南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
−『浪合記』の再検討−


       南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              −『浪合記』の再検討−
                                           宝賀 寿男
 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 @ 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 A 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 B 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 C 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
 

二 天野信景偽撰説の誤り
 
1 天野信景という人物

 『浪合記』の現存する伝本には、天野信景による写本を元とするものが多いということで、まず、問題の渦中にある天野信景なる国学者を見ていこう。各種の歴史辞典などに紹介されるものを整理すると、その大要はつぎのようなものである。

 天野信景あまの・さだかげ。1661〜1733
江戸中期の国学者であり、通称は権三郎、源蔵のち治部、宮内といい、字は子顕、剃髪して信阿弥、白華翁といった。代々尾張徳川家に仕えた禄高四五〇石取りの尾張藩士(「祖父以来」とされることが多いが、系譜によると「曾祖父以来」)であって、第二代藩主徳川光友から第六代継友までの藩主に仕え、寄合に列し、のちに鉄砲頭となる。神道を伊勢の度会延佳などに学んだが特定の師は持たなかったようで、朱子学を基本にして歴史・文学・神道や有職故実など幅広く学殖をつけて国典に詳しく、漢学・仏典・地理・風俗などにも造詣が深かった。
元禄十一年(1698)、藩が『尾張風土記』の撰述事業を起こすと、信景は藩命によって吉見幸和、真野時綱らとともにその任に当たった。これは、翌年の藩主綱誠(第三代藩主)の死により中止されたが、のちに松平君山らに引き継がれ、宝暦二年(1752)に『張州府志』として結実した。同書は郡ごとに記述され、内容の正確さには定評があるとされる。
その人となりは温厚和平にして、博学多識といわれる。閑職を利して著述に専念したことで、著作には、最もしられる大著で歴史・神祇・故実等広範な分野の考証随筆『塩尻』(現存本は百巻だが、その数倍あったといわれる)があり、実証的精神に基づき、地道に考究につとめた一大成果であって、学問的価値が大きいといわれる。このほか、神祇関係では『尾張国神名帳集説』『神代巻聞書』『神祇本源抜粋』『倭姫記考異』などきわめて多く、『新撰姓氏録校考』『南朝紹運図』『職原抄聞書』などの書もある。『国書総目録』に収載されている書目は145種に及んでいる。
 
 こうした研究者としての経歴や学識をみれば、偽作説は本来、雲散霧消するのではなかろうか。偽作説を唱える人の見識が疑われる。信景には『浪合記』くらいの作品は能力的に偽作は十分可能かもしれないが、彼が偽作をするとした場合には、現伝の『浪合記』はもっとましな内容になっていたのではないかとさえ思われる。同書は、年代や登場人物の年齢などの点で、実証的ではないことがいくつもあり、上記の信景の学問的姿勢と大きく異なっている。
 信景の系譜については、たしかに『浪合記』に見える天野民部少輔遠幹・対馬守遠貞の後裔(遠貞の十世孫)であり、その系図は江戸末期の田畑吉正手写『幕府諸家系譜』(東大史料編纂所蔵、【請求記号】4175-1382)第31冊に見える。『浪合記』には七個所の「天野」が見えるが、天野遠幹・遠貞(遠定)が特別の手柄を立てたという記事がないなど、尹良親王親子の従士のなかでは天野氏はごく並の扱いとなっている。天野の取扱いが大きいわけでもないということで、そこに天野信景の先祖顕彰などのメリットが見出しがたい。普通に同書の内容を見ていくと、尾張津島社の縁起や大橋氏の出自・家伝が記載されるなど、津島神社関係者が同社に遺された史料や所伝などから整理し著述したものと考えられる。
 
2 『浪合記』原初本の存在など

 同書は、『改定史籍集覧』などに収められているが、昭和61年(1986)に安井久善編で『浪合記・桜雲記』として古典文庫に収められる。その解説は、問題点などをよく整理して優れており、ごく一部(以下のA(5)にあげる点とBの結論の一部、C(3)など)を除き、ほぼ適切と考えられるので、『浪合記』を考えていく基礎として、少し長くなるが漸次この引用をさせていただき、これにより説明する(内容により、A・B・Cに分けた)。
A 概要と評価・執筆動機
(1) 評価 『平家物語』以降の軍記作品の特徴をいくつか具え、江戸初期以降成立した軍記へ接続する過渡期の作品として、それなりの価値をもつものと考えられる、とされる。
(2) 内容は大略、次の三部であるが、総じて宗良親王後裔に対して同情的な筆致。 
@第一部 尹良親王の東国各地の転戦と浪合での最期まで
A第二部 良王君の誕生から浪合の危難、尾張津島までの動静
B第三部 良王君とその従者たちの後日譚(諸本によって大幅な出入りがあるため、本来の構成は@及びAだけだったものか
(3) 執筆の有力な動機としては、宗良親王後裔たちが祖先の怨念を残し伝えることによって、由緒ある家系が存続していることを世に示そうとする点が考えられる。こう考えた場合、『信濃宮伝』という作品の存在は無視できない。
(4) 新田系の諸武家の多くが、良王君に随従して尾張津島に至り、やがて尾参遠等諸国の武家の祖先となったという話柄には、牽強付会の部分があり、この点から偽書説が広く流布するが、『平家物語』同様、「然るべき史実をふまえながら、必要な虚構を併せ持つものとみることも許されよう」とする。
(5) 諸伝本の本奥に見える「長享二年(1488)九月十八日」という日付は、この作品の第一、二部の記事に見える最下限の日付「永享八年(1436)十月」から数えて52年後になるが、応仁・文明の乱がほぼ終結して十余年を経て、大橋氏にゆかりの何人かが作品を執筆したか。良王君の逝去が明応元年(1492)三月で七十八歳と記されるから、この両部は良王君の意図による執筆とも考えられる。
 
