加賀国江沼郡起源の山岸氏について

       

         ─併せて、『美濃国諸家系譜』の紹介─

                                   宝賀  寿男


  一  『美濃国諸家系譜』という系図集と中里千族
 
 東京大学史料編纂所の蔵本に、『美濃国諸家系譜』全六冊本という系図集がある。中世の美濃を中心とする武家の系図であるが、明治十五年(1882)十二月に謄写がされたときは、原蔵者が栃木県宇都宮におり、中里千族(栃木県河内郡宇都宮町)となっていた。私は、1986年に『古代氏族系譜集成』(以下「集成」という)を刊行する前に閲覧しているが、系図が古代部分に及ぶものが少なく、しかもこの関係では重要な記事がなかったので、当時はあまり重く考えなかった事情あり、同書に採録したのは仁明源氏という珍しい系譜を称する美濃の中世武家・纐纈氏の系図(同書の487頁に掲載)だけとなっている。
 
 この系図集に着目され、その価値を掘り起こしたのがが、岐阜県の研究者・林正啓氏である。二年ほど前の2005年秋から私との応答のなかで何度もこの書がとりあげられ、これらを通じて、中世武家系図としてはかなり貴重な系図を収録していることが確認された。林氏の教示・指摘もあり、改めて見直すと、斎藤一族、林一族の系図や土岐支族蜂屋支流の系図などで、他書に見ない系図がかなりあり、中世の貴重な所伝もかなりあることがまず分かってきた。林氏は主に美濃の土岐一族や林一族を研究されてきた方であるが、その関係者と協力して田中豊氏が文書解読をした形で、田中氏が代表をつとめる「歴史伝承フォーラム」からの発行として、『美濃国諸家系譜』の一部抄本を最近まで数冊、刊行されてきた。いま、東大史料編纂所の所蔵史料の一部は、インターネットを通じてデータベースが公開され、同書もその利用ができるものの、抄本の刊行を通じて世に知らしめた功績があるものと評価している。
 ところで、原蔵者の中里氏は宇都宮明神(二荒山神社)の神官家で紀姓と称し、「集成」の460頁、488頁、490頁には同氏に関連する系図や資料集があげてあり、これらは明治の鈴木真年翁も知っていたようで、『宇都宮旧神官系譜』(東大史料編纂所蔵)の一部が『百家系図』にも記載される。
 『美濃国諸家系譜』の編纂者・成立時期は、現段階ではまだ不明である。美濃を中心とする地域の中世諸氏の系図が、なぜ遠く離れた宇都宮明神の社家にあるのかという伝来経緯も不明である。多少推測すると、原蔵者中里千族(「ちから」。「ちえだ」という訓も見えるが)の義兄で、かつ妻の父にあたる中里宗昌(1813〜41)が、天保頃の国学者で伴信友の弟子であり、自ら宇都宮社家系譜を編纂しており、また、千族自身も国学者で、『阿弥神社・伊夜彦神社旧記』を編し「二荒山神社略年表」の草稿を書き、丹後や豊後の図田帳などの古文書を保有しているので、こうした両者の国学関係の横のつながりがあって美濃の国学関係者から入手したものか?

※ 中里千族は、はじめ好福といい、宇都宮祠官の中里屋祝家の好篤の子で天保二年(1831)に生まれ、好篤の猶子で嫡子となった宗昌(恒篤)が三九歳で早世したため、その娘・鐸を娶って、嘉永四年(1851)に好篤の死とともに家督となった。幕末、戊辰戦争の宇都宮城攻防戦の際、新撰組が布陣し幕府軍により戦火を被った二荒山神社の神官として、幕府軍の大鳥圭介などと応対したことが記録に見える。明治になってから、宇都宮県社祠掌などをつとめており、『初学和歌詠方手引 てにをはのしるべ 』などの著作もある。
千族の名は、国学者で和歌を能くした鈴木重嶺(しげね。号は翠園で、生没は1814〜1897。)主催の月並歌会の参加者にも見える。重嶺は、幕臣として最後の佐渡奉行、明治後の相川県知事などを歴任し、明治初期歌壇の名家であって、勝海舟との交友関係が深く、「穂積姓氏考」「蒲原記」を蔵し、『翠園叢書』全六十八巻、『翠園雑録』全二十五巻などの著作がある。
なお、歴史研究同人誌『中今』第一号(S44.6.20発行)には、菊地卓氏の論考「幕末・維新における一国学者の動向−宇都宮二荒山神社神主中里千族の場合−」が掲載される。
 
