「天孫本紀」物部氏系譜の検討 宝賀 寿男
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一 はじめに
古代氏族の代表的な系譜としては、「円珍系図」など国宝・重文指定のある系譜や「天孫本紀」所載の尾張氏系譜・物部氏系譜があげられる。それ だけ著名なのが「天孫本紀」所載の両系譜だから、史料として入手しやすい事情で誰でも取り組みやすく、そのため、これまで十分に検討されているのではない かと一見思われるのだが、どうも実のところ、そうではなさそうである。 私も数十年、古代史と古代氏族系譜の検討を続けてきて、これまで何度か物部氏という大族に取り組んだ。拙著『古代氏族系譜集成』(1986年春刊行)を編纂したときも含め、ほぼ十年おきくらいに取り組んで、これまで四,五回は集中して検討してきたことになるが、その時々にそれなりの結論を得て、それで一通り納得した気持ちになり、終えていたのかもしれない。とくに、約二十年前に「穂積と津積」(物部氏族と尾張氏族という意味)という論考(未発表)を書いて、それなりに物部氏族像を把握したつもりになっていた。
それが、出雲国造の成り立ちを検討して新しい視点を得つつあったところに、さらに今回、守屋尚氏の研究書『物部氏の盛衰と古代ヤマト王権』(2009年刊行) に様々な示唆を得て、再度、物部氏系譜の検討・探究に取り組んでみた。そうしたところ、これまで思ってもいなかった物部氏系譜の原型が見えてきたので、この新
しい把握を試論として提示し、おおかたのご批判を仰ぐものでもある。本件に関連して、因幡国一宮の宇倍神社の祠官家を世襲した伊福部氏に伝わる『因幡国伊福部臣古志』(以下、「伊福部家譜」という)にも検討が及び、同系譜の価値も改めて認識したところでもある。ともあれ、本稿でも再考するたびに、今後とも少しずつ変わる可能性があることも、予めお断りをしておく。
さて、物部氏は尾張氏とならんで、『先代旧事本紀』(以下、『旧事本紀』という)のうち、「天孫本紀」に系譜(以下、「天孫本紀物部系譜」という。以下、『旧事本紀』の各書は「□□本紀」と表記) の記載があり、それが割合信頼度が高い内容のように一般に受け取られている事情がある。そのため、一見、研究にとっつきやすい系図のようにも見えるのだ
が、仔細に関係する系図・史料等と比較検討をしてみると、多くの点で実に難解なところがあることに気づく。
なぜ難解かというと、「天孫本紀」物部氏の系譜 記事と『新撰姓氏録』(以下、『姓氏録』ないし『録』という) 等の史料に見える記事との間に、細かいけれど重要な食い違いが多くあり、そのうえに物部氏関連の諸系図との食い違いもあって、判断が難しい点が多くあるからである。また、同じ姓氏の祖先とされる者がいくつか異なった位置づけで出てくるとともに、同じような「目、金」をつけた名前が頻出し、これらが本当に別人なのかという問題も出てくる。もし、これらが同人か実体のない人物だと、そこに混乱があるということにもなる。 『旧事本紀』は、かつては相当に信頼度が高い史料とみられ、神道関係で重視されていた。それが、江戸期になって偽書説が圧倒的になったものの、そのときでも巻五「天孫本紀」と巻十「国造本紀」は貴重な史料であって、比較的信頼して良いのではないかとみられてきた。いま、『旧事本紀』全体につ
いては評価見直しの動きが多少見られるが、その一方、この両本紀についても、当然のことながら、十分に厳密な批判・考証が必要ではないかとも思われる。そ
して、『旧事本紀』の序文は、勅をうけて蘇我馬子と聖徳太子とが編纂したという記事も含め、内容的には明らかな後世の偽作であるので、広い
意味の「偽書」の範疇におくものとする。それとともに、上記両本紀と同様、本文の他の本紀のほうも、内容的に十分検討すれば、史料として用いうるという立場を予め前提としておく(これは、筆者にとっては『古事記』と同様な取扱いである。稗田阿礼誦習の旧辞などに基づくという『古事記』序文は、後世の偽作の可能性が大きい)。このような前提をおかねば、肝腎の「天孫本紀物部系譜」の検討にすら入れないからでもある。
また、「天孫本紀物部系譜」の記事は、もとから一本の形で伝わった系譜ではないとみられる。その編者(複数であった可能性も考えておく)が物部氏関係の多くの系譜所伝にあたって、それを纏めて編纂した書(いわば「接ぎ木細工」のようなもの)というように考えておく。畑井弘著『物部氏の伝承』でも、「もともと別個の氏族であった幾つもの「物部連」の家譜を寄せ集めて、石上朝臣家のそれを中軸に組み立てただけのもの」という「寄せ木細工」と考えている。私は、基本的に物部氏族は「血縁同族」とみており、下線の引いた部分二個所について違いがあるが、趣旨は似通っている。
古代系譜については、一般に、時代が下るほど多くの異伝が生じ、同人が異名で伝わったり、その逆もあったりして、系譜のなかに矛盾する個所が多く出てくる傾向も見られるが、ここで検討対象の「天孫本紀物部系譜」も同様だと考える。そして、古代の人名については古代特有の命名法にも留意したい。 同名異人の識別と古代命名法について、学究たちが的確に把握しなかったり、理解しなかったりもあるが、実のところ、これが古代系譜解明の妨げになってきたという事情もある。 本稿の検討の基礎となる主な系図史料としては、東大史料編纂所に所蔵される華族呈譜の諸家系図(「亀井家譜」「本荘家譜」「押小路家譜」など華族諸家の宮内省への呈譜)や鈴木真年翁関与の『諸系譜』(とくに第一冊の真年自筆の「物部大連十市部首系図」〔以下では「物部大連系図」として引用〕、第三三冊の「穂積大連系図」)、「伊福部家譜」などをあげておくが、真年翁関与の史料には、翁が多くの関係系図・史料を校合したうえでの判断・解釈が記事として入っている個所もあることに注意しておきたい。
