下鶴隆氏の論考「利波臣志留志−中央と地方の狭間」を読む

                                        宝賀 寿男



  

 今回も、富山の歴史研究家・木本秀樹氏に教示されたものであるが、古代越中の雄族・利波臣氏から出て中央官人になり、奈良時代末期の光仁朝に従五位上伊賀守まで累進した利波(砺波)臣志留志について、下鶴隆氏がビックリするような指摘をされているとのことで、私なりに検討を加えたものである。
 下鶴氏の上記論考は、栄原永遠男編『古代の人物B 平城京の落日』(清文堂出版、2005年12月刊)に収められているが、これまであまり注目されなかったようで、ようやく管見に入ったものである。その所論展開のポイントは、これまで「越中石黒系図」に見えないと受け取られていた利波臣志留志が、実は同系図に見えており、「諸石」と記される人物にあたるというものであって、砺波郡領家利波臣氏本宗につながる一員であったが、嫡流から外れた存在で、その事情が中央官人としての立身をはかることなどの行動につながったという問題提起である。

 
  

 系図に限らず、現在に伝わる古文書は、何度も転写がなされるものが多く、その過程で意識的無意識的を問わず誤記・誤読に基づく変改がなされることがままある。「越中石黒系図」もそうしたものであれば、そこには原型と異なる形で現在表示される文字があっても不思議ではない。このような目で見たとき、下鶴氏は、同系図に「諸石」と記される人物こそ、利波臣志留志に当たると看破する。すなわち、「諸石」はシルシと読みうる「誌石」の誤記であるとして、両方のくずし字が酷似すること、諸石と志留志との活動年代が合致すること、本宗家嫡流との確執や道鏡のあった中央政界の動向などをあげる。
 結論から先に言えば、これは的確な分析と妥当な立論だと考えられる。いままで多くの学究・研究者が「越中石黒系図」や利波臣氏を取り上げてきたが、下鶴氏のような指摘はまったくなかった。それだけ、わが国古代史学界の系図学(系譜検討方法)の未成熟性を示すものといえるのかもしれない。
 利波臣志留志が史料に見えるのは、米三千石を盧舎那仏知識に献上して、無位から外従五位下に叙せられた天平十九年(747)九月に始まり、伊賀守に任ぜられた宝亀十年(779)二月までの約三十年間であるが、越中員外介として同国の砺波・射水・新川三郡の東大寺田などの検校を行ったという事績には、利波臣という出自を疑わせるものはない。また、系図には長兄であげられる虫足が「越中国官倉納穀交替記」に砺波郡少領として天平勝宝三年(751)に見え、虫足の長子の真公が同記に同郡大領として宝亀二年(771)に見えることと年代的に符合する。
 誌石が志留志と書き表されたことは、当時、往々にしてありえたことであるが、その前に、「誌石」の訓みが難解だとして、本人自身が中央出仕の際に「志留志」と表示した可能性も考えられる。「誌=志留」というのも、文字が通じる表現である。いずれにせよ、これが他にあまり見ない名前であったことから、系図転写が何度か行われた際に「誌石」が諸石に書き誤られた可能性が十分ある。

 私自身、長年系図と古文書の研究を続けてきて、学界に通行する文字が実は誤記ないし誤読であると考えた例がいくつかある。そうしたものとして、『万葉集』の防人歌に見える防人の奉部与曾布が実は奉部与曾布であること(「防人今奉部与曾布の生涯」、『姓氏と家紋』第51号〔1987/12〕) 、因幡国の伊福部臣の系譜『因幡国伊福部臣古志』に見える先祖の武口命と解されている者が「武口命」すなわち物部氏の祖・大矢口宿祢であること(『古代氏族系譜集成』1260頁)、があげられる。
 上古代ないし古代において、同一人が異なる表記で現れることは、神の名にかぎらず往々にして見られるが、これが意外に気づかれず、様々な混乱として受け取られている。私は、蘇我臣一族の系譜検討を通じて、馬子宿祢の長子とされる法興寺の司・善徳臣が一般にその兄弟とされる倉麻呂(倉摩呂、雄当、雄正子。倉山田石川麻呂や連子、赤兄などの父)と同人であり、さらに系譜不明とされる推古三一年紀に見える征新羅大将軍境部雄摩侶臣にあたることを知った。その子に御炊朝臣の祖とされる大炊古(志慈)を持つと伝えるからであり、蘇我臣の旧姓が境部臣である事情から導かれたものでもある。大化前代でも所伝を保持する氏族により、こうした表記や所伝の違いが生じており、これは蘇我蝦夷が毛人とも書かれ、豊浦大臣とも呼ばれたこと、その子の入鹿が鞍作、林太郎ともいうことに通じる。
 奈良時代でも、利波臣志留志と同じ頃に活動した佐伯今毛人が今蝦夷、若子とも記された例があるから、表記が固定であると考えないほうがよい。その兄の佐伯真守は、麻毛流・麻毛利とも書かれ、同族の佐伯伊多智が伊多治・伊太智・伊多知・伊達・伊太知とも書かれ、同じく佐伯三野が美濃とも書かれるという例もあるから、訓みに漢字がどのように当てられるかという問題でもあろう。

