(「天孫本紀」物部氏系譜の検討)の2


 五 物部嫡宗家の世代欠失

 
弗大連〜守屋大連につながる物部本宗(ここでは「嫡宗」と表現する)につながる系統は、内色男命の弟のD大綜杵命に始まる。その子のE伊香色男・伊香色謎が崇神天皇関係で『書紀』に見えており、その子のF物部十市根(垂仁紀)、さらに胆咋(仲哀紀)と続いて同書に見えるものの、その後はしばらく『書紀』には現れず、次に出てくるのが履中紀の伊弗大連であって、この間の物部氏の動向が不明となる。
 「天孫本紀」では、G胆咋の子にH五十琴宿祢をあげ、その子にI伊弗・麦入の兄弟、伊弗の子にJ布都久留・目の兄弟、麦入の子にJ大前・小前の兄弟をあげる。
 一方、『姓氏録』では、E伊香色男(崇神紀)−F物部十市根(垂仁紀)という世代数はほぼ共通の記事であり、また、布都久留(懐)・目兄弟と小前の三人がともに第十二世孫におかれていて、子孫の弥加利(御狩)の第十五世孫の記事(左京神別・大貞連条)からも、こうした『姓氏録』記載の世代数のほうが妥当だということになる。そして、この『姓氏録』の世代配置は、私が他の多くの古代氏族系図から標準的なものとして帰納的に導き出したもの(「標準世代」)と合致している。「標準世代」では、神武を第一世代(@)として、「E崇神−F垂仁・景行−G成務−H仲哀・応神−I仁徳−J履中〜允恭−K安康・雄略−L清寧〜継体−M安閑〜欽明−N敏達〜崇峻」となっている(※この標準世代の配置は要留意のこと)。

 この対比関係からいって、F物部十市根とK布都久留・目・小前の世代数がそれぞれ確定的であり、両世代の間におかれる四世代について、「天孫本紀」は「胆咋−五十琴−伊弗・麦入」の三世代しか入れられていないのだから、そこに一世代分の欠落が認められる。ここに入る者が誰なのか、どのような 系譜関係で入るのが妥当なのかという問題があるわけである。
 『姓氏録』の記事に基づき考えると、胆咋は唯一、山城の中臣葛野連の記事に「伊久比足尼」と見えて第九世孫とされ、五十琴は伊己止足尼・伊己灯宿祢として三個所(大和の佐為連、河内の高屋連・氷連)に見えて第十世孫とされる。次の世代の伊弗・麦入については、前者は伊己布都として三個所(右京の依羅連、山城の巫部連、河内の高橋連)に見えて前二者では第十世孫、もう一つが第十四世孫とされるものの、その次の世代が第十二世孫であって、この世代数が妥当だとみられるから、伊己布都の三個所はいずれも「第十一世孫」の誤記だと考えられる。
 そうすると、物部嫡宗は「F十市根−G(欠名)−H 胆咋−I五十琴−J伊弗・麦入」という世代として整理され、第八世孫に世代欠落があって、その者の名が失われていることになる。その場合、嫡宗第八世孫 に入るような該当者は、第八世孫の胆咋の弟にあげられる金弓連しか考えられない。金弓については、田井連・佐比連等の祖と記事にあるが、田井連は五十琴彦 の子の目古が祖と見え、佐比連については、目古の弟の牧古が佐比佐連の祖、五十琴宿祢の子の石持が佐為連の祖、石持の甥におかれる御辞が佐為連の祖、とそ れぞれ混乱しながらも五十琴の子孫にあげられるからである(太田亮博士は、佐比と佐比佐とは同じとして、佐為とは別にみている事情にあるが)。金弓連は早世したものか、物部嫡宗の家督は十市根から孫の胆咋に直接引き継がれた事情があったのではないかと推される。
 なお、ここで見るように、佐為連(『姓氏録』に見える表記に従う)の祖及び五十琴兄弟について、「天孫本紀」に混乱があるが、次のように考えておく。
 佐為連については、『姓氏録』に伊己止及び牟伎利(麦入)の後裔と見えるから、「I五十琴−J麦入−K御辞」としておく。また、同名の石持が「天孫本紀」では第十世孫と次の第十一世孫に見えて、前者のほうは佐為連等祖と記されるものの、石持は第十一世孫の麦入の弟におかれて、刑部造や猪名部造(春澄朝臣)の祖と考えておく。       
 「天孫本紀」では、第九世孫に五十琴宿祢、その弟に五十琴彦連とあげて、同母の兄弟のように記すが、語幹は同名であり、当初は同人と考えた。しかし、五十琴彦連の子の目古の娘が麦入の妻となったという記事があり、かつ、目古の子に履中朝に若桜部造姓を賜った長真胆をおく鈴木真年などの見解(長真胆の父祖は史料では不明であり、矢田部系統の可能性も留保しておく)も見られるので、世代対応を考えて、別人で「五十琴彦連=目古」としておく。そうすると、目古の弟で同じ第十世孫にあげる牧古は、共通して佐為連を子孫に持つ五十琴宿祢と重なることになる。