B 成立事情の考察
(1)『浪合記』の成立事情を知る有力な手がかりとして、宮内庁書陵部蔵本がある。基本的な相違は流布本に比し、冒頭に『大橋歴代記』からの抜粋として、桃井義繁・宗綱父子の伝記を記しており、後半は大筋において一致している。この書陵部本系の祖本は流布本に素材を提供した原初本ということになろう。
(2) 書陵部蔵の蕗原拾葉所収本の奥に、この書は高須侯松平義行(崇巌院)の蔵本を宝永六年(1709)に天野信景が謄写し、これより世に伝わるが、信景は本書に見える天野民部少輔遠幹の裔という、との趣旨が記されるが、「天文二年」(1533)に書写の本奥で終わる流布本もあるので、すべてが信景の書写した本からの伝写とは断じえない。
(3) 江戸後期にも信景私撰説があったが、『浪合記』考証を試みた『浪合草露』の著者は、同時代の新井白石がその著『三家考』に『浪合記』を引用している事実を指摘し、その環境を考えて、信景私撰説を否定している。最近も、村田正志博士が『南北朝史論』で信景私撰ではないかと説くが、『浪合記』が尹良親王の事績のみを記したものではないこと、伝本の全てが信景の手から出たものではないことを挙げて反論する。
(4) 江戸中期頃写しの蓬左文庫蔵『信濃宮三代記』の著者は、天野信景以外の人物を『浪合記』の著者と考えていた。
(5) 書陵部蔵本の奥書に、貞享二年(1685)九月の日付で、最近世に出た『浪合記』について、幕臣酒井家の当主が、この書に見える酒井忠則は先祖の家系に見えないこと、酒井六郎貞信及びその子の七郎貞忠は他家の人だとして、偽書と断じ、子孫が間違えないように書き留めるとしている。貞享二年は信景二十五歳のときだから、信景偽撰としたら筆写流布の年月を考えると、信景がきわめて若年の筆とならざるをえない。流布本書写の二十数年前の貞享二年の写本をどう解釈するのかという問題があり、高須侯義行本とはまったく別系統の伝写本が貞享以前から存在したであろうことを是認せざるをえない。また、関係者が系図に見えないのは、室町幕府を憚って系図から削除する例が井伊家にもあって、それで偽書ということはできない。
以上のことから、信景偽撰説は否定されなければならず、同時に偽書説も甚だ根拠に乏しいものというべきである。
(6) なお、第一、二部の成立は長享二年以降天文二年頃までの間(1448〜1533)で、第三部の加筆は元和以降貞享に至る約七十年間のことと推定される。原著作者は不明であり、流布本系の作者はさらに時代が降る尾州人か。
 
C 研究史など
(1) 大饗正虎が楠木正成の勅免申請をし、これが認められて以来、時とともに逐次旧南朝系武族の裔孫に対する世評は好転していき、それとともに『浪合記』のような作品に対する関心を徐々に高めていったとみられる。
(2) 『浪合記』が注目された要因は、徳川将軍家の祖先が新田の支族世良田氏とされ、しかも三河徳川が世良田万徳丸政親の裔孫と考えられた点にある。三河徳川の前身たる松平氏が良王君随従の世良田政親を祖とするのは、『浪合記』が言わず語らず説くところであり、だからこそ幕臣の多くが自己の出自をこれに結びつけた第三部の話柄群を加筆するに至った。新井白石著『三家考』は、万徳丸が将軍家の遠祖たることを証明しようとした努力の現れであり、『浪合記』はそのための必須不可欠の資料であった。
(3) これに反し、信景の『浪合記』に対する基本姿勢は別であり、(1)の全般的風潮をふまえながらも、宗良親王後裔たる津島の大橋氏・氷室氏に対する尾州人の感情、自己の祖先と思われる遠江秋葉の天野氏の顕彰という意図が明らかに汲み取れる。
(4) 江戸後期になると、南朝思慕の時代風潮に関わって国学者を中心に『浪合記』についての多大な関心が持たれたが、明治以降の研究には見るべきものがない。その理由は、史学・文学両面において価値なし(後世の偽作、文学性皆無)とされていたからであるが、そのいずれも当を得た評価ではない。 
 
 以上に私が整理した要点は、編者の安井久善氏の見解とみられるが、以下に検討を加えることで、この見解の妥当性を論じていきたい。
 
 
三 浪合合戦の史実性
 
1 『穂積姓井出氏系図前書』の記述

 東大史料編纂所には、『穂積姓井出氏系図前書』(箱田喜作氏寄贈史料1-14)及び『穂積姓井出氏系図』(同1-15)という系図史料がある。常陸国西河内郡と伊豆国君澤郡のうちに禄高七百石の領地をもつ旗本井出氏の系図である。両史料とも巻物の系図で、巻物中心軸の上・下端が朽ち欠けており、系図に一部切れ目も出るなど、傷みがかなりある。前者は一筆で先行の系図を筆写したとみられるが、読解が不明なまま写された個所があって、前者をさらに筆写した後者と照らし合わせることで、文字が分かるところもある。
 前者の最後の世代は家綱将軍に仕えた井出市五郎正兼(右肩に「正方」と書込あり)とその弟・姉妹であって、正兼の記事には、家綱公に御見得をし、延宝六年(1678)水野長門守組ヲ始テ御書院番相勤などがある。系図はそこで終わって、後者の系図は前者を写したうえで、正方に「市五郎藤左衛門」と記し、その子の「某 数馬」を系図最後の世代とし、以降は明治初期の人まで数葉の折込み紙で続けているものである。後者は転写の過程で、前者の記事をいささか略述している部分や誤解して転記している個所もあることに注意される。両系図の大きい差異は始まりの古代部分(平安末期の重家・重基兄弟より前の諸世代)にあり、新系図作成の際に他所からもってきた系図部分を書き込んで入れ替えており、明らかに前者のほうに価値があるが、ここでは本件問題に関係がないので、これ以上は触れない。

