土佐佐川の深尾氏と藩主山内氏の系譜

 

 深尾氏の系譜については、先に真野氏に関して応答があり、関連して調査するうち、これまでまるで言及がなかった系譜事情が浮上したので、ここにまとめて掲上する次第です。さらに、土佐高知藩主の山内氏の系譜についても、思いもよらなかった事情も出てきたので、併せてご覧ください。

 深尾という苗字については、土佐太守山内家の筆頭家老をつとめた同国高岡郡佐川で一万石取りの深尾氏で有名であり、『姓氏家系大辞典』にも記すように、一般に近江佐々木一族から出たもので、その系統に三流あるとされてきたが、多くの史料に当たってみると、藩主家の山内氏の系譜と同様、疑問があることが分かってきた。
 同氏については、初代土佐太守山内一豊の家老をつとめた深尾重良より前は、信頼できる所伝がなく、土佐に残る系譜史料『土佐国羣書類従』(吉村春峰原蔵)所載の土老伝記「深尾系」や『土佐諸家系図』(竹内専次原蔵)所載の「深尾系図」でも、基本的には深尾和泉重良かその父という和泉重政から系を起こしている。そして、和泉守重良の曾祖父にあたるという深尾和泉三郎重列が応仁の頃に美濃国山県郡太郎丸に来住というが、一豊に仕えた重良より前の歴代の名前も事績も明確には伝わらない。和泉重政の父の名も不明であり(一説に重利という)、直接の祖先という重列も深尾刑部高義の孫というものの、やはり父の名前が不明である。
 和泉守重良は寛永九年に七六歳で死去というから、生没は1557〜1632年であって、一豊(1545頃生〜1605没)とほぼ同世代で十二歳ほど年下であった。
 
 山内氏については、秀郷流藤原氏で、相模国山内庄(鎌倉郡北部)に起った名族山内首藤氏の流れを引き、頼朝の乳兄弟であった山内滝口三郎経俊の後であって、支族の丹波山内氏の出だと伝えるが、これにも系譜に諸伝がある。管見に入ったいくつかの山内氏系譜のなかでは、東大史料編纂所所蔵の『美濃国諸家系譜』第四冊所収の「首藤山内系図」が信頼性が割合高そうである。同系図によると、山内一豊の同族に深尾氏が見えており、そのなかで近江の佐々木一族の出自というのは仮冒であったとし、深尾の地名も美濃国山県郡深瀬村(旧高富町、現山県市東南部の東・西深瀬)の山の麓のほうを深尾といい、これが先祖の深尾義通(同系図では、一豊の祖父・実通の弟)の出所なるべしと記される。いま山県市東深瀬の南側に隣接するのが深尾氏の居城・太郎丸城のあった岐阜市太郎丸という地理関係にある。
 そこで、以下では当該「首藤山内系図」を基本として、一豊の家系と併せて深尾氏の系を検討してみることにする。
 
 一豊の出た美濃の山内氏の家系は、その五代先祖にあたる盛通(貞通の子。七一歳で1462年に没)が永享年中に美濃国山県郡大桑村に来住(注)して以降、代々美濃に住んだといい、その子の盛豊が大桑近隣の太郎丸城主となって応仁の頃に活動し、太郎丸の地でその子の主膳正実豊、さらにその子の掃部助実通も生まれている。実通(1546年に没)は方県郡木田村(城田寺村)に住んで美濃守護土岐頼芸に仕えたが、その子に掃部助実政・但馬守盛重(伝兵衛)の兄弟がいて、弟のほうの但馬守盛重(1512頃生〜1556没)が盛豊ともいい、一豊の父となるとされる。なお、明治になって山内宗家の豊範が宮内省に提出した『山内家譜』でも、歴代はきわめて曖昧であり、一豊の父の盛豊の父を日向守久豊とするが、父の盛豊からしか信頼できない面もあり、それらの事績にも問題がある。
(注) 山内氏のほうにも、先祖が丹波国船井郡にあって、「貞通−盛通」という先祖がいたことが伝わっているようである。「首藤山内系図」では、丹波国船井郡から越前敦賀を経て、貞通のときに美濃国恵那郡に来住という。
同系図記載の歴代の名前を見ると、山内経俊の子におかれる「経通」の存在には疑問があり、丹波武士であっても、経俊の流れを汲んでいなかった可能性がある。『丹波志』には氷上郡条に、船井郡三の宮(現京丹波町三ノ宮。式内社の酒治志神社が鎮座)の城主の「山ノ内」氏が浪人して大河村に来住したことが見えており、「首藤山内系図」にも正慶二年(1333)に、荻野朝忠・酒井貞信らとともに足利尊氏の決起に味方した丹波武士に「山ノ内九郎盛遠」がおり、これが貞通の祖父だと記載される。『太平記』には尊氏の篠村決起の参加者のなかに「志宇知、山内、葦田の者共」と見えるが、これらは皆、同族かもしれない。志宇知は志内、須知、質志、酒治志に通じる。そうすると、この山ノ内氏は実際には丹波国造族の末裔とするのが妥当か。
 
