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拙稿「隅田八幡画像鏡の銘文についての一試論」は、『季刊/古代史の海』最新刊の第30号(02/12)に掲載されたが、その「編集後記」で白崎昭一郎氏から批判を頂戴した。その内容を見て、この銘文の問題点・対立点がより明確になると思われるとともに、私としては残念ながら、拙稿を良く読んでいただいたらという気持ちがあると感じるので、拙稿記述との重複を厭わず、ここに反論ないし補足説明をしておくものである(拙稿自体に説明力が弱かった要因もあったかもしれないとも思われるが)。 なお、白崎氏の批判文は公刊された雑誌のものであるため、ここで取り上げさせていただいても、著作権等の問題は生じないものと考える。また、問題の拙稿自体は、上掲誌の全文を本HPに掲載することは様々な事情から差し控えておくが、両論を対立的に記載することで、問題点は分かると思われる。 A その批判項目毎に、白崎氏の記述趣旨に対比して私見を記述することとしたい。これにより、本件についての問題が明確にもなろう。 (1) 「男弟王」の問題 @ この3文字の読み方 白崎氏の趣旨;「男弟王」の「男」は「孚」と認められるので、「フト」または「フテ」と読まれる。 私見;「男」は「孚」とも読みうる可能性は拙稿にも書いたが、白崎氏も異論のない「弟」の文字と組み合わせて考えると、「フト」または「フテ」と読みうる可能性はない。すなわち、「弟」には「ト」または「テ」と読みうる根拠がない。その事情は、拙稿に記述したように、「「弟」の発音については、唐代の長安の発音である「漢音」では「テイ」であるが、これは奈良朝以降に伝えられたもので、それより前に既に伝わっていた「呉音」(宋・斉などの六朝時代の江南の発音)では「ダイ」である。」 (掲載誌22頁上段に記述)からである。ちなみに、「孚」の音はいずれも「フ」である。 A 「弟」の字義 白崎氏;「弟」に「おとうと」の字義があるかどうかは疑わしく、拙稿は、比定者に弟がいるかどうかを重点的に論じているので、その論拠が薄くなるわけである。 私見;「弟」の文字を名前の上に冠して「おとうと」の字義で用いられたり、呼称・通称とした例は多いが、この文字を音だけで用いて名前の最後とか中間に使用したような古代人名は、管見に入っていない。そもそも、人名に用いられた「弟」の文字の意味が「おとうと」以外であった例があったら、ご教示いただきたい。 (2) 干支を単に「未年」とのみ記した例 白崎氏;鏡については、寡聞にして記憶にない。 私見;(@)「「未年」のように十二支を紀年に用いる例は、北方民族突厥可汗の隋国皇帝宛の国書(『隋書』突厥伝)に見える」(掲載誌7頁上段に記述)。読み方の例を鏡に限定する意味が私には不明である。 (A)「癸未年」という読み方を、最後まで読んでいただくと,私見では必ずしも否定していないことが分かると思われる。すなわち、「先に「矣。未年」と一応解しておいた部分も、現在多くの支持者がある「癸未年」でもいいのかもしれない。」(掲載誌13頁上段に記述) (3) 「真理は中間にあり」の意味 白崎氏;足して2で割る意味ではないだろう。 私見;(@)拙稿を読まれて、単純に両説を足して2で割ったと受け取られるのだろうか。拙稿の論旨としては503年説に近い立場、と記述したつもりであることは、改めて言うまでもないと思われる。 (A)そもそも「真理は中間にあり」の意味としては、両説はいずれかが正しく、もう一方が誤りというようなものではなく、「両説の間に存在するある程度の幅のなかにある場合もある」という意味で私が使っているものである*。 *分野は異なるが、理論物理学者の佐治晴夫氏(宮城大学教授)は、「夢見る科学」という随想のなかで「真実は両極端の狭間に」といい、世阿弥の『風姿花伝』の記述や最近見聞きする社会事象を例に引いて「ものごとや感覚の両極端の狭間に真実が見え隠れしています」と述べられる(読売新聞02.7.28日曜版)。 (4) 443年説と503年説との比較 白崎氏;どちらかといえば443年説に加担したい。 私見:銘文に記載される干支の解釈としてこの両説しかないと考えるのは、きわめて問題が大きい。 両説のどちらかという見方に疑問を提起するというのが、まさに本稿のテーマである。すなわち、「当該鏡の作成者が認識して刻字した干支は、現行干支と同じ系統であったのだろうか、という疑問がまず生じる。」「「癸未年」にそのまま単純に現行干支をあてはめて、西暦四四三年とか五〇三年とかと説くことは、きわめて即断にすぎると考えられる。」と記載している(ともに掲載誌6頁下段に記述)。 B 系図上の諸問題 (1) 白崎氏は、同じく編集後記で、原田実氏の論考「蘇我大臣家の宗教的立場について」を取り上げ、蘇我稲目と馬子との関係を通説のいう親子に疑問を呈して、次のように述べられるが、私には疑問に感じられ、これまで記述してきたことと関係するように思われるので、併せてここに取り上げることとしたい。 白崎氏;馬子は稲目の孫(早世した息子がいたか)か、あるいは稲目という同名の人が二代続いたかのいずれかであろう。 私見;(@)他の古代豪族の世代と比較してみても、稲目及び馬子がともに比較的長寿で、かつ、馬子が欽明天皇妃となった二人の女性(堅塩媛、小姉君)の弟だったと考えれば、親子の関係には問題が生じない。馬子は、世代的に敏達〜推古の4天皇兄弟妹と同じであり、それは馬子の妹の石寸名媛(用明天皇妃)、弟の境部摩理勢(推古朝に活動)と対応し、欽明朝に活躍した稲目の世代と1世代だけ差があるからである。 (A)私の作成した古代の「標準世代」(『古代氏族系図集成』17〜20頁。また本HP「古樹紀之房間」の「系図の検討方法についての試論」を参照されたい)に拠ると、欽明世代の稲目の父として、継体世代の高麗宿祢(その妹とされる女子が継体紀に見える穂積押山臣の妻と伝える)、さらにその父(稲目の祖父)として雄略世代の韓子宿祢(雄略紀)は相応であり、世代の前後関係に何ら問題がない。 (2) 上記にあるように、白崎氏が「フト」または「フテ」という訓みに拘わられるのは、『釈紀』所引の上宮記逸文に「大郎子、一名意富々等王」とある男性に注目してのことと推される。允恭天皇の3后妃姉妹の兄とされる人物である。 しかし、「大郎子」という者は、允恭3后妃姉妹の兄であっても、「意富々等王」(大ホト王)という名の人物は3后妃姉妹の兄ではなく、本来は継体天皇(小ホト王)の兄であったこと(拙稿「鷺の王」、『某月某日』第十号、1995年。同稿は本HPにも掲載)からいっても、無理な話である。息長氏のこうした系譜関係は、これまで指摘する研究者がいなかったが、それは古代系譜と古代人名の分析に疎かったからにすぎない。 以上、(1)及び(2)については、白崎氏の系図分析に大きな難点があることを示すものであろう、と私には考えられる。 私としては、このHPの場を通じてとりあえずの反論を試みるものである。 上記のように、白崎氏にはこれまでも有益な示唆も種々いただいたが、この『季刊/古代史の海』第30号の編集後記については、私のみるところ、大きな問題点があると考えられる。ご本人を含め多くの方から私見に対して反論や批判が出され、議論がさらに進展することを強く望む次第である。 (以上) (02.12.20 掲上、08.4.28一部補訂) ※『古代史の海』誌では、編集後記も含めて活発な議論が許される場を設けているとのことで、上記の文章については、趣旨は基本としつつもさらに修増補する内容で第52号(2006年6月刊行)に掲載されており、詳細はこの記事をご覧いただければ、と希望する次第です。 (08.4.28掲上) |