下館城主の水谷蟠竜斎の先祖−ある中世系図の検討方法 (2)−
戦国期の常陸の武将であった水谷蟠竜斎正村の系譜について検討を加えてみる。これまで知見のなかった『水谷家譜』という史料にめぐりあったのが検討の契機である。 一 水谷蟠竜斎正村と歴代の下館城主
戦国時代後期の常陸西南部、真壁郡の下館城主に水谷蟠竜斎(みずのや・ばんりゅうさい)正村という猛将の誉れ高い武将がいる。十六歳の初陣(天文八年〔1539〕とされる)以来軍功が多く、はじめは多賀谷氏とならぶ結城家四重臣の一であったが、合戦上手で近隣に武威をはり、水谷氏の最盛期を現出させた。秀吉や家康ともよしみを通じ、北条氏討滅後の関東再配置のときに結城家から独立する形で大名として実高五万石(『藩翰譜』では二・五万石とも三万石ともいうが、これは名目の石高数)の所領を安堵された。正村は、家督を弟・弥五郎勝俊に譲り、久下田城で隠居して慶長元年(1596)に七六歳で死去している。 水谷氏のその後の動向では、勝俊のとき関ヶ原の合戦には東軍に属して加封があり、その子・伊勢守勝隆のとき、寛永十六年(1639)に備中成羽(さらに松山〔現岡山県高梁市〕へ)に移封になった。その半世紀後、勝隆の孫の出羽守勝美が元禄六年(1693)に死亡したとき、嗣子がなく(一族から末期養子となった弥四郎勝晴が遺領を相続しないまま、勝美忌中のうちに没した事情がある)改易となるが、その弟・主水勝時(宣勝)が名跡相続を認められ、子孫が三千石の上級旗本として存続した。また、結城家の名跡を受け継いだ結城(松平)秀康の子孫が藩主であった越前福井藩の家中にも、水谷氏が数家見られる。
水谷氏の室町期の動向を見ると、永享の乱に続く嘉吉元年(1441)の結城合戦で主家の結城家がいったん滅んだ後に再興し、その際の文明十年(1478。一説に長享元年〔1487〕)に結城家から所領として賜った下館(旧下館市、現茨城県筑西市)に水谷孫三郎勝氏が城を築いたという。この入部は応仁の乱が治まった翌年のことであり、勝氏が勧請した羽黒神社(筑西市甲)の縁起に記される。なお、旧下館市域には七羽黒と呼ばれる羽黒神社があり、いずれも水谷一族が勧請したものと伝え、備中松山藩の領内の玉島にも羽黒神社が勧請された。 水谷勝氏から後の系譜については、概ね争いがない。すなわち、「@勝氏(伊勢守)−A勝国(兵部大夫)−B勝之(伊勢守)−C勝吉(兵部大輔)、その弟のD治持(正吉。伊勢守)−E正村(勝村、治村。兵部大夫、出羽入道蟠竜斎)、その弟のF勝俊(伊勢守、右京大夫)−G勝隆(伊勢守)」ということであり、この八代が下館に居城して伊佐郡一帯を含めて支配したものである。蟠竜斎正村は下館第六代ということになる。
二 水谷勝氏の先祖についての所伝
ところで、勝氏より前の系譜には、大きく二伝あり、@秀郷流藤原氏説、A桓武平氏岩城一族説がある。このため、本稿でとりあげてこの関係の検討をするものである。 『新編常陸国志』『姓氏家系大辞典』や桐原光明著『水谷蟠竜斎 戦国の武将・下館城主』(1990年、筑波書林)、古澤襄氏など管見に入った主なところでは、秀郷流藤原氏説がとられている。それによると、藤原秀郷の後裔の近藤太能成の子・仲教(大友能直の弟)が源頼朝に仕えて、陸奥国田村庄の地頭職を与えられ、田村氏を称した。仲教の孫・重輔の時、近江国犬上郡水谷郷を与えられ水谷を称し、その子・清有は陸奥行方郡猿田七郷を領したのだという。
これにかなり似ているが、田村仲教の子・仲能は、叔父の親実(近藤太能成の子で、陸奥国岩城郡水谷の地頭となって水谷を称したという)の養子となって水谷氏を継ぎ、関東評定衆に任ぜられ鎌倉に住した。仲能の子・重輔、その子・清有と続いて、清有は六波羅評定衆に就き、子孫は陸奥国行方郡猿田七郷を所領とし猿田に居住したが、猿田の家が滅んで下総に移り結城に仕えたという。『藩翰譜』にも記載される所伝である。