なお、『旧事本紀』検討の史料としては、鎌田純一著『先代舊事本紀の研究 校本の部』(吉川弘文館刊、一九六〇年)を用いることにし、その底本は卜部兼永本とされるが、校合とした諸本のなかに「延本」(「鼇頭旧事紀」)や前田本等があげられていることを附記しておく。 二 物部氏族に関する諸問題とその当初認識
本稿のはじめに、とりあえず、物部氏族(「物部」を名乗る流れ・諸氏は別系も含め多くあるので、基本的には、メインの饒速日命の後裔氏族に限定して、この語を用いる)に関して難解だと思われる諸点とそれに関する一応の問題意識、当初見解を気の付くままあげてみる。それらは概ね次のようなものとなるが、「天孫本紀」と『古代氏族系譜集成』(以下、たんに『集成』ともいう)の記事への疑問・修正の提起である。また、『集成』が記述・編纂の基礎をおいた鈴木真年翁編纂の史料や翁の判断に対する批判・疑問の提起ということでもある。列挙する点のうち、本稿で検討をあまり加えない点(★を附記)については、予め簡潔に結論のみをあげておくから、これについては関係論考をご参照いただきたい。 A 「天孫本紀」ないし『旧事本紀』の編者について、誰か分かるのか。なお、『旧事本紀』の編者に関する安本美典説(興原敏久説) には、拙見では疑問をもっている。同書の編者を一人と特定することに疑問を感じるとともに、興原敏久自身が出自した三河国造関係の系譜記事が同書に少ないし、内容的には疑問もあるなどの事情があるからである。この問題Aは、もともとは本稿の直接の検討対象ではなかったが、検討過程のなかで編者候補として何人かが浮上して きたので、その範囲で記すところである。
B 始祖たる饒速日命の父祖が不明確である★。
これについては、様々な史料に見える系譜とは拙見は異なり、天孫族系統であることは間違いないが、高天原(邪馬台国)の王家嫡系の天忍穂耳命の子(瓊々杵命の兄)ということではなく、その弟の「天津彦根命(天若日子)−天目一箇命(経津主神)−饒速日命」というのが原型たる実系だと考えている。(天忍穂耳命の子という所伝は、「天孫本紀」など多くの物部氏関係系譜に見えるが、後世の系譜仮冒である。饒速日命は、高天原王統の嫡系の天火明命とも同人ではない。ただし、この天孫族嫡系の系統に考える場合であっても、両者は同神ではなく、饒速日命は天火明命の次の世代となる。とは言え、「饒速日命=火明命」という前提の系譜もあるから、要注意) これは、多くの神社祭祀・信仰(日神・巨石の信仰、磐船伝承など)、習俗(鳥トーテミズムなど)や物部氏の職掌・技術などからもたらされた推論であり、出雲国造族や三上氏族、鏡作氏族、玉作氏族とは近い同族で、それゆえ鉄鍛冶・土器・鏡作・玉作についても、物部氏の同族諸氏が関係すること大だとみるわけである。古代の東国で大発展した武蔵国造族の遠祖とされる出雲建子命(別名が櫛玉命。伊勢津彦にも当たる)に、櫛玉饒速日命(「天孫本紀」)があたる可能性が大きい。物部氏族の矢田部造や風早国造(伊予)では、祖神を櫛玉比古・櫛玉比売夫妻として神社奉斎をする事情がある。
C 「物部」は職掌(軍事警察・司法及び手工業諸物品の管掌)から生じた氏の名であるが、その原始的姓氏が何であったか★。
これは、出雲積、鰐積(和珥臣の原始的姓氏)、津積(同、尾張連)や阿曇(同、阿曇連)などの例から見て、「穂積」(穂は稲穂ではなく、「火」の意か)であり、物部氏は本来、穂積であり、その元来の本宗は穂積臣であって、豪族系の臣姓をもっていた。 「物部」という名から知られるように、この氏の名は「部の成立以後でなければ存在しえない」という直木孝次郎氏の指摘もある(「物部連に関する二、三の考察」、『日本書紀研究』第二冊所収)。 ただ、「部」が百済・高句麗の影響を受けていたとしても、我が国天孫族自体がこれらと種族系統(東夷、ツングース系)を同じくするのだから、四世紀末以降の成立でなければならないことも なく、初期国家制度が整う崇神朝以降であれば時期的に問題はなく、その意味で、「物部賜姓」が垂仁朝と伝えることもとくに矛盾しない。 物部氏族の主居住地についてもふれておくと、穂積の遺称地・保津(奈良県磯城郡田原本町保津)は弥生期の大遺跡たる唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置するし、河内国の哮ヶ峰(現在の生駒山)への降臨伝承が残る石切劔箭命神社(河内国河内郡の式内社で、東大阪市東石切町に鎮座。穂積堂と呼ばれた摂末社もある)の社家は、地域的に見て物部の初期分岐とみられるが、初め穂積と称し、いま転訛して「木積(コツミ)」を名乗る事情もある。鈴木真年翁も『史略名称訓義』で、可美真手命が大和国十市郡穂積里に居たとして、穂積臣氏本宗説を記している。 河内国渋川郡は、物部守屋大連が決戦の本拠を置いて破れ滅亡した地、渋河の家(阿都の別業)の所在地であり、物部氏の初期分岐たる阿刀造・連の本貫も渋川郡跡部郷(大阪府八尾市跡部・渋川一帯)にあったと太田亮博士はみている。
