南北朝時代頃の美濃斎藤氏


 
  室町期の美濃では、守護土岐氏の一族に次ぐ大族は守護代を務める斎藤氏であり、のちに戦国期になって山城守秀龍入道道三がこの家を乗っ取ったことでも有名である。その系図は越前の斎藤の分れで赤塚斎藤氏と呼ばれる一派とされるものの、南北朝争乱期ごろの歴代の人名がはっきりしない。太田亮博士の『姓氏家系大辞典』でも赤塚流の左衛門尉親頼を先祖とするが、親頼と越前守利政(利永の父とする。土岐頼益の執権)の間の歴代が不明と記される。一般に、ほぼ異説が見られないのは、室町中期の帯刀左衛門尉利永以降の系図部分である。
  それが、「百済王三松氏系図」を鈴木真年翁編の『百家系図』巻五〇で確認したところ、そのついでに、直ぐ前に美濃斎藤氏の系図が六代にわたり一族二〇人記載されていることに気づいたので、これを紹介する次第である。

 
  当該系図(〔A系図〕とする。内容はクリック)はその前後がもう少し詳しく記載されれば、この氏について明確になることが多いが、承久期の親頼から室町前期の頼茂までの六代に及ぶ系図の概略を述べると、次の通りである。
  初代の親頼はその譜註に拠ると、承久二年(1220)庚辰四月に美濃国目代に補され各務郡に住んだとされ、その子の二代親利は土岐左衛門尉光行の女を妻として三代頼利を生み、頼利は北条左近大夫政村の女を妻として四代太郎左衛門尉利行を生んだ。
  承久の変を記述する『東鑑』では、その承久三年六月三日条に幕府軍への防戦のため官軍を派遣する記事があり、美濃の鵜沼の渡には「美濃目代帯刀左衛門尉」及び神地蔵人入道、池瀬には朝日判官代や土岐判官代などが配置されている。「美濃目代帯刀左衛門尉」が斎藤親頼を指すことに間違いなく、守備した鵜沼は親頼居住の各務郡にあった。また、土岐判官代は土岐光行の子弟ではなかろうか(おそらく光行の弟・浅野判官代光時か)。『東鑑』の記事で、光行は建保四年(1216)七月〜安貞元年(1227)十一月、土岐左衛門尉光行と記載されており(嘉禎二年〔1236〕の廷尉光行もそうか)、承久の「土岐判官代」について、多くは光行とするがこれには疑問がある。このとき、官軍は敗れて皆逃亡したとされるが、斎藤・土岐両氏は許されて存続したことになる。

  太郎左衛門尉利行が六波羅評定衆奉行職を務めたことは『太平記』巻1に見えており、正中の変の際の逸話が記される。すなわち、正中元年(1324)九月、その女が土岐左近蔵人頼員(『尊卑分脈』では頼春)の妻であったことで、当初反幕府の動きをとろうとした頼員が寝物語で妻に挙兵の内幕を話し、それを父の斎藤利行が聞いて驚き、至急六波羅へ注進した結果、土岐・多治見の一派が六波羅勢に討伐され、日野資朝・同俊基が逮捕されることとなった。
  利行の弟におかれる伊予房玄基も『太平記』巻9に登場する有名人で、元弘三年(1333)五月七日の六波羅合戦のとき、攻め手の足利家臣で三河国住人設楽五郎左衛門尉と組みうちとなり、互いに剛の者のため刺違えて討死している。同書では、多年奉行職の末席を汚してきたが、武略も家代々の務めで利仁将軍の十七代目の末孫と名乗り、年の頃五十ばかりなる老武者と記されるが、系図では享年五十六才と記される。
  北条氏の六波羅両探題はこのとき没落して、探題北条越後守仲時は京から敗走し近江の番馬宿(現坂田郡近江町番馬)まで落ちて行くが、翌々九日そこで総勢432人が相ともに切腹自害を遂げる。そのなかには斎藤一族から斎藤宮内丞、子息竹丸、同宮内左衛門、子息七郎、同三郎の五人が運命を共にしている。これらは『尊卑分脈』で左衛門尉基行の子にあげられる引付頭宮内丞利以の子及び孫ではなかろうか。この仲時自害に先立つほぼ一年前、探題仲時は殿法印良忠を訊問するのに際し斎藤十郎兵衛を差し向けている(巻4)。この十郎兵衛は分脈に宮内丞利以の兄に掲げる重行に当たるものとみられる。

