真野豊後守頼包の遠祖と後裔


 
T 上田收様の調査・検討

1 真野豊後守頼包とその後裔
 小生の近縁、真野氏には、「真野家の先祖は真野豊後守である」との言い伝えが残されていました。ただこれだけの口碑を手がかりにして、三十数年前にもなりますが、真野氏の先祖を調べ始めたところ、 真野豊後守とは、大坂城七手組頭の一人、真野豊後守頼包であり、頼包は父蔵人助宗と共に豊臣家に仕えていたことが判明しました。この助宗、頼包父子については諸史料その他によりかなりの事実、伝承が明らかになりました。
 ただ、大坂夏の陣における豊後守の最後については、従来の頼包自刃説に対し、それを否定する説、「大坂七興衆の事。真野蔵人は御陣前病死、子豊後守は御陣後藤堂和泉守に仕ふ(永夜茗談抜粋)」という頼包生存脱があり、どちらとも決めかねる状態でしたが、最近になって、後者生存説を裏付ける史料が世に出、豊後守が生きのびて藤堂高虎の下に身を寄せていたことが確定されました。
 
 藤堂藩初期資料「公室年譜略十三 元和二年」に次の記載があります。「此年 真野豊後守頼包ハ秀頼公ノ譜代ノ臣七組の番頭ノ其ノ一員ナリ 大坂没後沈淪タルヲ招キ玉ヒ千弐百石ヲ賜フ 数歳ナラスシテ卒ス 嗣子ナク家絶ス 後室ヘ小月俸ヲ賜フト云々」
 
  このように、頼包直系の子孫は絶えたと判明した今、口碑の「豊後守の子孫」は、「豊後守と近い血縁関係者の子孫」という意味に解釈せざるを得ません。因みに「公室年譜略」には、「真野文左衛門弐百石騎射隊」「真野与左衛門五百石供衆」などの真野名が散見します。また、山鹿素行の「武家事記」には、「大坂の陣。真野蔵人組(豊後守組の誤り)、合四三人」とあり、組士の中には、真野佐太郎(三六〇石、「戦国人名辞典」記載の真野佐太郎、秀吉馬廻、と同一人か)、真野半三郎(一六〇石)の名が見えます。両人とも豊後守の身内と考えられます。時代が下った徳川の世、幕臣の中には真野姓も見えます。
 これら真野姓幕臣の中には豊後守系の真野氏がいた可能性も否定できません。「原書房:江戸城下武家屋敷名鑑」を瞥見(寛政譜と未照合)すると「安永七年(1778)真野半十郎向柳原居住」が目にとまりました。この向柳原は、その西側が、藤堂家津藩、分家久居藩の上屋敷と接している土地です。しかしながら、仮にこの真野半十郎が豊後守につながる人物の子孫であったとしても、現真野家と結びつく可能性は極めて低いと思われます。
 
 上記近縁の真野家が江戸期に幕臣であったという言い伝えはなく、江戸末期には商売を営んでいました。家紋はカタバミでなかったかと思います。江戸時代に平民であれば家系を探ることは不可能といえます。この真野家に繋がる豊後守系の真野某が、どの時期、どのような身分、どのような経過で始めて江戸に姿を現したかは、残念ながら一切不明のままです。菩提寺(浄土宗、慶長五年創立)の過去帳を一覧すれば何らかの発見があるかもしれませんが、今のところは次のような結論に落ち着きます。
 
 開府以降の江戸を目指して諸国から集まった人々にはそれぞれの先祖があり、先祖の話を後生に伝えることも多かった。尾張あるいは伊勢出身の真野某一族の先祖は大坂城七手組頭一万石の真野豊後守頼包であった。最初は豊後守の実名とその功績を詳しく伝えていた真野家であったが、歳月が流れ、代を重ねる毎に口碑の風化が進む事は避けられず、明治期にはただ「真野豊後守」の五文字を伝えるに過ぎなかった。
 