唐古・鍵遺跡の主体が纏向遺跡へ移動したという説も見られるが、これには疑問が大きい。大和朝廷の前期に両大遺跡のなかで政治権力の交替的な形が生じたのが確かであるとしても、唐古・鍵遺跡の主体たる物部氏がむしろ布留遺跡などに移った。纏向遺跡のほうは別途、王都として大王家により造成され、崇神がその主となったとみられる。物部の祖の伊香色雄や十市根は石上神宮に関与し、穂積から分かれて同神宮の周辺から南方にかけての地域に本拠を移したのであろう。
物部嫡宗家は代々山辺郡の天理市中央部辺りを本拠(山辺郡に穂積郷をあげる『和名抄』もあり、これが妥当ならその郷域か)としてきて、西山古墳など同市杣之内町・勾田町・守目堂町一帯の古墳群(杣之内古墳群)は物部一族築造の可能性が大きい。河内のほうは、阿刀の別業の名が示すように別荘地域であったが、守屋大連が「弓削大連」ともいわれるように、個人的に当地の弓削連との所縁が強く、その居宅があった河内を主戦場に選んだものであろう。 一族の矢田部氏は、添下郡矢田郷を中心に大和郡山市・奈良市辺りに勢力を持ち、穂積氏は摂津国島下郡穂積郷(現・茨木市穂積)を中心に西方の豊島郡穂積村(現・豊中市の穂積・服部)にかけての地域に居住した。大和郡山市矢田には名神大社の矢田坐久志玉比古神社があり、茨木市穂積の北方近隣の福井に三島郡唯一の名神大社・新屋坐天照御魂神社があって、これら神社ではともに饒速日命を祀るから、各々矢田部氏、穂積氏が祖神として奉斎したものとみられる。
豊中市の穂積遺跡から出土したのが弥生後期の土器様式「穂積式」であり、大和の石上神宮の西側の布留遺跡(天理市布留町・三島町・守目堂町の一帯) から出たのが古式土師器として有名な「布留式」であって、物部氏の故地・遠賀川流域の遠賀川式土器につながる。近畿で遠賀川式土器をまともに伝える史跡が 東大阪市の鬼塚遺跡である(物部の遠祖神・天津彦根命の後裔には、土師連や鴨同族の西泥部〔葛野郡深草の瓦工を出す〕など土器製作関係者を輩出した)。鬼塚遺跡の北に隣接する西ノ辻遺跡と併せて規模が大きいが、その真北一キロほどには石切劔箭神社が鎮座する。上記のように、穂積一族が古来奉斎して
きた古社である。
これら三地域では、古墳の規模からみて山辺郡の勢力が最も盛んであったことが分かる。
D 物部氏の故地はどこだったか★。
太田亮博士などのいうように、わが国の物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の御井郡を中心とする地域(邪馬台国や高天原の主領域と重なる地域)であった。当地域における物部の分布は、例えば『日本の神々1』の奥野正男氏の記述(208〜211頁)に見えるように、物部関係神社の分布が稠密であり、配下の諸物部に縁由の地名も多くある。 この地から、まず夜須郡、次いで北九州筑前の遠賀川の中下流域へ移遷し、そこから近畿の河内、さらには大和へと氏族(部族)が移遷した。筑前から河内への移遷が直接かある経由地を経てのものであったかは、決めがたいが、いまは出雲に経由があった可能性が大きいと考えている。鳥越憲三郎氏や谷川健一氏の諸著作には物部氏の移遷経路について記事があり、これらは概ね妥当だとみられる。 以下は、系譜の具体的個所の問題について記すと、物部氏系譜については問題や混乱が多いが、主なところでは、次のとおり。
E 出雲醜大臣命の位置づけ……この者は、諸々の系図に大祢命の子とされることが多いが、「天孫本紀物部系譜」では大祢命の弟とされており、『姓氏録』の記事(饒速日命の三世孫)からみて、弟ないし同世代とするほうがとりあえず妥当かもしれない。この者の後裔という諸氏の系譜には、種々疑問があることに留意しておきたい。
F 大矢口根大臣命の位置づけ……「天孫本紀」に大矢口宿祢命と見え、出石心大臣命の弟とされたり、子とされたりして諸伝があるが、穂積臣の祖・大水口宿祢の弟とするのが活動時期や古代特有の命名法からみて妥当か(この場合、内志許男の子か)。
大矢口宿祢は、「天孫本紀」では第四世孫の世代に大水口宿祢の弟としておかれ、穂積臣系統以外のすべての物部氏の祖とされて重視されていることに留意され
るが、一方、華族諸家の宮内省呈譜史料や鈴木真年史料では、傍系の祖で「榎井部の祖」としてしか記されないという大きな差異がある。
この者は吉備津彦等とともに崇神朝に出雲討伐に活躍し、子孫には因幡国造・伊福部臣らを出したと「伊福部家譜」に見える武牟口命や宇倍神社の祭神の武内宿祢にあたるとみられる。佐伯有清氏は、伊福部臣が穂積・釆女のように臣姓の氏族と親近の関係にあったものとみており(『古代氏族の系図』)、この見方と符合する。武牟口命は、「伊冨頭久媛」を妻としたと同家譜に見えるが、この姫は名前の類似・対応から見て、和珥臣の祖で崇神紀に見える彦国葺命の兄弟、伊冨都久命(『録』左京皇別の丸部の祖)の姉妹とみられるから、武牟口夫妻は崇神朝頃の人とみてよかろう。従って、第四世孫という位置づけには疑問があることになる。
G 一般に兄弟とされる大新河命、建新川命、大売布命の関係……この命名や子孫の姓氏などから見て、三者が同人かごく近親(同母兄弟か子)
という可能性が大きいが、いずれにせよ、大新河命の子孫とされる姓氏の系譜には混乱が大きい。少なくとも、前二者は命名から同人かと思われる。関連して、
『書紀』崇神段の出雲討伐記事に見える「武諸隅」の位置づけが、年代的に見て大新河命の子でよいのか、という問題もある。
