鈴木真年の別名での系図研究業績
                    
宝賀 寿男
                  
                               

 
最近、鈴木真年の別名と新発見の著作が分かってきた事情があり、これに関連しての検討を記すものである。
 
 


1 はじめに

 インターネットの力は凄い、史料所蔵館のデジタル・データベース化はかなり進展している。というのが、私の最近の感触である。というのは、次のような事情がある。

 私は一九八〇年代の前半から明治の国学者・系図研究家の鈴木真年及び中田憲信の収集した系図関係史料を探索してきた。それらも踏まえて、一九八六年春に編著『古代氏族系譜集成』を刊行して、鈴木真年(生没が1831〜1894)の多大多彩な業績を整理し、更に一九九一年には『鈴木真年伝』の復刻版(大空社刊)の刊行に際して、先の整理を充実させて追補の記述をした。このときまでに、現在まで伝えられる多くの真年の編著本・書写本や関係書をほぼ整理したつもりでいた。
 その意味で、私が見つけだした当時の最後が天理図書館所蔵の『朝鮮歴代系図』である。同書の写しを佐伯有清博士に提示したところ、真年が帝国陸軍の参謀本部に勤務していたとき(1880〜85の期間に陸軍勤務)の作成ですねという話があった(よく見ると、五、六枚とごく僅かだが、同書の記事が参謀本部の名が端に入った罫紙に記載されてあった)。
 
 ところが、最近までの土佐朋子氏の論考「今井舎人と鈴木真年」(汲古書院の雑誌『汲古』第68号所収)などや大川原竜一氏の「利波氏をめぐる二つの史料」(『富山史壇』163号所収)などに大きな教示を受けた。具体的には、早稲田大学図書館に所蔵の『真香雑記』の著者の穂積真香(穂積臣真香)が鈴木真年(穂積臣真年)の別名であることがわかるとともに、同書には私が永年探し求めてきた真年収集の古代氏族系図、仲丸子連姓宇井氏の系図や石川朝臣氏の系図など他見のない系図が記載されていた。『真香雑記』の記事によると、『越中石黒系図』の原蔵者らしき石黒義知が、真年が生まれてまもなくの天保十五年(1844)まで備前岡山に存命していたというから、真年はその遺族関係者から当該系図を入手したと推察される。こうした貴重な情報を含む当該古典籍の内容が全て、デジタル・データベースで閲覧でき、ダウンロードできるのだ。もう、びっくらポンの時代である。
 先の一九八〇年代前半頃には、真年の編著本などはイチイチ現地へ行き、自分の目で見て全てを書き写してこざるをえなかった。それが、(株)雄松堂出版から真年の『百家系図』や憲信の『諸系譜』がマイクロフィルム化されて販売され(草稿的性格がより強い『百家系図稿』は付箋などが多くあって、マイクロフィルム化が不能だと、当時、判断された事情もある)、国会図書館などで簡単に閲覧・コピーができるようになったときにも驚いたが、今回は私にとって二五年超の期間を置いて見つかっただけに、たいへん嬉しい驚きであった。そして、ネット及びPCの威力を痛感したものである。

 
2 鈴木真年の様々な別名

 上記復刻版刊行当時までに、鈴木真年には様々な名をもって著作を刊行してきた事情が分かっていた。『国書総目録』でも、鈴木竹亭、鈴木真年、今井舎人、穂積真年と別人のようにみられて項が分けられていた。このほか、真年の著作記事から、新田源朝臣武智良、源牟知良、鈴木松柏、鱸真年などの別称も知られた。『新田族譜』には、「初称今井源太愛氏」と記される。これらに加え、土佐朋子氏及び大川原竜一氏の研究の成果、更に別の名前も称していたことも分かったと発表された。
 具体的には、上記の穂積真香のほか、新田今井舎人、新田今井舎人源朝臣愛氏、穂積臣真橘、源貴義、鈴木舎人、穂積使主真香などという名(以上は順不同)である。

 そして、土佐朋子氏の上掲論考では、鈴木真年の新資料として、@早稲田大学図書館所蔵『真香雑記』、A『誓詞帳』『門人姓名録』(『平田篤胤全集』に所収)、B天理大学附属天理図書館所蔵『大嘗会神饌調度図』、C歴史民俗博物館所蔵旧侯爵木戸家資料『大江御家 神別 皇別 二冊之内上巻』、の四つが提示される。
 土佐氏は『懐風藻』研究から進まれ、大川原氏は『越中石黒系図』の研究のほうから進まれたという事情は異なれ、多彩な活動をした鈴木真年翁が様々な側面から検討されることは幸いである。真年の活動は幅広く、かつ多種の古典籍を蒐集していたことは、剃髪時の名前を付した「不存蔵書」の印のある書物が早稲田大学図書館にも何冊かあるほどである。
 