これら二伝とも、水谷氏が秀郷流近藤氏から出たことを含め、ほぼ一致しているといえよう。この流れの場合には、清有の子が季有(一に秀有)で、季有の四世孫ないし五世孫(a良永−氏盛−氏信−時氏、b貞有−広有−秀詮−氏信〔一に氏俊〕−時氏、という二種類の所伝がある)が時氏とされていて、その代に永享の乱が起こって討死をとげたが、これが孫三郎勝氏の父とされる。
一方、第二の桓武平氏岩城一族説の場合は、陸奥国岩城郡に繁衍した岩城一族の岩崎(一に岩城)隆安の子ないし子孫が水谷孫三郎隆重であり、その子孫が隆則−勝隆−勝氏と続くもので、苗字起源の地は岩城郡水谷とされる。こちらの説が劣勢なのは水谷氏の歴代が不明という事情もある。
三 所伝の検討
二つの説をよく検討してみることとしよう。 『尊卑分脈』によると、秀郷流の系図には仲能は評定衆、その子「重輔−清有−季有」と続け、清有・季有の親子はともに六波羅評定衆と記され、重輔・清有の親子には水谷と註記される。同書にはもう一個所、大江氏の系図のなかにも水谷氏が見える。大江広元の妹の子に水谷重清とあり、その子に「重輔−清有−宗有・秀有兄弟」とあげるから、重輔の実父は水谷重清(大江広元の猶子となると譜註にあり、仲能は重清の従兄弟とされる)と知られる。清有には「大蔵大輔、左衛門大夫、刑部大輔、従五位下、六波羅評定衆」と譜註があり、秀有には「兵衛蔵人、弥七」と記される。
水谷右衛門大夫重輔は『東鑑』に見えており、『太平記』巻三には水谷兵衛蔵人(持明院統の新帝登極の警固武士)が見えるから、この者は水谷秀有にあたるとみられる。秀有の子の貞有は建武頃の人で六波羅陥落後に足利尊氏に属したというから、この者が『太平記』巻二四に見える水谷刑部少輔(室町幕府の天竜寺供養に参加の武士)にあたるとみられる。
さて、近江には犬上郡に水谷という地(多賀町の大字で、「すいだに」と訓む)があるが、多賀大社の北方の狭隘な山間地にすぎず、この地に六波羅評定衆になるほどの有力武家が居たことはあまり考えられない。ところが、但馬の太田文には、「養父郡水谷大社・当国三宮、領家関東御分……預所地頭神主水谷庄左衛門大夫清有」とあり、この清有が『尊卑分脈』の上記二個所に見える水谷清有であって、「代々此の地方の地頭にて、且水谷大社(養父神社)の神主を兼ぬ」と太田亮博士が『姓氏家系大辞典』で記される。
この指摘は妥当である。そうすると、「水谷」は水谷大社たる養父神社(兵庫県養父市養父町市場に鎮座する式内名神大社)に由来するもので、その東方近隣の奥米地にも水谷神社(訓は「みずたに」。近くに水谷集落がある)があってこちらが本来の式内社とする説もあり、いずれにせよ、陸奥とは関係ないことが分かる。秀郷流水谷氏の一族は但馬や京にあって、陸奥や常陸とは無関係であったということである(この後裔の行方は不明であるが、伊勢の北畠家臣に水谷刑部少輔などがあったというから、それにあたるか)。しかも、訓はミヅタニであった。水谷氏が『太平記』に見える二個所とも、大江広元の子孫である長井氏と共に行動している事情にもある。近江の犬上郡水谷からは佐々木京極の一族で黒田氏の後と称した水谷氏があったともいう。
さて、陸奥国行方郡猿田七郷とはどこなのか。地名から見ていくと、福島県の旧行方郡小高町(現南相馬市小高区)一帯とみられる。小高区(おだかく)には水谷(みずがい)という地名があり、その北西三キロほどには同区福岡の字として上岩崎・下岩崎の地があり、水谷の東隣には同区女場(おなば)字猿田がある。