H 駿河国造及び遠江国造、遠江国に起った久努直・佐夜直の先祖の系譜には混乱がある。これを含め、東海道にはなぜ物部氏族に出自をもつという国造が多いのか、という問題もある。結論的には、遠江国造・久努国造は、広義の物部同族であっても初期の分岐で(武蔵国造などの同族)、本来は、大売布の後裔(駿河国造同族)ではなかった。
I 十市根命と伊弗連との間には、一世代の欠落があるとみられるが、どの位置に欠落があって、欠落者の実名が何かは不明である。
『姓氏録』記載の世代を考え、当初は「十市根−金弓−胆咋−五十琴−伊弗」とも考えたが(『神功皇后と天日矛の伝承』)、これに再考の余地がないでもない。兄弟とされる五十琴宿祢連と五十琴彦連は、命名から見て同人ではないかとみられる。 これに関連して、継体朝頃の人で、記紀ともに見える麁鹿火大連の系譜にも混乱が及んでいる。いずれにせよ、神功皇后・応神朝ころに活動したと伝える胆咋の周辺の系譜には、多大な混乱がある。
J 目連、金連という名(及び、これに関連・類似する名前)の者が「天孫本紀」物部系譜など物部関係史料のなかに多くの世代にわたって多数が見えており、後裔諸氏や兄弟等の事情から見て、各々が実際にはほぼ重複し、ほとんどが同一人ではないかと思われるような混乱がある。
K 大化後の古人皇子事件に関与した物部朴井連椎子(大化元年紀)と有間皇子事件に関与した物部朴井連鮪(斉明四年紀)とは、ともに名の訓が「シヒ」で同人ではないか★。
「天孫本紀」には椎子も鮪も共に見えないが、鈴木真年は両者を兄弟とする系譜をあげる。しかし、両者は同一人としたほうが自然であり、いずれにせよ、壬申
の乱において大海人皇子の近臣であった朴井連雄君と同世代くらいにあたるから、雄君を守屋大連の子におく「天孫本紀物部系譜」の記事は、年代的に見て明らかに誤りである。これは、雄君が守屋大連のあと途絶えていた物部連の族長(氏上)の跡を継いだという主張の現れか。そうすると、雄君は榎井氏のなかでも傍流にあった模様であり、榎井(朴井)氏の系譜は同書ではやや粗雑な内容となっている。これに対して、真年編纂の榎井氏関連の系譜は何に拠ってのものか不明であるが、説得的である。
L 物部氏族出自とされる諸国造の系譜は問題がないか。その設置の経緯や年代はどう考えたらよいのか。とくに系譜が明確ではない三野後国造や、系譜に混乱がある大新河命後裔と称する諸国造の系譜は、原型がどうであったのか。
M 全国の諸々の「物部」のなかには、異なる系統の物部があるが(和邇氏族の物部首、出雲国造族の物部臣、筑紫国造族や毛野氏族の物部君など)、物部連との臣従・所縁に因り物部同族化していた氏はないか。あるとしたら、どのような姓氏で、どの種族系統にそれが多かったのか。いわゆる津田亜流の学究が好きな用語である「擬制的血縁関係(擬制同族)」という事情が成り立つ例が、実際にあるのだろうか。
このように考えていくと、物部氏族を巡る諸問題は、「八十物部」といわれるほどの多数の支族・配下をかかえる有力大族だけあって、ほとんど尽
きることがないほど多い。また、簡単に解明し記述することができないような感もないでもない。そのためにも、地域的な結びつきを含めて諸氏の親疎関係を適切に判断
することが必要であり、主な問題から以下に取り上げていくことにする。諸問題のいくつかが相互に絡み合うこともあり、総合的な視野と体系的・合理的な整理
がトータル的な解明にあたって必要なことに留意されたい。
三 大新河命とその後裔諸氏
「天孫本紀物部系譜」は応神朝頃を境に大きく二つに分けて考えることができそうである。それは、大新河命系統の世代が主に応神朝に属する世代 の頃で記事が終わっていることに加え、物部氏の実態としても履中朝ごろの伊弗くらいから政治・軍事の活動が大きく現れるとみられている事情にあるからである。 そうした視点からは、同系譜の前半では、大新河命の位置づけとその後裔と称する氏族の系譜がとくに問題となる。この辺に再検討を加えてみると、これまでまるで考えていなかった留意点や知見とが次々に出てきた。それが、主に以下にあげる諸点である。
(1) 初期物部氏の人名の名づけ方や、物部氏から分岐発生した氏族において、母(ひいては外祖父)の名前や氏族に由来するものがかなり多くみられる。例えば、@出雲色大臣の母が出雲色多利姫であり、A高屋阿波良姫から生まれた伊香色男の子孫に高屋連(『姓氏録』河内神別では伊己止足尼の後裔)があり、B額田毘道男命の子の新河小楯姫が生んだ子の穂積臣祖大水口宿祢の同族に額田臣(同、山城神別では伊香我色雄命の後裔)があり、C日下部氏の女から生まれた大祢命の後裔とみられる日下部(同、河内神別では比古由支命の後裔)があり、D志紀県主の女から生まれた大売布命の子孫に物部系の志紀県主がでる、などの例がある。
また、他の古代氏族にも共通して見られる兄弟・姉妹の類似呼称(通称)の名づけ方という留意点もある。これらの例に準じて考えると、新河小楯姫が生んだ子として、大水口宿祢と大矢口宿祢の兄弟があって、後者の別名が大新河命ではないかという可能性も考えられる(そして、前掲の額田臣氏や右京神別の内田臣氏も兄弟の後裔か)。
(2) 先に、子孫の諸氏などから見ると、大新河命は建新川命や大売布命と重なる可能性をいったが、世代等を考えると、厳密には、大新河命は大矢口宿祢のほうと重なり、大売布がその子だという形が原型かということにもなりそうである。大売布と大新河、建新川とはその子孫の姓氏を共通にしている。建新川は大新河に対比して、「若新川」(大新河の子)という可能性も残る。