 真年の著書『列国諸侍伝』や『松柏遺書』(ともに静嘉堂文庫所蔵)には多数の社家系図名が記されており、それらを幕末期頃に真年が実見あるいは入手していたことを窺わせるから、多くが散失したといわれる真年蔵書のなかにあった可能性がある。例えば、次のようなものがある。
  摂津国坐摩御巫家系図  凡河内宿禰
  吉備津宮検校大公文家系図  品遅君
  下総船橋神家冨氏系図  伴冨宿禰
  越後国沼名川社家榊氏系図  道公
  武蔵国阿伎留社神主阿留多伎氏系図  玉作部 (以下にも多々あるが、省略
 これらのうち、沼名川社家榊氏や阿伎留社神主阿留多伎氏については、私が現地に足を運び神主家に臨んで当主の方と応対したが、ともに簡単な歴代だけの文書が残るだけであった。阿伎留社に残る歴代書きには、武蔵国造同族で土師氏の出とあるから、玉作部姓にはなっておらず、真年はどこで見出したのかと不思議に思っていた。そして、真年関係系図を新しく見つけだせないまま、二十五年超の歳月が経過してきて、半ば諦めていただけに、今回の新見は大きな喜びであった。
 
 土佐・大川原両氏の検討成果を受けて、ネット検索を含む様々な探索・調査を試みたところ、更に真年関係資料について新たな知見があったので、以下に調査事情と検討結果をあげてみる。
 
@国会図書館所蔵『東極雑記』
 常陸の国学者中山信名の著書を穂積真香が文久三年(1863)三月廿九日に筆写したもので、全98丁の最後に「右三冊者以水戸栗田寛之蔵本写了」とあり、原本にない目録を穂積真香が補って書き入れたことも記される。実に丁寧に綺麗な文字で筆写されたことが分かり、この辺は静嘉堂文庫に所蔵される讃岐の『綾氏系図』の真年写本(温故堂文庫本を書写したもので、静嘉堂には同内容の色川三中本もある)からも知られるが、改めて真年の史料に向かう姿勢を認識した次第でもある。
 同書中の印記には、「津幡之印、残跡庵蔵書印」があるが、「残跡庵」とは奥村繁次郎(生没は1873〜1919)のことで、彼は御徒町で焼芋屋営みながら古典籍の収集に努め、古書店を開業、のち文筆業に転じていくつかの著作があるも、晩年は占い師で生計を立てたといわれる(この辺は、ネット等による情報)。

 『東極雑記』には、目録以外はとくに真年の書込みはない。もとは中山信名の著書だけに古代氏族についての新知見はなかったが、常陸の地名・人名・氏や神社等が取り上げられ、簡単な説明が付される。系図では、三善姓飯尾氏支流の一部(第36丁)が記されるくらいであるが、私には、「橋本祢宜」(第52,53丁)の記事が興味深いものであった。そこには、本姓は中臣氏で、「古ノ中臣部ト見エタリ」とあり、鹿島神宮の廿人社家のなかで、鹿島郡の下生村の橋本(鹿島神宮の西方近隣、現・鹿嶋市宮中のなか)という処から起こったことが見える(『姓氏家系大辞典』にもほぼ同旨で記載あり)。もっとも、同書の最初に記載があるように、伴部郷(今の茨城郡友部村)には「友部青柳水戸橋本……青木」などの地名があるから、常陸の橋本氏の系譜は諸流あるのかもしれないが、現茨城県知事の橋本昌君になんらかの縁由があったものか。
 印記の「津幡之印」は不明なものの、その後に「残跡庵」の所蔵となった経緯が分かる。
 