 なお、尾張藩士岡田文園が江戸末期(1860頃)に編述した『新撰美濃志』には、安八郡牧村条に「大河内系図」(『美濃国諸家系譜』所載のものと同内容)を引用して記事があるから、少なくともその頃までに『美濃国諸家系譜』は成立し、しかも濃尾地方に現存したことがうかがわれる。これら内容的には、江戸前期当時の諸氏の系図がまず取りまとめられたとしてよさそうである。
 こうした不明なことが多い事情にあるものの、その全六冊に記される内容は、平安後期から江戸前期くらいまでの期間の、美濃・尾張のみならず越前・加賀の利仁流藤原氏などの諸氏の系譜となっている。所収の「藤原姓林氏 正系図」などに見える利仁流藤原氏関係の記載内容は、『尊卑分脈』掲載系譜をはるかに凌ぐ豊富で貴重な記事もある。例えば、源平争乱期の加越地方の諸豪族で『平家物語』や『源平盛衰記』に見える武者で、『尊卑分脈』系図に見えない者(池田忠康、井家二郎範方や成光範澄の兄弟周辺者、太田次郎兼定・入江冠者親定親子、能登の関、日置など)についても記載があったり、その系譜を推測させる手がかりを与えてくれる者(林光明の甥・野宮八郎光宗)もあるから、この意味でも『美濃国諸家系譜』の重要性が高まる。同書が系図の原型に敷衍・追記した可能性もあるのかもしれないが、『尊卑分脈』の記載が必ずしも十分ではなかったことも示唆する。あるいは美濃・尾張の林一族についても、その淵源が加賀の利仁流藤原氏の林氏にあり、稲葉・河野一族との通婚・養猶子縁組みなどの系譜記事も記載されており、十分な検討を要するものも、地域的に考えれば説得力が強い記事も示される。
 中世の系図記事として、他の史料や系図と比較照合したとき、なかには疑問な系譜・記事も個別諸氏について散見する。その辺は、系図史料としての制約であり、総じていえば、『美濃国諸家系譜』は比較的信頼性が高い、ないしは検討すべき価値のあるものが多い系図集ではないかと判断される。明治の鈴木真年翁は、同書所載の「堀口氏之家譜」を若干簡約して『新田族譜』に採用しており、また「堀氏系図」の要点を『華族諸家伝』の堀久太郎家の記事にしているから、『美濃国諸家系譜』を確実に見て評価していたことが分かる。また、三河の大河内氏については、他に見ない価値のある系図だと評価し、私のHPに掲載し紹介している事情もある。もちろん、系図の性格上、個別諸氏について、しかも個別の各部分について、それぞれに十分な具体的検討を要するという制約条件付きでの話ではあるが。 
 いま、とりあえず、そうした検討価値があるとみられる系図ないしは個別個所を、上記で掲げた以外のものを例示としてアトランダムにあげておくので、興味ある関係者はみづからの手で研究されてはいかがであろうか。北陸地方や美濃関係の歴史や系図の見直し・再構成につながることは必定ではないかとも思われるほどである。

 1 美濃の斎藤氏とその支流の系図、斎藤系図に見える「宮六{仗国平」など
 2 土岐支族の系図
 3 清和源氏満政流の山田支流・岡田氏の系図、満快流の片桐且元家系
 4 堀秀政家の系図
 5 北政所の実家杉原氏の系図
 6 加藤清正家の系図、遠山氏の系図など
 7 山内一豊家の系図
 8 富樫の流れを汲む坪内氏の系図
 9 河尻秀隆(重吉)家の系図
 10 溝口秀勝家の系図
 11 美濃関氏の系図
 12 出自部分などについては疑問がないでもないが、竹中半兵衛重治、堀尾茂助吉晴、日根野弘就等の家系
   ※その後、堀尾氏の系譜についての検討もある。
 
 
  二 美濃の山岸氏について
 
  山岸氏の美濃入り 
 前置きが少々長くなったが、『美濃国諸家系譜』でごく一部、断片的にしか紹介されないにもかかわらず、この系図集の裏に脈々と流れる一つの血脈があると感じる。それが、標題の加賀国江沼郡起源の山岸氏である。言い方を変えれば、かなり膨大な系図集は、山岸氏の鎌倉期から戦国末期までの動向を示すため、またその系譜主張を行うために編まれたのではないかとさえいえるように思われる(とすれば、肝腎の山岸氏の系図が見えないことから、ほかにも同系図集に所収の系図があった可能性もあり、林正啓氏は現存する六冊で全てだったのかという疑問もお持ちのようである)。
 美濃の山岸氏といえば、本巣郡を根拠として西美濃十八将の一であり、それに数えられる山岸光信は明智光秀の先妻の父(母の弟でもあるという)として知られ、光信の子孫は明智光秀の有力部将であった。その先は、『太平記』の巻十九などに見える山岸新左衛門とされるが、これくらいしか一般には知られていない。しかし、『美濃国諸家系譜』に掲載される系譜の全編を通じてみれば、養子・猶子、通婚、従属・奉公、戦役などの様々な行動を通じて、なぜか山岸氏関係の記事が多く、それらが目に着くのである。
 中世の系譜分析がこれらの諸要素に加え、地名・地域や祭祀などを具体的に考慮したものであることが基礎にあるとすれば、明智氏をはじめとする美濃・尾張の中世武士の系譜検討は、その背後に潜むともみられる山岸氏の人脈を抜きにしては画竜点睛を欠くとすらいえそうなのである。
 