(3) 大矢口宿祢は、因幡の伊福部臣氏の系譜にその祖の武牟口命と解されている者に当たり、「牟」は「矢」の誤解ないし誤記だと『古代氏族系譜集成』(1260〜1261頁)に記したが、この系統が稲葉(因幡)国造となったことが「伊福部家譜」に見える。これは、「国造本紀」稲葉国造の記事(彦坐王の後裔とする)と明らかに違うので、伊福部臣氏の因幡における有勢を認めつつも、但馬と因幡の近隣性などから、同家譜の記事をこれまで疑っていたが、「国造本紀」の記事のほうがむしろ誤りではないかと分かった(「国造本紀」は「彦多都彦」を丹波道主命と取り違え、その位置づけを誤ったものか)。
それは、彦坐王後裔となる稲葉国造家が具体的には見えないうえに、次にあげる大和朝廷による崇神朝の出雲討伐事件にも関係する。伊福部氏は、因幡国庁跡近隣で稲葉山南西麓に位置する因幡一宮、宇倍神社(鳥取市国府町宮下)の奉斎を歴代世襲して近世に至った事情もある。近隣の岡益廃寺及び岡益石堂(巨石を用いた巨大な石塔で、山陰最古の建造物)の崇拝の主体は、武内宿祢とも伊福部氏の祖先ともいわれる。
「伊福部家譜」には、氏祖の武牟口命を崇神朝の人として、その第五代(四世孫。世代から推すると仁徳朝頃の人か)に阿良加宿祢をあげるが、これにほぼ対応する名前の因幡国造阿良佐加比売という仁徳朝の者が『播磨国風土記』讃容郡条に見える。この男女は、古代の命名法と年代から考えて、直接の兄妹とみられるから、これも同家譜の妥当性を傍証する。従って、伊福部臣が因幡国造とは別系と考えた佐伯有清氏の見解は誤っていたことにもなる。
(4) 大矢口宿祢は、出雲討伐につながる出雲との交渉役として崇神紀六〇年条に見える矢田部造の祖・武諸隅にも当たるとみるのが年代的に自然である。ここでも、異名同人の例が見られるが、『書紀』の記事は「天孫本紀」の記事と無関係に朝廷のなかで伝えられたとみられ、「武諸隅」の記事を簡単には否定できない事情がある(武諸隅を大新河命の子とする「天孫本紀」の記事は、両者の活動時期からみて疑問。ここに、父子の世代逆転がある。また、武諸隅の娘を、垂仁朝頃の十市根が妻としたという所伝も「天孫本紀」に見える)。
大矢口宿祢は吉備津彦らとともに崇神朝の出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、
名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活
躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。
(5) 建新川命の子孫には、因幡国巨濃郡の物部(後に賜姓して春道宿祢)や河内の川上造(こちらも後に賜姓して春道宿祢)があり(『古代氏族系譜集成』参照)、稲葉国造のカバネの因幡造(後に宿祢姓)や矢田部造にも通じる。なお、稲葉国造の嫡流は奈良時代に「因幡国造」に任じられており、これをそのまま姓氏としたように解するものもあるが、『続日本紀』の記事を丁寧に見ると、その姓氏は太田亮博士もいうように「因幡造」だと考えられる。
(6) イナバ(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の因幡国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、美濃国厚見郡の稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫と記される)などに見え、これらは皆、物部氏の同一系統に関係すると考えられる。それらが、殆どみな大矢口宿祢の系統だとみられるということである。
美濃の稲葉山に鎮座の厚見郡式内・物部神社(いま伊奈波神社と合祀) の祭神の中には、山陰道の稲葉国造の始祖として「国造本紀」に記載の彦多都彦命があげられる事情もあり、この辺も三野後国造が稲葉国造の分れだと推される。「稲葉」の本義は不明だが、美濃の稲葉山の別称が金華山といわれ、山麓に金屋・金津など「金」のつく地名があるように、鉄鍛冶の伊福部(伊吹部=息吹部)に通じるものか。伊奈波の神を「製鉄の神」と位置づける論考もある(今津隆弘「古代美濃考−神の系譜と伝承を中心にして−」『神社本庁・教学研究所紀要』第十号)。金津の地はいま金町といい、伊奈波神社と対になる女神を祀るという金神社も鎮座する。臣賀夫良命がこの地に国府を定め、金大神を篤く崇敬したと伝える。
なお、どの程度の関連があるか不明であるが、越中の小矢部市に稲葉山という山もあり、同国史生に矢田部広宗(「越中国官倉農穀交替記」に元慶二年の史生で従八位上。同じ文書に郡司の物部連茂生や舂米吉長も見える)、氷見市内に矢田部という地名が見られる事情もあって、両者が古代からの名であれば、矢部と稲葉との結びつきがここでも見られることになる。
(7) 三野後国造の主要領域は美濃国の厚見・各務両郡であるが、各務郡の後になる各務原市の西北部には伊福部に通じる「伊吹」、同市西南部には「稲羽」の地名がかつてあった。稲羽の近くには三井の地名もあるが、山方郡三井田里(三田郷)の「大宝二年戸籍」には主政進大初位下伊福部君福善が見え、美濃国少目矢集宿祢奈麻呂とともに署名する。『続日本紀』和銅七年閏二月条には、匠従六位上伊福部君荒当に対し、吉蘇(木曽)路を通した功績で田二町が賜与されたと見える。