A筑波大学附属図書館所蔵の『本朝百家系圖』
 上記復刻版では、私は真年の著作・筆写関係として、『諸氏家牒』『本朝百家系図』及び『斎部宿祢本系帳』を既にあげておいたが、同図書館のネット掲示の整理が興味深いので、以下にあげる。
 そこでは、『本朝百家系図』について、「穂積重年 [写], 嘉永元-2 [1848-1849]」とされ、「2巻2冊 (1帙入)。書名は目首より。[前篇]の奥書に「右者以田畑氏蔵本令書写」「嘉永元年」「穂積重年」とあり。後篇の奥書に「後篇一巻者以田畑氏蔵本令書写」「嘉永二年」「穂積重年」とあり。全[147]丁 ([前篇]: [101]丁, 後篇: [46]丁)。墨書の丁付あり。墨書, 朱墨による書き入れ, 修正あり。後篇に紙片(23.8×5.7cm)の挟み込みあり。印記: 「深川文庫」(鈴木真年), 「不存藏書」」(なお、ネット記事は「。」ごとに改行)と見える。

 実のところ、「穂積重年」とは、当時でも真年関係者とは思ったが、真年その人とは思っていなかった。筆跡も、私の見知っている真年のものとは異なるとみたからである。これに加え、東大史料編纂所に所蔵の『幕府諸家系譜』全四〇冊が、「田畑吉正〔喜右衛門〕手写」、「(穂積重年旧蔵).(印記)不存蔵書,砂礫蔵書」と整理されている。「不存」とは、真年が若いときに剃髪して(年譜によれば、十九歳のとき、1849年に剃髪)、名乗った名前であることに留意される。また、同所所蔵の謄写本『宇都宮系図』が原蔵者が「鈴木真年(東京府牛込区)」で、「(弘化5年3月 穂積重年令写)」(弘化5年は1848年)とも見え、村岡良弼原蔵の謄写本『船橋文書』にも「(弘化4年7月 太神官神庫本を穂積重年令写)」と見える。しかも、これがもとは「不存蔵書」であったことは、同書に押された印から分かる。『船橋文書』とは船橋大神宮関係の文書であり、同社が所蔵の文書(別所で保管)のなかには、「船橋御厨六ケ郷田数之事(応長元年・1311年に作成した文書,1847年に穂積重年が模写したものが現存)」がネット記事のなかに見える。
 これら諸事情に加え、次ぎにあげる船橋大神宮関係の資料・考察から言っても、「穂積重年=鈴木真年の近縁関係者か同人」としたほうがよいと思われる。1847年当時、真年はまだ十七歳であり、このころには病弱で、嘉永二年(1849)の十九歳まで静養で熊野に行っていたとの記事が真年伝の年譜に見えるから、これが本当なら別人説に傾く。その場合には、重年は真年より若干年長なのかもしれないが、両者の関係は不明である。

 穂積重年の名では、国会図書館所蔵の『和氣系圖』(国宝指定の円珍系図と同じ)が1849年書写であり、同館ではネット記事の「国立国会図書館サーチ」には、「原奥書に「此之本書ハ三井唐院御庫有之従法明院傳寫之者也 天保四巳年十月 寳静」とあるものの写。奥書に「右和氣系圖一巻者以伴直剛之蔵本令摸写実後世亀鑑也不可出【コン】外 嘉永二年己酉歳十月二日 穂積臣重年」「印記に不存藏書」とある、と記される。
 まだある。筑波大学図書館では、明らかに真年筆跡であって、同内容の書が東大史料編纂所にもある『諸氏家牒』について、「製作者不明」とし、次のように記す。
 「上, 中, 下の表紙見返しに「門舎人穂積臣探湯麿抄之」等と書かれた墨書あり。
中の79丁ウラに「文久三年十月廿一日以或家本写之穂積真香」, 下の14丁ウラに「慶応四年五月十日以請川大輔之家本写之鈴木荘司穂積重年」,下の40丁ウラに「慶応四年五月十九日写切之鈴木荘司穂積重年」,下の47丁ウラに「明治元年十二月十一日以三河國御油在御馬村人鈴木静衞光重本繕写了熊野鈴木荘司穂積真年」,下の66丁ウラに「明治元年戌辰十二月廿八日熊野三所文殿預無位穂積臣真年」等とあり」、「印記:「穂」(鈴木真年), 他1印あり」

 これら諸事情でも、「重年=鈴木真年」ではないかとの疑いを強く生じさせる。とくに、「慶応四年(1868)五月十日」に「鈴木荘司穂積重年」が紀伊の「請川大輔之家本」を写したとの記事には留意される(請川氏は、紀伊国牟婁郡請川邑より起る熊野本宮の神官)。『新田族譜』などに見える鈴木真年一族の関係図を見ても、ほかに「重年」に該当しそうな人物は見当たらない。
 なお、幕末の国学者の鈴木重胤と鈴木重年との関係も不明である。重胤のほうは、生没が1812〜1863、淡路生れで、大国隆正に師事し、平田篤胤没後の門人ともなって篤胤学の継承・大成につくしたが、『日本書紀伝』(全30巻)の古代史注釈に専念するようになって篤胤学批判をつよめたことで、篤胤の女婿・平田鐵胤(銕胤)と対立し、何者かに江戸で暗殺されている。