 以上とりとめない内容を書きつらねてまことに恐縮ですが、もし何かお気づきの点がありましたら御教示をお願いします。
 
2 尾張の真野氏の出自
 次におたずねしたいのは尾張の真野氏の出自です。太田亮「姓氏家系大辞典」が記載する真野氏及び、関連項目の内容を次にまとめました。
「尾張国津島には四家七苗字と称せられる家柄があり、真野家は七苗字の一つである。四家七苗字の人々は、後醍醐天皇の曾孫、良王に従って海部郡津島に来た南朝方の遺臣の裔である。戦国時代彼ら土豪たちは最終的に織田家に属していたが、織田家没落の後は、領地を失い流浪、蟄居を余儀なくされ、あるいは神官となり、あるいは豊臣秀吉の下に属した。真野家については真野式部少輔道輔、真野蔵人が著名であり、中興系図には「真野、藤原、本国尾張、津島式部大輔道資の裔」とある。尾張には真野氏を称するものが多く、諸輪南城主柘植道昌の後裔が、近世真野氏に改称している。」
 
 *上記について補足しますと、次のとおりです。
@津島式部大輔道資は、「浪合記」には津島ではなく、真野姓の真野式部大輔道資と記され、南朝方遺臣の一人として登場している。
A四家七苗字家は南朝の遺臣として始めて津島に来住したのではなく、かなり古くからの津島を中心にした土豪集団であり、この集団が南朝方に組み込まれその後津島に戻ったと思われる(津島町史の大橋家、堀田家の項参照)、
B真野家は本能寺の変以前すでに豊臣秀吉に仕えていた。天正元年(1573)真野左近(蔵人)は秀吉から知行を与えられている(戦国人名辞典)。
 
 溯り得た真野家の歴史は以上です。「中興系図」の云う通り、真野家の本姓が藤原氏であることが事実とすれば、藤原姓から津島姓へ移行する間の経過を具体的に示す記録や系図といったものが存在するのでしょうか、尾張の真野氏の先祖について御教示ください。
 
  (09.9.09受け)


  U 樹童の検討
 
 戦国期から江戸初期にかけての時期に畿内や近江・尾張で活動が見える真野一族については、不明な点が多く、まとまった系譜も関係史料も管見に入っていません。このため、検討はたいへん難しいのですが、とりあえず分かることを整理して以下に記してみます。
 (以下、である体で表記
 
1 各地の真野氏とその系譜の概観
 真野という地名は、近江国滋賀郡真野郷をはじめとして、美濃国不破郡、常陸国久慈郡、陸奥国行方郡、讃岐国那珂郡、佐渡国などにあり、これらの地に関連して、古代の真野臣、真野首、真野造、真野公、真野連などの姓氏や苗字が起こったとされる。
 中世の苗字としての真野氏について見ても、きわめて多いようであり、近江(古代真野臣後裔と称宇多源氏の佐々木氏族の出があったか)、尾張(津島居住の藤原姓)、相模(間野。桓武平氏と称する三浦一族の出)、信濃(諏訪一族)、美濃、山城(鴨祠官)、伯耆、出雲(日御碕祠官)、備前、播磨、伊勢、武蔵などにも見える(『姓氏家系大辞典』)というから、地域によって系譜・出自が異なり、一概に言いにくい。
 次に、幕臣の真野氏にも多くあり、佐々木氏族、桓武平氏(北条氏流、三浦氏流)、藤原姓(秀郷流など)と称したといわれるが、どれも先祖からの具体的な系図を明らかにしない。これら幕臣の真野氏は近江ないし尾張津島の真野氏の流れを汲むようである。
 
2 大坂城七手組組頭の真野蔵人・豊後守親子の系譜
 この親子の出自は尾張津島の出とされることが多いようだが、それも確証がない模様である。むしろ、真野豊後守頼包が大坂落城後に藤堂高虎に仕えたのは、同じ近江出自という縁由かも知れず、娘婿として木村長門守重成を迎えたというのも同様に両家とも近江出自で佐々木氏族ゆかりという縁由があったからかもしれない。頼包の娘には、大坂城落城後、縁者を頼って近江国蒲生郡馬淵村に落ちて、そこで男子を産んだという所伝もある。
 この頼包の娘(青柳と称した豊臣家侍女だという)の叔母が秀頼生母の淀殿茶々の乳母の大蔵卿局(大野治長らの母)だともいうから、もう一人の淀殿乳母が近江浅井家出身の饗庭局であったことを考えると、大蔵卿局が真野豊後守頼包の姉妹であったこと或いは近江出身であったことも考えられ、これらの事情からも、真野氏が近江出自であった可能性が高まる。
 その一方で、真野頼包には大橋長将の子で真野蔵人助宗の養嗣となったという説や弟に祖父江定翰もいたという所伝からは、尾張の津島天王祠官家の大橋氏・真野氏に縁由があるのかもしれない。大橋氏には宗良親王の後裔の者がもとの大橋氏に養子に入った流れもある。
 真野蔵人助宗の父祖が不明であるので、ひとまず、これ以上の探索はなかなかしがたいところであるが、次に別の視点からも見ていくことにする。
 