伊福部は全国的に見て、美濃と因幡・出雲にとくに多く分布しており(ただし、別系という伊福部連〔尾張連同族〕や伊福部君〔牟義都君同族か〕があり、無姓の伊福部もあって、そのなかに三野後国造一族があるかは不明)、吉備にも備前国御野郡には御野郷に近隣して伊福郷(ともに岡山市を貫流する旭川西岸、市街地の北部地域)がある。なお、伊福部は後に五百木部(成務天皇たる五百城入彦命の名代)と混同・融合されることがままあるが、伊吹(息吹き)に通じる鉄鍛冶部が本義ではないかとみられる(この辺の判断が難しいが)。製鉄神金山彦を祀る西美濃の南宮神社と美作の中山神社(中世に南宮と称)との関連も考えられる。
「各務」(カガミ)は金属の鏡の意味で、稲葉山たる金華山の東麓には日野の地名(岐阜市日野。日野も金属精錬に関係する地名とみられる)がある。武内宿祢がこの地域を切り開いたという伝承も、厚見郡式内の茜部神社に残り、物部神社の祭神などからも、三野後国造は稲葉国造と密接な関係があるとみざるをえない。ところが、この国造は出雲色大臣の後という系譜を「国造本紀」に記す(「天孫本紀」には見えない)ので、これに留意しておく必要がある。
(8) 三野後国造は、物部氏の「出雲大臣命の孫、臣賀夫良命」が成務朝に国造に定められたと「国造本紀」にあるが、孫は「後裔」の意味としてしか世代的に妥当しないし、具体的な系譜は不明である。
臣賀夫良命は、後世の偽書ではあるが『倭姫世記』に垂仁朝の人として見える美濃県主(「美濃国造」とは別個に見えるから、前者が三野前国造か)の「角鏑」にあたる可能性もあるとみられる。つまり、名は鏑矢の意味であり、大矢口宿祢の子か孫(年代的に見て)であって、美濃の矢集連(三野後国造の領域の可児郡に矢集郷がある)や矢田部造(これは、仁徳皇后の八田〔矢田〕皇女の名代であろうが)の祖にふさわしそうでもある。美濃国可児郡にも、吉備と同様な桃太郎伝説(吉備津彦が主人公)が残るといわれる。 矢集連・矢田部造に通じるとみられる矢部(矢作部)の地名・人名は、大和国磯城郡の矢部(田原本町で、保津の南近隣に位置し、弥生・古墳期の方形周溝墓をもつ遺跡がある)のほか、美濃・尾張・三河・遠江・駿河や越中などに見えており、因幡にも『太平記』巻十四に矢部が見え、八東郡若桜などに矢部氏(鎌倉前期に駿河から遷住というが)が居り、『応仁記』巻二には乱の参加武士として因幡の「八部」をあげる。矢作部造・矢作連の祖の経津主神と伝える(『姓氏録』未定雑姓河内など)から、系譜的には広い意味の同族関係がある。
美濃郷は伯耆国日野郡の隣の会見郡の郷名として『和名抄』に見える。矢田部は美濃国本巣郡にもあったことが知られ(大宝二年の栗栖田戸籍)、大矢田神社(『武儀郡神名帳』の大矢田天神)が美濃市大矢田に鎮座する。大和でも、物部氏の初期本拠地と見られる唐古・鍵遺跡の北東近隣に八田(田原本町。同町南部には矢部もある)・稲葉(天理市)の地名があり、添下郡に矢田部造氏の本拠の矢田郷(大和郡山市矢田町)があり、近隣の生駒郡(平群郡)にも稲葉村(もと因幡で、現斑鳩町稲葉車瀬・西稲葉など)があった。摂津でも、島下郡の穂積氏本拠地・穂積の東方近隣に稲葉の地名がある(ともに茨木市域)。河内でも、守屋大連本拠の渋川郡の東隣の若江郡に稲葉の地名が残る(東大阪市西部)。
(9) 矢集郷は、『和名抄』ではほかに駿河国駿河郡にもあるが、同郡は駿河(珠流河)国造の本拠である。駿河国造の祖・片堅石は、「天孫本紀物部系譜」の系譜では十市根命の子におかれるが、大新河命の子で小市(越智)国造の祖とされる大小市宿祢と同人であって、実は大売布命の子に位置づけられる。駿河にも矢田部があり、益頭郡八田郷に関係する(『姓氏家系大辞典』)。
大小市宿祢の兄弟の大小木宿祢は、遠江国造の祖・印岐美(志貴県主の祖でもあり、「天孫本紀」では片堅石の兄弟とされる) にあたりそうでもあり、隣国の久努国造の祖・印播足尼は世代的・地域的にその子にあたるとみられる。この辺の「天孫本紀」の系譜記事には大きな混乱があるが、久努直・佐夜直や志紀県主の祖先という観点などから、同人異名が分かってくる。古代には同人異名の例が多くあることに注意して、人名検討が必要であることをここで も実感する。
(10) 越智国造一族と遠江国造・駿河国造の一族とは、永年青の「橘」や変若水(「おちみず」と訓。若返り乃至不老の水)と深く結びつき、それら三国造の後裔一族のなかに、中世、「橘朝臣」姓を称する氏を多く出した。地理的に考えて、駿河国造族の後ではないかとみられる物部が信濃国高井郡におり、同地で式内社の越智神社を奉斎した。「若返り、不老」の話は、美濃国多芸郡の養老の滝にも見えるが(『続日本紀』養老元年条)、多芸郡に居た物部多芸連は三野後国造となんらかの関係があったものか。
(11) 美濃西部の多芸郡には、式内社の御井神社(養老郡養老町金屋)、多伎神社(養老町三神町。『和名抄』の多芸郡物部郷の地)がある。美濃東部の厚見郡の隣の各務郡にも式内社の御井神社(美濃では同名式内社はこの二社だけ)、伊予国越智郡にも式内名神大社の多伎神社(今治市古谷大谷)があって越智国造の奉斎社とみられている。伊予の多伎神社は「滝の神」で奥の院の磐座(巨石)信仰に始まり、崇神朝に伊香武雄命が初代斎宮となったと伝える。
また、各務郡式内の加佐美神社の加佐美は「風視」の意で、越前国大野郡の風速神社にも通じる(志賀剛『式内社の研究』第十巻)というから、伊予の風早国造にも通じることになる。風早郡式内の櫛玉比売神社は、矢田部氏の本拠にある矢田坐久志玉比古神社(『和名抄』の大和国添下郡矢田郷、現大和郡山市矢田町に鎮座)に対応し、合わせて櫛玉饒速日命夫妻を祭神とする。伊予には、桑村郡に式内の布都神社(西条市石延)があり、物部の祖神・布都主神(経津主神)を祀る。