 
  

 こうした検討を通じて、一部から疑問の出されている「越中石黒系図」の信憑性が更に高まったものと私には考えられる。同系図の伝来・来歴については、いまだ明らかになっていないが、鈴木真年翁はよくぞ発掘したと思わざるをえない。そして、彼自身も、その筆跡をみる限り、「諸石=志留志」とは思わなかったと考えられる。
 ついでに、利波臣氏の系譜について記しておくと、「越中石黒系図」では、武内宿祢の子の若子宿祢の後とされるが、これには仮冒があり、『古事記』孝霊段に吉備同族であって、日子刺肩別命の後で五百原君(廬原国造)や角鹿の海直(角鹿国造一族)と同族とするのが妥当だと最近まで考えていた。ところが、吉備氏族とは割合近い同族であっても、むしろ能登国造の支族であって、射水国造や遊部君(垂仁天皇の庶子・円目王の後と伝える)と近い同族関係にあることが、先祖の名(努美臣)、居住地、気多神・豊受大神(櫛稲田姫、瀬織津姫神、白山神)などの奉斎神という事情から分かってきた。
 そして、その実際の先祖は、海神族たる磯城県主族(三輪氏族)の流れを汲む彦坐王の子の大俣王(大幡主命、大若子命)・小俣王(丹波道主命丹波・但馬・因幡などの諸国造の祖)兄弟かその末弟で、志夫美宿祢王となる可能性がある。志夫美宿祢王(ないしは大俣王と同人)は、垂仁天皇の皇子とされる祖別命(小槻山君の祖)、息速別命(伊賀国造の祖)、五十日足彦命(春日山君・高志池君の祖。越後の五十嵐氏・山吉氏などの先祖)、磐衝別命(羽咋国造・三尾君の祖)とも同人であって、この系統は伊賀・近江から加賀・能登・佐渡・越後にかけての地域で繁衍した。その契機は、志夫美宿祢(かと考えた人物)が垂仁朝に兄・大幡主命(伊勢の度会神主の祖でもある)とともに、越の「阿彦」という凶族を討伐したことにあった。主役の大幡主命の後裔ももちろん、北陸道で繁衍し、その第一の大族ともみられる越国造・道君(加賀国造)や、高志深江国造、弥彦の高橋祝などとなった。
 これまで、越後から但馬・因幡にかけての日本海沿岸地域の開拓史とそれを担った氏族についての検討がほとんどなされてこなかった。それというのも、応神天皇より前の時代の記紀の記事が簡単に切り捨てられてきたこと、国宝「海部氏系図」や「度会氏系図」などの偽造系図が尊重される一方、多大な示唆を与える「越中石黒系図」など鈴木真年翁の収集系図が粗略に扱われたか検討が浅かったかなどの事情に因るものであろう。
 ここ数十年を取り上げてみると、丹後地方の考古学や越前・加賀・能登・越中あたりの前期古墳に関して新知見が相次ぎ、これら地域の開拓史について示唆大きいものとなっている。実のところ、「丹後王国」とか「異系統から大王位を簒奪した継体天皇」とか安易に言って、それで済むものではない。神祇や民俗・古伝などの多視点からの研究も併せて、日本海沿岸地域の上古史研究が進展することを望むものであり、それが継体天皇の出自や基盤を解明するものともなるが、下鶴隆氏の本論考もその一助となるものと高く評価する次第である。
 
 (07.6.1 掲上。7.12補訂)
 
 ※本考察は、宝賀寿男著『越と出雲の夜明け』にも取り入れられ、同書に利波臣をめぐる検討があるので、ご関心の方はご参照下さい。


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