3 津島天王祠官家の真野氏の系譜
 尾張国海部郡津島の牛頭天王(現・津島神社)の室町期の祠官家の一つとして真野氏があり、近世までつながるが、その系譜も藤原姓を名乗るものの、具体的には明確ではない。
 江戸期の族人として名高いのは真野時綱時縄。1648生〜1717〔一に1703〕没)であり、重綱の子とされ、子に綱廣がいる。江戸中期の神道学者・国学者で「藤波縫殿頭」とも号したが、松下見林・卜部兼魚・出口延佳などに伊勢神道・吉田神道などを学び、『古今神学類聚鈔(古今神学類編)』『津島牛頭天王祭礼記』など多数の著作がある。この家の系譜も複雑であり、藤波は伊勢神宮祭主の大中臣朝臣姓藤浪氏の庶流に出たという所伝(この故に藤原姓か。しかし、系譜は疑問か。藤浪は津島の古地名という)がある一方、『中興系図』には「真野 藤原、本国尾張、津島式部大輔道資の裔」と見え、諸輪南城主柘植道昌の裔ともされる。
 岡田米夫氏が書いた「古今神学類編解題」の項では、真野時綱の出自について次のように記される。すなわち、
「真野氏系図では、弘治三年〔1557〕に没した藤原綱清から記し…その出自を藤原氏としているが、同条には[家ノ秘記ニ藤浪ヲ以為称号云]とも亦[藤浪後真野ニ改]とあって、近世に於いては始めに藤浪を称し、後真野に改めたことが分かる。尾陽津島十一党姓氏考(天明七年真野豊綱撰)その祖並改姓の由来について、始応永年中藤浪佐近大夫顕綱と云者我家祖たり。真野式部少輔道資殊に睦まじくして我家に客たり。然るに顕綱男子無之故、道資男真野蔵人道綱と云者を育ひ取て入婿とす。是より家号藤浪を改めて真野とす。」(旧漢字・仮名は適宜改めた
 
 津島牛頭天王社の祠官家については、後醍醐天皇の皇子の宗良親王の子、尹良王は吉野から来て津島の神官となり、後に氷室氏を称して歴代の宮司家となったと『尾張志』に記される。これに供奉して吉野から来た武家四家、公家等庶流七家があり、その一人に真野式部少輔道資という人物がいたともいう。ここでいう「尹良王」は、尹良親王とその子の良王(尹重王)とに分けて考えられることが多いようで、前者は信濃国浪合山麓で自殺し、後者が永享七年に津島に来て牛頭天王神主になったとされる。
 『浪合記』には、吉野から宮を供奉してきた武士として大橋修理大夫定元、岡本左近将監高家、山川民部少輔重祐、恒川左京大夫信矩を四家、同公家等庶流として堀田尾張守正重、平野主水正業忠、服部伊賀守宗純、鈴木左京亮重政、真野民部大輔道資、光賀大膳亮為長、河村相模守秀清が七名としてあげられている。これら諸家は「四家七苗字」といわれ、津島祠官家として後世まで見える。この十一家に宇佐美・宇都宮・開田・野々村の四家を合わせて十五家で石高十二万石を配分したともいう。
 ところで、「四家七苗字」の十一氏が吉野から来たことや公家庶流というのは、ほとんどについて疑問が多い。具体的にいうと、四家筆頭の大橋氏は称桓武平氏の中根一族で三河出自、岡本氏は下野の称清原姓芳賀一族、山川氏は秀郷流藤原氏結城一族、恒川氏は播磨の称凡河内姓広峰一族の出であった。七苗字のほうでは、堀田は称紀姓(実系は京都祇園執行の八坂造氏)で鎌倉中期頃からの津島祠官、平野は清原姓とも平姓北条氏の流れともいい(実際には尾張古族末流か)、服部は伊賀、鈴木は穂積姓の熊野神官で三河、光賀は菅原姓で高辻支族か、河村は秀郷流藤原氏で相模を故地として陸奥の出であった。