 ところで、これらの混乱に関連してか、継体朝の大連麁鹿火の系譜が失われることになった。「天孫本紀」には麁鹿火・押甲兄弟を第十五世孫にお くが、これは年代的・世代的に見て疑問大であり、二世代ほどの世代年代繰下げがある。押甲は山城の中臣葛野連の祖であるから、その祖を伊久比(胆咋)とする『姓氏録』の記事を踏まえ、かつ「天孫本紀」の記事を踏まえて、「I目古−J木莚−K麻佐良−L麁鹿火・押甲兄弟」と考えておく。「木莚」は「天孫本紀」の記事に見えるものの、木蓮子(第十二世孫におかれる)と混同されがちであるが、世代的に別人である(「木莚」は「天孫本紀」にはキムシロと訓があり、木蓮子〔イタビ〕とは訓も異なる)。
 麁鹿火の後裔として、「天孫本紀」は今木連・屋形連をあげるが、この両氏の系譜は混乱しており、疑問が大きい。また、『姓氏録』では、後裔として高岳首(和泉神別)のみをあげるが、カバネや居住地からみて疑問があり、麁鹿火の子孫は残らなかったとみられる。いずれにせよ、高岳首は『姓氏録』の配列でその次に置かれる安幕首の同族と考えられる。
 安幕(アマカ)は、守屋大連の家人捕鳥部万の逃走先の茅渟県有真香邑の地である。この比定地については、和泉国日根郡の式内・阿理莫神社がある貝塚市久保一帯と考える説がある。これに対し、天下(あまが)谷の中心の八田村(現岸和田市中部) に当てる説もあり、安幕首が矢田部同族であれば、こちらはかなり魅力的である。八田村は現八田町・天神山町が含まれたが、後者には捕鳥部万の墓と称するも のがある。その南には、阿間河滝町という地名もある。貝塚市久保と岸和田市八田とは約六キロほどしか離れない地であるから、この辺一帯が『和泉志』にいう 泉南郡に阿間河荘であって、この地に安幕首が居たことに違いない。

 
 六 石上氏の系譜

 
「天孫本紀」物部氏系譜の後半部分でも、大きな混乱がある。それは、目(目古)を名乗る人物が多く見られ、それぞれの位置づけがマチマチなことである。奈良時代の物部氏の氏上たる石上氏でも、その先祖に二人の「目連」(第十一世孫及び第十五世孫)が「天孫本紀物部系譜」にあげられるので、注意を要する。 
 壬申の乱後の物部氏族の氏上では、まず榎井氏の雄君(死後の贈職ではあるが)が氏上をつとめ、次いで石上氏がこれをつとめており、大嘗祭や元日儀の際には石上・榎井両氏が物部を率いて大嘗宮の南北門に神の大楯・矛を立てたことが、六国史や『延喜式』践祚大嘗祭式に見える。「天孫本紀物部系譜」では石上氏の系譜がとくに詳しく、系譜の最後の世代(第十七世孫) にあげられる唯一の者が、石上氏の祖・物部連公麻侶と記される。この麻侶とは、文武・元明・元正朝で右大臣・左大臣を歴任した有名な石上朝臣麻呂のことで ある。石上氏の先祖にあげる上記二人の「目連」が同一人である可能性があること、先祖の御狩が兄弟とされる贄古と同一人である可能性があること(後述)から、石上氏の地位強化や正統性主張のために、麻侶の父の馬古の父祖の系譜を変更したことが考えられる。
 「天孫本紀」の「物部目大連()」の位置づけは疑問があり、第十五世孫の物部目連は後の石上朝臣氏につながる系譜を「天孫本紀」は記すが、疑問がでてきた。この物部目連は同書になぜか欽明朝の大連とされていて、時代が合わず(世代的には推古朝となるはず)、おそらく架空の存在であって、石上朝臣氏の祖たる大華上の馬古(宇麻呂)の父は、推古朝頃の石上鎌束連(石上贄古連の子)だという可能性を強く考えるようになった。
 つまり、大市御狩連と石上贄古連は、「天孫本紀」には兄弟(第十四世孫)とされるが同一人ではないかということである。贄古は『書紀』敏達十二年条に見えるが(百済から日羅が来たとき、朝命を受けて任那再興策を尋ねた)、 御狩のほうは『書紀』にまったく見えない事情もある。それに加え、@大市と石上とは地理的にごく近隣にある。「大市」とは、石上神宮の南方近隣に位置する 地であるが、これは石部正志氏が指摘するところである。石部氏は、「現在、地元で「大市」と俗称しているのは、天理市南部の大和神社から萱生町の西殿塚古 墳にかけての限定された区域であって、箸中や金屋の辺りではない」と指摘する(石部正志「「天皇陵」の現状と問題点」、『続・天皇陵を発掘せよ』一九九五年刊)。これは極めて留意すべき指摘と考えられる。また、A事象としても、「御狩により天皇への贄を得る」ということで、名前も相通じる事情がある。河内を本拠とした守屋に対して、大和の石上神宮付近に居した御狩・贄古という対照にもなる。
 要は、石上麻呂が、守屋大連滅亡時にあって蘇我氏との通婚・地縁で生き残った物部支族から出て大いに立身したが、本来支族の自己の系統を正統 な物部本宗に位置づけるために、先祖の贄古の別称たる御狩を別人として分離して、守屋の兄に置いたという系譜操作を行ったとみるわけである。その結果、 「天孫本紀」には石上鎌束連の子孫は示されず、かつ、馬古の父に大貞連の祖とする「目連」を置いて、御狩と馬古とをつなぐことになった。
 大貞連の祖は、『姓氏録』左京神別・大貞連条では、聖徳太子のとき(推古朝)の阿比太連(一に阿比大連で、竹内理三等編『日本古代人名辞典』では、この説を採る)が氏祖とされる。年代的にみて、目(第十五世孫)と阿比太とは重複することとなるが、本来、両者は兄弟ないし同世代とみられ、鈴木真年翁編纂の「物部大連系図」には、その解釈に拠ってか、目と阿比とを兄弟で記される(佐伯有清説では、阿比を目の子と推定)。ここでも、目は矛盾した存在であることを示している。
 石上贄古は異母妹の布都姫(御井夫人、あるいは石上夫人)を妻として、鎌束、長兄若子、大吉若子以下、「若子」と付される者の位置づけには疑問が大きいことに留意)、鎌束姫大刀自(兄の鎌束に対応する命名。一本には各「束」を「足」に作る) の四児を生み、推古朝に「大連」となり石上神宮を奉斎したと「天孫本紀」に見える。物部鎌束姫大刀自が推古十六年に参政としたという記事も『旧事本紀』 「帝皇本紀」に見え、「神宮に斎仕」という記事を加えたほぼ同様の内容が「天孫本紀」にも見える。ところが、「大連」という職は守屋滅亡の後に廃絶したと みられ(『日本史広辞典』)、この時期以降の「天孫本紀」の「大連」表記は誇張であって、疑問が大きい。具体的には、物部石上贄古連大連同人なら、御狩の大連も当然疑問となる)をはじめ、恵佐古・多都彦(ともに榎井氏)についての大連就任の記事は誇張ないし偽称とみられる。こちらのほうは、石上・榎井両氏系統の所伝かと思われる。
 奈良時代にはかなりの数が『続日本紀』に見える榎井氏は、平安期に入るとなぜか大きく衰え、弘仁六年(八一五)成立の『姓氏録』にさえ、掲載がないほどである。それでも、「広隆寺来由記」に故越後介従五位下榎井朝臣島長(もと支族の春世宿祢から改姓)が般若院の堂宇を建てたと見え、康和元年(一〇九九)正月に榎井定員、同五年正月に榎井盛康が各々従五位下に任ぜられたと見える(『本朝世紀』)。このほか、永久六年(一一一八)に十市郡の土地売買に関し池辺御荘佐駄(沙汰)人榎井某(欠名)が見え、大阪府泉南郡岬町の興善寺の大日如来像銘には、榎井行永女共らが見えるが、平安中期以降に見える榎井氏は、支族か支族から改姓したものの後裔という可能性もある。
 