 両系図を比較することにより、前者はおそらく井出家所伝の系図を正兼の先代・正徳が筆写し(他人に筆写させたことも含む。以下も同様)、後者は市五郎正兼が藤左衛門正方という名になり数馬という子をもって後に筆写したことが推される。この井出正兼は天野信景とほぼ同時代の人であるが、その先代・正徳が筆写したとみられる前者には、浪合合戦の記事がその経緯も併せて書かれていることに留意される。つまり、江戸時代前期の旗本井出家には先祖が関与した事件として、浪合合戦の記憶・所伝が明確に残っていたのである。
 井出氏系図に拠ると、井出正徳の九代先祖に井出小次郎重実という者がおり、新田武蔵守義宗の笛吹合戦後に駿河国上井出に行って居住し在名を以て井出と号したと記される。これに続けて、応永四年(1397)に吉野宮尹良を桃井和泉守貞職と共に供奉し、尹良を丸山に移したときにこれを守って軍功があったとされる。浪合合戦に参加したのは、重実の弟の位置に記載される(その一方、「重実次男」と右肩に記入あり)井出小源二郎重であり、その記事には次のように記される。

「尹良皇子丸山ヨリ甲斐国ニ移給時井出小源次郎重鈴木越後守重季両人奉供奉上野国金山城ニ入…(中略)…信州ニ有…(中略)…其後永享七年十一月二日参州赴リ所ニ野伏駒場小次郎飯田太郎道ニ起テ戦宮ノ原ニテ世良田三郎政義桃井貞綱羽河景康大井田井出等各廿三騎野伏之為自害…(中略)…宮ノ原江月院ト云寺ニホウムルヨシ、此戦ヲ遁テ参州ヘ落タル人世良田万徳丸桃井甲斐一郎満昌鈴木越後守重季酒井七郎朝治熊谷弥次郎大庭治部大夫景綱本多武蔵小八郎忠弘参州村々里々ニ蟄居」
 
 この記事は、良王の浪合合戦の日時を『浪合記』が永享五年十二月一日とするのに対し、別の永享七年十一月二日と記すなど、参加者の名前なども含めて同書とかなりの差異を見せる。敵方の駒場小次郎・飯田太郎や宮随従の世良田三郎政義・桃井貞綱・羽河景康(字形からみて、「康・庸」はもとの字は同じか)・世良田万徳丸・桃井満昌という主要な者や本多武蔵小八郎忠弘については同じであるが、他の者については名前の表記も含め微妙な差異を見せている。ここには、『浪合記』と異なる所伝の存在が明確に知られる。
 なお、「井出氏系図」に見える鈴木・井出一族の名前では、『浪合記』が尹良親王に関係するものとしてあげる駿河の富士十二郷の鈴木越後守正茂、同左京亮正武、井手弾正正弼正房とは異なっている。この差異がどこに出たのかは不明だが、総じていうと、上記「井出氏系図」に記載される名前が鈴木一族の一般に流布する系図に見える名前と異なっており、この辺も事情が分からない。とはいえ、鈴木一族が義貞の弟・脇屋義助に属して駿河国富士郷を所領とし、一部が在地名により井出を名乗ったことは一致しているので、後世の造作とは思われない要素がある。
 
2 浪合合戦は実際にあったか

 (1) 浪合合戦の史実
 浪合合戦は、『鎌倉大草紙』(別名『太平後記』といい、1379〜1479年の約百年間の記録で、史実と異なる部分も若干見られるという)という比較的信頼性の高い歴史書に記載があり、その存在自体は認めてよさそうである。ところが、同書では、『浪合記』の記す@応永三十一年(1424)八月十五日、A永享五年(1434)十二月一日の二回と大きく異なり、永徳年間(1381〜84)の後と記されて、大きな違いを見せる。
 『鎌倉大草紙』の記事では、次のように記されている。
 「去程に新田殿は去永徳の比まで、信濃国大川原と云所に深くかくれて有けるを、国中皆背申、宮を始め新田一門、浪合と申所にて皆討死して、父子二人うちもらされて奥州へにけ下り、岩城の近所酒邊と云所に隠給ひし……」

 また、『南山巡狩録』の元中二年(1385)三月条では、藤沢山縁起を引用して、『鎌倉大草紙』とほぼ同様な記事があり、そこには次のように記されている。
 「藤沢山録記に新田義宗朝臣の御子相模守行啓は信濃国大河原にかくれ、上野武蔵の官軍を催促せられしかば、世良田有親公をはじめ、新田の一門信濃に立ちこへ、義兵を挙げんとはかりごとをめぐらされたり。此使い二人梶原美作守が為に召捕られ、一門も多く信濃国浪合にて討死し給ひけり。されども、相模守行啓父子は奥州汐かまのかたにのがれ給ひて忍ばれしといひ、此の時有親公もまた父子ともに奥州にいたり給ふとも見ゆ」(原文に適宜濁点をつけて記述
 