 
5 船橋大神宮の検討

 船橋大神宮とは、千葉県船橋市宮本(JR総武線の船橋駅の東南方近隣で、京成電鉄の大神宮下駅の北東隣)にある古社で、旧社格は県社であり、『延喜式』には下総国葛餝郡の意富比神社の名で掲載される。『三代実録』には、貞観年間に神階が従五位下から従四位下まで昇位している記事がある。祭神は、天照皇大御神を主祭神とし、万幡豊秋津姫命・天手力雄命が配祀される。
 この宮司家が当地の千葉氏系の豪族富氏であり、現在でも千葉姓に改名し、同族が宮司をつとめている。この系図が先にあげた「下総船橋神家冨氏系図  伴冨宿禰」ということになる。「同神宮には中世の文書が多数保持されていたが、明治維新時における船橋の戦いで社殿と共に焼失してしまい、現存しているのは……数点のみである」というから、戊辰戦争での焼失が惜しまれる。鈴木真年は、その焼失前に「冨氏系図」を見ていたことになるから、この意味でも穂積重年に重なりそうである。また、神楽(市指定無形民俗文化財)と秋の例祭として行われる奉納相撲の歴史が古いことにも留意される。
  (以上は、ネットのWikipedia情報に拠るものがかなりある。多謝
 
 さて、この富氏は、「千葉氏系」とは言っても、頼朝創業に大きな力となった千葉介常胤を出して桓武平氏を称した千葉氏ではなかった。古代の千葉国造の流れということである。千葉国造は「国造本紀」には記載がないが、下記六国史や真年・憲信関係の系図には見えており、その系図には初代国造は武多乃直で、応神朝に千葉国造に定められたとある。房総一帯に同族が多く分布する海上国造の祖、五十狭茅宿祢(神功皇后紀に見える)の子ないし孫と位置づけられる。武多乃直の後裔は大私部直・大伴直となったと見える。
 大私部直の流れでは、延暦廿四年十月紀に外従五位下の叙位が見える「千葉国造大私部直善人」がおり、大同元年正月には上総大掾に任じている(ともに『日本後紀』)。その子孫から武蔵の検非違使となって大里郡に住んだ幹成が出て、子孫は武蔵七党にも数える私市党(私党)となった。源平争乱期以降に活動が見える私市、熊谷、河原、久下などの中小武家集団であり、系図は『百家系図稿』などに見える。
 大伴直のほうの流れが伴富宿祢で、後の富氏になった。『日本後紀』弘仁二年三月六日条には、「安房国人正六位下大伴直勝麻呂に姓を大伴登美宿祢と賜ふ」とあり、この記事の「安房」が正確な表記ならば、下総のと同族であったのであろう(「登美」の地名は房総には見当たらないが、下総国印幡郡美郷が登美郷の誤記という説がある)。武多乃直の兄の長止古直の系統たる上海上国造の流れにも、「大伴登美宿祢」が系図にあげられる。ともあれ、五十狭茅宿祢の後裔の二系統に「大伴」を名乗る氏が出たことに留意される。意富比神社の由来について社伝では、倭建命東征のおりに創祀で、景行天皇東国へ御巡幸の折には、旱天時の慈雨を倭建命が祈願して成果を得たという事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜ったといわれる。
 古代の大伴部には、軍事奉仕の靱負大伴部(大伴連など)と供膳奉仕の膳大伴部とがあって、東国に大伴部が多いのは、『高橋氏文』にも見える安房での景行天皇に対する服属儀礼の一つ、供膳奉仕儀礼に由来する。海上国造の同族の安房国造の初代大滝直にも、膳大伴直を負うと系図に見える。あるいは、上記の勝麻呂は、大滝直の後裔にあたるものか。
 また、当該供膳奉仕儀礼に参加した武蔵国造一族では膳大伴部となって奉仕した八背直が「大部直」(オホトモの直)の祖となり(学究の皆さんは、なぜか「丈部」という表現が好きで、これと混同するが、職掌が別物で明らかに別氏であり、誤り)、同様な知々夫国造の一族にも大伴部があった。

