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矢田部氏系統の系譜推定
ある仮定を後半の「天孫本紀」系譜について考えると、驚くような筋が少しずつ見えてくる。その結果をさらに展開していったとこ
ろ、当初の予測がまったく及ばないような結果となった。しかも、検討を加えるほど、裏付けないし傍証が出てきて、かなりの程度確信が強まった状況にもあ
る。とはいえ、これまでの様々な学究見解からは飛び離れた内容であるため、試論としてここに提示する次第である。
1 その仮定とは、同書物部氏系譜の後半で問題となる諸氏は、殆どすべてが大売布の流れを汲む矢田部系統のものではないかという
ものであり、具体的には、軽馬連・野間連や今木連などの諸氏は榎井連と同族で、かつ、矢田部造とも本来は近い同族だったとみるものである。この考え方と関
係者の世代を考慮し、『姓氏録』や「天孫本紀」など各種関係資料を踏まえて、この流れの系譜をかなり大胆に推定してみると、結論的には次のようになる。
その意味するのは、榎井連の氏人が奈良朝初期まで伝えていた歴代の系譜をブッタ切りにして、石上氏を本宗とする物部本宗家の系譜にしっかり入れ込んだというものである。
「F大売布−G伊麻岐利(若湯坐連祖)−H多遅麻−I大別(またの名は印葉〔久努国造の祖・印播足尼とは別人〕。矢田部造祖)−J鍛冶師(小軽馬連祖)−K金(金古。軽馬連、三島韓国連等の祖)−L長目(軽馬連祖)−M麻作(麻佐。軽馬連・矢原連祖)−N麻伊古(榎井連祖)−O恵佐古−P荒猪・加佐古など兄弟(※なお、鈴木真年編「物部大連系図」により、榎井氏の後を補うと、恵佐古の弟にO真古−P雄君、その弟に子麻呂−Q倭麻呂)。
麻伊古の弟には、N石弓(今木連祖)、多知髪(屋形連祖)。
金の子でL長目の弟に、臣竹(宇治連祖)、阿遅古(水間君祖)、塩古(韓国連祖)など」
(これに対応する皇室世代としては、F垂仁−G成務−H仲哀・応神−I仁徳−J允恭−K雄略−L武烈・継体−M欽明−N敏達〜崇峻−O推古−P舒明〜斉明−Q天智・天武、となる)
この関係の史料や記事をもう少しあげておくと、明治中期に斎藤美澄により編纂された『大和志料』という書がある。そのなかの記
事がすべて正しいというわけではないが、明治当時の所伝を記すものとして参考になる個所がいくつかある。そのなかに、いくつか物部諸氏の記事もあって、留
意されるべきものと考える点をあげると、まず「稲葉平助聞書覚書」の記事には、「多治麻ハ但馬氏祖、其子印葉ハ稲葉氏矢田部氏祖也、印葉ノ弟伊與ハ伊與部
氏祖、三ノ弟小神ハ宇陀小神氏祖也」と見える。また、引用の「国民郷士記」の三島東右衛門の項には、「十市根 垂仁代物部姓ヲ玉フ、夫ヨリ五世孫(次ぎに「、」が入るか)鍛冶師丸ノ子金古麻呂ハ三島氏ノ祖也」と見える。添上郡水間塁に関しては、「宇摩志間ヨリ十二代孫阿知古命 水間氏祖也」(阿知古は饒速日の第十三世孫の意か。「天孫本紀」では第十四世孫に位置づける)と記される。
上記の推定系譜のなかでは、九世孫の多遅摩、十世孫の印葉、十一世孫の鍛冶師は、「天孫本紀」の世代をそのまま採用したものである。また、金については、『姓氏録』未定雑姓摂津にあげる為奈部首に見える記事(「伊香色乎六世孫金連」)も踏まえた。
こうした整理のなかで、「天孫本紀」物部氏系譜後半部に見える「金、金古、金弓」を名乗る者五名は一人に集約される(系譜前半部に現れる金弓を除く)。また、「目、目古、長目」についても、「天孫本紀」には合計で五名見えるが、三人(田井連の祖の目古、雄略朝の目大連、軽馬連の祖の長目)に整理される。韓国連祖の塩古については、『姓氏録』に「武烈天皇の御世、韓国に派遣された者が復命の時に賜姓された」(和泉神別の韓国連条)と見えることから、配置される世代を考えた事情にもある。
2 こうした系譜の流れのなかには、先祖が大売布ということでか、「麻」を名前のなかに持つ者が多く見える。また、上記の歴代のなかでは若湯坐連祖のG伊麻岐利という名が唯一、「天孫本紀」に見えないが、これに相当する人物が同書に見えないわけではない。それが、片堅石・印岐美兄弟(駿河・遠江の国造となった)の兄として、十市根の子におかれる「杭田連の祖の止志奈」である。「杭田連」という姓氏は、史料にまったく所見がなく、全国の地名としてもめぼしいものがないが、「杭田=杭俣=杭全」ではないかと考えられる。すなわち、摂津国住吉郡の杭全郷(大阪市東住吉区杭全)に起った氏とみるわけである。この近くには矢田部の地名(河内国丹北郡矢田部村、現東住吉区矢田一帯)が見え、矢田部氏も居り(『姓氏録』河内神別に矢田部首)、住吉郡には住道物部も居た。