美濃国各務郡各務郷には式内社の村国神社があり、この地の大族・村国連は三野後国造一族とみられるが、大和でも添下郡の矢田部造の本拠の矢田郷の近隣に村国郷があった。
(12) 伊予の越智国造の領域には三島神社がきわめて多く分布するが、その元は駿河国造の本拠にも近い伊豆国田方(賀茂)郡の三島大社とみられ、更にその淵源は摂津国三島郡の三島鴨神社であろう。三島神社の同名社が多い地域は、ほかに筑後国三瀦郡があげられるが、これは当地の水間君が物部氏族と同祖と伝えることに因るものか(「天孫本紀」には物部阿遅古連が水間君祖とあるが、これは大和ないし和泉に在住の氏の可能性もあるか)。伊豆や伊予の三島神は、共にいま大山祇神とされるが、これは大山咋命(実体は天若日子かその近親で、物部氏族や鴨氏族の祖にあたるか)の転訛である。
(13) こうした諸国の国造について、物部氏からの分岐を見ていくと、諸国の国造が多く設置された時期(応神朝頃以前)では、内色男命の系統(穂積臣などの一統)が物部氏本宗であったとみられる。言い換えれば、後に物部氏嫡宗となる伊香色男命・十市根命の系統は、履中〜允恭朝頃の伊弗大連兄弟以降になって大きく現れることになる。
『書紀』崇神紀には、物部一族は大水口宿祢や武諸隅、伊香色男が見え、『旧事本紀』天皇本紀の崇神段には、武諸隅のみを同朝の大連としたこと
を記す。武諸隅が大水口宿祢の兄弟の大矢口宿祢と同人であれば、これは当時の穂積・物部一族内の勢力関係事情と符合しよう。以前から、物部氏の原始的姓は
「穂積」で、この流れが本宗だったとみていたが、これがこの点でも裏付けられる。大矢口宿祢の重要性がここでも分る。
(14) 内色男命の妹・内色売命が孝元天皇の皇后になったのも、こうした穂積・物部一族の事情を背景としていたとみられる。その姪の伊香色売命が孝元妃で、後に開化皇后になったとされるのも、古代北東アジアの匈奴・鮮卑などの民族に普遍的なレビレート婚(未亡人を亡夫の後継者が引き取る婚姻)の慣行から否定はできないが、この女性が崇神天皇を生んだというのは、年代的な事情も含めて疑問が大きい(崇神は、倭迹迹日百襲姫命と同母の可能性が大きい)。
大矢口宿祢についてもう少し述べておくと、崇神朝の出雲討伐の際にも、吉備津彦とその配下の犬・猿・雉がおおいに活動し(桃太郎伝説)、その平定後に、出雲を地域的に取り巻く形で同朝頃に国造配置がなされたと私はみているが、この動向に関係ある者とみている。
具体的には、出雲を東から伯耆(波久岐=波伯)・吉備中県・石見と取り囲み、それが雉−伯耆国造での天孫族(少彦名神後裔か。武蔵国造同族という所伝は疑問大)で倭文神社奉斎、犬−吉備中県国造で久米氏族、石見国造も犬系統の紀伊国造同族、猿は天孫系の鏡作造同族で美作一宮の中山神社奉斎氏族と、みていた。吉備津彦の配下と伝える犬飼武が「犬飼部(犬養部)」、中山彦(楽々森彦)が「猿」(「猿飼部」はない)、留玉臣が「鳥飼部(鳥養部)」という役目を果たしたとみる説があるが、この三種の動物は各氏族のトーテミズムを反映したものとみられる。伯耆の倭文神社では、雉だけは絶対に献饌しないという禁忌があるというのも、同社奉斎氏族の系譜を示唆するし、物部氏族には鳥部連も見える。 「国造本紀」では、波久岐、吉備中県、石見の諸国造は出雲国造同様に、崇神朝に設置と記される。ところで、伯耆の東隣の因幡(稲葉)
国造だけは成務朝設置とあるから、出雲討伐とは無関係ではないかとも、当初考えていた。「国造本紀」でも、彦坐王の子の彦多都彦が定められたとあるので、
因幡のほうは、その東隣の但馬・丹波同様に彦多都彦が「彦多々須すなわち丹波道主命」であって、当初は、これを祖とすると考えていたわけである。
それが、再度物部氏系譜を検討するなか、出雲の東隣の西伯一帯の鉄産地、日野川流域(日野郡日野郷がある)には、楽々福神社関係の伝承が強く残り、孝霊天皇(その皇子と称されるのが吉備津彦兄弟)と大矢口宿祢に関係することが強く浮かんできた。楽々福神社旧神主の入沢氏は、大矢口宿祢を遠祖とする物部姓といわれる。そして、大矢口宿祢は因幡の伊福部臣(大水口宿祢後裔の穂積臣・釆女臣の臣姓に通じる)
の祖とする武牟口命にあたるから、因幡国造の始まりも出雲平定に関係することが分かってきた。因幡・伯耆を通じての唯一の名神大社・宇倍神社は稲葉山の麓
にあって、祭神とされる武内宿祢が、武牟口命すなわち大矢口宿祢を意味する。してみると、伊福部臣の祖が因幡国造だという「伊福部氏系譜」は正しい所伝で
あったことになる。
これに加え、伯耆の国造もその系譜を失っているが、初祖の大八木足尼というのは、「国造本紀」のいう武蔵国造同族の出ではなく、物部と遠祖を
共通する倭文連や鴨県主からの分岐で、少彦名神の後裔におかれるのが穏当であろう。孝霊天皇伝承には「鴬王」という者が見られ、これが伯耆国造の祖で、出
雲平定に関与したとみられる。
以上に関連して、安毛建美命の記事も問題になる。「天孫本紀物部氏系譜」には、伊香色雄の子で、「六人部連祖」とすることには疑問があるということである。六人部連のなかでも、最も著姓である山城国乙訓郡の向日神社(向日市向日町北山) 奉斎の六人部連は、同書の「尾張氏系譜」の記すように海神族系の尾張氏族とするのが一応、妥当そうである。こうみてきたが、どうも見直しを要するようである。