この旧小高町一帯の地名は、南方の磐城郡(現いわき市)から遷住してきた一族によりもたらされたものとみられる。というのは、磐城郡には小高郷(『和名抄』)があり、いわき市域には岩崎郷、猿田、水野谷、船尾などの地名が近隣に見られるからである。こうした地名を伴って氏族移動する状況は、古族末裔に見られる傾向である。
磐城郡の水野谷(JR湯本駅の東方で、南隣の下船尾と接する)はミヅノヤで、下館の水谷氏と同じ訓みであり、上記第二説の岩崎一族の出とすることと符合する。「仁科岩城系図」(『諸家系図纂』『系図綜覧』に所収)には、元弘中の人とされる岩崎隆時の子に舟尾六郎隆勝をあげ、その子に水谷孫三郎隆重、その子に隆秀・義隆(水谷孫三郎)の兄弟があげられる。親子の呼称「孫三郎」は、下館水谷氏の祖(中興の祖?)が孫三郎勝氏とされることに通じる。
このように見ていくと、下館水谷氏の系譜に関する多数説は誤りであることは明白である。その系譜を秀郷流としたのは、下館での主君であった結城氏と同族の意識をもって系譜仮冒をしたものと考えられ、のちに結城家の重臣として同家中で重要な位置を占めた基盤ともなったことが考えられる。水谷氏の家紋である三頭右巴は結城氏と同じであり、これは縁組みに因るという。『新編常陸国志』補遺には、水谷氏の起源の地を岩城の水谷庄とし、重輔がその地頭となり、その子の清有が行方郡猿田を領したという所伝を記すが、これは当事者の名前について疑問があるものの、こうした氏族移動の流れはあったものと考えられる。
四 水谷氏初期段階の実系の探究 水谷氏関係の系図を探索してみると、東大史料編纂所に『水谷家譜』(東京市本郷区の中野駿太郎原蔵、昭和六年謄写)という系図があることがわかった。これは、桓武天皇にはじまり平繁盛流という岩城一族を経て、断絶した水谷弥四郎勝晴までの系図であり、旗本として続いた宣勝があげられるものの、それ以降は記されないから、元禄ごろまでの成立とみられる。そこには歴代の名前が記載されているから、他に見ない記事もあって貴重なものと考えられる。 この系図と岩城一族の系図、具体的には前掲の「仁科岩城系図」や「岩城国魂系図」などを参考にして本問題を考えていきたい。注意すべきは、岩城氏本宗が室町中期頃に絶えて、支族の白土氏(下総守隆忠か)が惣領となって戦国大名となり、江戸期の大名家(出羽亀田藩主岩城氏)につながることとともに、水谷氏が出た岩崎氏もほぼ同様な時期に絶えている事情である。佐々木慶市氏はその著書『岩城惣領譜考』のなかで、「岩城国魂系図」が最も信用がおけるものであろうと記述する。また、岩城氏が桓武平氏というのは系譜仮冒であって、実態は古代の石城国造の後裔である阿倍磐城臣姓だとみられるが、この遠祖の検討も興味深いものがあるが、ここでは取り上げない。
こうした諸事情から、『水谷家譜』にもいくつかの問題点や混乱(例えば、年代記事など)があり、それは「仁科岩城系図」でも同様であって、今のところそれぞれの優れた部分を適宜、取捨選択したうえ総合的に考えざるをえないということである。その際には、主君であった結城家や重臣であった多賀谷・山川などの諸氏の系譜との対応なども判断材料となろう。これら諸氏の間においては、通婚や養猶子縁組がかなり頻繁になされていた事情があるからである。