 ところで、守屋大連(弓削大連家)は 一支族であり、その滅亡後も本宗家や他の物部一族はかなり安泰で残ったとする見方もないでもない。しかし、「天孫本紀」に依拠してのこうした見方は疑問で ある。畑井弘『物部氏の伝承』も志田醇一も、石上氏は一支族とみており、物部氏一族は本宗の守屋大連のときに、守屋を中心にほとんど族滅したとみるほうが 妥当である(そうすると、関連して榎井氏の系譜にも疑問が出てくることになる)。
 石上氏と蘇我本宗との通婚についても記すと、「鎌束姫大刀自が蘇我島大臣(馬子)の妻となり、豊浦大臣を生み、その名が入鹿連公」だという「天孫本紀」の記事には明らかに混乱がある。『書紀』(崇峻即位前紀及び皇極二年十月条)の記事には、守屋の妹が馬子の妻になったという記事もあるが、これとも符合しない。これらの解釈は難解であるが、二ケースが考えられる。まず、A通婚は一回だけの場合には、上記の両記事が守屋の姪(石上束連の妹たる束姫)が蘇我本宗の蝦夷に嫁いだことの誤りだとすると、世代的にはこの姪が入鹿の母となる。次ぎに、B通婚が二回行われたとする場合には、これに加え、守屋の妹(御井夫人ないしはその姉妹がそれか)が蘇我馬子に嫁した事情もあったことになる。この判断は難しいが、『書紀』記事の信頼性や石上氏の残存事情から考えると、ケースBの可能性にやや傾いている。
 「蘇我入鹿の」についても、入鹿の「弟」を物部大臣という記事が『書紀』にある。「弟」を「第」の誤字で邸宅とする見解もあるが、建物をこうした呼び方をすることはないから、やはり弟でよいか。その名を「敏傍」(畝傍〔ウネビ〕の誤記か)とも伝える(『石上振神宮抄』所載「神主布留宿祢系譜」)。
 なお、こうした通婚を基礎に石上鎌束連の系統は、守屋大連と一緒の滅亡を免れ、後の石上朝臣として残ったのではなかろうか。こう考えるのが自 然であり、「天孫本紀」の物部氏系譜はそのまま信じられない個所が多い。目大連が複数で頻出する事情もこの関係であったのかも知れない。
 石上氏では麻呂が氏上、すなわち物部本宗となったとき、守屋の兄に御狩なる者を置き、自らが当初から物部嫡流であったように系譜を改変した疑いが濃い。そうすると、「天孫本紀」物部氏系譜の最初の記述者・編纂者はその末尾に見える麻侶その人ではなかろうか。