 さて、美濃の山岸氏の初代は、加賀から美濃入りした山岸新左衛門とされるが、これは『美濃国諸家系譜』にも記事がある。新左衛門は、名は光義または光頼といい、清和源氏の出で、本国は加賀国江沼郡の住人であり、暦応二年(1339)十月に一族とともに初めて美濃国に入った。このとき、脇屋義助に随い、山岸は、一族の林、富樫、小林、井上、森本などの林氏庶流とともに、越前から美濃へ落居している(「藤原姓林氏 正系図」)。その二年前に、再起した新田義貞・脇屋義助兄弟は越前で活動し斯波高経と戦っており、一時はこの地域でかなりの勢威を誇ったが、『太平記』には、このとき敷地・山岸・上木が義貞兄弟とともに活動した記事が見えている。山岸氏の武士が名前を表示されるのは、「山岸新左衛門」だけであり、その実名は記されない。
  新田義貞は越前藤島合戦で討死したのが暦応元年(1338)閏七月であり、その後に脇屋義助が新田一族や南朝に味方する諸氏とともに美濃入りして、本巣郡根尾に拠ったことは史実である。義貞討死以降にあって、山岸新左衛門がこれに同行ないし追いかけで移遷したことも自然である。地理的にも、美濃の根尾谷をさかのぼり、温見峠を越えれば越前国大野郡となるからである。
  脇屋義助は、美濃でも戦況に利なく、土岐頼遠などの攻撃を受けて尾張の熱田を経て吉野に帰った。新田一族の堀口氏はその後も美濃に残り、その系譜は『美濃国諸家系譜』にも掲載される。後裔の堀口三之丞貞之・同三大夫貞春兄弟は、山岸勘解由左衛門貞秀の命により明智光秀に従って山崎合戦にも参加している。
  山岸新左衛門の子孫は、『美濃国諸家系譜』第三冊掲載の「根尾氏之事」及び「竹中家譜」に見える。これらでは、山岸新左衛門ないしその子・光明が別人の長山遠江守頼基と混同されて同人にされるが、これは明らかに誤りである。長山遠江守頼基は、土岐頼遠の末弟の土岐九郎頼基のことであり、『太平記』の巻三二に土岐の土岐の桔梗一揆のなかに見えて、南朝方の赤松氏範と戦ったことが記される。長山頼基は、一時期、山県郡に拠ったものの、子孫はのちに可児郡明智に遷り明智氏の祖となった。山岸新左衛門の子孫の山岸加賀守満頼が長山頼基の猶子になった可能性もないではないが、山岸氏は土岐一族ではないことに留意される。ただ、山岸氏と明智など土岐一族は代々縁組みを重ねたことは史実とみてよく、頼基の子の明智頼重の女婿に山岸越前守頼慶(山岸新左衛門の孫)がなっている。
  山岸新左衛門の子孫は、その後も主に本巣郡根尾に居住して代々長峯城主(旧根尾村、現本巣市根尾長嶺)、ついで南方に遷って府内城主(旧谷汲村、現揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬)となり、嫡流は山岸のほか長江、進士とも家名を名乗り、あるいはそのいくつかを併用して史料に見える。庶流には根尾、長峯などの苗字が見える。
 「竹中家譜」のなかに見える山岸氏の系譜に加え、他の諸家系譜などに見える山岸関係の記事をもとに、若干の推定も入れて山岸氏の系譜を構成してみると次項にあげるようなものとなろう。この作業においては、居城の府内城のあった『谷汲村史』の記事も参考にしたが、同人が異名で伝えられる例がかなりあって、新しい史料が出てくれば、再構成の必要があるかもしれないことをお断りしておく。
 
  美濃山岸氏の嫡流
 山岸新左衛門生没が1295〜1379という)を初代@として、その子はA弥太郎光明同生没が1319〜1396)といったとされる(「根尾氏之事」)。光明は、美濃守護の土岐弾正少弼頼遠の婿猶子となり、土岐氏連枝に准じて家名を外山家とも北山の豪家長江殿ともいったと同書に記される。
  そうすると、『尊卑分脈』に土岐頼遠の子としてあげられる外山遠江守光明がこれにあたるというのがこの系譜の主張か。外山遠江守光明の子には修理亮頼行という子が知られるが、「竹中家譜」では長山頼基(かつ山岸新左衛門)の子とされるB加賀守満頼について、本名頼行で修理亮・山岸加賀守という記事をつける。同書では、土岐頼遠の婿となった者が本巣郡の根尾・外山・長峯などを領したと記すから、これに拠れば、外山(旧本巣町、現本巣市外山)の地も山岸氏の領域であったことになるが、当時、根尾谷の奥にあった山岸氏の過剰な主張か。