  要は信頼できる史料に見える浪合合戦はたった一度だけ、永徳年間(1381〜84)の後のおそらく元中二年(1385)三月に起きたということである。浪合が南信濃から三河に抜ける要路にあったとはいえ、同じ場所で南朝皇族親子とその随従者が二回、それぞれ同じ野伏集団に襲われてほぼ壊滅的な打撃を受けたというのは、まずありえない。次項にも記すが、当時の信濃守護小笠原氏がこの襲撃に関与していなかったとはとても考え難いのである。襲撃者が駒場小次郎・飯田太郎という地元の野伏(『浪合記』)というのは、事実の一端にすぎないのではなかろうか。
  ちなみに、飯田氏は伊那源氏の一党で、応永頃の飯田太郎の後裔と称する者が幕臣にあって、『寛政譜』に三家あげられる。応永七年(1400)の大塔合戦の際には、飯田入道が坂西・常葉などの小笠原一族とならんで、守護小笠原長秀方の武士に見えるから、それなりの南信濃の有力豪族であった。
 
 (2) 浪合で討死したのは誰か
 このとき浪合で討死した者のなかに「宮」がいたということで、この宮(「浪合戦死宮」)が誰だったかということが大きな問題になってくる。これについては、水戸藩の大日本史編纂に関わった佐々宗淳が『十竹筆記』で取り上げて、徳川家の秘説なりとして、「吉野帝ノ御孫上野御子ト申宮」が信濃大河原に隠れていたのを、小笠原らの国人が案内する京からの討手により攻め落とされ、「宮ハ信濃国波合ト云所ニテ生害、新田モ打死ニキワマリシヲ、一門ノ徳河殿身ガワリニ打死ナリ」と記している。
 この記述が何に拠ったのか不明であるが、従来学界では、この記事に基づき、『新葉和歌集』に「上野太守」であったと見える三人の南朝皇族(守永親王、懐邦親王、悦成親王)のなかからその活動状況により守永親王に比定する菅政友の説(『南山皇胤譜』)が多く支持されてきたようである。しかし、佐々宗淳の根拠が曖昧不明であるうえ、それが正しいとしても、「上野御子=上野太守」とは限らない。守永親王がどのような事情で信濃に来たのかという説明もない。
  広く上野国に関係ある皇族ということであれば、『太平記』巻31では正平七年(1352)の笛吹峠合戦に新田義宗と共に戦った宗良親王を「先朝第二宮上野親王」と記す事情にあり、その御子という見方もあろう。また、尹良親王の妻が上野国の世良田氏ということでも含まれるのかもしれない。長く信濃大河原に居た宗良親王の御子なら説明がつきやすい。
 ところで、浪合で討死した高貴な者としては、宗良親王(『大日本史』の推測や吉田東伍博士、大西源一らの説)や足利之義なる人物まで取り沙汰されている。宗良親王の薨去した時期・場所が不明なために混乱が生じているが、『南方紀伝』の伝える至徳二年・元中二年(1385)八月十日説、『南朝紹運録』でも同年に遠江の井伊城で没したと記されるのが一応のメドとなろう。おそらく伊那郡大河原の地で、1380年代半ば頃(『浪合村志』では1382〜88とみる)に薨去されたのではなかろうか。
 
  一方、足利之義なる者は、知久家の所伝にのみ見えるものである。それによると、知久祐超(四郎左衛門尉敦貞)を外祖父とする将軍之良(之義将軍)は、小笠原家が兵を出したため応永三年(1396)三月廿四日に浪合にて生害したというものである。この「将軍之良」については、『続本朝通鑑』の「信濃郷談」には「之良けだし宗良の子か」とあるに対し、「知久氏之伝記」には「之義将軍之父君錦小路直義将軍」とあり、後者の記事が取られている傾向にある。
 後者の「知久氏之伝記」は、元禄十一年(1698)三月になって阿島の虎岩甚五右衛門貞頼が記したものにすぎず、虎岩氏が知久祐超の後裔で室町中期に分かれた一族とはいえ、史料に信頼をおくのは疑問な姿勢である。足利直義の子に之義なる者があったという記事はほかに一切見えず、知久祐超と足利直義との接触にも疑問が大きい。『信濃勤王史攷』では、正平四年(1349)の京都騒擾のときに直義方についた武士のなかに知久四郎左衛門尉がいたと『異本太平記』にあるとして、知久祐超の娘が直義の妻妾に入ったことを認めるが、これだけの接触では両者の関係は認めがたい。そもそも、足利直義は1306生〜1352死だから、正平四年のときに四十四歳であり、仮にその直後の翌年に之義なる者が生まれたとしたら、応永三年には四十七歳にもなる。これだけ長く生きて、他の記録に一切現れない人物の存在を認めるのは、きわめて疑問である。『寛永諸家系図伝』(1643年成立)には、知久氏の「家伝にいはく、室町将軍家の君達之義」という表現があるが、これは「将軍」に引きずられてのものではないかと推されるのである。          