 
  物部氏系譜の後半部分の同名・類似名の頻出

 「天孫本紀」物部氏系譜の後半部分には、石上氏の系譜のほかにも問題がある。それは、「目」に加え、同名ないし類似名の「金(金弓、金古)」を名乗る人物についても、大きな混乱が見られることで、これらの名が@軽馬(軽間、借馬) 連、A野間連、B今木連、C屋形連、という姓氏各々の先祖の系譜のなかに現れる。これらのうち、今木連を除く三つの氏(@AC)は『新撰姓氏録』に見えな いので、主に畿外に本貫を置く氏ではないかとみられ、太田亮博士の整理や松原氏の研究を踏まえて考えると、@は讃岐に本拠があったようであり、そうする と、これと同祖所伝も同系譜に見えるAは、讃岐の西隣の伊予にも物部氏族が多く分布することに関係するものか。今木連は、山城に多いが、和泉や備前にも あったから、これら諸氏の分布地域は和泉から讃岐・伊予という形が知られる。もともと讃岐には、物部配下の讃岐三野物部が居たから氏族として展開しやすい 地であった。
 物部氏系譜の後半に頻出する「金連」の理解は、たいへん難解だが、「金連」が目連の弟とも子とも記されるものの、「野間連・借馬連の祖」という観点から、雄略朝の目大連の弟にあげる鍛冶師連(小軽女〔小軽馬〕連の祖)との近親関係か同一人とするのが良さそうである。鍛冶と金で、意味も相通じる。「借馬」の表記は軽馬・借間・苅間・軽間とも同じで、訓も「かりま、かしま、かるま、かるめ」多少違うが、皆、同じだと思われる(太田亮博士に同意)。鈴木真年編纂の「物部大連系図」には金連が「刈田首祖」とも見え、伊予国宇摩郡の従七位上苅田首倉継・同姓浄根が物部連を賜姓した記事(貞観十二年〔八七〇〕十二月紀)もある(近隣の讃岐国苅田郡に起る刈田首は紀臣氏一族とされるから、「田」は「間」の誤記か別族の可能性もあるか)。
 老古連(麁鹿火の弟の位置にあるが、軽馬連・野間連の祖とされる金の直前におかれるのを重視すべきか)を祖とする神野入州連も、伊予国神野郡(後に新居郡)か讃岐国那珂郡神野に居たものか。駿河や美濃東北部(武儀郡神野邑)にも神野の地名がある。そうすると、これらと近い同族関係にある野間連も伊予国野間郡、同郡式内名神大社の野間神社(今治市神宮。その東隣に矢田の地名がある)に因るものか。摂津にも式内の野間神社(能勢郡にあって「布留社」ともいい、大阪府豊能郡能勢町地黄に鎮座)があり、物部との関連を伝えるが、伊予の色彩も感じる。ただ、史料に見えないほどの中小豪族のようなので、判断が難しいところであるが。
 借馬連については、『続日本紀』神護景雲元年三月条に造寺大工正六位上軽間連鳥麻呂(宝亀三年十一月条には軽連鳥麻呂として修理次官に任官)の外従五位下の受位が見え、天平十年周防国正税帳には刑部少解部従六位下苅間連養徳が見える。山背国愛宕郡計帳に貫されている例(大日本古文書1-533頁の軽馬乎治米売) もあるが、どうも本貫は讃岐国のようで、松原弘宣著『古代の地方豪族』には、「「讃岐国戸籍」断簡と物部借馬連氏」という論考がある。「大日本古文書 1-317,318頁」に記載の八世紀代の「讃岐国戸籍」断簡文書に物部借馬連を名乗る九名の男女が見えることから、これを分析したもので、この九名が居 た郡名を寒川郡と推測する。讃岐国大内郡入野郷戸籍にも「借馬」氏が二名見えるなど、讃岐にこの一族が多く分布した。同郡には引田郷に疋田物部もいた事情 がある。
 借馬連などの先祖諸伝が様々な形で「天孫本紀」物部氏系譜に入れられた理由は、それでもまだ不明なのだが、矢田部造氏の一族が讃岐国寒川郡に居て(『三代実録』元慶元年十二月に正六位上木工大允の矢田部造利人が山城国へ貫付)、矢田部が同国大内郡に居た事情が関連してあげられる。矢田部造と借馬連は、近い系譜関係か通婚関係があったものか。矢田部は阿波国板野郡や周防国玖珂郡にも居た事情がある。延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍に矢田部子師丸が見えており、吉敷郡に八田郷があった(『和名抄』)。同じ史料に見える物部連有吉一族(中世周防の大族厚東氏の祖)は物部目大連の子の荒山連の弟・麻作連の後とされるものの、麻作連にも軽馬連・笶原連祖と「天孫本紀」に見えるから、麻作連の同書の位置づけには疑問が留保される。
 笶原連は矢原連とも書き、史料には天平三年の越前国正税帳に氏人が見えるが、むしろ周防に矢原の地名があり、讃岐にも矢原氏が居たことに留意される。周防では、山口市南部の椹野川西岸に矢原の地名があり、ごく近隣に穂積の地名が見え、これらの東方五キロほどに矢田(大内矢田のうち。上記の吉敷郡八田郷)の地名が見える。讃岐では、那珂郡東七箇村に矢原氏が居て、寛正二年(一四六一) の銅灯籠蓋銘から、大同三年に立てた神野社、弘仁十年に立てた神野寺・加茂神などを矢原氏の歴代が保持したことが分かる。矢原氏は上記銘文で讃岐国人に多 い神櫛王の遠孫と称したが、これら社寺からみて、物部氏族に出自したものか。「神野」は先にあげた神野入州連とも関係したものか。東七箇村は現香川県仲多 度郡まんのう町の七箇・神野一帯(満濃池の南岸・西岸)にあたる。
 この関係でもう一つ留意したいのは、「榎井」という地名が西日本で唯一残るのが、仲多度郡琴平町榎井だということで、満濃池から北西約五キロの近隣に位置する。寛弘元年雑載として「榎井益刀自女」が見えるのも、讃岐国大内郡入野郷戸籍であった。
 