  利行の子の左衛門大夫利康は同書巻27に見え、その弟三郎左衛門尉清永も巻40に見えており、この辺の事件は貞和五、六年(観応元年)のもので年代的に前掲系図と符合している。すなわち、貞和五年(1349)八月になって足利直義と執事の高師直兄弟との対立が激化し、師直を誅しようと左衛門督直義のところで上杉・畠山などと評定したなかに斎藤五郎左衛門入道名は不明)が加わっており、双方が味方の軍勢を招集したところ、直義邸に参集した武者のなかに斎藤左衛門大夫利康が見える。この後に続く一連の争乱を観応の擾乱と呼ばれるが、『園太暦』貞和五年八月十四日条には奉行人斎藤左衛門大夫利康が見える。その翌、観応元年、貞和六年には将軍足利義詮の参内に随行する武家のなかに斎藤三郎左衛門尉清永が見えている。
  左衛門大夫利康の母は系図に長井左衛門尉貞広の女とされるが、貞広も一族から関東及び六波羅の評定衆を多く出した武家長井氏の一員で、自身も関東評定衆を務め、大江広元の四世孫であった。利康は貞和五年八月の対立のときには直義邸に参じたが、同じ美濃の大族土岐一族は師直方についており、土岐刑部大輔頼康・土岐明智次郎頼兼・土岐新蔵人頼雄が『太平記』に見える。その後も土岐氏は勢力を拡大し、康永年中(1342〜45)には美濃尾張伊勢三ヶ国の守護となったので、斎藤利康もこれに従うようになったと系図に記される。しかし、前掲の貞和五年八月の事件を見ると、美濃斎藤氏が土岐氏に従ったのは康永年間より後のことであったろう。土岐頼康が叔父頼遠の跡を承けて家督・美濃守護になったのが康永元年冬であり、三ヶ国の守護となったのはその後のことで、観応二年(1951)に尾張守護となり、次いで伊勢守護を兼ねたものである。

  さらに、伊予房玄基の子・季基も『太平記』巻20に見える。延元三年(1338)夏、斎藤五郎兵衛尉季基七郎入道道献季基の従兄弟の七郎基傅のことか)は北国越前で新田左中将義貞の近習にあったが、道献は義貞の夢占いをしたが、まもなく義貞戦死となったため、夜間に紛れて何処となく落ちていったと記される。『分脈』では、季基は康安元年(1361)評定衆に加わると註記されるから、その後足利方に転じたことが分かる。以上に記載した下線部分の人々、13人が『太平記』に見える斎藤一族の全員である。
  このほか、元弘三年(1333)正月に楠木正成が立て籠もる金剛山千早城を攻めたようすを記す同時代史料「楠木合戦注文」にも、鎌倉幕府に仕える竹田斎藤一族の行動が記される。それに拠ると、斎藤新兵衛入道、子息兵衛五郎は佐介越前守の御手として攻撃に参加したが、上山より石礫で数ヶ所打たれたが、今に存命であり、家子・若党数人が手負いあるいは討死した、とある。『尊卑分脈』には、この親子に相当する人物の記載があり、親の斎藤新兵衛入道は新兵衛基祐(基永の兄・基茂の子)、子息の兵衛五郎はその子五郎基教と分かる。

