弘などは見えず、南北朝期・戦国末期にも石黒氏一族の記事は見えない。『越中石黒系図』に関しては、真年からの言及がまったく管見に入ってない。

 
 (2020.11.25 掲上)



 ※次の書信や所論も参照されたい。

   大川原竜一氏宛の書信

   石黒氏についての雑感
 
   下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」を読む

 

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