 今木連については、「天孫本紀」の記事が複雑で判断が難しい(その祖を、A大市御狩の弟の金弓若子、B大市御狩の孫の耳(大人の子)、C守屋の孫の金弓(榎井雄君の子)、D麁鹿火の子の石弓若子、と四つの所伝をあげる)。そのまま受け取ると、四系統があったように見えるが、これらは本来は一伝で石上氏か榎井氏の近縁氏族であって、類似して伝える先祖の名を金弓(または石弓)とすると整理されよう(BはAに統合されるか)。
 ところで、さらに複雑なことに、「天孫本紀」と『姓氏録』とでは、記事が大きく異なる。『録』山城神別では真髪部造同族で大売布の後とするが、むしろそれを傍証しそうな点がいくつかある。その第一は、今木連は山城国宇治郡の郡司主帳として『大日本古文書』(天平二十年、天平宝字五年)に見えるが、同時に郡内第一の豪族として宇治宿祢・連があり、矢田部造麻呂らとともに同じ文書に見えることである。宇治連の系譜も、軽馬連と同様に第十三世孫の目連の後裔(借馬連等の祖の金の弟・臣竹が宇遅部連等の祖とする)として「天孫本紀」ではあげられるから、宇治連と今木連とは近い同族であろう。
 第二には、山城の今木連の本拠は宇治郡の今木乃嶺(『万葉集』巻九)に比定される朝日山の近辺(現宇治市の宇治・菟道)とみられる(佐伯有清編『新撰姓氏録の研究』)。朝日山の北麓には三室戸の地名があるが、大和でも平群郡稲葉の西隣に三室の地名が見え、神南の三室山(神南備山)頂上付近には、スサノヲ神を祀る式内の神岳(かみおか)神社がある。今木山という地名は、古代の因幡国庁の南東近隣にもあって、いま因幡三山(最近の命名)の一つに数えられる。これらの事情から、今木連は、本来は大売布系の氏族とみられる。
 第三に、今木連は屋形連を通じて、榎井連につながることが暗示されるが、同族とみられる榎井部が大矢口根大臣命(大売布の父と推定されることは前述)の後裔と『姓氏録』和泉神別に記される。「天孫本紀」では、第十四世孫に金弓若子(今木連祖)と麻伊古(屋形連祖)とを兄弟(尾輿の子)としてあげ、第十五世孫には石弓若子(今木連祖)と毛等若子(屋形連祖)とを兄弟(麁鹿火の子)としてあげる。麻伊古はその後に記される記事から榎井連の祖であるから、屋形連の注は麻伊古の弟におかれる多知髪にかかるともみられるが、いずれにせよ、「今木連の祖と屋形連の祖」とは兄弟だという所伝があったと分かる。
 第四に、大和国添上郡にも今木の地名があり、寛弘九年(一〇一二)の「今木庄坪付」(東大寺文書)から奈良市古市町辺りに比定され、現在小字として今木がある(『奈良県の地名』)。この地は、同じ添上郡の矢田から東方約九キロの地であって、矢田部造との関連が窺える。榎井氏の起源の地が添上郡木辻村榎葉井(奈良市西木辻町エノハイ。『大和志』〔一七三四年成立〕、佐伯有清博士)であれば、木辻と古市とは僅か二キロほどの近距離である。
 第五に、和泉国日根郡の春世宿祢島公・島長らが榎井朝臣姓を賜ったが(承和十二年〔八四五〕二月紀)、『泉州志』にはこの氏は近木郷にあったものかという(『姓氏家系大辞典』)。近木郷とは、『和名抄』の近義郷のことで、いま貝塚市北西部の近木一帯となる。近木の東方近隣の久保には、物部同族が奉斎したとみられている式内・阿理莫神社(茅渟県有真香邑の地に比定する説がある)がある。近木は今木に通じるが、岸和田市北部に今木町があり、その南東近隣に稲葉町があることに注目される。この辺はあまり端的とはいえないが、今木と榎井氏とが関連することを窺わせる。
 以上に見るように、上記諸氏を追いかけると、讃岐・伊予及び周防に関係したことが分かり、それぞれの地で矢田部氏の影が見えるから、これら諸 氏は矢田部同族であった可能性がある。その先祖の系譜諸伝がなぜ、「天孫本紀」に取り入れられたのかは、この辺の事情に因るものか。史料が乏しいため不明 な点が多いが、榎井氏との関連も暗示される。(この関係は「補論の展開」を参照されたい