岩城一族の確実な祖は、「岩城国魂系図」の始めにあげられる高久三郎忠衡である。高久(たかく)邑を含む一帯が古代の磐城郡磐城郷であり、高久の北隣の菅波には大国魂神社や甲塚古墳もあった。この辺りが古代石城国造の治所とみられると太田亮博士が記される。忠衡の子の忠清が岩城二郎を名乗って岩城宗家となり、その子の好島太郎清隆のときが頼朝将軍の時代にあたる。飯野八幡宮の古縁起には、文治二年(1186)の藤原泰衡追討の奥州合戦のときに地頭岩城太郎清隆とその嫡男で別当の師隆が見え、承元二年(1208)には好島庄地頭として清隆三男の高宗が見えている。清隆の子孫から岩城宗家・白土・好島・菅波などの諸氏が出た。
次に、忠清の弟には岩崎三郎忠隆及び荒河四郎直平がおり、岩崎系統からは舟尾・中山・住吉・駒木根などの諸氏が出て、荒河系統からは国魂・富田・幕内などの諸氏が出た。後年には大江姓とも称した大国魂神社神主山名氏も荒河四郎直平の後裔となるから、岩城一族が古代石城国造の流れを汲むことが分かる。荒川は菅波の西近隣に位置する。
岩崎三郎忠隆の後は、その子の「政隆−資隆−忠秀−隆安−隆時−隆久」と岩崎本宗が続いて(「仁科岩城系図」)、島(現いわき市小名浜島)と舟尾に居住した。岩崎弾正左衛門隆久あたりが南北朝期、建武〜観応の時代であって、『太平記』巻三にも岩崎弾正左衛門尉高久と一族が見える。岩崎宗家はその後は「持隆−隆衡−清隆−隆綱」(この部分は推定、仮置き)と続いた模様であり、文明期の三郎隆綱のときに姉婿であった岩城親隆(白土から本宗家になった隆忠の子)によって滅亡したとされる。弾正左衛門隆久の弟に舟尾六郎隆勝がおり、その子が水谷孫三郎隆重、その子に隆秀・義隆(ママ。水谷孫三郎)の兄弟が出たことは、先にも述べた。
『水谷家譜』では、祖の岩城小三郎隆安を岩城本宗の朝義の弟においており、岩城郡水谷郷に住み、その子の隆重が初めて水谷と名乗ったと記す。こうした隆安の系譜上の位置づけには疑問があるが、孫三郎隆重のときから水谷氏が始まったというのは信頼できそうである。その子の孫三郎隆義については、岩城より常州真壁郡下館城に移ってここに居住したと記されている。
東大史料編纂所にはもう一本『岩城系図』(岩手県江刺郡岩谷堂町の岩城基規原蔵、1891謄写)があり、これでは岩崎隆安の子に隆時・舟尾六郎隆勝・水谷孫三郎隆重を兄弟としてあげ、隆重の子に同孫三郎隆義をおいて「常陸下館祖」と記される。この場合には、隆義の頃が南北朝初期にあたることになる。どうも、水谷氏初期についてはこちらの所伝のほうが妥当なようであり、「隆安−隆重−隆義」という続き方は『岩城家譜』に合致する。
隆義以下については、その子の「隆昌−隆治−隆清−清勝−隆国−隆正−隆俊=隆則(女婿、養嗣とする)−隆勝−勝氏」と『水谷家譜』にあげられる。しかし、岩崎本宗で見たように、弾正左衛門隆久・舟尾六郎隆勝兄弟のときに建武〜観応の頃であるから、その孫の孫三郎隆義のときには応永頃となる計算であるが、一方『岩城系図』では隆義の頃が南北朝初期にあたることとなり、いずれにせよ、その子孫の勝氏までの世代数が四〜六世代ほど多いことになる。しかも、『岩城家譜』では、隆治は鎌倉期の結城朝広に仕え、その子の隆清は結城広綱(朝広の子)に仕えたという年代混乱の記事も見える。勝氏の三代祖にあげる隆俊の妹が多賀谷彦五郎政経(天正四年〔1576〕卒)の妻とされるのも、年代上の問題が大きい。 水谷氏と結城氏との関係ができたのは、『結城御代記』等によると康永二年(1342)四月に尊氏の命で結城直朝が南朝方の常陸関城を攻めたときのことのようで、直朝は討死したが、関次郎泰光を水谷左近将監が討ち取ったとある。その直後の文には「水ノ谷左近将監氏盛」と見えるが、氏盛の名は何に拠るのか不明であり、年代的には隆義に当たりそうである。
続いて、「皆川文書」には応永二四年(1417)四月、下野国皆川庄の上杉氏の跡地について禅貴(結城基光)が水谷出羽入道(沙弥聖棟)へ指示を出していることが見える。水谷出羽入道は水谷氏関係の系図には見えないが、勝氏の傍系の祖にあたるのかもしれない。
