石黒氏についての雑感


 この二月初旬(2017年2月のこと)から下旬にかけての二十数日、今度こそ利波臣、石黒氏についての最終論稿を整理したいものだとの思惑で、古代から近世に及ぶこの一族の活動事績や系譜を集中的に検討してきた。関係者の皆様のご協力を得て、関係資料も随分集めて、これらに応じ検討が随分と進んだようにも思われる。
 ところが、実のところ、最後には石黒氏の全体は「八俣の大蛇」的なもののようにも思われてきて、中世武家とは性格がかなり異なる。多数の問題も、まだ残されている。本文としてまとめたもの以外に書き足りず、心に残っているのものを含めて、ここに別途、この関係での雑感を順不同で最後に記しておきたい。いわば、今後の課題としての問題意識である。

 まず、武道関係である。岡山池田家に仕えた初代の石黒甚右衛門が馬術の名人で、石黒流馬術の開祖であったという記事にあたり、この関係を調べたが、その後に続くこの馬術関係者は現在まで管見にはいっていない。その一方で、講談等の「寛永三馬術」の一人、向井蔵人忠晴が虚構の人物で、実在の人物としては石黒藤兵衛にあたるのではないかという見解も目にした。この場合の「石黒藤兵衛」とは、甚右衛門の長兄の藤兵衛光増にあたる可能性が大きそうだが、この者が紀州和歌山藩士で寛永十年(1633)あるいは同十六年に没しており、管見に入るかぎり馬術関係の事績が見えないから、どうして上記三馬術の一人に当たるとされるのかは不明である。
 次ぎに、彦根藩士の石黒氏である。この家は幕末期の石黒伝右衛門で知られ、坂本龍馬暗殺関係でその書状(会津藩士手代木直右衛門から石黒伝右衛門宛の書状)が取り上げられる。この者は明治になって務と改名し、初代福井県知事にも就任した。この家は名槍家として知られ、同家から商家に嫁いだ女性がもたらした槍先三個も知られる。所伝では、武田遺臣で家康の命により天正十年(1582)に井伊直政につけられ足軽大将とされた石黒将監を祖とするが、石黒将監の系譜は不明である。甲斐武田氏の家臣に石黒五郎兵衛がおり、第四次川中島合戦に参加し成瀬正一とともに諸角虎定の首級を取り戻している。
 江戸期の加賀藩では、石黒流弓術が行われたというが、詳細は不明である。

 江戸後期の江戸の刀工(装剣金工)に石黒派があり、初代政常(文政11年死去、69歳)を祖として、政美、政明などの名工が出た。江戸金工のなかでも屈指の一派を形成したといわれる。
 更に、千葉県銚子あたりに幕末の石黒関斎を開祖とする石黒流柔術(柔術の他、剣術、抜刀術、棒術、縄術などがある総合武術)がある。この石黒関斎の系譜・由来も不明であるが、古武術の流れを汲むようである。棒術などの古武道は、列島古来の山祇族の武芸伝統とみられる。幕末から明治にかけて奥村二刀流等武芸諸般の名人として著名な岡山藩士、奥村左近太がおり、その柔術は起倒流の石黒武左衛門に師事したとされる。
 これら武術に関して、なぜ石黒氏が関係するのかはよく事情が分からないが、考えられるのは山祇種族からの影響である。ちなみに、『和名抄』には射水郡に伴部郷があげられ、同郡式内社に久目神社があげられ、氷見市久目に鎮座して、大久目命を祀る。古来、久目部の後裔が、久目八ヶ谷を開墾して大久目村(池田村)に居住し、祖神を大和から勧請した神社と伝える。氷見市小久米(久目の北隣)には小浦城(池田城)があり、この城主小浦氏は三善氏を称し、三善為康の後(族裔という意味か)ともいうから、実際には射水氏の出と言うことか。戦国後期の小浦石見守一守は、上杉謙信、佐々成政、堀秀政などに仕えた後に松原斉安と号して、子孫は加賀藩前田家に仕えて存続した。
 砺波郡の式内社にも林神社があり、大伴・久米両氏の祖、道臣命を祀る事情がある。これら大伴部・久米部の系統(山祇族系統)には古武道を伝えた傾向が美作などで見られ、射水臣・利波臣の一族は倭建命東征にともに随行して越中に定着したことで、相互に通婚して共に古武道を伝えたものか。