 
 七 出雲色大臣の位置づけ 

 出雲醜大臣命とも書くが、「醜男」は勇者の義であり、兄弟ともされる大祢命と同人かという問題があることを先にあげた
 この者は、『姓氏録』では二個所(右京神別・若桜部造、河内神別・勇山連)に見えて、いずれも饒速日命の三世孫と記される。父は彦湯支命で、母は出雲色多利姫(一に出雲臣の祖・髪長姫)とされる。懿徳天皇の時に、「食国(おすくに)の政を申す大夫」となり、ついで大臣となって石上大神を奉斎したが、「大臣」の号はこのときに始まったという。倭の志紀彦の妹・真鳥姫を娶って、大木食命(三河国造祖)、六見宿祢(小治田連等祖)、三見宿祢(漆部連等祖)の三児を生んだ。以上が「天孫本紀」の記事であるが、「国造本紀」には三野後国造及び参河(三河)国造の祖と見える。
 物部氏族から出た東海道の国造で、三河国造だけが出雲色大臣の後とされ、大売布命の後裔にはなっていない。その設置が景行天皇の東国巡狩とは 無関係ということである。『集成』の三河国造の系譜では、三河国造が三野後国造と同じく、出雲色大臣の後という所伝も記されており、この辺をどう考えたら よいものか。
 ここまで考えてきて、出雲色大臣とは、実は兄弟とされる大祢命と同人だと考えるようになった。「大祢」は大尼(大峯大尼命に見られ、「大尼」オオネで官職と「天孫本紀」に記される。また、建胆心大祢命もいる)と同じであって、官職の名からきた通称名であり、出雲色大臣の「大臣」にも通じ、かつ出雲色大臣のほうは母の出自からきた通称とみられる。古代の人名では、異名同人の判別がきわめて重要であるが、ここにもまたその問題が出てきたわけである。
 出雲色大臣の後という三野後国造は、上掲のように大祢命の後に配置換えされたし、若桜部造は、『姓氏録』右京神別に出雲色男命の後と記されるものの、一方、和泉神別の若桜部造では止智尼(十市根)大連の後として、鈴木真年編「物部大連系譜」でも大祢命の後におかれるから、これとは合致する(『集成』の物部氏系図参照)。「伊福部家譜」では、端的に彦湯支命の子に出雲色雄命、その子に内色雄命と続けて、大祢命の名をあげない事情にある。この辺にも、同家譜の記事の重要性が知られる。
 そして、三河国造の遠祖の大木食命は、「天孫本紀」では出雲色大臣の子とされるが、一般に穂積氏建忍山宿祢の子におかれる大木別垂根と同人の 疑いが濃くなる。真年編の上記系図には、建忍山宿祢の弟の位置に大木足尼命も記載される。ここで、「天孫本紀」系譜をみると、大木食命は大水口宿祢・大矢 口宿祢兄弟と同じく第四世孫に並んでいるから、これらは同じ世代でなくとも近い世代であった可能性ある。出雲色大臣の子の三見宿祢の後とされる漆部連は、 本来は久米氏族の出で吉備中県国造同族とみられ、美作で繁衍し大和の宇陀郡にも居たから、出雲色大臣の後という系譜にまず疑問がつく。
 しかも、三見宿祢の兄・六見宿祢の後とされる「小治田連、勇山連(諌山連)」の系図も具体的には不明である。『録』右京神別の小治田連は伊香我色雄命の後とされるから、ここでも「大祢命=出雲色大臣」となる。『姓氏家系大辞典』には、因幡国八上郡小畑邑から起こる小畑(小幡)氏は『太平記』にも見える名族であるが、伊香色雄命の後の小治田宿祢を祖とすると伝えるとの記事も見える。貞和二年の「新興寺文書」(因幡国八頭郡)に八頭郡の矢部左衛門尉綸綱とともに見える小治田八郎左衛門尉義範が小畑氏か。勇山連のほうは、物部氏族には珍しい北九州の豊前の出とみられるから、筑前に見られる舂米連(伊香色雄の子の安毛建美の後という)と同族の可能性がある。そうすると、出雲色大臣の子の六見宿祢という者が出石心大臣に当たるものか。
 「天孫本紀」で出雲色大臣の妻とされるのが「倭志紀彦の妹、真鳥姫」であるが、この妻の名は、大売布命の妻とされる「倭志紀彦の女、真鳥姫」 に重複する事情もある。そうすると、後に大売布の子孫から志紀県主が出ることから、出雲色大臣の妻の名には疑問が生じることになる。
 これら諸事情から、大木食命とは大水口宿祢の子で建忍山宿祢の弟にあげられる大木足尼命(「足尼=垂根」)に当たるとみられる。そうすると、三河国造の初代・千波夜命は世代的に大木足尼命の子におかれ、ちょうど出雲色大臣(=大祢命)の五世孫になる(−@出石心−A内色男−B大水口−C大木−D千波夜)。これは、「国造本紀」の記事のとおりであり、『集成』に掲載した「油子乃命〜古利乃別命」の中間三代は、『諸系譜』記載の原典に拠ったものであるが、母親の名前や系譜(二名までが後世風)から疑っていた事情にある。
 そして、やはり大木足尼命の子に当たるとみるのが適当な者が、末羅国造の初代の矢田稲吉である(ここでも、大矢口宿祢に近い位置に「矢田」が出てきた)。「国造本紀」には、大水口足尼の孫と記され、一般に伝える建忍山宿祢の弟とは異なるが、世代・年代的には「国造本紀」の記事のほうが妥当だと思われる。
 こうしてみると、三河国造が設けられた事情が浮かび上がってくる。建忍山宿祢の娘・弟橘比売は倭建命の東征に随い相模の海に投身したことは有 名ですが、大木足尼命は弟橘比売の従兄弟としてこの東征に同行したものか。駿河の廬原国造も、その初祖が吉備武彦の弟であり、倭建東征に随行したことに因 み現地に土着した。また、末羅国造となって肥前に残ったのも、倭建命の西征に随行したことに因るとみられる。このほか、紀伊国牟婁郡の熊野国造は、初期に 分岐した阿刀連の支族である。
 これで、物部氏族から出た諸国の国造の殆どの設置事情と系譜が分かってきたが、唯一、松津国造が不明である。国造の配置順序と字体からみて、「松浦」の誤記ともみられるし、現に「津」を「浦」と記す一本(前田本)もある。この辺は判断が難しいが、別の国造とみる場合には、伊香色雄命の孫の金連(一に金弓連)とあるものの、末羅国造からの分岐とみるのが地域的に自然である。それにしても、『旧事本紀』には金・金弓・金古と同様ないし類似の名前の頻出・混乱には当惑する。
 仮に別の国造とみる場合には、字体の似ている「杵肆(きい)国造」として、松浦郡と同じく肥前の基肆郡を主領域(三養基地方)とみるものが多く(延本に「キイ」と振り仮名)、これもありうるか。三養基地方には三根郡物部郷があり、『肥前国風土記』にも、物部郷に物部の経津主神を祀る神社があること、物部の若宮部をして社をたて祭祀させたことが見える。これに加え、基肆郡にある基山鎮座の式内社・荒穂神社(肥前国内第二の神階をもつ社)の縁起には、国造金連についての所伝もある(『日本の神々1 九州』三一八頁)。
 その記事では、「大化元年(六四五)、国造金連の子孫、金村臣が基山の山頂に創祀した」とあるとのことであるが、この記事を含む文書が近世の貞享元年(一六八四) の成立ということで、どこまで信頼がおけるのか分からない。カバネが「臣」というのは、穂積臣一族に通じるし、末羅国造の初期の人々にも鳥子臣など臣をつ ける者が見られる。その一方で、ごく近隣の三根郡米多郷を本拠とする別の国造「筑紫米多国造」があることも気になり、これは「杵肆国造」の存在に消極的に なる要素である。こうした事情から、判断が難しいが、消極的に解する(国造記事の重複とみること)ほうが無難なのかもしれない。
 なお、伊豆国造は物部氏族の出と誤解されがちであるが、物部と同祖ではあっても別族の服部連の一族(少彦名神後裔)であることに注意される。