外山氏が山岸一族とするのは疑問がある。『分脈』には、土岐頼遠の子として右馬頭氏光・外山光明・今峯光行をあげ、『太平記』巻三六には、仁木右京大夫義長に属した土岐右馬頭氏光・外山・今峯の兄弟三人と見えるし、その後も外山(戸山)氏が見え、「光明─直頼(弟という)─満頼─持康」とされるから、山岸光明が外山光明とは限らず、むしろ別人とするのが妥当か。一方、外山氏は根尾、徳山氏と同族とも伝える事情もある。これも、通婚などを含めてのもので、男系が同じという意味ではなかろう。総じて、山岸氏は、土岐一族に対して様々な形で系図を符合・接合させる嫌いがある

 次に、B右近将監・加賀守満頼は、年代的(生没が1351〜1425とされる)にみて、「根尾氏之事」に見えるように、新左衛門の孫に置かれるのが妥当である。その姉(母が徳山兵庫助常蔭の女)は大野郡饗庭城主の饗庭命鶴丸の室となり、妹には可児郡明智城主明智頼高(頼基の子で、頼隆・頼澄とも記される)の室、大野郡徳山城主徳山右衛門尉貞行の室をあげる。『美濃国諸家系譜』では、この満頼から後の世代は系譜としては記されず、他家の系譜に見える記事を総合して本稿で記した。
 満頼の子はC長江越前守頼慶生没が1381〜1443)といい、またの名を頼貞ともいって、晩年は賀茂郡和智に拠って和智豊後入道と称したともいう。満頼の子には山岸彦五郎政安もおり、福光左近蔵人頼安の婿養子となって開田越後守と名乗った。山岸越前守頼慶の妻は明智駿河守頼篤の妹と伝え、その間に浜豊後守康慶が生まれて、土岐一族の浜氏の養子となったとされる(「宮城家相伝系図書」)。「日根野系図」には、山岸(長江)頼貞が嘉吉三年(1443)九月に死去した折には、大野郡長瀬(谷汲)の長山寺で家臣の林外記、後藤、富樫、徳山、碓井、日根野や堀口三郎左衛門尉貞治らが法事を執り行ったと書かれる。
 頼慶(頼貞)の子がD山岸(長江勘解由左衛門貞朝で、加賀守光範ともいった。『谷汲村史』では、新左衛門の五代の子孫の加賀守光範は、文安二年(1445)に揖斐郡府内城に遷ったと記す。
 貞朝(信慶、光範)の子には、E進士作左衛門光貞がいる。また、進士美濃守信慶ともいい、その子には、林通家の養子となった林加賀左衛門光利がおり、娘は山内城田掃部助実通に嫁して木田掃部助実政・山内但馬守盛重(盛豊)を生んだが、後者は猪右衛門一豊の父である(こうした山内一豊の系譜は他書に見えないが、諸伝あるうち最も妥当性があるのかもしれない)。光貞は一に可児郡明智氏より養子だと伝えるが、次の「宮城家相伝系図書」に記す明智氏の婿というのが実態か。すなわち、光貞に相当するとみられる進士美濃守源光(ママ)は、可児明智宗家の明智民部少輔頼弘の妹を妻としてF進士加賀右衛門尉信連を生んだとされ、進士美濃守源光(ママ)の娘は、従兄弟の明智民部少輔頼典に嫁している。
 信連の子がG進士山岸勘解由左衛門尉信周美濃守・勘解由左衛門尉光信)で、光信は斎藤龍興の幕下にあり、永禄七年(1564)に府内城を退去している。その子がH進士作左衛門貞連・光連・安田作兵衛国継・進士貞光らの兄弟がおり、貞連は後に山岸光重といい、その子がI作之丞・作十郎光長兄弟、進士貞光の子には山岸藤助光国、という系譜ではなかろうか。なお、難解なのが山岸勘解由左衛門貞秀という者で、活動時期からみて、H進士作左衛門貞連の兄弟かF貞連の祖父(すなわち、信連と同人)にあたるとみられるが、おそらく後者か。
 