「六人部」がもと「身人部」と書き、これが水取部(主水部)の職掌に因み、宮中の主水司で祀る「鳴雷神」に通じる「火雷神」を祭祀した事情を考えると、同じ主水部の負名氏でもある鴨県主氏同族の出であったのかもしれない(この辺の系譜は極めて複雑であって、判じがたいが、最近では、物部同族の鏡作連の初期分岐かという見方に傾きつつある)。 物部の職掌のなかには「水取」もあり、これが「モヒトリ、モトリ」と訓まれたから、安毛建美命は物部氏族の水取連の祖であり、真年も水取連・舂米連の祖だと記す(ここでも「六人部=水取部」となろう)。 舂米連は、河内北部の茨田・交野両郡にまたがる茨田屯倉に関して定められたと仁徳紀にいう舂米部を管掌したが、物部氏族には珍しく、北九州にもあり、筑前国糟屋評造の郡領として史料に見える。茨田屯倉の淀川対岸となる摂津国島下郡穂積郷には舂米寺(『日本霊異記』上巻)もあり、舂米部の分布(河内のほか、美濃国本巣郡、周防国玖珂郡、筑前国志摩郡。因幡にも現若桜町舂米)などの事情も併せて、舂米連は穂積臣や矢田部造に近縁とみられる。 そうすると安毛建美命の系譜は、「天孫本紀」にいう伊香色雄の子ではない可能性も出てくる。その場合に、穂積系の末盧国造祖・矢田稲吉命の子弟という可能性もある。同書では、大新河命の同母兄とするから、大新河命に相当する大矢口宿祢の兄の同母兄の大水口宿祢が安毛建美に当たるとすれば、上記の諸事情が符合しそうでもある。北九州に舂米連があったのも、これに通じるかもしれない。ともあれ、六人部絡みの系譜は難解である。
「水取」とは、茨田屯倉についての治水・用水を管掌することだとみられる。物部氏族に氷室管理の氷連(『録』河内神別。左京神別に氷宿祢)があったのも、水取の職掌と対応する。『延喜式』主水司の条には、山城国葛野郡徳岡氷室など十個所の氷室が記される。
四 これまでの穂積系物部氏関係の一応の総括
以上の諸事情を整理すると、内色男命系(穂積系)の関係系譜は次のように推定される。 饒速日命の第五世孫(以下、Dのように表現する)の内色男命−その子のE大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国国造祖)、その同母弟のE大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命、大毋隅連、武牟口命と同人)−F大売布命(景行朝の東国遠征に供奉したと『高橋氏文』に見)−G大小木宿祢(成務朝に遠江国造になった印岐美。豊日連、同上遠征に供奉)−その子のH樫石宿祢(志紀県主)、その兄弟のH舩瀬宿祢(成務朝に久自国造)、同じくH印播足尼(仲哀朝に久奴国造)。大小木宿祢の兄弟のG大小市宿祢(成務朝に駿河国造になった片堅石命のことで、大新川命の子と「国造本紀」に見える)−その子のH阿佐利連(応神朝に風早国造)、その兄弟のH子致命(応神朝に小市国造。大新川命の孫と「国造本紀」に見える)。大売布命の兄弟のF意布美命(建新川命に当たるか。春道宿祢の祖の布都弖は、その子か同人か)−G伊其和斯彦宿祢(伊福部氏系譜に成務朝に稲葉国造。伊福部臣祖)、その兄弟のG臣賀夫良命(成務朝に三野後国造。景行朝に見える美濃県主角鏑)。
さらに、こうした系譜探索を通じて、「天孫本紀」の記事は、矢田部氏、榎井氏、石上氏など物部関係者に影響をうけない物部氏初期系譜には見え
ない「多遅麻、大別」を同書の「物部系譜」には特にあげることで、同系譜はこの両者を祖先にあげる矢田部造氏に深い関係をもつことが推定される。これは何
を意味するかというと、「天孫本紀」物部氏系譜前半部の主要部分が矢田部造氏関係者によって編纂されたことが示唆されるということである。藤原明著『日本
の偽書』では、『旧事本紀』を偽書と断じ、その作者を矢田部公望とみて、延喜六年(906)の講書の際に、その筆記に『先代旧事本紀』の引用が見えること
などを根拠にあげる。
私は、かつてこの見解を含め、藤原明氏の『旧事本紀』に対する見解総体について疑問を感じた
(http://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/gisyo.htm)。今でも基本的にはそうであり、『旧事本紀』
の各書がただ一人の編者により編纂されたとはとても思われない。とはいえ、「天孫本紀」物部氏系譜には、少なくとも矢田部公望など矢田部氏関係者の手が加わっているとみざるをえないと今は考え直している。
物部氏の系譜は、平安前期に『新撰姓氏録』が編纂されたとき迄には、既にかなり大きな改変がなされていたとみられる。「天皇本紀」にも大新河命を大臣としてあげ、その者のみの「物部連公」の賜姓を記す点で、また、「天孫本紀」で矢田部系統から出たという后妃をあげる点(菟道稚郎皇子・矢田皇女をこの系統の女の所生とする、この辺の記述は信頼できない)
で、この系統を重くみていることが示される。印葉連が「大連ついで大臣として供奉」というも、同様に疑問がある。また、『書紀』にもある推古二二年六月の
遣隋使として犬上御田鍬とともに遣わされた欠名の「矢田部造」の名が、大仁の冠位をもつ「御嬬」だとが「帝皇本紀」から分かるが、この辺は矢田部氏の家伝
によったとみられる。
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