 
 <各種の雑多な諸問題>

 物部一族に関する問題はまだまだ多いが、そのうちのいくつかについて、順不同で簡潔に記しておく。

「物部」の職掌  物部氏族の行動や令制(衛門府、刑部省囚獄司、東西の市司に物部が配置)からみて、本来、軍事・警察の意味が強かったようであるが、鍛冶・造船や武器・土器(布留式土器)などの物品の生産・管理を行い、こうした手工業技術者も配下にあった。神祇・祭祀に関係することも多く、早くも崇神紀には伊香色雄が神への供物(多くの平らな土瓶)の担当者とされたことが見える。次代の十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌したのもその延長であり、これらが「物部」の氏の名の起源であろう。こんな基本的なことさえ、「物」については、武器説(津田博士など)とか精霊説(折口信夫)とか出されたことに驚くが、要は祭祀器具を含む物品にすぎない。
 上記の経緯からみると、伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。こうした縁由で、石上神宮などの祭祀に預かった氏人が多く見える。「中臣」を冠した姓氏(中臣部、中臣葛野連、中臣熊凝朝臣、中臣習宜朝臣など)が物部一族のなかに見えるのも、祭祀関与に基づくことに因る。物部氏族にあげられる巫部連(右京・摂津が宿祢姓、山城・和泉が連姓)も神意を求める職掌に因む。
 随伴氏族の二田物部など「□□物部」と名乗るものは、土器絡みの羽束物部などを除くと、ほとんどが物部の配下・隷属の武力を意味した模様である。それらの系統・系譜は、本来、別部族から出ていたとみられる。なかでも、久米物部・二田物部・芹田物部を代表として、日本列島原住民の流れの久米部族に出たも のが多かったか。実のところ、久米部族から出た□□物部の後裔は、のちに主家の物部氏を先祖に置き換えて、物部同族化したものがいくつかある(例えば、曽根連や漆部造などとその同族か)。 
 
物部氏の分岐諸氏のその他の問題点  この関係でもまだ様々な問題点が残り、例えば物部建男連の子孫とも伝える曽祢(曽根)連の系譜には疑問が多くある。東国の物部志太連、物部匝瑳連や陸奥の物部斯波連は、坂東遠征を行った将軍・物部小事連の後裔に位置づけられる(『続日本後紀』承和二年三月条)。

韓地の物部一族   大和朝廷の韓地との交渉・経営に、物部一族は当初対応していなかったが、出典が「百済本紀」にあるという継体朝の物部至至連くらいから欽明朝の「物部連奈率用哥多、物部奈率哥非」(名前や身分からして両者は兄弟か) など、韓地で活動したものが史料に見えてくる。「天孫本紀」には、こうした韓地で活動した者は見えないが、『姓氏録』には武烈朝に韓国連の先祖の派遣記事が あり、『続日本紀』延暦九年十一月条にも同氏の先祖の塩児が派遣されたと見えるから、韓地で見える物部関係者の多くはこの者の族裔か。「天孫本紀」には、 第十四世孫に塩古(葛野韓国連の祖)が見えており、『姓氏録』には韓国連は「釆女臣同祖」と記されるから、やはり矢田部系統ではなかろうか。推古朝の矢田部御嬬の遣隋使もこの一環で考えられる。
 継体朝に韓地駐留の使臣として物部氏が活動し、穂積臣押山が任那の下タリ国守として活動したと見えており、推古朝に物部依羅連乙等及び穂積臣祖足(推古八年紀では欠名)が征新羅副将軍となることにもつながる。
物部鏡連、物部文連については、土佐国安芸郡に見える。鈴木真年編の「物部大連系図」では、その祖として鍛冶師連(雄略朝の目大連の弟)をあげるが、疑問があり、鍛冶師連は「天孫本紀」に見える「小軽馬連(軽馬連とも同じか)」の祖とみておく。鍛冶師が「鏡作」の祖とあるのは誤記であり、鏡作連は物部と同祖ではあるが、早くに分かれた別族である。
 物部鏡連、物部文連両氏の系譜は難解ではあるが、土佐に分岐した安芸国造同族(玉作氏族)であって、物部とは別系統と分かった。
○「物部」なる者については、「大日本古文書3-514頁」に見えると松原氏がいうが(上掲書)、当該頁に当たったところ、これは誤読だとみられる。東大史料編纂所のネット上では、「医師少初位上物部航甫主ヽ 」と表記しており、くずした形の文字(_を付けた部分)は私にもよく読みとれないが、「物部医連」という姓氏はありえないと考える。
 
別族の物部、また系譜不明な物部 
 史料に見えるなかで、物部伊勢連、物部海連は系譜不明である(前者は「百済本紀」からの和訳違いか)。 物部二田造は、饒速日命の畿内移遷時の随伴氏族の二田物部の後裔。また、物部公(君)は、別族の上毛野氏族や筑紫国造の一族に見える。物部臣は出雲国造族、物部首は和邇氏族、物部直は武蔵国造族の出自をもつ。このほかに、諸国に物部が多いが、必ずしも系譜を明らかにできない。多くは「物部」という職掌を もったことから、それを氏の名にしたものとみられる。
 物部についてもいわれる「擬制的血縁(擬制同族関係による氏族」という概念は、津田亜流の学究が好んで多く用いるものの(平野邦雄等監修の『日本古代氏族人名辞典』にも見られるが)、 具体的な根拠も立証もなく、疑問が大きい。物部氏族の系譜のなかに仮冒として入り混んだ配下の久米部族以外は、饒速日命の後裔の分岐として、血縁上はとくに問題はない。「擬制」というのは、当時に伝わる氏族系譜を否定しての姿勢から出るものとみられ、古代氏族系譜の全てが正しいとは言わないが、基本的には血統原理(ときに母系も含むが)に基づく氏族・部族の結合・統合関係が古代の氏族の基盤にあり、それによる祖神の祭祀があったとみられる。その意味で、中世の武家集団たる「党」には「擬制的」結合が時に見られており、そうした結合をもった党(肥前の松浦党や紀伊の隅田党などの例)が西日本に見られるのとは、異なると考えられる。これは、「党的結合」と呼べば良いだけである。
 なお、物部依羅連など「物部□□連」という複姓表示の氏が割合多く見られるが、これは擬制血縁を示すものではなく、他の氏族にあっても、支族分岐の初期段階で過渡的によく見られる姓氏表示であることに注意されたい。 