  知久氏の系図には、知久祐超の娘が尹良親王の乳母となると記されており、これが祐超の外祖父として転訛したとみられる。また、知久一族の小林氏の系図(『百家系図稿』巻三所収)には、小林山城守頼連の記事に「尹良王ニ仕フ」、その従兄弟で四郎左衛門尉敦貞(祐超)のに「宗良親王妃」と記されるから、知久一族と尹良親王との結びつきが知られる。そうすると、上記「信濃郷談」のほうが妥当だと考えられる。
 ここに至って、「之義(之良)=尹良」とみられるのである。「尹良」の訓みは定説がなく、普通には「タダヨシ」と訓まれそうでもあるが、「タダナガ」とか「マサナガ」、あるいは「コレナガ」と訓むものもあり(安井久善氏)、「ユキヨシ」ないし「コレヨシ」と訓むのが妥当ではなかろうか(おそらく、本来の訓みはコレヨシで、それが同音の之良とも書かれるうちにユキヨシに転訛したものか)。最初にあげたように、南信濃・三河の国境地帯の各地には「ユキヨシ様」伝説が多く残っているとのことであり、この事情も無視できない。ちなみに尹良親王の子とされる「良王」についても、「よしゆき」「よしよき」「よしたか」「よしぎみ」「よしのおう」などの多様な訓みがいわれるが、これに君ないし丸が付けられて表現されることから、素直に「よしおう」とか「りょうおう」とかいう訓みでよいのではなかろうか。
 浪合には尹良親王を祭神とする浪合神社がある。その創立年代は不明であって、棟札を見ると延宝〜正徳(1673〜1716)頃までは「行義権現」といい、明和二年(1765)以降は「尹良大権現」といったとされる。『長野県の地名』は、この棟札の変遷をあげ、「之義」を「行義」、次いで「尹良」と書き、ついに「尹良親王」が捏造されていく過程が、祭神の変遷からもうかがわれる、と記すが、これは疑問が大きい。同社の棟札の最古が延宝三年(1675)にすぎず、「之義」や「行義」が室町期に遡る古い表現であるとの証拠がないからである。「之」はコレとも訓むし、「行」は「伊(コレ)」の転訛ないし崩し字の誤読ではないかとも考えられる。

  問題は、「尹良親王」という名が信頼性のある史料に見えないことである。しかし、南北朝争乱期や室町前期には史料自体が乏しいし、とくに後南朝関係者には史料に活動が見えるものの実名の伝わらない皇族が数人いた事情もあるから、それだけで存在の否定はできない。関係する所伝から考えると、子の良王がせいぜいでも成人前の少年であるとみられるから、おそらく三十歳代(あるいは二十歳代)で逝去された宮であり、かつ各地を流浪した生涯であって、まともに活動したのが信濃くらいであったろうから、信頼性の高い史料に記録されなかったこともありえよう。むしろ、浪合合戦関係者の系図史料にかなり多数、尹良親王の記事があるから(詳しくは後述)、それらに拠り、存在を認めたほうがよいと考えられる。その生母も、遠州井伊谷の井伊道政の娘とされて、ほとんど異説がない(知久氏の場合は乳母の転訛と考えられることは既述)。実際に、僅かな活動くらいで殺害され、文書の上でもまた抹殺されれば、二度も抹殺された悲劇の主人公ともなろう。
 
 (3) 浪合合戦の時期は何時だったのか
 尹良親王遭難の時期が不明確であったことが『浪合記』をめぐる問題の複雑化につながったと考えられる。浪合合戦の時期について記す系図史料は数多くあっても、その時期が一定ではなかった。
 浪合合戦の日時を『浪合記』が応永三一年(1424)八月十五日(尹良親王)、永享五年(1433)十二月一日(良王)だとするのに対し、先に「井出氏系図」所伝の永享七年(1435)十一月二日をあげたが、別の説もある。
  例えば、鈴木真年翁は『新田族譜』で諸伝をあげている。このなかの「徳川家譜」では世良田政義について「応永三年(1396)四月二日」、その弟の義秋について「応永三年(1396)三月二四日」、政義の孫におく有親について「応永三一年(1424)八月十五日」と記す一方、「世良田系図」では世良田親季について「至徳二年(1385)」、さらに「世良田」では世良田政義について「至徳二年(1385)二月二四日」、親季についてたんに「至徳二年(1385)」と記し、その一族の吉田左衛門尉頼業にも「至徳二年浪合合戦後来三河国」と記ている。『華族諸家伝』では徳川家達条で、「至徳二年(1385)三月」のニュアンスを出している。おそらく、「徳川家譜」のほうは『浪合記』の記事に引っ張られたのではあるまいか。これがなければ、浪合合戦は至徳二年(1385)の二月ないし三月という時期に収束する。
 上記(1)に見るように、浪合合戦は元中二年・至徳二年(1385)三月に一回だけ起きたものとするのが史実の流れに適っている。それまで、高坂(香坂)氏の領地大河原に居た宗良親王など皇族と新田一族などの随従者は、足利氏とその与党小笠原氏に追われて信濃南部の大河原を出たが、その頃までに、宗良親王は死去したか宮将軍を息子の尹良親王に譲って政治活動から引退しており、新田一族などは尹良親王に随従して三河に転戦しようとした。このとき、浪合で起きたのが浪合合戦ということである。宮将軍尹良と世良田政義・義秋兄弟は討死し、世良田有親や新田相模守・刑部少輔は奥州に逃れた。この事件を契機に信濃の南朝勢力は大きく衰え、南朝方であった知久一族も小笠原氏に服属し、応永七年(1400)に起きて守護小笠原長秀が大打撃を蒙った大塔合戦では、小笠原方で戦っている。
  宗良親王らの年齢から考察しても、元中二年・至徳二年(1385)が妥当なことが分かる。すなわち、宗良親王は1311生〜1385頃死とみられるが、尹良親王は1354生、良王は1374生という所伝があり、その場合、1385年には尹良は三十二歳、良王は十歳ということになる。これが応永三年(1396)だと尹良は四十三歳、応永三一年(1424)だと良王は五十一歳ということになるうえ、世良田政義がきわめて高齢になる不都合が出てくる。
 