若湯坐連氏は、『姓氏録』では左京・摂津(ともに宿祢姓)及び河内(連姓)にあげられ、これら記事からは伊香我色雄命の後としてしか分からないが、『高橋氏文』には意富売布連が「若湯坐連等始祖」と記される。摂津国河辺郡には若湯坐連の居住があったが(『三代実録』貞観五年八月条)、同郡式内社である高売布神社(三田市)・売布神社(宝塚市)の二社は大売布命と関係あるべしと太田亮博士がいう。同郡には為奈郷(尼崎市東北部)もあり、上掲の為奈部首はこの地が起源の地とみられる(佐伯有清博士)。同国で近隣の八部郡八部郷は「ヤタベ」と訓まれるから、矢田部氏の居住が窺われる。
上記にあげる諸氏の分布は、摂津、和泉、讃岐、伊予に多いという特徴がある。これに、四国対岸の備前や周防を加え、かつ配下の物部が居住した
阿波・播磨を考慮すれば、瀬戸内航路を両側から挟む形で物部諸族が居住し、物部氏の海外経路にも関係してくる。この航路の西端の要所、関門海峡を挟む形
で、北岸に長門の赤間物部(豊浦郡。現下関市街地)がおり、南岸には豊前の筑紫聞物部(企救郡。現北九州市小倉区)が居て、要路を押さえていた。
「天孫本紀」系譜のなかで、唯一、韓地と関係する記事があるのが、軽馬連の祖・金の弟にあげられる塩古・金古兄弟(前者は葛野韓国連、後者は三島韓国連の祖とされるが、おそらく親子か同一人で、上掲推定系譜では親子においた)であり、『姓氏録』和泉神別にあげる韓国連の本拠も和泉国日根郡唐国村(現和泉市唐国町で、西方近隣に岸和田市今木町がある)にあった。貝塚市南部には水間の地名もあり、ここは塩古の弟とされる阿遅古を祖とする水間君一族の居地であったとみられる。
3 榎井氏と今木氏とのつながりを地理的に考えてみる。
榎井氏の起った「榎井、朴井」については、大和の高市郡朴井邑とみる説(太田亮)もあるが、その具体的な比定地は不明であり、むしろ『大和志』がいう添上郡木辻村榎葉井(奈良市西木辻町エノハイ。佐伯有清も、具体的にはこの地)が妥当か。この比定が正しければ、矢田部造の本拠であった添下郡矢田郷(大和郡山市矢田)の北東八キロ余に位置する。木辻村の南東約二キロに添上郡今木庄があったことは、本文で述べた。
また、大和の吉野郡には榎井直(後に忌寸姓)が起った榎井里(比定地不明)があったが、同郡にも今木村(現大淀町今木)がある。さらに、葛上郡にも今木庄(御所市東北端部一帯で、今城の地名あり)があり、同郡の「榎葉井」と呼ばれる古井戸が『大和志』に見えて、その跡地が御所市域の鴨神にある(今城の南西約八キロ。大淀町今木からは、約五キロ西方)。
ところで、和泉にも、『和泉志』に見える「榎井池」があり、泉南郡西内村(現岸和田市西之内で、同市今木の西方二キロ余の位置)にあったとされる。この地は、これまで今木連・安幕首などに関連して何度か出てきた地域のなかにあるから、やはり榎井氏関連で把握してもよいとみられる。
こうして四つの例から見ると、今木と榎井の地名のつながりは密接だといえよう。今木連と榎井連とは、「天孫本紀」系譜のうえでも地理上でも近いものがあったことは否定できない。
この検討過程で、もう一つ興味深いことが浮かんできた。それは、屋形連という「天孫本紀」に見える姓氏である。これまで、同書
以外にはこの氏の存在を端的に示すものがなかった。それが、本稿検討過程で、『三代実録』貞観二年五月条に「尾張国人従六位上笛吹部高継を本姓物部屋形に
復す」とある記事に関係すると思われるようになった。この「物部屋形」こそ屋形連と同族とみられるということである。笛吹部が起った笛吹村は、葛城山東麓
の忍海郡の笛吹神社(式内の葛木坐火雷神社にあたるか)
の鎮座地で、現在の葛城市南端部の笛吹である。伴造の笛吹連は『姓氏録』河内神別にあげられて「火明命の後なり」と記され、尾張氏族とされるから、不思議
な記事だと感じていた。こうした改姓の多くの例に鑑みて考えてみると、おそらく母姓に因り「笛吹連」を名乗って尾張国に住んだものであろうが、本姓(父姓)の物部屋形に戻したものとみられる。物部屋形から改姓したのが屋形連であろう。
笛吹の地は、葛上郡今木庄のわずか三キロほど西に位置するにすぎないし、榎葉井のある鴨神の旧桜井村地域からも北に七キロという近距離であ
る。旧桜井村は金剛山東麓であって、この地に式内・高鴨神社が鎮座しており、その「前西方に小字の氷室・氷室道ノ下があるが、氷室跡であろうか。当地は凍
豆腐を産する寒冷地である」という『奈良県の地名』の記事も留意される。氷室の管理が物部氏の職掌のなかにあったことを考えると、この氷室が「屋形」なの
かもしれない。
いずれにせよ、鴨神−三室−今城の三点を結ぶ地域(葛木川の中・上流域)あたりに物部屋形氏が住んで、笛吹部と通婚したと推される。そうすると、屋形連が特に榎井連との近縁性を示唆する「天孫本紀」の記事は信頼して良いことになる。
(08.7.28 掲上) |
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