 そうすると、肝腎の真野氏の系譜だけが不明であるが、津島では藤原姓を称するから宇多源氏を称する近江佐々木一族から出た家ではなさそうである。そこで、真野氏に関連しそうな点をこの十一氏について個々に当たってみたところ、河村氏に縁由が深そうな感じがあった。河村氏は相模の波多野一族の出で、奥州平泉の藤原泰衡討伐に功績のあった河村秀高の子の千鶴丸(四郎秀清。『東鑑』に見)が奥州名取・斯波郡の地を賜ったが、その子孫が奥州の宮方にあっておおいに活動し、宇津峰宮を奉じ伊達・田村氏らとともに勤王に従事した。「結城親朝注進状」には河村山城権守秀安の名も見える。『伊達勤王事歴』などにも奥州河村一族の名が見えるから、上記の河村相模守秀清はその一族とみてまちがいない。
 そこで、奥州にも磐城の行方郡に真野郷(真野川流域。現福島県南相馬市鹿島区の小島田・江垂一帯)があったことを想起し、この関係を『姓氏家系大辞典』で当たってみると、真野郷は行方郡の郡家があったことから、郡司の末裔が真野氏とも郡(桑折。ともにクヲリ、コヲリの訓)氏とも称したとされる。この郡司末裔と藤原姓伊達一族から出た桑折氏(伊達郡桑折に起る)とが融合ないし混合したが、真野五郎道直、真野五郎元家(一に四郎忠家)等があったと同書に記される。『伊達勤王事歴』には、延元中(1336〜40)に伊達行朝がその一族桑折五郎を行方郡江垂に居らしめるとあり、それが真野五郎元家といい、あるいは桑折五郎の三子三郎は真野郷に来たともいう。
 この真野氏・桑折氏は、伊達一族の桑折氏が多く通字「長」を用いることからみて、古族の後裔としたほうが適当であろう。ともあれ、奥州で北畠顕家や伊達行朝らとともに南朝方で活動していたことになる。真野五郎道直の名は真野式部少輔道資・道綱親子の祖先にふさわしいと考えられる。天文中にまだ桑折左馬助久家が見える(『奥相志』)というから、奥州に残った一族も知られる。
 
4 真野蔵人助宗の系譜
 前項までで津島祠官家の真野氏の系譜がほぼ解明されたと思われるが、真野蔵人助宗の系譜が津島に由来するとは必ずしも思われない諸事情が多くあり、それはすでに列挙した。助宗・頼包親子の命名が「道」とか「綱」とかの通字を用いないからでもあり、また信長・秀吉に馬廻役として仕えた真野善右衛門有国・七左衛門有春が津島の真野氏から出たという所伝にも合わないからでもある。そうすると、真野蔵人助宗は近江の真野氏から出たとみるほうが自然のようである。

 そこで、近江の真野氏についても見ておきたい。
 真野臣は孝昭天皇後裔と称する和邇氏族の出であって、『新撰姓氏録』には右京皇別下に真野臣をあげて、「天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命の後也」であり、韓地から帰来した和珥部鳥らが近江国志賀郡真野村(現大津市北部の真野)に住んで庚午年に真野臣の姓を負うとある。この後裔は史料にほとんど現れないが、当地に続いていたとみられる。
 近江の古族佐々貴山君の末裔になる称宇多源氏の佐々木一族にも真野氏が見える。佐々木系図には、佐々木行定(源三秀義の叔父。経方の子)の弟ないし息男に五郎大夫行範(真野)をあげ、その子に真野源二定時をあげるが、その子たちには石橋は見えるものの、真野の名乗りが史料に見えないから、それらの子孫のどこまで真野が名乗られたかは不明である。
 佐々木一族の真野氏が起こったのは、実は志賀郡ではなく蒲生郡真野間野とも書き、JR近江八幡駅の南方近隣の現近江八幡市鷹飼町辺り)であったことに注意したい。五郎大夫行範の子孫に古川・武佐・船木(苗字の地はともに近江八幡市域)などもあるが、間野は古川と武佐とのほぼ中間に位置する事情がある。この真野氏は系図に間野とも見え、間宮氏がその一族にある。志賀郡から琵琶湖対岸の日牟礼八幡宮辺りに和珥一族の櫟井臣が遷ってきたが、その故にマノの地名を伝えたか同族の真野臣も一緒に遷ってきたかの事情があろう。佐々木一族にも、イチイ氏があり、五郎大夫行範の兄・三郎大夫行実の孫の家職が一井三郎と名乗っている。家職の子にも真野大輔房源定が見えるが、間野の地の北方近隣に市井があり、その付近に日牟礼八幡宮があり、その東方に浅小井、西方に船木の地がある。三郎大夫行実の長子が浅小井源太盛実で、これが一井三郎家職の父であった。