これらの史料からみると、南北朝初期の頃から水谷氏は結城氏に属して活動したものとみられる。これら辺りの諸事情を総合的に考えると、応永頃の人で結城基光に仕えたという孫三郎隆俊が孫三郎隆義の孫世代におかれるとみるのが妥当ではなかろうか。この場合、隆昌〜隆正という六世代の大半が削減となるが、この六世代が造作でなかったとしたら、実際に存在した傍系(隆義の子の隆昌から始まる系か)ではないかと考えられる。このあたりは史料が乏しく推測にすぎないことを付記しておく。
隆俊については、男子がなく、娘を結城基光の三男光義に嫁して婿に迎え養嗣として小太郎隆則と名乗ったと『水谷家譜』に記すが、これは信じられない。たしかに結城基光(一説にはその子の満広)には原三郎光義という息子がいたが、結城合戦のときに当主氏朝とともに討死しているからである。しかも、光義は結城重臣となる多賀谷氏に入って氏家・高常などを生んだとされるから、疑問が大きい。水谷勝氏が結城の遺児成朝を助けた事績も多賀谷氏家と類似する点が大きいから、この隆俊・勝氏の辺りの『水谷家譜』の記事は、多賀谷氏の所伝から持ってきたことも考えられ、信じがたい。
小太郎隆則は隆俊(隆義)の実子とみられ、隆則の子とされる隆勝は年代的に考えて、おそらく兄弟であろう。そして、隆勝のときに結城合戦があったとみられるのである。ところが、隆勝についての『水谷家譜』の記事は、正長元年(1428)に死去したとあり、結城合戦のときには勝氏の時代になっていたとされ、勝氏が遺児成朝を携えて脱出したことになっている。勝氏の活動年代も寛正2年(1461)に死去となっていて、他の史料に見える死去時期よりかなり早い時期があげられている。こうしてみると、『水谷家譜』の記事には少なくとも勝氏の時代以前は信拠しがたいものが多い。
一方、隆勝その子勝氏というつながりは自然であり(勝氏の弟に勝直及び僧隆周があげられるが、それらとの関係でも問題ない)、勝氏の祖先二代ほどがすでに下館にあったから、結城家再興がなったときに水谷氏でも旧地に復したものであろう。隆勝の主君が結城氏朝であれば、その片諱をもらって隆勝が時氏と名乗った可能性もあるかもしれない。勝氏は結城氏朝の遺児成朝の結城復帰に尽力したといわれ、この頃から水谷氏が結城重臣として活動するのが見えるから、勝氏の先祖の代から結城家中にあったとしてよかろう。そして、勝氏から(中興の)下館水谷氏の歴史がはじまることは当初に述べたところである。
(おわりに)
水谷氏の系譜を検討するうち、岩城・岩崎一族や下総結城氏とその重臣諸氏の系譜まで検討することになったが、一応の結論までたどりつけたと思われる。ここで見てきた『水谷家譜』の記事には疑問が大きい個所もかなり多いが、その所伝の系譜には採るべきところもあると思われる。概していえば、系図研究においては、こうした検討の繰り返しかも知れない。とくに信頼性のある系図がない場合には、このような形の検討が必要となろう。 ここでの記述は、史料が乏しいなかでの検討なので、別の史料が出てくれば、変わってくる結論もあろうが、常陸の水谷氏が岩城一族から出て岩城郡水谷から起ったということは、大筋問題がないと思われる。ただ、同地から何故、下館に移遷したのかという事情などは、関城攻めの縁ではないかと思われるが、まだまだ不明な点がある。その辺は岩城氏本宗の行末の問題と併せて、後日の考にまちたい。
(2007.11.24 掲上、同11.29追補)
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