 次ぎに鉱山関係の技術である。加賀国能美郡には、江戸期に金平村(現小松市域、木場潟の東方山間地)に十村役(庄屋相当)の石黒家があった。慶長年間から代々、十村役をつとめたといい、石黒源次は明和年間に金平鉱山(金、銅)を発見した。現在にまで『十村石黒家文書』(小松市の指定文化財)を伝える。この能美郡金平の石黒氏はもと隣の沢村に居たと言い、古代の越前に「足羽郡少名の人・利波清浜」が『大同類聚方』に見えるが、この一族との関連があるのだろうか。
 これに関連して、新川郡の金山谷城(現・魚津市域。北山城ともいい、松倉城の支城)の石黒氏支流が、出羽の院内銀山の地を経て角館の佐竹北家に仕えた(勘定役・用人をつとめた上級武家で、釆女正〔権兵衛〕直之が祖)という事情がある。既に金山谷に居た頃に、松倉金山(十四世紀に発見といわれ、江戸期にまで採掘)に関連して鉱山技術をもっていたのではないかとの見方も出ている。魚津市の松倉と付近の上市町には、虎谷金山、河原波金山や、下田金山(これだけが上市町)もあり、越中七金山といわれた。
 吉備氏一族が、金探索を主目的の一つとする倭建東征に随行しており、越道分遣隊の路程に残された利波臣同族の遊部君が飛騨の神岡鉱山付近に足跡を残したことと符合する。利波臣本拠の南砺市福光付近にも遊部の地名が残り、この後裔が中世・近世の越中に存続した(射水郡の赤祖父氏など)。遊部君は、『令集解』に引く古伝では、垂仁天皇の庶子の子孫と称し、葬儀関係の任務が伝えられるが、本来は「阿蘇+部」で、「蘇」の意味する金属(主に鉄だが、東国・北陸では金が多いか)を採取する技術を同族ともども伝えた可能性がある。「赤祖父」も赤渋(赤サビ)に通じる。

 更に、石黒氏の家紋の問題がある。この氏では、実質が利波臣姓であるほか、多く藤原姓、一部に橘の姓を称し、通称には藤・源・平の文字も用いられた。
 家紋はいくつか伝えられるうち、七曜、六ツ星曜、九や丸に石の文字、抱き茗荷もいわれる。この月星に絡む家紋は、月神・月星への祭祀をもつ山祇族系統か、それと通婚して血を伝えた少彦名神系統の末流諸氏に見られる。
 ところが、吉備氏及び、その同族の利波臣・射水臣や毛野氏の一族にあっては、海神族系の流れを汲む罔象女神、宗像女神、白山比売の祭祀やこれらに絡む観音信仰が見られたが、利波臣一族がなぜ七曜に関係したのかは不明である。石黒光弘の倶利伽羅峠での武勇譚は、これがただちに七曜家紋につながるかどうかは不審である。

 系譜や祭祀関係の疑問
 石黒氏には七流あったといわれるが、それが具体的に何を指し、分岐過程などの系図がどうなっているのかが不明であり、また、石黒氏一族(高楯、泉、福満)、石黒氏同族とみられる諸氏(井口、弘瀬、院林、水巻、太海、野尻、河上など。これらにどのような氏があるか)とも分岐関係が殆ど不明である。砺波郡池田荘の池田氏、吉田氏は同族か(池田氏は、角鹿国造など吉備氏同族か、久米族か)。利波臣志留志の子孫はどこにあるのかないのか。

 利波臣・射水臣や石黒氏一族が奉斎した神社、神にはどのようなものがあるか?
考えられるのは、
  砺波郡の荊波神社、高瀬神社、浅井神社、長岡神社、比売神社など。
  射水郡の射水神社、礒部神社、速川神社など。
                                               (2017.2.24、3.1に主に記述) 
                                    
 (2020.11.25 掲上)



 ※次の所論も参照されたい。
 
   下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」を読む

 

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