 ところが、一豊の祖父とされる山内掃部助実通については、岐阜市西荘(もと厚見郡)の亀甲山立政寺に三通の寄進状とともに立派な肖像画が残されていることを、田中豊氏が「山内一豊と美濃」で報告している(歴史伝承フォーラム刊『美濃国諸家系譜』の抜粋復刻版の「斎藤一流」に所収)。同寺には、山内氏の過去記があって、主膳正実豊・掃部助実通・伝兵衛盛重について記すし、『美濃国諸旧記』『美濃盛衰録』『新撰美濃志』にも掃部助実通が見えるとされる。一豊の祖父は通行する「久豊」ではなかったという記事であり、父の盛豊(盛重)が尾張の黒田城に住んで岩倉で死んだのではなく、斎藤道三に与して義龍と戦った弘治二年に鷺山合戦であった、とされる。
 これらも、田中豊氏が上記史料を基に記述しているが、他の史料とも併せて十分検討する必要があり、土佐山内氏の創業伝承には諸伝が多いことで、十分吟味する必要があることに注意したい。『美濃国諸家系譜』の「首藤山内系図」に実通について、位牌は西ノ庄立政寺に在りと記される。
 山内掃部助実通の大桑から城田寺への遷住については、『姓氏家系大辞典』のヤマノウチ33項にも見えており、この辺は信頼できそうである。
 
 一方、深尾氏は、掃部助実通の三弟の和泉守(五郎左衛門)義通が初祖であり、義通は一に堀尾新左衛門光晴(注)の実子ともいう。掃部助実通は方県郡木田に移り、弟の義通が太郎丸城主となった。義通は生没が1486〜1548年ということで、実通の七歳年下であり、その子が太郎丸城主の掃部助某(実名は不記載)で、その子に掃部助某(父と同様、実名は不記載)と主水実高の兄弟があげられ、後者のほうの深尾掃部助は三河国に行ったとされ(旗本の子孫が多い掃部元治〔元晴〕に重なるか)、その子に五郎左衛門某(実名は不記載)で、深尾氏関係部分が終わっている。義通の子には、下野守宗通もあげられており、斎藤義龍に仕えて、子孫は濃州にありと記される。
(注) 『美濃国諸家系譜』第5冊に「堀尾氏系図」が所収されており、堀尾新左衛門光晴は、山県郡太郎丸住人の堀尾修理惟晴の子で、明応五年(1496)に厚見郡加納の大宝寺で自害、四十余歳として、その子に深尾和泉守義通をあげる。光晴の弟・佐右衛門は尾州羽栗郡に移り、その曾孫が秀吉に仕えて中老職をつとめた堀尾茂助吉晴だとする系譜となっている。この系図も、堀尾氏の系図が各種あるなかで最も信頼性があるのかもしれない。
 