 『太平記』には巻二に佐々木判官時信(嫡宗の六角氏)の配下として真野入道親子が見えている。この真野入道の系譜は不明であるが、宇多源氏の佐々木一族と称する真野氏が四目結紋を用いたと『日本紋章学』に見えるから、佐々木一族真野氏の子孫はあったものか。戦国期には真野城に真野元定がおり、六角氏に属したといい、その子孫が江戸幕臣の真野五兵衛盛次だといい『寛政譜』に家紋が「丸に四目結」と記す。これら近江の真野氏においては、どうも古代真野臣と佐々木氏族が系譜的にも所伝的にも混融しているようだが、その実態が不明である。
 なお、藤原支流という真野氏は菊紋、藤紋、茗荷紋、桜紋を用いたと同書にあるが、茗荷紋は平姓を称する真野氏も中根氏も用いたというし、平姓の三浦氏族の出という真野氏で藤丸・藤巴を用いたともいうから、この辺の区別はよく分からない。
 
5 余論あるいは付論
 もう少し、真野氏関係の系譜について触れておく。事情が断片的でよく分からないから、問題提起のつもりでもある。

(1) 東大史料編纂所蔵の『幕府諸家系譜』第二九冊に平姓という真野氏の系図が見えており、鎮守府将軍平良兼の第十三代として真野豊後守をあげ、その二男が真野孫三郎重政であって近江人と記し、その子の新太郎重則は近江に生まれて鷹匠として大神君家康に召し出されたとして、その子の九兵衛重吉以下子孫の系譜を記載する。ところが、『姓氏家系大辞典』では『寛政譜』などにより、この家は、三浦佐原義連の三代真野五郎胤連の後であって、「金右衛門重政(尾張富塚の人、仕信長)−同重吉(元亀二卒)−同重家(寛政に孫三郎重政、仕家康)−惣右衛門重則(近江二百四十石)」と記載する。この辺にも、尾張と近江に大きな混乱が見られるが、解明が困難である。
なお、真野金右衛門重宗(重家同人か)の養子に女系親族の庄九郎重勝(正勝)もおり、もと野尻氏を称していたが、真野氏を名乗り秀吉・家康に仕えて鷹匠頭をつとめた。
 
 (2) 『姓氏家系大辞典』では、秀郷流藤原氏という民部丞正永が近江真野を領して家号とすると記し、『寛政譜』には正永の後裔の「太郎右衛門正俊(仕信長)−勘右衛門正次(近江百七十貫文)−勘兵衛正重」という「正」を通字とする真野氏をあげる。これも近江真野に起こったというから、実態は古族真野臣の末流なのであろう。 そして、上記(1)の九兵衛重吉の子孫の女性がこの「正」流真野氏の男性(真野与惣兵衛正常)の妻となって通婚するから、(1)と(2)とは本来同族で真野臣末流なのではなかろうか。こうしてみると、幕臣となった真野氏の多くが近江出自であったことも考えられる。
 
  (09.9.21 掲上、9.25追補)



 V 真野信治様の調査・検討 −真野豊後守について

  当家に伝わる過去帳・寺社記録その他から現在のところわかっていることは、以下の通り。

1.祖先は豊臣秀吉家臣、真野助宗・頼包父子であると記されている。 

     大阪の陣にて討死(助宗か頼包か不明)した。 

2. 頼包に二子あり。父の命により姫路城主のもとに落ちのびる(但し、大阪戦役以前)。

頼包が姫路城主(池田輝政か?)と懇意であったためとのコメントあり

3.その後大阪城落人の探索厳しくなり、城主の計らいにて城崎に落ち延び、油筒屋に身を寄せる(油筒屋:西村六左衛門宅

4.二人の子のうち、兄は西村に改姓、弟はそのまま真野を名乗り津居山に移住。 

5. その後、海運業(廻船問屋等)を生業とし、明治維新をむかえ、理由は不明であるが、私の曽祖父の代に上京し、都内に住す

 現時点で私自身、豊岡市津居山往訪の機会がなく現地での調査ができてないのが残念なところです。

 現地調査ができない分、別な角度から約二十年調べてきましたが、あまり進展はありません。

 大きく分けて、『助宗』以前と『頼包』以後に整理してその系譜を探求してきましたが、理論的に

  真野助宗

右近、左近、右近丞、蔵人、法名:宗真、別名定季という史料もあり

秀吉馬廻り役。母が織田信長姉という史料もあり

1570年秀吉今浜城築城時の普請奉行の一人(他は藤堂高虎、青木一矩、加藤作内)
 このようにかなり早い時期から秀吉直参の家臣となっていることを考えると、織田信長家臣の真野氏(津島)とは別系であろうとの予想がつく