 (4) 良王君の尾張入り
  『新田族譜』には「大岡」系図に興味深い記事がある。それは、新田一族の大井田弾正少弼経氏の孫に安房守経宗・次郎重宗兄弟をあげ、前者は元中二年に世良田政義等と共に尹良親王に奉仕し同年四月に信州島崎城に赴いたとし、後者は応永三一年二月に良王君に従って尾張に到ったとされる。『浪合記』には、応永三一年に世良田大炊助政義らとともに大江田安房守、大岡次郎重宗及び大庭雅楽助景平らが尹良親王に随従して上野国を出、同年四月七日に信濃国諏訪の千野六郎頼憲の嶋崎の城に入ったと記されるから、同書に混乱が甚だしいことが分かる。これに続けて、浪合合戦で大井田が討たれたと記されるから、安房守経宗はここで最期を迎えたことになる。その弟の次郎重宗は、三河の大岡氏の祖となるのは『浪合記』の記事通りであるが、その当時はまだ大井田姓であり、この系統が大岡を名乗るのはその息子重辰が大岡右馬三郎助茂の婿となってからの話である。
  大庭氏の系図にも興味深い記事がある。『百家系図稿』巻十一所収の大庭系図に拠ると、大庭三郎景親の七世孫に治部大輔景頼・景郷兄弟がおり、景頼の子が雅楽助景平であって、この親子は尹良親王に仕えた。景頼は信州浪合で勇戦し、雅楽助景平は応永末年に三州額田郡深溝に入ってその子孫から稲吉氏が出た、とされている。『浪合記』では応永三一年の合戦に大庭治部太輔景郷が見えるが、「井出氏系図」では大庭治部大夫景綱と微妙に異なっている
 
  ここで見るように、尹良親王の討死とその子良王君の三河尾張入りは一連の出来事ではなかったことが推されるが、その意味で、『浪合記』には良王君をひとまず嶋崎から下野国の落合城に帰したという記事があって妥当なものと思われる。良王君には桃井貞綱、世良田政親などが御供したとあり、このメンバーが応永時に三河尾張に入る行動をしたものである。同書に、良王君随行者にあげる長谷川大炊助重行が尾張国春日部郡如意郷に遷住したのが応永末期だとその系図に記されるから、それまでは上野国あたりに居たのであろう。
 良王君の活動期間については、『浪合記』に「良王君 明応元年三月五日、逝去。御年七十八。」とあるのは疑問が大きい。この記事のとおりだと、1415生〜92死ということになり、宗良親王の孫の活動世代としても、尹良親王の子の生年としても、きわめて不自然だからである。良王には、永享十年九月に六五歳で死去したという所伝があって、これだと1374生〜1438死で自然であろうと考えられる。なお、大橋氏の系図には、「明応元年三月五日」に死去したのは、兵部丞世長(良新ともいう)であって、良王の孫となるが、このほうが妥当である。
 このように、『浪合記』にとって最も肝要な良王の死去時期が史実と違っており、浪合合戦についての時期も違っているということは、同書の成立がこれら時期からかなり隔たって記憶が失われていたと考えざるをえない。そのため、『浪合記』は史料としての性格をかなり弱め、軍記という読み物となってしまったことになる。
 
 
四 『浪合記』関係者の後裔たち
 
1 良王の後裔と津島天王神主家

 良王は尾張津島に落ち着いて当地の津島天王(津島神社)の神主となり、尹重と名を改めたという。尹重は大橋修理大夫貞元(良王の従兄弟)の娘を娶って中務大輔少輔弘重(初名神王)と和泉守信重の二人の男子、堀田尾張守正重の娘を娶って斯波左兵衛督義郷妻となる女子を生んだとされる。弘重の子の世長も神主となったが、男子なく、大橋貞元の孫・小田井大学助貞常(母は和泉守信重の娘)を後嗣として神主職を譲り、貞常は苗字を氷室と改めて、神主職を世襲したとされる。
 また、和泉守信重の系統は、定広−定安−重長……と続いて代々津島に住んだ。定広の子・広正は長田平太夫政広の養子となり、その孫が家康に仕えた永井伝八郎(右近大夫)直勝であるが、摂津高槻藩など三藩主家の祖である。
 大橋氏の系図は『浪合記』に見えて、平清盛の家人・肥後守平貞能の子孫と記すが、これは疑問が大きい。貞能は平家滅亡後は宇都宮朝綱に預けられて、その子孫は宇都宮家人の山田党となったからである。大橋氏の家祖・貞経(定経)は貞能の子ではなく、おそらく尾張の古族尾張宿祢姓から出たものとみられる。大橋氏では、大橋修理大夫定元吉野から供奉して来て尹良親王に仕えた武士として『浪合記』に見えるが、年代的に疑問が残る。というのは、尹良親王の妹・桜子姫が大橋三河守定省に嫁いで、信吉・定元(貞元)を生んだと伝えるからである。
 尾張には、やはり平貞能の子孫と称する千窯氏がおり、愛知郡千窯邑に起こって、鎌倉期に薩摩や丹波に分かれたが、丹波の支族は承久の変の際の軍功で多紀郡酒井荘を賜って酒井党として当地で繁衍した。その後裔が『浪合記』に見える酒井七郎貞忠であって、たしかに貞享二年時に『浪合記』を見た幕臣酒井家の当主が、酒井六郎貞信及びその子の七郎貞忠は他家の人だとしたのも、そのとおりであった。
 
 津島天王の神主家はもともと紀朝臣姓の堀田氏が世襲しており、応永九年に死去した堀田修理大夫之盛が神主であった。神主職は之盛の子・之時、その子・之親と受け継がれて、その後、永享年間に良王(尹重)に譲られたものであろう。堀田一族からも尹良親王・尹重親子に仕えた者があり、『浪合記』には吉野から供奉して来た公家庶流として堀田尾張守正重をあげ、堀田一族として矢田彦七之泰もあげる。堀田正重は修理大夫之盛の子であり、矢田之泰は之盛の甥であった。下総佐倉藩など幕藩大名三家を出した堀田氏は堀田正重の子孫であった(実系は矢田之泰の後裔とも伝える)。
 