 深尾義通の系が宇多源氏の江州佐々木一族の出ということについては、当該「首藤山内系図」の記事のなかに、その所伝が不審であると明記され、佐々木一族にも山内という苗字があることに因るかとし、深尾の地についても上記のように山県郡にあると見える。
 「首藤山内系図」では、肝腎の重良の名前すら出てこないが、一豊と同世代でマタイトコ(再従兄弟)に当たる位置におかれる主水実高が、深尾和泉守重良に当たるのではないかとみられ、年齢的にも妥当だと考えられる。和泉守も主水も、戦国期・江戸期の佐川深尾氏にかなり見える通称であった。重良の甥で女婿かつ養子であったのが主水重忠であり(その孫に主水重勝)、この系統の高知深尾家が深尾氏本来の血筋であった。重良は太郎丸城主で当初、斎藤氏に属し、その滅亡後は織田氏に仕え、織田信孝の自害後は浪人となっていたが、山内一豊に迎えられたという。これが一族であったのなら、自然な話である。
 佐川深尾氏の重良の後継者は、主家山内一豊の弟・康豊の子の重昌(土佐藩主第二代の忠義の弟。正室は深尾重忠の娘)が養嗣となって継いでいる。この出羽重昌の玄孫の豊敷は第八代土佐藩主となっている。
 重良の曾祖父と伝える重列の事績は、一豊の玄祖父盛豊の事績とまったく重なり、世代的には山内系のほうが妥当なようであるから、深尾氏のほうに伝える系図は信頼しがたい。重良の父の名前として伝える「重政」は、従兄弟の実・盛兄弟から考えるとありうる名前であるが、父の名が義通で、弟の名が宗通とされるから、疑問な感じもある。深尾重良が太郎丸から出たことは、上記「深尾系」にも記載がある(「深尾系図」には太郎村と記される)。
 こうして見ていくと、佐川深尾氏の先祖が、伊勢国鈴鹿山中の員弁郡深尾谷に隠遁して深尾氏を名乗ったという所伝は、根拠のないことだと分る。『土佐諸家系図』にも「濃州深尾谷」と見える。
 
 大名家山内氏にも家老深尾氏にも伝わらなかった系譜が美濃方面に残り、どうして『美濃国諸家系譜』として採録されたのか、その辺の事情は不明である。しかも、同系図集が明治期に栃木県宇都宮の神官・中里千族のもとにだけ、おそらく部分的にあって、その原蔵本から東大史料編纂所に採録されたものがいま伝わるが、こうした貴重な系図を集めた書が現存することに驚かざるをえない。
 
 (2010.5.1 掲上。2011.8.13補訂)


 深尾氏の記事追加

○鈴木真年編の『百家系図』第二四冊には、宇多源氏佐々木庶流の深尾氏関係の系図が三篇掲載されており、そのなかで真野系では、行範の六世孫の定義の子に深尾刑部丞高義が見え、「文和二年(1353)討死」と記される。その子に行信をあげて、更に系を続けるが、これをメモした時にはそれ以上の問題意識がなかったので、私のメモはここで終わっている。
 この関係で、ご興味があれば、国会図書館で同書(マイクロフィルム)をご覧いただくと、詳しい事情が分かると思われる。

 (2010.5.6 掲上)


 
 <上野達也様よりのご連絡> 2011.2.14受け                  
 
 「土佐佐川の深尾氏と藩主山内氏の系譜」について、ご連絡いたします。
 
 4に
>深尾掃部助は三河国に行ったとされ(旗本の子孫が多い掃部元治〔元晴〕に重なるか)、その子に五郎左衛門某(実名は不記載)で、深尾氏関係部分が終わっている。
とあります。
 
 これに関連してですが、
@その後、東大史料編纂所で「首藤山内系図」を入手いたしました。上記の、「五郎左衛門某」は、「五郎右衛門某」の誤記です。
 旗本深尾氏は、三代目の長男元延(元宗)と、その孫・某が、「五郎右衛門」を名乗っています(寛政譜 7-302)。二代目が、「五郎右衛門」を名乗ったことは十分に考えられます。
 
Aさて、寛政譜では、初代と二代目は、「掃部」を名乗っています。
「首藤山内系図」の「三河国へ移る」の深尾掃部助某は、旗本深尾氏初代にあたるとの御指摘でした。
 初代は、おそらく、新参者なので遠慮して、「助」を略して「掃部」と名乗ったのではないでしょうか。たぶん、身内宛の「旗本深尾氏本家古文書」には、「初代・深尾掃部頭元治」と書いています。二代目は、初代にならったということと思われます。
 
B私も、「旗本深尾氏初代と土佐深尾氏初代は兄弟だった」と、考えるようになりました。

 (2011.3.17 掲上) 

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