秀吉中国大返し時に姫路城在番であったこと、(前野将右衛門との関係)

小田原城攻め、朝鮮出兵などに従軍する

  真野頼包

助宗の子、蔵人、豊後守

大橋長将の子で助宗の養子となったとの説もある

秀頼七手組の一人、3000石

京都妙心寺衡梅院を再建(但し、記録には真野蔵人一綱とある、別人か?

   大阪の陣後の行方

@   討死

A   藤堂高虎に仕える

B    池田氏家臣伊木氏に仕える

C    堺に潜伏後、長崎へ

D     城崎、津居山へ(当家の記録)

 

  小袖

大倉卿局、淀君付侍女

助宗の姉妹か?娘か?

  □ 青柳 

   頼包の娘

   木村重成の妻

 

最初のテーマである、真野助宗の出自については調査をすすめていましたが、今のところ良質の史料に巡り合いません。今後は『武功夜話』の記述をもう少し調べる必要があると思っています。

 ただ、秀吉に仕えた時期を予想するに、近江国出身の地侍である可能性が高く、

)同国出身の木村氏との親密な関係であったこと

)同国出身の藤堂氏に仕えたとの説があること

)戦国前期に六角氏に仕えた真野元定の存在があること

等々の記録と多くの関連系譜集から判断するとやはり佐々木氏と思われます。

 したがって、ざっと以下の通りの系統だと考えました。(試論段階です

 ■佐々木経方→行定→行範→定時(真野源二)→定範→範実・・・・・忠晴→□□(阿忍)・・・元定・・・助宗

    ※行定は佐々木宮神主(これは『延喜式』に見える蒲生郡沙々貴神社)

第二のテーマである『頼包』以後の系譜についてですが、丁度ある資料を確認しようとしております。

  我が家の記録にあるように、昵懇であった池田氏居城の姫路に移住(避難)したあとの状況です。

  岡山大学附属図書館の所蔵コレクションの中に池田家文庫というものがあります。(HPあり  まあ、池田氏関係の資料を探索していたところヒットしたものですが、その資料はすべてマイクロフィルム化されているようですが、家臣伊木家文庫の中の藩士(奉公書)に真野氏系図が存在することを確認しました。近々このマイクロフィルム複写を依頼する予定です。

検索画面があり「真野」で検索してみると上記文庫名中の簡易的内容なのでしょうか?存在する資料番号などの結果とその「内容細目」を確認することができます。

 そこには、

■豊後守頼包→包道→包高→包教→包賀→包定   とありました。

 これをみると城崎へ移住していった我が家の一統とこのように池田藩に残留した一統がいたのかとびっくりしているところです。ここは是非、系譜内容の詳細を確認すべきと考えています。

また、何故城崎辺りに移住地を定めたかについても「姫路城主の計らいにより〜」との記述はありますが。

  この城崎近辺から津居山あたりは、過去には津山関といい、円山川から河口にかけての水運の重要な拠点であったようです。室町時代は山名氏の最も重要な領土であり、応仁年間には佐々木兵庫助源国吉が代官であったとの記録があります。この佐々木国吉の系譜的位置はわかりませんが、真野氏が仮に佐々木氏族であると考えれば、なんらかの関係がある地域であったのでは、とも思われます。

   以上、現在のところ、自家の先祖の調査研究はあまりはかどってはおりません。

   (09.10.14受け、10.16掲上)



 W <上野様からの問い合わせ> 10.4.22受け

 「真野豊後守頼包の遠祖と後裔」での 「U樹童の検討」の
>佐々木一族の真野氏が起こったのは、実は志賀郡ではなく、蒲生郡真野(間野とも書き、JR近江八幡駅の南方近隣の現近江八幡市鷹飼町辺り)であったことに注意したい。五郎大夫行範の子孫に古川・武佐・船木(苗字の地はともに近江八幡市域)などもあるが、間野は古川と武佐とのほぼ中間に位置する事情がある。この真野氏は系図に間野とも見え、間宮氏がその一族にある。
 