  美濃山岸氏の庶流諸氏と他氏に入った者たち
 以上の山岸本宗家の人々に対して、庶流や他家に養子に入ったと伝える者が何人かいる。
 まず、@山岸新左衛門光義の妾は、江沼郡堀切郷にあった堀権左衛門資政の妹であるが、両者の間に生まれた源太光直は、伯父の堀資政(堀権大夫季高の六世孫)の養嗣となって堀兵庫助と名乗り、実父に従い美濃に入って1376年に五二歳で死去した(1325)。この五世孫の掃部助氏持(また名を利秀)が茜部(赤鍋)に遷ったが、その曾孫が信長・秀吉に仕えて大大名となった堀久太郎秀政であると『美濃国諸家系譜』所収の「堀系譜」に見える。これは、『寛永譜』には見えない記事であるが、信拠してよい系譜とみられ、ほぼ同趣旨の記事を鈴木真年翁が『華族諸家伝』堀親広条で述べている。
 
 次に、B右近将監・加賀守満頼の弟については、弟に基秀、頼幸、光景をあげる。
 基秀は、母が堀口美濃守貞満の女で、本名が頼近であり、山県郡千谷に住して千石次郎左衛門尉・左近将監・越前守といい、仙石にも作って仙石氏の祖であると記される。秀吉に仕えて大名となった仙石権兵衛秀久の四代祖にはたしかに基秀という者が見えるが(鈴木真年編『諸氏本系帳』所収の「仙石系図」)、内記と号して寛正三年に五九歳で卒しているから、生没年が1404〜1462となり、「根尾氏之事」に見える基秀の1354〜1443とは二世代の差異があるうえ、「仙石系図」には基秀が他家から入ったことを記さない。このため、山岸満頼の弟に千石基秀をおくのは疑問が大きい。年代的に考えると、基秀の祖父となる秀重が山岸満頼の弟・頼近(ないしその同世代)にあたるか、頼近の孫が千石基秀であったか、という可能性は残る。
 頼幸は、山岸長(ママ)弥三郎・修理亮といい、根尾(ママ)家と記されるが、ここの「長(ママ)」はいずれも「長江」の誤記ではなかろうか(誤記でない場合には、長山頼基の系統は猶子縁組みを通じて、「長山」の家名を山岸氏に譲ったものか)。また、外山遠江守光明の子の修理亮頼にあたるのが、兄の満頼ではなく、弟の頼のほうであろう。その子には、長(ママ)大学助光行、長(ママ)弥五郎で根尾弾正とも名乗った某、長峯勘解由某の三人がいる。
 根尾弾正某は根尾氏の祖で、一族の千石右近将監頼豊とともに土岐大膳大夫持頼に組みし、永享十二年(1440)五月に大和で一緒に自害したと記される。上記千石秀重の子の孫太郎秀豊が土岐左京大夫の旗下で嘉吉二年(1442)に六二歳で没したと「仙石系図」に見えるから、右近将監頼豊は孫太郎秀豊の弟あたりにおかれるのが妥当であり、そうすると、やはり「山岸頼近=千石秀重(ないしその同世代)」ということになる。

 仙石氏の系譜もなかなか難しいが、尊氏に仕えた千石次郎久重の子が七郎道重といい、一に重近(重親)ともいったとされるが、おそらく重近は道重とは別人の次郎で、七郎道重の兄ではないか。この重近の家に入ったのが次郎左衛門頼近であって、七郎五郎秀重とは従兄弟にあたるとみられる。次郎左衛門頼近の子が右近将監頼豊で、その兄が次郎左衛門秀頼(賀茂郡黒岩城主)とみられ、その後も他氏の系図に次郎左衛門秀信が見える。その呼称から考えると、仙石氏は二流あったとみるのが妥当であろう。

 根尾弾正某の子は根尾右京亮入道清政で、その子の根尾遠江守は義弟の徳山次郎右衛門尉貞輔とともに長江修理大夫源光朝に組みした(一に一所で討死)と記される。長江修理大夫源光朝は、根尾長江修理亮頼幸の曾孫で、長江大学助光行の孫にあたるとみられる。根尾遠江守の子の新三郎清平は、土岐政房・頼芸父子に仕え、その子弥三郎(右京亮)某の長男は信長に仕えて島右京、次男は林出羽、三男は中村内蔵、四男は根尾和泉といって、『姓氏家系大辞典』所引の『新撰美濃志』の記事と合致する系譜を伝える(この辺の事情も、『美濃国諸家系譜』の成立事情に関係あるか)。
 最後に、光景については、遠山加藤五郎藤原景直の養子となり家名を継ぐと記されるが、同二冊所収の「遠山家譜」には、遠山式部少輔光景が「濃北之豪族根尾長山遠江守源頼基之末子也」と記され、「堀口氏之家譜」でもその女が長山頼基に嫁して遠山光景を生んだと記されるから、これは長山遠江守頼基を山岸氏の系図に取り込んだ結果にすぎない。遠山景直の叔母は明地九郎頼基室と同家譜に見えるから、「長山頼基=明智頼基」であり、遠山景直は従兄弟を養嗣としたことが分かる。
 