 
 八 物部氏系譜検討の総括

 以上の諸事情を整理すると、「天孫本紀」の記事(物部氏の系譜・官職と供奉関係)の信頼性はかなり低いことが分かってくる。だからといって、一概に全てを拒絶するのではなく、『姓氏録』など各種の系図関連史料を基にして、古代の物部氏の系譜を再構成しなければならないし、そのための貴重な史料の一つとして用いればよいということである。
 
 物部氏の基本的な系譜は次のように推定される。太田亮博士の大著『姓氏家系大辞典』にあっても、物部氏の系譜について取違えがおきているから、注意を要する。なお、皇統等の系譜に見られる標準世代(@ 神武−A綏靖・安寧兄弟−B懿徳〔これと同世代の孝安〕−C孝昭−D孝霊・孝元兄弟−E開化・崇神の同世代−F垂仁・景行兄弟−G成務−H仲哀、これと異族同世代の応神−I仁徳−J允恭−K雄略−L武烈・継体−M安閑〜欽明−N敏達〜崇峻−O推古−P舒明〜斉明−Q天智・天武、となる)との対応を考えておくことが必要である。
 物部系統では、氏祖の櫛玉饒速日命の子は、神武朝の@宇摩志麻治命、その子のA味饒田命(阿刀連・熊野国造の祖)、彦湯支命の兄弟、後者の子のB出雲色男命(大祢命)、その子のC出石心大臣命、その子のD内色男命−その子のE大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国造祖)、及びその同母弟のE大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命)−F大売布命(景行朝の東国遠征に供奉)と続くのが、本来の穂積本流であろう。ただし、後になると穂積氏は大水口宿祢の子の建忍山宿祢の後裔に限られるようであり、大矢口宿祢の系統も物部ないし矢田部を称するようになった。

 大売布の後は、系がいくつかに分かれるが、その子のG大小木宿祢(成務朝に遠江国造になった印岐美。豊日連、同上遠征に供奉)−その子のH樫石宿祢(志紀県主)、その兄弟のH舩瀬宿祢(成務朝に久自国造)、同じくH印播足尼(仲哀朝に久奴国造)。大小木宿祢の兄弟のG大小市宿祢(成務朝に駿河国造になった片堅石命)−その子のH阿佐利連(応神朝に風早国造)、その兄弟のH子致命(応神朝に小市国造)。中央の矢田部氏の系統は、若湯坐連の祖とされる伊麻岐利の後ではないかとみられる。また、大売布命の兄弟のF意布美命−G伊其和斯彦宿祢(成務朝に稲葉国造。伊福部臣祖)、その兄弟のG臣賀夫良命(成務朝に三野後国造)。
 一方、後の物部嫡宗につながる系統では、内色男命の弟のD大綜杵命、その子のE伊香色男命、以下はF物部十市根−G金弓−H胆咋−I五十琴と 続いて、J伊弗の頃から大きく現れる。その後は、K目−L荒山−M尾輿−N守屋と続くが、敏達・用明朝の守屋大連で物部嫡宗が断絶した。氏上の地位は、 壬申の乱の大功でP榎井雄君(天武五年〔六七六〕卒)のときに復活して、それがQ石上麻呂へと受け継がれたことになる。
 
 こうした系譜探索を通じて、「天孫本紀」の物部氏系譜は、矢田部氏のみならず、榎井氏・石上氏など多くの物部関係者の手による改変や影響をうけてきたと考えられる。平安前期に『新撰姓氏録』が編纂されたとき迄にも、物部氏系譜は、既にかなり大きな改変(大新河命や大売布命を伊香色雄命の子とするなどの例)がなされていたともみられる。それでも、総合的に見て、『姓氏録』は出自や世代配置等で比較的信頼性が高いということが認められる。
 守屋尚氏の著作・研究に触発されて「天孫本紀」物部氏系譜を改めて検討してみて、これまで気づかなかった重要なことをいくつか認識した。実のところ、系図や古代史には奥が深くて、二段底、三段底がある(底が見えたかと思ったら、さらに底があった)と常々感じていたが、物部系譜についてもそれがあるとは、ほとんど思ってもいなかった。これまで物部氏族についてはまとまった研究も殆ど見られず、誰からの指摘もなかったということで、問題意識も起きなかった事情にある。なお、鳥越憲三郎氏にはかなり詳細な物部研究の諸著作(『大いなる邪馬台国』など)があって有益な示唆も多いが、氏族系譜の理解にやや混淆があって疑問な記事もあり、基本的な前提には、崇神王朝前代の大和に葛城王朝とそれに先立つ邪馬台国があり、邪馬台国は物部氏によるものだという思込み・予断があって、この辺には注意を要する。

 本稿は様々な問題と試論の提起を行ったが、これを契機に物部氏についての専門的検討がさらになされることが望まれる次第でもある。以上のよう に考えて、古代史と古代氏族の系譜はつくづく奥が深いものと感じる。おそらく、気づかない点がまだまだ多いのだろうが、この辺でとりあえず筆をおいてお く。ただ、この後も、気づいたところが出てくれば、適宜、補正を加えることに心がけたい。
 
   (08.7.28 掲上。その後も適宜、追補あり)

  ※まだ、補論の展開が続きます。

  ※2016年に古代氏族シリーズのGとして、『物部氏 剣神奉斎の軍事氏族』が刊行されたが、本稿とは別視点もあり、併せてご参照下さい。


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