  利康の子の中務丞頼茂(本の名利茂)で美濃本宗の系図は終わっているのが残念だが、世代や活動年代を考えると、その子が越前守利明(あるいは利政)、さらにその子帯刀左衛門尉利永(利長)以下に続いていくものと推される。この系図では、支流で上総国埴生郡に住んだ利兼(清長の曾孫)が最後に記される世代となっているので、この系統に伝えられた模様である。
  美濃斎藤初代の帯刀左衛門尉親頼の先祖については、この者までは『尊卑分脈』に見えるので、その父景頼(後嵯峨院下北面、承久元年十二月任隼人正)は問題ないと思われる。景頼の父宗長は、建久五年(1194)正月に使宣(元左衛門尉)、建仁二年(1202)正月には叙留して上野目代として下向したことが『尊卑分脈』に記事があり、鎌倉殿頼朝とほぼ同世代の人であった。

 3
  さて、本系図の信頼性の検討であるが、鈴木真年・中田憲信関係の系図集には、他に二種類、美濃斎藤氏の出自を伝えるものがある。その二つとは、いずれも竹田斎藤氏の分流とするものであり、一つ〔B系図〕は斎藤四郎左衛門尉基永の子孫とするものであり(『諸系譜』第九冊ノ二所収)、もう一つ〔C系図〕は基永の従兄弟左衛門尉基行の子の太郎左衛門尉利行の子孫とするものである(同書、第十三冊ノ一所収)。前者は、基永の曽孫五郎基教の子に尊氏将軍に仕えた右馬助宣基をおき、以下は越前守経利−越前守利明−利永……となっている。後者は、太郎左衛門尉利行の子に利基・泰行・基則・利政の四男子をおいて、その末子七郎利政の後に続けて左衛門尉利貞−中務丞利茂−利永……とされる。後者の系図は、かって『古代氏族系図集成』中巻1223頁で、将軍家光乳母の「春日局の系」として紹介したものでもある。
  従って、美濃斎藤氏の系図は大きく三本あったことになるが、そのなかではB系図が世代数多く年代的にも接続が疑わしい部分があるなどの難点があり、まず落とされよう。残るA、C系図はともに太郎左衛門尉利行の子孫とするもので、『尊卑分脈』では利行の孫世代まで記載があり、C系図は途中までそれと合致している。この事情に併せ、『集成』編纂時はA系図に気づかなかったこともあって、先にC系図を是としたものである。

  しかし、『姓氏家系大辞典』には赤塚斎藤の流れとあって頼茂が先祖に見え、また越前守利明の父を頼盛(頼茂の転訛ないし誤記か)とする伝えもあって、どうもA系図に傾かざるをえない。また、C系図では基永の曾祖父基重について、「補美濃国目代承久乱多功」と記するのに対し、『尊卑分脈』では「建保四年(1216)死八十五」とあって記事が矛盾しており、承久の頃に美濃国目代となった人物を祖とすることが確かな模様であると考えられる。太郎左衛門尉利行の二種の系図も、四人の男子の名がそれぞれ違うとあっては別人の可能性も多少出てくる(この辺は判じ難いが、利行は竹田斎藤氏とも猶子関係にあったものか)。土岐氏との通婚事情からみても、利行を美濃斎藤氏一族とするほうが自然であろう。これらの事情から、ここに至って前説を翻し、A系図のほうを最も妥当と考え直した次第である。