 さらに、C頼慶の弟の山岸源助頼重は、岩手弾正左衛門尉・遠江守ともいい、不破郡岩手・栗原などを領して竹中半兵衛重治の祖となったという。岩手弾正頼重の子を岩手弾正・遠江守重朝といい、その子が遠江守重久・尾塞次郎左衛門信朝兄弟、遠江守重久の子には岩手遠江守信忠・竹中源助重道・栗原伊賀守某・松尾源四郎某・女子(安藤民部少輔守利妻で、伊賀守守就の母)という兄弟があるとされる。竹中源助重道の子が彦三郎重基で、その子が半兵衛重治であるが、その妻は再従姉妹の安藤伊賀守守就の娘である。
  竹中の家は新たに起こしたわけではなく、先時代に他家(林一族)の系譜に見える竹中主膳通重、その子の竹中源助重定の流れを汲むものとみられるし、その先も美濃の古族の流れを引く可能性がある。竹中氏の系譜については、豊後守護の大友氏の流れを汲むという所伝があり、これを『集成』に記載したが、これは誤りであった可能性が大きい。
 
 
  三 加賀国江沼郡の山岸氏について
 
  鎌倉時代及び南北朝期の山岸氏
 山岸新左衛門(光頼、光義)の先祖の記事も、『美濃国諸家系譜』所収の林・富樫一族の系譜記事のなかに見える。
 それによると、鎌倉後期十三世紀後半頃の人、山岸進士加賀蔵人源忠頼の子が山岸加賀右兵衛尉頼綱であり、その子が新左衛門光頼であって、頼綱の姉妹が林光盛に嫁して林七郎左衛門通兼を生んだとされる。林通兼は一に頼綱の子ともいわれ、上木新介源頼久の女を妻として光祐を生んだと記される。
 この「源忠頼─頼綱─光頼」という三代に対応する別名が、『美濃国諸家系譜』に所収の「富樫前野坪内系図」に現れる。すなわち、林通兼の父の光盛の再従兄弟にあたる富樫国親の姉妹は、山岸遠江守光基に嫁して新左衛門光義を生んだとされ、国親の実父は加賀蔵人源光平と見えるから、これが遠江守光基の父にあたる者となる。ここに、「源光平─光基─光義」という系譜も富樫系統に伝えられたことが分かる。
 山岸氏が源姓を称するのはおそらく美濃に来てからではないかと思われる。その場合、加賀にあったときは藤原姓を称していたとみられる。それはともあれ、『美濃国諸家系譜』に所収の林・富樫一族の系図には、源姓を名乗る山岸氏の先祖らしき者が見える。それが、悪源太義平の落胤という加賀判官代(一伝に加賀介)源頼平であるが、頼平は加州江沼郡山岸に住んだという所伝に留意される。そもそも、悪源太義平に落胤があったという系譜はまったく信頼できず、後世の追記・仮冒だと考えられる。そのせいか、源頼平から源忠頼(光平)までの間の世代(二世代ほど)は中絶していて、同書から中間世代の人名を探ることはできない。従って、鎌倉後期の山岸一族の名は、「光」を通字とする「光平─光基─光義」という系譜のほうが妥当であろう。
 
 さて、山岸・上木の諸氏が加賀国江沼郡にあって、藤原姓の狩野党と呼ばれる一員であり、両氏が江沼郡の敷地天神菅生石部神社)の神主家を世襲した敷地氏と共に『太平記』に現れている事情がある。
 『太平記』の記事を紹介すると、まず、巻十三には、北条氏の残党が蜂起し上洛しようとした動きに対して、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が加賀・越前国境の大聖寺という所で僅の勢でこれを打負かして、大聖寺で大将を討ち取った、と見える。これは、1335年に名越太郎時兼が挙兵したときのことである。
 次からは南朝に与しており、巻十七では、南朝方の二条大納言師基卿が、北国より、敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町以下の者三千余騎を率して近江の東坂本に到着したと見える。巻十九には、加賀国の住人、敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者共が、南朝方の畑六郎左衛門尉時能の誘いに応じて、加賀・越前堺の細呂木の辺に城郭を構え、大聖寺の城を攻め落とし国中を押領し、そのあと、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者共が、新田一族の細屋右馬助を大将として、総勢三千余騎で越前国へ押し寄せたと見える。さらに、巻二〇では、敷地・上木・山岸らは、越前で新田義貞・脇屋義助兄弟のもとの三万余騎のなかにいて、上木平九郎が軍奉行で見えるが、そのほどなく藤島で総大将の新田義貞が討死し、これ以降、敷地・山岸の消息が『太平記』から消えることになる。
 一方、上木平九郎家光は、巻二一にも見えて、元は新田義貞に属したが、近来は将軍足利尊氏方に属して、黒丸の城にあり、もとの仲間に誹謗されて口惜しく思い、一族二百余人と敵城に攻め入ったと記される。同書に上木が見えるのはここまでである。脇屋義助は、この後、巻二二に見えて、美濃の根尾の城に立て篭ったが、去九月中旬に土岐弾正少弼頼遠・刑部大夫頼康に攻め落されて、尾張それから伊勢伊賀を経て、吉野に行ったと見える。
 