2 世良田政義一族と松平氏

 新田相模守・同刑部大輔は親子とも従兄弟とも伝え、その実名も系譜も伝えるところがまちまち(義睦、義則など)であって、確たるものをえないが、新田義宗の子とも脇屋義治の子とも伝える。世良田政義は新田相模守の身代わりとして信州浪合で討死にしたのちは、新田両人は奥州に落ちていき、応永十年には相模底倉で新田相模守が討たれて、新田本宗家は滅んだ。
 一方、世良田一族では、政義が浪合で死んだのちも変わらずに良王に仕えたのは、良王が政義の娘を母としたという親族関係にあった故であろうか。世良田一族の系譜も種々あって、系譜関係を確定することは難しいが、政義・義秋が兄弟でともに浪合で討死し、修理亮親季・有親(『浪合記』には見えない)は兄弟で政義の子、万徳丸政親は政義の子か孫とみられる。
 『浪合記』では、万徳丸政親が良王を供奉して永享五年に三河に入ったことを記すが、政親は後に政阿弥陀仏といって上野国に戻って万徳寺で修行し、文正元年(1466)十月に寂滅したと記される。政親に関しての記事では、遠江国秋葉の城に居住する天野民部少輔遠幹が、永享七年(1435)十二月、秋葉山の狩で兎を得て、富樫の林介に託し三州の政親に送ったと見える。一方、嘉吉三年(1443)当時、三河の富豪として松平太郎左衛門尉泰親がおり、同国に配流されていた洞院大納言実熙が帰洛の時、供奉したが、泰親の娘は実熙の妾であったと記される。
 松平泰親は家康の遠祖であるが、この泰親と世良田政親との関係はなんら記されず、両者の関係は不明である。むしろ、両者が同時代人として記されるから、ほかに世良田一族で三河来住者がいなければ、松平氏が世良田氏の後裔だということは否定される。つまり、これが『浪合記』の言うところであったなら、少なくとも万徳丸政親が将軍家の遠祖でないことを証明している。もっとも、鈴木真年翁は『華族諸家伝』で松平泰親が世良田親季の子・松寿丸の後身で松平信重の婿であり、親季が遊行僧として三河に来たと記しているから、この辺が否定されない限り、世良田氏が松平氏と無関係とはいえないが。

  こうしてみると、『浪合記』が徳川氏顕彰の書でないことは確かである。

  なお、尹良親王・良王に仕えて信濃で活動した新田一族では、新田本宗・世良田一族のほか、すでに述べた大井田兄弟や、羽河安芸守景庸、同安房守景国、新田小三郎義一がいたと『浪合記』に記される。羽河(羽川)氏は越後の里見・大井田一族とみられるが、後裔が残らなかったか具体的な系譜は伝えられず不明である。新田小三郎義一は、大井田一族大島氏(家伝には新田義宗の子)の出で上野国甘楽郡丹生に居した後閑氏の祖・新田四郎義一と同人とみられるが、先に本国上野に帰ったものか浪合合戦には参陣しなかった模様である。他の史料では、別の場所で貞治三年(1364)に討死とされるから、『浪合記』の記事には疑問があるとみられる。
  いずれにせよ、これら新田一族と松平氏とを結びつけるものは、少なくとも『浪合記』には見えない。
 