との説明は、大変興味深く拝見させていただきました。
 と、申しますのは、深尾氏3つの流れを調べているからです。深尾氏には、@浅小井氏から出た深尾氏(以下、「浅小井深尾氏」と略称。同様にして)、A伊庭深尾氏、B真野深尾氏があります。
 
 真野深尾氏から土佐藩家老の佐川深尾氏や旗本西尾氏が出ております。
佐川深尾氏の子孫・深尾芳弘氏は、家伝の古文書からと思われますが、行範の子・定時(真野源次郎・源三・古橋太郎)は文永十年(1273)5月28日近江国真野荘・近江国滋賀郡真野村。真野氏を称す。
と書いています。
 
 しかし、行範の子孫が現・近江八幡市南部の地名を名乗るのが多いことから、「滋賀郡ではなく、蒲生郡の真野(間野)」から起きたとの御指摘は納得の行くものでした。
と、いうのは、行範から8代目の定義の子・高義は、伊勢の深尾村に移住して深尾を名乗ったものですが、
「なぜ深尾村を知ったのか」については、
「おそらく、浅小井深尾氏の手引きがあったのではないか?」
と考えられるからです。「滋賀郡」では、浅小井深尾氏からの居住地から遠く、唐突すぎるように思えます。
 上記記事の出典を教示いただきたいと思います。  
 
 <樹童からのお答え>
 主に蒲生郡真野についてのご質問に対してお答えして、深尾氏のうち土佐藩家老をつとめた佐川の深尾氏については、結論のみをここで記し、詳細は別稿で記します。
 
1 近江の真野と比牟礼八幡宮
 (1) 真野という地名は、全国各地にあり、近畿地方と周辺を見ても、摂津国八部郡真野村や美濃国不破郡真野郷などがありますが、近江国内の真野はその本源が滋賀郡真野郷であることは確かなようです。
 この地に起こった真野臣氏は和珥臣の同族(和珥氏族)であって、和珥氏族は湖南の滋賀郡のみならず、同郡を基に近江全域に拡がってこの氏族に特有の地名を遺したとみられます。蒲生郡に属した近江八幡市辺りには和珥氏族の櫟井臣氏が居て、比牟礼八幡宮の神主家につながるとみられますから、その付近に他の和珥氏族諸氏が湖南から遷住してきても不思議ではありません。蒲生郡の真野(間野)という地名は、このように生じたとみられます。市井という地名も比牟礼八幡の近隣にあり、氏子地域になっていますし、浅井郡の櫟井氏は『明匠略伝』相応和尚の伝で知られます(『姓氏家系大辞典』イチヒヰ条)。
 
(2) 比牟礼八幡宮は、もとは延喜式内社の大島神社(大島郷)と奥津島神社(奥島村)を併せた形ですが、これに船木郷の比布礼社が加わる形となっており、比布礼社は大島神社と合わさったときに比牟礼社になり、それがさらに比牟礼八幡となりますが、日触八幡という別称もありました。「比布礼・日触」というのは、近江の和珥氏族の祖のヒフレのオミ、すなわち「和珥臣の祖・日触の使主(『書紀』応神段)、丸邇の比布礼の意富美(『古事記』応神段)」のことであり(志賀剛著『式内社の研究』第七巻)、真野臣や櫟井臣はその一族の後裔とされます。
 
2 土佐佐川の深尾氏の系譜
 土佐太守山内家の家老をつとめた同国佐川の深尾氏については、近江佐々木一族の出だと伝えますが、歴代の系譜が明らかではなく、東大史料編纂所所蔵の『美濃国諸家系譜』第四冊所収の「首藤山内系図」によると、近江出自というのは仮冒で、藩祖山内一豊の美濃の同族であったとし、深尾の地名も美濃国山県郡深瀬村(現山県市、旧高富町)の山の麓のほうを深尾といい、これが先祖の深尾義通(一豊の祖父実通の弟)の出所なるべしと記されます。内容を検討すると、こちらの系譜所伝のほうが妥当だと考えますので、別稿にもう少し詳しく記します。
 この別稿 土佐佐川の深尾氏と藩主山内氏の系譜 をご覧ください。 
 
 (2010.5.1 掲上)

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