  江沼郡の狩野党諸氏とその系譜
 加賀国江沼郡の狩野党には、ほかに福田・若松の諸氏も知られる。その系譜は伊豆の藤原南家流の狩野工藤氏の一族といわれるが、加賀での始祖は誰だったのかも含め、具体的な系図は明らかではない。一に「狩野工藤家次(家継)─家光─家俊」と続いて林を号した次郎家俊の後というが、家俊は信濃国伊那郡の林といい、系図もここまでで後は記されない(信濃の工藤氏についての本HPを参照のこと)。また、加賀の林六郎光明の父の林大夫光家は、工藤四郎大夫家継の子で加賀の林次郎貞光の養子になったとも伝える。
 こうした系譜不明の事情にあるものの、正和五年(1316)二月の菅生敷地地頭に狩野忠茂が見えており、文和三年(1345)に足利尊氏が出した下文には、福田庄地頭の狩野伊豆守義茂に勲功の賞として加賀国若松庄(現在の加賀市大聖寺辺り)の地頭職を与えたとある。同庄は、いったん狩野氏の手を離れたものの、義茂が康安元年(1361)に返された後でも、応永五年(1398)に茂重、長禄三年(1459)に茂豊と、狩野氏が代々地頭職として続いたことが知られる。室町前期には越前守護代甲斐氏の配下として狩野氏が見える。狩野氏は加賀守護職冨樫氏(高尾城)の家臣であったが、冨樫氏滅亡後には越中の氷見南部(鞍骨山城)に逃れると書かれ、その詳細は不明である。
 『東鑑』にも、室町幕臣の奉公衆にも、加賀の狩野氏とみられる者が多く見える。まず、室町期のほうからあげると、「加州狩野松寿」(長享常徳院江州動座着到)や永禄六年諸役人付に「狩野左京亮光茂、同孫次郎、五番、狩野伊豆守光茂、狩野孫次郎照茂」が見える。加賀の狩野氏には南北朝期に狩野頼広もいたというから、『東鑑』の「広、茂」の通字で見える者はほぼ同様であろう。そうすると、狩野七郎光広(1199年、1219年)、狩野五郎左衛門尉為広(1236〜60)、狩野左衛門四郎景茂(1254〜63)が加賀狩野氏の可能性がある。『承久記』には、「狩野介入道」「かのゝ七郎みつひろ」が見えるから、狩野氏が加賀に入った契機が承久の乱の戦功にあったものか。大聖寺城は、鎌倉時代に狩野一族によって築かれその中心地となっていた。
 狩野氏のいくつかの系図から、以上に関係しそうな者をあげてみる。まず、治承四年(1180)の頼朝旗上げの石橋山合戦に参加・討死した工藤介茂光(四郎家次の子)がおり、その子に狩野介宗茂がおり、宗茂の子に狩野介政茂、その子に景茂がおり、また宗茂の弟の民部大夫行光、その子に狩野太郎光時がいた。七郎光広については、摂津守行光の子という説と行光の弟で泰衡追討時に討死した狩野五郎親光の子の狩野五郎親成の子という系譜もあるが、上記の活動年代を考えると、親成の弟かその従兄弟とするほうが妥当であろう。七郎光広の子が五郎左衛門尉為広か。
 おそらく江沼郡の狩野氏は、二流あって、@嫡流が狩野介政茂その子に景茂の系統で、これが「茂」を通字として敷地・福田・若松となり、A庶流が七郎光広の系統であって、こちらは「光、広」を通字として山岸・上木となったものではなかろうか、という推測があるいはできるのかもしれない。

 インターネット上の『武将系譜辞典』では、斯波家人名録のなかに狩野氏を取り上げ、福田、敷地を行光の子の光広の子孫とし、光広の子の「忠広−忠頼−泰茂−繁茂−義茂(福田伊豆)−義祐−?茂重−茂豊」、忠広の子の「為広−忠茂頼広−光忠−忠家(敷地加賀)−忠宗」などという系譜関係を示される。その出典は私には不明であり、端的にはコメントしがたいが、感触だけいえば、年代や名前のつながりに不自然な個所もいくつかあるように思われる。
この系譜関係を前提に考える場合、福田・敷地は同系ということが分かっても、山岸・上木の系譜との関係は依然として不明なままであり、これからは山岸氏の系譜の手がかりは得られない。
 