3 その他の武家の後裔たち

 ここまで何人かの尹良親王・良王の随従者について記してきたが、それ以外の武家についても記しておく。
 『浪合記』では、良王が尾張に隠棲後に、宮方の武士は諸国に蟄居したが全ては書けないとして、それら武家の大略を記す(「 」は原文の記事で、※は当方の説明である)。
 (1)桃井大膳亮満昌:「三州吉良の大河内に居住。大河内坂本の祖」
※ 両王に仕えた桃井一族が大河内氏の祖ということはほかに管見に入っていないが、大河内氏の通行する系図には、「宗綱−貞綱−光将(満昌と同じか)」の三代が見えるから、正説なのかもしれないと当初は考えた。しかし、その後、大河内氏の系図を検討するうち、これは疑問と分かった。
  この問題については、当HPの「三河の大河内氏とその同族」を参照されたい。
 大河内氏は三河吉良氏の家令を務めたから、祖の宗綱が吉良有信の実子という所伝も正しいのかもしれない。
 (2)大庭雅楽助景平:「三州深溝に居住。稲吉の祖」
※ こうした系図があることは上述。
 (3)熊谷小三郎直郷:「三州高力に居住。三州熊谷、高力の祖」
※ 高力氏の系図からは確認できない。
(4)児玉庄左衛門定政:「三州奥平に居住。奥平の祖」。また、児玉貞広が良王に従い、浪合で討死とも見える。
※ 奥平氏の系図では、児玉庄左衛門定政が尹良親王に仕え、その子・貞広は尹重王に従い討死し、その兄弟・定家の子孫が作手の奥平氏となることを記す。
 (5)酒井与四郎忠則:「三州鳴瀬に居住の後、大浜下宮に蟄居。成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に居住。この三人は兄弟で、新田一族、大館太郎兵衛親氏の子」。
※ 鈴木真年翁の記事には、酒井・成瀬一族の起源としてこうした説があることをあげるが、大江広元後裔の海東一族坂井忠時の子という所伝もあるので、真偽不明。なお、酒井与四郎忠則の後は、娘が世良田政親に嫁して生んだ広親が継いで雅楽助家酒井氏となり、太郎左衛門忠親の後が左衛門尉家酒井氏となると伝える。成瀬氏には松平同族の賀茂朝臣姓という異伝もあって、判断しがたい。これら酒井二流と成瀬氏は幕藩大名を出した。
 (6)大岡忠次郎重宗:「三州大草に居住。大江田の末裔」
※ こうした系図があることは上述。大江田は新田一族の大井田と同じ。
 (7)鈴木三郎兵衛政長:「三州矢矧に居住」
※ 鈴木一族は三河で繁衍した。矢並の鈴木小次郎(左京進)重勝には尹良親王に仕えたという記事が見える。また、津島七名字の祖・鈴木右京亮重政が『浪合記』に見えるが、鈴木氏の系図には、三河の足助真弓山城主の鈴木越後守正成が良王君に従って津島に到ったという記事が見える。
(8)大草三郎左衛門信長:「信濃国小笠原七郎政季の弟、八郎政信(豊後守)の子、遠江国有王の高林善八郎政頼の弟」
※ この流れの幕臣大草氏が『寛政譜』に見える。永禄六年諸役人附に見える大草与三郎秋長も同族か。なお、遠州敷智郡高林に小笠原一族高林氏があり、幕臣六家が『寛政譜』に見える。
 (9)天野民部少輔遠幹:「遠江国秋葉城に居住。対馬守遠定の父。……」
※ こうした系図があることは上述。旗本や尾張藩士天野信景らの祖先で、子孫は三河に遷住し、松平一族とも通婚した。家康に仕えた天野三郎兵衛康景は駿河興国寺で一万石を領したものの、家臣の不行跡により改易されている。
(10)布施孫三郎重政:「小笠原の郎党。良王を供奉して、信州から三州に赴き野呂に居住」
※ 管見に入っていない。三河に三善朝臣姓の布施氏がおり、幕臣を出して『寛政譜』に見えるが、その先祖には孫三郎重政が見えない。
(11)宇津十郎忠照:「三州前木に居住。桐山和田の大久保の祖。駿河国富士郡住人、宇津越中守の二男」。尹良親王が駿河の富士十二郷で鈴木・井出一族と共に宇津越中守らから饗応されたとも記す。尹良親王のときの浪合合戦に宇津越中守次が参陣と見えるが、道は「泰」の誤記である。
※ 宗良親王に仕えた駿河国有度郡人宇津越中守泰次の男で、比奈一族宇津氏の出。次の忠成は兄弟か従兄弟。
 (12)宇津宮甚四郎忠成:「三州大久保に居住」
※ 幕藩大名大久保氏の先祖であり、忠照の一族。
 (13)熊谷越中守直房:「近江国伊吹山の麓、塩津に居住。江州熊谷、雨森の祖」
※ 管見に入っていない。近江熊谷は直実の兄・直正の後という。
 (14)土肥助次郎氏平:「土肥三郎左衛門尉友平の子。尾張国愛智郡北一色に居住」
※ 管見に入っていない。
 (15)長谷川大炊助重行:「越中国名子の貴船山城主・石黒越中重之の子。尾州春日部郡如意に居住」
※ こうした系図があることは上述。石黒氏は利波臣姓で、宗良親王は越中国名子に赴いたこともある。
 (16)矢田彦七之泰:「堀田の一類。尾州春日部郡矢田に居住」    ※すでに説明済
 
 これらのほか、十田弾正忠宗忠は幕藩大名戸田氏の先祖であり、千村対馬守家通は幕臣千村氏の先祖(傍系?)で信濃の木曽一族の出であるが、実名の家通は疑問もある。津島四家の一、恒川左京大夫信規が『浪合記』に見えるが、凡河内宿祢姓広峰一族に恒川氏があり、その系図には左兵衛大夫信矩について、母は宗良親王女で永享七年十二月に来住津島と見える。分からないながら興味深いのは、「本多武蔵守忠弘」という人物で、この者が幕藩大名家本多氏と関係があるのかないのかも含めて不明である。
 以上に見るように、現段階では確認できないものがいくつかあり、更に検討を要するものの、尹良親王・良王親子に随従したという武家の子孫が津島社家の四家七党や三河・尾張及び濃尾地方などに後世まで血脈を伝え、具体的な系譜も残されている事実は無視しがたいものがある。『浪合記』の記事がまんざら誇張ではないことが分かる。
 

   (総括)

 長くなったので、そろそろまとめをしておこう。
@ 『浪合記』の記事については、天野信景偽撰説が成り立たないことは、安井久善氏の記事にのっとり既に述べたので多言を要しないが、「偽書説」についても、「偽書」の定義にもよるが、成り立たないといってよさそうである。
  もう少しいえば、『信濃勤王史攷』は、水戸彰考館図書目録に「浪合記 雨林本 僧実観撰」とあることによれば、浪合記の著者が僧実観であったことが判かると記すが、この者がいつの時代の人か分からない。また、諸伝本の本奥に見える「長享二年(1488)九月十八日」という日付のときには、どこまでが成立していたか分からない。そうした意味で、『浪合記』の史実性がかなり低いことは確かだととしても、偽作・偽撰の問題とは別問題であり、偽作と軽々しく決めつけることは避けなければならない。

A といっても、同書の内容が信頼できるかというと時間・場所など重要な点でも疑問が大きいものがかなりあって、史料性については相当の注意を要する。登場人物についても、正しい表記がなされているか、世代・時代が違う人物が紛れ込んでいないかなどのチェックをしっかり行うことが必要である。

B その一方、三河・尾張出身の幕臣の系譜について、示唆深いものもいくつかあって、史料性がかなり低いと思われても簡単に捨て去ることには問題が大きいと思われる。徳川将軍家についての記述も、冷静に評価しておくことが必要である。いずれにせよ、系譜記事については個別に十分な検討が必要なことは言うまでもないことである。

 まだまだ多くの史料を突き合わせて、『浪合記』などをさらに検討していく必要があるが、安井久善氏のいうように同書に対するこれまでの評価は当を得たものではないことを述べ、とりあえず、このくらいでここでの検討を終えておきたい。

 (今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)


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