 
  斎藤本宗の系図が終わる中務丞頼茂(本の名利茂)の以降の斎藤氏については、勝俣鎮夫氏の論考「美濃斎藤氏の盛衰」(当初『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』1980年に所収。のち『中部大名の研究』1983年)や横山住雄氏の『美濃の土岐・斎藤氏』(1992年)に詳しい検討がなされる。
  これらによると、美濃斎藤氏の嫡流は代々、帯刀左衛門尉、越前守を称する人が多く、室町前期より入道祐具、入道宗円、利永、利藤の四世代が続くとされている。勝俣氏によると、『江濃記』の記述より比定すれば、祐具は斎藤越前守経永、宗円は経永の子の利明ということになるが、一方、横山氏の引く『美濃国諸家系譜』に所収の「斎藤系図」に拠ると、中務丞頼茂の子に越前守利政があげられており、これらが相矛盾しないということであれば、「入道祐具(頼茂、利茂、経永)−入道宗円(利政、利明)−利永」ということになる。
  そして、この「斎藤系図」は、まさに『百家系図』巻五〇所載の斎藤系図とほぼ同内容であり、頼茂に続けて、その子に長男利兼(野上太郎、可児郡野上城主)、次男利政(斎藤越前守、可児郡菅生城主、仕土岐美濃守頼忠・同左京大夫頼益執権職、応永十九年二月七日没、56歳)があげて終えている。横山氏の評価では、同系図は、「斎藤氏の系図に信頼すべきものは少ないが、その中で比較的参考になると思われる」、「近世中期頃に成立したものらしく、全面的に信頼することは到底できない。しかし、斎藤氏の流れを大まかに把握することは出来そうに思われる」と記述される。
  横山氏の記述によると、同系図では、中務丞頼茂の条に「康安元年(1361)から土岐頼康に仕えて長臣となる」とあるが、その二年後の貞治二年には土岐氏の主要な武将として斎藤中務忠が登場してきており、それは『東寺執行日記』に貞治二年八月十日及び同三年七月廿八日付けの斎藤中務忠殿宛の文書で、土岐宮内少輔直氏(頼康の弟)の判がある。また、左衛門大夫利康についても、貞和三年(1347)四月七日の足利直義袖判下知状(中津川市・遠山健彦氏蔵)には遠山庄手向郷地頭職をめぐる争論で裁定した奉行人として斎藤左衛門大夫利泰が見えており、同系図の左衛門大夫利康とほぼ同時代の人物となる、と記述される。
  このように見ていくと、『百家系図』巻五〇ないし『美濃国諸家系譜』に所収の「斎藤系図」の評価は、もっと高い評価をしてよいように思われる。いずれにせよ、各務原市居住の研究者横山住雄氏の前掲『美濃の土岐・斎藤氏』には、ご教示を受けることが多く、ここに謝意を表しておきたい。

 
  関連して、多少記しておくと、まず伊予房玄基については、その子彦五郎季基の子孫から美濃国安八郡の前田氏が出たことに異説はない。秀吉の家臣前田徳善院玄以がその子孫とされ(『諸系譜』第十二冊ノ一)、尾張の前田氏もその支流へ養子が入ったものとされる。伊予房玄基の系図は、斎藤四郎左衛門尉基永の子とするものが殆どであって、A系図はむしろ異色だが、後裔の前田氏の居住地から考え、また『尊卑分脈』に記載される基永の多くの男子の呼称を考え併せれば、本来利行の弟だったのが基永の猶子になった可能性も考えられる(その逆の可能性も多少は残るが)。玄基の猶子には、基永の孫の右馬允伊基もおり、この辺の親族関係はかなり輻輳している。
  基永の子は数多く『尊卑分脈』にあげられる。その一族はかなり多く、室町期に入っても政所執事代・奉行人などの幕府役人として続いた。こうした一族から、陸奥に遷住したものがあり、戦前の首相斎藤実が出たという系譜がある(『子爵斎藤実伝』第一巻)。同書に拠ると、「基永−基氏−基長−基季−季長……」であるが、基長以下は『尊卑分脈』には見られない。家伝によると、兄の基継が鎌倉で北条高時に殉じ、その次弟の基緒が六波羅陥落時に討死したのち、末弟の基季が浪々して陸奥に赴き高森の留守氏の家臣となったとされる。
  このほか諸国に展開した斎藤一族を見ていけば、また新しいことが分かる可能性もあろうが、ここではこの辺でおさめておきたい。

  (02.3.13了。12.23追加)

(備考)美濃斎藤氏の一族から前田氏が出ており、関連して 前田利家の系譜 も参照されたい。


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