  山岸一族と加賀の林氏
 山岸・上木の一族の系譜については、まだ別の検討がありうる。この一族が狩野党の一員を構成したとしても、肥前松浦党の例に見るように、本来は別族であった可能性がある。その場合には、加賀国石川郡の林六郎光明の長男・今城寺(林)太郎光平の後裔であった可能性も残るからである。光平は源平戦乱期に斎藤別当実盛の郎党に討たれた人物であるが、今城寺太郎光平の母と加賀判官代頼平の母とは姉妹(稲津飛騨守景実の娘)だと伝え、鎌倉後期の山岸氏で「光」と「頼」とが通じるからである。しかも、富樫一族の泉太郎利家の子におかれる今城寺九郎(泉庄司)俊平は、実は外甥で加賀介源頼平の子という所伝も富樫坪内系統に残る。
 この記事がある「富樫前野坪内系図」(『美濃国諸家系譜』所収)も興味深く、美濃の坪内氏の系図としては最も良本であろう(ただし、前野氏との系譜関係は要注意と思われるが)。林大夫光家の娘を母にもつ泉太郎利家の妹は、加賀介源頼平の妾と記される。富樫介泰家の妹は林三郎光時の妻となり、泰家の子の太郎家親の孫娘は山岸新左衛門光義の母となり、その兄・国親の子の富樫大夫将監親泰は、従兄弟の光義に随って美濃に入ったが、その子孫が坪内氏であると記される。
 光平の子には林次郎家継・同三郎光時がおり、『尊卑分脈』はここで記載が終わる。しかし、「藤原姓林氏 正系図」に拠ると、三郎光時の後裔には山岸新左衛門の美濃根尾谷入りに随行した林通兼・森本頼重・井上光教・小林義房らがいるとされる。これら林・森本・井上・小林の同族諸氏が臣従した山岸新左衛門とは、これら諸氏の宗族であったことも考えられ、その場合、後が記されない次郎家継の後裔が山岸新左衛門ではないかともみられる。上木平九郎光という南北朝期の名前も、「家」という名前の共通点もある。光平には光右という子もあり、それが越前国足羽郡兼松村から尾張に移った兼松氏の遠祖になったという所伝もある。
 先に記したように、山岸新左衛門の後裔の根尾氏から林出羽を名乗る人物が出たというのも、先祖の苗字に因んだ可能性がある。
 こうして所伝から見ると、若年で討死したとはいえ、林光平はなかなか興味深い人物である。
 
 
  四 おわりに
 
  美濃を中心とする中世諸氏の系譜を通覧してみると、明智氏について貴重な所伝を記す『明智氏一族宮城家相伝系図書』も、『美濃国諸家系譜』とほぼ同様な性格をもつことが分かる。両書ともに、総じてかなりの信頼性がありそうでいながら、山岸氏に関連する記事が多く、そのなかには疑問なものがかなりあるという点である。前者には、明智光秀が山岸勘解由左衛門尉信周の次男という記事があり、これが同書への疑いを増加させている。しかし、両書とも、山岸氏関連記事で疑問があるものを除去すれば、その所収系譜の信頼性がより高まるといえるのではなかろうか。

 『美濃国諸家系譜』第三冊所収の「谷氏系図」には、「宮城家系図」とほぼ同様な記事が見える(ただ、両者の記事はすべて同じということではない)。すなわち、明智頼重の家督を継いだ明智十郎頼篤について、「母ハ長山遠江守頼基女」とし、その室や国篤・頼長という子などについての記事が同様なのである。
頼長は可児郡錦織に住んで後に御獄に住み明智可児右衛門尉というと「宮城家系図」にあるが、「谷氏系図」には初め谷戸に住み、中頃錦織に住んで晩年に御獄に住んで、そこで康正元年に死去したと見える。「宮城家系図」は頼長の後は記さないが、「谷氏系図」では頼長の子が可児美作守定長・谷戸次郎頼樹であり、後者の子が谷兵庫助頼員とまで記す。
なお、明智十郎頼篤の生母の所伝が正しければ、その実父は頼基の女を妻とした頼兼であって、叔父明智頼重の家督を継いだというのが明智家系譜の実態ではなかったということにもなる。
 
  山岸氏や美濃の林氏の研究のためにも、加賀国江沼郡の狩野党の系譜がもう少し明らかにならないかとも思われる。今後は、地元に残る古文書類をこまめに照合していく作業が必要であろう。
  また、加賀及び美濃の林氏についても、「藤原姓林氏 正系図」は検討すべき所伝を記すが、石川郡林(拝師)郷とすべきところをなぜか江沼郡林で通していることが気になる点でもある。
  ともあれ、『美濃国諸家系譜』やこれに関連する諸系図がさらに十分な検討がなされるべき価値あることを改めて認識した次第である。まだ、検討を加えるべき諸点が様々にあろうと思われるが、現段階では手元に史料が乏しいこともあり、とりあえず、この辺で本稿を終えておきたい。
 
  (07.6.10掲上。6.12追補)

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