 最近、沼津で高尾山古墳が発掘され、その保存問題をめぐって議論がかわされるが、この古墳被葬者こそ『高橋氏文』に記載の物部氏一族の意富売布であり(駿河国造、遠江国造の祖でもある)、その子の豊日乃連(親子で同氏文に登場して、景行巡狩の随行が記される)の子孫には、常陸の久自国造(久慈郡が領域)とか膳大伴部となって奉仕した大部造、大部首(『姓氏録』未定雑姓和泉)がある(中田憲信編『各家系譜』第六冊などに系図が所収)。大部造の流れからは、支族が武蔵北部に分かれて、武蔵七党の有道宿祢姓児玉党が出た。支流は武蔵から安芸国豊田郡、次いで防長に遷住して毛利家臣になっており、明治に華族に列した児玉源太郎家など二家も、その末流であって、宮内省に先祖からの系譜を提出した。

 こうした経緯を鑑みると、上記「意富比神社」の「意富比(オホヒ)」の原義は、これまでの説の一つにあるように「大炊」に違いなく、「大炊の意で御饌都神、御食津神(食物神)とする説」(『下総荘園考』や菱沼勇氏の『房総の古社』)が妥当である。常陸や房総にも分布が見える「意富氏(多氏)の氏神とする説」(大場磐雄説)は誤りである。東国諸国造のうち、武蔵国造や海上国造などは天孫族の出雲国造の分流という系譜を伝えており、それは誤りではないが、正確には出雲国造の同族、物部氏の初期分流であった。天孫族の遠祖神は太陽神でもあり、日神祭祀があったから、「大日神」でも間違いではないかもしれない。意富比神社は永禄十年(1567)の禁制に船橋の天照大神宮と見え、『類聚三代格』巻十六所載の承和二年(835)六月廿九日の太政官符には「下総の太日河に渡船を増置」と見える事情もある。渡船は浮船であり、これがすなわち船橋で、地名の起源になったとみられると菱沼氏は指摘するから(渡船が船橋に代わったともいう)、太日と船橋のつながりがわかる。『東鑑』文治二年(1186)三月条に「船橋御厨」の名が見え、これは「夏見(夏目)御厨」ともいわれたが、「夏見」は「菜摘」の意といわれるのも、「大炊」につながる。
 ちなみに、北海道の函館付近にある北斗市(旧亀田郡大野町)にも蝦夷地最古級の神社である意富比神社があって、明治元年の箱館戦争の際には、五稜郭へ向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊と、阻もうとする官軍藩兵とが遭遇戦となり、この神社境内を中心に戦闘がなされた。同社は、『神道大辞典』にも掲載され、大日靈尊(=天照大神)を祀る。

 志賀剛氏は、船橋のほうについて、「牒は覆宮塚に触れているが、宮司によれば、これは宮司の富氏の千葉氏代々の墓であるという」と紹介する(『式内社の研究』第六巻)。この塚は大神宮境内にある円墳らしき墳墓で、千葉国造一族のものだったか。
 
 ここまで、鈴木真年とそれに密接に関係する人々や事項を多面的に見てきたが、『鈴木真年伝』の所載記事よりも早く、真年が「穂積重年」として十代後半から活動していたのかもしれない。実のところ、両者が同一人だという心証はまだ定まっていないが(皆様はどう受けとられるでしょうか?)、一応、両者が同一人だとしても、ひどい誤りではない、くらいに考えておきたい。

 
6 尾池誠氏及び中田憲信のこと

 関連して、尾池誠氏及び中田憲信にも触れておく。

 私が真年・憲信の系図も含めて検討・探索していたが、その成果としての『古代氏族系譜集成』(1986年4月刊)の刊行後に、佐伯有清氏の著作から、並行して真年探究をされていた尾池誠氏の存在を知った。その著『埋もれた古代氏族系図−新見の倭王系図の紹介−』(1984年12月刊、晩稲社制作)は、当時、国会図書館に所蔵されていなかったので(現在は所蔵あり)、ご本人に連絡をとり、1986年九月下旬に御贈呈いただいた。全体が74頁の私家本に近い薄いもので値段もつけられていないが、真年研究の先駆けの重要な著作として、明記しておきたい。同書には、指摘物や所在等がまだ私に分からない系図がある。
 尾池氏は、刊行の十年近く前にこれら系図を発見し、「その信憑性を確かめることに長い年月を費やしてきた」と記しており、拙著『集成』刊行後からでもすでに三十年ほどの経過となるから、真年研究も合計で四十年ほどとなる計算である。実のところ、尾池氏の言う「新見の倭王系図」とは、右京諸蕃の松野連の先祖の系図(『集成』1564頁参照)であり、拙見では信頼性を置きがたいという評価をしているが、ほかの部分では見るべき点が多い。

 尾池氏の指摘の主なものだと拙見で考えるものには、次のようなものがある(順不同)。
○国会図書館所蔵の『諸系譜稿』(尾池氏は「稿」を付す)は、「鈴木真年と親交のあった中田憲信が、おもに鈴木の蒐集本をさらに筆写したものである。そのため、『百家系図稿』と重複する系譜が多々収録されている。その上、鈴木が考証加筆した系図の再写本である場合が多く、原本の姿を見きわめるためにはよほどの慎重さが必要となる」と指摘する。(下線部は拙見による
<拙見> 『諸系譜』が重複して掲上するのは、『百家系図稿』だけではないし、憲信が独自に蒐集した系図も各種、含まれる。尾池氏も「鈴木が考証加筆した系図」と言うように、真年は様々な資料に基づき校合・修補した系図をその著作に掲載することがあるが、これは、「系図造作」とか「偽作」「創造」とは言わないことに注意される(この辺を系図知識のない方々は知らないで、非難しがちである)。

○真年が蒐集して「現在その内容を知ることができる古代氏族系図」の名が列挙されるが、所蔵の場所・所収著作が示されないので、私には具体的にどれかが分からない系図、所蔵場所が分からない系図がいくつかあるので、これらをあげると次のようなものである。
 縣連系図(県犬養連のことか?)、猪使連系図、新田部宿祢系図、牟義公系図、息長真人系図、六人部連系図、当間(当麻の誤記)真人系図、丹波朝臣系図、釆女朝臣系図、大隅忌寸系図、守部宿祢系図、谷宿祢系図など。

 実のところ、この辺をその当時にお尋ねしておけば、と今は残念に思っている。『真香雑記』については、尾池氏もこれを承知していなかった。

○真年が「確かに蒐集したにもかかわらず、その後散逸してしまって行方がわからなくなったものとして」、三宅連系図、箕氏裔麻田氏系図、肥宿祢系図などを尾池氏があげるが、その根拠は知られない。
 尾池氏が関東大震災で真年の家宅が全焼し、彼の蔵書はみな灰燼に帰したと表現する。

○真年の筆蹟だと指摘するのは、利波臣氏の系図や、東大史料編纂所の惟宗氏系図であり(これらは、私も同意見)、富士浅間神社の「和邇部氏系図」も、栗原・真年により発見されたもので、中田憲信によって写し残される。
→たしかに中田憲信編の『各家系譜』に和邇部氏の系図が所収されるが、私の調査したところでは、栗原・真年の発見だとは分からない。男爵大久保春野の呈譜(明四〇・十・九)がそうであるが、もと神官であった同家に伝わるものだけが本来の内容なのかが、分からないということでもある。
 
 なお、国会図書館には、橋爪貫一編、鈴木真年校正の『外史訳名. 地名人名官職之部』(1978年刊)という書も所蔵される。
 また、尾池氏も上記で言うように、国会図書館には、中田憲信が編纂し、主に憲信が執筆し、鈴木真年自筆部分なども挿入される『諸系譜』という系図集がある。長い期間、鈴木真年の著作として同館が整理していたが、今ネットで確認してみると、真年・憲信の著作にされずに、編著者が不記載のまま同館の所蔵書として書名があげられる。これは、真年の著作とするよりも不当な取扱いであり、早急に是正を求めるものでもある。ちなみに(株)雄松堂出版がマイクロフィルム化をしたとき、それに関連して作成した「『諸家系図史料集』解題目録」には、縷々経緯を記した上で「本書は中田の編纂と言える」とし、「国会図書館所蔵 『諸系譜』 中田憲信編」という表題とする。これが、適切な対応であって、いまこのように通行している事情もある。国会図書館担当者の見識を疑うものである。

 中田憲信は真年より若干年下で、平田同門、系図研究の同志であり、本稿では簡単にしか触れていないが、別途、本HPで憲信を取り上げて記述しているので、是非そちらの「中田憲信と『南方遺胤』」の記事も参照されたい。
 
 (2016.1.22 掲上。その後、ごく若干の補訂あり)


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